【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
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>>2
> さて、楢山は岩倉具視と会見する。楢山は、あくまで朝廷のご意思を確かめたい一心だった。あのザマは何だ?朝廷がお
>認めになってのことか?一方岩倉は、こうした楢山の焦燥が透けて見えるようだった。「ほほう、薩長が憎いな?好く奴なん
>ぞおらん。所詮、朝廷は兵力を持たぬ故・・・奥羽はどうじゃ、薩長を凌ぐ連中はおらんのか。貴公はどうじゃ?天子様の思
>し召しを得たいとは思わぬかの?グフフフフ・・・」
> 岩倉の思わぬセリフに楢山はギクっとする。何が言いたいのだろう!薩長に倒幕をやらせたがどうも好かん、ということか。
>朝廷も一筋縄ではないらしい・・・ねるほど。
> 奸物の中の奸物を前に、楢山はまな板の上の鮭のようだった。この単純極まる盛岡人は、陰湿なお公家さんの生態や、
>壮絶な朝廷工作の世界に疎い。会津といい、南部といい、結局のところ「騙された」のだ。
倒幕の首魁である岩倉がこんなコトいうかよw
自分たちの目論見をモロに駄目にする発言だろうに。物語もいい加減にして欲しい。美化しすぎ。
単に、上下関係がなくなったら、昔無茶なコト言っていじめた人に復讐される恐れがあるから、上下関係が保てるトコに
肩入れしただけだろ、楢山佐渡は。 鳥羽伏見の時に畿内にいたのに反新政府活動するとは、よっぽど見る目が無かったなんだな楢山佐渡。
新政府軍が関東鎮定するのに四苦八苦してたから、いける!と思っちゃったんじゃない?
当時は倒幕派も仙台藩に結構期待してた節があるし。 いや、その岩倉発言は一概に否定できないよ
楢山の上洛時は新政府内部でも穏健派と主戦派のバランスが後者に大きく傾いた時期だが、
当時に穏健派が勝算を持てずに平和的解決を模索した時期でもあった
岩倉が楢山に「自分は主戦派には必ずしも同調しない」と思わせるような感想を漏らしても不思議ではない
それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね
例えば広沢真臣も当時、米沢藩の宮島に対して会津の帰順を優先してアドバイスを行い、
宮島はそれが新政府方針だと思って奥羽鎮撫のために飛んで帰ってる。実際は広沢とは違う方針になったけどね。 >>6
否定できない、という見解以下の文章の筋が全く通っていない。
>楢山の上洛時は新政府内部でも穏健派と主戦派のバランスが後者に大きく傾いた時期だが、
>当時に穏健派が勝算を持てずに平和的解決を模索した時期でもあった
上の文に根拠なし。漸次進軍という見解が早々と否定され、一日も早い江戸進軍へ改められた時期だった。
>岩倉が楢山に「自分は主戦派には必ずしも同調しない」と思わせるような感想を漏らしても不思議ではない
>それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね
この時期の岩倉の見解としては不思議この上ない。意図も感じられない。
拙速進軍を主張したのは西郷隆盛と共に岩倉具視だったのだから。
やはり、この楢山佐渡の「岩倉に騙された」発言は、楢山自身による藩内への扇動材料や言い訳に過ぎないように思える。 まぁ>>3で引用されてる様な発言が事実だったとしても、
「奥羽諸藩が連合して勤皇の兵を挙げれば、薩長の専横に対抗できるよ!」
って解釈になると思うが、普通w
しかし、往路でも復路でも新政府軍の陣容を目にしただろうに、自藩を鑑みて何か疑問に思わなかったのかね。 >>7
一日も早い江戸進軍に改められた時期どころか、
江戸進駐後の白石盟約書の段階でも広沢が会津藩の穏便な帰順を模索して宮島を色々心配してるんだよ
江戸への拙速進軍を主張することと、その後の彰義隊処分や奥羽諸藩の帰順に関しては意見食い違ってる人普通にいるし つうか江戸進撃は東国諸藩の迎撃態勢が整うまでに帰服させ、
慶喜に圧力かけて敵本拠を一刻も早く抑える意味で重要だけど
奥羽諸藩はこの段階で勤王も佐幕もなかったんだからいたずらに刺激する必要ないじゃん
会津庄内両藩問題が浮上するんだけど、無血で帰順させられればそれに越したことはないでしょ。
岩倉がそれに近いことを言った可能性は否定できないよ。 焚き付ける必要がないなら、岩倉具視が上記の煽りをやったという論拠がさらにない。 >>9-10
頭の中に感情的な結論が先にあるから、
このような「Aだ、ここもAを示している。だからAじゃなくてBなのだ」という変な文章になってしまうのだろう。
煽る必要がないなら、焚き付ける必要はないだろう。
先の発言は岩倉の発言というよりは、楢山が頭の中ででっち上げたものと考えたほうがよい。
南部藩は楢山の感情に踊らされて、勝てない相手に戦いを挑んでしまった。 >>12
焚きつけたとどこで言ってる?>>6で
>それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね
とはっきり言ってるんだが。お前のほうこそこの時期の穏健派と急進派の対立を知らないんじゃない?
