八甲田山雪中行軍遭難事件
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映画や小説のスレはあるが、「史実」を語る場がないので… >>68
もし本当にリメイクするなら、もうちょいテンポよくまとめてほしいのと、
徳島大尉がちゃんと案内人に敬礼する名シーンはちゃんと再現してほしいね。
史実に忠実にしてしまうと、徳島大尉までいやな奴になっちゃうからな。
あれがないと神田大尉側とのよい対比にならない。ああいうよい創作は残してほしいだね。
ただ今の俳優さんたちでは、あの渋い「これぞ軍人!」な雰囲気を出すのは難しいだろうなあ… >>105 ホントにコメント頼みます。実は八甲田山第九次雪中行軍というスレでも
コメントよろしくと書かれているのですが、このスレがなぜかずっと書きこめない
ようになっているのでコメントがかけるスレはここだけかもしれません。
キンコさんのサイトでは、キンコさんも青森まで見に行かれるそうで、つまり
とてもお元気そうなので安心しました。 >>106
原作って新田次郎の原作?当時は軍人を貶すのが流行していたから仕方ないよな。
本当はどうだったか分らん?
いや…史実を見ると、もっと酷い扱いだった可能性もかなーり強いけどw 俳優陣は全然聞いた事ない面子なんだよ いや 自分が疎いだけかも知れないけど…
もう来週だね 公開 ドキュメンタリー八甲田山のフェイスブックを見るのが楽しみですが、最近「青森以外での日本での
公開は予定がなく、次に見られるのは早くても来年のテレビだろう」というツイートがありました。
これは青森に見に来るお客さんを増やすためのガセネタなのか、それとも真実なのでしょうか?。
日本の史実なのに、東京や関西で公開なしとかありえへん。 朽ちた手押し車とうい映画なんか、内容が鬱すぎるからと
主演の三國連太郎が死んだという理由がなきゃ公開されなかったりする 青森で観ました。映画とはぜんぜん別物で遭難事故という観点から
専門家や生存者の肉声インタビューもあって科学的に分析したりする
まさにドキュメンタリーでした。CGの地図が出てどういうふうに遭難
したのか、すごく分かりやすかったです。俳優は無名で八甲田山の
オールスターキャストとは比較になりません。が、中身は映画八甲田山よりも
ドキュメンタリー八甲田山のほうがリアルでした。地元のテレビでメイキングや
監督インタビューが放送されてました。欧米のマーケットが主で
日本の上映は一番最後らしく、今度の青森だけは特別みたいな
ことを言ってました。八甲田雪中行軍事件に興味のある人は
ぜったいに観たほうがいいかと。遭難原因も自分としては
驚きの新発見でした。 【青森】八甲田 深夜、無人の別荘から119番通報 誤報?それとも…[14/05/18]
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1400392241/
■深夜、無人の別荘から119番通報 誤報?それとも… 青森・八甲田
無人の別荘から深夜に119番? 17日午前0時すぎ、青森市駒込深沢にある別荘の固定電話から
消防へ通報があった。しかし、通信状態が悪く、電話の向こう側から声は聞こえなかった。
一刻一秒を争う事態かもしれない―。青森消防本部は発信場所を特定し、消防署員ら10人が、
40分ほどかけて現場に到着。しかし、辺りは真っ暗で、家の中に人影はなく、傷病者も見当たらなかった。
現場は八甲田雪中行軍遭難事件があった地区で、木々がうっそうと生い茂る。同本部通信司令課の
担当者は「何らかの原因で通報されたと思われるが、よく分からない」と困惑。やむを得ず、誤報として
処理することになるとしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140518-18104206-webtoo-l02 (Web東奥 5月18日(日)10時42分)配信 >>113
ドキュメンタリー八甲田山の宣伝キャンペーンの一環かもしれない。
兵士たちもキャンペーンに参加してるのかも。 雪の多い地域は電線が切れて回線が不通になったり
絶縁が悪くてショートしたりする。
固定電話が勝手に110番通報しました。
http://oshiete1.watch.impress.co.jp/qa7500282.html この事件の当時は119番は無かった。
何も怖いもの無し 弘前31連隊 37名編成 1月20日弘前を出発
踏破距離210キロ 11泊12日
明治35年 弘前31連隊 八甲田雪中行軍予定行程まとめ
1月20日:弘前〜小国
1月21日:小国〜切明
1月22日:切明〜銀山
1月23日:銀山〜宇樽部
1月24日:宇樽部〜中里
1月25日:中里〜三本木
1月26日:三本木〜増沢 ( 1日行程で三本木〜田代の予定だったが変更 )
1月27日:増沢〜田代
1月28日:田代〜田茂木野
1月29日:弘前31連隊 田茂木野に到着す
1月29日:31連隊 同日中に青森に到着
1月30日:31連隊浪岡に到着 31日に弘前に帰営
踏破距離210キロ 11泊12日 明治35年 青森5連隊 八甲田雪中行軍予定行程まとめ
1月23日:青森〜田代
1月24日:田代〜増沢
1月25日:増沢〜三本木 ( 古間木駅から汽車で青森に帰営の予定だった )
上記は神成大尉の計画書による
●古間木駅 現 三沢駅
1月26日:筒井の青森5連隊本隊 雪中行軍隊の捜索を開始
1月27日:未明に後藤房之介伍長が捜索隊により救出、津川連隊長 遭難を知る
1月28日:救助のための仮設電話が敷かれた青森〜田茂木野
1月29日:31連隊 青森に到着
1月30日:31連隊浪岡に到着 31日に弘前に帰営
明治35年 青森5連隊予定
1日目:田代:約5里半:村落露営:携行糧秣給養
2日目:増沢:約4里半:村落露営:携行糧秣給養
3日目:三本木:約5里:古間木駅から汽車で帰営
田代は田代温泉と記載ある 目的地は田代
:この当時想定されていた戦地が 両国系争の地・満州である事は明らかだった
:ロシアは旅順艦隊を駆使し津軽海峡と陸奥湾の封鎖すると想定
:艦砲射撃による軍事基地・鉄道・道路の破壊を想定
:最終的には陸兵が上陸して来ると想定
ロシア陸兵が上陸する可能性が最も高いのが、軍隊の配置が手薄な八戸周辺と想定
となると浅虫、野辺地を通り三本木平野にこれを迎え撃つ
しかし万が一敵の砲撃によりこの輸送路が遮断されると、八甲田を越えて軍隊を
送り込まなければならない。
夏はともかく、冬は全く途絶状態になってしまう。
厳寒の八甲田踏破は未開拓の分野であり、それゆえ何としても解決しなければならない
大きな課題だった、と同時に満州での対露戦に深く結びついた格好の軍事演習でもあった。
のへじ : 野辺地
田茂木野村 15戸
三本木 5300名の大村落 筒井の営舎より51キロ 1889年(明治22年)
青森5連隊 奥野大尉が雪中下 酸ヶ湯を経て十和田湖畔に到達
大変な難儀のうちに踏破に成功した : 16P参
1899年(明治32年)
青森5連隊 加藤大尉が雪中下 小川原湖の氷上通過を成功させる
1901年(明治34年)
青森5連隊 第3大隊
:青森〜田代〜増沢〜三本木 を雪中下踏破する計画を立案するが
「 不時の障害のため 」未実施
当時雪山を歩くのは 樵夫(きこり)か猟師くらいで
銃装した部隊が雪中行軍するのは初の試み、冬山登山の概念すら生じていない時代
こうした中にあって究極的には三本木への進出を念頭に置きながらも
ひとまず八甲田山麓の田代温泉を目的地とする一泊二日の雪中行軍演習を計画した。
田代までの行軍を成功させたなら、残りの行程は容易に踏破できるものと考えていたので
あった。
そして……
1902年(明治35年)
青森5連隊八甲田山雪中行軍遭難事件発生
行軍の目的は 雪中青森より田代を経て三本木平野に進出し得るや否やを判断するため、
田代に向いて一泊行軍を行い、若し進出し得るとせば、戦時編成歩兵一大隊を以って
青森屯営より三本木に至る行軍計画並びに大小行李特別編成案を立つるにあり
遭難始末 より
ちなみに
三本木は現、青森県十和田市である 予備行軍
映画では「まるで雪の中の遠足だなー」の件
雪中行軍で対露戦に優位を示すならば、
行李編成の戦闘部隊構築は必須の案件だった
1月18日
小峠まで予行行軍を実施 : 標高390メートル
ソリ1台は小隊編成(40名)
カンジキ隊20名が踏破路を踏み固め 1台のソリ隊が続く
ソリ牽引には兵卒4名を配置した 交替制で
:ソリ重量112s( 30貫 )
:小峠まで4時間 帰路は2時間
「この日天気晴朗にして積雪三尺ないし五尺、表面やや堅硬にして良好の景情なりき」
遭難始末 より
この報告を受け山口少佐は
予行軍の経験によれば屯営 田代間の行軍を1日に要するは出来なき事にあらず
もし途中、不慮の障害を受け田代に到達出来ない場合は、途中に露営を成すのみ
遭難始末 より
1月18日予行行軍は成されていたが来る1月23日までの期間
露営設営演習は成されていなかった
なお、この演習に神成大尉従卒は参加しているが、
本予備行軍には参加せず。
映画では神田大尉は予備校軍に参加しているが史実は異なります
加えて
山田少佐(史実=山口少佐)は
明治34年2月に山形32連隊から青森5連隊に着任したばかり
着任11ヶ月目で行軍に参加し救助後に亡くなられています。 山口少佐の最期を看取った中原軍医は、実は山形からの応援。
以前からの顔見知りだった可能性が高い。
軍人になる前も東京外国語学校で同窓。(山口:フランス語、中原:ドイツ語) 中原貞衛 一等軍医 彼は山形32連隊の同窓だったのですね
初めて知りました。 青森5連隊の末路
生存者の発見は2月2日が最後であった。病院に収容されたのは17名で、このうち6名が
治療も空しく死亡している。
最終的に命を保ったのは 210名のうち僅かに11名
1月23日 午前 06:30 第5連隊後進軍開始
1月27日 午前 10:00
発見 :大滝平にて
後藤房之助 伍長 :1月27日入院治療・2月8日手術
1月31日 午後 16:00 発見 :大瀧下流谷底にて
山口少佐 :2月1日夜入院治療・2月2日 午後21:00死亡
倉石大尉 :2月1日夜入院治療・2月18日・全治退院
及川一等卒 :2月1日夜入院治療・2月11日手術
山本一等卒 :2月1日夜入院治療・3月26日手術
1月31日 午前 9:00
発見 :鳴沢北方炭焼き小屋
氏名不記載 :1月31日入院治療:2月9日手術:3月14日死亡
阿部卯吉 一等卒 :2月1日入院治療:
小原中三郎 伍長 :2月1日入院治療:2月9日手術、2月22日手術、
1月31日
発見 :大瀧下流谷底にて
後藤惣助 一等卒 :2月1日入院治療:2月9日手術
2月02日
発見 :平沢の炭小屋
長谷川貞三 特務曹長 :2月3日入院治療:軽症
阿部寿松 一等卒 :2月3日入院:2月7日手術、四肢切断
佐々木正教 二等卒 :救出後亡:2月7日午後 四肢切断
小野寺佐平 二等卒 :救出後亡:2月7日午前11時 四肢切断
:中原貞衛 一等軍医執刀
本件 雪の八甲田で何が起こったのか より ★日中戦争も山本五十六が引き起こした戦争である
■海軍・米内、山本五十六体制が無差別爆撃を強行し、戦争を煽り、
陸軍参謀本部が進めた日中停戦をぶち壊した。
山本五十六の目論みは海軍の利権拡大、予算の獲得が目的で、
大量の航空兵力配備。その宣伝のため南京無差別爆撃は強行されたと考えられる。
第二次上海事変を口実に(船津和平工作などから見て停戦は十分可能だった)
南京無差別爆撃を強行し、反日勢力を刺激し無理やり日中間を泥沼戦争状態にした。
海軍次官・山本五十六が主導したと考えられる南京無差別爆撃の結果
・米国大統領が歴史上初めて日本を批判(隔離演説)
・国際連盟は海軍による南京無差別爆撃に対し非難決議を採択。
・国共合作が実現。バラバラだった全中国人が抗日で一致団結してしまった。
・蒋介石夫人がアメリカ議会で日本の無差別爆撃を非難。アメリカ議会の賛同を得る。
以後、山本五十六海軍次官は米内海相とともに
黒潮会(山本五十六が育てた戦争宣伝組織)を利用して徹底して新聞で中国討伐を煽りまくり
陸軍参謀本部の日中停戦工作(船津和平工作、トラウトマン工作)をことごとく妨害し潰した。
何もかも、海軍の利権拡大が目的だと考えられる。
山本五十六は記者クラブ(黒潮会)を利用し、
新聞社を戦争扇動機関に育てた日本の先駆者である。 人種が違いますんでね。人種が。
日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種
北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人 青森5連隊は1月18日の予備行軍を終えて後
或る決断を下した。
行軍隊は戦闘の最小単位とされる中隊( 200人 )規模と決定
行軍命令は山口ユ少佐により下令されるが
実際は青森5連隊上層部の8師団の思惑と考えられる
しかし
なぜ2青森5連隊00名で行軍する事に至ったのかを考えてみました
その結論
@雪中行軍に耐えうるであろう被服が200名分存在したという事由
A日英同盟が眼前に控えていた
B日英同盟を想定し被服が200名分が中央から提供されていた
日英同盟
第一次日英同盟
1902(明治35)年1月30日に調印され即時に発効した。
明治35年 1月21日の出来事 失礼
或る決断を下したのが明治35年 1月21日の出来事です >>106
格闘王・前田日明なら高倉健 以上の雰囲気を出せるよ
だから前田日明を徳島大尉の役にしてリメイクすればいいんだよ 学生時代に探検部だったから雪山に何度か行ったが
夜は動いちゃダメだわ、テントでじっとしているしかない。
当時なら雪洞掘ってじっとしていればよかった
昼間もブリザードならじっとしているしかない。
地形が見えないのに動いても迷うだけ
下山したくて下に行くのは素人。沢に迷い込むと脱出出来ない事もある
立山で4日間動けなかった時は、家族が心配しているだろうなあと思って
気が滅入ったけど、食料は余裕があったから助かるだろうとは思った 1月23日 午前6時30分
明治35年 1月23日 : 1902年
白手袋に藁靴を履いた210名の将兵たちが兵舎前に集合
整列、点呼の後 神成大尉より行軍の序列や衛生面に関する注意喚起あり
其の後進軍開始
青森に比し 比較的良好なる天候にして、雪は粉々と降りつつありしも
格別驚くべき程のことにあらず。
現に22日、田茂木野の住人 中村運作なるもの田代より単行帰来せしと云うをみても、
積雪の左程に深ざるを証するに足るなり
遭難始末 より
気温零下6度 幸畑到着は 7時40分
15分の小休止 先頭配置の1個小隊はカンジキを履く
幸畑から田代へは駒込川と横内川に挟まれた尾根道で
この道を登ってゆくと馬立馬という高所に到達し
残りは3キロ程の下り坂となる
田代には元湯と新湯の2つの温泉があり
建物は4〜5軒 冬には小山文次郎という住民一家が山篭りをして
湯治場を守っていた 当時冬場の交通は途絶えてしまうため
3ヶ月分の食料が蓄えられていたと云う
5連隊遭難始末記では
田代には番人の家族3人と炭焼き職人15人住居してありて
米5〜6俵と濁酒5樽と酒 1本を貯えてある
と調査済み 210人の仮泊する施設の能力も備えていたようだ
なお青森隊が目指したのは新湯である
「遭難始末記」の口絵写真写真の説明にはこうある
行軍が目標とせし所は実にこの地点にありしも、不幸、其の目的を達成せずして
空しく恨を平沢以北に遺したり 幸畑を過ぎると登り坂となる
1個小隊−3個小隊−特別小隊−大隊本部−行李輸送隊 の順で行軍
先頭配置の1個小隊において
3名2名の連鎖配備のカンジキ隊が雪を踏み固め
踏破路を拓き進軍する戦術を展開
上記編成にて山道を6キロ程進み
田茂木野の集落に到達した時ある事件が起きたと
「萬朝報」:よろずちょうほう
明治35年 2月8日付けは伝えている
「幸畑を出て田茂木野に至りし時、農民出でてその到底前進すべからずを切言して之を
諫止せしも隊長等は之を叱り飛ばして進行したり」
案内料がほしくてそんな事を言っておるのだろう
という映画のくだりはこの件 かくして 5連隊は予行行軍で到達していた小峠を目指したが
この頃から様々な問題や事件が始まっていたと云う
田茂木野東方より 傾斜漸く急にして、行李の運動大に歎み、
隊に跟隋するに能はず。
こんずい : 跟隋 = 追随
行軍隊はしばしば想外の休止を行ふて
その来着を待つの止むを得ざるに至り、行軍は渋滞せり。
11時小峠丘陵に達するや、行李は到底四人を以って
運搬する能はざるをもって、
伊藤小隊をしてこれに助力せしめたり
遭難始末より 雪中行軍演習における行李隊のソリは14台
その総重量は300貫(1.2トン)
その内訳
米1斗6升 缶詰め肉35貫 漬物6貫 清酒2斗
炊事用の銅平釜と鉄釜 各2 薪60貫 木炭44貫600文目
円匙(えんぴ)= スコップ : 10
十字鍬(つるはし) : 5
ソリ重量 1台あたり
本行軍時 80キロ : 予行行軍時112キロ
ソリ1台は予行行軍より32s軽く編成されていた
にもかかわらず
青森5連隊のソリには雪上での横滑りを防ぐカジが無く
横滑りを制御出来ずに常に谷側の傾斜に流れ進行が妨げられる
なお行李隊の指揮は炊事係
当時の炊事係りは隊内で屈強無比の精鋭群であり
部隊構成員の生命にかかわる戦闘糧秣を託すに足る人物が担当していた
にもかかわらず本隊に遅れるという顛末は
本行軍が未知かつ試験的な演習だった事を
示しているのではないだろうか。 十一時三十分、小峠丘上に達し、叉銃休憩し行李の到着を待って午食す。
此時、風雪漸く強く、寒気従て加はり、携帯の米飯は半ば凍結して純白色を呈し、
兵卒は三々五々集団して、或るいは立ち、多くは手套着用の儘( まま )喫食せり
行程距離表
青森→幸畑田→田茂木野→小峠 → 大峠→ 大滝平→賽ノ河原→按ノ木森→中ノ森→馬立場→鳴沢 → 平沢 → 田代新湯
0km 3.4km 2.3km 3.9km 1.3km 2.0km 1.4km 0.7km 0.9km 1.1km 0.8km 0.9km 1.3km 予行行軍では 1里踏破に 2時間を要した
生還した小原・村松伍長の談
行軍隊が小峠付近に於いて永井軍医から
風雪も強く、気温も低下している。
これからは益々雪も深く、風も強くなるであろう。
現装備では、この風雪に耐えられない。
特に行李輸送対と行動を供にしていてはますます行動が鈍重になる。
一応帰隊しては・・・
との意見具申あり。
( 氷点下11度 ) しかし帰隊の判断は見送られた
約二十分休止の後、再び進軍を開始せしが積雪益深く、
加ふるに登降の傾斜急峻なるを以って
行李の行進愈困難を極め、
その速度一時間に二キロメートルから三キロメートルに過ぎざりき
遭難始末 より
:もし途中、不慮の障害を受け田代に到達出来ない場合は
:途中に露営を成すのみ
:露営を成すの止むを得ざるに至る事あらんも保し難し
:之が為薪炭をも携行する筈なり
という上記の方針により帰隊は想定の外だった
一体、軍人は早く退却したという譏りを受くるより、
進み過ぎたといういう譏りの方を甘ずる
事件後 立見第8師団長の談話 せっぱ詰まった状況では、責任のない奴は
「勇ましい事」「カッコいい事」を言いがちで、
部隊の絶対的な責任者が、自己責任で最終決定しなければ、
部隊が迷走して全滅するのは当たり前
山岳ガイドと同じ事 賽ノ河原のある事件について
明治22年2月22日に12名の若者が
賽ノ河原の仕事小屋で無惨の凍死を遂げる。
その後無念な幽魂が迷う小屋には人々が恐れ近付かないが
無鉄砲な若者8名が
幽魂などあるものか
と賽ノ河原に露宿しようとした。
すると今まで晴朗だった空が夜半頃より掻き曇り吹雪となり
小屋はなぎ倒され8名供凍死を遂げた。
旧暦の12月12日が「山の神の日」とされ
この日の前後は必ず天候が荒れと語り合い
マタギや炭焼きは決して山には入らなかった
毎月の12日も同様で
仲間が12名だった場合はサンスケという木偶を作り13名仕立てとし
入山した。
青森5連隊の雪中行軍出発の1月23日は
旧暦の12月14日であった。 小峠 1.3km →大峠 2.0km → 大滝平 1.4km→賽ノ河原
倉石大尉談
この日午後1時頃、風雪烈しく頗る進行に困難せる
明治35年 1月23日 : 1902年
16:10
先頭の行軍隊は行路上の最高地である馬立場に到着
:標高732メートル
賽ノ河原 0.7km →按ノ木森 0.9km →中ノ森 1.1km →馬立場
この馬立場から3km先の
田代が眺望出来たと云うからには天候は一時的に
穏やかになったと考えられる
行軍隊は馬立場の高地に到達し、田代を眺望する事を得たり。
しかれども、後方行李の影響を顧みれば
その離隔はなはだしく
近きものは中ノ森、遠きものは按ノ木森に達せず。
よって行軍隊は同地南方約二百メートルに於いて休憩を行い
鈴木・大橋 両小隊に命じ、
軽装にして行李運搬の援助を為さしむ。
同時に藤本曹長以下十五名(喇叭手一含む)設営隊を編成し
田代に向ひし出発せしめたり。 >>142
>薪60貫 木炭44貫600文目
雪の中でどうやって燃やして暖を取るんだろう?? ちなみにここは暖かい神戸だが、冬の燃料は1週間に木炭6Kgです。
七輪で調理と暖房に使います。 >>142
明治35年 1月23日 第一露営地では
円匙(えんぴ)と十字鍬(つるはし)これらを使い
まず、小隊長及び将校の宿営の雪濠を掘りました
幅2m 長さ5m 深さ2m50cm
敷物のワラも無く天蓋(屋根)もない吹きさらしの雪の溝です
小隊長と将校、曹長らはここで暖をとります
加えて
各小隊は1小隊(40名)につき木炭6貫匁(23キログラム)
行李の餅三個・缶詰肉1個を各人に配布
しかし
あまりの手の寒さで手の感覚がなくなり
火が点くまでに一時間余りもかかっている
着火にはマッチを使用
火種を持ち歩く工夫はこの時は無かったようです
小隊単位の雪濠は浅かったのではと想像出来ます。 明治35年 1月23日 : 1902年
田代までの踏破時間は下り坂の行路から想定すると約1時間
馬立場0.8km →鳴沢0.9km → 平沢1.3km → 田代新湯
結果設営隊の15名以外は
最後方のソリ隊到着まで馬立場で1時間近く待ち
時間を浪費する顛末となる。
17:00 過ぎ
馬立場を出発 鳴沢を目指す
行李この地点に到達する頃ひ、日概に黄昏に近かりしも、
あたかも旧暦十四日に相当し、月明を利用するの便あるを以て
再び行進を起し、設営隊の進路を辿り鳴沢の渓谷に下れり
遭難始末 より
この段階でも月の出が確認出来ており
天候は安定していたと考えられる 別件資料
ソリ隊は一台につき四名づつだが
ほかに二名づつの兵に応援させ無難に鳴沢まで到着したのである
長谷川曹長の談話
この付近は傾斜すこぶる急峻にして一分の二(50度)以上に及び
積雪胸に没し、一進一止、その困難名状すべからず。
特にソリは到底前進の見込み無きにより、
その多くは遂に人の背によって運搬するを止む終えざるに至れり。
この時、運搬手は複た防寒外套を着用せり。
遭難始末 より
しかしソリを放棄する事は想定外だったため
人力よる運搬具である背負子(しょいこ)は
一切携行していなかった。
わずかに200尋の藁縄(わらなわ)があった事から
藁縄を使った運搬方法を選択した。
2斗焚きの銅平釜も藁縄で炊爨係りの背に背負わせ
人力により運搬されている。 雪の八甲田山で
ソリを放棄した青森5連隊は事実上行李輸送に失敗した
しかし帰営の選択肢はない
そして210名の部隊は、あくまで田代新湯を目指す
しかも残念な事に
行軍隊が鳴沢に陥ったあたりから天候は急変する
:夕方より大吹雪に変じ、到底進行の難きを認め・・・・
:天候俄かに変じて雪は頻りに降りつのり、風は烈しく吹き荒び・・・・・。
:寒気激烈、手套をとること能はず
:風雪はいよいよ激しく、地吹雪の音は薄気味悪く、積雪は胸を没し、
人間は歩くというのではなく雪の中を泳いでいるという状態であった。
また吹雪きのため視界がきかず前列のものがようやく見える程度で息もつまりそうであった
生還した小原・村松伍長の談
藤本曹長以下15名( ラッパ手一含む )の任務は
本隊に先行して田代に到り、ラッパでその旨を本隊に知らせた後
同地で宿営の準備をする事であった。
が、いつまで待ってもラッパは鳴らない。
それどころか、本隊は思わぬ形でその藤本隊と遭遇している。
映画にみられる絶望的な夕暮れを描いたワンシーンが印象的
環状彷徨(リングワンデリング)状態であった。 鳴沢東方高地に達するや、
藤本設営隊は路を失し、困難を極め、
その高地を一週して再び鳴沢に来たり、行軍隊の後尾に合せり。
当時、中隊長・神成大尉、進路を求めて先行せしかば、
大隊長・山口少佐は
水野中尉、田中・今泉 両見習士官をして田代方面を偵察せしめに、
進路峻険にして通過すべかざるを復命す。
加ふるに風雪頻りに襲来し、
天地漸く冥暗となり、行李の随行又意の如くならず。
これに於いて大隊長は到底田代に到着する能はざるを知り、
ついにこの地に於いて露営するに決し
遭難始末 より
明治35年 1月23日 : 1902年
午後 8:15 平沢第一露営地
明治35年 1月23日 : 1902年
午後 21:00
午後九時に至り210名の雪中行軍隊は露営地に全員到達
小隊単位で雪濠を掘る
1小隊(40名)につき木炭6貫匁(23キログラム)
行李の餅三個・缶詰肉1個を各人に配布
最後に設営されたのは大隊本部の雪壕であった
( 大隊本部将校が8割設営 )
下士卒から凍傷患者を出さないよう山口少佐が懸念したため
という記事もある
152
にあるとは矛盾する記事です
しかし最後に着手した雪濠が
幅2m 長さ5m 深さ2m50cm
というデータを参照すれば、最後に着手は後付記事という印象。 平沢第一露営地
40名に6貫匁=23キログラムの木炭燃料ではどうにも不足
加えて
雪濠1単位に炉火が1単位という割り当てであった。
その上、あまりの手の寒さで手の感覚がなくなり
火が点くまでに一時間余りもかかっている。
各隊は交互に暖をとるしかなかったが
それにも増して大変だったのは
行李隊を指揮して来た炊事係であった。
炊事場の設備に2斗炊き銅平釜一個を設営するも
まず炭や薪への着火に時間を要し
さらに米とぎに必要な水は雪を融かしを調達せねばならなかった
遭難始末より 平沢第一露営地
此夜風雪甚だ強からざりしも、寒気は峻酷にして
零下7〜8度より零下12〜13度に下れり
遭難始末より
しかし計測の裏付けはない
当時衛生部員は、気温の測定をつとめたれど
凍える手、これを筆することあたはざりしもののごとく
櫻井看護長のごときは
寒暖計を手にしてたおれたり
おしむらくは、気温に関する記録なし。
このため、気温の程度を詳らかにすること得ず。 >>159
>此夜風雪甚だ強からざりしも、寒気は峻酷にして
>零下7〜8度より零下12〜13度に下れり
当時はたぶん風が吹いていただろうから体感温度はもっと低かったろう
確か風速が1メートル増すごとに体感温度が1度下がるとか聞いたことがある
この時の兵士たちの体感温度は-20度くらいはあったんじゃないか? マタギやサンカは雪を踏んで固めてその上に薪を敷きその上で炭を焼くんだが、それをしなかったの?? >>148
>明治22年2月22日
気味が悪いほどのゾロ目だな >>161
本雪中行軍の炉火は
雪に直に薪と炭で暖をとる顛末となり
溶けた雪で燃料の半数は無駄になり火の勢いは減衰します
また
米を炊く2斗炊き釜を設置する土台も雪の融解により傾斜した
という記事もあります。
そして
平沢第一露営地
明治35年 1月24日 : 1902年
午前 1:00
半熟の飯が210名に配布された
酒もふるまわれたが炊爨を終えた炊釜にて温めたせいか
異臭を帯びてとても呑めるものではなかった
遭難始末によれば
:猛烈なブリザードが発生し気温が−20度まで低下
:兵士に足踏みなどさせ凍傷を防がせた
:4時間休憩の後朝五時という出発予定が告げられた
しかし
大隊長は決断する。
中隊は、午前2時30分露営地を出発、帰営の途に就かんとす
遭難始末より
事由は仮眠に及ぶ兵士が出たため
2:30
行軍隊員は雪壕の外に集合・整列し、青森の屯営を目指す 平沢第一露営地出発
明治35年 1月24日 : 1902年
午前 2:30
帰路は18km、食糧、薪炭も使い果たしていた状態だった
加えて、露営地から馬立場に戻るためには
昨日かなり難渋した鳴沢を越えなければならない
しかもその道は
丸みを帯びた三角系の高地の頂点のみを行くという厳しい行程となる
ひとたび高地を下り沢に下りれば
隊は両脇を断崖に挟まれ鳴沢高地に戻ることはいよいよ困難となる
しかし残念ながら青森5連隊は軌道を逸脱し沢に降りてしまう・・・・・
午前 2:30
青森5連隊が出発してから1時間後
一隊は路を西北に失し渓谷に陥り、かつ小流に出会いし
前進するにあたわざるに至り、初めてその方向を誤りたるを知り
再び露営地に帰還するをもって転回行進を始じむ
遭難始末より
路に迷ったことで
再び露営地に帰還
その後、日の出を待って確実な帰路を求め馬立場を目指す
という方針に変更された
しかし青森5連隊は露営地への路もまるで見当が付かず隊は迷走した
そして迷走する隊の中で
平沢第一露営地への路を知っているという人物が現れる
佐藤特務曹長であった
映画・小説では 進藤特務曹長 佐藤特務曹長は私は平沢第一露営地への路を知っていると発言
自身が先導し路を東に転じて急峻なる懸崖を下ってしまう
そして駒込川の本流に遭遇し、遂に一歩も進む事が出来なくなった
この時すでに午前8時30分
6時間にもわたり210名の青森5連隊は迷走し最悪の事態に陥った 駒込川本流に遭遇:進退窮まれり
明治35年 1月24日 : 1902年
午前 8:30
青森5連隊210名は駒込川本流に遭遇身動きが取れなくなります
この最悪なる状況において青森5連隊は駒込川をさかのぼるため方向転換しますが
雪は兵士たちの胸まで没する深さに加え
眼前に連なる断崖が隊の前進を阻みます
:映画では断崖を登るというシーンを観ることが出来るが
:これは映画の演出上の戦術で正史ではありません
隊は断崖に路を阻まれ
再び路を左側の山腹に転換し雪の斜面を登る事を試み
先頭の兵達が足で雪を踏み固め階段状の路を設営しながら進む
故に1時間に500m程度進むという状況であったと云う
これらの困難を乗り越え青森5連隊は再び鳴沢の高地に到達した
高地到達は正午前:11:00頃
しかし高地はブリザードが吹きすさぶ状況に加え、気温−25度
木の枝が折れるほどの暴雨風という記事から
風速は20m〜30mと推定
兵達を襲う体感温度は−25度 + 風速にて−55度だったと想像できる
ここで兵士達の装備を参考までに
:兵卒 綿の夏服 + 綿の外套2枚
:上官・下士官 羅紗の軍服 + 羅紗の外套1枚
靴はかかとまでの短靴
中には地下足袋を油紙で巻き藁靴を履いた兵卒もいた
また、斜面を登る際
:将校らの羅紗の外套が凍結し板状になり割れる
:下士官が亡くなった兵卒の綿の外套で雪を踏み固め斜面を登った
という興味深い記事もあります
この斜面を登る際転落を繰り返し脱落、そのまま凍死した兵も多かったそうです
青森5連隊はブリザードを避け正午頃、丘を越え風の影響の少ない山腹を目指しています
この日の天候は 「死の彷徨」中、最も厳しいもので
青森測候所の記録によると
最低気温 氷点下 12.3度
最大風速 14.3m
最高気温 氷点下 8度 鳴沢高地行軍:兵卒の脱落
明治35年 1月24日 : 1902年
午後
ブリザードはますます激しくなり天と地も判らないほどの状況
手を懐に入れ温めたり工夫をしても皆凍傷になり
まゆは凍りつきツララをなし顔色は暗黒色というありさま
指の自由を失った者は、人力を借りなければ放尿することも出来なかった
睡魔に襲われた者はことごとく倒れ脱落し
「しっかりしろ」などと怒号飛び交うが脱落者を救援することは困難であった
ほしいいなどの携行戦闘糧秣を食べようとしても
凍傷の手が不自由でこれもあたわず
脱落者を血涙を呑んで見捨て、前進する
事件後の記事
軍医の勧めに従い兵は互いに抱き合い
軍歌を唱えながら行進し、
全身凍傷にかかり人事不省になったものは、一同その頭と足を持ち
その名を呼びながら胴上げをなし、覚醒をつとめて行いましたが
午後3時頃はそれをなす気力もなく、
倒れた者を見棄てて行くというようになり・・・・・
( 2月8日付け 時事新報 明治ニュース事典より )
果たして青森5連隊はブリザードの影響の少ない窪地をめざし前進する
そして午後5:00頃、隊の先頭は狭小なる凹地に遭遇して停止
収容可能な脱落者を収容す
しかして、人員を点検せしに、実に総員の四分の一を失いたり
この場所は鳴沢の南方にあたり
昨夜の露営地からは直線にして700メートル程しか離れてなかった
また、窪地とはいえ、ここは風雪を避けられるという程ではなかった
さらに雪壕を掘ろうにも、道具は概に棄てていたため、足で踏むしかなかった
これがいわゆる第二露営地である 第二露営地
明治35年 1月24日 : 1902年
午後 5:00
結論を先に申し上げると
大隊長は翌25日の夜明けを待って田茂木野方向に出発することを命じた
しかし1月25日 午前 3:00 大隊長は倒れてしまい
青森5連隊は再び夜明け前の帰営を決断する
24日午後5:00から25日午前3:00までの第二露営地は以下の通り
@
夜のブリザードは昼間と変わらない
暖を取りたくても炭薪はなく食料もない
わずかに各自携帯する2〜3個の餅と牛缶詰があるだけ
しかれども餅は氷結し石のように固く缶詰切り開くに困難な状況
糒(ほしいい)などを食べたくとも凍傷にかかる手ではどうにもできず
人の助けがなくては口にすることもできない
喫食するものは稀であった
A
大隊長は火に当たると凍傷がひどくなるであろうと火は一切焚く事を許さず
夜通し足踏みをして暖みを取るよう厳命する
B
概に食尽き、空腹はますます迫り来たり
いかんともすべからざれど翌朝の天候に望みを抱き、
各人団輪を作り最も凍傷にかかった者を取り囲み露営を為したり
C
各小隊は、手指を摩擦したり軍歌を唄い睡魔を破り
指揮を鼓舞し体温を保ち以て凍傷を防がんことをつとめたり
昏睡して倒れた者は体をこすり蘇生を試み
睡気を催す者は高呼してその覚醒を図れり
D
行軍部隊は夜間寒気との戦いに一睡もせず足踏みしたが
雪が靴の下の凍りつき高下駄のように氷柱が発生
それが折れて倒れた者は再起不能となり水中に没するが如く深雪の中に姿を没して
死んでいったという
午後9:00までに将校を含む20数名が死亡
午後1:00将校たちは集合し対策を論じた
結果、翌25日の夜明けを待って出発することを命じた
しかし前述のとおり大隊長は倒れてしまう
この鳴沢第二露営地付近では最も多くの遺体が発見されている 第二露営地出発
明治35年 1月25日 : 1902年
午前3:00頃
神成大尉は各小隊を呼集し人員の状況を確認
三分の一は既に倒れ
三分の一は凍傷にて運動の自由を失い、三分の一のみ比較的健全
との報告あり
行軍隊は一列縦隊をもって鳴沢渓谷を下る
ブリザードの影響は少なくなるが昨日同様に寒さは厳しく
再び駒込川の本流と断崖に路を阻まれ進退困難な状況となり
先刻出発した第二露営地に引き返す事となる
この状況下、神成大尉は悲嘆のあまり絶叫した
:天はわれわれを見捨てたらしい
:俺も死ぬから、全員昨夜の露営地に戻って枕を並べて死のう
行軍して二日目ごろから精神に異常をきたすものが出てい
カンジキ隊が雪を固めて路を拓き進軍したのだが
周囲の何メートルもの深い積雪に向かい
わけのわからない叫び声をはりあげて突進するものがいた
とたんに身体がズボッとはまって見えなくなる
手をあげて助けを求めると、雪が頭に落ちて完全に埋まってしまった
それでも助けようというものはなかった
一行は、錯乱状態の中、暗中模索に喘ぎ、堂々巡りに陥った
1月25日 午前 5:30
2時間30分という時間と30名の犠牲を払って行軍隊は第二露営地に到達する
大隊長が倒れるという件は正史では
山口少佐、倉石、神成両大尉は先頭にありて進路を定め・・・・・
1月25日午前 5:30 第二露営地に行軍隊再び到達後
大隊長人事不省となる
と、遭難始末に記録されています
しかし
なぜ朝を待たずに夜に第二露営地を出発したのか?
実は大隊長が倒れたからでは?
と、この行軍の書物を読めば読むほど考えざるを得ない印象を受けます 興味深い記事があります
後藤伍長の弁によれば、大隊長が倒れたのは
第二露営地を出た後、駒込川の本流と断崖に路を阻まれ
再び第二露営地に着く前で、しかも着いた時には既に絶命していたという
第5連隊遭難始末より 後藤伍長の談話
行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する
それゆえ後の青森5連隊本営での遭難に関する聞き取り調査の際に
大隊長は生きて救出されたという事を原則とし
聞き取り調書が調整された可能性もあるのではないでしょうか?
しかし本行軍は正史では
大隊は3度人事不詳になり3度蘇生し青森本営に生還しています でもこの演習による日本軍の耐寒能力把握がなかったら
満州に渡った日本軍将兵は、ソビエトに侵攻したナチスドイツ軍がモスクワ戦線で経験したのと同じ轍を踏んだ可能性が大なんだよな。
日露戦争で、冬季でもロシア軍に渡り合えたのは、この貴重な教訓があったからだとおもうな。 >>172
興味深い指摘だな
山口大隊長は救出後自決したと伝えられているが
現地で死亡していたとなると話はまるっきり違ってくる 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ
明治35年 1月25日 : 1902年
再び前露営地に引戻ることとなってしまった
この時、山口大隊長は人事不省となり軍帽すらも吹雪に吹き飛ばされてしまっていた
軍帽は見つからないので凍死せる兵士の軍帽を取りてこれを大隊長にかぶらせ
しばらく介抱して前露営地に運び込んだのだが
大隊長はこの時既に絶命せり
第5連隊遭難始末より 後藤伍長の談話
1月25日 午前 7:00
時に午前七時なり、天は我々をしてますます悲運に陥らしめぬ
この時、山口大隊長はまた人事不省となりければ
将校数名は相抱きて樹下に風雪を凌ぎ、生木を集めて火を点ぜしに
じゅうじゅうと音するのみにて暖をとる能はず
これにおいて万事の望を没し去られたり
我々の心中は今語らんとするも形容するに言葉なし
わずかに背嚢の板片のあるを思い出し
死者の背嚢を集めて焚火をなし、大隊長を暖めたり
されど大隊長は蘇生せず。
第5連隊遭難始末より 倉石大尉の談話
1月25日 旭川にて 零下41度を記録 :他文献より >>173
ロシアの雪はサラサラの軽い雪で
皮の短靴とゲートルでも支障がありませんでした
八甲田の雪は湿って重く短靴は役には立ちませんでした
後述の予定ですが
確か中野中尉の隊は短靴はみな脱げており
全員はだしで仰向けに雪上に整列し横たわり亡くなっており
凍死する直前目覚めた人は苦悶の表情のまま絶命されていた
という記事があります
余談ですが日清戦争でも渡河作戦を行った四国の部隊が
濡れた軍靴のため凍傷にかかるという件
八甲田雪中行軍前に冬の北海道演習で部隊が遭難した件
これは最後の救出者は縦穴1人分の雪濠を掘り2週間後に発見され
脚を切断という顛末
日清戦争の件と北海道の件が
帝国陸軍内部で情報共有されていたかどうかは不明です 北海道でも寒冷地演習で死傷者がいたのか?
寒さを想像もできないな…恐ろしい…
山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。
いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。
福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな 北海道でも寒冷地演習で死傷者がいたのか?
寒さを想像もできないな…恐ろしい…
山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。
いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。
福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな すまん、2度押してしまった。
山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。
陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして師団は責任を逃れたのだろうか… 山口少佐ってのは幕臣の子弟で、徳川が駿府へ移って作った沼津の兵学校かなんかの出身なんだよな。 >>176
北海道の冬季演習事故や5連隊の遭難により陸軍の防寒対策が
急に改善した訳ではなくて、5連隊を救助しようとした救援部隊の
8師団の兵士に凍傷者が続出した上に吹雪の中を前に進む事もできず、
救助活動が大幅に遅れて死者を増やした為、軍はマスコミや国民や帝国議会の
糾弾を浴び、衣服や装備の改善の急務が認識された、というのが現実です。
日清戦争でも満州の冬の寒さに陸軍兵士は大きなダメージを受けていますが
当時のマスコミは「勝った、勝った」しか書かなかった為、陸軍首脳には
寒さに対する危機意識はありませんでした。 事故・犠牲→検証・反省→改善
という流れを生んだ訳だ。
日露戦争では少なからずこの犠牲を無駄にせず、寒冷地対策を行った事は意義深い。
或意味で「実験」だった訳だからな。 >事故・犠牲→検証・反省→改善
いや、遭難発生で大規模な救助活動が行われ、
その救助活動でも凍傷者続出で、救助活動すら満足にできない体たらくが
大々的に報道され、死者遺族を始め各所から非難を浴びまくって、
ようやく寒冷地の恐ろしさを認識した。典型的なバカ役人体質
よく似ているのが脚気。海軍は脚気を克服していたのに、陸軍は克服できず
日露戦で数万の死者を出したからな。自軍の兵士を数万人殺して、
日本を存亡の淵に追いやりながら、森鴎外を始めとする陸軍衛生課で
責任を取った者は1人もいない
基本的に帝国陸軍は学習能力が非常に低く、責任を取りたがらない保身だけの
バカ役人体質で、自らを滅ぼした 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 2
明治35年 1月25日 : 1902年
本スレでは大隊長は死んでしまったという共感を得ました
しかし
行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する
大隊長の死を秘匿したまま行軍は進んだのではないでしょうか
青森5連隊大隊長のプロフィール
山口ユ やまぐちしん
少佐 東京出身 士族 安政3年( 1856年 )12月27日生まれ
明治4年 東京で外国語学校で語学を学ぶ :15歳
明治13年1月士官学校に入り :24歳
明治14年12月士官学校を卒業陸軍歩兵少尉となる :25歳
明治15年1月歩兵第18連隊に着任 正8位受勲
名古屋鎮台 歩兵第18連隊( 豊橋 ) 明治21年に第3師団に改称
明治18年5月
陸軍歩兵中尉となる 従7位受勲 :28歳
明治19年5月 歩兵第19連隊に着任 従7位
名古屋鎮台 歩兵第19連隊 ( 敦賀 )
明治21年に第3師団に改称 :29歳
第3師団 歩兵第19連隊 (敦賀)
連隊大隊副官を任ぜられる
明治25年12月 山口姓となる :34歳
明治26年3月1日想定
陸軍歩兵大尉となる 歩兵第19連隊中隊長に任ぜられる :36歳
明治27年9月 日清戦争着任 遼東半島に戦う :37歳
明治28年6月 大連湾を出発し7月宇品に凱旋 :38歳
同11月受勲 従6位勲5等功5級 軍功旭日章 瑞宝章
功5級金鵄勲章 (日清戦争従軍軍人 2000名が受勲 )
明治29年12月 仙台第2師団17連隊 中隊長に任ぜられる :39歳
明治30年5月 京城守備隊長をして渡韓 8月従6位受勲 :40歳
明治32年3月1日 : 想定
戸山学校入校( 戦術科 )着任:東京
同年 12月
陸軍歩兵少佐となり山形32連隊着任、中隊長だったと想定 :43歳
弘前第8師団歩兵第32連隊
明治34年2月
弘前第八師団青森歩兵第五連隊第二大隊長となる :45歳
明治35年1月
八甲田雪中行軍にて亡くなる :46歳
正史の記録では 2月2日死去
倉石大尉 後藤伍長 の弁では 1月25日死去 >>183
海軍が責任を取る体制であったかのような物言いだが、そうなのか? >>185
本来、遠洋航海などで陸軍より脚気になりやすい海軍が
完全に脚気を克服していたんだから、海軍に習ってパン食にしたり、
麦飯にすれば良かったんだよ
森鴎外のように「陸軍衛生部のメンツ」に拘って、数万の兵を殺して
日本国を危うくするのが、帝国陸軍の本質だな。
インパールなんか牟田口や辻のメンツの為に数万の兵士を殺して
日本敗戦の原因を作りながら牟田口も辻も何の罰も受けていない。 >>186
海軍が失敗に対して責任をキチンと取らせる組織かどうかを問うているのに、それはズレた答だ。
ひょっとして、海軍には責任を問われるような失敗を犯した幹部などいないとでも言うのか? >>187
>海軍が失敗に対して責任をキチンと取らせる組織かどうかを問うているのに
完全にスレ違いだ、どこまでバカなんだ?
バカな教えて君は、海軍スレで聞いてこい >>188
>>183が陸軍に限定しているのが変だな、と思ったから聞いたんだよ。
八甲田に絞った話なら陸軍限定でいいが、もっと枠を拡げたことを言ってるでしょ。 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 3
第二露営地は第一露営地より北東に550m
鳴沢より南東方向1000mの谷底を超えた南方山腹の狭小なる凹地
地図はコチラ↓
http://yuebing.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=8010506&i=200902/28/96/a0118696_14554518.jpg
明治35年 1月25日 : 1902年
午前 7:00
雪少なしく晴れ、四方を展望するの機を得たり
倉石大尉は田茂木野方面を確かめん為斥候を出さんとす
希望の者は予の許に集まれ
渡邊幸之助軍曹、高橋他一伍長以下12名がこれに応じ
倉石大尉は彼らに次のような任務を与えた。
@渡邊軍曹は5名を率い鳴沢西南方高地の左方より
A高橋伍長は残余の5名を指揮し駒込川方向より
共に田茂木野方面を確め村人を雇ふて救援に来るべき処置をなし
且つ連隊に現況を報告せよ。
嗚呼、諸子よ、諸子は今日すべからく谷村計介たれ
第二露営地から田茂木野に至る道のりは以下のとおり
@鳴沢西南方高地を越えてゆくルート
A駒込川方向より斜面を登るルート
@A→中の森→ヤスノ木森→賽の河原→大滝平→田茂木野
第二露営地から大滝平までは約5q
谷村計介とは
西南戦争(明治10年)の際
熊本城から西郷軍の包囲を果敢に突破した伝令
1月25日 旭川 零下41度を記録
この日は未だに破られていない日本最低気温(気象官所)が観測されている
北海道に於いては概ね二十度以下にして、上川の如きは四十一度となり
石油凍結するに至れり
遭難始末より 第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 4
明治35年 1月25日 : 1902年
午前10:00
救援隊が来ると呼称する者があり
一同驚喜し前方の高地を瞥見( べっけん )すれば
数多の兵員達が雪を分け通路を開設しつつ我らに向かい前進していた
これにおいて感極まり感涙するものあり隊の士気は昂ぶった
倉石大尉はまずラッパ手をして号音を吹奏せしめんとしたるも
ラッパは唇頭に凍着し、ラッパ手は疲労こんぱい腹に力なく
わずかに断絶せる一、二声を発したるのみ
それに困って来る救援隊を熱視すれば
その救援隊と見えしは、あまたの樹木が1列となり2列となりにして
風雪にさらされた現象であったと判明
本件で一同は茫然、昂ぶった士気は平常に戻った
:いわゆる集団幻覚であった
兵士は寒気に襲はれ身体の自由を失いし為め、あらゆるものを集めて暖を取りし
暖を取る煙を救援隊が見出してくれるのではないか
と希望をつなぐ者もいた
午前 11:30
高橋斥候長自ら第二露営地へ来り
報じて曰く、確かに帰路を発見せり
斥候は通路を踏開し田茂木野に向いて前進中なりと
このころから雪は止まないが風が和らぎ始める
山口少佐は火辺にありて暖気を得て元気になった・・・・・
という記録が残っている
その真偽はともかく、多くの人員が山口少佐の蘇生・摩擦に
割り当てられたと想像できます 第二露営地出発 →第三露営地へ
明治35年 1月25日 : 1902年
正午 12:00時
武器を携行しての行動の困難を懸念した倉石大尉は
自らの責任とし重症者の銃を叉銃と決定している
同 12:00時
青森5連隊の一行は高橋伍長を先導にして出発している
ここで云う一行とは第二露営地で動ける者、かろうじて動ける者
加えて大隊長が人事不省、死亡している場合は大隊長を運搬する者も
倉石大尉により編成されていたと考えねばなりません
午後 1:00頃
鳴沢谷底より馬立場に通ずる進路を発見
午後 3:00
馬立場に達す
午後3:00以降
中ノ森の東方山腹に達するや、日既に薄暮
進路は不明となり、風雪また猛烈にして再び悲境に沈淪するに至れり
午後5:00
カヤヰド沢東方鞍部に達せんとする頃
大橋中尉・永井軍医等行方不明となりしを知る
倉石大尉は、今泉見習い士官以下10余名を率い
露営地偵察の目的をもってカヤヰド沢に降り、一地を選定し
伝令を以て大隊長一行を迎えしもついに至らず
このころ神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察していた
その先は賽の河原である、翌朝の出発に向けての偵察だったのであろう
と想像できます
また遭難始末によれば
大隊長山口少佐は三たび人事不詳になり部下これを救護して
三たび蘇生しついに第三露営地に達する
そののち全く人事不省となれり
と、記録されています ここで小休止と再検証
第三露営地は 中の森 ⇔ ヤスノ木森 間にある沢であり
大隊長と倉石大尉他、士官、見習士官、下士官らが最後に発見された場所です
第三露営地に大隊長が到着する前
1月25日午後5:00以降
大橋中尉・永井軍医等行方不明
今泉見習い士官以下10余名がカヤヰド沢に第三露営地を設営
神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察賽の河原方面に進出
1月25日午後 11:00
倉石大尉の一群はいまだ到着しない大隊長一行のために胸まで雪に沈みながら
1時間をかけ、かすかな声を頼りに合流し、第三露営地に案内する
という勇敢な記録が遭難の後の聞き取りにより残されています
そして大隊長は第三露営地に無事到着の後
三たびの人事不詳そののち全く人事不省となれりとは前述のとおり
しかし興味深いことに
大隊長山口少佐は人事不省となったという記録が残っているにも関わらず
カヤヰド沢の川面に責任を負うかのように座して
従卒らの亡骸にその身を護られるかのような形で
なぜか生存して発見救護されています 第三露営地 検証 任意解散の件
明治35年 1月25日 : 1902年
午後 夜
死者 139名 生存者 71名
かくして
25日の夜は再び露営するに決したが、この時、多くは凍死して
その数139名に達したるるにもかかわらず、生存せる71名は
なお隊列を乱さず整然として露営の態度を取り、しばらくは苦寒に堪えたるも
ただただ、これ死を待つのみにて、いかんともするあたわず
@青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」 後藤伍長談
これにおいて、ある者は田代に引き返そうといい
また、あるものは田茂木野に向かおうとの意見があるが
むしろ各自任意もと進退を決定しようという事となり
倉石大尉の如きは独り奮然身を挺し田代の方向に進みしまま
たちどころにその影さえも見へず
水野中尉(子爵)においては、再びの道案内として真先に進みしが
間もなくして生きながら雪中に葬られし有様にて
見る間に続々凍死者を生ず
A青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」 後藤伍長談
@の件は25日の夜は再び露営した事を伝え
Aの件は25日の夜任意解散が発生したと伝えている
@A、共に後藤伍長の談です
極寒の地より生還された後、記憶に混乱が生じたのでしょうか?
事故調査の際この任意解散談は国内の注目を集める事となり
生存者に聞き取りが行われています
伊藤中尉の言
山口大隊長が各兵士に自由行動を命じたと世間では言っているが
決してそういう命令は出していなかった
「陸奥の吹雪」より
小原・村松伍長の言
1月24日夜「 明払暁帰営の途に就く 」事を命じた時
「各人はおのおの道を求めて連隊本部に至り、この状況を報告せよ、」
と言われたという
:解釈的には一部兵卒が本隊とはぐれた場合の安全弁とも取れる訓示の可能性もある
補足として、田代に向かったという倉石大尉は第三露営地にて露営 第三露営地 最後の露営地
明治35年 1月26日 : 1902年
午前0:00 過ぎ
日付が変わった頃であろうか、本隊ではある動きが始まったとされている。
倉石・神成 両大尉、
伊藤中尉、鈴木少尉、今泉見習士官、佐藤特務曹長等以下十数名やや活気あり
倉石・神成 両大尉は
切々苦慮しきりに方向を考察し確認した結果答案を得るに至る
おそらく田茂木野は、この高地の右前方向にあり遠くても二里ほどの位置であろう
よりて、明け方を待って行進するに決せり
遭難始末より
1月26日 午前 1:00 頃
午前 1:00頃、人員を呼集して検ぜしに、約30名を得たり
山口少佐は昏倒たままであり止むお得ず兵卒若干を付して
カヤヰド沢を出発せり
生存者 71名のうち、やや元気な30名が深夜に第三露営地のカヤヰド沢を出発
大隊長山口少佐は強壮なる兵数名をして守らせている
他の生存した兵卒は疲労困憊の状況でカヤヰド沢で露営し
行軍開始より丸3日間を経て
4日目の朝を迎えようとしていた 第三露営地 後藤房之助伍長出発
明治35年 1月26日 : 1902年
午前 明け方
後藤房之助伍長は
連日の疲労に加えて食糧の十分ならざりしため昏睡状態に至り
翌朝夜明けて目覚めれば、自分と共に眠りたるものは一人も見当らない
いかににせしやとまよいおりしが
その日はすなわち26日の朝であり
幸い天気も晴たる事なれば、立ちて四方を観望するに、
此処に二人、彼方に二人、或は十人一組となり、又は五人一団となり、
四方を眺めて方向を極めんとするもののごとくなりしなり
かくて、青森に向かう背進の途上
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長と遭遇したり
検証
後藤房之助伍長は26日の夜明けにカヤイド沢を出発したとみられる
そして26日の深夜午前0:00過ぎにカヤイド沢を出発した神成大尉らと
奇跡的に出会っている
映画では後藤伍長と出会った神成大尉が
伍長に帰営を試み遭難を伝えるように下令するシーンがあるが
後藤伍長発見は翌日の 1月27日 午前 10:00である
さて史実では
後藤伍長と神成大尉一行は出会って後1日さまよう事となる
その内容は以下のとおり
この日、降雪はなはなだしいいが風力・寒気は共に和やかになる
露営地に凹谷を降り進むこと1時間
神成大尉・鈴木少尉以下10数名は地形偵察のため
歩を伸ばして右折し高地に上る
倉石大尉は今泉見習士官と共に中野中尉以下の患者を救護し
一進一止、僅かに前進を続行せり
幸運なことに日も照り、雪も小休みとなるが
飢えと寒気の為め痛く痛く疲労せしをもって進退自由ならず
丈余の雪を掻き分け行くはこれも雪中を泳ぐに異ならず
そのうち、中ノ森という地に到達する
再びこの地にわれら露営することとなり
各幹部は厳然、寒気と戦いしも、夜に至りて疲労と寒さに血凍え
昏睡するに至たりしもの数名あり。
この日、後進せる( 青森の営舎 )への路は普通であれば
2時間あまりにて踏破できるのだが
一食もせずただ雪を噛りつつ進むだけで一日費やせり
第5連隊遭難始末より
本記事は神成大尉一行よりの聞き取りと推察する 中ノ森露営地
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長
露営をし翌朝1月27日を待つ
大隊長山口少佐は過去の検証より
第一露営地ですでに絶命・蘇生しその後行軍に参加し
計3回昏倒あるいは絶命しついにカヤイド沢に至る
( 23日・24日・25日 )
カヤイド沢到着の後、大隊長再び昏倒
生き残りの強壮なる兵に護られているであろう大隊長は
田茂木野方面( 青森 )へは進出していないというのが正しい検証
であるはず
つまり大隊長は
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長が到達した
中ノ森露営地には同行していないと云うのが常識的な見解ではあるのですが
なぜか遭難始末の記述では
大隊長は縦横無尽の行動力を示しています
これは
青森5連隊の本行軍での成果をたたえる意味と
当時の新聞社の激しい陸軍批判を牽制するため
陸軍聞き取りの遭難始末等の記録に多少の調整が加えられたと想像します
以下の記事がその調整された一件と想像できます
:27日時間不明、一名の伍長来たり
:告げていわく、田茂木野道は分明せりと
:即ち各兵を励まして行けども行けども田茂木野の路に達せず、
:ただ右に小山の見ゆるより、その地に至りしに
:ここにて先に別れし神成大尉・鈴木少尉以・今泉見習士官等ありければ
:互に談合の上
:二隊に分離し道を求めんとせるに際し
:大隊長の来るに逢ひければ各々蘇生したるを喜びて
:互に勇気百倍、二隊に別れ進行せり
:時は慥かならねど、午前六時より七時の間なるべしと思ふ
この聞き取り記事は正史で云うところの
「 二隊分離 」 神成大尉一行と倉石大尉一行
カヤイド沢に大隊長を残し27日の朝を待って
田茂木野方面( 青森 )への二隊分離の行軍を試みる
映画の別れのシーンはこの部分を描いています 二隊分離 青森へ
明治35年 1月27日 : 1902年
午前 10:00
青森5連隊雪中行軍隊210名の遭難が確定します
最初の生存者後藤房之助伍長発見救助に至るという
当時としては稀にみる偉業は
この二隊分離という戦術にて担保されたと考えます
1月27日明朝の最終的な二隊分離に至るまで
神成大尉と倉石大尉はカヤイド沢より青森方面への帰路を考察
斥候等を派遣しながら帰路の裏付けを担保していたと想像できます
その内容は以下のとおり
1月27日午前7時30分頃、倉石大尉等は兵を集合させた
青森への帰営を確かなものとするため山腹をほふくし
賽の河原の南東部に達せんとするや
神成大尉の一団に会す
これにより相互協力し、共に青森への方向を偵察すれば
断崖は千じんの谷のようで踏破は不可能であった
事ここに至り打つ手は見いだせず事態は差し迫っていた
その時であった
空はいくらか晴れ渡り、洋々たる青森湾、皆の一望の下にあり
皆これをみて喜び帰路への疑念は払しょくされた
午前11時30頃 天候は曇り
吹雪と化しこれに於いて神成大尉は進路を左に進め
倉石大尉は右に進め
ついに再び合せず
遭難始末より
青森湾を一望した場面に
大隊長山口少佐が卒一名とともにおり皆が歓喜した
という記事があるのですが本スレでは除外します
史実では大隊長はカヤイド沢の川面に座し発見されているのですから >179
:山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。
:陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして
:師団は責任を逃れたのだろうか…
丁寧なる返信をありがとうございます
八甲田雪中行軍のスレ参加は映画板を中心に7年目になりますが
以下は私の推論です
1月24日に絶命したであろう大隊長山口少佐の遺体は
動ける兵卒により交代で摩擦・蘇生・運搬され
1月25日カヤイド沢に運搬された
大隊長は死後もカヤイド沢の風雪を避けうる岩陰にて摩擦・蘇生を受けていた
この岩陰には大隊長を最後まで御守りする壮健な兵士と
青森への帰営を果たす兵士が露営し
帰営部隊は1月26日早朝より帰営を試みるが中ノ森に露営
1月27日早朝を待ち青森に二隊分離で進行
後に
二隊分離ののち青森方面に進出できなかった倉石大尉一行が
再度帰還カヤイド沢に露営しています
映画では大隊長は
1月27日に救援隊に救助され
「 全ての責任は私にあります 」と報告
しかし史実では後日
カヤイド沢の川面に座して生還
座した羅紗の外套は河原に凍りつき、救助者のナタにより切分けられ
カヤイド沢の斜面を布を利用したソリ様の担架で運搬され帰営しています
さて、沢の川面に座すという事は
摩擦・蘇生を続けた硬直していない山口少佐を救援隊の到着を待って
川面に運び出した
あるいはそういう記事を調整して後の陸軍史に残したと考えられます
山口少佐の周囲には少佐を温め護るべく数人の兵卒の亡骸があった
とも伝えられています、これは兵卒最後の職責でしょうか?
美談の創作でしょうか?
自害の件は映画のとおり
映画では自動拳銃が使用されていましたが
史実では山口少佐はリボルバーを所持
しかし凍傷で腫れ上がった指がトリーガガードに入るとは考えにくのが真実でしょう 二隊分離 青森へ そして後藤房之助伍長救助
明治35年 1月27日 : 1902年
午前 10:00
二隊分離の理由は青森に続く尾根が二つ存在している件で
選択に迷い全滅を避けるための知恵だった
神成大尉の進路を左は実は田茂木野に通じる道だった
最後の命令
鈴木少尉は高所に登りて地形を見んと別れしまま帰り来たらず
間もなく、及川伍長も凍傷と空腹と
寒気のため倒れたるをもって、十分に介抱せるもその甲斐なく
いかんともする事あたわざりし
残念ながら戦友を捨てて行進を続ける事となる
その前夜、神成大尉は後藤伍長の身にしみじみと応へければ
今はとて大尉を捨てて一歩先へ雪中を
泳ぎ進むうち、捜索隊のために救ひ出されたり
第5連隊遭難始末より
明治44年6月8日の東奥日報では
大尉は最早起き上がる力もない
伍長が助け起こして同行しようとすると、大尉は声も微かに
「 もう自分は到底いかんから伍長は急ぎ田茂木野へ行き此状況を報告してくれ 」
といわれる
伍長は大尉を捨つるに忍びず、死なば諸共、是非にと同行を勧めた所、大尉は声を励まして
「 今両人共死んだなら誰が報告の任にあたると思ふか。区々たる私情に駆られずに一刻も早く行け 」
と一身の瀕死、眼中に存せざる大尉の意気に余儀なくされ
涙を呑んで前進を初めたが
さて、雪は腰を没し、両脚は凍互して棒の如く関節の役目をなさないながら
心ばかりあせっても少しもはかどらぬ
殆んど昏睡状態で立ちすくんでいる内に
三神救援隊に収容されたのである 【青森】 八甲田山演習前に 陸自が犠牲者慰霊 [読売新聞] [転載禁止]c2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1423518583/-100
2015年02月10日
八甲田山系での雪中演習を10、11日に行う陸上自衛隊第5普通科連隊は9日、演習を前に1902年(明治35年)に起きた「八甲田山雪中行軍遭難」の慰霊碑(青森市幸畑)を訪れ、犠牲者の冥福を祈った。
演習は65年に第1回が行われた後、71年から毎年行われており、今年が46回目。今年は710人が参加予定で、この日は隊員220人が慰霊に訪れた。
式典では、たたきつけるような降雪の中、友伸治連隊長らが慰霊碑に献花し、参加者全員で演習の無事成功を誓った。
雪中行軍では、旧陸軍青森歩兵第5連隊210人が遭難し、199人が死亡。昨年11月に他界した俳優・高倉健さんの代表作の一つ「八甲田山」(77年)など、多くの小説や映画の題材になっている。
(記事の続きや関連情報はリンク先で)
引用元:YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/local/aomori/news/20150209-OYTNT50293.html ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています