徳川慶喜を語ろう
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
まともに語れる場が欲しかったので立てました。
徳川と皇室ともにトップクラスの血を引き、強烈父上への世間の憧れ憎悪をそのまま引き継いでしまい、
思考過程を一切口に出さないままいきなり行動にでてしまう徳川最後の将軍について語りましょう。
周辺人物の話題もOK。
ヘタレ臆病者等々の罵詈雑言には適当にお相手を。 死ぬどころか、榎本は新政府で頭角現していくわけで
(やっぱり優秀なんだな)
新政府辞めても情報は入ってくるだろうし、春嶽はどんな思いで見てたのかねえ
案外ケロっとしてた? 慶喜の悪口をあからさまには言わなかったが含むものはあったらしい 慶喜が公爵になるなんて、予想できなかっただろうね<春嶽 勝海舟は西郷隆盛との会談で江戸攻撃を回避した時、
幕府軍の迎撃プランを示し、江戸が戦場になったら官軍もただじゃ済まないとアピールしたため
江戸攻撃を回避できたというのは本当? >>615
江戸攻撃を回避できたのは薩長のバックだったイギリスが反対したから
篤姫の手紙とかいうのは大嘘
海舟は江戸を火の海にして薩長軍を焼き尽くすつもりだったのは事実 迎撃プランなんて何もない
もし江戸が戦場になったら自ら火の海にするつもりで準備していた 強硬論は西郷大久保だけで岩倉も木戸も慶喜の謹慎で十分だとしていた 西郷大久保の強硬論も、主導権握るためのものだったって見方もあるね
慶喜の決断の大きさを理解していたのは、むしろ敵方ってことか
伊藤博文も大政奉還に感激してたそうだし 200万石を朝廷に差し出せれば完璧だったんだがな
やはり二心様、踏み絵に引っかかってしまった >621
それやったら幕臣連中が激昂して収拾が付かなくなったろう。
鳥羽伏見の開戦が早まるだけになるんじゃないか?
大政奉還から鳥羽伏見までの間の政治日程は、ギリギリのところでの綱渡りをし続けていたようなモノだったから、
あれ以上に上手くやるプランってのは難しかったように思う。 王政復古から鳥羽伏見まで一ヶ月もないから開戦が早まるも何もないのだが
戦争に負けて400万石から70万石まで減らされるよりは、
はじめから200万石減らされたほうがはるかにマシだった ん?ガタガタ言ってきたら300万あげちゃえ
いずれ全部とられるんだから どうせ後世で言われただろう「戦えば勝ってた。慶喜はヘタレ」と >623
>王政復古から鳥羽伏見まで一ヶ月もないから開戦が早まるも何もないのだが
この期間に新政府の主導権争いが行われていたのを知らないの?
松平春嶽や尾張の徳川慶勝などが上手く立ち回って、慶喜が新政権の中枢に参画する
可能性がかなり高まっていたんだよ。
小御所会議で慶喜を露骨に排除しようとした薩摩と長州に対する諸藩からの反発はけっこう強かったし、
幕府の持つ軍事力に怯える公卿衆を繋ぎ止めるのにだって限界が生じてきていた。
鳥羽伏見の開戦があと一ヶ月後にでもずれ込んでいたら、王政復古を行った新政府に
慶喜が雄藩の代表として雄藩会議の議長職にでも付いていた可能性はかなり強い。
それら一切合切が吹っ飛んじゃったのが鳥羽伏見の戦いなんだよ。 会津は新政府を
潰したかった。
慶喜は新政府を
乗っ取りたかった。
そのズレが仇になったな。 会津は新政府の設立という政治構想それ自体を理解し切れていなかったんだろう。
第二次長州征伐の失敗によって幕府の軍事力に対する諸藩からの畏怖心が薄れてしまったことと、
孝明天皇の死去によって宮中における後ろ盾を失ったことによる一会桑勢力の政治力の後退という
二つの要因の重さが分かっていなかったんじゃないか? >>629
ちゃんと文脈を読んで答えようね
開戦までもっと早まるだろ?という意見に対しての回答だから
後ろにずれこんだらなんて話はしてないしwww >松平春嶽や尾張の徳川慶勝などが上手く立ち回って、慶喜が新政権の中枢に参画する
>可能性がかなり高まっていたんだよ。
ねーよw
そいつらはただたんにこのままだと薩長が明治新政府で軍事力にものを言わせて主導権を握りそうだったから、
もうゴミに等しい徳川宗家を担いで操ろうとしただけ。
実際鳥羽伏見が始まったら、速攻で徳川宗家なんて切り捨てた。
慶喜が主導権を発揮して首班になるのも反対、自分とこの藩が主導権を握ろうとしただけ。 容堂が一応岩倉に議定に慶喜の参加が無いことに異議を唱えている ちなみに松平春嶽や徳川慶勝などは慶喜によって政治から追い出された連中だぞ。
もともと慶喜を政権につけたのに、慶喜は実権を握ったら排除しだした。
それが長州征伐の失敗で幕府そのものが崩壊して、薩長の影響が強くなったので担ぎ出しただけ。 >632
>開戦までもっと早まるだろ?という意見に対しての回答だから
こちらもそのつもりで答えているんだけど?
開戦までの間の政治調整が上手くいって、慶喜に新政府内での地位が保証された後に
薩長との武力衝突が起こったのであれば、事態が変わった可能性があると言っているの。
>後ろにずれこんだらなんて話はしてないしwww
君がそう言う想定をしていないのはかまわないけど、現実には鳥羽伏見で戦端が開かれたのは
江戸での薩摩藩邸焼き討ちというイレギュラー因子によって起こった出来事であって、
開戦しないか、もしくは開戦がもう少し後にずれ込むことは充分に想定しうる話なの。 >633
>>慶喜が新政権の中枢に参画する可能性がかなり高まっていたんだよ。
>ねーよw
>そいつらはただたんにこのままだと薩長が明治新政府で軍事力にものを言わせて主導権を握りそうだったから、
>もうゴミに等しい徳川宗家を担いで操ろうとしただけ。
もう少し勉強したら?
新政府内での薩長の主導権なんて、鳥羽伏見で勝つまではそんな大したシロモンじゃなかったよ。
むしろ慶喜に対する辞官納地を要求しているのを見ていて、「やり過ぎだ」という反発が諸藩の間に広まりつつあった。
春嶽や慶勝はその辺の空気を読んで、同じ徳川一門の慶喜の復権を目論んでいた。
薩長が好き勝手やるよりかは徳川の発言力が大きくなった方が自分たちだって優位に立てるんだから。
>実際鳥羽伏見が始まったら、速攻で徳川宗家なんて切り捨てた。
だからこそ、鳥羽伏見が徳川方の負け戦になったのがいかに大きな意味を持つ買って事を理解した方が良い。
鳥羽伏見で負けてさえいなけりゃ福井・尾張をはじめとした、親藩・譜代は基本的には徳川方について
いたんだから、薩長が新政府内でどう立ち回ろうと徳川の発言力は大きく残っていたの。
その可能性を無くしたのが鳥羽伏見の敗戦。
その後の一年間かけて行われた戊申の内乱(上野・北越・会津・函館などでの戦争)は、
その殆どは軍事的な意味での残務処理みたいなモノだったんだよ。
鳥羽伏見で負けた時点で、政治的な意味での結着はついてしまった。
それくらい鳥羽伏見ってのは重要な意味合いを持つモノなの。
>慶喜が主導権を発揮して首班になるのも反対、自分とこの藩が主導権を握ろうとしただけ。
慶喜抜きで福井や尾張が主導権取れるなんて思ってるんだったら、この2人はもっと大物扱いされてるよw
自分たちの仲間のウチで薩長に対抗して主導権を取れる器量を持っているのが慶喜しか居ないって事くらい
この2人は百も承知している。 >>637
>薩長が好き勝手やるよりかは徳川の発言力が大きくなった方が自分たちだって優位に立てるんだから。
間違いですな。その二人が危険視したのは落ち目の幕府ではなくて、
薩長であっただけ、宗家なんてもうなんの力もないが、
薩長はもう既に朝廷を牛耳っていたから影響力を上げるために徳川宗家を使っただけ。
>鳥羽伏見で負けてさえいなけりゃ福井・尾張をはじめとした、親藩・譜代は基本的には徳川方について
ないない、新政府の総裁は長州シンパの熾仁親王である時点で、
新政府の実権は既に薩長に写っているわけ。旧幕府の人間は誰もいないから。
で、今の慶喜幕府に反発していたことで参加を許された、徳川少数派の一門がいただけ。
彼らとしては完全にアウェーなのでもう何の価値もない旧幕府の人間も呼び込んでバランス取ろうとしただけ。
彼らは幕府を立てようとしたわけじゃなくて、自分達の派閥の下っ端として必要としただけ。
彼らに幕府に対する忠誠心とかあるわけがない。ましてや慶喜にはな。
>その可能性を無くしたのが鳥羽伏見の敗戦。
長州征伐の失敗と孝明天皇が死んで有栖川家が朝廷の実権を握った時点でもう幕府は終わってます。
>自分たちの仲間のウチで薩長に対抗して主導権を取れる器量を持っているのが慶喜しか居ないって事くらい
いやもともと主導権を彼らが握るためにやったこと、幕府には何の期待もしていないし、
影響力もなかったからな。 鳥羽伏見の戦い直前の松平春嶽と徳川慶勝の立場が非常に微妙なわけで、
これと岡山の池田、彦根の井伊、淀の稲葉(これは国許のみ)と、
本来、徳川慶喜連合の中核にいるはずの連中が薩摩を支持してしまったことに、鳥羽伏見の敗因がある。 >639
>その二人が危険視したのは落ち目の幕府ではなくて、
>薩長であっただけ、宗家なんてもうなんの力もない
アホか。
越前は32万石、尾張は62万石。
長州は37万石、薩摩で77万石。
これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
幕府権力は崩壊したといっても、実際に国家を運営するための権力に必要なのは
その支配地からあがる勢によって生じる経済力と、それによって維持される軍事力だ。
新政府が束になって掛かったって、徳川宗家を打倒出来るかどうかは
怪しいもんだったよ。
>新政府の総裁は長州シンパの熾仁親王である時点で、 新政府の実権は既に薩長に写っているわけ。
国家統治の実績も能力も無い新政府に何が出来たんだってのw
徳川宗家が叛旗を翻し、それに同調する親藩・譜代が揺さぶりをかけりゃ、
新政府なんてあっという間に瓦解しかねない脆い政権だったんだよ。
>長州征伐の失敗と孝明天皇が死んで有栖川家が朝廷の実権を握った時点でもう幕府は終わってます。
幕府はもう終わっていたよw
大政奉還をしているんだから。
ただ、その後に出来た新政府に慶喜が重要な役職で入る可能性はあったし、それを阻止しきるだけの
政治力も諸藩からの支持も薩長には無かったっていってんの。
お飾りの公卿や何を言ったって、諸藩の動向を無視して薩長が好き勝手やれるような状況じゃない。
当時の日本の総石高は三千万石と言われていた。
薩長を合わせて実収を考えに入れても二百万石いくかどうか。
徳川宗家と親藩を合わせりゃ余裕で一千万石を超える。
残りの一千数百万石を領する諸大名をどちらが味方に付けるかどうかと言う政争を
大政奉還〜王政復古〜鳥羽伏見までのあいだに薩長方と徳川方で行っていて、
鳥羽伏見までは徐々に慶喜の方が薩長の横暴ぶりを印象づけることで失地の回復を行い
逆に薩長側を追い詰めていたってのが近年の研究で明らかにされている。
家近良樹『幕末政治と倒幕運動』
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』
とりあえずこの辺を読め。
あなたの幕末史の理解は粗雑すぎて、最新の研究を踏まえていないから話にならん。 >これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
しかし長州征伐で「及びも付かん」はずの幕府および諸藩を総動員して
たった長州一藩相手にボコボコに返り討ちされているし。 >642
>長州一藩相手にボコボコに返り討ち
相手の地元に攻め込んだからでしょ。
逆に言えば、長州や薩摩が単独で江戸に攻め込めるだけの軍事力を持ってたの?
って話でもあるわな。
そもそも長州征伐で実際に戦火を交わしたのは諸藩の軍勢がメインで、徳川宗家自体は温存されてる。
幕府歩兵も戦闘に参加していたけど、こいつらはそこそこ長州勢をまともに渡り合ってるしね。
その後、この敗戦をきっかけに幕府の近代兵器の装備と編制は一新されていた。
フランスの軍事顧問を付けて戦闘力も強化されていたと見られていたから、
鳥羽伏見でその化けの皮が剥がれるまで、薩長をはじめとした諸藩には
相当の脅威として受け止められていたよ。 陣頭の滝川播磨守は銃声を聞くと一目散に逃げだすなど
強がっても張子の虎にしか見えん。 長州征伐でも強硬派の小笠原が小倉を捨てて身一つで逃走したり
徳川800万石とか旗本8万騎とか強がっても実は中身ボロボロじゃね?
という観測が薩長だけでなく諸藩にも広がっていた。 当の慶喜自身が幕府の見かけの大きさと実際の実力がかなり開きがあると思ったのだろう 徳川宗家の力は確かに強大だが慶喜の政策に幕臣が反発するし
将軍継嗣問題の影響で幕臣の忠誠が薄いこともあって
その力をうまく使えないからな。慶喜は。 というか徳川に使える人材が無いから慶喜が将軍になれたわけだし 長州の表高は40万石に満たないが、実際は100万石以上の生産力があるのだが
近代化の進んだ藩に対して単純な米の生産力で軍事力を比較するのはナンセンス
正直いって薩長が幕軍で多少は戦闘力として脅威となりうると認識していたのは幕府歩兵だけだよ
西郷などは長州征伐の幕府兵力をみて幕軍10に対して自軍1で対抗できると計算していたし、
その見積もりを元に鳥羽伏見における在京兵力を準備していた >>641
>これら全部をひっくるめても、徳川宗家の800万石には及びも付かん。
>新政府が束になって掛かったって、徳川宗家を打倒出来るかどうかは
幕府とそのシンパが束になってかかってきて、
長州一藩にボロ負けしている時点でお話にならない。
>国家統治の実績も能力も無い新政府に何が出来たんだってのw
薩長が実質統治するんだから問題ない。無能な幕府と違うからな。
>徳川宗家が叛旗を翻し、それに同調する親藩・譜代が揺さぶりをかけりゃ、
現実には朝廷が立ち上がったら、西日本の諸藩が雪崩をうって新政府に恭順しただけです。
親藩譜代すら新政府に下ってますな。
>ただ、その後に出来た新政府に慶喜が重要な役職で入る可能性はあったし、
薩長がうんと言わない限りありえない。よってありえん。こ御所会議は薩長が完全に握っていたからな。
薩長の専横に反発する一部の連中がいただけ。メンツ見てみろよ。
>逆に薩長側を追い詰めていたってのが近年の研究で明らかにされている。
そんな事実は存在しません。長州シンパの有栖川が総裁になった時点で徳川家は相手にされていません。 >>643
実際は当初切り捨てる予定の大島以外長州には攻め込めなかった。
長州から逆激をくらって大敗した。
芸州口だけは浅野家との関係上進軍をやめただけ。
尾張藩は親幕府の人間を処刑して忠誠を誓い、東海道の諸藩にも圧力をかけて素通りである。
薩長は幕府がどんなに抵抗しようとあっさり倒しただろうね。
彰義隊と同じで一日で倒される。 小御所会議は強硬論が押してたけど、徐々に妥協した
新政府内で強硬論への反発が増えてきて、孤立しかねなかったから
大久保もいったんは、慶喜の議定任命に同意した
鳥羽伏見まではね
慶喜自身、幕府軍の限界は知っていたでしょう
それでも牽制には使える、って考えだったんじゃないか
戦闘に積極的だったのは会津桑名
この2藩が暴走したら、収まるものも収まらなくなるので、抑えようとしてたけど、駄目だったと 鳥羽伏見開戦までは、武装解除に応じなくても、交渉は続けていられた
抜いちゃいけない刀だと、分かってたのは慶喜だけだった
何より勤皇の人だしね ちょっと訂正
辞官納地は、慶喜は応じてたけど周りが反発したからね
その周りを静めるために、新政府との交渉が続いた
落とし所を探ると言うか >>656
だな
結局幕府に人材がいなかったのが全て
江戸退去後も慶喜と三舟他数人だけで戦後処理したわけだし 幕府に入った将軍はしばらく慣らし運転したあとで、人事を入れ替えて自分の体制を作っていく
しかし慶喜が江戸に戻れないんだから
おまけに慶喜の腹心の原まで幕臣に殺されてるんだからどうしようもないわ。
>>652
幕長戦争の失敗は長州要因以上に幕府要因のほうがでかい失敗。長州要因は関門海峡封鎖くらい。
緒戦から本荘宗秀の勝手な和平工作で茂承が辞任騒動起こしたり、
小倉口で幕府海軍が艦船の損傷を惜しんで動かなかったりぜんぜん統制が取れず慶喜が出馬しようとしたときにはもう解兵
鳥羽伏見も慶喜の上洛工作を楽観視すぎて、部下がろくな包囲戦略も立てず両街道から押し出してしまったんだろ
この段階で慶喜ブレーンが形成されて幕軍を抑えてたら上意を徹底できたのに 水戸藩士に殺されたのは旗本の平岡で
水戸藩士の原は幕臣に殺された 慶喜の評伝いくつか読んだけど、臨機応変って評価されにくいのかね >>662
白虎隊()や特攻隊()が評価される国なので
この国に君子豹変すという言葉はない 日本人の好む美学からはもっともかけ離れた人物だろうな
だからといって中国人や朝鮮人たちから評価されたとしてもそれがなんだって気もするが 知り合いのおじいちゃんが慶喜は護身の為に懐に手裏剣を忍ばせてたって聞いたけど、本当かなぁ? 背負う物が大きいほど、また増えるほど悩むわな
後世の人間としては、簡単に慶喜を優柔不断だのと言えないなあ 遠い先祖さんが慶喜に近い人だったんだけど、「慶喜さんは可哀想だった」って代々言われ続けてる
優しい人だったんだと 幕末当時を生きた人間が、慶喜を理解できないor立場上認めたくないってのは、まあ仕方ないけど
没後100年経っても、まだまだ冷静に見られないんだね
後世の人間のメリットは、多面的に歴史を振り返ることができる点だと思うけど 後世の人間がやったことは会津観光史学を捏造したことだけ >>666
それは言える
結構好きだよ慶喜さん
保身に走ろうがどちらかが引いてくれないと日本の夜明けは来なかった
徳川が引いてくれて良かったよ 別に難しいことはない。
インテリのエリートは、普段は勇ましいが、いざとなると暴力に弱い。
それだけのこと。 蛤御門のときは勇ましかったんだがな
鳥羽伏見のときは頼みの薩摩まで敵に回して、もう潮時だと思ったんだろう 慶喜が薩摩をうらむ気持ちがわからんでもないが、それも自業自得な面がある この人については、有力なスポンサーと対峙して最後に見放された英雄と位置づけるのが適当だな
薩摩さんは先代から目をかけてやったのに慶喜に裏切られたから、じゃあ俺たち主体で幕府ごと倒してやるぜって流れだろう 徳川埋蔵金・・・
ないとしか言えない=誰もが見つける事が出来ない=誰もがゴール出来ない
頭のおかしそうな奴や、デブ等の社会で虐げられている奴らが、自分こそは一番なんて気持ちになれる埋蔵金。 最初の孫徳川(溝口)須美子
最後の孫徳川(井手)久美子
その差34歳 家康が15代将軍だったらどうやって薩長を押さえ込んだであろうか?
どうやって幕威をもりかえしたであろうか? 終わりかけの組織だし、家康であろうが信長であろうが盛り返すのは無理でしょ
圧倒的な大軍で長州へ攻めるが、家来の旗本が戦が恐く隠居しまくり大敗
アウェーでは負けたが、今度は京大阪のホームで3倍もの軍勢で攻めるがまた敗退
江戸で巻き返そうとして数人で江戸へ逃げたら、家来まで後で逃げ帰ってきた
江戸初期の家来なら、関ヶ原伏見城攻防の際の鳥居みたいに、討ち死に覚悟で篭城していたのに
こんな家来どもでは誰が将軍でも勝てん
家康が幕末にいたら、将軍などにはならず密かに薩長と手を組み
自分だけ明治維新では有力どころになった気がする
慶喜という人物は石田三成に似た立場に思え、共に優秀なのだが秀才タイプで
勢いに乗ってる組織、また平穏な時代においては優秀さを発揮できるが
乱世の逆風の組織において色々最善の手を打つが、打つ手打つ手が敵側の勢いにひっくり返されてしまう
では慶喜や三成がいなかった方が良かったかというと
相手側からすると、もっと楽に天下取れてたと思う。例えば平家に対する源氏みたいに 信長だったら、早い段階で御所焼き討ち、薩長派公家皆殺しの上、明治天皇を拉致監禁くらいやりそうな気がするが。
そうすると薩長側に寝返ろうとしていた藩もビビって、戦局はなお流動的になるよね。 家康と本多正信がいれば薩長を分断し各個撃破することなど朝飯前。
でもその前に、古い幕府の官僚組織を破壊していたであろう。 慶喜は言うことがコロコロ変わるため、味方のはずの
一橋派の大名たちに、徐々に信用されなくなっていった。
これは慶喜にとって大きな痛手となった。
まあ、現代の20代の若者に比べたら数段ましかもしれないが。 >>683
実際には長年の支配で幕府側にはそういう人物が出なくなっていたのだろう
戦国三傑に相当する人物は薩長から出てきたということであろう >>681
なんか可哀相だな、溢れるような優秀さを持ってたのに
時代によって負け組になってしまうなんてさ、自分がその才気を持ってたらと思うと憤死しそうだ
酷い目にあった人が大量にいるとは分かってるけど。
慶喜さんのその後の人生が趣味三昧で楽しかったなら良かったねと思うわ .>>686
>自分がその才気を持ってたらと思うと憤死しそうだ
そういう自分を過大評価する人は
どんな時代でもうまくいくことはないと思われw 才子だったがそれだけだった。幕臣の家にでも産まれていれば、
明治政府初期の官僚として活躍したかもしれない。 鳥羽伏見の戦いに先頭に立って戦うと言って部下を騙し、自分たちだけ大阪城を抜け出して逃げていったのは命が惜しかったからとしか思えないな。
敵前逃亡罪で斬首されてもおかしくない行動だ。 保身に走ったことは確かだがその保身が内乱の泥沼化防いだ気もする >>690 内乱の泥沼化を防いだのは謹慎して何もしなかった慶喜でなくて、官軍との交渉を任された勝海舟だろ。 でもしゃしゃり出なかったのは、大きいだろ
慶喜がバカだったら、アホに担がれて出てたと思う、勝に任せたのは賢い
自分の保身を優先したけれど、大局を見切る力はあったんじゃね 【会社の即戦力の定義とは】
「社会の一員として人々の役に立つ価値を提供すること」
会社にとって喉から手が出る程欲しい人材とは、
この求められる価値を提供するために、解決すべき
課題を正しく共有し、一緒になって価値を生み出す
ことが出来る人材なのです。
ところがJALグランドサービスの即戦力って言っている奴らは自分の気の合う人には仲良くするけど
気に入らない人間には粘着してとことんまで罵倒したりパワハラしたり自分にはとことん甘いくせに人の揚げ足ばかり探して
仕事中も喋ってばかりで口元緩んでばかりじゃないか
瑞謔ノ暴言を吐けbホ自分が強いと試vわせることがbナきるなんて考bヲているみたいbセけどそれは違b、
それは弱い動物がキャンキャン吼えているのと同じことだよ
JALグランドサービスは仲良しクラブ会社 仕事中 趣味の話で盛り上がって手が止まってんだよw
たまには仕事まじめにやったらどうだね? JALグランドサービスは貧乏性でテーブル拭いて汚れたタオルを次の清掃場所
さらに次の清掃場所にもっていって汚れたタオルを使えっていってきた
タオルからはなんともいえない臭いが漂い色もケチャップやなんやらがこびりついていて汚かった
お客さまのためにを毎日言っている会社なのになにこれ? 矛盾してるよね?
青タオルはウンコがこびりついていて汚い それをキレイなタオルといいラバーのほかギャレー
床のゲロ掃除などさまざまなところで活用している
バケツにそのタオルを濡らすとき気持ちが悪い バケツもすごく汚いよね
バケツ洗っているところみたことがないし
JALはこんな会社です
白タオルは生乾きで蒸れた悪臭がしている それでお客様がつかうテーブルを拭いているんだから
あのテーブルは菌をひろげているようなもんだ 俺がJALグランドサービスで働いて10ヶ月ぐらいバイトで経った頃
課長が代わって千代っていう馬鹿課長になったんさ
前の課長はまだ部下 したの人間の言い分も聞いて器のでかさがあったけど
その後きた千代って言うのがとんでもなくアホ
俺が周りの係長とかに苛められているという事実も今まで周りから不愉快な言いがかりや
暴言などを耐えていたという状態も知らず俺を悪い奴と決め付け絶対俺をやめさせると
いい 毎日のように粘着し ついには俺を会社から追い出すという暴挙にでた
「お前みたいな使えない奴を長くいさせるよりかは訴えられて賠償金を払ったほうが安くすむ」という暴言も吐かれた
それから「俺は今まで自分が使えないと思った奴を辞めさせてきた」と俺に豪語したこともあった 車の中で機内のお菓子を食べたりしていたよ
あと係長が機内においてあった古新聞を一人で別の仕事をするとき車の中に持ちこんでいた
これ二つともやってはいけないこと
飛行機の中の物は外に勝手に持ち出したらいけないのにもしかして係長になったら許されるとおもってんのかな?
フィロソフィとかつくってもなにも役に立たないね
こんなことばかりやってるからJALグランドサービスは屑会社とか馬鹿会社とか言われるんだよなw 中国系列の飛行機を掃除していたとき 班長 その他数名が仕事中喋ったりふざけて遊んでいました
私はラバー(トイレ)を夢中で掃除をしていていました
そのときトントン トンと私の肩を叩く人がいたので振り向いてみるとその飛行機のクルーの一人が
目を吊り上げて私の前に立っていました
そして私に「あの人たち 口を動かしてばかりで仕事しない 注意してきてくれ」と私にいいました
私は急いで係長にそのことを報告しにいきました 班長はその横で口を緩ませてヘラヘラしているだけでした
他社からあいつら喋ってばかりで仕事をしないといわれても恥じもなく 適当な仕事を他社に見られても平気な
JALグランドサービス
このことでその飛行機会社からは信用を失い二度とJAL系列に仕事を任せないと
決断してくれることを切に願うばかりである JALグランドサービスはパートやアルバイト、契約社員に対し若い正社員ですら横柄かつ高圧的な言動(恫喝行為など)を取ることが常態化されていて
それを正せる上司が一人もいないというのが特徴の会社 JAL客室ではゆすりたかりが毎日普通に行われている!缶コーヒーをある一般職に班長係長課長までが当たり前のようにたかっている!全く腐りきった会社だよ!!何がコンプライアンス教育だ(笑)先ずたかっているおまえらが襟を正せよ。 人が見えにくい場所で係長がとある気弱な社員のわき腹を殴ったり
蹴っ飛ばしたり頭を殴ったりしていた
あれをパワハラといわずになんていうのか?
こんな屑なことばかりやっている悪質な会社JALの傘のなかでふんぞり返っているのだから
JALそのものがたいしたことがないといえるだろう
班長 係長 課長とも人間としての品格を疑うことがおおい
常軌を逸した行動を認知していながらそれを容認しているJALグランドサービス
フィロソフィなどただ毎日口にだして読んでればそれで満たされる
ただそれだけのもの どんなりっぱな言葉を並べたとこでそれを毎日読んでる人間が
バカじゃ意味がない 陵辱 ひとの足をひっぱったり人を不幸にしている
JALグランドサービスが物心両面の幸せだと? 笑わせるなw クズ会社がw 慶喜の妾が産んだ子は商人に里子に出されて初めて親父に会った時には「チャン!」と呼んだそうだな。 天皇が江戸城に入ったまま居座っちゃたじゃん。
あれなんでだろうね?
江戸城には幕府の金があった。つまり国家予算。
空っぽだったと言ってるけど信じられないな。
小栗が持ち出したとか言ったりもするけど、普通は国家予算を空にはしない。
江戸城にそれがあったから天皇は居座ったんじゃないの?
そしてそれを一部の者たちの既得権益にしたんちゃうの?
金儲けのため財閥の資金にしたり、一介の浪士が貴族として振舞うためにも金はいるもんな。 幕末になるともう水戸、尾張、紀州の徳川家といっても他人みたいなことになっているな。
そりゃ250年前の先祖が同じなどといっても親近感はないだろう。 お互いにあそこはイトコのイトコのイトコという間柄だ、という関係だろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています