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【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
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0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/08(土) 13:18:56.48ID:LsHI7NvX0
最後の武士。
0003名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/08(土) 14:02:40.71ID:5LKCzK6T0
>>2

> さて、楢山は岩倉具視と会見する。楢山は、あくまで朝廷のご意思を確かめたい一心だった。あのザマは何だ?朝廷がお
>認めになってのことか?一方岩倉は、こうした楢山の焦燥が透けて見えるようだった。「ほほう、薩長が憎いな?好く奴なん
>ぞおらん。所詮、朝廷は兵力を持たぬ故・・・奥羽はどうじゃ、薩長を凌ぐ連中はおらんのか。貴公はどうじゃ?天子様の思
>し召しを得たいとは思わぬかの?グフフフフ・・・」
> 岩倉の思わぬセリフに楢山はギクっとする。何が言いたいのだろう!薩長に倒幕をやらせたがどうも好かん、ということか。
>朝廷も一筋縄ではないらしい・・・ねるほど。
> 奸物の中の奸物を前に、楢山はまな板の上の鮭のようだった。この単純極まる盛岡人は、陰湿なお公家さんの生態や、
>壮絶な朝廷工作の世界に疎い。会津といい、南部といい、結局のところ「騙された」のだ。

倒幕の首魁である岩倉がこんなコトいうかよw
自分たちの目論見をモロに駄目にする発言だろうに。物語もいい加減にして欲しい。美化しすぎ。

単に、上下関係がなくなったら、昔無茶なコト言っていじめた人に復讐される恐れがあるから、上下関係が保てるトコに
肩入れしただけだろ、楢山佐渡は。
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/08(土) 21:23:20.43ID:rui7h0vL0
鳥羽伏見の時に畿内にいたのに反新政府活動するとは、よっぽど見る目が無かったなんだな楢山佐渡。
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/10(月) 13:40:41.47ID:aqJ1ajdJ0
新政府軍が関東鎮定するのに四苦八苦してたから、いける!と思っちゃったんじゃない?
当時は倒幕派も仙台藩に結構期待してた節があるし。
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/12(水) 12:16:41.51ID:gwQD4wcx0
いや、その岩倉発言は一概に否定できないよ
楢山の上洛時は新政府内部でも穏健派と主戦派のバランスが後者に大きく傾いた時期だが、
当時に穏健派が勝算を持てずに平和的解決を模索した時期でもあった
岩倉が楢山に「自分は主戦派には必ずしも同調しない」と思わせるような感想を漏らしても不思議ではない
それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね

例えば広沢真臣も当時、米沢藩の宮島に対して会津の帰順を優先してアドバイスを行い、
宮島はそれが新政府方針だと思って奥羽鎮撫のために飛んで帰ってる。実際は広沢とは違う方針になったけどね。
0007名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/12(水) 16:28:11.43ID:Ms4BfOw90
>>6
否定できない、という見解以下の文章の筋が全く通っていない。

>楢山の上洛時は新政府内部でも穏健派と主戦派のバランスが後者に大きく傾いた時期だが、
>当時に穏健派が勝算を持てずに平和的解決を模索した時期でもあった

上の文に根拠なし。漸次進軍という見解が早々と否定され、一日も早い江戸進軍へ改められた時期だった。

>岩倉が楢山に「自分は主戦派には必ずしも同調しない」と思わせるような感想を漏らしても不思議ではない
>それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね

この時期の岩倉の見解としては不思議この上ない。意図も感じられない。
拙速進軍を主張したのは西郷隆盛と共に岩倉具視だったのだから。

やはり、この楢山佐渡の「岩倉に騙された」発言は、楢山自身による藩内への扇動材料や言い訳に過ぎないように思える。
0008名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/12(水) 16:34:18.60ID:HdCVFNoJ0
まぁ>>3で引用されてる様な発言が事実だったとしても、
「奥羽諸藩が連合して勤皇の兵を挙げれば、薩長の専横に対抗できるよ!」
って解釈になると思うが、普通w
しかし、往路でも復路でも新政府軍の陣容を目にしただろうに、自藩を鑑みて何か疑問に思わなかったのかね。
0009名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/12(水) 23:41:50.61ID:+QonHUrA0
>>7
一日も早い江戸進軍に改められた時期どころか、
江戸進駐後の白石盟約書の段階でも広沢が会津藩の穏便な帰順を模索して宮島を色々心配してるんだよ
江戸への拙速進軍を主張することと、その後の彰義隊処分や奥羽諸藩の帰順に関しては意見食い違ってる人普通にいるし
0010名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/12(水) 23:54:52.37ID:+QonHUrA0
つうか江戸進撃は東国諸藩の迎撃態勢が整うまでに帰服させ、
慶喜に圧力かけて敵本拠を一刻も早く抑える意味で重要だけど
奥羽諸藩はこの段階で勤王も佐幕もなかったんだからいたずらに刺激する必要ないじゃん
会津庄内両藩問題が浮上するんだけど、無血で帰順させられればそれに越したことはないでしょ。
岩倉がそれに近いことを言った可能性は否定できないよ。
0011名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 04:20:36.15ID:iEtsFww/O
焚き付ける必要がないなら、岩倉具視が上記の煽りをやったという論拠がさらにない。
0012名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 05:04:24.65ID:CJAtszEH0
>>9-10
頭の中に感情的な結論が先にあるから、
このような「Aだ、ここもAを示している。だからAじゃなくてBなのだ」という変な文章になってしまうのだろう。

煽る必要がないなら、焚き付ける必要はないだろう。
先の発言は岩倉の発言というよりは、楢山が頭の中ででっち上げたものと考えたほうがよい。
南部藩は楢山の感情に踊らされて、勝てない相手に戦いを挑んでしまった。
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 09:16:10.86ID:npoKWKqF0
>>12
焚きつけたとどこで言ってる?>>6
>それは騙すとか煽るとかそんな意図ではないだろう。ただ楢山がそれを新政府方針と軽信しちゃったのね
とはっきり言ってるんだが。お前のほうこそこの時期の穏健派と急進派の対立を知らないんじゃない?
岩倉は鳥羽伏見前の慶喜下坂後にも上洛を要請してるじゃん
お前の意見てむしろリアリスト岩倉を単なる脳筋に貶めることだぞ
ちなみに新政府の内情への分析に手が回らず、意思疎通した人間を新政府の意思の代表者と思い込むのは
この時期の奥羽諸藩の要人の特徴。
0014名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 09:27:43.31ID:npoKWKqF0
それと>>3のような発言がない=楢山の脳内でっち上げ と言う頭の痛い短絡があるが、
岩倉が>>3みたいな発言をした、と誰が言ったよ?こんな漫画みたいな発言するわけないじゃん

ただ、単に新政府の主戦派と岩倉が必ずしも意見が一致していないと思わせるような様子を見せただけでも
出来れば避戦したいのが本音の奥羽諸藩の士にとっては影響が重大だよ
新政府内部を「薩長の主戦派」「それ以外」に分けて、後者の復権による調停に期待する傾向が強くなる
但木土佐が簡単に佐賀藩兵の上陸を許しているのも同じ思考構造
0015名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 10:04:24.66ID:CJAtszEH0
>>13-14
根拠を欠いた泥沼論理を表明してもらっても、
楢山が岩倉から嘘をつかれた、と幕末東北正義論の人々は根拠もなく声高に語っているし、
その話の全ては楢山の口一つしか出所がない、当時の新政府の事情を逸脱する奇怪ないいわけであったことも確か。

江戸進軍を強硬に主張していた西郷隆盛と岩倉具視から、この時期に新政府と対抗する別組織設立への誘いなどは出てこない。
但木土佐なら声高に言いそうだが、それでは南部藩内で支持は得られなかったのだろう。

楢山を擁護する論理としも、岩倉にこんな発言を言われたと当時の岩倉の立場も考えずに書き散らす、
その上、当時の状況も考えずに岩倉ならこんなことも言ったとしても不思議はない、という根拠のない断定を書き散らすのはすっぱり諦めるべきだろう。
0016名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 12:00:41.25ID:hCjsXbvc0
>>14
いや、流石に後者はどうかな。
新発田藩みたいに最初から全力で根回ししまくってたならまだしも、そんな形跡ないし。
新政府内の穏健派が目指してたのは、戦争なしでの奥羽帰順だろうし。
ただ朝廷に弓を引いても新政府内の穏健派が味方できるわけじゃないし、
楢山も流石にそれぐらいは理解できたんじゃないかと思うのだが。
ああ、でも列藩同盟が数年ぐらい頑張れば、穏健派が力を持つことも有り得たか?
それでも見通し甘すぎたなw
0017名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 13:40:36.45ID:CJAtszEH0
楢山佐渡の度々引用される、「岩倉具視が薩長に対抗しろと言った」発言は、
但木土佐ら仙台藩関係者による列藩同盟側での参戦勧誘を、仙台藩と関係の悪い南部藩で触れ回るために、
言った人間を但木土佐から岩倉具視に挿げ替えて、楢山が言いふらしたものだと思います。

岩倉具視は当時西郷隆盛と共に、拙速編成による一日も早い江戸進軍を強く主張しています。
その本人が新政府に対抗する組織を作れ、と言い出すとは思えないのです。

楢山佐渡を庇いたいあまりに、当時の情勢を歪めて解釈するのはよくありません。
0018名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 13:59:26.14ID:tksi1dgE0
>>15
おめえ〜は人の言うことを良く聞けよ。
江戸はすぐ制圧する必要があるが、攻略段階で会津以外の奥羽諸藩を敵に回す必然性はゼロだろ。
奥羽諸藩は天保飢饉でピーピーで戦争を起こすほうが悪と言う発想なんだから
(だから仙台藩は但木政権の前は会津との交渉でかなり厳しい態度も見せている)
岩倉は王政復古クーデタも断行したけど、その後に慶喜側が形勢有利になると上洛工作に転じただろう
西郷と岩倉は同じ江戸進撃派でもスタンスが違うし、常に同調していたわけでもない
岩倉は万が一、新政府の東国諸藩平定が長引いても色んなスタンスを取り得るように考えてたんだよ
木戸と西郷だって慶喜処分問題で違うんだぞ
あり得ないあり得ないと罵るけど、広沢宮島交渉が江戸進駐後に行われたことをどう説明すんだよ

>>16
うん、だから楢山のスタンスも中立ではないのね。東とかなら全く違う結論になっただろう
しかし一点間違ってるのは「朝廷に弓を引く」と言う意識だけど、
奥羽列藩同盟はあくまで九条総督の真意に従い、君側の奸を排するからこっちが真の勤王だと言う理屈で、
九州諸藩にはまた別の態度を取ってる。それと会津城下突入は新暦でちょうど今ごろなんだよな。
もし大村の「枝葉を刈る」戦略を実行していたら会津攻撃が冬までもつれ込んだ可能性もある
戦争で勝つことによって主戦派は穏健派を乗り越えて主導権を確立していったから、
数年もかからないよ。我々は後世の歴史から判断しがちだけど、当事者の主観を考える必要がある

例えば広沢から寛大な条件での会津帰順の忠告を受けた宮島は列藩同盟の不可を必死で説くが
同盟成立の興奮で全く耳を貸してもらえず、「貴様は京で籠絡されたのだろう」などと罵倒される有様だった
0019名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 14:09:00.10ID:tksi1dgE0
まあ太平洋戦争の時の日本もドイツが勝てばそのうちアメリカは和平論が出て折れる
なんて予想で三国同盟に突っ走ったわけだから、それと似たようなもんだな。
新政府軍は大坂は接収したけど、江戸の上野戦争までは迂闊に手を出せなかったから
あながち的外れでもない。ただ自分たち(同盟側)については完全に読み違えていた
奥羽列藩内の主戦派は、「戦争拡大回避」と言う至上命題に完全に背く行為をしてるんだから
0020名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/13(木) 14:18:19.46ID:tksi1dgE0
あと、南部藩は仙台藩に一揆の件で借りがあったけど、これは特殊な例ではない
この時期は諸藩は自力で民衆暴動に対処できず近隣諸藩・幕府と共同歩調を取る傾向があった
家近氏などもこの時期の諸藩の動向をそう分析している
また佐幕傾向を強めた藩主の下で出頭した人間は、河井のように藩主の意向に近い傾向があった

岩倉に拘ってる奴は「岩倉がそんなことを言うわけない」と言うんだろうが、それははっきりその通りだよ
リアリスト岩倉は楢山に反乱の使嗾なんかするわけがない、ただ楢山が西郷と岩倉の間で新政府は決して一枚岩じゃないな、
と観察できるような情報は与えてる可能性はかなり高い。
0021名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/14(金) 07:19:57.55ID:zgQvg81Y0
>>18
あなたはまた、根拠のないことを書き散らしている。
敵に回す必要がないのなら、なぜ「薩長に敵対する同盟を作れと岩倉が言った」という楢山の言を真実と看做さなければならないのでしょうか。

この言葉は当時の情勢及び岩倉の政論からはありえず、最大限好意的に解釈しても、
但木土佐の言葉を仙台藩家老では南部では聞いてもらえないから岩倉と相手を変えて言いふらしたものだろう、ということです。

>おめえ〜は人の言うことを良く聞けよ。
あなたの頭の方が奇怪です。
0022名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/14(金) 07:41:06.33ID:zgQvg81Y0
鳥羽伏見の戦い直後、小御所会議は徳川慶喜及び会津藩への朝敵宣告と、仙台藩への会津藩討伐を命令しています。

この会津藩討伐に南部藩も参加するように、という趣旨なら岩倉の話は分かる。
しかしそれはあくまでも、朝敵宣告を受けた徳川慶喜・会津らの排除が目的となり、小御所会議の新政府軍への敵対団体結成勧誘ではない。

会津を討伐し新政府の陣営に参加した上で、権力争いとしてのバランサー志向を気取るのならともかく、
最初から新政府とは敵対する列藩同盟を作っておいて、バランサー気取りとは片腹痛いとしか表現しようがありません。
0023名無しさん@お腹いっぱい。垢版2011/10/14(金) 08:09:30.02ID:zCtA3cff0
お前結局、史実をまったく踏まえてないね。
何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
>>3で言われてるのは妄想。
ただし、新政府が会津(追加的に庄内)攻撃方針を貫く限り、
天保飢饉で極度の財政貧窮にある「会津以外の」奥羽諸藩は迷惑この上ない。
なぜなら…のちに久保田藩が現実にそうなったが…最前線に立つのは奥羽諸藩だから
鳥羽伏見で公然と新政府に敵対状態に入った徳川宗家に比べて、
この時期の「会津以外の」奥羽諸藩は長州征伐の先例に倣い、首謀者差出での処分に希望を繋ぐ人士が多かった
岩倉は対幕強硬派に分類されるが、そういう雰囲気を読むのもまた巧かったんだよ
江戸攻撃の段階で出兵に消極的な奥羽諸藩の藩士が、西郷に代表される主戦派に必ずしも同意していなければ
とりあえず新政府の方針は別物だと示唆して宥める必要性は極めて高かった

新政府も大坂を占拠し当座の軍資金を確保したとは言っても、
江戸を制圧するまでは奥羽諸藩を少なくとも友好的中立の状態に置いておく必要があった
(広沢に見るように、会津藩の責任論を棚上げにしても、江戸進駐後も奥羽諸藩の準同盟国化に気を配った人間もいる)
同じことは対会津藩方針に言えることで、この時期仙台藩の遠藤は会津藩の梶原に
「首謀者なしとと言う回答は何事か」と極めて厳しい叱責を飛ばし、撤回させたりしている。

そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
と言うストーリーのほうが不自然なんだよ
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