幕末・明治の食文化について
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>>96
味噌をすってるのがいいねw
自家製味噌をおかんが作ってたときはすってた いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
9DV 肉の種類は、東西での馬の文化の違いだな
西日本は老廃牛から
【食】「西の牛、東の豚」という嗜好分布の意外な背景★2
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1575974631/l50
「西日本では農耕に牛を使うことが多く、老廃牛の肉に親しみがあった。
一方、
東日本の農耕は馬が多かったことの影響が考えられる」という――。 > あと
>屠畜を排他的利権とするエタの数の差な
> 西日本はエタが圧倒的に多かったから、より廃牛を食肉に加工しやすい環境だった。
> 東日本ではエタの数がボトルネックになって肉類の供給は低調で
> 肉食の本格的普及は、それまでのエタの屠畜利権から自由な
> 豚という新しい家畜を待つ必要があった。
> だから東日本ではエタを介さず供給できた豚肉をよく食うわけだ。 >>56
かなり長期間、日本人の相当数の主食…雑穀、だった
江戸時代の農民の食生活を『錦町史』では、以下のように記述している。
引用元) www.ysn21.jp/~eipos/data/2006/WB18_001/kyoudoryouri/annkozusi/newpage1-4-2-2.html
★> 『寛永十九年(1642年)の『郷村諸法度』には農民の食物は雑穀を用い、
> 米を多く食べないように申し渡す事とあるが、
> 年貢などの負担が大きくて、
●> こうした法度がなくても農民は米を食べることはほとんどできなかった。
(中略)
※> 農家の食料は米と麦を二対八、又は三対七にして二度炊きにしたり、
> 粥や雑炊にして、
※> 雑穀を主食にしたものが多かった。
●> さらに、米麦の不足を補うために、大根飯、菜飯を食べ、
> 春先には令法(りょうぼ)の若葉を入れた令法飯や令法雑炊として食べ、
> 米を作る農民が米を食べられなかったのである。』 現代のようなパン・インスタント麺・ポテチ等も無く
肉体労働エネルギー源としても、米は不足していた時代が長いし
明治時代の農村の大半は、雑穀のが多い混ぜ飯で
「軍隊では日に3度も白い飯が食える」宣伝
また大正の米騒動から第二次大戦、で結局、米不足は戦後やっと解消 >>56 参考に↓
≫ 昭和初期まで農家も米を食べられなかった〔引用元:キヤノングローバル戦略研究所〕
≫ cigs.canon/article/20220823_6945.html
> 当時は、米は高級財で、麦が劣等財だった。市場経済であれば、裕福な人は米を食べ、貧しい人は麦を食べる。
> 安い価格の米の配給制度を維持して、貧しい人にも米を食べさせる必要はない。
> 池田勇人の発言の趣旨は、
> 大蔵大臣としては金のかかる統制制度は廃止して自由な市場経済に移行すべきだというものだった。
…
★> 戦前、米を食べられるのは裕福な家庭に限られていた。米は「銀シャリ」と呼ばれ、
> 一般人のあこがれだった。
★> 日本人がすべて米を食べられるようになったのは戦後のことである。
> 明治から昭和の初期にかけて、かなりの農家は米を食べていなかった。
> 小農は、作った米を売って肥料代や生活費を捻出し、
> 自分たちは麦やアワ、ヒエといった雑穀に大根などの野菜を加えて増量した雑炊を食べて、
> 飢えをしのいでいたのである。
> 小農にとって、米はめったに食べられない高級品だった。
> 米を食べても、それは通常の商品としては流通しない屑(くず)米だった。
> 柳田國男は、明治時代の農民は、ハレの日以外、米を食べていなかったと書いている。 関東ローム層で畑だらけ、など
水田よりも、畑の面積が大きい地域があちこちに多かったし
馬産(重要な軍需産業)はヒエに依存していた
例えば東北地方などで
ヒエの実は人が食べ、ヒエの茎・殻を馬の飼料にしてたが
馬産の衰退、耐冷性の水稲品種を昭和時代に開発、でやっとヒエが減少した そ、そうか、妹か、うん。なるほど。そっかあ、妹か、ふむ。妹が欲しいなぁ~ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています