写真を残して欲しかった幕末の人物
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太田黒伴雄 >>108その点では西郷は問題あるよな。だから明治天皇から慕われたけど、徳川慶喜に嫌われて殺されるわけだ。>>104が指摘した龍馬とは対照的。
>>12本寿院は遺骨が発掘され140センチ前後。>>65継室の遺骨も発掘され135センチほどだそうです。
>>158たぶんそうだけど、存命の人物だとキンタローをおもいだせばいい。 上野の西郷像に関しては、勝海舟が氷川清話か海舟余波であまり出来がよくないのう
って言ってたけど、あまりよくないって程度だから、全くかけ離れてるってことは
ないと思うよ。 >>72>>75
鹿児島の軍服を着た西郷像やキヨソネの絵では西郷の目つきが鋭いけど
上野の西郷像は目がまんまるでなんか間抜けな顔なんだよね
だからきっと実際の西郷は目つきが鋭かったんじゃないかな 「1874年3月陸軍省により撮影された8名」という事であの西郷さんも
この中に写っているそうなんです。
西郷隆盛の写真 ドイツより発見される
この他、伝記も昨年1月にオーストラリアのおばさんのところから発見されたものである。
すでに神戸の歴史学者(名誉教授)より信憑性が高い物として5月22日にラジオ関西で放送された。
ジュリアス・ヘルムが伝記として残し、書かれたもの。1874年3月東京の政府から上京するように連絡が入った。
陸軍省に招かれ、軍の重鎮がいるので記念撮影をした。
和歌山で陸軍創設の折、西郷従道とは面識があった。そこで兄(西郷隆盛)を紹介された。
前年11月に鹿児島に帰っていた隆盛は、従道が直ぐに台湾に行かなければならなくなり、弟が兄に台湾の状況を聞くために上京してもらった、と言った。
従道が立ったままでいいか聞いていた。座るとお尻が痛くなる。と言ったので皆が大笑いをした。
これは長い獄中生活で象牙病(フィラリア)風土病にかかっていたことを立証出来るものである。
下記に1874年3月陸軍省により撮影された8名を紹介する。
http://i.imgur.com/UDRJIvs.jpg
http://i.imgur.com/gRTwOU3.jpg 熊本の実家に曾祖父の写真30cm×50cmくらいなぁ、があって裏に「明治廿壱年 士族 ○○○○」って曾祖父の名前と「馬壱頭ヲ下ル」って裏に書いてあった。
表の写真面には銀粉みたいな絵の具で写真家の名前がローマ字で書いてある。
ちょっと忘れたけど、その写真家を前に調べたら西南の役で落城前の熊本城天守閣を撮った人だった。
ちなみにその天守閣の写真は今の熊本城に展示してあるとのこと。
長くなったけど、写真撮るのに馬1頭かかったんじゃね? あ、たぶん1枚でじゃないよ
かなりの枚数あったけど棺桶に入れたり細川ソバ(刑部邸そばの今の京町と思われ)から引っ越すときに、昭和の白川大水害等で無くなって今はそれと親族集合の2枚の3枚しか残ってない。
男は髷こそ結ってないが、裃、洋装問わずもれなく刀を腰に差してるよ。 別に全員で写れとは言わないけど試衛館時代の幹部達の写真は多摩に送る為に撮ってても不思議じゃないと思うけどな
特に池田屋前後では近藤辺りが言いだしそうな気も全然ある。
山南とかどんな顔だったか知りたいな 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり このあいだNHKの番組の取材で美人で有名な陸奥宗光の嫁さんの新たな写真がアメリカで見つかったんだとさ
しかもネガまで綺麗に保存してあったらしい
一応、写真スレここしかないから貼っとく
http://getworld.ddo.jp/pt/file/1461064733.jpg >>103
幕末写真師の上野彦馬の代金は、写真一枚2分だった。
2分は1/2両。
米で換算してみる。
江戸時代は幕末の動乱期を除いてだいたい米1石が1両だった。
米1石=1、000合=150、000g=150kg
今、米が10kgでだいたい4、000円位だから、
150÷10×4、000=60、000円=1両
