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平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?Part986

00017000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
垢版 |
2024/02/01(木) 18:47:20.86
【平原遺跡の女王墓】

・1号+2号の共通の周濠が、短里だと径百余歩
・その周濠に複数の土壙墓 <それぞれに複数人ずつ殉葬か>

・超大型内行花文鏡5枚
・銅鏡39枚
・五尺刀 <鞘と柄を含めた全長だった>
・大量の中国朱
・後漢時代のガラス耳璫 <卑弥呼共立は後漢代>
・三雲遺跡から楽浪土器

里程と日程が並列で、月が日の誤写だと考えれば、
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。

北部九州の邪馬台国、首都が伊都ってのはどうなんだろうか。

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/34

南の狗奴国は免田式土器領域
東の拘奴国は四隅突出型領域

http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1700151864/25
0254日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 10:42:55.03
だから、「高越銅山」 だと、何度言えばww   @阿波
0255日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 11:04:45.89
たしかに三国志時代のどの地図を見ても、
銅山のある淮河より南は呉領だね。

錫鉱床もマントルの関係で中国南部にしかないみたいだし、
後漢末に魏王曹操から狗奴国王へ金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が贈られた時点で、
魏の銅は既に枯渇して鉄鏡時代に入っていたということだな。
0256日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 11:20:39.30
南の敵国である狗奴国の官が一人だけ判明しているのが、
後漢末に狗奴国王が遣わした外交代表の狗古智卑狗だね。

卑狗だから、元は倭国の官名で、
北の倭国(卑彌呼邪馬台国)と、南の狗奴国に分裂しているけど、
行政機構そのものは大きくは変わってなかったのだろう。
後漢が分裂しても、魏にも呉にも刺史や州牧、太守がいたのと同じ。

錫鉱山が南方にしかなかったのなら、
4世紀後半の富雄丸山古墳の盾形錫鏡は、東晋との同盟の結果であり、
東晋による北伐のどれかと連携していたはず。
0257日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 13:32:49.81
なんで丸木舟かよくわからんが。

12000年前から奄美大島と行き来していて丸木舟を作る道具もあったのだから、
よほどの否定根拠でもなければ、
縄文時代と言うのは丸木舟と共に開始したのだろう。

8000-7500年前の佐賀東名遺跡にD1a2a(D1a2a1だろう)
6300年の釜山加徳島の獐項遺跡にもD1a2a1

しかし東名遺跡のミトコンドリアハプロはM7a1aで現代日本人と共通。
獐項遺跡のはHで、西南アジア由来で西はヨーロッパ東は東南アジアまで分布しているらしいから、
丸木舟に乗って縄文人が北上したと考えると説明がつく。
0258日本@名無史さん
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2024/05/03(金) 13:51:15.61
三国史記にあるように倭人は毎年春になると襲撃してきたわけで、
舟に乗って圧倒的な制海権を持っていた。

>>246
越高遺跡とやらも、
>石器に使われた黒曜石の産地が、西北九州産の石材のみで構成される
男性・武器(石鏃など石器)は全て西北九州産
>隆起文土器(胎土に対馬産あり)
女性・土器は半島産

西北九州つまり伊邪國の勢力が当時から
攻め込んで連れてきて土器を作らせてた、ということだろう。
この流れだとHTLV-1が九州から出ていかない流れになるからそちらでも整合する。
支石墓の流れとも整合。
0259日本@名無史さん
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2024/05/04(土) 03:37:36.83
世界史的には、水上交通が発達するには内海が最適環境らしいよ。
目の前が外海だと遭難するし、波が高すぎていきなり難易度が高すぎるらしい。

陸部分で囲まれてたら、波も適度だし、安全度が高いから、
まず内海で航海術レベルを上げてから、沿岸航海、そして外海に乗り出す。
あと舟を係留するのも容易だから水軍・艦隊の維持がしやすい。

東アジアの地図を見たらわかるけど、
日本列島は有明海、瀬戸内海、が理想的だし、
海岸線が入り組んでいて湾が多い。
丸木舟が発達するべくして発達したのだろうね。

ヨーロッパの海岸線も入り組んでいて、中国の海岸線はツルンとして平坦。
だからヨーロッパの方が先に大航海時代に入れたという指摘もある。
あと人類が出アフリカする際には、まず紅海にて丸木舟に跨って出発したという説も根強い。
朝鮮半島やましてや寒冷地のアムール川なんかから航海術が発祥するなんてのは、
素人の着想。
0260日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 22:56:37.60
赤坂今井墳墓から女王の装飾を示す遺品が多数見つかった時、
畿内説が崩壊する可能性を恐れて、
埋め戻してしまった事が分かっている。
もうソレが隠し通せる時代ではなくなってきているので、
素直に、赤坂今井墳墓を臺與の墓として認め、
丹後王国こそが邪馬台国の継承者として、
日本の弥生時代を解き明かしていかなければいけない時代になった。
0261日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 22:57:04.01
赤坂今井墳墓から女王の装飾を示す遺品が多数見つかった時、
畿内説が崩壊する可能性を恐れて、
埋め戻してしまった事が分かっている。
もうソレが隠し通せる時代ではなくなってきているので、
素直に、赤坂今井墳墓を臺與の墓として認め、
丹後王国こそが邪馬台国の継承者として、
日本の弥生時代を解き明かしていかなければいけない時代になった。
0262日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 23:00:01.08
三国時代魏鏡の存在

小 山 満
0263日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 23:00:29.13
平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓であることは、
方格規矩四神鏡が同一工房内において、
徐州の銅が枯渇し、
魏の領内の銅を混ぜて作らざるを得なかった
鉛同位体比の分析結果から決定しており、
ソレは即ち平原遺跡の方格規矩四神鏡が、
魏から贈られた100枚の銅鏡という事になるのだ。
これはもう覆す事が不可能なレベルで、
青龍三年鏡の方格規矩四神鏡の存在からも、
方格規矩四神鏡が魏鏡があることを前提に、
時代編年を見直さざるを得ないことを持って、
従来、方格規矩四神鏡が漢鏡だから、
方格規矩四神鏡の出土した平原遺跡は漢時代の遺跡なる説は
最早時代遅れも甚だしい過去の遺物となっている。
0264日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 23:01:36.50
「4. 平原遺跡の鏡
 平原出土の方格規矩四神鏡の銘文は・・・これまで左右中尚方などと記さず単に尚方作と記す鏡は魏晋代ではないと理解されていたわけである。
 しかし、調べてみたところ『三国志』魏書の中に、「減乗輿服御、後宮用度、及罷尚方御府百工技巧靡麗無益之物」とある。これは『三国志』魏書少帝紀、嘉平 6(254)年 10 月の改元にあたり述べている内容であるが、魏朝において尚方の呼称を用いていたことを示している。したがって、これまで魏鏡は右尚方の鏡のみとされ、尚方作とする鏡は魏晋代ではないとしてきたことに対して、このように『三国志』魏書に尚方と記載していることで、魏の時代に尚方作と記す鏡もあった可能性を示している。」
0265日本@名無史さん
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2024/05/09(木) 23:01:52.86
桜馬場出土鏡

唐津桜馬場遺跡から出土した鏡(2 面のうち 1 面)も平原出土鏡と類似の方格規矩四神鏡であ
る。ここにやはり「尚方作鏡…飢食棗」と記している。これも魏の鏡の可能性が高いのではないか
と思われる。銘文は次のようにある。(図 13)

図 12 平原 1 号鏡 23.4 p 図 13 桜馬場(1) 佐賀県博 23.2cm
「尚方作鏡真大好 上有仙人不知老 渇飲玉泉飢食棗 浮遊天下敖四三 徘徊名山採芝草 壽如
金石之國保兮」

