廃仏毀釈について語りましょうよ2
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廃仏毀釈が遂行された時、鹿児島は県内の寺をすぐに全廃した。
数年間、県内に一つの寺も無くなったし、僧侶も一人もいなかった。
元々、鹿児島人は仏教にまるで興味なかった事が原因だ。
ダサツマンは至上最低最悪のカルト日本神道の狂信者の塊だ。
鹿児島人は今でも、カルトばっかりやってて仏教を疎かにしている。
鹿児島人以外の日本人への挑戦と思っていい。仏罰よ鹿児島に下れ。
鹿児島の神社及び神代三大陵が天災で全滅しますように。
と言う譯で廃仏毀釈の甚大なる歴史的物理的被害を語りましょう。
その背景となったのは薩摩藩である事は言うまでもありませんが。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1097339766/ 平安の仏像が数体のこっている。
しかし伊達政宗がかなりの寺院を焼き払ったので、平安時代のものは少ない。
戊辰戦争の際に佐川官兵衛と新政府が互いに火攻めをしたり撤退時に焼いたりしたので、この際の被害も多い。
新政府のせいだという意見は、佐川官兵衛も加害者だろうが、とあらかじめ予定問答として返答しておく。 >>41
ありがとう
でも会津が五大仏都って誇張しすぎじゃね?
大分の臼杵磨崖仏の方が日本唯一の国宝石仏で数も60近くある。
会津より臼杵を挙げるべき。 会津藩、1/3がキリシタン!
会津は五大仏都と隠れキリシタンの里らしい
会津若松市HP
京都、奈良、鎌倉、平泉と並んで日本の五大仏都に称させる会津。
その背後にはもう一つの顔がありました。それはキリシンタン文化。
http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/ja/kanko_odekake/news/kirishitan.pdf
五大仏都ワロタ
国重文だと、質はもちろん数だけでも京都と10倍以上の差があるのに…
田舎者の考えることは分からんw 会津の平安時代の仏教僧と言えば徳一(とくいつ)。
しかしこの僧侶、伝教大師最澄に粘着し難をかけまくり、
その後は師である弘法大師空海にも嵐のように書状を送りつけ続けたという悪評だけが後世に残っている。
徳一の説は、最澄の手紙の中で反論されるという形でしか残っていない。
彼を伝教大師・弘法大師にも匹敵する高僧として紹介するのが、会津五大仏都説。
論拠は、平安時代の仏像が残っているから徳一は最澄や空海と肩を並べる高僧である、というもの。
そのため会津は、奈良や京都と肩を並べる仏都なのだという主張となって、専ら会津で語られている。 >>44 >>45
その程度で仏都を名乗るとは恐れ入るなw
劣化コピペな地方文化のくせに奈良京都と同格だなんて
夜郎自大にも程がある! ↑嫌われ者の一人芝居
誰も肯いてくれないのは常軌を逸しているからだよ
会津若松市HPより
「SAMURAI CITY」の商標登録について
「武士(もののふ)の郷(さと) 会津若松」のイメージを国内外に広く周知し、観光誘客の促進を図る
SAMURAI CITYとか武士の郷とか、武家発祥の鎌倉なら理解できるが。
五大仏都とかくれキリシタンの里とか会津って何でもアリなのか。
会津武士道は社会を破滅させる最悪思想だと思う。
幕末、第二次世界大戦、バブル退治・デフレによる日本衰退
会津武士道が世間を覆う度に日本は破綻した。 幕末に破綻したのは会津藩と会津に巻き込まれた東北地方であった。
会津を信じると国は滅びる。 天皇崇拝とかヒトラー崇拝とか、今だと金将軍崇拝とか。
まともな意見が排除される国は滅びるんだよな。 仏教学を専攻するにはサンスクリット語を学ぶ必要がある。
よってスリランカなどに留学せねばならんよ。
インドは駄目。 一族の後継争いに豊臣徳川と介入したから。
最初豊臣が西を支持して、そちらで統一されるかに見えたら
徳川に政権が代わって、東を徳川が支持して並び立ち、東西分裂状態になった。 ここでもいらん事してたのか家康、秀吉を妬んで足跡を潰すのもいい加減にしろよ >>58
そうだったのか。ありがとう、初めて知りました。
ところで、神仏分離令は国学派だけでなく浄土真宗も積極的に後押ししたって本当かねぇ。 廃仏毀釈で寺を売った僧侶多かったらしいけど
明治政府が買い取ってたのかな 廃仏毀釈が起きたとき、坊主にも肉を食えっていうおしつけがあったと
聞きますが、廃仏毀釈が起きたことの遠因って、当然開国したことに
あったんですよね? 開国とは関係ないっしょ? なんで仏教と神道に開国がかかわる?
