禁門の変(蛤御門の変)
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禁門の変は、長州が尊皇攘夷を掲げ、倒幕のため孝明天皇を守るという意図で、幕府・薩摩などの幕府軍と京都市街地で戦い、敗退したものであった。
この後、長州藩は窮乏に耐え、倒幕の準備を整えることになってゆく。
しかし、守るべき孝明天皇が、幕府側に警護を要請したため、長州の天皇に対する帰依心は、相当無くなったと考えられる。
その後、薩摩との同盟を経て倒幕へと向かうものの、孝明天皇を廃し、孝明天皇から幼い明治天皇へ代わることで、明治政府樹立を計ったのであろう。
ここに、窮乏に耐え、長州討伐にも耐えた長州の怨念とも言える、専制志向によって、坂本龍馬を生かしておくことは、薩長同盟の立役者として、
天皇中心の政府が出来ることに対する反発と、龍馬の立場を強くする事への懸念から、龍馬暗殺を仕組んだと考えるのが、もっともふさわしいと思うのである。
それ程、禁門の変後の長州の精神的・経済的窮乏が、長州による日本国支配を当然のことと考える礎になったと思うのである。
これが、坂本龍馬を殺し、西郷を退け、薩摩の大久保利通を殺し、土佐の板垣を除け、長州閥支配の明治政府を確立していったのであろう。
禁門の変は、長州専制政府を作る大きな分岐点になったようである。しかし、それは、明治政府の政策を決定づけ、
少数の人間による専制政治の色合いが濃くなり、天皇を徹底的に利用したものの、多くの人材を喪失したことにより、江戸時代に勝ち取られた国内産業の振興という、
軍事費をほとんど必要としない各藩の旺盛な経済活動が、急速に冷え込み、農村部における貧困が広がったのであろう。
各藩の才能を生かそうとしなかった、長州閥の専制政治は、経済的には破綻を促進し、軍国主義を推し進めることに繋がって行った。
そういう意味で、明治政府の形ばかりの薩長土肥政権は、日本の英知を集めるという点で、大きく損なっていたと言えるのである。
その結果が、海外進出による資源の確保という道になったようである。 天皇家を軽視した兆候は、天皇家の古文書の閲覧が行われて、朝鮮進出を早々に取り上げたことに伺えるのである。
天皇家を奉り、冒すなどという意志がなければ、古文書に手をつけることなどあり得ないのである。
早々に、朝鮮半島への進出を取り上げたのは、長州閥が、皇室の古文書に手を出したことが伺えるのである。
その古文書に、天皇家が高句麗の末裔であり、唐と新羅の連合軍によって敗走し、植民地のような状況であった日本列島へ逃げてきたことが書かれているのであろうと思うのである。
その時、瀬戸内海の両岸に石垣や土塁を作り、その遺稿が、今も数多く残っているというのがその証拠である。
もともと、日本は、朝鮮半島の興亡に左右される状況にあったと考えられるのである。そういう点では、
氷河期から、朝鮮族が、一番早く朝鮮半島の先端に、そして、日本にたどり着いたと考えられるのである。
その後、中国の朝鮮半島支配から、ツングース族と言われる、百済や高句麗が、朝鮮半島を支配するたびに、その支配は、日本列島にまで及んだと見る方が、合理的である。
特に百済支配時の仏教文化は、鉄器の大々的な普及と相まって、日本の生産力の向上を示す大きな開花をもたらしたと言えるのである。
その後、朝鮮半島を支配した高句麗による半島支配で、同じツングース族の高句麗が日本の奥深く入り込み、半島での敗退から逃げ延びた多くの高句麗族の一団が、
日本を占領し統治し、高句麗族の敗退を覆い隠すために、新羅や唐からの討伐を防ぐために、新たな神話を作り上げて、他の民族のように装ったのであろう。人種的には、
中国東北部に住む、ツングース族に入ると思われるのである。朝鮮人とは、ほとんど同じ民族であるが、詳しく分ければ、中国東北部に生誕した民族であり、発祥地域的には中国人の一部族であるといえるのである。
日本から朝鮮半島へのたびたびの侵略は、負けて奪われた土地を取り返すための結果であった。
満州国は、発祥地での建国を目指したものであったことが、明確に解るのである。そして、日本軍国主義が、長州閥の専制政治の延長線上にある、天皇家の蹂躙の上にあることも明白である
。日本国民の持つ特有の歴史は、人類のダイナミズムを歴史として認識する大きな契機となすべきであろう。
その上に立って、東アジアでの交流と共同を協力を模索することが、新たな人類の進歩を示す大きな足跡になるであろう。 孝明天皇弑逆事件につながり、皇統はそこで途絶えたのでした。
今の天皇は明治から4代しか続いていない偽物。 というか、会津は芋を敵に回して終わってるだろ
結局のとこ幕末って、芋がゲームを支配している
芋を味方にできれば勝ち組、敵に回したら負け組
長州は会津と違って賢いから、その辺を踏まえて芋と同盟を結んだ
明治維新を興した官軍薩長に対して、賊軍となった東北諸藩が進出するのは、軍隊の登用制度しかなかった!
維新の薩長有力勢力が老いていく中で、東北出身の若手軍人が頭角を現す!
第2の維新を目指して!
かつての賊軍の汚名を除く為に。
( ̄∀ ̄)
殺すまではいかないだろ?
せいぜいボコッて拉致ぐらいじゃね?
それでも立派な国賊だわなwwwwwwwwwwwwwww 実質、会津&薩摩VS長州の戦いだから仕方ないだろ。 禁門の変では退却する長州藩士が長州藩邸(中京区河原町通御池上ル)を放火したのが出火元で
北東から南西の風にあおられて京都中に延焼したと言われているけど
この間取りを見ると疑問を抱かずにいられない。
http://iup.2ch-library.com/i/i0689295-1342309904.jpg
妙なことに
北隣の角倉別邸は高瀬川船入を挟んでいるとはいえ無事
南隣の加賀藩邸や船入を挟んだ2件隣の対馬藩邸も無事
東側は鴨川を挟んでいて無事
西側の本能寺は長州藩邸を砲撃した薩摩藩の砲撃により
有名な火伏せの大イチョウを残して諸堂は先に焼け落ちている。
長州藩邸の放火を原因と断定するのは無理がありませんか? 会津も初代が家光の御落胤だったというのが250年後まで祟る貧乏くじを引いたな。
なんで薩摩ってあんなに強かったんだ?
ちなみに俺は父方が代々の鹿児島人なのだが、俺自身は本州の血が混じったせいか虚弱体質だw
幕末、明治とあれだけ活躍したのが信じられない。
鹿児島に行けば強くなる秘伝の薬でもあるのか? 薩摩には示現流という一太刀食らっても相手を斬る剣術があって、薩摩藩士はほとんどその使い手だから この戦も薩摩無双だったな
会津はむしろここで一度潰走でもして軍制改革に目覚めた方が
後々のことを考えると幸せだったかもしれない この戦で名を挙げ、英雄と呼ばれた二人…
それは一橋慶喜と西郷吉之助である。
やがてこの双龍は、この国の主導権を賭けた争いに命を燃やしていくのであった。
おしまい 民家を焼いた会津藩
鷹司邸を焼いた一橋
どっちが原因かわからないけど京都の大半が焼けてしまった。
そして放火を示唆して西本願寺を恫喝した新撰組
下衆の極みだね 鷹司邸は戦闘中だからやむを得ないと思うが
戦闘後の民家への放火はなあ >>32
〜の乱や〜の変の〜に付くのは、大体年号(応仁の乱とか)か乱が起きた場所(島原の乱とか)だからなぁ
単に長州の乱っつったら、長州で何か起きたの?と思われる可能性のが高い
天狗党の乱はそのまんまで分かり易いけどね あ、ついでだが。
長州藩が最終的に幕府軍に負けてれば、禁門から征伐までの出来事を纏めて
長州の乱とか呼ばれてた可能性はあるんじゃないかな 長州軍のミニエー銃と言っても実態は、薩摩名義で購入したエンフィールド銃です。
逆に言わせて貰えば、エンフィールド銃で武装していない幕府軍が第二次長州征伐で、長州軍に勝てる筈が無いのです。 >>2,3
陰謀史観乙
藩の滅亡犠牲にしても国益第一に考え行動したのは長州様くらい
今日でも党利党略だの利権が第一でこれわ難しい 今週の大河はいよいよ蛤御門か。
会津は薩摩のおかげで命拾いしたな。
西郷はかなり計算高く出兵し、それが的中したと思う。 ドラマでは銃撃戦だった。もう少し白兵戦の描写が
有れば完璧だったな。 長州側の視点が全く描かれてなかったな
まあ、会津視点だからしょうがないのか 慶喜、新撰組、篤姫、八重の桜、白虎隊も定期的にやるし
佐幕派視点ばっかじゃね
龍馬伝ってどうだったんだっけ >>47
竜馬伝は何を描きたかったのか支離滅裂だなぁ
力入れてるとこは殆どイミフな創作だし、日本史の流れは完全無視だし、弥太郎照之は無意味に壮絶だし
ttp://livedoor.blogimg.jp/jin333/imgs/8/b/8b84de99.jpg?2b40f0ce
アレに比べたら今年の八重は十分見れるよ
綾瀬はるかはミスキャストだけど 司馬の小説の中で新政府軍の指揮を取る事になった大村益次郎が
「西郷率いる薩兵は私の想像を超えて、負けると計算してたものまで勝っていく」
みたいに語ってたけど、司馬の創作とも思えないもんな
ほんと大村の計算すら超えてそう 池田屋事件について質問。
脱藩中の吉田稔麿はともかく脱藩していない桂小五郎を新撰組が斬った場合問題になりますか?
朝敵になる禁門の変以前の長州藩士が京都に滞在するのは全く問題がないはずですし。 >>3
その民族の部分がちょっと違う。
現在の天皇家や長州は別として、日本民族のDNAと現在の朝鮮民族とは共通点が極めて少ないことは
最近のDNA研究の発達で明らかになっている。 >>3 高句麗語・百済語はツングース語系ではない。
日本語・新羅語とのチャンポンのような言語であってツングース語とは関係が薄い。
また日本語と朝鮮語も関係が薄い。高句麗系が日本へ入っていたらもっと朝鮮語と類似していたはずだが、帰化人は完全に日本語に飲み込まれている。
到底、支配階級などになっていないということだ。 >>52
クーデターを計画していた犯罪者なら、正規の長州藩士でも
当然ながら切られても文句言えない。むしろ藩の立場がヤバいから、
脱藩して浪士になる者が多かった。長州だけは藩自体が革命化していたから
桂も高杉も藩士のまま活動していたんだが。 8.18以後は藩邸の留守居役以外は入京禁止のはずだ。 >>56
吉田松陰は宮部鼎蔵らと東北旅行に行く約束したのに、通行手形が出なかったから
脱藩した、と言う子供じみた理由。高杉は藩と意見が違うと頻繁に脱藩していた。
共に「藩に迷惑掛けないように」という性質とは違う。
>>57
通るぐらいは問題ない。京は交通の要衝だから、通らない訳にもいかない 稔麿はその時脱藩してたっけ?
藩主の嘆願書を江戸に持っていく途中で京に滞在してたと思うけど
ところで、池田屋事件は色々本が出てるけど、禁門の変について
詳しく解説してる本は無いのかなぁ >>59
週間歴史ビジュアルとか
その時歴史が動いた、とかに蛤御門について書いた
回が有った様な気がする。 >>60
ありがとう。
そうやって個別に取り上げてるものを探せばいいのか >>52
素直にお縄になればかろうじて生きていたかもわからんが、とりあえず公務執行妨害の現行犯だから。 仲間が拘束されたのでどうするか話し合っているだけで殺されるw
意味わからん 話し合いの内容
新撰組の屯所を襲撃して
組員を皆殺しにして古高を奪還し、御所を襲撃して帝を長州に拉致して松平容保を血祭りに上げる事。
実現していたら大変だねw やたら現代の概念を持ち出して新撰組を警察とか言ってみる割に、拷問で引き出した自白の内容は信用するんだよね、新撰組オタは >>65
でっち上げどころか、なんか妄想入ってるよな
とにかく新撰組が拷問をかけて聞き出したらしいっていう
漠然としたものしかない
しかも新撰組は古高をなぜかすぐ殺してるし
長州側の史料には京都を火の海になんて計画は一切出てこない
とくに長州の面々は大量の手紙や日記を残してる筆まめさん達が多いのに
そんな大きな計画があったのなら触れないわけがない
禁門の変に関する裏事情やいきさつは
高杉なんかは獄中に入った時に残した日記に事細かく書いている 新撰組がいても何もできんがな。
あいつらは丸腰の相手に闇討ちで襲い掛かるか、集団で一人を取り囲む汚い戦法ばかり使ってきた。
武装した軍隊には通用しない。むしろ長州勢に取り囲まれて袋叩きにされるだけだぞ。 >具足十領・槍二十五筋 ・短筒三挺・矢五百本・弓十一張
たったこれだけの押収品で御所の警備を突破するとか無茶 長州は御所じゃなくて会津の本陣を攻撃すべきだった薩摩も一橋も会津と長州の私闘なら介入はしなかった
そして別動隊を御所に派遣して帝を長州に拉致すれば事は成功していただろう。 平家みたいな遷都を強行したら世間の反発あるから
中川宮 二条 近衛あたりを殺して終わりじゃね? 新撰組は幕府側では強い方だよ
ただ軍隊でないから100か200程度しか居ない
土方なんかは軍隊指揮官として有能で後に官軍悩ましたからね 幕軍は五万から七万いたと言うけど戦ったのは会津と薩摩が主で後は空気だよな 打倒徳川で動く長州
徳川擁護で動く会津
有利な側に付く薩摩
空気な様子見の諸藩
まんま幕末を象徴してるw維新で会津と長州の立場が逆転して薩摩の陣営が逆になっただけだからなw 迫力が有った戦いの描写
日テレ 奇兵隊
NHK 八重の桜
テレ東 竜馬がゆく 長州は首脳ら辺りの決定に間違いがあった。禁門の変は周布や久坂、真木らの無謀で
浅はかな考えで引き起こされた戦と言えよう。その点高杉は冷静だった。 周布は久坂や高杉をサポートするって役割をしてたけど
禁門の変では進発に反対して止めてたんだよけどね
ただ、どうにもならなかったね・・・
最後、高杉の牢屋に酔っぱらって喝を入れに乱入したり
責任を一手に感じて、悩んで自刃した 蛤御門の変を時代劇で描写する時は会津と長州が刀槍でチャンバラしてから薩摩が銃隊で会津を助太刀するという事が多かったが
大河は双方、銃撃戦だった
大河は割と史実重視だから実際もあんな物だったのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています