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箱石さんらの調査で確認されたのは、1868年の文書3点。いずれも、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読、日本語に翻訳した。

 (1)7月31日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。
ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。←チェック!!
(2)10月8日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。
(3)10月18日付で、海相から宰相への返事。

 この年は5月に江戸城が明け渡され、7月初めに上野で新政府軍と彰義隊との戦いが決着。戦争の舞台が東北へ移る緊迫した時期の交渉。
両藩は武器入手のルートや資金の確保を目指したとみられるが、ブラントは「北日本が有利になれば、この申し出は大変重要な意味を帯びる」とも記しており、政治的な狙いも込められていたようだ。

 会津は京都を舞台に長州と激しく対立、庄内藩は江戸警備を担当して薩摩藩邸を襲撃したことがあり、両藩は同盟関係にあった。
北海道の領地は北方警備強化のために1859年に幕府が東北の有力6藩に与えた。会津藩は根室や紋別を、庄内藩は留萌や天塩を領有していた。

 箱石さんは「敗者の歴史は忘れ去られ、この交渉も日本にはまったく記録がない。会津と庄内は土地を提供することでプロイセンを味方につけようとしたのだろう。
戦争が長引けば明治維新に違う展開があったかもしれない」。

 明治維新を研究する東京大の保谷徹教授は「会津・庄内両藩がよくぞここまで国際活動を展開させたなと驚いた。歴史にはまだまだ知らないことがたくさんあり、その答えが海外に眠っていることを示しているのだろう」と話している。