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邪馬台国関東説 Part1

0014日本@名無史さん
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2024/04/07(日) 17:23:53.22
女系をねじ込みたいだけだろ
纏向に宮跡が出土したなら、
崇神天皇の実在が証明されたと主張するべき事案
なのに女王卑弥呼を持ってくるということは、万世一系を破壊するのが目的なのか?
0015ネトウヨボクメツタイ!
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2024/04/07(日) 22:56:19.08
関東に狗奴国があったのだろう
邪馬台国の東の倭種というのが該当すると思われる
考古学的に卑弥呼の後にまもなく関東はヤマトの勢力圏に入っている
邪馬台国はヤマト王権だから東海関東征服に成功したという事なのであろう
0016日本@名無史さん
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2024/04/07(日) 23:00:42.84
関東も狗奴国だったが狗奴国の中心は天竜川以東の東海な

都は沼津の足高尾上遺跡群
0017日本@名無史さん
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2024/04/08(月) 17:54:09.96
>>14
>天皇家の関係者はみんな九州説を推してるでしょ。
>「邪馬台国?なんじゃその国?関係ない国を関係があるかのように言うのやめて!」っていうスタンスのようだし。

そのとおりでございます。
竹田恒泰さんも、長浜説を推してます。
0018日本@名無史さん
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2024/04/17(水) 12:54:27.91
>難波から纏向まで約40キロを陸行1月もかかるのか?

それは九州説も同じだろう
九州説は短里説だから、同じ問題が発生する

女王国まで総距離、12000里
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。

残り1300里

1300里、2か月問題がある (水行20日+10日+陸行1月(30日)=2か月)

短里説では、1里=72mだから、72m×1300里=約93km

約93kmを2か月かけて、九州説はどこをどう行ったのか
0019日本@名無史さん
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2024/04/19(金) 13:59:48.37
「画期的新説」邪馬台はヤマトである
https://98k.dreamlog.jp/archives/52046904.html

古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者(桃崎 有一郎)が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります


文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
0021日本@名無史さん
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2024/05/01(水) 22:03:35.70
関東には神奈川県大和市て有るから、きっと邪馬台国も有ったはず。
0024ネトウヨ撲滅隊!
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2024/05/03(金) 10:29:00.23
伊都国には日時計の超複雑系なものがあって、日の出が東の山のどの位置から始まったかによって、かなり正確な暦を割り出す事が出来ていた
中国の暦とは一〜二日ほどずれることもあったようだが、農業で用いるには誤差の範囲内だろう
どうやらこの伊都国の暦が北九州各国で使われていたようである
つまりこの伊都国に「ひじり=日知り=聖」つまり天の道を知っている人がいたわけだ

そしてこれと同じものが纏向に存在していた
つまり纏向にも「ひじり=日知り=聖」がいたわけだ
倭国の大王はひじりでなくてはいけなかった

ちなみに唐子鍵には、ここまで凄いものはなかった
つまり伊都国からひじりが纏向にやってきたのだ
伊都国は「ひむかし=日向かし=東向き」で正確な暦を作れる稀有な場所つまり聖地ヒムカで、それが纏向で再現されていたわけだ

ヤマトの大王家がヒムカからやってきてヤマト王権を建てたという伝承は伊都国王家が纏向王権を建てたという歴史的事実が神話化したものと考えられよう
0025ネトウヨボク滅隊!
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2024/05/03(金) 10:29:57.80
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを作った
これがヤマト王権すなわち邪馬臺國であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったのだろう

糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていないからな
東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置から正確に冬至や春分などが把握出来るという奇跡的な地理条件の土地はそうはあるまい

このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ
九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬臺國ならば、それは纏向しかないのである
0026日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 14:07:49.00
邪馬台国が関東にあった可能性を示す考古学的証拠について伺いたいのですが。特に、群馬県の高柳遺跡や栃木県の乙女塚古墳から出土した金製装身具は、邪馬台国との関係を示唆するものと考えられています。これらの遺物について、先生のお考えをお聞かせいただけますでしょうか。
0027日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 14:10:48.55
伊都国の王家が畿内の纏向に第二のヒムカを築いた