国家神道をつくろうとした過程で、神社で仏像も拝むようなことやめるようにって言ったら、
それに便乗して寺をディスった連中がいたってだけで。
あとで信仰の自由をなんちゃらいう段階では、キリスト教問題も入ってきたけど、
その時点でだって基本は神道と仏教についてだった希ガス
それとも、外国がキリスト教でまとまってるから、
日本も国をまとめられる宗教をつくろうと国家神道をつくったって話?
だとしたら間接的に関係があるといえるかもしれないが。 福島県会津若松市の菅家一郎市長が18日、萩市を訪れ、東日本大震災後の取り組みなどを報告した。
かつて会津若松市には会津藩、萩市には長州藩があり、戊辰戦争(1868〜69年)で戦った間柄。
菅家市長は「訪問は和解とは別」と前置きした上で、震災後に萩市から受けた支援に繰り返し感謝した。
会津若松市長の萩市訪問は1997年以来14年ぶり。震災後に見舞金2350万円と支援物資を送った
萩市側が招いた。JAあぶらんど萩本所(江向)であった報告会には市民ら約300人が参加。萩市の
野村興児市長は菅家市長の訪問について「長年の因縁を考えると勇気のいること。英断に感謝する」と
述べた。
菅家市長は報告会に先立ち、戊辰戦争で命を落とした白虎隊を供養する地蔵堂(唐樋町)を野村市長たち
と訪れ、花を手向けた。地元の地蔵講の約20人に「供養していただき、心から感謝申し上げる」とも述べた。
*戊辰・会津戦争
慶應4年(明治元年/1868年)8月23日〜9月22日。会津藩主・松平容保(京都守護職)に対する追討令が出され、
薩摩・長州を主力とする西軍が会津若松を攻めた戦い。白虎隊、娘子軍の活躍で名高い会津藩は近隣の30余藩
と奥羽越列藩同盟を結びこれに対抗し会津若松城を拠点に激戦を繰り広げました。慶応4年(明治元年・1868年)
9月22日、会津藩は降伏しました。後に、明治10年(1877年)の西南戦争では、会津戦争などの遺恨を晴らすべく
会津出身の兵は特に奮戦したといわれています。
▽四国新聞('11/7/19)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201107190029.html
明治新政府最大の汚点
神仏習合を無視し文化を破壊した 誤解があるようだが、国家神道とは宗教というより、皇室神道をもとに新たに創設された国家儀礼。
それが国民が強制させられた。
明治政府は政教分離を建前として、「神道は宗教にあらず」と強弁して国家儀礼に組み込んだ。
その代わり、大教院を創設して、神道を中心として仏教をも集合させた「大教」を
造り、布教させようとした。
つまり神仏分離、廃仏毀釈の一方、新たな神仏習合を目論んだが失敗した。 「廃仏毀釈はそれまで寺院に虐げられた民衆が起こしたもので自業自得」
という論調が見られるが、調べてみると神道辞典にはそう記載されている。
しかしどこを探しても出典がない。
当時の新聞では僧侶は仏典漢籍を読めたのに対し神主は学がなく、経済的にも地位も低く
その積年の恨みが廃仏毀釈になったと挿絵入りで書かれている。
どうも一般民衆ではなく神主、神職の恨みを買ったというのが妥当だろう。
また廃仏毀釈自体、地域によってばらつきがあり、神主や国学を信奉した庄屋村役の子弟
に煽動されて行われた場合もあれば、寺院住職自らが還俗し、神主になって寺院を破壊した場合も
あったようだ。 水戸の斉昭公の失脚には仏教勢力が関与した。
一方で雪冤運動には神官が多数参加した。 >幕府の権威を笠に着て
>好き放題搾取・凌辱を繰り返してきた坊主に対して
>領民が積年の恨みを晴らしただけの話だよ
これの根拠となる具体的資料を提示してくれ。
だれも資料を提出してくれないんだよなw
>>69
慶応四年四月十日の太政官布告には、お前ら勝手なことすんなよゴルァみたいなことが書いてあるな。
これに書いてある社人って、神職のことだよね、確か。
(前略)
然ル処、旧来、社人僧侶不相善、氷炭之如ク候ニ付、今日ニ至リ、社人共俄ニ威権ヲ得、
陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ斉シ候様之所業出来候テハ、御政道ノ妨ヲ生シ候而巳ナラス、紛擾ヲ引起可申ハ必然ニ候
左様相成候テハ、実ニ不相済儀ニ付、厚ク令顧慮、緩急宜ヲ考ヘ、穏ニ取扱ハ勿論、僧侶共ニ至リ候テモ、生業ノ道ヲ可失、
益国家之御用相立候様、精々可心掛候
且神社中ニ有之候仏像仏具取除候分タリトモ、一々取計向伺出、御指図可受候
若以来心得違致シ、粗暴ノ振舞等有之ハ、屹度曲事可被仰出候事
但 勅祭之神社、御震翰、勅額等有之向ハ、伺出候上、御沙汰可有之、其余ノ社ハ、裁判所、鎮台、領主、地頭等ヘ、委細可申出事
日光なんかは、三仏堂の移転の件で政府上層部まで巻き込んで色々やってたみたいね。
県令とかのやる気によっても結構被害度が変わってるようにも思える。
あと、廃仏毀釈を免れた寺でも、上知令で寺社領の殆ど没収されて山門の修復も出来ないとか
そんな事例もあったようだ。 廃寺になった寺とそうでない寺の差はなに?
たとえば、奈良でいえば興福寺は塔頭はほぼ廃されたけど本体(?)は残った。
けれど内山永久寺は塔頭も本体も廃された。その差は住職の政治力の差?
なにかで、檀家がない寺は廃されたというけど、檀家があって墓地もあるけれど廃されたところもあるし。
>>73
明治帝の東北巡幸に供奉した木戸孝允から品川弥二郎宛の書簡に
「いま日光だけど、地元住民から、三仏堂縮小移転は困るって嘆願来たよ!
これ破壊しちゃうのはもったいないし気の毒だから何とかせにゃ」
というような内容のことが書いてある。
結局現状の規模と状態のまま移転できるよう天皇から下賜金が出てめでたし。 いや、木戸や伊藤はもともと廃仏棄釈の風潮には批判的。
島地黙雷とも親しいし。品川は禁門の変のとき西本願寺に助けられてるしな。
ちなみに木戸の葬儀は神式流行にあえて逆らって仏式。葬儀委員長伊藤。 神仏分離令を出したのは大久保と木戸やろ。
国賊中の国賊。 どうせ高利貸しをやってた坊主が恨まれていたいたんだろう。 鹿児島は隠れキリシタンがたくさんいたので廃仏が進んだの? 隠れキリシタンって九州のどの辺に多かったのよ?
熊本バンドとかが有名だけど。熊本県じゃね? 神仏分離・廃仏毀釈の歴史経過
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm
明治維新前後の狂気(神祇官再興・祭政一致という幻想)
明治維新の神仏分離及びその行き着く先としてほとんど自明のことであった廃仏とは、一体何だったのだろうか、どういう思想でそれは行われたのだろうか、
あるいはその主体は一体誰だったのか、そしてその破壊のエネルギーは 一時的であったにせよ、その源はいかなる訳なのか等々多くの疑問がある。
一般論としては、唯一神道家・平田派・後期水戸学などの影響を受けた後期国学者などの狂気であったことは理解できるが、
なぜ一部神道家や国学者の狂気が一時的にせよ、全国に波及していったのか、結果的にはほとんど挫折したにせよ、なぜ その狂気が許されたのか、
その具体的なところはどうだったのか云々については良く理解できていないというのが正直なところである。
但馬帝釈寺(日光院)の神仏分離もある日突然、帝釈寺を襲った訳ではなく、その当時の大きな時代の奔流の中で、全国各地で行われたことの一コマであったと思われる。
一コマとは「大したことではない」という意味ではなく、「明治初頭の神仏分離政策とは、現象としては、千年とか何百年とかの連綿とした信仰や伝統や風習などがほとんど一瞬にして暴力的に破壊される 」というものであった。
寺院神社は勿論のこと、村々の小祠・辻堂までも破壊の対象となり、大なり小なり佛教的な存在は神仏分離という名の廃仏の影響を受けたと思われる。
但馬帝釈寺もその中の一つで、しかも寺院の消滅を宣告されるという「狂気の例」という意味である。
そこには、なんらかの政治・宗教的勢力があり、その勢力は何らかの政治・宗教的意図を持っていたはずであろう。
それゆえ、帝釈寺の神仏分離を考える前提として、一体誰が・何を目的として、どのような手法で行ったのかなどを、以下の著作から、探ってみることにする。
(A)「神道の思想 第2巻神祇制度編」梅田義彦、雄山閣、昭和49年
(B)「神々の明治維新」安丸良夫、岩波新書、1979
(C)「現代神道研究集成(三)」神道史研究編2、神社本庁、平成10年
(D)「現代神道研究集成(七)」神道思想研究編、神社本庁、平成11年
(E)「神仏分離の概観」辻善之助、「明治維新神仏分離資料」所収
「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫、1518、2001 結論的に云えば
明治維新の神仏分離や廃仏毀釈の意味は単に神を仏から分離し、仏を廃するという意味ではなくて、
記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に歴代天皇や南北朝期の功臣を加え、要するに神話的にあるいは歴史的に皇統と国家の功臣を神とし、
底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするというのがその意味であった。
そして、その神々の大系は水戸学や後期国学に由来する国体神学が作り出したものであった。(B)
勿論、その国体神学の目指す方向は記紀神話の神々を至高のものにするものであった故に、
神仏の峻別、神社からの廃仏は勿論、佛教の廃棄、路傍の辻堂・石仏の廃棄にまで破壊の対象が拡大した。
○○大権現・修験なども、限りなく仏体や寺院に近いものであっても、神社と強弁され、新しい神格がこじつけられた。
国体神学の体系から外れる村々の道祖神・祭礼なども淫祠・淫習として廃棄の対象となった。
もっとも甚だしきものは、平将門(神田明神)などは逆臣の故に、祭神から追われる現象もあったとされる。
江戸後期・末期は封建制が行き詰まり、内憂外患の漠然とした不安の時代であった。
この閉塞は新しい勢力あるいは思想によって打ち破られなければならない必然があった時代でもあった。
この時代新しい勢力として台頭してきたのは、薩長に代表される勢力で、その新しい政治スローガンは「尊王」であった。
要するにそれは、徳川封建制の価値感に取って代わる新鮮な政治スローガンであった。
そしてその「尊王」あるいは「勤皇」とは、深く後期水戸学や後期国学の影響を受けたものであった。
明治維新として「革命」が成就した時、維新政府の政治思想基盤は脆弱であり、また弱年の天皇を擁立したばかりでもあり、
維新政府の権威確立のためには何らかの(天皇絶対主義的な)イデオロギーが必要であった。
維新政府には、今までの徳川幕府の封建的意識を変革し、その上で列強諸国に伍していくための「日本的に普遍的」なイデオロギーが必要であった。
以上のような状況の中で、維新政府成立当初、その政治「革命」の政治スローガンであった「尊王」「勤皇」を支えた後期水戸学や
後期国学者・国体神学者に期待されたのは、まさに近代化(西欧化)を目指すための日本的な精神規範としての、ま た今までの徳川封建制の精神規範に取って代わる、
新しい精神規範としての「古くて新しい」天皇の絶対的な優位性を確立するための理論であった。 政治とは冷徹なもので、政治目的の実現のために役立つものは全て政治的に利用される。
誕生したばかりの維新政府は生き残りと政治目的の実現のために、「祭政一致」の「王政復古」という形で、彼等を利用した。
それゆえ、維新成立当初は、彼等後期水戸学や後期国学者・国体神学者がその思想としたことは、「祭政一致」の「王政復古」として実現はした。
しかし、その復古主義は、古代の神聖国家以外では現実に機能するはずもない時代錯誤なものであった。
その意味で、彼等復古主義者の理想とは、まさに「幻想」でしかなかった。
実際に明治維新を成就させた「明治維新の功労者」たちは、西欧の文明に触れた現実政治家であり、復古主義とは相容れるものではなかった。
その復古主義は、維新政府が目指した中央集権国家要するに近代化とは相反するものでしかなかった。
かくして彼ら復古主義者が現実の政治で実権を持つことはありえなかったが、しかし彼等にとっては理想実現の機会到来であり、
また現実政治では祭政一致の政治とは「幻想」であるがために、つまり現実政治ではその理想実現のための舞台の用意が無いがために、
逆に、限られた世界であるイデオロギー・宗教政策の中で完全燃焼を遂げようとした。 まさに当時は変革の時代であり、情熱を燃焼できる時代であり、宗教・思想の世界でもそういう熱気はあったであろう。
当時は、近代・西欧化への移行期でもあり、ある意味では無政府状態でもあり、一瞬権力の空白時期でもあったであろう。
要するに混乱期でもあり、彼等復古主義者にとっては、佛教を廃し、自らの国学の理想(王政復古神武創業ノ始ニ被為基)の実現の機会到来でもあった。
その意味で、さぞかし、彼等は勇躍し、雀喜したであろうと容易に推測ができる。
しかしながら、現実は、国体神学者たちの、その非現実的な主張(神武創業に基づく祭政一致など)の故に、
彼等は現実政治にはコミットは出来ず、宗教政策という狭い世界に閉じ込められる結果になる。
つまり、国体神学者・国学者などは決して維新政府の主流ではなく、むしろ傍流でしかなかったといえる。
しかし傍流で「閉塞させられた」故にそのエネルギーは一層その激しさを増したとも云えなくもない。
いや彼等にとって「閉塞状態であった」からこそ、あの明治初頭の神仏分離(国学者にとっては廃仏)はあれほど「狂気」であったのであろうとも云える。
あの廃仏という破壊行為を招いた原因の一つとして、佛教界の堕落腐敗・社僧の優位に起因する社僧と神官の確執・経済的利権争いなどがあった ことも事実であろう。
しかし、その根本的原因は、明治初頭の復古主義・国学者・復古神道家の屈折したあるいは鬱積したエネルギーで あったと思われます。
そして、そのエネルギーは「宗教政策」の枠内に「閉じ込められた」故に、それは暴発的なエネルギーになったのであろうと思われる。
要するに、維新政府の目指した近代化・西欧化と国学者たちの復古主義とは根本的に相容れるはずも無く、思想的には尊王(攘夷)だけで和合した維新政府と復古主義者との蜜月は明治3、4年で終る。
かくして、復古主義的な神仏分離政策は頓挫する。
但し、地方での収束はその後数年の時間が必要ではあったが・・・・。
その後、維新政府は古典的な復古主義は切捨て、維新政府としては、強権的な中央集権国家の中心としての天皇絶対化が推し進められていくことになる。 それは国家神道への道であった。
おそらく、維新政府にとっては、富国強兵等々が立脚すべき価値基準であり、
その実現のための人心統合策として採用されたのが「天皇絶対化」(神々の系譜で云えば天照などの皇祖、神社で云えば伊勢神宮)であり、
この意味では水戸学及び後期国学は現代にまで及ぶ大きな影響を残したといえるのであろう。 木戸の葬儀の導師は本願寺の明如。木戸家からお礼に5千円、大金だよ。参列者は鍋島、天皇の親の九条、大隈、大久保。神道の時代なのに?妖しいでしょ。 >>89
木戸の葬儀にどんだけの人が参列したか知ってていってんのか?
数千人の中から数人選び出して何言ってんだかw
木戸は流行に乗っかって神式の葬式するほど軽薄でもないんでw 木戸=逃げの小五郎=廃仏毀釈を推進したA級売国奴。 えーっと……~祇官ポストに座った狂信者を政府から叩き出し、
太政官より低い地位に~祇官を引き戻したのが長州閥だが?。
西洋化に伴って天皇にも洋服を着て貰い、肉ぐらい食べて貰おうと提言した~祇官は長州人だが?。
>>93
会っていない。同じ時代に生きても居ない君が見てきたように語る木戸の姿ってwww >>95
原理主義が時代を作ることもあるんじゃない?
プロテスタントを基盤とする国家が近代・現代を主導したように・・・。 廃仏毀釈といっても、今の日本には大量の仏像が残ってるわけでこれをどう説明するんだか。 単なる葬式仏教と化しているのを見ると、
いまこそ廃仏毀釈が必要じゃないかと思えてくる。
お経も日本語に翻訳しないから意味が分からない呪文のまま。
ありがたい仏教の教えを広めるのが僧侶の役目のはずなのにそういうことは殆ど何もしないんだから。 廃仏毀釈の基本的な背景すらわかってないド坊主がガタガタ喚いてるだけのスレ 以前、「神々の明治維新」を読んで思ったことだけど、
明治維新というのは本当に革命だったんだろうな。 今に至っては是非も無いが、個人的には伝統的価値保守主義者なので、廃仏毀釈は残念だった。
今日本人の大部分は無宗教だが、その無宗教の根底には脈々と神仏習合的なものが流れている。
その事が、現在のわが国の民度の高さに繋がっていると思う。明示的に神道、仏教の何がどうと、簡単に表現出来ないが。
何千年と続いて来た精神の型はそう簡単に捨て去る事はできなし、するべきじゃないと思う。 >>97
残っている物だけを数えて大量とか言われてもねえ >>97 残ってるものより大量に消えたものに想いを巡らせてみよう。 国家神道って仏教と儒教のいいこと取りだからなぁ、などとしったかしてたもる >>101
> 今に至っては是非も無いが、個人的には伝統的価値保守主義者なので、廃仏毀釈は残念だった。
> 今日本人の大部分は無宗教だが、その無宗教の根底には脈々と神仏習合的なものが流れている。
> その事が、現在のわが国の民度の高さに繋がっていると思う。明示的に神道、仏教の何がどうと、簡単に表現出来ないが。
> 何千年と続いて来た精神の型はそう簡単に捨て去る事はできなし、するべきじゃないと思う。
するべきじゃないのは判るけど、実際それをしてしまった訳だから、今後求められるのは
今の状況をどう変えていくかということだろうな。
これは並大抵のことではできないだろう。
廃城令といい廃仏毀釈といい、今となっては痛恨の極みだ。
薩摩では島津久光の命令で仏教寺院は軒並み破壊された。
あと、津和野や隠岐でも。日本人は中国の文化大革命や
タリバンのバーミヤン破壊をとやかく言う資格はないな。 離蓋、月性が仕組んだ南朝豊臣家のクーデター。木戸が眠ったのは豊臣ぼだい寺の高台寺。南朝の明治天皇が眠った所は?三夜荘の側。 廃仏毀釈はただたんに庶民の恨みを買っていた寺社が、
幕府の権威がなくなったので襲撃されただけの話。
寺の檀家制度は庶民を管理支配する幕府統治機関の末端。
さらに寺は博打を容認されていたから、そこにたくさん証文を残していた者たちがおり。
彼等が焼き討ちをしたわけだ。幕府は守ってくれないんだから当然そうなる。
ただ新政府にいち早く近づいた西本願寺は新政府の加護で守られたそうだが。 明治政府が英国を習って、帝を頂点とする政教一致を目指した。神仏分離をして神道国教化。木戸は反対であったが無学の神職の暴走で混乱した。バーミアンの石像破壊と同じ。 そもそも神仏はメチャクチャにしゅうごうして訳わからんようになっていたわけで。 バーミヤンで思い出した、同名のファミレス
昔嫁にここで結婚式挙げさせてもらうかって冗談言ったの思い出したわ。 ハワイとグアムの位置がわからないギャルと
寺と神社の差が判らないギャルも居る。 男のくせにムカデとヤスデの区別が出来やん奴もおるな 江戸時代には全国に知られた
珍しい女人立山信仰、
富山県の布橋灌頂会も
廃仏毀釈で途絶えた。
寧ろ罰当たりな行為ですよ。
歴史全て乗り越える為に有るよ。 まとめ
【先祖供養、祖霊崇拝はもともと神道の根にあるもの】
これを、当時の日本人には知るすべが無かった事が悲劇。 道端のある地蔵の姿が仏に似ているのは明らかに仏教の影響でしょうね。
それ以前のご神体はどんな姿をしていたのか。
恐らく、珍しい形の石だったりしたのだろうね。 つーか明治政府が、250年の恨みを晴らせとばかりに仏教攻撃に狂奔する神官とかに対して
お前ら自重しろやって布告出してるのは何故無視されるのか 仏教が必要で皇族が取り入れたにもかかわらず天皇一神教などにするから
因果の法則を無視して信じれば神風がなどと妄想してる
天皇が祈ったから神風が吹いたのではなく日蓮が祈ったからでしょ
さらに違う説では神風は吹かなく武士団が実力で追い払ったとも言われる
皇族は平和だった昔のように仏教を取り入れ京都で暮らすのが大吉 671: [sage] 2013/10/10(木) 00:41:29.14 ID:U7L19sx4
>>651
明治のネトウヨが廃仏毀釈したおかげで
寺社番匠と呼ばれた人たちも宮大工なんてダサイ名前に変えられてしまった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1381325987/671 671: [sage] 2013/10/10(木) 00:41:29.14 ID:U7L19sx4
>>651
明治のネトウヨが廃仏毀釈したおかげで
寺社番匠と呼ばれた人たちも宮大工なんてダサイ名前に変えられてしまった
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1381325987/671 【韓国】復元した崇礼門(南大門)、完成後わずか5ヵ月で彩色が剥落 ⇒ 「日本製材料が原因だ」との説が浮上 [10/09]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1381325987/ 仏事の禁止は庶民の暴走
現代は公務員を庶民が嫌いなように
江戸期の戸籍役場の寺院に対しての反乱 神道から仏教的なものを排除して
純粋な神道を復活させるというのが神仏分離政策だろ
善悪はよくわからないが >>128
それはそもそも無理な話。神道を体系化するのに、最初から(日本書紀の時代から)仏教から
いろいろといただいてきたのだから。ましては、中世神話を経たあとでは、神道の古層など
求めるのは不可能。 小学校で習ったと思うが
伊勢神宮の神殿は唯一神明造という。
この形は高床倉庫を模している。
高床倉庫は何かと言えば
自然の恵みであり日本の文化そのものでもある
米を保管する倉庫である。
ネズミに奪われないように高床になっている。
日本人と日本文化にとっては、稲作が全てと言っても過言ではない。
そして自然の恵みである豊作を得るためには、
自然の摂理を理解し、それを最大限尊重することが大前提となる。
ようするに自然信仰であり、その自然の原点とも言える太陽がその象徴となる。
自然に感謝し、自然に敬意を払う。
その象徴がすべての自然の源である太陽である。
人間は自然には、絶対に逆らえないのだと言う、当然の摂理を重んじている。
人間を特別な扱いに設定したキリスト教とは、ここが決定的に違う。
まあこんな感じだ。神道の原型とは。
仏教の影響を全く受けてない伊勢神宮へ行った事のない奴には
案外、神社と寺の区別がつかないとか言う奴がいるが
たしかに神社か寺か判別不能なものが大半だからな。
伊勢神宮へ行けばわかる。 民意こそを絶対視し最高の理念だと主張する
おもにキリスト教徒に言いたい。
人間はそんなに特別で偉いのか?
神道では人間なんぞ、太陽の赤子の一つに過ぎない。
伊勢神宮の天照大神(アマテラスオオミノカミ)を無理に崇拝しろとは言わないが
神道は自然信仰という人類普遍の理にかなっていると思うわ。 https://www.youtube.com/watch?v=9sNf1ZPtPv4
これは古事記に書かれた神話だが、バカバカしいと思えばそうだが
宇宙で銀河系、太陽系が生まれ、その太陽系の中で地球と人類が発展していく過程を
擬人化して説明したものだと思ってみれば、よく出来てるようにも思える。
たとえば現代の科学をもってしても、人類がどこから来たかその誕生を合理的には説明が出来ない。
自然の摂理では偶然が何度も繰り返さなければ人類は誕生し得ない。
これはありえないから説明は不可能。
だから現在の自然科学者でも、最後は神の意思としか説明できない。
それを古代人がこれだけ空想し擬人化して説明したのは大したもんである。
けっしてバカにはできない。 アダムとイブ=イザナギとイザナミ(最初の男女)
聖母マリア=アマテラスオオミノカミ(太陽神)
イエスキリスト=神武天皇
これらの設定と役割、途中のゴタゴタ等
聖書と日本の神話は、驚くほど類似性がある。
出所はもしかして同じかもしれない。
しかし決定的な違いは、日本が最高紳とするのはあくまでも太陽で
自然信仰が基本。
これは稲作文化による。 まぁ地域によって差があったんじゃないの?
それこそ鹿児島みたいにほぼ全滅したところもあるだろうし・・・
今でもクソ坊主みたいなのは多くいるんだし、江戸時代なんかはもっと酷かった
だろう。260年分の怒りが爆発した結果だろうよ。 >>130
式年遷宮が今でも続けられるのは誰のおかげか!
二人の尼さんがいたからなんだよな。清順と周養。
伊勢神宮はその歴史をどうしようとしてるんだろうね? 明治元年〜明治三年くらいまで神祇官という役職があった。
当初は太政大臣上位・同等、天皇直下の最高位の役職で
主に天皇家の神事の一切を司る職務を担っていた。
廃仏毀釈はこの神祇官時代の勅令のようなもの。
この神祇官を拝命していた人は、中山忠能(なかやま ただやす)。
この人物の経歴は調べるに値する。なにしろ明治天皇の外祖父。
三条実美や岩倉具視などより身分格式が上位。明治維新の陰の主役。
娘の中山慶子は孝明天皇の典侍・側室。孝明天皇の妃、英照皇太后
に嫡子がなかったた、よって明治天皇を実子として認めた嫡母。
つまり、廃仏毀釈は中山忠能は実の孫を明治天皇とし
さらに神格化を推し進める際の最初の施策であった。
神祇官はその後神祇省といった省庁となり徐々に強烈さを薄めて
いったらしい。
中山忠能
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E8%83%BD 廃仏毀釈は、国家神道を作るにあたって神仏分離令が行われ、さらに不平等条約を結ばれたため撤廃するためには、
キリスト教禁教令を解除しなければいけなくなり、神道がキリスト教を受け入れるために行った行為なんだよ。
だから、神道の方がいけなかったんだよね。結果大正デモクラシーが興ったのに、治安維持法で破壊したことでアメリカと対立し、先の大戦を起こし、
戦後は治安維持法と国家神道は廃止され、日本赤軍が暴徒化し失われた平成にしたんだよ。
>>22そうだね。キリスト教を受け入れるためにはなおさらな。本当はキリスト教を国教にしなければいけなかった。
>>38だから九州・東北・北海道は関西嫌うんだよ。 薩摩藩は江戸時代の初期から一向宗を弾圧し、
幕末には廃仏棄釈を徹底的にやって仏教全宗派が壊滅状態となったが、
西南戦争で薩摩軍が敗れた後、東西本願寺が大々的に布教使を送り込んだ結果、今度は浄土真宗ばかりになった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています