坂本龍馬と薩長
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>>668
極左にも嘲笑される田布施システム
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57496
真面目な極左からしてみれば、
奇痴害じみた田布施システムなんぞ迷惑千万。
せっかく地道に左翼理念をアピールしても、
極左友達の奇痴害が「タブセガー」って叫んでたら
自分まで奇痴害・パヨク扱いされるからな。 >>633-634
あまりにも実像よりイメージ良くなってる場合、
逆に極端に貶める傾向がある(特にネットで)
死の商人は薩長に武器を売ったからだろうね
勿論龍馬はそれだけで終わるつもりはなかったから、
新政府後はあらゆる商売をするつもりだったのだろう >>670
明治維新150周年に反発して会津マンセー本ブームが起きたら、
今度はネットが会津のヤバいところをバラしにかかってるからね >>672
自称大室天皇の家族らは、地元民からむちゃくちゃいじめられたらしいぞ。
ほらふき爺さんを左翼が都合よく利用し、バカなお前が吹聴したせいで家族は死ぬ思いをしたんだ。
お前謝れよ >>672
↓お前のせいだぞ。謝れ!
「はっきりしていることは、ただひとつ。
私の父親は確かに『天皇』だと吹聴してまわり、そのせいで、家族は大いに苦しんだということです」
Aさんは声を絞り出すようにして、つぶやいた。
「子どものころから、いじめられてきました」
学校では、同級生たちが囃し立てた。
「天皇陛下の子だ!」「おい、皇太子!」
何を言われても黙って耐えた。 坂本龍馬が口八丁の詐欺師でぼったくり犯っていうのは史実だから
普通に納得できるけど、田布施ってなんかのレッテル貼りだよね?
嫌な感じだな。 「この事件の時嬉しかったのは、西郷吉之助(隆盛)が、京の藩邸でこの事件の一報を聞き
まず西郷自身が短銃に弾を込めて、私を伏見まで助けに来ようとしてくれたことです」と書いている。 超逆境クイズバトル!!99人の壁 Toshl再び獲るか100万円!2時間SP★1
ジャンル 坂本龍馬 >>2
中岡「俺の考えじゃ」
龍馬「俺が先」
いや俺
ジャンガジャンガジャンガジャンガジャンガジャンガジャン
タイマンで斬り合ったかもよ。誰も観てないし >>663
船中八策は赤松小三郎の口上書のパクリだよ
坂本龍馬は武器商人ですが、司馬遼太郎の過大評価で国民的ヒーローになってしまった >>38
10年前の書き込みに返事するのはどうかと思うけど
軍鶏を買いに行ったのは菊屋峰吉 当時17歳
長じて鹿野安兵衛と名乗った
維新後東京に出て土佐藩士で五十人組総組頭の宮川助五郎と知り合い
酒で早死した宮川の遺骨を分骨するなどしている
西南戦争では土佐出身の谷干城のそ知遇を得て会計軍夫として従軍してる
1916年に没
墓は今も京都の了蓮寺にあり子孫は富山に在住ふ まあなんにせよ
これだけ後世に名を残せるのは、凄いこと
おまえらも がんばれよ 土佐藩に殺されたんと違うか?
後藤と一部の上士以外からは郷士のくせに死ねって
思われてたっぽいし、大政奉還した後扱いに困るし
もう用済みだったのでは?
でもそれなら、中岡にはとどめささかったのが不思議 もう決着ついたろ
龍馬の暗殺5日前に龍馬から福井藩士の中根雪江へ永井玄蕃(永井尚志)に一緒に会いに行こうとの書簡が見つかったわけで
毎日のように坂本龍馬は永井玄蕃と新国家樹立の為の議論を重ねていた
永井玄蕃の居場所の隣は見廻組の詰め所、坂本龍馬の後をつければ寺田屋が潜伏先と簡単に突き止められる
実行犯は、京都見廻組
殺害者は、佐々木只三郎
黒幕は、幕臣の永井玄蕃(永井尚志)
殺害動機
表向きの理由は、寺田屋事件での捕り方2人を殺害した罪状で坂本龍馬殺害は公務である
本来の理由は、徳川慶喜ではなく松平春嶽を中心とした新政府樹立を画策する坂本龍馬を危険人物と認定したため >>686
何かしら関わっては居たとは思う、京屋敷の連中全てが龍馬をよく思っていた訳ではないと(私見)
大体が京に居て関わっていた藩士は殆どが中目付な連中(上層部以外で)
酢屋での滞在・近江屋にて・暗殺後に居た人物等々
福岡が囲っていた愛人が龍馬に関わることを怒っていた
中岡の件は既に戸外へ脱出済であるのと虫の息である事も理解していた故
(つまり人が斬られて事切れる程度を理解している人物が居た・若しくは単なる時間切れ) どちらにしてもこれは個人的な恨みの暗殺だと思う
薩摩や土佐、長州が満場一致の大意でやったとは考えづらい
個人的に恨みがある奴が見回り組み?に情報流したんと違うかな
西郷や桂が裏で絡んでるとは思えない 司馬遼太郎の妄想でヒーローに祭り上げられたクソ雑魚のスレはここですか? >>687
ほぼ定説で片付いているのに陰謀論にしたい人が騒いでいるから
謎ということにされているだけだからねこれ
マリーセレスト号やディアトロフ峠と同じ 最近の研究では、薩長盟約を仲介したのは坂本よりも中岡、田中光顕らで、薩摩藩側の代表者は西郷ではなく小松清廉(帯刀)、というのが定説
船中八策にしても、現物が存在しないから、歴史学的に事実か証明できない
剣豪説にしたって、ちゃんと記録がある木戸と違って、なんの証左も残ってない(女子供の手習いの薙刀の免状は残ってる)
つまり、坂本英雄説って、全部司馬遼太郎の妄想/でっち上げなんだよね 民間御用達歴史学者w の本郷和人w は「司馬遼太郎に発見された坂本龍馬」ってハッキリ書いてるしなあ
つまり司馬が妄想炸裂させてあーだこーだ言い出さなけりゃ、完全に埋もれた存在であり、忘れられた、誰も知らない存在だった そもそも(薩長同盟の)仲介をしたのがそんなに偉いか、ってのがある
同盟の主体者、薩長それぞれの代表者、リーダーたち(薩摩ならば小松、西郷、大久保ら、長州ならば木戸、広沢、高杉ら)のほうが数十倍偉くない?
実際に兵を動員、指揮できたのは彼らなんだから
中岡、田中光顕、坂本ら以外にも、間を繋ぐ小物はたくさんいただろうし、保険を打って、さまざまなルートからの、(今は忘れ去られた)無数の連絡役がいただろうことは想像に難くない
誰か1人に全面的に委ねるなんて、そんな危険を冒すわけがない >>687
勝海舟を中心だよ。
土佐は慶喜、土佐藩がリーク >>692
>>694
超亀訂正
中岡、田中光顕と土方久元ね
最近の研究では土方がメイン? 坂本龍馬の日本刀の紹介 現在の所有者 林 千晃氏の証言 2021-05-25
https://youtu.be/TPipmWJYVG8 明治皇后の夢枕に龍馬が現れた
日露戦争開戦前で吉兆だと歌にもなった有名な話
その裏には侍従長が元水戸の郷士香川
京都で活動していたが身の危険を感じ土佐藩に逃げ込んでいた時期がある
陸援隊の隊長代行みたいな時期もあった
当然海援隊の龍馬と面識があり都合の良い事や悪い事も知っていただろう
皇后に国に殉じた若者がいたと吹聴した事が夢枕に出たか作り話しで安心させたか
香川の藩校の同級生川崎は維新後銀行家になり影の日銀と言われた
大戦中に三菱銀行と合併させられた
銀行部門が弱かった三菱がトップバンクになった 昨日のNHK「歴史探偵」
龍馬に関して従来の定説が変ったという内容だったが、薩長同盟の捉え方についても、船中八策
が架空文書だったことも、何年も前から指摘済みであり、新鮮味はなかった。
俺としては、「龍馬はなぜ慶応元年5月に薩摩から下関へ向かったのか。」を解明することが、
龍馬を正しく評価する一番のポイントだと思う。あと、もう一点、龍馬は大政奉還推進に殆どか
かわっていなかったという番組の意見は正しいと思うが、それにより龍馬の評価はむしろプラス
になるという視点が欠けていた(というより言及がなかった)ことは残念だった。
一般視聴者を対象にした番組だから、そこまで深くは掘り下げられなかったのか。 其のパシリに殿様が褒美あげたり名まで覚えてくれるのってそうそうないと思うが? 龍馬パシリ説について
薩摩藩が龍馬ら勝海舟の元塾生を引き取った理由は、元治元年8月に西郷が勝に会って諸侯合議政体
論を聴かされ、感銘を受けたことがきっかけだった。そこへ薩摩藩が複数の西洋船を購入して操船員
が不足していた事情が加わり、小松帯刀の判断で元塾生らを「航海の手先」に使うために引き取った。
龍馬は塾生の代表者であり、鹿児島の自宅に龍馬を泊めた小松としては、当然龍馬を介して長崎に薩
摩藩の手先となる浪人結社を置く手はずを進めることを考えていたはずである。
つまり、薩摩藩としては、長州の情勢を探る工作員(パシリ)を送る必要があったとしても、航海術
を利用するため鹿児島に連れてきた塾生の代表者である龍馬を選ぶ必要がないのである。仮に工作員
には元塾生の誰かを選ぶのが良いと考えても、ほかの誰か気の利いた者(例えば近藤長次郎とか)を
選ぶはずである。
それにも関わらず、龍馬が長州方面に向かった理由は、それが龍馬の意思だったからと考えるのが自
然だろう。 龍馬パシリ説について (2)
では、龍馬は、「薩摩藩の海軍拠点に向けた、具体的には士官・船員として期待されての鹿児島行であった」(町田明広
「薩長同盟論」113頁)にもかかわらず、なぜ小松や元塾生らと一緒に長崎に行かず、長州へ向かったのか。それは、約2
年間勝の身近にいたことで、勝が西郷に語った諸侯合議政体論をより詳しく勝から聴かされ、薩長融和の必要性を教え込ま
れていたからということに尽きると思う。龍馬としては、第2次長州征伐が実行される前に薩長和解をまとめておく必要性
があると考えており、幕臣という立場、しかも失脚した勝に代わって自分が薩長和解の仲介役を果たそうと考えたのだと思
う。
しかしながら、他方、自分が薩摩藩海軍のための働きを期待されて呼ばれたことも分かっており、自分の一存で好き勝手
に長州へ行くことはできない。行くには小松の承諾だけでは足りず、国父島津久光の了承も必要だったはずである。そもそ
も、小松が龍馬らを薩摩海軍の手先に使うこと自体、久光の了解を得てのことだったはずであり、小松の一存でできること
ではない。薩摩藩においては、久光の裁可若しくは事後承諾なくして物事を決めることはあり得ないからだ(西郷はそれを
怠ったから2度目の島流しになった)。
そこで、龍馬は小松ひいては久光を納得させるため、自分が長州探索の工作員になるので、長州へ行かして欲しい旨説得
したと思われる。龍馬がどのように説得したかは分からないが、最終的には、小松が「龍馬に長州の情勢視察を命じたいの
で認めて欲しい。」と言って久光の了解を得たのであろう。その意味では、つまり龍馬が工作員を買って出たという意味で
は、龍馬工作員説も間違いではないと言えるだろう。しかし、土佐藩重役寺村左膳がその日記(文久3年2月)に「(龍馬
は)薩長の間を奔走し、浪士の間で非常に名望ありと聞く。」と記しているように、この頃の龍馬は、既に単純な工作員に
収まるような人物ではなかったのである。 坂本龍馬が活躍できたのは土佐勤王党だから
そこの大物格の一人であった
何の背景もない浪人ではなく後ろには土佐派が付いている
久坂玄瑞に会って脱藩してるし、長州や木戸がやたら信用したのもそのためだろう
中岡慎太郎もそうだけど土佐派の大物だから大事にされたのだろう 当時の史料、各藩重要人物の手紙に坂本の名前は頻繁に出てくるし、十分大物志士だったのは確か。
町田明広の著書(新説 坂本龍馬)を読むと、司馬が創作した小説以上の魅力が分かる。
皆、漫画や小説に惑わされ過ぎ。(そういう議論も古すぎて飽きたがw) ↑の西郷と思しき人の晩年?な写真が実は残っていたんだよね
それが何故か明治期以降に流行ったと思われるブロマイド的な写真の1つにあったのだが(維新獅子としての)
他の写真は裏にきちんと手書きで誰それと明記されていたのにその人物のウラには何も書いていなかった 実行犯は東
助けられなかったのは仁先生
黒幕は勝海舟だろ これだけは言える
おまえらよりも竜馬のほうが凄いってこと
おまえらが幕末に生きてても竜馬以上にはなれない
これは間違いない おまえらが歴史に名を残すことはない
俺は除く 今日、書店で立ち読みをしていたら、一坂太郎の新刊が出ていた。相変わらず次から次へとよく本を書いている。
もとより買う気はなかったが、拾い読みをしたら、案の定、龍馬を腐していた。こいつが史料を無視して龍馬を腐すことは
今に始まったことではないが、今回も驚いた。
龍馬は武力討幕派と大政奉還派の間を揺れ動き、慶応3年10月上旬に上京すると、1か月前に木戸宛に武力討幕へ邁進
する旨の手紙を書いたのに、幕臣永井尚志を訪れて大政奉還を勧めたと記述していた(この場面は「竜馬がゆく」にも出てく
る)。しかし、龍馬が永井を訪ねたのは大政奉還後であって、10月上旬に永井を訪ねたとする話は土佐系の人々の創作であ
ることは、プロの歴史家ならもちろん、私のようなド素人でも幕末史が好きな者なら踏まえている事実である。龍馬が大政
奉還実現に向けて行動したことを示す資料は1点もない。
一坂は、以前にも「龍馬が上京する以前に既に薩長同盟は成立していた」とする与太話をぶち上げ、意図的に史料を曲解
したとして松浦玲氏に批判された(「検証・坂本龍馬伝説」94頁「一坂氏は、考え抜いて真相を掴むという考証の喜びとは
異質のものに犯されいるのではないか。」)。どうも凝りていないようである。 >>711
「司馬遼太郎が描かなかった」読んだけど
一坂太郎の本は二度と読む気にならんな
史料の曲解、我田引水がひどすぎた 1891年(明治24年)4月8日
戸田忠太夫、会沢正志斎(恒蔵)、安島帯刀、小林良典、頼三樹三郎、梁川星巌(新十郎)、田中河内介、梅田雲浜(源二郎)、橋本左内、日下部伊三治、宮部鼎蔵、平野国臣(次郎)、益田親施(右衛門介)、福原元|(越後)、国司親相(信濃)、村田清風(四郎左衛門)、周布政之助、前田孫右衛門、宍戸真澂(左馬介)、来島又兵衛、久坂玄瑞(義助)、寺島忠三郎、入江九一、高杉晋作、真木保臣(和泉守)、武市瑞山(半平太)、吉村虎太郎(寅太郎)、坂本龍馬、中岡慎太郎 体制をひっくり返したから英雄視されてるが現実はグラバーの使用人 絵描いたのは全てグラバー 史実の坂本龍馬
色黒の禿で言われてるほどの長身ではない
空荷なのに架空の積荷の請求をする悪質な当たり屋
婚約者がいるのに他の女に求婚さらに芸者遊びして梅毒をもらう
役人2人射殺(人殺し)して嬉しそうに面白おかしく手紙に書く猟奇殺人犯
天の逆鉾を引き抜いてただの剣と言い放つ罰当たり
テロリストに武器を斡旋して内戦勃発の幇助
そのくせ飼い主のグラバーや薩摩を裏切って内戦回避に動き顰蹙を買う
嫁は皆から悪女と言われる女
勝塾の金を横領して勝から縁を切られる
海援隊はチンピラ集団で長崎では忌み嫌われる
時計泥棒に罪を償わせず逃亡幇助
土佐勤王党の旗色が悪くなると逃亡して脱藩
武市や以蔵の仇後藤と勝手に和解
密航未遂の近藤長次郎をここぞとばかりに切腹させる
新撰組にビビッておりょうを置き去りにして逃亡
薩摩でニセ金造り、後藤にも唆してやらせようとする
善悪の区別がつかずルールを守れないアスペルガー症候群 龍馬が西郷と初めて会ったのは何時か?
龍馬と勝麟太郎と、どちらが先に西郷に会ったのか? とりあえず龍馬は悪とか善悪で歴史を語ってる奴は馬鹿だろ
そもそも現代的な価値観や民主主義的な価値観から言えば
幕府の存在自体が悪なんだから目線を変えればそれを倒すためにがきれい事ばかりだけでは無理だったと言うだけ
もっと手段を選ばない人物もたくさんいた時代でだから暗殺や殺しが横行した
逆にあのような封建的な時代に歴史に名を残した人物で今のきれい事だけでような人間が名を残せるわけがない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています