.
あんまり知られて無いけど、徳川慶喜は、幕末の「慶応の改革」で幕府軍の
近代化と武器の国産化が可能になったら、李氏朝鮮を攻撃して植民地にする予定だった。

この慶喜政権による朝鮮侵攻は、老中首座の板倉勝静が上申して計画が始まり、
そのまま板倉が担当者だったが、朝鮮へ幕府軍を進出させれば、当然清朝との
軍事的衝突が有るので、板倉勝静と山田方谷は、徳川宗家バージョンの日清戦争
を考えていたと思われる。

板倉勝静は、備中松山藩の藩主であり、陽明学者の山田方谷が顧問として藩政
を見ていたが、この山田方谷こそが、幕末時から中国大陸進出を公言しており、
征韓論の祖でもある。

対馬藩士で明治時代の外交官である大島友之允は、藩士時代に山田方谷に感化され
て征韓論を説き始め、この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)
であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、大島の論は明治新政府の政局に
重大な影響を与える事となる。