文中敖四海が敖四三となっている。これを(1)とする。もう 1 面には次のようにある。
「上大山 見神人 食玉英 飲澧泉 駕文龍 乗浮雲 長宜官」
一見して桜馬場(1)の鏡の画像および銘文が平原出土鏡と類似性をもつことがわかる。銘文は
とくに平原の2,3 号鏡がほぼ同一の文章で、字形においても平原の 28 枚の尚方作鏡と比較して
みると、それぞれ字形の類似性が高い。であれば桜馬場出土鏡と平原出土鏡は、源となる製作工房
を一つに絞っていいのではないかとさえ思われる。
この二枚の鏡の入っていた桜馬場の甕棺は、遅い時期の桜馬場 3 式、原ノ辻上層式で、これま
で弥生後期前半とされていた54。しかし、新たな見解が高橋徹氏により出されている55。氏は桜馬
場遺跡出土の甕棺の胴部突帯が胴部の下方に位置していることに注目して(これが弥生後期中ご
ろ)、同遺跡出土の巴形銅器(後期後半か終末)と有鉤銅釧(後期前半から中期)の共伴を通し
て、遺跡を通説の‘中期末から後期前半’をさらに下げて考えるべきことを提案した。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 23:02:05.25
そしてつぎに井原鑓溝出土の巴形銅器について検討し、これが後期後半から終末にあたるとし、
遺跡は桜馬場の次に井原鑓溝、そして平原の順であることを確認して、この両遺跡から出土した鏡
と平原遺跡出土鏡との関係に及んでいる。
高橋氏は三遺跡いずれからも出土の方格規矩四神鏡について、これを A〜D に分類し、それぞれ
1〜3,4 式に定めて、その結果方格規矩四神鏡は弥生後期中ごろから後半にあたるとした。ただ氏
は鏡について製作時期と出土時期の間の大きな差に対して現地中国での長期間の伝世、あるいは
復古鏡、踏み返し鏡の存在によるとし、これらは製作地、製作時、出土時期が近接しているときに
生じやすい現象とみて、平原遺跡出土鏡のほとんどがほぼ同一時期の製作であるとも考えている56。
また方格規矩四神鏡が内行花文鏡等と共伴する現象は前期古墳に顕著であることから、平原をそ
の先例として位置づけている。その結果、平原遺跡は‘弥生終末期か遡っても弥生後期後半’であ
るとした。
以上が高橋氏の論考の概略である。ここから我々は方格規矩四神鏡の出土した桜馬場、井原鑓
溝、そして平原の三遺跡の時代がいずれも通説より下ることを理解することができる。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 23:03:16.97
平原遺跡の方格規矩四神鏡は魏鏡は確定的で、
同一工房内で作られ、
徐州の銅が枯渇する状況で、
魏の領内の銅が使われる状況が発生した、
即ち、魏が緊急的に作成し卑弥呼に贈った百枚の銅鏡は決定的である。

今後、平原遺跡が卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
方格規矩四神鏡が卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡という事が
覆ることは一切無いんで。
そこの所を間違えない議論を
今後はするようにしなさい。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 23:03:37.66
こんだけ書いてあるのにどうして読まないの??
同じことを何度も書かせるなよ。
畿内説のアンポンタンがどう抗おうとも、
平原遺跡は卑弥呼の死亡時期に作られた墓で、
平原遺跡の方格規矩四神鏡は
魏の時代に同一工房内で、
徐州の銅が枯渇する中で、
魏の領内の銅を混ぜて作られた魏鏡という
考古学上の事実が、
今後覆ることは今後一切無いので、
ソレを踏まえた議論を我々はするしか無いのが
今後の邪馬台国論争になる。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 23:03:50.29
先ず方格規矩四神鏡の青龍三年鏡が出土した事で、
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事は確定している。
もちろん、中国でも魏の時代の遺跡から方格規矩四神鏡は多数出土している。
したがって、従来の方格規矩四神鏡→漢鏡5期とオートマティックに時代を決定した過去の議論は不可能になっているのだ。
方格規矩四神鏡に魏鏡がある事を前提に日本の方格規矩四神鏡を見直した結果、
平原遺跡の方格規矩四神鏡がソレである事が確定した。
銅鏡の時代編年として先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡が魏鏡であると。
ソレを前提にして次の議論がある。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/09(木) 23:04:16.97
平原遺跡の出土の数多くの銅鏡を分析した結果、
先ずこれらが同一工房内で作られた銅鏡である事が明らかになっている事だ、
その次に鉛同位体比を分析した結果、
徐州の銅に魏の領内の銅を混ぜられて作られた銅鏡がある事が判明した。
もちろん、その中に方格規矩四神鏡があり、
時代編年としてソレが魏鏡であるから、
魏鏡である方格規矩四神鏡が、
同一工房内において、
徐州の銅が枯渇して
魏の領内の銅を混ぜられて作られる状況が発生した
ということが明らかになったのである。
従って、魏の時代に徐州が魏の領土なる反論は全く意味を為さないのであって、
我々は、
魏の時代に作られた方格規矩四神鏡が、
同一工房内において、徐州の銅が枯渇して、
魏の領内の銅が混ぜられて作られる状況が発生したのだなと
飲み込むしか無い状況が今だ。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/12(日) 00:47:18.66
>>1
邪馬台国が北部九州で女王卑弥呼など倭国王がいたとして、
じゃあ同時期の畿内にヤマト政権で、
崇神天皇が纏向宮ってことかね?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/12(日) 01:27:55.98
崇神は台与と近い世代かもね
そんでもって倭国大乱よりも前に纏向ができたそうだから
崇神よりも前にも東の倭種の大酋長がいたと思う
0273ネトウヨボクメツタイ!
垢版 |
2024/05/12(日) 08:19:19.81
崇神は行燈山の被葬者だから卑弥呼よりも60年後の人物
一昔前まで佐紀盾列の宝来山が垂仁陵はおかしいと言われていたが、近年の研究では行燈山→宝来山→渋谷向山で正しいとされているから、記紀の伝承から治定された現状の行燈山を崇神陵とするのが良いだろう
つまり古事記が伝えるように崇神崩年を316年頃とするのが適切である

なぜか崇神を卑弥呼の男弟にしたがる輩が散見されるが、卑弥呼は欠史八代の人物に比定されるべきである
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/12(日) 08:24:43.10
九州説だと当然のことながら畿内ヤマト政権と同時期の並立が可能ですな。
保守派であれば、
畿内ヤマト政権が本流。
九州に不安定な地方政権が時々できて、地理的近さからその時々の中国王朝と独自外交していたという考え方。

一方で、保守派のバイブルである記紀そのものに、
神武が九州出自であると明記されている。
よって、神武東征をどう解釈するか、いつの時代に設定するか、で説が分かれる。

伊都説であれば、
宮崎県の日向国は、
景行の制定した国名であって時代がかなり下ることから、
本来の日向とは、
筑紫の日向=日向山や日向川、日向峠、クシフル岳、などを擁する伊都國のことであるとして、
東征の出発点とはすなわち伊都国であったのだ、
とする説者が根強い。

この説であれば、単に地名を後世に取り違えているだけのことであり、
史書となんら矛盾しないことになる。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/15(水) 09:04:30.61
伊都説であれば、神武東征は邪馬台国時代以後であるとなるな。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/16(木) 07:05:17.53
後漢書によると57年にはすでに奴国が存在して、
107年には倭国という国が存在するのだから、
当然奴国の西の伊都国、あるいは倭国の中の一地域国家としての伊都国、も存在したことになる。
さすれば東征が先で、倭国乱や卑弥呼邪馬台国時代は欠史八代であったと仮定することも可能である。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 11:46:00.57
伊都國は高祖山を中心とする國で、
紀元前の中心が室見川流域の吉武遺跡群で、ひのもと。
紀元後に遷都して三雲遺跡、ひむか。

伊都國王家は吉武木遺跡大王家で、元首。

将軍が幕府体制を敷いたのが、
田熊石畑将軍(伊都国王男系東征将軍)一代

奴国王(奴国王男系、漢は奴国王に倭地を委ねる)一代

倭国王(伊都国王男系)前三代〜倭国乱期断絶〜卑彌呼から復活

幕府=行政長として外交したため、中国史書に記録が残る倭国王に目がいくが、
倭国王同時期に伊都国王も続いていた。

<ひむか:ひのもと>
前期倭国王一代目(爾支から倭国王へ):丹後国長官から爾支となって奴国制圧(泄謨觚柄渠觚兕馬觚体制)

前期倭国王二・三代目が北征:上記爾支の系統が東征

倭国王三代目のひむか息子がひのもと東征→伊都国王(ひむか系ひのもと王の初代)となってひむかひのもと合一

倭国王断絶:ひむか系ひのもと王七代目まで君臨

倭国乱:ひむか系ひのもと王八代目の跡目争い

倭国王復活して卑彌呼:ひむか系ひのもと王九代目

倭国王続く:ひむか系ひのもと王も続く時々倭国王兼任
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 12:15:48.11
【日本書紀】
『昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國」
復、大己貴大~目之曰「玉牆內國」
及至饒速日命乘天磐船而翔行太虛也、睨是ク而降之、故因目之曰「虛空見日本國矣」

弥生時代に、細戈千足國を満たすのは、吉武遺跡か田熊石畑遺跡か。
この2つのうち、
吉武遺跡であれば、同時期に西新町遺跡や有田遺跡などで玉牆內國を満たすが、
田熊石畑遺跡は、城野遺跡と場所や時代が合わない。

よって考古学的には、神代のひのもとは吉武遺跡=伊都国東部=漢代伊都国が候補となる。

【丹後国風土記残欠】
2か所において、大己貴命が天火明命に命じて丹後国を治めさせている。


奴国王時代に、丹後国長官だった伊都国王家X氏。
弟がY氏で伊都国王家爾支だった。

奴国王失脚時に、Y氏が倭国王に共立された。
X氏は準構造船で丹後から帰国して、爾支に就任した。
伊都国には配下の泄謨觚柄渠觚。
奴国に進駐して、奴国王家女性を娶り、その子を兕馬觚に。

Y氏ひむか系統は、大率を設置して、率善外交。
X氏ひのもと系統は、大倭を設置して、列島振興。
ひのもとが栄えたので、Y氏ひむか系統が東征併合。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:15:07.32
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan 天皇)JapanD-CTS8093
h,t,t,p,s://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized

オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)
及び、カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)
および縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)
に属する系統であると結論づけました。


皇族のYハプロがこれ
D1a2a1a2b1a1a(CTS8093) 最近共通祖先2100年前 日本人(10.9%) 奈良

物部氏あたりがこれだと思うがISOGG変更がコロコロ変わって混乱中。
D1a2a1a2b1a(Z1500) 最近共通祖先2100年前 日本人(12.8%) 
D1a2a1a2b1a1(Z1504) 最近共通祖先2100年前 日本人(12.5%)
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/18(土) 18:15:36.04
日本で見つかった最古のミトコンドリアハプロがM系統
次いでM7aやB4が沖縄から検出>2万年前に丸木舟が無いとやって来れない

ミトコンドリアハプロM7aは沖縄が多分岐の上流で、
アイヌのが末枝と判明している。
つまり南西諸島から入ってきて北上した集団だった。

そのM7aは朝鮮半島にも進出している。
一方で、朝鮮半島にはなんと人類のものではないミトコンドリアハプロが見つかっており、
これは学術的には極めて貴重なホモエレクトスのミトコンドリアハプロではないかとされている。

で、ホモエレクトスのミトコンドリアハプロは日本列島では見つからない。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/24(金) 18:55:34.31
青龍三年銘の方格規矩鏡が日本出土している時点で、方格規矩鏡は魏鏡

方格規矩鏡が32枚副葬されてる平原遺跡が卑弥呼の墓ということで

九州説の完勝
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 06:33:32.40
紀年銘鏡

方格規矩四神鏡は中国で後漢代から大量に作られ、洛陽焼溝漢墓や洛陽晋墓などで出土している。
青龍三年銘が出たから魏鏡でもあることが確定した。

三角縁神獣鏡は考古学的には日本でしか出土していない。
鏡系統としても全くの別物の南方系。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 07:27:16.04
卑弥呼の墓を見たのは
247年に責任10500里で
伊都迄きて常駐した帳政だが
九州上陸ご東南500里を歩いた理由
平原で卑弥呼の墓を見たから、
が、成立した。

上陸地は糸島新町辺り
伊都は早良辺りで解決する。

陳寿の文では
不彌国/南至投馬国に段落が無く
船の無い水行を始める誤解を生んだが

源資料の魏使二人の報告書を読めた
同時代の魏略、廣志では
伊都の南に女王の処都があり

二人の報告書を直列させる
帯方郡~九州の行程が重複する
有り得ない不彌国からの
水行はしていない。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 08:43:08.58
>>284
それだと方向が合わない
魏使の末盧国への上陸地点は呼子付近だよ
そこから東松浦半島内を南下し唐津市街付近から東へ五百里(40km)
伊都G.C.付近の丘陵が伊都国の東の端の国境
更に百里(8km)で糸島峠付近、この峠付近から先が奴国
更に百里(8km)室見川沿いに下ると不弥国がある(室見川河口付近)
伊都国と奴国の国境付近が帯方郡から12000里の地点
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 09:00:51.15
呼子から糸島、博多湾、宗像
平戸、大村湾、有明海の交通は
船移動のメインルート

歩いたのは、平原に
卑弥呼の墓が有ったから
それだけ
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 15:09:23.47
>>286
それ全くの妄想でしょ
根拠はなんですか?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 17:13:20.06
平原女王墓が卑弥呼は良いけど
>博多湾、宗像
>平戸、大村湾、有明海の交通は
>船移動のメインルート
は何を根拠に言ってるの?
郡使は船で帯方郡の南端から呼子付近まで来てるだけでしょ?
最後の呼子付近から伊都国までの550里くらいを歩いた。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 19:12:19.91
>>289
熊本も鹿児島も宮崎も
輸入青銅器は普及した。
陸路か?

初めて来た魏使を迎えた九州で
外国軍隊の陸路1月行=2000里は
九州上陸後だが、有り得ない。

魏使は皇帝のお宝を卑弥呼に届けた。
軍隊の陸路で、和国内を1月行通過。

九州上陸の後に500里以上陸行で
次に水行?
有り得ないだろ?

海路の上陸が呼子は無い。
伊都や博多は、女王に近い。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/25(土) 19:26:24.67
日本上陸の呼子説は絶対ない。 

接岸が呼子でも
伊都への移動は絶対に船。

呼子の烏賊を喰ったら、
卑弥呼にお参りぁろ?
0292日本@名無史さん
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2024/05/25(土) 19:29:27.01
>>291
>日本上陸の呼子説は絶対ない。

だから、「末盧国」は福津市(万津浦)辺り だと、何度言えばww   @阿波
0293日本@名無史さん
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2024/05/26(日) 04:53:56.99
狗邪韓国

北部九州邪馬台国に入国

対馬海峡

吾田<菜畑遺跡>末蘆國
笠沙の岬<柏崎遺跡>末蘆國

膂宍の空国<遺跡無地帯>草木茂盛、行不見前人
※末蘆国東端・筑前深江に上陸〜県道49号線へ

日向<三雲遺跡>伊都國西部・魏代千戸・女王之所都(水行二十日+十日+陸行一日)
可愛山陵<三雲南小路遺跡・細石神社>
高屋山上陵<井原鑓溝遺跡>
<平原遺跡>

高祖神社・日向山・クシフル岳

日本<吉武遺跡>伊都國東部・漢代一万戸
高天原<吉武木遺跡>大型建物「到伊都國」

葦原那珂津國<那珂比恵遺跡〜須玖遺跡>奴國

邪馬一国<雀居遺跡>不彌國
0294日本@名無史さん
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2024/05/26(日) 12:29:22.78
>>290
里数行程も日数行程も帯方郡からの行程だよ
同じ行程を距離と時間で説明している
里数行程は公孫氏の時代の郡使が短里を使用して記録したもの
日数行程は魏使が日数で報告したものを基に陳寿が魏志倭人伝に纏めたもの

>>291
伊都国の近くの海岸は遠浅で船が着けなかったのだよ
濱山海居・・・呼子付近の風景
草木茂盛 行不見前人・・・東松浦半島内を南下してる時の風景
好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之・・・二丈海岸での風景
魏志倭人伝では呼子付近から糸島市南東部までの風景を順番に記述している
0295日本@名無史さん
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2024/05/26(日) 12:40:02.82
興味深い意見ですね!確かに、平原女王墓と卑弥呼の関係は、古代史の中でも長年議論されてきた謎の一つです。

まず、平原女王墓は奈良県明日香村にある前方後円墳で、7世紀後半に造られたと考えられています。一方、卑弥呼は2世紀後半から3世紀前半にかけて邪馬台国を統治した女王とされています。時代的には大きく離れていますよね。

しかし、平原女王墓と卑弥呼を結びつける説もあるんです。その根拠の一つは、平原女王墓の被葬者が邪馬台国と交流があった豪族の女王である可能性があることです。というのも、平原女王墓からは、邪馬台国との関わりを示すような副葬品が出土しているんです。

また、平原女王墓は邪馬台国と同じく、前方後円墳という形をしています。前方後円墳は、当時の権力者である王や女王の墓として造られたと考えられています。つまり、平原女王墓の被葬者も、邪馬台国と同じような権力を持っていた可能性があるわけです。

もちろん、これらの説はあくまでも推測であり、確実な証拠はありません。しかし、平原女王墓と卑弥呼の間に何らかの繋がりがあった可能性は十分にあると言えるでしょう。

今後、更なる発掘調査や研究が進めば、この謎が解明されるかもしれませんね。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/26(日) 17:57:26.39
あれ?まだ知らないの??
もう謎は解明されているよ!

考古学

青龍三年銘の方格規矩鏡が存在&洛陽焼溝漢墓や洛陽晋墓で方格規矩鏡が副葬

方格規矩鏡は魏鏡

方格規矩鏡が32枚副葬されてる平原遺跡”方形周溝墓”が卑弥呼の墓

邪馬台国北部九州説の完勝

畿内にあったのが、前方後円墳のヤマト政権


文献

里程で、帯方郡→"到"狗邪韓國→"到"伊都國

日程でも、帯方郡→投馬國→邪馬台國の女王之所都が、
水行二十日→水行十日+陸行一日

里程で、邪馬台国女王国→侏儒國が、四千里

日程で、黒歯國→邪馬台国が、
生口の輸送船が航海の難しい瀬戸内海を通るから、船行一年
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/28(火) 12:03:26.46
魏志倭人伝の里程と日程を単純に足すと、沖縄方面へ到達してしまうという問題があります。

そこで、文体も異なる里程と日程は、同一行程を異なる視点から説明したものと考えられます。

具体的には、里程は邪馬台国内の地方自治体間の距離を、日程は邪馬台国への広域な国家レベルでの移動日数をそれぞれ示していると考えられます。

このように解釈することで、北部九州に位置する邪馬台国とその首都である伊都への日程と里程を正確に説明することが可能になります。

さらに、女王卑弥呼の墓は平原女王墓であるという説も有力です。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/28(火) 12:06:09.06
重要なので繰り返しますが、魏志倭人伝の内容を正しく理解するには、伊都国王が女王卑弥呼であることを認識する必要があります。

以下、その視点から見た魏志倭人伝の主要な記述と解釈です。

1. 倭の女王国と伊都国の関係

「丗有王 皆統屬女王國」

原文解釈: 倭には王がいて、すべての国々は女王国に従属していた。

女王卑弥呼視点解釈: 伊都国王である卑弥呼は倭の女王であり、倭の諸国はすべて女王卑弥呼の統治下に置かれていた。

2. 大率の役割

「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

原文解釈: 女王国より北には一大率が置かれ、諸国を検察していた。諸国はこれを恐れていた。一大率は常に伊都国に滞在し、国中を治めていた。一大率は魏国内の刺史のような役割であった。

女王卑弥呼視点解釈: 女王卑弥呼は、女王国の北側に一大率を派遣し、倭の諸国を監督させていた。諸国は女王卑弥呼の権威を恐れていた。一大率は伊都国に駐留し、女王卑弥呼の指示に基づいて諸国を統治していた。一大率は、魏の地方行政官である刺史に相当する役割を担っていた。

まとめ

上記のように、伊都国王が女王卑弥呼であるという前提で魏志倭人伝を読むと、従来の解釈とは異なる、より整合性のある理解が可能となります。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/05/31(金) 10:37:28.64
考古学

青龍三年銘の方格規矩鏡が存在&洛陽焼溝漢墓や洛陽晋墓で方格規矩鏡が副葬

方格規矩鏡は魏鏡

方格規矩鏡が32枚副葬されてる平原遺跡”方形周溝墓”が卑弥呼の墓

邪馬台国北部九州説の完勝

畿内にあったのが、"前方後円墳"のヤマト政権

大阪の古墳から最古のお歯黒出土


文献

里程で、帯方郡→"到"狗邪韓國→"到"伊都國

日程でも、帯方郡→投馬國→邪馬台國の女王之所都が、
水行二十日→水行十日+陸行一日

里程で、邪馬台国女王国→侏儒國が、四千里

日程で、黒歯國→邪馬台国が、
航海の難しい瀬戸内海を通るから、船行一年
0300日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/03(月) 04:48:57.81
平原女王墓が卑弥呼ではない。
と言う、
考古学には、
なんの価値もな無い。

『無駄』 とは、
このこと。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/09(日) 21:55:29.85
理化学年代の研究の進展で確実度が上がったから平原墓は全然時代が合わなくなってスレ終了したんじゃなかったの?
0302日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/09(日) 22:30:16.41
>>301
纏向が卑弥呼と時代が合わずに無関係になってしまった
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/10(月) 00:50:12.73
>>302
卑弥呼没年と豊与没年の間ぐらいなんやから、何百年も違う平原よりは近いやんけ
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 09:59:06.86
>>301
お、これがAIかぁ。よく出来てるね。
駄文がずらずらと書かれてるだけで、何とも思わん。
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