岩倉は鳥羽伏見前の慶喜下坂後にも上洛を要請してるじゃん
お前の意見てむしろリアリスト岩倉を単なる脳筋に貶めることだぞ
ちなみに新政府の内情への分析に手が回らず、意思疎通した人間を新政府の意思の代表者と思い込むのは
この時期の奥羽諸藩の要人の特徴。 それと>>3のような発言がない=楢山の脳内でっち上げ と言う頭の痛い短絡があるが、
岩倉が>>3みたいな発言をした、と誰が言ったよ?こんな漫画みたいな発言するわけないじゃん
ただ、単に新政府の主戦派と岩倉が必ずしも意見が一致していないと思わせるような様子を見せただけでも
出来れば避戦したいのが本音の奥羽諸藩の士にとっては影響が重大だよ
新政府内部を「薩長の主戦派」「それ以外」に分けて、後者の復権による調停に期待する傾向が強くなる
但木土佐が簡単に佐賀藩兵の上陸を許しているのも同じ思考構造 >>13-14
根拠を欠いた泥沼論理を表明してもらっても、
楢山が岩倉から嘘をつかれた、と幕末東北正義論の人々は根拠もなく声高に語っているし、
その話の全ては楢山の口一つしか出所がない、当時の新政府の事情を逸脱する奇怪ないいわけであったことも確か。
江戸進軍を強硬に主張していた西郷隆盛と岩倉具視から、この時期に新政府と対抗する別組織設立への誘いなどは出てこない。
但木土佐なら声高に言いそうだが、それでは南部藩内で支持は得られなかったのだろう。
楢山を擁護する論理としも、岩倉にこんな発言を言われたと当時の岩倉の立場も考えずに書き散らす、
その上、当時の状況も考えずに岩倉ならこんなことも言ったとしても不思議はない、という根拠のない断定を書き散らすのはすっぱり諦めるべきだろう。 >>14
いや、流石に後者はどうかな。
新発田藩みたいに最初から全力で根回ししまくってたならまだしも、そんな形跡ないし。
新政府内の穏健派が目指してたのは、戦争なしでの奥羽帰順だろうし。
ただ朝廷に弓を引いても新政府内の穏健派が味方できるわけじゃないし、
楢山も流石にそれぐらいは理解できたんじゃないかと思うのだが。
ああ、でも列藩同盟が数年ぐらい頑張れば、穏健派が力を持つことも有り得たか?
それでも見通し甘すぎたなw 楢山佐渡の度々引用される、「岩倉具視が薩長に対抗しろと言った」発言は、
但木土佐ら仙台藩関係者による列藩同盟側での参戦勧誘を、仙台藩と関係の悪い南部藩で触れ回るために、
言った人間を但木土佐から岩倉具視に挿げ替えて、楢山が言いふらしたものだと思います。
岩倉具視は当時西郷隆盛と共に、拙速編成による一日も早い江戸進軍を強く主張しています。
その本人が新政府に対抗する組織を作れ、と言い出すとは思えないのです。
楢山佐渡を庇いたいあまりに、当時の情勢を歪めて解釈するのはよくありません。 >>15
おめえ〜は人の言うことを良く聞けよ。
江戸はすぐ制圧する必要があるが、攻略段階で会津以外の奥羽諸藩を敵に回す必然性はゼロだろ。
奥羽諸藩は天保飢饉でピーピーで戦争を起こすほうが悪と言う発想なんだから
(だから仙台藩は但木政権の前は会津との交渉でかなり厳しい態度も見せている)
岩倉は王政復古クーデタも断行したけど、その後に慶喜側が形勢有利になると上洛工作に転じただろう
西郷と岩倉は同じ江戸進撃派でもスタンスが違うし、常に同調していたわけでもない
岩倉は万が一、新政府の東国諸藩平定が長引いても色んなスタンスを取り得るように考えてたんだよ
木戸と西郷だって慶喜処分問題で違うんだぞ
あり得ないあり得ないと罵るけど、広沢宮島交渉が江戸進駐後に行われたことをどう説明すんだよ
>>16
うん、だから楢山のスタンスも中立ではないのね。東とかなら全く違う結論になっただろう
しかし一点間違ってるのは「朝廷に弓を引く」と言う意識だけど、
奥羽列藩同盟はあくまで九条総督の真意に従い、君側の奸を排するからこっちが真の勤王だと言う理屈で、
九州諸藩にはまた別の態度を取ってる。それと会津城下突入は新暦でちょうど今ごろなんだよな。
もし大村の「枝葉を刈る」戦略を実行していたら会津攻撃が冬までもつれ込んだ可能性もある
戦争で勝つことによって主戦派は穏健派を乗り越えて主導権を確立していったから、
数年もかからないよ。我々は後世の歴史から判断しがちだけど、当事者の主観を考える必要がある
例えば広沢から寛大な条件での会津帰順の忠告を受けた宮島は列藩同盟の不可を必死で説くが
同盟成立の興奮で全く耳を貸してもらえず、「貴様は京で籠絡されたのだろう」などと罵倒される有様だった まあ太平洋戦争の時の日本もドイツが勝てばそのうちアメリカは和平論が出て折れる
なんて予想で三国同盟に突っ走ったわけだから、それと似たようなもんだな。
新政府軍は大坂は接収したけど、江戸の上野戦争までは迂闊に手を出せなかったから
あながち的外れでもない。ただ自分たち(同盟側)については完全に読み違えていた
奥羽列藩内の主戦派は、「戦争拡大回避」と言う至上命題に完全に背く行為をしてるんだから あと、南部藩は仙台藩に一揆の件で借りがあったけど、これは特殊な例ではない
この時期は諸藩は自力で民衆暴動に対処できず近隣諸藩・幕府と共同歩調を取る傾向があった
家近氏などもこの時期の諸藩の動向をそう分析している
また佐幕傾向を強めた藩主の下で出頭した人間は、河井のように藩主の意向に近い傾向があった
岩倉に拘ってる奴は「岩倉がそんなことを言うわけない」と言うんだろうが、それははっきりその通りだよ
リアリスト岩倉は楢山に反乱の使嗾なんかするわけがない、ただ楢山が西郷と岩倉の間で新政府は決して一枚岩じゃないな、
と観察できるような情報は与えてる可能性はかなり高い。 >>18
あなたはまた、根拠のないことを書き散らしている。
敵に回す必要がないのなら、なぜ「薩長に敵対する同盟を作れと岩倉が言った」という楢山の言を真実と看做さなければならないのでしょうか。
この言葉は当時の情勢及び岩倉の政論からはありえず、最大限好意的に解釈しても、
但木土佐の言葉を仙台藩家老では南部では聞いてもらえないから岩倉と相手を変えて言いふらしたものだろう、ということです。
>おめえ〜は人の言うことを良く聞けよ。
あなたの頭の方が奇怪です。 鳥羽伏見の戦い直後、小御所会議は徳川慶喜及び会津藩への朝敵宣告と、仙台藩への会津藩討伐を命令しています。
この会津藩討伐に南部藩も参加するように、という趣旨なら岩倉の話は分かる。
しかしそれはあくまでも、朝敵宣告を受けた徳川慶喜・会津らの排除が目的となり、小御所会議の新政府軍への敵対団体結成勧誘ではない。
会津を討伐し新政府の陣営に参加した上で、権力争いとしてのバランサー志向を気取るのならともかく、
最初から新政府とは敵対する列藩同盟を作っておいて、バランサー気取りとは片腹痛いとしか表現しようがありません。 お前結局、史実をまったく踏まえてないね。
何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
>>3で言われてるのは妄想。
ただし、新政府が会津(追加的に庄内)攻撃方針を貫く限り、
天保飢饉で極度の財政貧窮にある「会津以外の」奥羽諸藩は迷惑この上ない。
なぜなら…のちに久保田藩が現実にそうなったが…最前線に立つのは奥羽諸藩だから
鳥羽伏見で公然と新政府に敵対状態に入った徳川宗家に比べて、
この時期の「会津以外の」奥羽諸藩は長州征伐の先例に倣い、首謀者差出での処分に希望を繋ぐ人士が多かった
岩倉は対幕強硬派に分類されるが、そういう雰囲気を読むのもまた巧かったんだよ
江戸攻撃の段階で出兵に消極的な奥羽諸藩の藩士が、西郷に代表される主戦派に必ずしも同意していなければ
とりあえず新政府の方針は別物だと示唆して宥める必要性は極めて高かった
新政府も大坂を占拠し当座の軍資金を確保したとは言っても、
江戸を制圧するまでは奥羽諸藩を少なくとも友好的中立の状態に置いておく必要があった
(広沢に見るように、会津藩の責任論を棚上げにしても、江戸進駐後も奥羽諸藩の準同盟国化に気を配った人間もいる)
同じことは対会津藩方針に言えることで、この時期仙台藩の遠藤は会津藩の梶原に
「首謀者なしとと言う回答は何事か」と極めて厳しい叱責を飛ばし、撤回させたりしている。
そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
と言うストーリーのほうが不自然なんだよ しかも岩倉の場合、慶喜を新政府人事から外すクーデタに同意しながら、
その後、尾越両藩の周旋による巻き返しが始まると上洛工作に協力した前歴がある
岩倉は慶応3年段階では討幕派ですらない。常にベストでなくベターを模索するリアリストであるわけ
官軍の勝利とともにこの種の戦争回避論は次第に退潮していくけどね
楢山は、岩倉と西郷を秤にかけて前者を重視したことももちろんだが
その点は新政府穏健派は幕軍の激しい抵抗を予想していたから、どっちもどっち。
それよりも「なぜ避戦が出発点でありながら、慶喜が恭順した新政府軍と戦闘状態に突入する政策を選んだのか」
と言う所に根本的な矛盾があるわけだよ。
これが奥羽越列藩同盟をリードした指導者たちが等しく抱える問題点だった >>23
>何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
楢山は、岩倉が「薩長の唱える勤皇が必ずしも真の朝命ではない。奥羽が薩長の専横を抑えるのも、また勤皇の道だ」と言ったと主張し、
いわゆる幕末東北正義論を掲げる地域史家や小説家は、これを元に楢山は被害者だったとまくし立てております。
しかし、これを岩倉の真実の発言と考えることは、不合理しか生みません。
何故なら岩倉は西郷隆盛と共に、一日も早い薩長新政府軍の江戸への進軍を主張した人間なのですから。
>そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
>と言うストーリーのほうが不自然なんだよ
また、>>23の考察からも、岩倉が薩長と敵対する同盟を作れといったことは考えられず、あなたの考えの方が不自然です。 最低限の結論として、楢山が岩倉との会談で何らかの新政府内の温度差を感じとり、
岩倉の意見から何らかのサジェスチョンを得た可能性は高いと思われる
この時期に目時、中嶋らの出奔、自刃事件が勃発しているが、
彼らが死を賭けて抵抗したのは、上洛中に楢山が最終的な決断を固めたからだと考えないと辻褄が合わない
それと南部藩の場合、出動の時期が同盟主力の諸藩に比べて非常に遅いんだよな。
ギリギリまで迷っていたと考えないとこれも辻褄が合わない。
楢山が主戦論者ならもっと早く仙台藩に呼応しないと不自然。 >>25
まず「東北正義史観」なんて非学術的用語を使ってる時点でお前は頭がおかしいわけだが
>岩倉が薩長と敵対する同盟を作れ
なんてことを言うわけがないとちゃんと言ってるじゃないか。
しかし、少なくとも新政府内に温度差があることを楢山に示唆した可能性は高く、
それは西郷との不和と言うより、江戸攻略がまだ完了していない時点で奥羽諸藩を敵に回す必然性がないから
に他ならない。別に岩倉でなくたって、出兵は嫌なんですよねって顔をしてる中立藩にはフォローするだろうよ >>27
>まず「東北正義史観」なんて非学術的用語を使ってる時点でお前は頭がおかしいわけだが
あなたの方が変です。この時期を扱う一部小説家や郷土史家の偏執は度を越しています。
>>6
>いや、その岩倉発言は一概に否定できないよ
あなたは>>3は否定できないといっています。言を挿げ替えて自己正当化を図っても旧悪はすぐ上にあります。 岩倉のこの時期の発言は、
・会津(初期には徳川慶喜も含む)討伐軍への参加勧誘
・新政府への参加(による新政府内の薩長独走の抑止)
程度のものでしょう。
間違っても、楢山が帰国後主張したような、新政府への全面敵対同盟の形成ではない。
それでは当時の岩倉の政論と逆行する。 ああ>>3はバカバカしいからよく読んでなかった。
その岩倉発言はと言うのは言葉足らずだったな。
そこで元ネタに当てられてる岩倉発言はと言うほどの意味だったんだが。
いま否定するよ。それでいいんだろ。
>間違っても、楢山が帰国後主張したような、新政府への全面敵対同盟の形成ではない。
楢山の帰国時にはとっくに奥羽列藩同盟は出来てるよ。 >岩倉のこの時期の発言は、
>・会津(初期には徳川慶喜も含む)討伐軍への参加勧誘
>・新政府への参加(による新政府内の薩長独走の抑止)
>程度のものでしょう。
1月に会津藩追討は発令されてるし、九条総督が3月に仙台入りして
3月下旬には会津藩境を仙台藩が出兵、その後恭順を仲介する運びになっている。
楢山はこのような状況を横目に上洛しているわけで、その推測はタイミングが遅れすぎ。
この段階で南部藩を新政府側に引き込む目的なら、それ以上のことを言わないといけないはずだよ。 >>31
全く納得できる発言ではありません。
楢山の京都滞在期には仙台藩は初期は新政府側、
のち離反、九条総督を拉致監禁の上で列藩同盟を標榜し、
九条総督の名の下に新政府の下に組織をつくり新政府に敵対するという、変則的な行動に出ています。
そのため、新政府の派遣した軍に「薩長じゃないから天子様の軍だ」などといいながら監禁していた九条総督を委ねてしまう訳ですが。
滞在の初期に面会があったのなら、岩倉の発言は上記の通り、
滞在の後期に面会があったのなら、岩倉の発言は更に具体的な、
南部は仙台を後ろから襲え、賊たる仙台から東北を取り戻せ、というものとなったでしょう。 滞在の初期だろうが後期だろうが岩倉は一貫して主戦派と言うわけねw
まあ最初から無根拠にそう決めつけられてもソースなしなわけだが、
少なくとも楢山上洛後に会見が開かれたとすれば、江戸無血開城交渉は既に成立したわけなので
「岩倉が江戸進撃派」だったことをもって楢山への態度は説明できないよ。
西郷のように江戸進撃派ではあっても彰義隊処分では微温的な態度に終始した者もいるのだし 前に河井スレで何度も論じられてたけど、河井の中立は本当に偽装中立だったのか
佐々木克が唱えてから通説になった感があるが、疑問が残る 反新政府の方針を決議した酒屋陣屋の会談に思いっきり参加してるから、
中立交渉は米沢藩が到着するまでの時間稼ぎでしょ。
会津藩も、最初から全力で疑われてた新発田藩には会津藩士を監視人として入れろよとか
中々無体なこと言ってるが、長岡藩に対してはそんなことないし。
つか、既に同盟軍と新政府軍が長岡藩周辺に展開してた状態で武装中立しますとか、
そんな両方の軍から敵認定されてもおかしくないメルヘンなことを河井ほどの男が
本気で考えていたとは思えない。 奥羽列藩同盟も久保田藩は当初参加したけど離脱したよ
河井の偽装中立が本心なら、朝日山・榎峠のような要地の占拠まで待つ必要はない
白石盟約書は閏4月23日には出来てるし、越後への米沢藩出兵も決まっている
この段階で「偽装」を隠す必要はなくなっただろう
河井の中立の主因は藩内事情じゃないかな
米沢も越後出兵は色部、甘粕の対立があって必ずしも積極的ではなかった >>36
米沢出兵が決まっても、兵力が長岡周辺に到着しないと役に立たない訳で。
朝日山などの要衝を敢えて空けたのは、それをしないと新政府軍がそんな話に
引っかかるとは思えなかった。つまり餌。という解釈も出来ると思うんだがどうだろう。 餌にしては小千谷、さらに朝日山・榎峠の占拠は戦略的にでかすぎると思う
これあくまでも個人的推測なんだけどね
米沢は越後出兵に対してあまり積極的でなかったのは周知の事実で、
しかも千坂不在の席で決定されてるから、河井も薄々察する所があったはず 河井の場合、楢山と異なり明確に佐幕だったんだが(柏崎藩も長岡を当てにしている)
藩論統一に手間取って対外的でなく対内的に「偽装中立」していたと言うのが正確なんじゃないかな
>5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが
ネタだとは思うがいったい現地で何を調査してたんだよw 雲井って江戸の三計塾で桂、広沢(真臣)、品川と同門だし、京でも時山、広沢と仲が良かった
長州系に知己が多かったんだな。だから討薩の激では長州を外してるし、集議院寄宿生にも推薦された
集議院を辞めてからも帰順部曲点検所からの嘆願では広沢が便宜を図ってくれたようだね
奥羽諸藩で長州とこれだけ人脈がある人間は、わりと珍しいのか? >>40
盛岡藩に奥羽列藩同盟脱退を勧めていただけ。
九条総督もそれを一番期待していたのが、盛岡藩。
まだ楢山佐渡が盛岡に帰ってきていないし、勤王思想がある家老や家臣、支藩など多数あったからな。 いくつかの支藩は出兵拒否したんだっけ?
>>38-39
うーん、藩内問題か 楢山の帰国って異常に遅いね。仙台藩が早く秋田に出兵しろと圧力かける有様じゃん
河井自身は慶応3年、4年と越後諸藩を佐幕側から纏めて圧力をかけてるんだけどさ。
ただ藩内の分裂を恐れて小千谷会談まで方針を明示しなかったと思われる
現に稲垣家ら上士の一部は参戦せず。
安田鉚蔵の蟄居処分の後は暗殺計画が出て藩校崇徳館が監視対象になっている
新政府軍が目前に迫って戦うしかなくなるまで引き延ばしたとも言えなくもない (3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について
慶応4(1868)年4月29日、現在の宮城県刈田郡の関宿という場所において、仙台藩の代表として、家老の坂英力(さかえいりき)、
但木土佐、真田喜平太、米沢藩の代表として、家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談を行ない、そこで会津藩の嘆願についての協議を行なっています。
この時の様子は、会津藩側の史料である『会津戊辰戦史』にも、仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』にも記載がありますが、
『仙臺戊辰史』の方がよりリアルに詳しく書かれていますので、その当時のやり取りを『仙臺戊辰史』を参考にして、少し分かりやすく再現してみましょう。
この関宿会談で、仙台藩の重臣であった但木土佐は、会津藩の梶原に対して、まず次のように言いました。
「今回、会津藩が謝罪降伏を申し入れる際には、城を明け渡すことはもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すべきではないかと思うがいかがでござる?」
(首謀者とは、鳥羽・伏見の戦いの首謀者を指しています)
それに対し、梶原は次のように反論しました。
「藩主公の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、
生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。
鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。
それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13c.htm >>48
首謀者問題は米沢でも庄内でも非常に揉めたからな。
米沢は実質的な首謀の千坂だけは庇うことで一致したが衆議紛々。
後で宮島が戦犯指名された色部の子孫に相当気を配ってる
庄内は最初は戦犯指名そのものに困惑して会津と同じ回答、結局戦死した石原を届出。
ただし会津に関しては梶原のこの回答は無責任と言わざるを得ない
自分らが京における政治行動を引っ張ったのだから、明らかに藩公の寵を頼んでのゼロ回答
この後、真田に怒られてさすがに首謀差出に同意したものの、上洛反対派だった西郷頼母を首謀指名する可能性がない以上、
藩内で首謀取りまとめなんてできっこなかっただろう 戦乱の時代には武士道なんて不要。
武士道が必要なのは平安の時代。 ワタミの会長が心の師にしてるそうです
https://twitter.com/#!/watanabe_miki/status/177046779781586944
わたなべ美樹 @watanabe_miki
河井継之助 私の心の師です。ありがとうございます。
RT @toshiki_matsui: 「世の中になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ」。
河井継之助の言葉です。信念を貫くことには批判はつきものだと思いますが、めげずにがんばってください。 >>57
河井の立身が藩侯の引き立てによるもので藩侯の意思に忠実だったこと、
慈眼寺会談の決裂を伝えたあと、和平派の三島に「俺の首と三万両を持って行け」と言ったり、
長岡で負けた後はここに置いていけと言ったあたりはキレイに忘れてるんだろうな 会津と仙台に巻き込まれた他藩が気の毒だな。庄内は斟酌すべき事情があるけど
長岡も会津問題がなければ河井と言えども恭順を選んだだろうに 司馬の作品"峠"下巻終盤に司馬が小千谷会談の場所になった寺を詣でる件りで
地元の老人が"継之助は寂しかったと思いますよ"って洩らす場面
キョロマの岩村の小僧ごときに陽明の徒河井の志が分かってたまるかよ 四海波でも切れる時は切れる
三味線枕にチョイトコリャ
二世三世 小千谷に西郷隆盛がいればおもしろかった
せめて黒田でもよかったけど 周りに迎合しないってのはさ
強い信念があっての事だよな
無私、無欲なんてのは最低限の素養で
西郷や大久保は維新の英傑って評価されてるし幕府を倒した革命の推進派の側に属した人物なだけに
死後も崇められてる(西郷は反乱を起こしたから賊軍の扱いだが)
河井のような美意識に殉じた侍が死後に正当に評価されないってのは歴史の宿命かな? 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり 明日、無料イケメン祭り開催。
URL貼れないから
メーンズガーデン ってググってみて
※正しいサイト名は英語。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
KUKID いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
3X3 『柳は萌ゆる』、 平谷美樹 楢山佐渡が主人公の歴史小説だ。
俺は楢山佐渡指揮する兵士によって焼き討ちにされた方の地区に住んでいるが、この小説楢山佐渡をやけに美化してないか?w
南部兵士によって扇田はほぼ焼けてしまったが、その時楢山佐渡は焼き討ちにする兵士をとがめているんだよな。
これ史実なのかw
楢山佐渡は米代川渡河に手間取って、大館城の攻略時に遅刻するが、それなのに、更に遅れた兵士を叱責するんだよね。
これをしっかり描いているかあ?こっちは史実だぞ。
まあ、岩手の新聞に連載された小説のようだから、秋田の人間だから遅れて知ったよ。しっかし、なんで「秋田の火付け」なんて
言われているんだよ、おいw 旧幕府軍もガトリング砲は持っていたが、活用できなかったらしい。弾を運んでいた兵士が撃たれたらしく... ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています