X



邪馬台国畿内説を斬るパート5

0256日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 07:38:52.30
なぜチョンコは畿内説と言うデマを言いふらかすのだろうか?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 14:44:38.95
邪馬台国時代の畿内奈良盆地は、必ずしも後進地域だったとは言い切れません。近年発掘が進む纒向遺跡(奈良県桜井市)をはじめとする遺跡群からは、当時の政治・経済・文化の中心地としての様相を示す様々な遺物が発見されています。

確かに、北部九州地方には吉野ヶ里遺跡のような環壕集落や、中国製銅鏡を大量副葬した王墓など、畿内奈良盆地には見られない特徴も見られます。しかし、畿内奈良盆地には、以下のような点において優位性があったと考えられています。

政治・軍事力: 箸墓古墳(奈良県桜井市)のような前方後円墳をはじめとする大規模古墳が多数分布しており、政治・軍事的な権力の集中をうかがわせます。
経済力: 弥生時代後期には、畿内奈良盆地は水稲耕作の進展やヤマト王権との結びつきにより、経済的に繁栄していたと考えられています。
文化力: 銅鏡やガラス製勾玉など、高度な技術で作られた副葬品が出土しており、当時の文化力の高さを示しています。

これらの点から、邪馬台国時代の畿内奈良盆地は、必ずしも後進地域だったとは言い切れません。むしろ、政治・経済・文化の中心地として重要な役割を果たしていた可能性が高いと考えられています。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 16:47:11.29
古くから「邪馬壹國」は、大和国の音訳として認識されてきました。しかし、江戸時代の新井白石が、当時の中国語の発音に基づいて「やまたいこく」と音読したことから、「台」の字をあてて「やまたいこく」と読むのが主流となりました。
この呼称変更には、単なる音韻変化以上の背景があったと考えられます。

新井白石は、儒教に基づいた政治思想家であり、古代中国王朝との繋がりを重視していました。そのため、「邪馬台国」を単なる地方政権ではなく、中国王朝に匹敵する文明国家として位置づけようとしました。
一方、当時の日本は鎖国政策によって海外との交流が制限されており、自国のアイデンティティを模索していました。新井白石の「やまたいこく」という呼称は、日本が中国に劣らない歴史と文化を持つことを示す象徴として歓迎されました。
しかし、近年では「邪馬台国」と「大和国」は同一ではないという説も有力になっています。考古学的な調査に基づくと、「邪馬台国」は九州北部にあった可能性が高いと考えられています。

「邪馬台国」の呼称は、単なる音韻変化ではなく、政治的意図や時代背景によって変化してきたことがわかります。現代においても、「邪馬台国」と「大和国」の関係をめぐる議論は活発に続いています。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 17:10:37.68
つまり畿内説は邪馬台国とは全く関係ない東の倭種の国の物語でしたと
0261日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 09:38:39.52
奈良盆地が力を持つのは3世紀後半からだよね。
邪馬台国時代は邪馬台国が大陸の外交面でも強い。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 09:52:35.73
>>261
奈良盆地が政治・文化の中心地として台頭し始めるのは、3世紀後半以降のことである。邪馬台国時代、大陸との外交において邪馬台国が優位に立っていたかどうかは、現在のところ明らかになっていない。壱岐や対馬などの島嶼部が邪馬台国連合の影響下に置かれていた可能性はあるものの、その支配状況は完全なものではなく、他の勢力との共存や対立もあったと考えられる。当時の東アジアにおける勢力関係は複雑であり、単純な「強い・弱い」の図式で説明することはできない。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 10:13:23.87
邪馬台国連合は、少なくとも北部九州を盟主とした政治連合であり、その勢力は九州北部から畿内地方の一部にまで広がっていた可能性が高い。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 10:51:57.55
>大陸との外交において邪馬台国が優位に立っていたかどうかは、現在のところ明らかになっていない。

魏志倭人伝を見ればなってます。倭国代表としての金印なども授けてます。
その後についても大陸の史書を読めば、
大和王権が台頭してきて外交面で有利になっていくこともわかります。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 10:55:38.91
朝貢によって倭国は鉄の利権を手に入れたと考えられる、その事が畿内で鉄が出ない理由だろう
0267日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 11:58:47.28
>>261
奈良盆地が力を持つのは、遷都後の8世紀から。   @阿波
0268日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 17:58:11.94
>>177
いや、九州説も3〜4世紀に大きな変化があったと見ていますが?
3世紀すでに畿内勢力が九州も連合支配下においていたと解釈するのが畿内説
連合支配下になるのがもっとあとと解釈するのが九州説
まあ、記紀的にも考古学的にも九州説しか無いと思いますがね
崇神の四道将軍派遣、景行、仲哀神功の熊襲征伐、これらは4世紀が濃厚ですからね
4世紀頃九州邪馬台国が滅んだと解釈するのが妥当だと思いますよ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 18:20:29.07
つまり畿内説は想像以上にいい加減なペテン師でしたと
0270日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 18:24:01.06
畿内説は捏造のバームクーヘン
0271日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 18:32:25.82
>>177
畿内勢力のシンボルであry前方後円墳の広がり方を見ても
邪馬台国時代はまだ九州は畿内勢力圏には入っていないということが丸わかりなので、
話が逆ですよ。

三世紀が畿内中心の時代ではなく、九州を中心に動いていたことは分かっているのに、
邪馬台国が畿内にあると主張する人の気持ちがマジで分からない。
なぜそこまで畿内にこだわるのか?

です。

まぁ、畿内説論者は学閥から抜け出せず、公金チューチューしてるペテン師だからでしょうけどね。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 21:32:41.11
魏の年号入り中国鏡を大和朝廷がコピーして作っていたのであれば、日本の漢化は3世紀の卑弥呼外交が始まりということ。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 22:47:17.68
帯方郡あたりから逃げてきた鏡職人でもおったんちゃうか
0274日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 23:44:23.04
鋳型を作って溶かした金属を流し込んで作る事は前からやってるだろ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 23:45:25.77
平原の八咫の鏡は国産
0277日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 00:37:22.12
238年 司馬懿の公孫氏族滅戦争
246年 魏韓戦争、帯方太守の弓遵が戦死
256年 魏が滅亡して西晋に禅譲
266年 この年の西晋への朝貢を最後に倭国が消息不明になる
313年 高句麗が南下して楽浪郡帯方郡が滅亡

楽浪帯方郡あたりから渡来してきた漢人は結構居そう
0278日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 00:39:29.75
魏が滅亡したのは256年じゃなくて265年だなお詫びして訂正します
0279ネトウヨボクメツ隊!
垢版 |
2024/06/13(木) 22:41:14.54
二世期末には比恵那珂遺跡(奴国=古の博多)と纏向遺跡(ヤマト王権の首都)が同じ文化圏にあり、一つの政体の元にあったと考えられる

博多とヤマト王権の連合体が九州の女酋の支配下にあったとは笑止である
卑弥呼は日本の天皇として日本人を代表して中国に朝貢して臣下になったのだよ

ネトウヨは諦めろよな
0280日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/13(木) 22:50:57.16
前方後円墳と言う墓制よりも先に北部九州の水銀朱を使った墓制が畿内に広まった。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/14(金) 07:16:46.17
滅亡して禅譲って順番逆じゃねって思った
0282日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/14(金) 09:12:48.06
高句麗は夷狄が中華を荒らした永嘉の乱に乗じて中国領の遼東や朝鮮に侵攻。邪馬台国も大和王朝に進化して朝鮮に侵攻。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 11:57:42.80
4世紀初頭、高句麗は中国北部の混乱に乗じて遼東半島に侵攻した。その後、朝鮮半島南部では邪馬台国が台頭し、周辺地域へ影響力を拡大していった。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 12:00:24.06
前方後円墳よりも先に、北部九州の水銀朱を使った墓制が畿内に広まっていたと考えられます。

根拠として、以下の点が挙げられます。

九州地方では、前方後円墳よりも古い時代の古墳から水銀朱が使われていたことが確認されています。 一方、畿内地方では、前方後円墳出現以前の水銀朱の使用を示す考古学的証拠は乏しいです。
古代における交易や文化交流に関する文献資料からも、水銀朱が九州地方から畿内地方に伝わった可能性が示唆されています。

これらのことから、水銀朱を使った墓制は、九州地方で独自に発展し、その後、畿内地方に伝わったと考えられます。

具体的な時期については、まだ十分な研究が進んでいませんが、前方後円墳出現以前、少なくとも弥生時代後期には、畿内地方に水銀朱を使った墓制が広まっていた可能性があります。

水銀朱を使った墓制が畿内にどのように伝わったのかについては、今後の研究課題となります。

考えられる伝播経路としては、

海上交通による交易
陸路による交流
移民の流入

などが挙げられます。

今後、更なる考古学的調査や文献資料の研究を通して、水銀朱を使った墓制の起源、伝播過程、そして畿内地方における受容について、より詳細な解明が期待されます。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/15(土) 12:02:19.57
比恵那珂遺跡と纏向遺跡の関係性

2世紀末、比恵那珂遺跡と纏向遺跡は同じ文化圏に属し、密接な交流があったと考えられます。このことは、両遺跡から出土する土器や金属器の様式が共通していること、祭祀形態や儀礼に類似性が見られることなどから推測されます。
しかし、両遺跡が政治的に統一されていたかどうかについては、まだ議論の余地があります。比恵那珂遺跡が奴国の中心地であったとする説がある一方で、纏向遺跡がヤマト王権の首都であったとする説も有力です。
今後、更なる発掘調査や研究を通して、両遺跡の関係性についてより詳細な解明が期待されます。


卑弥呼の政治的立ち位置

卑弥呼が日本の天皇として中国に朝貢し、臣下になったという説は、魏志倭人伝などの文献史料に基づいています。しかし、これらの史料は断片的な情報しか残されておらず、卑弥呼の政治的立場を正確に把握することは困難です。
卑弥呼が九州の女酋の支配下にあり、その傀儡として政治を行っていたという説もあります。しかし、この説を裏付ける明確な証拠は見つかっていません。
卑弥呼の政治的立場については、様々な説が唱えられていますが、現時点では結論を出すことは難しいと言えます。今後、更なる史料の発掘や研究を通して、卑弥呼の真の姿が解明されることを期待しましょう。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/17(月) 17:34:14.86
九州説は基本がなってない
0287日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/17(月) 17:40:14.79
畿内も九州も東海も邪馬台国の範ちゅうだよバーカ、
と卑弥呼様のお怒りが聞こえる。

これらの地域には弥生後期に銅鐸・巴形銅器と手焙形土器が揃ってる。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/17(月) 22:26:08.37
邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、桜井茶臼山古墳の発掘によって3世紀末の奈良盆地では、水銀朱や三種の神器の副葬と言う墓制を2000年前から持っていた伊都国王が東遷し邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が成立したことが明らかになった
0289日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/18(火) 04:03:20.40
ちょっとまえの久住氏の畿内説根拠をTwitterで読んでみたけど、いまいちよく分からんな
論文とかないの
0290日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 01:57:01.64
大神神社の関係者から聞いた話によると、奈良県磯城郡史には、ホケノ山古墳の被葬者が崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命であると記されているという。
この伝承と史料に基づいて、ホケノ山古墳と豊鍬入姫命について考察を試みる。

1. 伝承の背景と信憑性
大神神社は、天照大御神を祀る神社として古くから栄えてきた。その中でも、豊鍬入姫命は天照大御神を祀るために派遣された皇女として重要な役割を担っており、神社にとって深い関わりを持つ。
そのため、ホケノ山古墳が豊鍬入姫命の墓であるという伝承は、大神神社における信仰に基づいたものであると考えられる。しかし、伝承のみではその信憑性を判断することは難しい。

2. 磯城郡史の記述内容
磯城郡史は、奈良県の磯城郡に関する歴史を記した史料である。その中には、ホケノ山古墳についても記述があり、被葬者については不明とされている。
しかし、伝承にあるように豊鍬入姫命である可能性を示唆するような内容は含まれていない。

3. 考古学的調査結果
ホケノ山古墳は、前方後円墳の形をした古墳であり、3世紀前半頃に築造されたと考えられている。発掘調査の結果、副葬品として銅鏡や鉄器などが出土している。
これらの副葬品から、被葬者は当時の権力者層に属する人物であったことが推測される。しかし、具体的な人物を特定することはできていない。

4. 考察
以上のことから、ホケノ山古墳の被葬者が豊鍬入姫命であるという伝承は、大神神社における信仰に基づいたものであると考えられる。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:02:11.48
松浦郡に末盧国を置き、そこから東南へ五百里陸行した先に位置する伊都国を糸島郡に当てはめるのは、明らかに誤りである。
原文の記述と大きく異なる方位に基づいており、史実を無視した強引な論理展開と言わざるを得ない。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:04:30.11
松浦郡に末盧国を置き、そこから東南へ五百里陸行した先に位置する伊都国を糸島郡に当てはめるのは、明らかに誤りである。
原文の記述と大きく異なる方位に基づいており、史実を無視した強引な論理展開と言わざるを得ない。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:11:01.30
邪馬台国が畿内に位置していた場合、魏に援軍を要請することは現実的ではなかった。その理由は、地理的な距離が遠すぎることによる輸送・兵站の困難さと、同盟関係を築くことによるメリットの小ささにある。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:12:47.72
巨大な湖と湿地帯が支配した大地

1. 巨大な湖と湿地帯に覆われた奈良県
邪馬台国時代の奈良県は、中央部に広大な湖や湿地帯が広がり、人々の居住には適さない環境であった。その水域が姿を消すのは、遥か後の時代のことである。

2. 水と緑に閉ざされた地域
当時の奈良県は、大和盆地の中央部に巨大な湖が存在し、周囲には湿地帯が広がっていた。このような水と緑に閉ざされた環境では、人々の居住や農業活動は困難であったと考えられている。

3. 水辺の環境の変化
湖や湿地帯が干上がり、現在の奈良県の地形へと変化するのは、邪馬台国時代よりもずっと後の弥生時代後期から古墳時代にかけてのことである。この環境の変化は、人々の暮らし方や社会構造に大きな変革をもたらしたと考えられている。

4. 謎に包まれた邪馬台国と大和王権
邪馬台国の所在地については、現在も九州説と畿内説の二つの有力な説が存在し、議論が続いている。奈良県が邪馬台国の中心地であったという畿内説では、纒向遺跡が邪馬台国の王宮跡として有力な候補地として挙げられている。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:34:03.13
卑弥呼と箸墓、そして神功皇后・倭姫:古代史の謎に迫る

1. 卑弥呼と箸墓の同一視、根拠は弱い
近年、卑弥呼を「倭迹迹日百襲姫(わとくしひゃくさいひめ)」と同一視し、その墓を「箸墓(はしはか)」とする説が有力視されています。しかし、この説には大きな問題点があります。
まず、倭迹迹日百襲姫は、350〜360年頃、つまり卑弥呼の死後100年以上も後の時代の人物であることが分かっています。崇神天皇の時代に活躍したとされる彼女が、2世紀末の卑弥呼と同一人物であることは、時間的に矛盾が生じてしまいます。
さらに、倭迹迹日百襲姫は、卑弥呼のような**「倭国王」の地位にあったという確証がありません**。一方、卑弥呼は「鬼道」と呼ばれる呪術を用いて政治を行い、広大な勢力を誇った女王として記録されています。両者の権力構造や社会的な役割には、明確な違いが存在するのです。

2. 神功皇后・倭姫も候補となるが、年代が合わない
卑弥呼の正体を探るべく、神功皇后や倭姫などの名が挙がることもありますが、彼女たちも卑弥呼とは別の時代の人物と考えられています。
神功皇后は3世紀後半、倭姫は4世紀前半と、いずれも卑弥呼の活躍時期と大きくずれています。

3. 謎は深まるばかり:今後の研究に期待
以上のように、現段階では卑弥呼と箸墓の同一性を裏付ける決定的な証拠は存在せず、神功皇后・倭姫との関連性も否定されています。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:43:59.72
卑弥呼の鏡は日本製?三角縁神獣鏡の謎に迫る

はじめに
239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏の皇帝から「銅鏡百枚」を賜ったとされています。このうち、近畿地方を中心に分布する「三角縁神獣鏡」は、卑弥呼の鏡として知られています。しかし、この鏡は中国では発見されておらず、日本製である可能性が指摘されています。

三角縁神獣鏡の特徴
三角縁神獣鏡は、縁が三角形に作られた大型の銅鏡です。裏面には、神獣や幾何学模様などが描かれています。景初三年の年号が記された鏡もあり、卑弥呼が魏から賜った鏡であると考えられています。

近畿地方に集中する三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡は、近畿地方を中心に300枚以上出土しています。一方、中国では一枚も発見されていません。これは、三角縁神獣鏡が日本で作られた可能性を示唆しています。

日本製である可能性
三角縁神獣鏡は、中国の鏡とは異なる技法で作られています。また、鏡の文様にも、日本独自の要素が見られます。これらのことから、三角縁神獣鏡は日本製である可能性が高いと考えられています。

卑弥呼の鏡ではないのか?
三角縁神獣鏡が日本製であるならば、卑弥呼が魏から賜った鏡ではないことになります。しかし、魏志倭人伝には、卑弥呼が銅鏡を賜ったことが明確に記されています。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:47:49.48
三角縁神獣鏡の中には、興味深い謎を秘めた鏡が存在します。それは、中国の年号である「景初」の中でも、実際には存在しない「景初4年」と刻まれた鏡です。ご存知の通り、景初は3年までしか続かなかった年号であり、この矛盾は鏡の起源について長年議論されてきた謎の一つとなっています。

この謎を解き明かす鍵となるのが、「景初3年」の次に位置する年号、「正始元年」の存在です。もし鏡が中国で作られたものであるならば、景初3年よりも後の年号が刻まれることはあり得ません。しかし、実際のところ「景初4年」鏡は出土しており、これは論理的に矛盾が生じます。

この矛盾を解消する唯一の答えは、この鏡が日本で作られたものであるという推論です。中国で作られた鏡であれば、景初3年以降の年号が刻まれることはあり得ないからです。つまり、「景初4年」鏡は、中国の年号を模倣しながらも、日本独自の製法で作られた可能性が高いのです。

この推論は、単なる憶測ではありません。実際、三角縁神獣鏡の中には、中国製とは異なる特徴を持つ鏡が存在することが分かっています。例えば、鏡背のデザインや文様、鋳造技術などに日本独自の要素が見られるのです。

このように、「景初4年」鏡は、単なる年号の刻印ミスではなく、日本製鏡の可能性を示唆する重要な手がかりと言えるでしょう。今後さらなる研究によって、三角縁神獣鏡の謎が解明され、邪馬台国や古代日本の文化に対する理解が深まることが期待されます。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 02:48:56.47
三角縁神獣鏡は、すでに500面も出土している。埋設された鏡のうち10%が出土していると仮定すると、26年間で5000面から6500面もの鏡が出土したことになり、これは明らかに不自然なほど多い数字である。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/21(金) 03:12:13.75
三角縁神獣鏡は、古墳時代の遺跡(4世紀以降)からのみ発見されており、邪馬台国時代の古墳(3世紀)からは全く出土していない点が特筆されます。さらに、その直径は約22センチと、中国で出土する後漢・三国時代の鏡と比べて著しく大きく、特異な鏡と言えるでしょう。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/23(日) 15:41:59.28
>倭迹迹日百襲姫は、350〜360年頃、つまり卑弥呼の死後100年以上も後の時代の人物であることが分かっています

これは有力な説なのか?
0304日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/24(月) 02:01:48.64
そもそも大宰府周辺は倭(邪馬台国)の都だもの。
そこをぶんどったのが大和王権よ。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/24(月) 02:31:39.16
大宰府って発掘したら弥生遺跡とか出てくるのかな?
政庁跡の下になんか埋まってたりする
0306日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/24(月) 02:36:44.83
日本の地方豪族が中国から貰った鏡を有難がるという思い込みは何なん?
遠くの偉い国より、目の前にいる危ない奴に媚びたほうがよっぽどいいよな
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況