これがヤマト王権すなわち邪馬台国であり、倭の諸国の盟主として後の日本国に発展していったと考えられる

糸島と纏向以外で正確な暦を作れるような装置は見つかっていない

東に幾つもの山を備えていて、そして西のある一点からそれらの山々を見ると尾根や峠の位置から正確に冬至や春分などが把握出来るという奇跡的な地理条件の土地はそうはあるまい

このような地理的条件を備えた国は伊都国とヤマト王権の纏向しかないのだ

九州に倭王がいたのなら伊都国だったはずであり、伊都国以外が邪馬台国ならば、それは纏向しかないのである
0028日本@名無史さん
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2024/05/18(土) 14:13:44.29
伊都国の高度な日時計と纏向との繋がり

伊都国には、日の出の位置によって正確な暦を算出できる、非常に複雑な日時計が存在していました。中国の暦と一〜二日程度の誤差が生じることもあったようですが、農業利用には十分な精度だったと考えられます。この伊都国の暦は、北九州の各国でも使用されていたようです。

つまり、伊都国には天文学に精通した「ひじり(日知り・聖)」と呼ばれる人物がいたのです。

そして、驚くべきことに、纏向にも全く同じ日時計が存在していました。纏向にも「ひじり」がいたということになります。倭国の大王は、この「ひじり」でなければならなかったのです。

ちなみに、唐子鍵にはこれほど高度な日時計は見つかっていません。

これらのことから、伊都国から「ひじり」が纏向に渡来した可能性が考えられます。

伊都国は「ひむかし(日向かし・東向き)」と呼ばれ、正確な暦を作成できる稀有な場所、つまり聖地「ヒムカ」であったと考えられます。そして、それが纏向で再現されていたのです。

ヤマト王家がヒムカから渡来し、ヤマト王権を樹立したという伝承は、伊都国王家が纏向王権を樹立したという歴史的事実が神話化されたものと考えられます。
0029日本@名無史さん
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2024/05/26(日) 11:51:36.17
>>26
邪馬台国が関東にあった可能性を示す考古学的証拠は興味深いですね。確かに、群馬県の高柳遺跡や栃木県の乙女塚古墳から出土した金製装身具は、邪馬台国との関係を示唆するものと考えられています。

これらの遺物は、邪馬台国と同時期に造られたと考えられる古墳から出土しており、デザインや製作技法も邪馬台国を中心とする畿内地方のものと共通点が多いことが指摘されています。特に、高柳遺跡出土の金製透かし飾りや乙女塚古墳出土の金製耳飾りは、邪馬台国を代表する遺物である「三角形透かし飾り」や「勾玉」と類似しており、邪馬台国との交流や影響を示唆するものと考えられています。

近年、考古学的研究の発展により、邪馬台国と関東地方の交流を示唆する新たな証拠が次々と発見されています。例えば、群馬県の粕川遺跡からは、邪馬台国で使われていたと考えられるガラス製勾玉が出土しており、栃木県の壬生町遺跡からは、邪馬台国と同時期の古墳群と関連すると思われる祭祀施設が発見されています。

これらの考古学的証拠から、邪馬台国が関東地方と密接な関係を持っていた可能性は十分に考えられます。
0030日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 00:11:42.73
鹿島神宮の地下に卑弥呼の宮殿が眠っている気がする。
0031日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 01:11:38.74
出雲周りで魏志倭人伝通りに進と、千葉、茨城辺りになる、って見たな

昔の関東は海だらけだったから、可能性もある
0032日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 03:43:53.49
出発地の帯方郡〜 狗邪韓國までが七千余里、 狗邪韓國〜對馬〜壱岐〜末盧国までが
三千里、末盧国〜伊都国までが五百里、伊都国〜奴国までが五百里、
奴国〜不弥国までが百里だから 帯方郡〜不弥国までは1万1千百里となる
帯方郡〜邪馬台国までは1万2千余里との記載があるので不弥国までに全行程の
11000/12000=91.7%歩いた事になるので残りの1千里ではどう頑張っても関東に行ける
訳が無い。関東説を主張している者は算数も出来ん知恵遅れと言う事だ
0033日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 11:04:47.17
市尾カンデを五世紀と見る素がいるが、布留2が出ているから4世紀の墳墓であろう
畿内には早くかは渡来人か来たことが確実である
0034日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 14:28:54.75
>>32
邪馬台国(女王国)までの総距離、12000里(約5000km)

魏の里(1里=435m)で、魏の使者の旅の道程なので、
出発地は、帯方郡ではなく、
魏の首都洛陽から狗邪韓國までが七千余里(約3000km)
グーグルマップでピッタリ

狗邪韓國の北岸から海を渡り対馬まで、約1000里(約435km)
対馬から海を渡り一大国(出雲)まで、約1000里(約435km)
一大国から海を渡り末盧国(石川・金沢)まで、約1000里(約435km)

末盧国から徒歩で、東南に伊都国(糸魚川・上田)まで、500里(約220km)
伊都国から東南に奴国(信濃・諏訪大社)まで、100里(約44km)
奴国から東に不弥国(群馬・武美)まで、100里(約44km)

奴国から南に水行20日(利根川を下る)、投馬国(川崎・多摩)にいたる
投馬国から南に水行20日(東京湾を下り木更津)、
陸行一月(木更津から北上して茨城・鹿島神宮)、邪馬台国は、茨城・千葉周辺

そして、邪馬台国(女王国)までの総距離、12000里(約5000km)も
魏の首都洛陽から、茨城・千葉まで、上記の経路で、グーグルマップで測るとピッタリ

※自郡より女王国に至る万二千里
郡は現在の市や県にあたり、魏も郡で分けられていた
したがって、“自郡”とは、自らの郡であって、帯方郡のことではなく
魏の使者が出発した魏の首都洛陽の郡
0035日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 16:38:09.72
邪馬台国纒向だけが正しい
0037日本@名無史さん
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2024/06/02(日) 19:57:25.80
「会稽東治の東」は、会稽郡の東の役所、会稽の治
2006年に発見された下相城の遺跡跡
会稽曹君や会稽郡下など書かれた碩片が多数出土している

現在の江蘇省の宿遷市付近
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg

これで、日本列島のほぼすべてが、邪馬台国候補地になる
逆に言うと、今までの「会稽東治の東」「会稽東冶の東」説の
鹿児島や沖縄説は否定される
0038日本@名無史さん
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2024/06/02(日) 20:02:24.53
けい 邪馬台国阿波(徳島)説論者
@hareharedesyo31
·
5月23日
会稽東治はどこか。
キーワードはいろいろあるが。
中国安徽省亳県で発見された曹氏宗族墓(会稽曹君の磚)
項羽の生まれた会稽の下相城(項羽故里)
この周辺の場所がいわゆる魏志倭人伝の会稽東治に該当するだろう。
見事に北緯34度付近なのよ。
禹貢九州図の倭の場所に一致するのよ。
0039日本@名無史さん
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2024/06/02(日) 20:52:48.69
夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、會稽に封ぜられ、
髪を断ち体に入墨をして、蛟竜の害を避ける。

その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治の東にあたる。
(魏志倭人伝)


夏后少康が、項羽の遠い親戚にあたり、
夏后少康の話の続きで會稽の東治の話が出てるんだから
曹氏宗族墓(会稽曹君の磚)
項羽の生まれた会稽の下相城(項羽故里)付近が
(現在の江蘇省の宿遷市
https://blog-imgs-50-origin.fc2.com/a/z/u/azuminodiary/141102_photo_01.jpg)

会稽東治でおかしくない
0040日本@名無史さん
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2024/06/02(日) 21:10:15.20
会稽東冶の東
というのは、倭国が南方にあるということを強調したかっただけ。
他にも随所に南国を連想させるワードが散りばめられている。
孫呉の背後をつける位置にあると言いたかったのだ。
全ては司馬懿を上げるためである。
よって、地図を出して、会稽東冶の東だから邪馬台国はココ!なんて言う意見は、魏志倭人伝の編者にまんまと踊らされてるだけなのだ。
0041日本@名無史さん
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2024/06/03(月) 07:02:27.07
>>40
会稽東冶の東という表現は、南方にあるというイメージを強調しますね。しかも、南国を連想させる言葉も散りばめられているとなると、意図的に南方にあるように印象づけた可能性は高い気がします。
孫呉の背後にあるという解釈も面白いですね。司馬懿を上げるために、魏が都合よく情報を操作していた可能性は十分考えられます。
0042日本@名無史さん
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2024/06/05(水) 12:32:09.23
>>40
会稽東冶の東という表現に惑わされてはいけません。確かに、この表現は邪馬台国が南方にあることを示唆しているように見えます。しかし、魏志倭人伝を深く読み解けば、その真意は全く異なることがわかります。

魏志倭人伝には、南国を連想させるような記述が散見されるのは事実です。しかし、裸体や文身などの記述は、当時の中国にとって南方の民族の一般的な特徴として認識されていたものであり、邪馬台国特有のものではありませんでした。

さらに、孫呉の背後をつける位置に邪馬台国を置くことで司馬懿を上げようとしたという陰謀論も根拠に乏しいものです。魏志倭人伝は、外交や貿易を目的とした史料であり、政治的な意図を反映したものではありません。

そもそも、地図という概念が当時の中国に存在していたかどうかさえ怪しいです。会稽東冶の東という表現は、距離や方角を示すための便宜的なものであり、邪馬台国の絶対的な位置を特定するためのものではなかったのです。

このように、魏志倭人伝を断片的に解釈して邪馬台国の位置を断定することは、誤解を招くだけでなく、歴史の真実を歪めることにも繋がります。
0043日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 19:30:16.21
>>40
AIのトンデモ文をまたAIに纏めさせたか。
トンデモ度が増幅しているな。
暇潰しの遊びとしてはアリかもしれないが。
0044日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 11:20:33.77
先代旧事本紀によると、ニギハヤヒは天児屋根神と共に天から降臨したとされます。しかし、古事記では天児屋根神はニニギと共に降臨しており、矛盾が生じます。

恐らく、大王家や物部一族は自らを天孫族と考え、初代は神々と共に降臨したと信じていました。それが、大王家では邇邇芸、物部一族では饒速日として伝承されたのでしょう。

しかし、物部の祖神も邇邇芸だったと考えられます。物部の歴史が伝承される過程で、九州から畿内に移住した初代物部族長の饒速日と天孫降臨の邇邇芸が混同され、饒速日が畿内に降臨したという話になった可能性があります。

天火明命と同神という説も、後世の創作かもしれません。神仏習合の影響もあり、和人の宗教観では神々は容易に習合するからです。
0045日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 11:42:09.67
纏向遺跡は、2世紀後半後半から、卑弥呼の即位とほぼ同時期から始まったと考えられています。酸素同位体比年輪測定法によって、従来の炭素14による推定が正しかったことが裏付けられました。

邪馬台国の会なる素人の集団は、未だ定説は立っていないようですが、本当に見苦しい集団ですね。
0046日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 11:46:06.93
皇室の先祖が卑弥呼なら、そう書いてほしかった!

1800年続く皇室の歴史に、卑弥呼という女王が繋がるなんてロマンが広がるね。実在した王であり、皇室のご先祖様でもあるのに、空想上の神として扱われてしまうなんて、もったいない話だよ。
0047日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 11:47:16.28
結局、大阪奈良あたりの情弱狗奴国は、鉄器を手に入れることができずに苦しんでいたんだろ。

女王国が栄えていた頃は、都を越国に置き、朝鮮半島や中国北東部の沿岸部に飛び地を持っていた。翡翠を貿易で入手するか、略奪して、租税代わりに鉄を手に入れていたんだ。財政的に余裕があった都の民たちは調子に乗って出雲国を攻め、九州に助けを求めさせた。結果、西側の勢力が強くなり、回復した都の民たちは尾張国を味方につけ、狗奴国を陥落させて、ここも邪馬台国だと主張した。そして、これまでの狗奴国の王の親戚を神格化して神話を作り、反乱を抑えようと図った。少なからず元九州勢力の出雲人もいたため、取り分で揉めて磐井の乱が起きた。そして、遺恨を残したまま乙巳の変へと繋がっていくんだ。
0048日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:00:42.85
奈良県立橿原考古学研究所の青柳正規所長は、桜井茶臼山古墳の調査結果について、「邪馬台国が北部九州なのか畿内なのか、議論が続いていますが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比べものにならないほど強大な王権が存在したことが明らかになりました」と語りました。
0049日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:02:58.20
倭人伝の「漢時有朝見者」は、畿内の倭種の国が漢に朝見していないことを示唆しており、畿内説を否定する根拠となります。

さらに、『後漢書』に記された2世紀以前の倭国(北部九州)に関する記述が、畿内には見られません。

建武中元二年(57年):倭奴国が金印を授与される。
永初元年(107年):倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。
桓帝と霊帝の間(146年〜189年):倭国大乱が起こる。
桓帝と霊帝の間(146年〜189年)末頃:卑弥呼という名の独身の女性が王に擁立される。

これらの出来事が畿内で起こったという証拠は見当たらず、畿内が倭国としての歴史を持つことを裏付けるものではありません。
0050日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:07:26.87
唐子鍵は磯城郡にある銅鐸文化の遺跡だから、ここはヤマト王権初代王に滅ぼされた磯城のクニだろう。

記紀によると、磯城の邑は兄師木と弟師木という兄弟が治めていたが、神武が軍を進めると、弟師木は降伏を選び、兄師木は徹底抗戦を主張したという。

結果的に磯城の邑は神武に征服され、兄師木は殺され、弟師木は神武の軍に合流したとのことだ。

その伝説に関係があるのか、唐子鍵は九州吉備の勢力が畿内を征服した時に放棄され、一部の生き残りが征服王の足元である磐余の大福遺跡に移住し、旧勢力の宗教の神体である銅鐸を壊していたことがわかっている。

唐子鍵はヤマト王権に征服された畿内の原住民のクニであり、完全に滅ぼされている。
0051日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:13:06.82
朝貢は、表面的な服従で貢物を献上することで、交易上の利益を得る貿易形態でした。双方が反抗しないことで利益を得られるため、互いにメリットがあったのです。
属国に対しては内政干渉も行い、特に朝鮮半島の国々では、王の交代にも許可が必要でした。
0052日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:17:01.06
縄文人はもともと日本にいた。
前10世紀頃、沿海州から刻目突帯文土器人(O1b2)が渡来し、青銅器をもたらして人口が増えた。
さらに前10世紀頃、長江文化圏から浙南石棚墓人(O2)がごく少数渡来し、養蚕技術をもたらした。
0053日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 12:20:11.74
402年に人質として倭国へ送られた「未斯欣王子」は神功皇后紀に「微叱己知波珍干岐」(みしこちはとりかんき)として記録されています。倭・高句麗戦争の功績は神功皇后ではなく、未斯欣王子が担っていた可能性があります。
0054日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 16:11:02.83
安房の養蚕は、約2,500年前の縄文時代後期から始まったとされる、長い歴史を持つ伝統産業です。房総温暖な気候と豊富な桑畑は、古くから養蚕に適した環境として知られてきました。
江戸時代には、安房は全国屈指の絹生産地として栄えました。特に、高級絹織物である「安房紬」は、その美しい光沢と滑らかな肌触りで全国に名を知らしめました。安房紬は、代々受け継がれた伝統的な技法で作られており、まさに安房の養蚕の歴史と文化を体現するものです。
https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/Q&A/Q&A-14.htm
0055日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 16:18:35.41
自郡より女王国に至る万二千里(約5000km、魏里435m計算)

九州説、阿波説 → 短里説(1里73m)

畿内説 → 観念的数字説、呉を牽制、過大表記説

常陸説 → 魏里説(距離、方角、日数、正確表記)

伊勢遺跡説 → 里数無視、日数のみ説
0056日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 19:42:24.66
東日本初「三韓土器」、長野北部の根塚遺跡で出土 朝鮮半島と交流?

 長野県北部の木島平村にある根塚遺跡で、
日本の弥生時代に朝鮮半島南部で作られた土器片が見つかったことが明らかになった。
同遺跡は1996年に、弥生時代に朝鮮半島で作られたとみられる渦巻き状装飾つき鉄剣が発見されていた。
今回の土器片の発見で、弥生時代における北信地域と
朝鮮半島の交流について研究が進む可能性があると村はみている。

 村が20日に記者会見し、発表した。村教育委員会などによると、
紀元前1世紀〜紀元後3世紀に朝鮮半島南部でできた土器は「三韓土器」と呼ばれ、
これまで九州〜近畿の遺跡で見つかっていた。東日本で見つかったのは初めてという。
0057日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:08:44.66
倭国大乱:謎に包まれた古代日本の内乱

はじめに

記紀を含む日本の史書には倭国大乱に関する記述がないため、その実態は長らく謎に包まれてきました。しかし近年、半島や大陸側の史料から、この大乱が朝鮮半島で起こった内乱であることがわかってきました。

倭国大乱の時期

倭国大乱の時期は、「漢末」、「桓霊の間」、「霊帝光和中」など諸説あり、明確ではありません。しかし、「桓霊の間」は146年から189年、「霊帝光和中」は178年から183年までの期間であることから、倭国大乱は178年から183年のいずれかに始まったと考えられます。

倭国大乱の終結と卑弥呼の即位

倭国大乱は、女王卑弥呼の即位によって終結したとされています。卑弥呼の即位年は不明ですが、倭国大乱の終結年と一致すると考えられます。

倭国大乱の原因

倭人伝だけでは倭国大乱の原因を特定することはできませんが、周辺諸国の伝記から食糧不足が考えられます。

後漢書烏桓鮮卑伝にみる食糧不足

後漢書烏桓鮮卑伝によれば、東漢の霊帝光和元年(178年)冬、鮮卑族は食糧不足に陥っていました。遊牧民である鮮卑族は漁撈技術を持っていなかったため、倭人国を攻撃し、千余戸の倭人集落を秦水の上に移住させ、漁業に従事させて食糧を確保したと記されています。

まとめ

倭国大乱は、朝鮮半島で起こった食糧不足を原因とする内乱でした。この大乱は、女王卑弥呼の即位によって終結し、倭国の新たな時代へとつながりました。
0058日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:13:22.50
鮮卑の侵攻と倭国大乱

西暦178年、鮮卑族は遼東方面から倭国を攻撃しました。この頃、鮮卑族の領土は遼東北部から遼西方面に移っており、東は遼河流域一体地区を占め、西は新疆ウイグル自治区周辺にまで達していました。

「倭国大乱」と呼ばれる内乱はこの鮮卑族の侵攻が契機となったと考えられます。当時の倭国は、鮮卑の騎馬集団が陸路侵攻できる範囲、つまり遼東方面または千山山脈以東の地区、あるいは鴨緑江下流域周辺に存在していたと推測されます。

この侵攻によって、倭国は国家統制に支障をきたし、内紛に発展していったと考えられます。
0059日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:13:54.48
卑弥呼の即位と公孫氏との関係

《光和元年の冬》は西暦178年の冬であり、「漢末」や「桓霊の間」「霊帝光和中」のいずれにも該当します。

そして、卑弥呼の即位と同時に乱が収まったと記されていることから、即位年と倭国大乱の終止年は同年であると考えられます。

卑弥呼の即位年は献帝の初平元年乃至は二年頃と推定されており、この時代の遼東方面の覇者は公孫度という人物でした。

公孫度は、鮮卑族、高句麗、烏丸を征し、韓や倭の内政干渉を活発化させていました。また、扶余王仇台に娘を嫁がせることで、対婚関係による同盟を結んでいたことも分かっています。

公孫氏と扶余は、倭国を平定するため、共立の女王として卑弥呼を擁立したと考えられます。
0060日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:14:27.07
卑弥呼の朝献と公孫氏一族の滅亡

《晋書四夷伝倭人条》によれば、卑弥呼は公孫氏と関係があったと推測されます。

卑弥呼が即位すると、倭国内の混乱は収拾されました。これは、卑弥呼の背後に公孫氏一門の勢力が控えていたことを示唆しています。

しかし、魏の景初二年(西暦238年)、司馬懿によって公孫淵が討たれ、公孫氏は滅亡しました。
0061日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:14:55.96
魏への朝献と公孫氏一族の助命嘆願

《魏志倭人伝》によれば、景初二年六月、卑弥呼は魏への朝献を要請しました。この時、献上品として生口男女計10名と班布二匹二丈を献上しています。

興味深いのは、天子の詔書に「我甚哀汝(我は甚だ汝を哀れむ)」という言葉が使われていることです。歴代の王朝史において、朝貢してきた国に対してこのような表現が使われた例は見当たりません。

このことから、卑弥呼が公孫氏一族の一員であり、朝献の目的は助命嘆願であった可能性が高いと考えられます。しかし、公孫恭を除いた一族は皆殺されてしまい、卑弥呼の嘆願は叶いませんでした。
0062日本@名無史さん
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2024/06/16(日) 16:16:33.94
【気候変動が招いた鮮卑族襲来と倭国大乱】

2世紀後半、倭国を揺るがした倭国大乱。その背景には、鮮卑族の襲来がありました。では、なぜ鮮卑族は倭国を襲撃したのでしょうか。

『晋書』によれば、鮮卑族は田畜や狩猟だけでは食糧を確保できなくなっていたことが原因とされています。食料不足の要因としては、鮮卑族の勢力拡大による人口増加が考えられますが、2世紀後半から3世紀にかけて東アジアを襲った気候変動も影響していた可能性があります。

山口大学の山本武夫氏は著書『気候の語る日本の歴史』の中で、2世紀後半から3世紀にかけて東アジアは小氷期に入っていたことを、三国史記の気象データ、海水準変動、フェアブリッジ曲線などを比較して科学的に検証しています。

騎馬民族の東西移動や倭人系諸族の南下も、この小氷期と無関係ではありません。山本氏は、古代の気候・気象条件を踏まえた生産力論を展開し、2世紀後半から3世紀にかけての草原地帯、朝鮮半島、倭国の状況を的確に説明しています。

小氷期のような厳しい気候状況下では、人類はより温暖で食料が豊富な場所へ移動せざるを得ません。生活や文化も気候の影響を大きく受け、社会不安や内乱を引き起こし、政治・社会体制の変革を促します。その動揺は近隣諸国にも波及し、新たな勢力図を形成していくのです。

小氷期、鮮卑族の襲来、倭国大乱、邪馬台国の成立。これらの出来事は密接に関連し合い、古代東アジアの歴史を大きく動かしたと言えるでしょう。
0063日本@名無史さん
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2024/06/18(火) 15:19:21.31
3世紀に存在したとされる邪馬台国はどこにあったのだろうか。 畿内説や九州説など多くの候補地が挙げられるが、近年注目を集めているのが四国の徳島説だ。魏志倭人伝に記された邪馬台国は、相当な人口を抱えていたと考えられる。これだけの人口を養うには、山間部や小さな島では不可能であり、広大な耕地と水源が必要不可欠だろう。さらに、国家は突然できるものではないため、縄文や弥生時代からの連続性も重要だ。四国の徳島はこれらの条件を満たしており、魏志倭人伝の内容を検討してみることにする。

魏志倭人伝によれば、福岡県の不弥国から南へ水行20日で投馬国へ到達する。 これは、愛媛県宇和島市受南町を投馬国と仮定した場合、水行10日で黒潮に乗って高知県徳島市まで到達できる距離である。あるいは、山道を四万十川、高知市、大歩危・小歩危、吉野川を経由して1ヶ月かけて徳島へ至ることも考えられる。いずれにしても、おおむね一致する。

海上の島で一周は5千余里(約400キロ)とある。 四国は約700キロであり、当時の距離の誤差を考慮すれば、ほぼ一致する。

女王国から1000里(75キロ)東へ海を渡るとまた倭の国になる。 現在の和歌山県や奈良盆地は、ちょうどこの位置に該当する。

ショウガ、山椒、ミョウガの産地である。 現在では高知県がこれらの産地として知られている。邪馬台国が国家連合体であり、中心に女王国があったと仮定すれば、高知県はその圏内に含まれることになる。

真珠や青玉を産出する。 真珠は徳島県で産出している。青玉は徳島県の産出する緑泥片岩を指し、徳島城の城壁にも使用されている。

水銀丹が採れた。 徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡は、当時唯一の水銀採掘遺跡である。朱丹を体に塗っていたという記述も見られ、徳島県鶴島2号墳からは朱色に染まった人骨が出土している。

邪馬台国の周辺にあったとされる20数国のうち、少なくとも8カ国(都支国、弥奴国、蘇奴国、鬼国、鬼奴国、邪馬国、鳥奴国、奴国)が現在の地名と比定できる。

徳島県の矢野遺跡からは100戸以上の竪穴住居跡が出土しており、これは西日本最大級の規模である。萩原墳墓群は3世紀前半のものであり、日本最古の古墳と考えられる。卑弥呼の死没は240年から246年であり、ほぼ一致する。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/18(火) 15:31:43.42
渡来人とは

古代に日本へ渡ってきた人々を「渡来人」と呼んでいます。元々この地に住んでいたのは縄文人たちでしたが、その後、渡来人たちが複数回に分かれて日本へやってきました。しかし、彼らはいったいどのような人たちだったのでしょうか。

第一陣
最初に日本へやって来たのは、紀元前1800年頃にメソポタミア南部を追われた人々です。彼らはアムル人、エラム人、シュメール人の三民族が共存する集団で、ハムラビ王によってシュメールの地を追われました。もともと遊牧民であったため、日本人が考えるほど移動は苦痛ではなかったのかもしれません。
大陸を東へ移動し、カラス民族やカイラス山などの痕跡を残しながら中国へたどり着き、殷(商)を建国したようです。メソポタミア起源の高度な青銅技術や、楔形文字から変形した甲骨文字を持ち込み、中国文明の基礎を作りました。紀元前1046年に周に敗れ、その末裔が日本へ渡来人の第一陣としてやってきたと考えられています。氏族としては、加茂氏(司祭)や忌部氏などが該当します。

第二陣
次に日本へやってきたのは、エジプト第18王朝とも関わりがあったアムル人(ヤマアド人)です。彼らはエジプトを出てカナン北部で暮らしていましたが、紀元前1200年頃、地中海から侵入した海の民に追われて東方へ移動します。インドや中国へたどり着き、殷を倒して紀元前1100年から1000年頃に周を建国しました。その後、700年の時を経て紀元前250年頃に秦に敗れ、主に新羅などを経由して日本へやってきます。氏族としては、物部氏(軍事防衛)や海部氏(司祭)が該当し、ヤマト王権の祖先もこの中に含まれます。日本書紀を編纂させた天武天皇は海部氏とされています。

第三陣
1世紀以降には、パルティア帝国のペルシャ人(エラム人)が百済(ペクチャ)を経由して日本へやってきます。その他にも、中国や朝鮮の文化圏で育まれたイスラエル系のユダ族である秦氏が百済から渡来しました。秦の末裔とも言われ、絹織物、土木技術、砂鉄や銅の採鉱・精錬、薬草技術に長けていました。聖徳太子の側近だった秦河勝は秦氏とされています。

このように、日本へやってきた3つの集団の渡来人たちは、日本で複雑に混ざり合い、日本独自の文化を育んでいったのです。
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