なので、2分は30、000円ぐらい。
いまでも写真館で記念写真撮ればこの位は楽にかかるわな。 >>186
この写真は西郷じゃない。
写真が取られたとされる1874年は明治7年。
軍人が全員旭日章を着用してるけど、旭日章の制定
は明治8年だから、7年にはまだ存在しない。
撮影年が明治8年または9年の間違いだとしても、
西郷は明治6年の政変で下野し、明治10年の西南
戦争勃発まで鹿児島にいた。
勲章を受取りに上京したと言えなくも無いけど、当
時の西郷は維新の元勲にして日本唯一の大将位の軍
人。
叙勲するなら勲一等旭日大綬章以外はありえない。
写真の軍人が着用しているのは勲五等か勲六等の旭
日章で勲等が低すぎる。
また、最前列の二人の袖章が不鮮明ながら写ってい
るが、大尉か少佐のようにみえる。
勲章の等級も釣合うのでそのくらいの階級だと思わ
れるが、軍人が写真を撮るときには最上級者が最前
列の中央で座るのが礼儀。
大将の西郷を後列で立たせて写すことはありえない。
海軍軍人の川村純義は明治7年には海軍中将なのに、
この写真の川村とされている人物は大尉か少佐
の陸軍軍服を着ている。
また、勲章の等級も低すぎるから別人。
山縣有朋も明治6年には陸軍大輔(後の陸軍大臣)
に就任しており、勲章等級も低すぎれば、立ち位置
もおかしい。
なんとなく似てる人達がいるのでフルベッキ写真と
同じ様に有名人の集合写真と言われたんじゃないか
な。
皆もそれぞれの人たちの明治7年ごろの年齢とか階
級とか調べてみたら、違いが分かって面白いかもよ。 青島ビールの創業者
あと、横浜の名も無き中国人通訳 >>170
和宮の遺体上に残っていた銀盤?写真の像がそれか?と言われていたが
その銀盤の所在が不明だか像そのものが消失だったかな話 るろ剣での有名な新撰組の斉藤一の写真が遂に見つかったとさ
ttp://this.kiji.is/126430887490682887?c=39550187727945729
今までスポックやフランケンみたいな怪しい写真ばっかだったからよかったねぇ 孝明天皇。。肖像画は雅調にすべく薄い顔として描いてるが、認められてる特徴が
成年の明治天皇と一致している。写真ならあからさまに示せたろうに、残念だ。替え玉説がウザイ やっぱり沖田総司だよ。
沖田総司はイケメンじゃないんだよって
世間に広めたいwwwww
イケメンじゃなくても沖田総司ファンが
真の沖田総司ファン 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
DV85M いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
V90 やっぱ、かんだかんだ西郷隆盛だろ
あと大村益次郎な
本当にあんなデカ頭だったのか見てみたかった 牧野忠雅、松平乗全、松平忠固、久世廣周、太田資始、脇坂安宅、酒井忠績、酒井忠惇 江戸後期の仙台藩主伊達慶邦の写真がサンドイッチマンの伊達みきおにそっくりでびっくりした
幕末は藩主クラスでも意外と残ってないんだよな んでもあるところにはある、会津の殿様の親父の写真があるのだからw 渋沢栄一の息子の書いた本見たら
西郷隆盛は上野の銅像そのままだって書いてたな 既に書いたかもだが例のフルベッキ写真での西郷さん?の真贋兎も角後日談的な話があって
元ネタは某局の番組での話が後に本(ムック本)となったのだけれど
明治期以降に流行った?維新志士の写真セットの中に1つだけフルベッキに写っていた人物と
思われる老齢の人の写真があって他の写真の裏には該当人物名が記載されていたのに
その人物にはなにも書かれていなかっただったか 小説家の海音寺潮五郎が鹿児島に住んでいたときに、西郷隆盛に一番よく似ていると言われた
孫を市電の中で見たと書いている。
それはそれは見事な男だった。実にいい男だったと書いているぞ。
西郷は石原慎太郎・裕次郎兄弟のような容貌だったらしい。
若い頃はスラリとしていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています