明治から戦前までの文化
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
昭和初期のエログロナンセンスに興味がある。
現代と微妙に違うけど共通点も多いまるでパラレルワールドって感じ。 着物にブーツって好きだな。
あの頃の、着物に洋装のエッセンスを加えたような服装っていいよね。 やはり国民服が最高だな
女のもんぺ姿も溜まらん
防空頭巾なんか神だよね >>5
昭和初期には普通にあったみたいだけど
今でも稀に卒業式でその格好してる人は、いないことはない。 今はコスプレとしてだから、純粋な風俗として見るには無理がある。 だな。
懐古趣味で着ているのと今風のファッションとして受け入れるのでは意味が違う。
ただ、>>7は「稀に卒業式で」と限定しているから問題なし。
むしろそういう情報もどんどん知りたい。 昔のガラスは耐久性がなかったから
細かい格子の鉄枠等で支えてたって聞いた事あるけど、
ステンドグラスみたいになってて良いよね。
今みたいにまっすぐなガラスじゃなくて
牛乳瓶底みたいな歪み方をするから
景色は少し見辛いけど、それもまたおもしろい。
文化っていうより技術かな。 モダンとかなんとか言ってたのは都市部だけ
地方じゃ娘を売って生活費の足しにしていたのに文化もへったくれもない
戦前は国民の八割が貧困層。
都市部でもスラムが広がり残飯屋が運んでくる食事でやっと飯にありつける有様だった。 一口に戦前でも期間が長すぎるわけだが。敗戦直後とバブル期を
「戦後」で一括り(経済面で)するのは意味を成さないのと同様だ。
昭和10年初頭(敗戦前での経済MAX)の都市部の
公立小学校の朝礼風景の写真みると、女子児童は柄物のワンピースを
着て小奇麗な格好してるよ。都市部においては市民階級が根付いていた
のがこれでも分る。一方、農村部は貧しいままだったろうな。 東北の不作が続いたのが昭和7〜あたりだから
そこら辺からはかなり深刻なダメージを受けてたはず。
都市部は豊かだったけど、それでも農村を救え、不景気云々と
壮士が色々演説ぶったり、活動家がビラ蒔いたりしてる。
それで戦争起こして土地を拡大すれば良いという流れになって行くわけで。 なんとなくここ見てたら浅草の仁丹党を思い出したけど昭和61年に無くなっちゃったんだね。
秋葉原かなぁ、銀座かなぁ・・・チンチン電車が走ってて、道路の上に沢山の
電線が張り巡らされていたのをうっすら覚えてる。
HNKの朝の連ドラ見てて、着物が減って洋服がじわじわ増えて、ラジオとか電気扇とか、
電話とか、このくらいからこういうのがあったのかと興味深く見てるよ。 >>15
豊かというのは農村に比べたらといった気休めレベル程度で実際は大卒でも就職口に難渋していた
そもそも欧米に旅行や留学出来る人間なんて洋館に住んでるような金持ちくらい
その市民が国力は見かけ倒し、民主主義は刹那主義、文化は退廃的で道徳観に欠け
米英恐るに足らずと軍やマスコミを後押ししていた 白い鼻緒の朴歯の高下駄、少し色が褪せた金釦の詰襟に、腰には豆絞りの手拭い、
校章が燦然と輝く角帽を被り、トンビを羽織って岩波文庫片手に喫茶店で激論を
交わしているバンカラ大学生。街頭では「♪その名ぞ吾等が母校〜♪」校歌を歌う
学生達。どうやら六大学野球リーグ戦の戦勝祝いだろうか、街には【祝勝・○×大学】
の提灯や、紅白の餅を配る商店街の小父さん、小母さんたち。少し暮れかかってきた
夕空の赤い色が川面を照らしている…。私の祖父の学生時代、セピア色の写真を見て
大正浪漫、昭和レトロの良さを改めて感じます。 仁丹塔って凌雲閣に似てるなと思ったけど模していたんだね 古きよき時代。
今の世もそう言われる時が来るんだろうか? 人は過去にしがみつく生き物。
こんなくだらん現代でもよき時代と懐かしむ時はくるんだろな 今後、貧困層が増えていくんだから
当然あの頃はよかったってなるだろう これまでは階級間移動がある程度自由にできた「素晴らしい時代」だったからね。
今のワープアの子供は一生労働者階級から抜け出せないと思う。
アインシュタインが来日して講演会をした時、
素人ながら目を輝かせて原子物理学の話に聴き入っていたような
知識層は、既に育っていた。石原純や寺田寅彦の著作も人気があった。
芥川龍之介の後期のものを読むと、確かに極限まで追い詰められた、あまりにも凄惨な
話ではあるが、そこに描かれた生活文化を見れば「閉店後のレストランの中に見える
バナナの束」とか「ウィスキーの『ブラック・アンド・ホワイト』をソーダで割る」
という表現がたくさん出て来る。
その直後、戦争という大変な経験をしたことは確かだが、基層には現代へと続く隠れた道が既に出来つつあったのだ。 俺の親父(内地勤務の陸軍中尉)は48時間休暇のたびに
家の蓄音機でウィーン・フィルのSPを聴いていたそうな。 戦中でもドイツ・オーストリアはもちろんOK。ハンガリー、フィンランドも枢軸側。
ヴィシー政権だからフランス語の歌も問題なし。
8月上旬まではロシアも五族協和の範囲内。
フランコのスペインもサラザールのポルトガルもお咎めなし。
英語でさえ中央では「比島の統治に使う」と言えばノーチェック。
田舎では横文字=敵性語=勉強しなくていいい(ラクだ!)=攘夷!
だったようだが… >>32
五族協和にロシアは入らんだろw
「き〜たのロシアに降ればよい♪」(満洲娘の一節)は満洲生まれの親爺が
よく歌っていたわ 食文化とか面白そう。
海軍では戦艦勤務の士官はフレンチのコースみたいなのを食べてたんだよね?
一般でも都会のホテルや洋食屋ではコースやらカレーやらが美食として楽しまれてたのかな? まず外交上の必要から洋装がデフォルトとなり、宮中の晩餐がフランス料理に決定した。
(そのため、BGM担当宮内省楽部もあわてて西洋音楽を兼修した。)
そこから陸海軍の正餐も洋食となり、やがて末端の兵卒レベルまで
日本化された洋食(豚カツ、コロッケ、ライスカレーなど)が広まって行った。
除隊になった軍のコックや、ホテルや外国船のコックから独立した人たちが
故郷に帰って町に洋食屋を開いた。
兵隊に行って洋風の味を覚えた人達がやはり故郷に戻って、その常連客になったり
家でも洋風の献立を作ってみるようになった。
そうした人たちの曾孫たちが今、「食べログ」のイタリアンにコメントを書いている…… >>35 シナはまだ自由民権運動も弾圧する明治初期段階にしかならんのだが。
山本五十六は言ってるじゃないですか、一年ぐらいはもつって、勝った勝ったでいくだろうと。
だけど後はもう知らんて、そしたら天皇はそれでもいいからやれちゅーわけですよ。
やらないと自分の身が危ないと。スキャンダルをみなばらされて全部失うと、スイスに貯めた金も失うと。
なぜ石油があったか考えてみたことありますか、これはですね戦争のときに、
アメリカは日本には石油を売らないと、ところがパナマ国籍の船ならば、
石油を積んでいって日本に売っても、自分達は攻撃できないというような理屈で、
日本に石油を間接的に売るわけです、本当の話です、でこれに三菱が作った昭和通商という会社が、
それを引き受けるわけです、で昭和通商と三菱は同じですけど、そこでまずいので、
日本水産という会社が代行するわけです、魚を運ぶということではなくて、
魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって、持って帰るので戦争は長引くわけです。
太平洋でいっぱい戦争しました、あれはアメリカの石油をもらって、
アメリカの石油を使った軍隊と戦争ゴッコをやったっちゅーことですよ。
そしてある時になってもう石油をやらないという時に、天皇は気がつく、ああ遂に終わりがきたかと。
これが真相なんですよ。http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes
中曽根が自分の『天地有情』の中にも『回顧録』の中にも書いてます。
俺はCIAのテストを受けた、英語もあった、論文も書いた、パスした。
自分から進んでCIAのテストを受けたちゅーことですね。
それで彼はアメリカに派遣されます、で中曽根は自分で自慢げに書いてますけど、
色んな原子力発電所の法律は俺がみんな作ったってね、野党改進党です。
自民党、自由党時代で、その野党の若造が作れるはずがない。
そこの背後にCIAがみんな絡んでます。http://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4 1935年の東京カラー映像
ttp://www.youtube.com/watch?v=RTfdd68OkZ4 ↑ 名前は「阪神間」やけど、実態は「阪急沿線モダニズム」やね。
阪神沿線に、そげなハイカラな物おまへんで。 昭和のカレーうどん食いてええwwwwwwwwwwwwwww 早矢仕有的のハヤシライスなら丸善の中のレストランで食える。
(精養軒とどちらが本当の元祖かは論争のある所だが・・・)
カレーならうどんより正統的な松本楼のカレーライスが一番。 >41
阪神電車沿線にも深江文化村、芦屋市平田町などあるよ。
また大阪にも戦前のモダンな建築が今もたくさん残っている 「絵双六」の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130423/4095941.html
明治時代以降の女性の生活や流行を描き、雑誌の付録などとして広まった「絵双六」の展示会が、北九州市で開かれています。
展示会は、北九州市小倉北区の小倉城庭園で開かれ、会場には、明治時代以降に雑誌の新年号の付録などとして広まった
「絵双六」を中心に、およそ100点が展示されています。
このうち、明治43年に発行された婦人雑誌の付録になった作品は、当時の女学生の憧れだった生活が、マス目ごとに
描かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130423/4095941_5014095941_m.jpg
この中には、海外旅行をはじめ、現在のエステを意味する「美顔術」まであり、江戸時代から大きく変化した女性の
生活が垣間見られる一方で、上がりは「結婚式」となっていて、結婚が女性の幸せとされていた当時の社会の考え方も
感じ取ることができます。
また、大正8年の作品では、一般家庭の主婦の日常として、友人とのおしゃべりに夢中になったり、顔だけは入念に
お手入れをしたりする様子がユーモラスに描かれ、当時の女性の姿が、生き生きと伝わってきます。
小倉城庭園の大道智子学芸員は、「当時はインターネットなども無く、絵双六が貴重な情報源になっていました。
当時の女性たちも現在と変わらず、美への関心が高かったことを知ってほしいです」と話していました。
この展示会は、6月18日まで、開かれています。 小倉城庭園 「絵双六」の展示会(2013年5月15日 17:19)ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9365
明治時代以降に女子学生向けの雑誌の付録などで広まった絵双六の展示会が、北九州市小倉北区の小倉城庭園で開かれています。
絵双六は、雑誌の付録としてまたデパートが正月に客へ無料で配ったことから広まったもので、会場には約100点が展示されています。
こちらは、「婦人生ひ立ち双六」。大正時代に人気のあった婦人世界という雑誌の付録です。
双六のふりだしは自分の誕生で、あがりは、結婚式。結婚を女性の最高の幸せととらえる当時の考え方が表れています。
この他、化粧道具なども展示され、当時の女性の生活や流行が紹介されています。この展示会、6月18日まで開かれています。 北九州で展示会 ”絵双六にみる近代女性のおしゃれ”5月13日(月) 12時48分ttp://rkb.jp/news/news/14173/
近代の女性の生き方や美意識が分かる「絵双六」や化粧道具などを集めた展示会が、北九州市で開かれています。
小倉北区の小倉城庭園では明治から昭和初期にかけて親しまれた「絵双六」がおよそ40点展示されています。
こちらの双六は宮参りで始まり、身分の高い男性の妻となった後に子宝に恵まれて上がりとなります。
茶道などのたしなみを身につけて理想の結婚をするという、当時の女性の憧れが強く反映されています。
その後、双六は花言葉や世界一周すごろくなど、娯楽的なものへと変わっていきました。
このほか、化粧道具なども展示されていて、お歯黒の廃止後、白い歯が美しいとされたり、クリームを下地にして粉白粉をはたくなど現代の化粧に近づいていきました。
この展示会は来月18日まで開かれています。ttp://rkb.jp/news/files/2013/05/2013-05-13-150x84.jpg 明治に不平等条約を改正しようと奔走した日本人が、
今の日本人を見たら、どう思うだろうか。
怒り狂うだろうか。
情けなく思うだろうか。
憐れむだろうか。
昔と比べて確実に悪化したのは、
日本に他国の軍隊が駐留している事だ。
普通であれば、
どうにかしようとするが、
それが当たり前になってしまっている。 戦争とわたしたちのくらし展ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130611/5013891.html
戦争映画のポスターや唱歌のレコードなどを通じて、娯楽と戦争がどのように結びついていたかを考える展示会が福岡市で開かれています。
「戦争とわたしたちのくらし」展と名付けられたこの展示会は、昭和20年6月19日にあった福岡大空襲の日にあわせて、
福岡市博物館が毎年、開いています。ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130611/5013891_5015013891_m.jpg
ことしは、娯楽と戦争がどのように結びついていたかを考えてもらおうと、
戦争映画のポスターや唱歌のレコードなど娯楽関連の資料がおよそ30点展、示されています。
このうち、戦意を高める目的でつくられた映画、「将軍と参謀と兵」のポスターは、戦う将軍の勇ましさが強調され、
当時の内閣情報局が学生たちを映画館に集めて公開するという形をとりました。
また、「愛国行進曲」など国民の意識を戦争に向かわせるためつくられた唄歌のレコードも数多く展示されています。
福岡市博物館学芸課の野島義敬さんは、「身近で親しみやすい娯楽にも戦争に協力させようという国家の意思が反映されていたことを知ってほしい」
と話していました。この展示会は8月18日まで福岡市早良区の福岡市博物館で開かれています。 >>5
着物にブーツって言ったって、編上げのペタンコヒールで踝丈のブーツだぜ。
アンクルブーツ程度、長くても現在のエンジニアブーツ位の高さだよ。 【福岡】戦時中の「娯楽」に焦点、博物館で展示会06/17 18:44 更新ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0030.html
19日の福岡大空襲の日前後に毎年行われている「戦争と私たちのくらし展」。
今年は、戦時中の人々の「娯楽」にスポットを当てました。1936年のベルリンオリンピックの記録映画のポスター。
日本版でのみ前畑秀子さんの金メダルシーンが挿入されました。
福岡市博物館で行われている「戦争とわたしたちのくらし展」。
戦争の時代に人々を楽しませた「娯楽」に関する品30点あまりが展示されています。
昭和12年に日本で上映されたアメリカ映画「ロビンフットの復讐」の宣伝ポスター。
日米が開戦するまでは、アメリカ映画も人気を集めていました。
福岡市博物館学芸員の野島義敬さんは「戦争の時代というのは、(娯楽による)リフレッシュの中にも、
日常の戦争を思い起こさせるようなものがたくさん詰まっていて、それを感じ取っていただければと思います」と話していました。 舊制高校で獨逸語を第一外國語に選択した人達は、
「會議は踊る」「未完成交響樂」「黄昏の維納」などの映畫を観て
發音を練習したやうだ。 戦中・戦後の暮らし展ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753637.html
戦争や戦中戦後の暮らしについて戦没者の遺品や資料で伝える展示会が、16日から雲南市のラメールで
開かれている。
薄れゆく戦争の記憶を伝え、戦争の悲惨さと平和の大切さに思いを馳せてもらおうと雲南市遺族会が開いた。
会員提供の戦没者の遺品や東京・九段にある「昭和館」所蔵の資料などおよそ500点を展示。
戦争体験に関する証言を集めたDVDの上映も行われている。18日まで。[ 7/16 18:37 日本海テレビ] 戦中・戦後のカルタと教科書展08月02日 18時49分ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130802/3453641.html
戦中・戦後に作られたカルタと教科書などを通じて平和の尊さを知ってもらおうという展示会が大牟田市で開かれています。
この展示会は大牟田市の「三池カルタ・歴史資料館」が開いているもので、戦中・戦後に作られたカルタと教科書など
およそ50点が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130802/3453641_5013453641_m.jpg
このうち、昭和17年に作られた児童向けのカルタの中には、「すてた(捨てた)かみくずスパイのたから(宝)」という
札があり、戦時中は子どもに対しても情報が漏れることを戒めたことを表しています。
また、「はし(箸)をとるたびせんち(戦地)をおもへ」の札では食卓で正座をした家族が頭を下げて戦地を思い浮かべて
いる様子をとらえています。
このほか、教科書のコーナーでは軍国主義的な表現や挿し絵がなされた教科書と戦後そうしたものが黒く塗り
つぶされた教科書とが並べられています。
「三池カルタ・歴史資料館」の梶原伸介館長は「平和のありがたさを多くの人に感じてほしい」と話していました。
この展示会は9月23日まで開かれています。 >>49
そして彼等は韓国を併合した事をとても後悔するだろう 戦前は貧富の差がとにかく大きかった。
また旧制の中学や高校は公立でも学費が高くて
お金持ちの子供しかいけなかった。
だから全然の大学生は金持ちの子ばかりだったらしい 文学の礎築いた作家の展示会ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013610121.html?t=1386479964712
明治初期に活躍し、近代文学の礎を築いた高知県出身の文学者や思想家を紹介する展示会が高知市で開かれています。
高知市の県立文学館には、高知県出身の文学者や思想家の直筆原稿や本などおよそ230点が集められています。
このうち明治初期に活躍した思想家、植木枝盛については、自由民権運動を多くの人に伝えた著書、「民権自由論」
や直筆の日記なども展示されています。
またジャーナリストで文学者の坂崎紫らんが坂本龍馬の生涯を描き明治時代に龍馬ブームを巻き起こした
「汗血千里の駒」の初版本のほか、幕末期の土佐藩主、山内容堂を主人公に描いた「鯨海酔候」の直筆の原稿も展示されています。
この展示会は今月27日から1月1日までの年末年始期間を除いて、1月31日まで開かれています。
12月08日 13時46分 >>58
国公立の中等・高等学校・大学を無償にするという発想がなかったのが謎だ。
階級社会だったからそんな発想がでてくるわけがなかったのだろうけど。 >60
リーダー教育を行う中等以上の教育機関の進学率が上がりすぎて
役割分担が不明確になるのを防いでいたようだ
実際戦後は学歴のインフレ化が進行しているようにもみえる 【文学】夏目漱石の『こころ』の続編と見られる未発表の小説原稿を発見
明治から大正期にかけての膨大な小説原稿を有する個人蒐集家の
書庫から、夏目漱石の未発表の小説原稿が発見されました。
小説には『からだ』という題名が付されており、漱石が『こころ』と『からだ』
という連作小説を構想していたことが明らかになりました。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/news7/1322813280/ 坂の雲の上Mで25日から「子規・真之と小学校」ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140224T114829&no=4
明治期の教育関係資料を集めた企画展が25日から坂の上の雲ミュージアムで始まります。
企画展『明治の教育子規・真之と小学校』は、江戸時代末期に生まれた正岡子規と秋山真之の成長を通して、
明治期の教育制度の変化の流れを知ってもらおうと開かれます。
24日は、関係者を集めた内覧会があり、中村知事らがテープカットで開催を祝いました。
明治初期は、西洋から欧米式の教育制度を取り入れ、大きく教育の形が変わったとされています。
こちらの掛図はイラストとともに単語が描かれていて、教師が教壇に立ち、多くの子供に同時に教えるために
作られたものです。それまで師匠と弟子という一対一の教育から、「一斉教授」へと教え方が変わったことを知ることができます。
企画展『明治の教育子規・真之と小学校』は、坂の上の雲ミュージアムであすから始まります。 坂の上の雲ミュージアムで25日から企画展ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140224T184350&no=4
明治時代の教育資料を集めた企画展が、25日から、松山市一番町の坂の上の雲ミュージアムで始まります。
企画展『明治の教育子規・真之と小学校』は、正岡子規と秋山真之の成長などを通して、明治時代に大きく変化した
教育制度について知ってもらおうと、25日から開かれます。
24日は、関係者を集めた内覧会があり、中村知事らがテープカットで開催を祝いました。
こちらの掛図は授業で壁などに掛けて使っていたもので、縦およそ80センチ、横およそ60センチあり、
イラストや単語が描かれています。
教師が複数の子どもたちに教えるために作られたものとされていて、それまでの師匠と弟子という一対一の教え方から、
変化を遂げた様子を知ることできます。この企画展は、25日から坂の上の雲ミュージアムで始まります。 企画展「子規・真之と小学校」内覧会(愛媛県)■ 動画をみるttp://w2.rnb.co.jp/nnn/movie/news8784168.html
松山市の坂の上の雲ミュージアムで始まる明治初期の教育をテーマにした企画展の内覧会が開かれた。
25日から始まるのは、企画展「子規・真之と小学校」で、24日は関係者らがテープカットをした。
この企画展は、正岡子規や秋山真之が初等教育を受けていた明治初期の教育をテーマにしていて、
江戸時代から教育が変革していく様子を紹介している。ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784168.html
また、欧米で使われていた掛図と日本語に翻訳した掛図が合わせて展示されるなど、当時の日本の教育が西洋の
影響を受けていたことが分かる。企画展「子規・真之と小学校」は、来年2月まで坂の上の雲ミュージアムで開催される。
[ 2/24 13:18 南海放送]ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/picture/RNB_41681.jpg ebcで-た放送news 25日から「子規・真之と小学校」展 24日14:40
松山市の坂の上の雲ミュ-ジアムで、25日から明治
の初等教育を紹介する展示会「子規・真之と小学校」
が始まる。会場で、明治の小学校で使われた図鑑や文
具、再現された教室など約170点を展示する。
2014.2.24 21:38坂の上の雲ミュージアム企画展内覧会ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45763
小説「坂の上の雲」の時代・明治の初等教育を紹介する展示会が25日から松山市の坂の上の雲ミュージアムで始まります。
このイベントは小説「坂の上の雲」の主人公秋山真之と正岡子規たちが学んだ明治の初等教育をテーマにしています。
会場には、この時代に使われた鳥や作物が載っている図鑑や文具などのほか、再現された当時の教室子規の
小学校の卒業証書など、およそ170点が展示されています。展示会は25日から来年2月15日まで開催されます。 「明治の教育」展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004933491.html?t=1393314148311
近代日本の礎となった江戸末期から明治初期にかけての初等教育を紹介する企画展が松山市で始まりました。
この企画展は、松山市の「坂の上の雲ミュージアム」できょうから始まり、江戸末期から明治初期の初等教育で
用いられた50点の資料が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004933491_m.jpg
このうち、江戸時代に広く学ばれていた儒学の祖である孔子を描いた掛け軸は、松山藩の藩校「明教館」の講堂に
掲げられていたもので、入学する際に生徒たちは「孔子のもとに入門する」という意味を込めて、掛け軸に向かって
礼をしたということです。
また、明治初期に描かれた植物や動物の図は、縦80センチ、横60センチの大きさで授業で使うためにアメリカで
作られたものを参考に当時の文部省が作成しました。
このほか、旧日本海軍の参謀、秋山真之が使った漢文の教科書なども展示され、訪れた人はじっくり眺めていました。
学芸員の川島佳弘さんは「明治初期に試行錯誤をしながら教育制度が作り上げられた様子を知ってほしい」と話していました。
この企画展「子規・真之と小学校」は、来年2月15日まで展示の内容を変えながら開かれています。02月25日 12時26分 生まれ育った町を一冊の写真集にttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140313_7
戦前の岡山は、どんな街だったのでしょうか。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140313_7.jpg
当時の岡山に関する本や写真のコレクターが、膨大な資料を1冊の本にまとめようとしています。
数十万点にも及ぶ膨大なコレクションです。集めたのは、岡山市北区の渡辺泰多さん。
40年かけて、趣味で買い集めるなどした古い書物や写真をたくさんの人に知ってもらおうと、1冊の本にまとめることにしました。
75年前、表町に生まれ、駐車場を営みながら暮らしてきた渡辺さんにとって、思い出深い写真も数多くあります。
こちらは、大正時代の木造の岡山駅です。乗客を待つ人力車が、ずらりと並んでいます。
明治35年頃の旭川にかかる木造の京橋です。
渡辺さんは、写真に説明を添えて出版する予定ですが、どの写真を載せるか選ぶ作業に時間がかかりすでに4年を費やしています。
長年のコレクションの集大成として、思い入れがあるからです。本の出版は今年夏頃を予定しています。
タイトルは「岡山夢物語」。明治・大正・昭和初期の岡山を知ることのできる貴重な一冊になりそうです。 薄田泣菫の書簡集を発刊ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023640152.html?t=1397197373972
芥川龍之介など明治期に活躍した作家らが倉敷市出身の詩人薄田泣菫に宛てた未発表のものを含むおよそ
180通の手紙を倉敷市が本にまとめ、一般向けに販売しています。
倉敷市出身の薄田泣菫は明治期に活躍した詩人で、当時の作家や詩人らが泣菫に宛てて書いた手紙がこれまでに
およそ1700通、見つかっています。
泣菫の遺族から手紙の寄贈を受けた倉敷市では、専門家によるチームを立ち上げて手紙の内容について調査研究を
行い、今回、芥川龍之介や谷崎潤一郎など当時の文壇で活躍した作家38人の未発表の107通を含む179通の
手紙を選んで初めて本にまとめました。
このうち、芥川龍之介が大正6年10月に書いた手紙は芥川が少年時代に泣菫の詩を読んで心を動かされたことを
吐露する内容で、芥川の作家としての背景をうかがい知ることができます。
編集に携わった関西大学の浦西和彦名誉教授は「文豪と呼ばれる作家らの心情や人となりなどを知ることができ、
日本の近現代文学史を研究するうえで第一級の資料になっている」と話しています。
倉敷市では、市内の図書館や学校などに200部を配布したほか、450部を全国の書店などで一般向けに販売しています。
04月11日 13時09分 幕末以降の資料の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013882861.html?t=1398230485006
幕末以降に高知県で起きた出来事や活躍した人物についての貴重な資料を集めた展示会が、高知市で開かれています。
この展示会は高知市立自由民権記念館が開いているもので、市民から寄贈された、幕末から20世紀後半にかけての
文書や写真などおよそ100点が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013882861_m.jpg
このうち、▼明治時代の演説の入場券とチラシは、明治27年に自由民権運動の指導者で、高知市出身の板垣退助が
静岡県で演説を行った際に発行されたものです。
当時は演説が終わると、入場券などは捨てられてしまうことが多く、きれいな形で残っているのは珍しいということです。
このほか、▼昭和初期に高知市にあった映画館のチラシは、田中絹代さんなど、日本を代表する女優の写真などが
載せられ、当時、映画が市民の娯楽の中心だったことをうかがわせています。
自由民権記念館の筒井秀一民権・文化財課長は、「お年寄りには懐かしく、若い人には新しい発見があると思うので
多くの人に見てもらいたいです」と話していました。
この展示会は、ことし9月28日まで高知市の自由民権記念館で開かれています。04月23日 09時12分 戦前は貧富の差の大きい階級社会だった
文化的にも庶民的な文化とお金持ちの文化がはっきりとわかれていた 商店街のシンボル 全焼で解体へ06月09日 18:31 ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1474
6月2日、坂出市の商店街にある老舗の喫茶店が全焼しました。https://www.youtube.com/watch?v=nSOZT7kH8UA
倒壊の危険があるため取り壊し工事が進んでいますが商店街のシンボル的存在だったため街の人からは惜しむ声が
多く聞かれました。
2日午後5時半頃 坂出市元町の商店街にある喫茶店「角本金栄堂」から出火 約6時間に渡って燃え続け
木造4階建ての店舗兼住宅 約250uが全焼 →けが人はなし
1階の厨房で天ぷらを揚げていて店の人が目を離したすきに建物に引火したと見られている
発生から1週間が経ち 現場では解体工事が進められています かつての面影は見ることができなくなっています
角本金栄堂は昭和初期に菓子店として建てられる 外壁がタイル張りの洋風建築で 建物の高さと重厚感から
→商店街のシンボル的存在 火事の後、建物が倒壊する危険性があるため
幹線道路から坂出駅につながる周辺の県道500mが8日の夜まで通行止め 7日から取り壊し工事が進められている
街の人は--- 男性 我々としても 1つシンボルが消えたということで 寂しい思いはしている
女性1 昔、お菓子屋さんやったからね 懐かしいお店でした 2 私の子どもの頃からずっとあったからね
寂しい感じはします 経営する男性は 「周辺の方に多大な迷惑を かけて申し訳ない」と話していました
今後については未定だということです 備前の古地図を紹介ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025690381.html?t=1404424020402
江戸時代から明治時代にかけての備前市の地形や家並みなどを記した古い地図「古地図」を紹介する展示会が、
備前市で開かれています。
この展示会は、備前市の備前市歴史民俗資料館が古地図を通して地域の歴史に思いを馳せてもらおうと開きました。
会場には、江戸時代後期から明治時代初めの街道沿いの家並みや寺院などの名所を記した絵図や田んぼの面積を
表した井田図など24点の資料が展示されています。
このうち江戸時代後期に作られた「三石村往還図」は、いまの備前市三石地区から西片上地区までの旧山陽道沿いを
記した長さおよそ5メートルの巻物で、茶屋が建ち並ぶ播磨国との国境の様子などが細かく描かれています。
また、「備前国図」は江戸時代の半ばより前に作られた備前国全体の絵図を写したもので、干拓によって地続きになる
前の児島の様子などを見ることができます。
この展示会は7月13日まで、備前市の備前市歴史民俗資料館で開かれています。07月03日 19時33分 風刺画にみる幕末の社会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015906511.html?t=1405236158530
幕末から明治維新にかけての戊辰戦争や大地震などの出来事について描かれた風刺画を集めた展示会が、
高知市で開かれています。
県立坂本龍馬記念館で開かれている展示会には幕末の頃に描かれた風刺画の原画など15点が紹介されています。
このうち、「子供遊び夏の栄」は、新政府軍と幕府軍が戦った戊辰戦争を子どもどうしのけんかに見立てて描いています。
子どもたちの着物には、それぞれの藩の家紋や特産物が柄として描かれ、このうち土佐藩に見立てた子どもの
着物には、土佐山内家の家紋の「三つ葉柏」が記されています。
また、「流行三人生酔」は、安政2年に江戸で起きた大地震の後に出回ったもので、なまずを肴に芸者と大工の職人、
それに商人の3人が酒を酌み交わしています。
なまずを地震になぞらえ大地震が社会に与えた影響を風刺していて、地震で客が離れた芸者が泣く一方、
復興で仕事が増えた職人が笑っている様子が描かれています。
県立坂本龍馬記念館の亀尾美香主任学芸員は「庶民が社会をどう見ていたかが色鮮やかに描かれているので
多くの人に見て欲しい」と話しています。
この展示会は、高知市の県立坂本龍馬記念館で10月3日まで開かれています。07月13日 12時39分 子規旧居跡の図面展示ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003240741.html?t=1406168599859
去年みつかった松山市出身の俳人・正岡子規が、子どものころに暮らした屋敷の図面が、愛媛県西予市にある県の
博物館で公開されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003240741_m.jpg
公開されているのは、正岡子規が16歳で上京するまで暮らした当時の松山市にあった屋敷の図面で、およそ50
平方メートルの平屋建ての間取りが描かれています。
床の間がある8畳の接客用の座敷や、家族が生活した6畳の居間、台所など、4つの部屋がまとまっている様子が、
わかります。
また、表門には、木でできた簡素なつくりであることを示す「腕木門」という文字が記されています。
松山藩士だった子規の父・正岡隼太は、禄高14石の下級武士で、この図面は隼太が藩に提出した公文書に
あたるものでした。
博物館では、松山藩が所有していた武家屋敷の図面を数百枚収蔵していて、去年秋、史料を整理していたところ、
「正岡隼太居屋敷」と記されたこの図面が見つかったということです。
研究にあたった県教育委員会の井上淳専門学芸員は、「子規が暮らした屋敷の図面が公文書の形で見つかったのは
初めてで、これまで関係者の証言などで知られていたのが裏付けられた」と話しています。
この図面は、西予市にある愛媛県歴史文化博物館で来月末まで公開されています。07月24日 08時02分 歌や芝居で民権運動学ぶttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013040851.html?t=1406243832312
明治時代に高知県で盛んだった自由民権運動について、夏休みの子どもたちが歌や芝居などで学ぶ催しが24日、
高知市で開かれました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013040851_m.jpg
この催しは、明治時代、高知県から全国に広がった自由民権運動について、子どもたちに関心を持ってもらおうと
高知市が毎年、夏休みに開いています。
高知市の自由民権記念館で開かれた催しには小学3年生から中学3年生まで90人あまりが参加しました。
子どもたちはグループに分かれて5つのコーナーを回り、このうち明治時代の演説会を再現したコーナーでは、
監視の警察官が立ち会う中、弁士の演説で会場がしだいに白熱していく様子を体験しました。
また別のコーナーでは高知県出身の自由民権運動の指導者、植木枝盛が作詞した「民権かぞへ歌」
を子どもたちが三味線や太鼓の伴奏で歌い、当時の雰囲気を味わっていました。
小学5年の男の子は「歴史が好きなので参加しました。自由民権運動のことを詳しく学ぶことができてとても
ためになりました」と話していました。07月24日 21時18分 子規編集の新聞「小日本」展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003269651.html?t=1408067665980
近代俳句を確立した俳人、正岡子規が編集責任者として発行に携わった新聞、「小日本」を紹介する企画展が
松山市で開かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003269651_m.jpg
この企画展は、子規が編集主任を務めた文芸中心の新しい新聞、「小日本」の創刊からことしで120年を迎えたことを
記念して、子規の仕事ぶりを知ってもらおうと子規記念博物館が開きました。
5万部発行されたという「小日本」の創刊号は、これまでの新聞とは違い、▼挿絵を多く使ったり、▼すべての漢字に
ふりがなを振ったりして見やすくする工夫をしているほか、▼俳句をふんだんに掲載し、全国から投句を呼びかける
など俳人ならではの斬新な紙面構成になっています。
また、子規が弟子の高浜虚子にあてて送った書簡は、「小日本」に掲載されていた紀行文の続きを早く書いてほしいと
催促している内容で、子規の奮闘ぶりがうかがえます。
学芸員の上田一樹さんは、「子規が明治時代の有名な作家たちとどのように交渉し、どのような作品を載せていたか
など編集者としての子規を知ることができる貴重な資料ばかりなので、注目してもらいたい」と話しています。
この企画展は、松山市の子規記念博物館で今月31日まで開かれています。08月15日 08時36分 戦時中の資料集めた展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023789441.html?t=1408085047460
赤紙と呼ばれた召集令状や戦地からの軍事郵便など戦時中の資料を集めた展示会が鏡野町で開かれています。
この展示会は、鏡野町教育委員会などが戦時中の人々の暮らしや平和の大切さなどを多くの人に知ってもらおうと
企画したものです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023789441_m.jpg
会場には、合併前の旧富村役場が発行した未使用の召集令状をはじめ、軍隊で使われていた双眼鏡や水筒、
それに小学校の奉安殿に納められていた教育勅語など戦時下の写真や資料、およそ50点が展示されています。
中には、部隊の規模などが外部にもれないよう検閲済みの判が押された軍事郵便や事実と異なる戦況を伝える
当時の新聞など日本が置かれていた当時の状況を如実に示す資料もあります。
このほか見送りのため出征兵士を取り囲む人々や戦死者の合同慰霊祭などの様子を写した写真など、戦時中の
状況を知る上で、貴重な資料が並んでいます。
この展示会は、鏡野町の奥津温泉にある奥津歴史資料館で、来年の3月31日まで開かれています。08月15日 12時43分 子どもの情景写真展(徳島県)■ 動画をみるttp://www.jrt.co.jp/nnn/movie/news8672895.html
子どもを撮影した写真を通して昭和の懐かしい徳島を振り返る企画展が徳島市の県立文書館で開かれています。
この写真展は、阿南市に住むカメラマンの木田英之さんが、昭和30年代から40年代に撮影した子どもたちの写真、
70点を展示しています。ttp://www.jrt.co.jp/nnn/news8672895.html
団塊世代のこども時代をテーマにしたこの組写真は、紙芝居に熱中したり、薪を背負って歩いたりする姿をとらえた
作品で、全国の公募展で特選に輝きました。ttp://www.jrt.co.jp/nnn/picture/JRT_28951.jpg
遊山箱を手に生き生きとした表情を見せるこの写真も喜びにあふれていて思わず笑みがこぼれます。
純朴な子どもたちの姿を通して社会の移り変わりを感じとるこの写真展は、10月26日まで開かれています。
[ 8/17 16:42 四国放送]坂東主任専門員 古き良き時代、ある意味 忘れてはならない時代を 誇張せずにストレ-トに
子どものありのままの姿を撮っている それが時代の移り変わりを より一層我々に強く訴えている 捕鯨の勢子舟に体験乗船http://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013898951.html?t=1408660601530
かつて捕鯨が盛んだった高知県室戸市で、21日、漁に使われていた「勢子舟」と呼ばれる舟の体験乗船が行われました。
室戸市では、江戸時代から明治時代にかけて「勢子舟」と呼ばれる手こぎの舟で、さかんに捕鯨が行われていました。
きょうの体験乗船には、高知県内や大阪市などから中学生や高校生など30人あまりが参加し、はじめに櫓の
使い方について説明を受けたあと、復元された2隻の「勢子舟」に分かれて乗り込みました。
参加者は全員、櫓を漕ぐのが始めてで、最初は戸惑った様子でしたが、次第にコツをつかみ、お互いに声をかけ
あいながら、漕いでいました。
中には、船酔いしてしまったメンバーもいましたが、3時間あまりでおよそ6キロ離れた目的地の漁港に無事到着
しました。
参加したメンバーは、「とてもしんどかったけど最後までやり遂げられました。いい思い出になりました」と話していました。
08月21日 20時43分 高松市 古い道具と昔のくらし展ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140924_3
明治から昭和にかけ、家庭で使われていた生活用具などを集めた「古い道具と昔のくらし」展が、
高松市で開かれています。昭和20年代の冷蔵庫です。上の段に氷を入れて食材を冷やしていました。
高松市の香川県立ミュージアムで開かれている「古い道具と昔のくらし」展は、
子供たちに昔の暮らしぶりを想像してもらおうと開かれたものです。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140924_3.jpg
明治から高度成長期までの生活用具や、家電製品65点が展示されています。
戦後、急速に普及した足踏み式ミシンです。服装が和服から洋服に移り、嫁入り道具の一つとなりました。
1959年・昭和34年発売の白黒テレビです。売り出し価格は、当時の大卒初任給の6倍以上でした。
この展示は、香川県立ミュージアムで11月9日まで行われます。 三豊市 志保山で 「風穴」を再発見ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140926_10
三豊市の山で、明治時代に使われていた天然の冷蔵庫、「風穴」の跡が見つかりました。
この風穴を地域の歴史を伝える資料として保存しようと、地元の有志が復元に取り組んでいます。
山道を登ると見えてくるのが、石垣に囲まれた天然の冷蔵庫「風穴」です。三豊市仁尾町の志保山です。
風穴は、地下水に冷やされた風が岩の穴から吹き出す場所で、冷蔵庫のなかった時代に、
天然の貯蔵施設として活用されてきました。岩穴の前に、線香を置くと風が吹き出しているのがわかります。
志保山の風穴は、明治時代に養蚕業に使う蚕の卵を保管する施設として作られたとされています。
しかし、志保山の風穴は、半世紀以上も所在が分からなくなっていました。
この跡を見つけたのは、地元に住む真鍋正和さんです。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140926_10.jpg
真鍋さんは、幼いころ遠足で訪れたことのある風穴を探し始め、2012年にその場所を特定しました。
風穴が見つかったときは石垣が崩れ土砂に埋もれていましたが、真鍋さんは地域の歴史を伝える貴重な資料として
保存しようと、地元の有志と協力し復元に取り組んできました。
半世紀ぶりに姿を見せた、天然の貯蔵施設「風穴」です。
自然を体感できるとともに、地域の歴史を伝える貴重な資料として注目されそうです。 文化庁長官 別子銅山を視察ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005160391.html?t=1412716939964
文化庁の青柳正規長官が新居浜市にある別子銅山の産業遺産を訪れ、鉱石の貯蔵庫跡などを視察しました。
愛媛県で開かれる会議に出席するために来県している文化庁の青柳長官は、新居浜市の職員らとともに別子銅山の
東平遺跡を訪れました。
標高750メートルにある東平は、別子銅山の最盛期だった大正時代に採鉱本部が置かれた場所で、今も、
多くの産業遺産が残っています。
青柳長官は、遺跡が見渡せる高台で、市の担当者の説明を受けながら、かつて生活用品を運搬していたリフトの
停車場跡などを視察しました。
このあと、青柳長官は、鉱石を保管していた貯蔵庫跡を見て回り、東平の歴史について、最盛期には、3000人余りの
人が暮らし、病院や学校があったと説明を受けていました。
視察のあと、青柳長官は、「ここは、東洋のマチュピチュとも言われていますが、それ以上の迫力を感じました。
もっと広い地域で公園として開発するなどして、多くの子どもたちに、産業遺産を見てもらいたい」と話していました。
10月07日 19時05分 古い建物保存でまちづくりをttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035338131.html?t=1414105526329
善通寺市の街中に残る数多くの戦前の建物を今後の街づくりに生かそうと、地元の市民や行政関係者などが
旧陸軍施設などを見学しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035338131_m.jpg
善通寺市には旧陸軍の関係施設をはじめ戦前に建設された古い建物が数多く残されていて、地元の市民や大学生
などおよそ60人が実際に建物を見学しました。
参加者はまず、国の重要文化財で、100年以上前に建設され、軍の社交の場として使われていた「旧善通寺偕行社」
を見学しました。
このあと参加者は旧陸軍の司令部で、現在は陸上自衛隊第14旅団の部隊が執務室として使っている、
「旧師団司令部」を訪ねました。
自衛隊の担当者が歴代の師団長が使っていた執務室を案内し、当時、使われていた机やイス、
それに天井の四隅に菊の御紋が描かれていることなどを説明すると、参加者は真剣に担当者の話を聞いていました。
参加した女子大学生は、「歴史のある建物が残っているのはすごいことだと思いました。
積極的に行政が残していくべきだと思います」と話していました。
戦前の建物の多くは防衛省など市以外が所有していることから、善通寺市は今後、
関係省庁や建物の所有者との間で保存に向けた話し合いを進めていきたいとしています。10月23日 19時45分 久米南町で今と昔の写真展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023144551.html?t=1416217005991
ことし、町が誕生してから60年を迎えた久米南町で町の人たちが昔撮影した写真と同じ場所で同じメンバーで取った
写真などを展示する「ふるさと写真展」が、開かれています。
この写真展は、「還暦」を迎えた久米南町の歩みを多くの町民に実感してもらおうと企画されたもので会場の
久米南町文化センターには、町の人が昔、撮影した思い出の写真と同じ場所で撮影した写真などあわせておよそ
100点が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023144551_m.jpg
このうち久住悟さんと美作尾さん夫婦は町が誕生したちょうど60年前に結婚したということで新婚当時の写真と
同じように悟さんはスーツで美作尾さんは着物で仲むつまじく並んでいます。
また、小学校の時に仲良しだった女性2人は、52年前に撮影された公園の滑り台の前で当時と同じポーズで
写っていて今回の撮影をきっかけに久しぶりに一緒に買い物に行ったというエピソードが紹介されています。
このほか、閉校になった小学校の全景写真や昭和29年にバス路線が開通したときのボンネットバスの
懐かしい写真なども見ることができます。
この「ふるさと写真展」は、11月30日まで久米南町文化センターで開かれています。11月17日 13時38分 明治の「デザインと黎明」展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003255061.html?t=1416471051319
和風と洋風のデザインが織り交ぜられた明治時代のいすやテーブルなどの調度品の展示会が松山市で開かれています。
展示会は愛知県犬山市にある明治時代の貴重な資料を展示している「博物館明治村」が松山市の「坂の上の雲
ミュージアム」で開いていて、いすやテーブルなどの調度品、11点が展示されています。
このうち、国賓などを接待する社交場だった「鹿鳴館」の木製のいすは、丸みを帯びた洋風のデザインに、竹の節の
ような彫りを加えたり、金のまき絵を施したりして、和風の装飾が取り入れられています。
また、皇太子ご夫妻のお住まいとして使われていた、「迎賓館赤坂離宮」のいすは、当時の日本では珍しい革張りに、
皇室の菊の紋章が金で型押しされ、和と洋が見事に調和した装飾で格調高く仕上げられています。
このほか、和風の草や花の文様が施されたテーブルやクロスなどもあり、訪れた人たちは西洋の文化を取り入れた
当時の日本に思いをはせていました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003255061_m.jpg
坂の上の雲ミュージアムの田邉浩司さんは、「明治時代の調度品に特有の和洋折衷のデザインが見どころなので、
当時の職人の工夫をよく見て堪能してほしい」と話していました。
この展示会は、松山市の坂の上の雲ミュージアムで12月28日まで開かれています。11月20日 14時40分 勝浦町の住宅登録有形文化財にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023273871.html?t=1416614853295
勝浦町で、江戸時代から明治時代にかけて建てられた、かつての庄屋の住宅の建造物が、国の登録有形文化財に
登録されることになりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023273871_m.jpg
国の登録有形文化財に登録されるのは、勝浦町坂本にある江戸時代からの旧家だった、森本家の住宅の離れ座敷や
蔵などです。
このうち、明治時代の後期に建てられた瓦葺きの「離れ座敷」は、漆喰の壁の一部が水を表す青色に塗られています。
防火の意味を込めていて、こうした色使いは、江戸時代にはなかった自由なデザインだということです。
離れ座敷の内部は、屋久杉などの銘木やサルスベリなど、多様な木材が用いられているほか、雄大な松の枝が絡み
合う精巧な装飾が施された欄間があり、県内で、明治時代に建てられた近代の和風建築を代表するものとなっています。
離れ座敷のほかにも、江戸時代末期に建てられ、その後、明治時代後期に改装された主屋や、明治40年に完成した
蔵など、5件の建造物が今回、国の登録有形文化財に登録されることになっています。
今回の登録で、徳島県内の国の登録有形文化財は、合わせて118件になります。11月21日 19時01分 登録有形文化財に7件の建造物ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023354911.html?t=1416645081908
浅口市にある江戸時代後期に建築され医院としても使われた住宅、姫井家住宅など県内の7件の建造物が新たに
国の登録有形文化財に登録されることになりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023354911_m.jpg
国の登録有形文化財に登録されるのは浅口市鴨方の姫井家住宅の主屋と長屋門、それに、倉敷市児島の梅壮本館、
別館などあわせて7件です。
このうち、姫井家住宅は江戸時代から代々医者を輩出した旧家の住宅兼医院で、主屋は、木造平屋建てで江戸時代
後期に建築されたとみられています。
大正時代には洋風の外観の建物を増築し、診察室や待合室、手術室、薬局として使用されたということで近代の地方
の町医者が住宅を使ってどのように医院を営んだかを今に伝えています。
また、長屋門は、木造2階建てで明治前期に建築されたとみられ、漆喰塗りの格子窓が風格ある景観を作っています。
梅荘は塩田で財をなした野崎武左衛門の孫が日露戦争に勝利した記念に建てた別荘で現在は店舗として利用
されています。
「離れ」は半月や梅鉢など様々な形の窓が独創的で、明治・大正期の「お座敷」の発達を今に残しています。
今回の登録で岡山県内の登録有形文化財は、あわせて271件になります。11月22日 12時29分 登録有形文化財 新たに3件ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013232731.html?t=1416880098133
明治後半に建築された田野町の酒造会社の酒蔵や、江戸時代からの商家の住宅だった佐川町の「旧浜口家住宅」
など3件が、新たに国の登録有形文化財に選ばれました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013232731_m.jpg
これは、国の文化審議会がこのほど答申したもので、このうち、明治37年創業の田野町の酒造会社、「濱川商店」の
酒蔵は、創業の時期に建てられた土造り2階建てで、現在も酒蔵として使われています。
しっくいの外壁と、風や雨から建物を守るために段々に取りつけられた「水切」と呼ばれる瓦が土佐地方の土蔵の
特徴を示し、蔵の建つ川岸の景観を引き立てています。
酒蔵の1階には仕込みを行うスペース、2階にはこうじを発酵させる「こうじ室」などがあり、建物を支える柱には近くの
山林でとれた杉が使われています。
「濱川商店」の濱川尚明社長は、「とても光栄でうれしいです。これからもまちの景観を守っていきたいです」と話していました。
また、江戸時代からの商家の住宅だった佐川町の「旧浜口家住宅」は、木造2階建ての主屋に外側に張り出して
作った格子、「出格子」を並べていて、地域の歴史的な景観の中心的な役割を担っています。
さらに、香美市のかやぶき住宅、「渓鬼荘」は、明治から昭和にかけて活躍した歌人、吉井勇が建て生活していたもので、
山間部の農村に静かなたたずまいを見せています。
これで、高知県内の建造物で国の登録有形文化財はあわせて271件となります。11月25日 08時49分 幕末から昭和の高知絵画展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014146521.html?t=1419147566094
幕末から昭和にかけての高知県の風景や人々の暮らしの様子を描いた絵画の展示会が高知市で開かれています。
高知市の高知県立美術館で開かれているこの展示会には、幕末から昭和にかけて高知県で活躍した画家12人が
描いた油絵や版画、水墨画など80点あまりが展示されています。
▼このうち幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、金蔵通称「絵金」の「土佐年中風俗絵巻」は、年末に開かれる
骨董市や門松に使う松を持つ男の姿などが表情豊かに描かれています。
▼また戦前、高校で教員を務めながら画家として県内各地を描いた楠永直枝の油絵、「高知城」は、
田園風景が広がる中、遠くに城の天守や当時の県庁を見ることができます。
高知県立美術館の高木瑞季学芸員は「懐かしい風景が数多く描かれているので、現在の風景と比較して楽しんで
ほしい」と話していました。
この展示会は、年末年始で美術館が休館となる今月27日から元日までを除き、来年2月末まで開かれています。
12月21日 12時53分 ドイツとの交流 カルタにttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024281701.html?t=1420542365822
ドイツとの交流の歴史を知ってもらおうと、高校生が作ったカルタやすごろくを子どもたちが楽しむ催しが、6日、
鳴門市で開かれました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024281701_m.jpg
鳴門市は、第1次世界大戦で捕虜になったドイツ兵の収容所があり、ドイツ兵と地元の住民が親しく交流していたことが
知られています。
この交流の歴史を伝えようと、鳴門高校の生徒およそ20人が去年の春から10か月ほどかけてカルタとすごろくを作り、
6日、鳴門市で地元の子どもたちなどに披露しました。
このうち、カルタは、生徒たちが資料を集めて44枚の読み札を考えたもので、それに合わせた絵札を一枚一枚、
色鉛筆などで丁寧に描いています。
「ま」のカルタには「松江所長、武士道精神でふ虜を厚遇する」と書かれていて、
参加した子どもたちは歴史を学びながら正月の遊びを楽しんでいました。
参加した小学生の女の子は「いっぱいカルタがとれて嬉しかった。
ドイツのことが詳しく分かって良かったです」と話していました。
また、制作した高校生は「歴史について子どもたちが新しく気づいてくれることもあり楽しくできました。
カルタやすごろくを増やしていろいろなところでやっていきたい」と話していました。01月06日 19時13分 f6 rss3 [28日 19:10]5/28 03:52 宇野港の巨大煙突 まもなく取り壊しへ
玉野市の宇野港にある巨大な煙突をご存知でしょうか。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20150528_8.jpg
フェリー乗り場近くでほぼ1世紀にわたって港を見守ってきた煙突が、まもなく取り壊されようとしています。
本州と四国とを結ぶ、フェリー乗り場の近くにそびえる煙突です。
地域の人や、フェリーを利用する乗客にも親しまれてきました。
取り壊しの準備が進んでいるのは、玉野市宇野にある高さ66mの巨大な煙突です。
大正8年=1919年に、「宇野第二発電所」の一部として建てられました。
1940年ごろに発電所は廃止されましたが、煙突は、70年以上にわたって残されてきました。
この発電所によって、塩田が広がっていた宇野全域に電力が供給できるようになり、石油ランプの生活から、
電気のある生活に変わっていきました。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150528_8
地元の漁師にとっては、煙突があることで、沖から一目で港の場所が分かると言います。
大勢の人であふれた連絡船、そして、フェリーの減便まで、時代を見つめ続けた煙突です。
煙突は7月までに撤去され、跡地にはショッピングセンターの建設が予定されています。
1世紀近くにわたり、地域の人に愛されてきた風景がひとつ、消えようとしています。 「清潔」テーマの資料展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035203441.html
かつては多くの家庭で使われていた「洗濯板」や「たらい」のほか、明治時代の薬の看板といった清潔や衛生にまつわる
ものを集めたユニークな展示会が高松市の県立ミュージアムで開かれています。
この展示会は、食中毒などが流行する時期にあわせて、衛生について考えるきっかけにしてもらおうと開かれたもので、
感染症の予防を呼びかける戦前の絵はがきなど「清潔」をテーマにした道具や資料、40点が展示されています。
このうち、明治時代に今のさぬき市の薬屋の軒先にかけられていた看板は、体の中にいる病気の原因のムシを
抑えるという薬を宣伝したもので、下痢やひきつけなどさまざまな病気を引き起こすとされた15匹の独特の姿をした
ムシと子どもが描かれています。
また、かつては多くの家庭で使われていた洗濯板やたらいなど日常の衛生にまつわるなつかしい道具なども展示
されています。
県立ミュージアムの長井博志学芸員は、「この展示を通じて清潔さや衛生といったことについて県民の皆さんに改めて
考えてもらうきっかけになればと思います」と話していました。
この展示会は、7月20日まで開かれています。
06月03日 13時29分 岡山戦災の記録と写真展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024664481.html
昭和20年6月29日に岡山市の市街地が爆撃を受けた「岡山空襲」の日を前に、岡山市北区で被害の状況や当時の
暮らしぶりを紹介する展示会が始まりました。
この展示会は、1700人以上の犠牲者が出たとされる、昭和20年6月29日の「岡山空襲」について知ってもらおうと、
岡山市が毎年開いているものです。
会場の岡山市北区の岡山シティミュージアムには岡山空襲に関する175点の資料が展示されています。
このうち、岡山市内の保険会社の営業所長が上司にあてて作成した岡山空襲の報告書は、今回初めて展示されたもので、
部長自身がやけどを負いながらも九死に一生を得たことや、職場の仲間を探し回る様子などが生々しく記されています。
また岡山出身の画家、佐藤一章が、昭和20年11月ごろに描いた風景画には、焼け残った岡山城のやぐらとともに、
仮設の建物が描かれ、復興の始まりを告げています。
岡山空襲展示室の猪原千恵学芸員は、「戦後70年たち、当時のことを知ることが難しくなる中、資料を通して、
戦争をやってはいけないことを感じてほしい」と話していました。
この展示会は、7月5日まで、岡山市北区の岡山シティミュージアムで開かれています。
06月12日 19時57分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024664481_m.jpg f7 rss1 [12日 19:10]6/22 03:32 岡山戦災の記録と写真展始まる
今年で戦後70年です。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150612_9
今月29日の岡山空襲の日を前に、写真や資料で戦争の悲惨さを今に伝える展示会が岡山市北区で始まりました。
70年前の6月29日、岡山空襲は岡山市街地の約6割を焼き尽くし、1700人以上の命を奪いました。
会場には、空襲での被害の様子を伝える写真や資料、体験談など約400点が展示されています。
今回初めて公開された岡山空襲の翌日に書かれた手紙です。http://www.rsk.co.jp/news/photo/20150612_9.jpg
けがを負いながら必死に逃げた様子など、生々しい当時の状況が記されています。
この企画展は、岡山市北区の岡山シティミュージアムで7月5日まで開かれています。 明治から昭和の徳島資料展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025556121.html
明治から昭和にかけて、徳島県で起きた出来事やポスターなどの資料を集めた展示会が徳島市で開かれています。
これは、徳島市内の愛好家の60代の男性が集めたもので、明治から昭和にかけて出回ったポスターやチラシ、
それに各地の地図など30点ほどが展示されています。
このうち、「廃藩置県」翌年の明治5年に、旧徳島城で開かれた「展覧会」のカラーの版画絵は、全国的にも早い開催に、
大勢の人が徳島を訪れ、にぎわった様子が描かれています。
また、大正2年、円形のコースで競われた「円形競馬」のポスターは、現在の徳島市の蔵本一帯にあった陸軍の練兵場
で、畜産業や農家の人たちが娯楽として楽しんだ競馬の告知だいうことです。
このほか、▽明治25年、台風で当時の徳島市内の80%ほどが浸水したことを示す災害地図や、
▽昭和30年、現在の三好市山城町で開催された大相撲・地方巡業でこの時、大関だった初代・若乃花らが描かれた
貴重なポスターなどもあります。
訪れた徳島市の70代の男性は「昔の地図は今と違うし、ポスターは、懐かしさもあり、おもしろいですね」と話していました。
この資料展は徳島市の市立木工会館で、6月28日まで開かれています。
06月17日 12時24分 戦後70年 徳島の情景絵画展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025698971.html
戦後70年の節目に合わせて、徳島の戦前、戦中、戦後のさまざまな情景を描いた絵画の展示会が、
徳島市で開かれています。
この展示会は、徳島城博物館が戦後70年の節目に合わせて企画したもので、徳島市の画家、飯原一夫さんが
みずからの体験をもとに戦前、戦中、戦後の徳島の情景を描いたおよそ70点を紹介しています。
このうち、「新町橋の旗行列」は、徳島市中心部の新町橋で日中戦争での戦勝を祝って子どもたちが旗を手に行列する
様子を描いています。
一方、戦後をテーマにした作品では、▼昭和20年7月の徳島大空襲で一面焼け野原になった市街地に終戦後、
早くも建ちはじめたバラックの家や、▼木造平屋建てだった徳島駅から降り立つ復員兵など、戦災から復興していく
街や人々をていねいなタッチで描き出しています。
時代とともに移り変わっていった徳島の様子を生き生きと描いた作品の数々に訪れた人たちは、感慨深そうに
見入っていました。
会場を訪れた徳島市の83歳の男性は「懐かしさとともに、戦争の足音が再び聞こえてくるのではといろいろなことを
考えさせられました」と話していました。
この展示会は、徳島市の徳島城博物館で8月16日まで開かれています。
06月23日 12時28分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025698971_m.jpg f3 rss2 [01日 12:10]6/30 20:28 「岡山の歴史と文化」展 開催ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20150701_1.jpg
岡山の歴史や文化の発展に貢献した先人を紹介する企画展が、岡山市北区の岡山シティミュージアムで開かれています。
企画展「岡山の歴史と文化」は、岡山シティミュージアムが公募した市民学芸員の研究をもとに企画されました。
明治以降の岡山の発展に尽力した人の功績に焦点を当てたもので、今年で5回目です。
日本児童文学の三大作家のひとり、坪田譲治です。いまの岡山市北区島田本町で生まれました。
会場には、書斎で使われた家具などが並べられています。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150701_1
ガラス工芸家の赤澤清和さんの作品です。岡山市に工房を構え後進の指導に努めました。
企画展「岡山の歴史と文化」は、岡山シティミュージアムで7月5日まで開かれます。 レトロな生活道具の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023087581.html
昭和20年代から40年代に使われていた懐かしい生活道具などを集めた展示会が、新見市で開かれています。
「昭和の遺産展」と題したこの展示会は、新見市新見の喫茶店が店の二階のスペースを使って開いているもので、
昭和20年代の終わりから40年代初めにかけて新見市内の家庭で実際に使われていた真空管ラジオや旅行かばん、
機械式の計算機など5点です。
このうち、旅行かばんは中に昭和28年の小学生向けの新聞が敷かれていてちびっこ相撲の大会の記事が一面を
飾っています。
またこちらは昭和30年代に役所や企業などで使われていた国産の機械式計算機で、横に付いているハンドルを
手で回して使うものです。
展示会を開いている喫茶店のオーナー、土山浩司さんは、「昭和の懐かしいものが商店街の軒先などに飾られていると、
新見がもっと魅力のある、すてきなまちになると思い、展示しています」と話していました。
「昭和の遺産展」は、7月20日まで、新見市の茶寮御殿町新見のギャラリーで開かれています。
07月05日 19時09分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023087581_m.jpg 2015.7.11 12:24 D 今治で「昭和のくらし展」開催 <7/11 12:24 >
昭和の生活道具や暮らしぶりを紹介する展示会が今治市で開かれています。
丸くてシンプルなちゃぶ台の脇にはしゃれた開閉式のトースター。
ささやかな暮らしの中に戦後復興を経て高度経済成長に突入しようとする息吹が垣間見える食卓です。
今治市吉海町の郷土文化センターで昭和の空気を感じさせる企画展が開かれています。
この企画展では大正から昭和20年代の生活用品およそ250点を使って戦後の人々の暮らしの風景をセット風に
再現しています。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=48408
センターでは「昭和の時代を懐かしみ、まだまだゆったりとした時代の空気を感じて欲しい」と話しています。
「昭和のくらし展」は9月30日まで開かれています。 昭和の暮らし展ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150721/3495031.html
懐かしい家具や家電などを集めて昭和のくらしぶりを再現した展示会が今治市で開かれています。
今治市吉海町にある吉海郷土文化センターでは、地域に住んでいる人たちが実際に使っていた家具や家電など250点
余りを展示して、戦後まもない昭和の暮らしぶりを再現しています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003495031_m.jpg
このうち、昭和の家族団らんのイメージがある「ちゃぶ台」は、実際に昭和30年頃に使われていた直径75センチほどの
木製のもので、台の上には、とっくりやお箸などが並べられています。
また、「蓄音機」は、昭和30年代に使われていた手で回してレコードを聴くタイプで、当時、非常に珍しく、レコードを聞く
際には近所の子どもたちを集めて音楽を楽しんでいたといいます。
そのほか、今では非常に貴重な扇風機やトースターなども展示され、訪れた人たちは、熱心に見ては懐かしんでいました。
展示会を見に来た60代の女性は、「小さいときにちゃぶ台で食事をしたのを思い出しました懐かしい感じがして良かった
です」と話していました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003495031.html
この、「昭和のくらし展」は、今治市の吉海郷土文化センターで9月30日まで開かれています。
07月21日 09時06分ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150721/3495031_8003495031_m.jpg 夏の民具 思い出展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013470011.html
「夏」をテーマに、明治から昭和初期にかけて人々の暮らしの中で使われてきた民具などを集めた展示会が高知市で
開かれています。
高知市の春野郷土資料館で開かれているこの展示会にはかつて夏の時期に実際に使われていた民具などあわせて
7点が地元のお年寄りが当時の暮らしを振り返るコメントとともに紹介されています。
▼このうち昭和初期に使われていた「扇風機」は、首の部分が短く全体が鉄で出来ていたため、今の扇風機とは違って
とても重かったと記されています。
▼また「蝿取り」という道具は、ガラス製で、直径20センチほどのカボチャのような形をしていて、容器の部分に
米のとぎ汁などをため、えさにつられて容器の中に入り込んだハエを捕らえる仕組みになっています。
春野郷土資料館の津野彩香さんは「夏に実際に使われていた民具に触れてもらい、当時の暮らしぶりを感じて
もらいたい」と話していました。
この展示会は来月30日まで、高知市の春野郷土資料館で開かれています。
07月21日 09時02分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013470011_m.jpg f5 rss5 [23日 19:10]7/23 03:35 24 July 2015 4:10 am 栗林公園の商工奨励館 讃岐の迎賓館に
国の特別名勝、高松市の栗林公園にある商工奨励館が改修工事を終え、来月開業することになり、
内覧会が開かれました。目指すのは「讃岐の迎賓館」です。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20150723_7.jpg
栗林公園の商工奨励館は、建築から116年がたつ明治時代の建物で、おととしから耐震化などの改修工事が
進められてきました。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150723_7
これまで公開されていなかった本館2階の展望テラスも開放され、栗林公園の景観が一望できるようになります。
また、北館は結婚式の披露宴や音楽イベントなど、様々に利用できるホールとして一般にも貸し出されます。
西館には、香川県産の食材を使うカフェレストランも設けられます。改装を終えた商工奨励館の利用開始は来月1日です。 幕末の志士と交流も 掛け軸ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023605631.html
幕末の志士と交流のあった、美馬市の寺の元住職が書いたとみられる掛け軸が見つかり、徳島市で展示されています。
見つかった掛け軸は、美馬市の願勝寺の元住職、美馬君田の直筆とみられ、縦70センチ、横30センチの大きさです。
君田は、幕末に高杉晋作や坂本龍馬と交流があり、高杉らをかくまった罪で投獄されたと伝えられています。
掛け軸は、伊勢神宮など3つの神社の神様によるお告げを伝える内容で、最後の1行にある「馬諧」という署名と印から、
君田によるものとみられています。
また、裏には、「前願勝寺」と「嘉永七年九月」という日付けが書かれ、君田が、寺の住職を辞めて琴平町に移り住んだ
年に書いたとみられるということです。
去年、美馬市の古文書収集家が香川県の旧家から購入したもので徳島城博物館の専門家は、
「君田が住職の地位を捨て、幕末の活動に飛び込んだ時期の作品として貴重な史料だ」と分析しています。
また、展示を主催する徳島市地場産業振興協会の上杉和夫理事長は、「幕末の激動の時代に徳島は無縁だった
印象があるが徳島に美馬君田のような人がいたことを知ってほしい」と話していました。
この掛け軸は、同じ時代の士族が書き残したペリー来航などの記録集などとともに、8月2日まで徳島市の市立木工
会館で展示されています。
07月28日 12時20分 醤油製造会社の倉庫から戦時中の缶詰ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20150730_7
香川県小豆島のある醤油製造会社の倉庫で、戦時中に海軍により作られた赤飯の缶詰17缶が見つかりました。
70年の時を経た缶詰の中身はどうなっているのか? 30日開封されました。http://www.rsk.co.jp/news/photo/20150730_7.jpg rss15' 醤油製造会社の倉庫から戦時中の缶詰31 July 2015 4:10 am
木箱に入れられた状態で見つかった赤飯の缶詰17缶です。
この缶詰が眠っていたのは香川県土庄町にある醤油製造会社の倉庫だった建物です。
4年前、ギャラリーとして建物が改装される時に発見されました。
中身はどうなっているのでしょうか?数千缶の缶詰を食べたことがあり缶詰博士の異名を持つ黒川勇人さんが
駆けつけました。出てきたのは、今でも食べられそうなほどふっくらと艶のある赤飯です。
缶詰はギャラリー、メイパム2号館で1日から開かれる写真展と合わせて展示されます。
戦時下の食糧事情を今に伝える貴重な缶詰、誰のために?またなぜ倉庫に保管されていたにかにも関心が集まっ
ています。(30日19:10) みかんコンテナで“通天閣”ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150806/3560851.html
大阪のシンボルのひとつ、「通天閣」をイメージして特産のみかんを運ぶコンテナを使って作った巨大なタワーが
愛媛県宇和島市に完成し、7日から一般公開されます。
このタワーは明治から大正にかけて活躍した宇和島出身の実業家、土居通夫が太平洋戦争で解体される前の初代の
通天閣の建設に当時の大阪商工会議所の会頭として関わったことから、宇和島市が「宇和島伊達400年祭」の関連
行事として作られました。
宇和島市の天赦公園グラウンドに建てられたタワーは、土居通夫にちなんで通天閣をイメージしていて、みかんを運ぶ
プラスチック製のコンテナおよそ3300個を8日間ほどかけて高さ17メートルまでに積み上げて作られました。
またタワーの入り口には「通天閣」で幸運の神様として親しまれている「ビリケンさん」の実物が設置される予定です。
このタワーは、7日10時にオープニングの式典がおこなわれたあと、8月31日まで一般に公開され、
夜間はライトアップもされるということです。
08月06日 21時39分 「文学に描かれた戦争」展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024115571.html
徳島にゆかりのある作家が、空襲の体験など、ペンを通して戦争の悲惨さを訴えた小説などを集めた特別展が徳島市
で開かれています。
「文学に描かれた戦争」と名付けらた特別展は、終戦から70年になることし、徳島市の県立文学書道館が企画した
もので、徳島にゆかりのある小説家や歌人など20人余りが紹介されています。
このうち森内俊雄さんの展示では、両親の出身地、徳島市に疎開中に体験した昭和20年7月の徳島大空襲の光景を
小説に記し、芥川賞候補にもなった「眉山」の一節が紹介されています。
町が燃える中、眉山まで逃げた人々や焼い弾によって赤ん坊を背負った人が火だるまになった様子が、生々しく
描かれています。
また阿南市出身で戦後、歌人として活躍した山下榮さんは特攻隊員として出撃後に燃料切れのため帰還して生きながら
えた自身に対し、多くの仲間を思って詠んだ「寂しよ生きて還りゆくこと」という短歌を残しています。
会場にはこのほか、徳島大空襲で母親と祖父を亡くした作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの自伝的小説なども展示され、
戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えています。この特別展は9月23日まで開かれています。
08月14日 12時17分 今治で今昔比べる写真会ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150829/4481211.html
およそ半世紀のあいだに人々の暮らしや町の様子がどのように変わったかを写真で見比べて今後の町作りにいかす
ユニークな写真会が愛媛県今治市で行われました。
この「今治今昔写真会」は地元のグループが若い人に今治の魅力をもっと知ってもらうとともに今後の町作りに
生かそうと行い市内の学生らおよそ60人が参加しました。
参加者はまず、地域の人から提供されたおよそ半世紀前の昭和30年代から40年代の今治市内の写真を元に、
当時と同じ現場に向かい商店街などの様子を撮影しました。
町の様子はほとんどが様変わりしていて、当時、撮影をした人から話を聞いたり、写真を何度も見たりしながら
シャッターを切っていました。
参加した学生は、「昔の事を知っている人と写真を撮ったり、話をしたりしてみて今との違いに驚きました」と話していました。
最後に撮った写真のお披露目会が行われ、参加者は現在との違いや今後の町作りについて話し合っていました。
今治今昔写真プロジェクト委員会の渡邉宇一朗代表は「昔の事をよく知っている方の話を聞けるというのは、
今後の事を考える上ですごく参考になりました。」と話していました。
08月29日 19時30分ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150829/4481211_8004481211_m.jpg 民衆が見た戦争展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024583391.html
昭和の戦時中から戦後にかけての資料や写真を通して徳島の人たちが、戦争の時代とどのように向き合っていたのか
伝える特別展示会が徳島市で開かれています。
「民衆が見た戦争」と名付けらた展示会は、戦後70年のことし、徳島市の県立文書館が企画したもので役場や個人が
所蔵する昭和12年から太平洋戦争の終戦直後までの書類や写真などおよそ100点が紹介されています。
このうち「戦地へと赴く民衆」の展示では息子の出征を祝うため、家の前に、名前を大きく書いた板を飾り、盛大に
送り出した様子が、実際に掲げられた板と写真で紹介されています。
また、小松島市出身で陸軍の飛行兵だった林道夫さんが残した日記には、
「新生活が始マッタノニ俺ノ心ハ少シモ新シイ英気ガ起コラヌ」と書かれていて、戦地に赴く前にわだかまりを
抱えていた率直な思いがつづられています。
このほか当時の県立三好高等女学校の女学生たちが、鉄砲を使って射撃訓練している写真もあり、戦争に女性たちが
巻き込まれていく様子がわかります。
徳島県立文書館の金原祐樹課長補佐は「公文書は中まで読む機会があまりないと思いますが、この機会にじっくり
見てほしい」と話していました。
この特別企画展は10月25日まで開かれています。
09月03日 12時27分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024583391_m.jpg [17日 12:10]江戸から明治 土木コレクション展
江戸から明治にかけて当時の土木技術者が描いた土木工事の図面が、岡山市北区の岡山シティミュージアムで
公開されています。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20150917_1.jpg
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150917_1
今から125年前に岡山市内に水道管を敷くため、当時の技術者が書いた図面です。
半田山の配水池から市街地に向けての水道管が細かく書かれています。
この展覧会は、現在の岡山の礎を築いた先人の土木技術の高さを知ってもらおうと、土木学会などが開きました。
1692年に岡山藩の池田綱政が行った、沖新田の干拓の地図です。
地名が一目で分かるように色分けされ、水門の位置や水路の場所も正確に書かれています。
「土木コレクション2015」は、今月20日まで、岡山シティミュージアムで開かれます。 f6 [14日 19:10]反戦の文士 谷崎潤一郎の石碑除幕
反戦の文士ともいわれる谷崎潤一郎が戦時中に疎開していた勝山に、
文学的な価値がある資料が残っていることをPRしようと石碑が建てられ14日、除幕式がありました。
日本を代表する文豪の1人、谷崎潤一郎です。
終戦間近の1945年7月、家族とともに疎開したのが真庭市勝山でした。
それから約1年滞在し、代表作「細雪」を執筆しました。
谷崎の原稿など貴重な資料が残っていることをPRして地域の活性化に
繋げていこうと石碑が建てられ、14日、お目見えしました。
戦時中に書かれた細雪は、大阪の4姉妹を主人公にして美しい上方文化などを描いた作品です。
…ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20151014_8
しかし、戦時下という時局をわきまえていないと軍部から追及され、雑誌への連載を断念します。
それでも、谷崎は自費で上巻を出版。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20151014_8.jpg
戦争や軍部に無言の抵抗をしたことなどから「反戦の文士」とも言われていました。
谷崎は勝山で親交があった知人の家でも筆をとっていました。
谷崎の足跡が残る真庭市勝山です。
地元の人たちは歴史や文化を継承していきたいと考えています。
今年は谷崎潤一郎の没後50年の節目の年です。
文豪ゆかりの地、真庭市勝山を広く知ってもらおうという取り組みが始まっています。 藍農家が国重要文化財指定へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025664201.html
「阿波藍」が盛んに作られていた明治から昭和にかけて藍づくりを家業としていた上板町の農家の住宅「戸田家住宅」
が、16日開かれた文化審議会で国の重要文化財にするよう答申され、近く指定されることになりました。
「戸田家住宅」は、藍の生産が盛んだった上板町にある農家の住宅で、今回重要文化財に指定されることになった
のは明治19年に建てられた母屋である「主屋」、長屋門、土蔵などと昭和12年に建てられた「東座敷」のあわせて
8棟です。
建物は長方形の敷地に主屋を囲むように並んでいて、近くを流れる吉野川の洪水に備えて石垣の上にかさ上げして
建てられています。
藍を発酵させるために使った「藍寝床」と呼ばれる作業場が当時そのままの状態で残されていて、藍の生産現場の
様子がよくわかります。
また「東座敷」と呼ばれる離れには10畳の和室が2つあり、床の間には京都から呼んだと伝えられる絵師が描いた
絵がふすまの表と裏、両方に描かれ、裏返しにすれば部屋の雰囲気を変えられる趣向が凝らされています。
県教育委員会教育文化政策課の林賢彦さんは、「藍屋敷は吉野川沿いにたくさんありますが、改築したり蔵や門を
取り壊したりという家が多く、このようにほぼ当時のままの形で残されているのは貴重です。
当時の富裕層の暮らしぶりがよく残っている住宅だと思います」と話しています。
この「戸田家住宅」は、個人の住宅のため、今のところ一般公開は予定されていないということです。
2015年10月16日 22時34分更新 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり 最後の「岡山寮歌祭」06/25 16:46nhk
かつて旧制高校などで寮生活を送っていた学生たちの間で歌われていた寮歌を披露する「岡山寮歌祭」が40年近い歴史に幕を下ろすことになり、25日に岡山市で最後の大会が開かれました。
岡山市中区で開かれた「岡山寮歌祭」には、旧制高校など34校の卒業生や遺族などあわせて200人近くが集まり、それぞれの学校の寮歌を披露しました。
卒業生は全員が85歳以上と高齢ですが、学生帽をかぶりげたや草履をはいてステージに立つと、大きな張りのある声で寮歌を歌い上げていました。
当時の寮歌の多くは学生自身が作詞作曲していて、寮で語り合った将来の目標や、スポーツの試合に出場する仲間を激励する言葉などが盛り込まれています。
「岡山寮歌祭」は昭和53年に始まり38回目を迎えましたが、参加者の高齢化のためことしで長い歴史に幕を下ろすことになりました。
岡山の旧制高校を卒業した89歳の男性は「当時、寮歌をいつも歌っていた。学生時代の思い出が詰まっている」と話していました。
「岡山寮歌祭」を主催してきた岡山寮歌振興会の金政泰弘会長(91)は「寮歌祭は青春に帰ることができる場所なので終わってしまって寂しいが、寮歌をまたみんなで歌いたい」と話していました。 江戸や明治のプロジェクト展07/04 14:33nhk
香川県で、江戸や明治時代に行われていた道路や鉄道建設などのビッグプロジェクトを支えた、讃岐国の人々の取り組みを伝える展示会が高松市で始まりました。
「江戸・明治のビッグプロジェクトと讃岐人」と題した展示会は、高松市の香川県立文書館で4日から始まり、道路や鉄道建設などの大規模事業を紹介した日記や図面など35点が展示されています。
このうち、江戸時代に日本全国の測量地図を作成した伊能忠敬が、高松藩の領内を測量した様子が当時の古高松村、現在の高松市の役人の日記に記されています。
日記には、「島は海岸の通行が難しいため船を用意するように」などの指示があったことが書かれています。
また、現在の国道32号線と33号線の元になっている四国新道の建設を進めた、現在の三豊市財田町出身の大久保甚之丞が、資金集めや理解を得るために、地域の人たちなどに送った年賀状も展示され、当時の工事の進行具合がわかります。
県立文書館の小野祐平さんは「当時の讃岐の人々が数多くのプロジェクトに関わっていたことを知ってほしいです」と話していました。
この展示会は、9月10日まで開かれています。 「夏の風物詩」展08/02 16:39nhk
明治から昭和にかけて使われていた夏の日用品などを紹介する「夏の風物詩」展が米子市で開かれています。
この展示会はエアコンや冷蔵庫などがなかった時代に暑い夏をどう乗り切ったのか当時の人たちの生活の知恵を広く紹介しようと
米子市の山陰歴史館が開いたもので、明治から昭和にかけての日用品やポスターなど60点が展示されています。
このうち、米子市の版画家、河田久寿の「おじじのかんぴょみき」は昭和初期に弓ヶ浜半島で夏の炎天下に
行われていたかんぴょうの天日干しを題材にした版画で、当時のかんぴょうの皮むき機とともに展示されています。
また、「張板」と呼ばれる長さ2メートル20センチ、幅50センチほどの板は川で洗った洗濯物を乾かす際に
使われていたもので、昭和初期には多くの女性が嫁入り道具の1つとして持参していたということです。
会場にはこのほか手で回して使う「かき氷機」や「蝿いらず」と呼ばれた料理の保存棚などが展示されています。
この「夏の風物詩」展は8月27日まで米子市の山陰歴史館で開かれています。 鞆の重伝建申請へ 秋の選定目指す[2017.7.28 19:2]rcc
福山市の鞆地区を国の重要伝統的建造物群保存地区
=「重伝建」に申請するために必要な町並み保存計画が議決されました。
市は、速やかに重伝建の申請を行う方針です。計画は、市の教育委員会会議で議決されました。
鞆地区の歴史的な町並みを維持するため
建物を修理したり増改築したりする際の基準を定めたもので、重伝建申請の条件となっていました。
議決を受け、福山市は今後速やかに国へ重伝建の申請を行い、
この秋の選定を目指したい考えです。
「住民の皆さんのご理解を頂けるように必要な説明を続けていくことが何より大事」
(福山市教育委員会・三好雅章教育長)
選定されれば県内では竹原市、呉市・大崎下島の御手洗地区に続いて
3か所目となります。 子どもたちが「錦絵」体験18:30eat
夏休みの子どもたちが明治時代に流行した錦絵を体験するイベントが、松山市の
「坂の上の雲ミュージアム」で開かれました。
このイベントは明治時代に流行した「錦絵」を通して子どもたちに明治時代への理解を
深めてもらおうと坂の上の雲ミュージアムが開いたもので、13日は、親子連れなど
およそ50人が参加しました。
錦絵は、明治時代に生きた人々の生活の様子などを描いた多色刷りの木版画で、
子ども達はその歴史を学んだあと、文字や絵が彫られた板や絵の具を使ってカラフル
な多色刷りに挑戦していました。
そして、小説「坂の上の雲」に登場する秋山好古・真之兄弟や正岡子規らが描かれた
鮮やかな版画を完成させていきました。 懐かしい鳴門の写真展08/18 06:24nhk
徳島県鳴門市では、市政が始まってからことしで70年を迎えたことに合わせて、
昭和初期の鳴門海峡の様子など市内の懐かしい風景を収めた写真展が開かれています。
鳴門市が開いているこの写真展には、昭和20年代から60年代にかけて市内の
さまざまな風景を収めた写真およそ200点が展示されています。
このうち昭和28年に展望台から撮影された鳴門海峡の写真は、鳴門市と淡路島を
結ぶ大鳴門橋がまだ建設されていないため、海と島が織りなす素朴な風景が
写し出されています。
また昭和46年に撮影された岡崎海水浴場は、家族連れなど多くの人でにぎわって
いて、当時の海水浴の人気ぶりがうかがえます。
このほか、昭和26年にセンバツ高校野球で鳴門高校が優勝した時の様子や、
今は閉校している小学校で撮影された子どもたちが笑顔で写る集合写真など、
当時の懐かしい風景を楽しむことができます。
鳴門市秘書広報課の戸島慶祝係長は「自分なりの懐かしい場所や風景を探して
楽しんでもらいたい」と話していました。
この写真展は今月22日までキョーエイ鳴門駅前店のギャラリーで開かれています。 戦争中のポスター展08/19 19:06nhk
太平洋戦争中に国威発揚や戦費の調達を目的に制作されたポスターを集めた展示会が、
下関市で開かれています。
展示会は、300人余りが犠牲になった昭和20年の「下関空襲」を語り継いでいる
地元の市民グループが、平和について考えるきっかけにしてもらおうと開きました。
下関市豊前田町にあるギャラリーには、長野県の阿智村役場から借りたポスター
17点が展示されています。
このうち、「一億が債券買って総進軍」と書かれたポスターには、「貯蓄債券」や
「報国債券」などという文字が並び、すべての国民から何らかの形で1円でも多くの
戦費を調達しようとしていたことがうかがえます。
また、「戦場に活かせ銃後の鉄と銅」と書かれたポスターは、最新情報を国民に
知らせる手段として使われていたもので、一般に「壁新聞」と呼ばれ、輸送船の材料
にするため家庭にある鍋や釜などを供出するよう呼びかけています。
このほか、国民の労働力だけでなく精神までも総動員することを呼びかけるポスター
やラジオ番組を紹介した番組表なども展示され、当時の日本が戦争に勝つことだけに
国民をまい進させていた様子が分かります。
展示会は、8月22日まで下関市豊前田町の「にししんギャラリー」で開かれています。 「古い道具と昔のくらし」展09/14 10:47nhk
明治から昭和にかけての暮らしを知ってもらおうと、かつて家庭で使われていた
懐かしい道具を紹介する展示会が、高松市で開かれています。
高松市の香川県立ミュージアムで開かれている展示会には、明治から昭和にかけて、
家庭で使われていた炭火をつかったアイロンなどの電化製品、およそ40点が展示
されています。
手回しミシンと電動ミシンを紹介する展示では、電動式が開発されたことで、両手で
布を押さえながら作業ができるようになった一方、縫う速さの調節が難しくなった
ことがうかがえます。
また、今回の展示で初めて公開される、明治40年に高松市内の郵便局で撮影された
写真には、電話交換手の女性2人と交換機が写っていて、当時は人の手を介さなければ
会話ができなかったことがわかります。
訪れた人たちは懐かしそうに展示品を眺めながら、当時を思い出していました。
香川県立ミュージアム学芸員の御厨義道さんは「明治・大正・昭和の身近にあった
ものを多く展示しています。
くらしがどのように変わったかを知ってほしい」と話していました。
この展示会は、毎週月曜日の休館日を除いて12月3日まで開かれています。 戦没画学生の作品展09月27日 12時41分nhk
芸術の道を志しながら戦争で命を落とした画学生たちの作品を集めた展示会が呉市の美術館で開かれています。
この展示会は戦争で命を落とした画学生が描いた絵などを所蔵する長野県の「無言館」から作品を借り受けて開いたもので、戦地に出兵する前に家族やふるさとの風景を描いたおよそ150点が展示されています。
このうち、中国の当時の満州で23歳の若さで戦死した東京の太田章さんの作品は、出兵する数日前に、自宅の庭に座る妹を畳一畳ほどの大きな紙に描いた作品です。
また、竹原市出身の画家で広島市で被爆し、31歳で亡くなった手島守之輔さんの作品は赤いワンピースを着た妹や、レンガ工場のある当時の竹原市内の様子を描いたものです。
作品にはそれぞれの家族などが残したエピソードも記され、訪れた人たちは足を止めて見入っていました。
呉市立美術館の角田知扶学芸員は「絵が大好きだったにもかかわらず戦争によって、夢が実現しなかった人たちの無念さを感じながら戦争や平和について改めて考えてみてほしい」と話していました。
この展示会は、11月19日まで、呉市立美術館で開かれています。 懐かしの貯金箱 展示会10/03 06:31nhk
昭和の時代などに作られた懐かしい貯金箱を集めた展示会が徳島市で開かれています。
この展示会は、日本銀行が定めた今月17日の「貯蓄の日」にあわせて徳島市の木工会館が開いていて、昭和の時代を中心に作られた貯金箱40点余りが展示されています。
このうち砲弾の形をした貯金箱には、「貯蓄報国」という言葉が刻まれていたり、説明書に「マグネシウムのくずの再生品で金属回収には関係ありません」と書かれているなど、戦時中の状況が色濃く反映されています。
また、子どもにも楽しく貯金してもらうために作られた、戦後の人気アニメのキャラクターの貯金箱も展示されています。
このほか、江戸時代末期から明治にかけて作られたという「銭箱」も展示され、上部に銭を入れる投入口があり、四方が鉄の金具で留められるなど頑丈な作りになっていることがうかがえます。
木工会館を運営する徳島市地場産業振興協会の上杉和夫理事長は「その時々の国民感情や世相が反映されている貯金箱を見て、日本の歩みを感じてもらいたい」と話していました。
この展示会は今月17日まで開かれています。 「明治150年」取り組み議論10/11 20:59nhk
来年の「明治150年」を記念した取り組みについて有識者などが話し合う会議が11日に県庁で開かれ、明治維新に関連する資料の保存や研究に対し支援を行うなどとする素案が示されました。
この会議は、来年の「明治150年」を記念した取り組みについて話し合い提言してもらうため、大学教授や経済団体の代表などをメンバーとしてことし5月に設けられ、11日、県庁で2回目の会合が開かれました。
はじめに、県の担当者がこれまでの取り組みについて「明治150年」の認知度が低いとして、実行委員会を設置しPRを強化していることなどを報告しました。
このあと、来年度以降の取り組みとして、これまであまり注目されてこなかった歴史上の人物を取り上げるほか、明治維新に関連する資料の保存や研究に対し支援を行うなどとする素案が示されました。
これに対し委員からは、「県内の大学に明治維新に関する研究機関を設置すべきでないか」とか、「子どもたちに明治維新への理解を深めてもらう副読本などを授業で採用してはどうか」といった意見が出されました。
会議の会長を務める山口大学の田中和広副学長は、「明治150年は山口に巡ってきたチャンスであり、将来に生かせる取り組みになるよう提言をとりまとたい」と話していました。
この会議では11日に出た意見などを踏まえ、来年2月をめどに県への提言をまとめることにしています。 ドイツ兵捕虜が描いたスケッチ展10月13日 14時54分nhk
第1次世界大戦中、今の鳴門市にあった板東俘虜収容所で過ごしたドイツ兵が徳島の風景を描いたスケッチの展示会が鳴門市で開かれています。
この展示は捕虜と地元の人たちが交流を深めたことなどで知られる板東俘虜収容所が今年で開所から100年になるのを記念するとともに、ユネスコの「世界の記憶」への登録を目指している収容所の資料を広く知ってもらおうと鳴門市ドイツ館で開かれています。
当時の収容所の建物の様子を始め、周辺の漁村の風景や地元の寺など捕虜のドイツ兵が描いたスケッチの原画やパネルなど25点が並んでいます。
収容所の近くにある大麻比古神社の境内を描いた直筆のスケッチは鉛筆で鳥居や周辺の木々などを丁寧に描いています。
ドイツ兵たちが収容所内で作ったカレンダーは、着物を来た子どもを描いたスケッチが挿絵として使われ、地元の人たちと交流を深めていたことがうかがえます。
鳴門市ドイツ館の森清治館長は「展示を通じて、戦争という厳しい状況でありながらドイツ兵と地元の人たちが互いに尊重しあい交流を深めた歴史を感じてもらいたい」と話していました。
この展示は来月26日まで開かれています。 湯飲み茶わんの展示会10月13日 08時03分nhk
三次市の資料館で、特徴のある国内外の湯飲み茶わんを集めた展示会が開かれています。
この展示会は、三次市小田幸町の県立歴史民俗資料館が開いているものです。
会場には、収集家の坂口恭逸氏が明治末期から昭和前期にかけて集めた国内外の湯飲み茶わん279点が展示されています。
このうち餅をつく臼をかたどった九谷焼の湯飲み茶わんは、ススキの絵が施されているほか、ふたには小さな白いウサギが取り付けられていて、秋の名月を表現しています。
また、大正から昭和前期にかけて大阪府庁の食堂で使われていた湯飲み茶わんには、尺貫法とメートル法の対照表が書かれるなど珍しいデザインです。
このほか、宮島の鳥居や、「長崎くんち」など観光名所をデザインした作品も展示され、訪れた人たちは各地の特徴ある湯飲み茶わんに見入っていました。
学芸員の村田晋さんは、「今から100年ほど前に集められたもので、全国の有名な焼き物から幻の焼き物まで個性豊かな湯飲み茶わんを楽しんで欲しい」と話していました。
この展示会は11月26日まで開かれています。(※月曜休館※10月9日祝は開館) 猪熊弦一郎の戦争画展10/20 06:54nhk
高松市出身の画家猪熊弦一郎が、第2次世界大戦中に従軍画家として描き、戦後初公開となった絵画などの作品を集めた展示会が、香川県丸亀市の美術館で開かれています。
会場の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館では、第2次世界大戦の開戦から終戦にかけての猪熊の作品や資料など、120点余りが展示されています。
このうち「○○方面鉄道建設」という作品は、戦時中に猪熊が当時のビルマ、現在のミャンマーに従軍画家として派遣された時に描いた日本軍の作戦記録画で、戦後初めての公開となります。
縦が1.8メートル余り、横がおよそ4.4メートルの巨大な油絵で、ジャングルの中で、日本軍が捕虜を働かせて鉄道を建設している風景が描かれています。
美術館によりますと、作品名が「○○方面鉄道建設」となっているのは、日本軍が作戦を秘密裏に行うために地名を伏せていたためだとしています。
このほかにも、猪熊が描いた東南アジアの人々のスケッチや、従軍画家を命じられた猪熊が残していた陸軍からの辞令など、貴重な資料も展示されています。
美術館の学芸員の古野華奈子さんは「猪熊の戦争との関わりや、戦争が彼に与えた影響を検証しようと企画しました。戦争について考えるきっかけにしてもらえれば」と話していました。
展示会は来月30日まで開かれています。 [23日 11:55]新見市で温かみある「民具」を展示. https://www.rsk.co.jp/sp/news/rsk_news.html#local_news_20171123_1
どこか温かみが感じられる明治から昭和初期にかけての道具「民具」を紹介する展示会が、新見市で開かれています。
大正時代の青い消防ポンプや、目の不自由な人のためのそろばんをはじめ、「民具」と---呼ばれる日用品や農機具など約3000点が展示されています。
ひとつの道具が何世代にもわたり大切に使われた時代でした。哲西民俗研究会などが集めて保管してきました。
当時の道具の温かみをと、ほとんどを手にとって見ることができます。
展示会は、新見市の旧哲西認定こども園で、今月26日まで開かれています。 2017/12/01「みんなのニュース」19:30 動画 130年前のレンガ再生に挑戦http://www.ohk.co.jp/news/news.php?VNO=2926 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
MNV3Z 戦前の悲惨さを知っているのは戦前に生きていた人だけ。
だからそういう人の反戦論は否定しない。
戦争を知らない子供たちなんて能天気な歌を歌っていた戦後以降の世代の反戦は
頭でっかちの上っ面な戦前否定。
戦前までの日本人は貧しくともそれを恥とは思わず、凛として立つ気品があったと思う。
高度成長はそれを黒歴史にした上での再出発だったのだから、豊かにはなっても
それに見合った文化を生み出さなかったのも致し方ない。 筋を通す、義憤に駆られる、といった価値が減衰していったのも戦前を否定してからだな。
自由の名のもとに世間からの縛りが良くも悪くもなくなって、それはそれで居心地はよくなったのだが
それに代わる価値を何も生み出せなかった。
戦後という時代そのものに繁栄もその後の衰退も準備されていたのかもしれん。 >>133
義憤に駆られたから、関東大震災で、みんなを守るため朝鮮人だという理由だけで虐殺していったんですね!
日本を天皇を、守らないといけないという義憤に駆られたから、
共産主義者だという理由で、蟹工船の作家やいろんな人達をめちゃくちゃ叩きのめして、拷問して、文字通りぶち殺したんですね!
誉れある大日本帝国はどんな事をしても戦争に勝たなければならないとの義憤に駆られたから、
中国人、朝鮮人、ロシア人の怪しいやつを捉えて、生きたまま生体解剖したり、いろんな生体実験で切り刻んだりして、ありとあらゆる恐ろしい事をしたんですね!
ソ連が攻めてきたら、
このような事が公になっては祖国の恥との義憤に駆られて
関係資料焼却、運良くまだ生きていたマルタを、皆殺しにして埋めて、なかったことにしようとしたんですね! と、このように日本人の一般的な資質を表層の政治的な断罪によって味噌も糞も一緒に葬り去ってきたのが戦後日本。
サヨクには情が通じないという好例。 人間には様々な側面があるし、どんなに身も蓋もない実態があったとして、俺の言ってることとは矛盾しない。
昔は金より大事なものがあるという価値観が建前として機能していたということを言っているに過ぎない。
どんなに不条理で理不尽な現実があっても、それを運命として甘受する能力も当時は今より高かった。 敗戦、破滅には破滅するなりの理由があるが、
上流は常に下流を搾取し、下流は唯々諾々と従う被害者という左翼史観が、戦前理解を歪めたのは確か。
仮にそれが事実だとしても、我々が敗戦によって何を得何を失ったかを冷静に検証することは無意味ではない。
戦前を称賛したところで過去に戻れる訳ではないが、現在の価値観を絶対視する傲慢からは自由になれるだろう。 明治から戦前まで
天皇が女の子を海外に売り払った
その船代で三井三菱が財閥になるほど売れた
女の子たちは全裸で売春宿の軒先に犬のように繋がれ
推測だけど妊娠したら腹を蹴られて堕胎させられたんだろね
当時は避妊具なかったでしょ
ボロボロになって死んでいった数十万人の女の子たち
それが明治の近代化の原資だった
なぜそれを教科書に書かないんだ!!
伊藤博文なんて若い頃の写真見ればわかるがチンピラ朝鮮人だぞ
愛人を殺しては新しい愛人を作るのを繰り返していた
なぜそんな朝鮮人を教科書で美化するんだ
責任者出て来い 関東大震災のとき、なんで朝鮮人は銃火器を持っていたか
皇太子暗殺を計画していたからだという
その暗殺が成功していれば日本人含めてアジアの3千万人が無駄に死ぬことはなかった
天皇も伊藤博文も朝鮮人だが、それは悪い朝鮮人であって
その悪い朝鮮人を暗殺する朝鮮人は良い朝鮮人の可能性がある
正恩はすっかり悪者になっているが、それは安倍と組んでいるからであって
これからの改心した正恩には大いに期待している
正恩は寄生虫天皇を倒せるネタを持っているからな 明治から戦前まで
天皇が女の子を海外に売り払った
その船代で三井三菱が財閥になるほど売れた
女の子たちは全裸で売春宿の軒先に犬のように繋がれ
推測だけど妊娠したら腹を蹴られて堕胎させられたんだろね
当時は避妊具なかったでしょ
ボロボロになって死んでいった数十万人の女の子たち
それが明治の近代化の原資だった
なぜそれを教科書に書かないんだ!!
伊藤博文なんて若い頃の写真見ればわかるがチンピラ朝鮮人だぞ
愛人を殺しては新しい愛人を作るのを繰り返していた
なぜそんな朝鮮人を教科書で美化するんだ
責任者出て来い 皇室は皇統が変わったと言っていた。韓国人の天皇アキヒトとミチコの部下が。
少数の韓国人で日本人を支配するという野望を持っている皇族ども。
皇統が変わったじゃねえだろ。皇族どもめ
日本人は韓国人の天皇など認めない
日本から消えろ! 韓国人 皇族どもめ
平成になってから帰化人ばかりの総理になったのは韓国人天皇のせいだ
日本人の敵 皇族 いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
6IS いまだにこんな書き込みが続くとは。
2ちゃんねるも5ちゃんねるもやはり時代に取り残された
老人ホームとなっていまったということか。。 "国際観光写真にみる1930年代写真展 JCIIフォトサロン 開催" を YouTube で見る
https://youtu.be/E9Yy7tc7fJ0&#160; ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています