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大陸打通作戦を成功に導いた「四式戦闘機疾風」
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2012/12/02(日) 02:54:02.02ID:eH61irhw0
衡陽作戦から老河口作戦まで半年もの間、粘り強く戦い航空支援を続け、大陸打通作戦3000キロ勝利行軍を成功に導いた「四式戦闘機疾風」を語ろう!

猛威をふるう85戦隊の「疾風」
<中略>(62ページから引用)
 10月末、同じく二式単戦で編成されていた9戦隊の1個中隊が広東に移動、同地区の防空戦力は大いに増強された。
10月31のB-24、13機による香港空襲以来、11月上旬から中旬は85戦隊の防空担当である広東、香港方面の空襲は途絶え、
戦隊は戦力回復を進めることができた。11月13日、85戦隊の保有機は二式単戦17機、四式戦10機、計27機まで回復していた。
この頃、中国の陸軍戦闘機隊は消耗甚だしく、25戦隊は一式戦9機、四式戦3機を保有、9戦隊は二式単戦がわずか5機、
衡陽で大打撃を受けたばかりの48戦隊にいたっては一式戦2機を保有してたに過ぎず、85戦隊は当時、最大かつ最強の
戦力を保っていたのである。
 一方、4日の空戦でP-51を一挙に4機も失った第76戦闘機隊にとっても10月は厳しい月で、この一ヶ月間の戦闘と事故で
22機のP-51と10名もの操縦者を失っていた。

補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、日本側の防御努力が効果を上げつつあった。
11月21日、大村攻撃では6機のB-29が日本機により撃墜された。12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)
の満州航空機会社空襲での損失率はそれとほぼ同じであった。事故による、敵の要撃による、
そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃によるB-29の損失はもはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。
<中略>
マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は3,058ソーテイであったが投下した爆弾は
ただの11,477トンであった。この作戦に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。
http://www.ne.jp/asahi/hayashi/love/b29.htm

彼等の国民党観はハーレーのそれと好対照をなし,否定的なものであった.
「国民党は政治的には保守的な政治派閥の集合体であり,経済的には地方の郷紳,地主,商業的銀行家という
狭い基盤の上に立っているため, 日本軍の大陸打通によって,政府 ・軍部ともにその権威と士気を失墜し,
腐敗が拡大し,蒋介石石のリーダーシップは著しく低下してきている」 と観察していた.
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/6519/1/kenkyu0003000980.pdf

26.国民党の河南・湖南・広西での大敗
 1943年から1944年春にかけて、日本は太平洋戦争において敗退を繰り返していた。海路の交通はすでに
米軍によって遮断されていた。東南アジアに侵入して孤立した軍を支援するために日本は1944年、
中国東北から広州・南寧に至る”大陸交通線”の戦闘を起こし、中国では”豫湘桂戦役”と名付けられた。
これによって、国民党軍は粉砕され、河南・湖南・広西と
 日本軍が14余万人を河南に投入すると、国民党は戦わず、河南駐屯40万人の大軍はすべて逃げてしまった。
僅か1ヶ月で河南の全てが陥落し、人民の国民党軍の腐敗に対する怒りは頂点に達した。河南省のある一人
の議員が重慶へ願いを請いに行き、国民党軍が作戦において武官が軍よりも早く逃げ、軍が日本人の進攻
よりも早く逃げたことを訴えた。”武官は兵を、兵は武官を見つけることすら出来ない状況で、
副司令官も自分の将軍さえも見つけられなかった”と。多くの有識者が敗戦の原因を”武官が兵士の心を忘れ、
兵士が民の心を忘れたからである”としている。河南陥落後、日本軍は長沙・衡陽・桂林などの軍事基地を
次々に占領した。また、同年、日本軍は費用も弾丸も使用せずに、南寧を占領した。戦果を広げるために、
日本軍が国民党を追撃させた軍はたったの3,000人ちょっとであった。数十万人もいた国民党は相手の勢い
に脅えて逃げ出し、貴州省の独山鎮まで追い詰められた。そして、そこから後方に連なるよ
うにしてあった貴陽や重慶にも不安が襲うようになった。
http://www.chinabusiness-headline.com/2011/08/15357/

≪日本の降伏が突然だったので、米国の政府官僚たちは驚いた。軍事予算は2年間かけて徐々に減らし、
兵士たちを平時の国内経済の場に吸収していこうと考えていたのだが。もはやそんな計画は通用しなくなった。…≫
(The American Journey, 852頁)
http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/atombomboj.htm

なぜ「四式戦闘機疾風」は、残り1年で3500機?
http://mimizun.com/log/2ch/war/1255320599/
0002名無しさん@お腹いっぱい。
2012/12/02(日) 03:00:21.94ID:eH61irhw0
桂林、柳州攻略の航空支援
・・・・前略・・・・
 第五航空軍は十月末前後、自隊の後方補給のための船舶輸送掩護に戦闘隊の
主力を使用した。
 第十一軍の桂林攻撃は十一月九、十日に成功した。第二十三軍の柳州攻撃も十日
に成功した。この地上戦闘間、下山第五航空軍司令官は衡陽に進出して指揮した。
すなわち、戦闘隊による戦場制空、襲撃、軍偵部隊による偵察攻撃を反復した。
そして双軽には依然、敵の前進基地と判断される柳州、安康、シ江、雲南、老河口
の飛行場攻撃を継続し、相当の戦果を報じた。
 以上の桂柳攻略作戦は、国軍の近代的最高潮作戦であったレイテ決戦作戦と全く
同一時期に、約二、〇〇〇粁の距離を置き、支作戦の前者が一〇コ師団、飛行約
二〇コ中隊(約一五〇機)で成功し、主作戦の後者が約三個師団、飛行六〇コ中隊
(約二〇〇機)で失敗する奇妙な対照結果となった。
<戦史叢書 陸軍航空の運用<3>―大東亞戦争終結まで―(朝雲出版社)>

 十九年春〜二十年初めに実行された一号作戦は、国軍に前例のない大規模
のものであり、陸上戦略指導としては大成功と感じられるものである。しかし
B−29の本土空襲は阻止できず、太平洋方面における我が主作戦の敗勢を救う
べくもなかった。この間における中國航空作戦は、数質ともに次等の戦力で
よく靭軟な奮闘を続けた。中國方面に有力な米陸空軍部隊を吸引牽制し、
しかも彼我主力の決戦方面に対し、その決定的な攻撃威力を及ぼさせなか
ったことは、わが中國方面空地作戦の隠れた戦略的成果と評価すべきである。
 しかし問題は、中國方面にあった陸軍戦力を、国軍主力の決戦作戦方面に対し、
より有効に直接参加させる戦略方策の有無であり、それは更に深刻な別途の研究
にまたねばならない。
 これを要するに、陸軍航空の基本的体質に大きな影響を与えた中國航空作戦は、
支那事変間と大東亞戦争間とにおいて、その様相が著しく変化した。前者は敵が
弱体な中國空軍であり、後者は敵が強力な米陸空軍であり、航空撃滅戦、
制空権の獲得に最大の努力を傾注しなければならなかった。
<中国方面陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 /朝雲新聞社 , 1974 ( 戦史叢書 ; [74] )>

>後者は敵が強力な米陸空軍であり、

戦争終結時に、60,369人もの米軍人員が中国に居ました。34,000以上は航空部隊、そして22,000以上は地上部隊でした。

At the end of the war there were more than 60,369 American military personnel in China.
More than 34,000 were in the air units, and more than 22,000 were assigned to ground units.
http://beijing.usembassy-china.org.cn/ww2operationaloutline.html
0004名無しさん@お腹いっぱい。
2012/12/28(金) 15:25:35.59ID:X+KthvkF0
【日韓】孫崎享氏「日本もドイツのように過去を清算するべきだった」〜
「米国でも‘リアンクール島’が韓国の領土となっている」[10/18]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1350542136/
0005名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/01(火) 16:09:49.10ID:12qjHu2b0
 まず、日ソ中立条約に言及し、ソ連がナチス・ドイツに対して勝利することができなのは、日本がこの条約を
遵守したからであると鈴木氏は強調する。
< 5月9日、対独戦勝65周年記念日を迎え、自分(鈴木委員長)からもこの歴史的な日を心からお祝いしたい。
ソ連が対独戦争に勝利する上で日本は大きな役割を果たした。当時、日本はナチス率いるドイツと軍事同盟を
締結していたが、同時にソ連とも中立条約を締結していた。
 中立条約とは、仮に、ソ連がどこかの国と戦争を始めても、日本は中立を保つ、また、逆に日本が戦争を始めても、
ソ連は中立を保つということをお互いに約束したものである。当時、ヒトラーは日本に対し、ドイツとの軍事同盟を優先し、
ソ連を攻撃するように何度も要請した。しかし、日本はそれをはねのけた。
 仮に日本が別の選択をしていたのなら、歴史は変わっていたであろう。日本の選択は正しかった。なぜなら、
ファシズムは全く間違っていたからである。ヒトラー率いるナチスの悪行は言語に絶する。まずはこの点を皆様に
お伝えしたい。 >
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/580
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/03(木) 16:59:26.98ID:aY1BQ8Qi0
第二次世界大戦でスティルウェルは、1942年に中国戦線を担当したが、この年から蒋介石は全く役に立たず、
能力はあっても抗日戦に軍を使う気がないとレポートしていた。スティルウェルはビルマ・インドに拠点を移し、
ビルマの援蒋ルートを遡って中国大陸に攻め入り、数百万の中国兵をアメリカの将校団が指揮することで
中国大陸から日本を駆逐するという構想を持つようになる。その為に彼は蒋介石に対し彼の元に中国陸軍
の数個師団をよこし、彼に中国兵の訓練を任せるよう要求するのである。それにより、米式中国軍(米国式
中国軍)が編成されている。しかし、この彼の構想は蒋介石の利害と正面から衝突し、二人の関係は悪化。
最終的にスティルウェルは蒋介石にひどく嫌われて最後は解任されてしまう。蒋介石は軍隊の強化により
政権への反旗の翻しを危惧した。
アメリカは欧州でもナチス・ドイツと戦っており大軍をアジアに振り向ける余裕はなかった。蒋介石の国内権力基盤
は極めて脆弱だった。ルーズベルトとは正反対に、彼は中国国民党軍の腐敗と弱小ぶりを見抜いていた。
大陸打通作戦の前年には、戦勝後には米英ソ中で構成される『四人の警察官構想』を検討しカイロ会談に
出席したルーズベルトに、次に日本軍に攻勢されれば国民党は倒壊すると通告し、さらに中国本土からの
アメリカ軍の日本空襲作戦は日本陸軍の猛烈な反撃を招くとして反対した。また1944年、大陸打通作戦の
衡陽会戦に際しては夜も眠れず、2回も自殺を考えたと言う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%AB
0007名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/03(木) 17:13:41.38ID:aY1BQ8Qi0
この軍事的条件の一大変化とは、10月3日に決定された”対日戦略の修正”であった。
日米開戦以来陸軍首脳や中国現地のスチルウェル・シェンノー トらが構想して来た
中国東岸を基地 として対 日攻撃 を行 うとい う戦略は,この戦略修正によって破棄 され,
台湾,中国東岸への上陸は基本的には中止された。
代ってマ ッカーサ ー (DouglasMcArther)将軍の主張 を作戦の中軸 として採用し,
海軍 とくにキ ング (ErnestKing)海軍作戦部長の主張する作戦を側援的に遂行する
ことが決定 され,ル ソン島から沖縄へ上陸作戦 を敢行すると同時に,
マリアナ諸島から硫黄島を経 由 して沖縄へ進攻することになったのである。
この対 日戦略の修正は重大な結果をもた らすことになった。即ち(1)対 日政略
における中国の戦略的地位が低下 したこと。(2)1945年 8月の終戦時に強力なア
メリカ陸軍部隊が中国に存在 していなか ったことである。
対日政略において軍事的に貢献 してこそ,戦後における大国 としての地位が
保証 される訳であったが, この修正に よって, アメ リカの支援の下に軍事的貢
献 をする機会は減少 し,大国と しての地位 を要求 しうる根拠を失 って しまった
のである。又強力なア メリカ軍部隊が終戦時において中国に進駐 していなか っ
た為, ソ連軍,中共軍の軍事行動を牽制 しえなかったのであ った。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/6519/1/kenkyu0003000980.pdf
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/03(木) 17:29:59.93ID:aY1BQ8Qi0
1943年11月のテヘラン会議でルーズベルト大統領が熱心に中華民国を連合国の主要メンバーに引きずり
あげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受ける
ようになった。今の中国の学者たちもこの歴史の現実は率直に認めており、「中国はいかなる基準でも
三大国と対等なパートナーではなかった。実際には三大国によって新たな地位を決められたのだった。
当初はイギリスのウィンストン・チャーチルもソ連のヨシフ・スターリンも中国を二流のパワーとみなし、
大国の地位を与えることには強く反対した」と述べた。ルーズベルトは、中国の格上げは対日戦争での
中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の
再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配
の印象を薄めるという考慮もあった。しかしチャーチルはアメリカのこの動きを「中国の真の重要性をと
てつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリンも中国の戦争貢献の少なさを指摘し、
さらに激しく反対した。だがルーズベルトはソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、
反対を抑えていった[1]。ルーズベルトと正反対にチャーチルは回顧録では「蒋介石は権力の絶頂に
立っていた。アメリカ人の目には彼は世界第4位の国の指導者であり、新アジアのチャンピオンだった。
私はこういったものは過剰であって、中国の戦闘能力にしても未来の地位にしても疑問に思っていた。」と述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E5%AE%98%E6%A7%8B%E6%83%B3
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/17(木) 11:09:08.40ID:N1Hh68xo0
 1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻した際、後の大統領となるハリー・トルーマン
は、1941年6月24日付のニューヨーク・タイムズ紙に「ドイッが勝つと分かったら、ロ
シアを援助しなければならない。もしロシアが勝ちそうなら、ドイッを援助しなければ
ならない。こうやって、できるだけたくさん彼らに殺し合いをさせておけばいい」4と
の見解を述べていた。
 トルーマンの見解は当時としては決して特殊なものではなかった。1933年にソ連承認
を主導したフランクリン・ルーズベルト大統領でさえ、1941年8月当時、ソ連を米国の
敵であるナチス・ドイツと戦っている「敵の敵」でいる限りの「味方」と捉えていた5。
 また、1941年12月7日の日米開戦以降、米国はソ連に対して対日参戦をさせようと圧
力を強めていったが、ソ連はこれに対してあらゆる口実を設けて応じようとしなかった。
12月16日、ルーズベルト大統領はソ連最高指導者のヨシフ・スターリンに、ソ連、中国、
英国、オランダ、米国の各国代表による会議を速やかに重慶で開催したいと提案し、さ
らにモスクワで米英中の大使とソ連首脳との会談を行うことを提案したが、ソ連はこれ
にも応じなかった。
 その後も米国は再三にわたってソ連の対日参戦を促しているが、ソ連の態度は変わら
ず、このことが米国側にいっそう大きな不満と不信を招いたことは当然である。
 そうしたソ連の態度に変化が見られ始めたのは、1943年8月24日のことであった。そ
の日はケベックで開催されていた米英軍事会議(暗号名:クォドラント)の最終日だった。
 ケベック米英軍事会議は、「1944年西欧進攻作戦(暗号名:オーバーロード)」の実施
を第一の目標とし、「ロシアがベルリンに入ろうとすれば、連合国も直ちにベルリンに
入る用意を」とのルーズベルト大統領の発言を受け、可能・必要ならばそれ以前にでも
実施するという緊急作戦計画(暗号名:ランキン)の準備開始を決定していた6。
 そこにソ連が「3国外相会議をモスクワで10月18日より開催することに同意する」と
伝えてきたのである。
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1506/1/joshidaigaku_13_147_177.pdf
0010名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/17(木) 11:21:49.93ID:N1Hh68xo0
7月2日、スティムソンは日本への最後通牒となる宣言の草案(スティムソン草案)
を大統領に提出した。その際、彼は短い覚書を添付し、大統領に日本への進攻前に、
又は原爆使用の前に日本に降伏条件を提示してはどうかと提案していた。同覚書には、
「硫黄島や沖縄で発揮された日本軍の狂信的抵抗を考慮して…日本進攻の際、米軍の損
害は50万になるかもしれない」と記され、「無条件降伏に等しい物を保証する」別の方
法があるならば、侵攻作戦の実施は狂気の沙汰であり、「現在の天皇制を維持し、立憲
君主政体を消滅させようとするものではないことを示せば、日本が降伏を受け入れる
可能性を著しく大きくするであろう」と述べ、米軍の日本本土進攻、原子爆弾の使用、
ロシアの対日宣戦布告の前にこれらの約束を提案すればうまくいくであろうと勧告し
ていた76。
 明らかにスティムソンの関心は占領後に展開されるであろう米国とソ連との競争に向
けられていた。そして、この時点で米軍指導部は天皇制維持を条件に早期講和の方向に
大きく傾いていた。
 だが、バーンズ新国務長官(7月3日就任)は、そうした軍部の動きに対して、無条件
降伏を見直すことが米国の弱みと映りかねず、それは日本を降伏に向かわせるどころか
逆に戦意を高めさせることになるとして反対した77。
 また、7月8日、米英両国の最高軍事指導者によって構成される合同参謀本部(CCS)
の下部組織である合同情報委員会は、ポツダム会談前の日本情勢に関する最終評価を大
統領に提出し、日本は完全な敗北又は無条件降伏を避けるためにあらゆる手段を用い、
ソ連の中立政策を維持させようとするであろうと指摘した。また、日本は、そのために
領土譲渡などの譲歩も用い、また米英とロシアとの不和の種をまき散らそうとし、ソ連
を仲介者として利用するかもしれないと述べ、ソ連の参戦は日本の敗北が避けがたいこ
とを最終的に日本人に確信させることになるであろうと指摘していた78。
http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1506/1/joshidaigaku_13_147_177.pdf
0011名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/18(金) 16:32:20.66ID:43AWFmfr0
>>5
南進論が勝っただけで
実際は日本は関特演後ソ連に攻め込む気が満々だったがな
日ソ中立条約が考慮されたことはない
ただ北進論が南進論に負けたから
ソ連侵攻がなかっただけで
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/18(金) 16:38:49.49ID:43AWFmfr0
>>1
簡単に書いている衡陽は日本軍の第一次総攻撃は失敗し
嵐兵団、檜兵団は壊滅状態となった
衡陽は日本軍の墓標で埋まると言われるほどの大苦戦の後に占領した

桂林は人数も装備も旧式な広西軍閥の軍にやはり苦戦し
敗退寸前となった
もし薛岳が動いていたら第二のインパールになる所だった
0013名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/18(金) 16:47:02.72ID:43AWFmfr0
中国軍の近代化は順調に進んでおり
シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた
0014だつお ◆t0moyVbEXw
2013/01/18(金) 16:50:46.87ID:mkv9prvI0
>>13
>シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
>終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた

1945年になっても中国には支那派遣軍を弱体化させる事は出来ず、1945年のポツダム宣言受諾の際に
支那派遣軍総司令官の岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、
いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」と無条件降伏に反対した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6

「野田首相が人類最悪の独裁者に認定されてしまった」 3500万の虐殺を繰り返そうとする野田佳彦を許してはならない
http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50382919.html

 日本は1872年、一方的に琉球王国を廃止し、「沖縄」という名で、その領土を日本の鹿児島県の管轄とした。
ここに来て、日本帝国主義の欲が出て、日本は朝鮮半島に攻め込み、1910年の韓国併合によって、
朝鮮の日本統治時代が始まった。続いて1931年には、中国東北地域に侵略し、満州(現中国東北部)全土を占領。
1937年から1945年にかけ、第2次世界大戦で連合軍に敗北するまで、日本は中国のほかの地域およびアジア諸国
への侵略を繰り返していた。
 釣魚島をめぐる争いは、そうした帝国主義の歴史が息を吹き返したことの現れである。すべての国が、
日本の帝国主義の野心こそが、アジア地域において大量の犠牲を出し、3500万人もの人が虐殺された悪の根源
であることを覚えている。拡張という日本の愚かな行為において、米国はいかなる役割も演じるべきではない。
(完結)(編集担当:米原裕子)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120929-00000013-scn-cn
0015だつお ◆t0moyVbEXw
2013/01/18(金) 17:15:58.82ID:mkv9prvI0
>>13
>シコウ作戦に参加した日本軍は近代化した中国軍に包囲殲滅された
>終戦前は逆に日本軍の方が物資、兵器、食糧が不足していた

 第2次世界大戦時、ソ連、米国、中国、英国、フランスを中核とする連合国は正義と平和を守るため、
ファシズムの侵略に奮起して反撃し、多大の犠牲を払い、最終的な勝利を勝ち取った。とりわけ勇敢的
なソ連人民はドイツファシズムと血みどろの奮戦を演じ、侵略者を国土から駆逐したのみならず、
多数の欧州諸国を解放した。ソ連赤軍は中国東北部に出兵し、抗日戦争における中国人民の最終的
な勝利に非常に重要な役割を果たした。
http://j.people.com.cn/94474/6975602.html

 45年8月の段階で、日本軍は兵力700万を数え、航空機1万機、軍用艦500隻を保有していた。
対する米国ほか連合国がアジア方面に投入していたのは180万人、航空機5000機である。
ソ連が中立を守っていれば、関東軍が対米戦に向かっていた可能性がある。その場合、戦争は長引き、
犠牲はより大きくなっていたはずだ。
 仮想の戦いによる被害を計算することは出来ない。ただ日中戦争では、37年7月から45年8月
までの97カ月で毎月平均10〜20万の命が失われ続けた。その多くは一般市民である。ソ連による
満州攻撃がなければ、少なくとも中国は相当な被害を受けていたことになる。
 さらにカルネーエフ氏は、米国による原爆投下が決定的な終戦の要因となったとの見方にも賛成できない。
「当時、原爆投下がどれだけの結果をもたらしたか、誰も知らなかった。今は数字が出ているから、
日本は原爆で降伏したと多くの人が語る。それは間違いだ。広島や長崎には巨大軍事工場も武器庫も
大部隊もなく、原爆投下で日本の軍事力が殺がれた訳ではない。だから軍事戦略上の意味はありえない。」
http://japanese.ruvr.ru/2010/08/08/14996759.html

広島、長崎における米国の野蛮な原爆投下ではなく、ソ連の対日参戦こそが日本政府をして、
戦争継続の無意味さを悟らせ、降伏を受け入れる決断をさせた。それは日本民族を本土決戦から救い出した。
http://japanese.ruvr.ru/2012_02_20/66504824/

スターリン元帥は、これらの条件が満たされない場合、自分とモロトフにとり、なぜロシアが対日戦争に参加
しなければならないのかソヴィエト国民に説明するのが困難となるのは明らかである旨述べた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf

 左の封筒は、ソ連の対日参戦を記念して、当時アメリカ合衆国で作られた記念品。ソ連対日参戦とスターリン
の判断を肯定的に評価している図案になっている。『8月8日、日本の最悪の恐怖が現実のものとなった』ソ連
対日参戦に対する米国の一般的な評価です。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm

 この図録では、アジア各地における日本軍の終戦時の兵数をグラフにした。
 現地の占領当局となった陸軍の兵数で見ると、中国本土が105万人と最も多く、満州の66万人と合わせる
と各地域合計296万人の58%と約6割を占めている。
 次ぎに多いのは蘭領インドシナ(おおむね現在のインドネシア)が23万人である。朝鮮半島も北部の9万人、
南部20万人を合計すると29万人とこれを上回る。
 この他、多くの地域で、10万人内外の日本軍が進駐していたことが分かる。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8050.html
0017名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/19(土) 13:40:02.40ID:VINhrean0
>>15
こいつみたいな空疎な数字を上げて抗戦を主張した青二才の参謀が当時もいたんだな。
脳ないではニホングン圧倒的優勢だな。
トホホなまでに馬鹿やで
0018名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/19(土) 15:31:33.94ID:mKpDVVRX0
236連隊で作戦主任をやっていた佐々木春隆は
著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
敵の支配地は裕福だったとか
食糧の補給がないから民家に押し入って食料を盗むしかなかった
補給する国力がないのにこんな大作戦「一号作戦」をやって大丈夫かとか
南支に派遣されアメリカ軍の上陸に備えて陣地構築を命じられたが
重火器の支給はまるでなく、これでは勝てないと思ったとか
終戦前後に遭遇した八路軍の戦意の高さや蒋介石直属軍の装備がアメリカ式で
最新鋭だったとか
そんな話がわんさか出ているが
0020名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/19(土) 21:09:59.41ID:JNUwi7Qj0
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

≪児島襄「参謀(下)」のジョゼフ・スチルウェル編より引用≫
「“ピーナッツ”は偏屈で恩知らずの小さなガラガラヘビだ・・・・ (中国政府は)
自分たちだけのことしか考えないならず者の集団だ。指導者たちの興味は、
ただ金、権力、そして地位だけだ・・・・。手に入るものには何でも頭を下げ、
自分は戦わないように心がける・・・・。“インテリ”と金持ちは子どもを米国に送り、
農民の子どもが戦争に かりだされる。しかも注意も訓練も指示も与えられずに死んでいる。
 われわれは、この腐敗した政府を支持し、その偉大なる愛国者兼戦士
“ピーナッツ”に栄光を与えるために、戦おうとしているのだ―おお神よ!! 」
≪中略≫
当時の米軍は、日本軍と同じく、行軍距離単位は四キロであったが、
その米式訓練をうけたはずの、いやボートナー准将自身がその訓練をした孫部隊は、
一キロ歩いては休み、次に一キロ進んではごろりと道端に寝転がる。
 しかも、頭上に英軍機が飛来して補給物資を投下すると、隊列を
乱してむらがり、悲鳴をあげつつ、下着に利用するパラシュートを奪い合う。
≪中略≫
孫部隊は狂喜した。中国大陸で負けつづけ、日本軍といえばかなわないものと信じていたのに、
その日本軍がひきあげたのである。勝った、勝ったと小銃を空に乱射しておどりあがった。
 ところが、勝ちに乗じた勢いで快進撃するものと期待していた孫部隊は、
たしかに前進は開始したものの、そのスピードは以前にもおとる低速であった。
そして、昭和十九年一月二十九日、孫部隊はついに完全停止した。
 ボートナー准将の急報によってかけつけたスチルウェル参謀長は、にこやかに迎える
孫少将の顔をぼう然と眺めながら、考えこんだ・・・・なぜ、前進しないのか?
≪中略≫
スチルウェル参謀長は、孫少将にかみついた。
「明らかに命令違反である。よろしいか。貴下の第三十八師団は、 全中国軍のなかで
とびぬけて優良な兵器、弾薬、糧食の補給を受けている。 足りないというのなら、
迎撃砲も、火炎放射器も、米兵だってさしあげる。 だが、命令に従うのが条件だ・・・・
もし自分の使命が達せられないようなら、辞職してワシントンに報告せざるをえない」
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/19(土) 22:18:32.35ID:mKpDVVRX0
>>岡村寧次は「百万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に無条件降伏するがごときは、
いかなる場合にも、絶対に承服しえざるところなり」

事実としてシコウ作戦で日本軍は完全に中国軍に火力で圧倒されて威滅され
四川をせめようとして異民族に敗退し
湖北だったかでは中国軍に追撃された
岡村寧次は現実を見ることはできなかったようだ
日本軍は中国軍を撃破することはできなくなっていた
0022だつお ◆t0moyVbEXw
2013/01/20(日) 08:19:24.17ID:e7v9n7Bl0
>>21
>岡村寧次は現実を見ることはできなかったようだ
>日本軍は中国軍を撃破することはできなくなっていた

また、岡村に蒋介石が接触したことから日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん:団長富田直亮
の中国名、白鴻亮から)が結成され、1949年(昭和24年)から約20年にわたり中国国民党政権に協力した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1
0024名無しさん@お腹いっぱい。
2013/01/31(木) 16:46:26.44ID:WgwyA3Bj0
ってか、中国人なんてゴミみたいなものだろw
0025名無しさん@お腹いっぱい。
2013/02/05(火) 03:12:29.42ID:JFtmzfRn0
南進論が勝って無かったら疾風が飛ぶのも不可能だろう。
終盤は分断されたとはいえ、二年ほどはインドネシアから本土へ
ガソリンを運んでいたんだからな。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2013/02/06(水) 19:16:58.73ID:IF0m0wQg0
ドイツ軍とシベリアで握手してカフカースの石油が日本に来ると妄想してみる
0028だつお ◆t0moyVbEXw
2013/02/25(月) 13:39:49.34ID:0U7g4oRX0
対中援助に寄与したアメリカの「フライングタイガー」
フライングタイガーは「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」の略称であり、1942年4月に創設し、
1946年4月、戦争終了後に解散された。創始者はアメリカ人飛行教官の陳納徳(シェンノート)氏であった。
1938年8月、宋美齢の求めに応じて、シェンノート氏は昆明市の郊外に航空学校を設立し、アメリカ軍の基準
で中国空軍を訓練し、中国空軍の対日戦に積極的に協力した。
1941年、ルーズベルト政府のひそかな支持の下で、シェンノート氏は個人団体の名義で巨額の資金を出して
アメリカ人パイロットとエンジニアを募集した。その年の7月と10月に、200余人もの勇敢で危険を恐れぬ隊員たちが、
対日戦参加のために中国に来た。
31回の空中戦で、フライングタイガーの志願者は5機ないし20機のP-40型戦闘機をもって217機の敵機を撃墜し、
みずからの損失はわずか14機だった。それ以後、「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」はフライング
タイガーのマークを使い始め、そのサメの頭の形をした戦闘機も世に名を知られるようになり、「フライングタイガー」
というニックネームも知られるようになった。抗日戦争が終わるまでに、フライングタイガーは敵機を2600機撃墜し、
積載量223万トン相当の船舶、軍艦44隻、100トン以下の内陸河川の船1万3000隻を撃沈するかあるいは大破させた。
また日本軍将兵6万6700人を撃ち殺した。フライングタイガーの隊員のほとんどは中国政府から賞を授与された。
10余人の飛行士はアメリカ、イギリス政府から飛行十字勲章を授与された。
ここ20年来、生き残りの元フライングタイガーの隊員たちはしばしば中国を訪れ、困難や危険にめげず飛行機の
残骸や戦友の遺骨を探すことに取り組んでいる。
http://japanese.china.org.cn/japanese/170095.htm
0029名無しさん@お腹いっぱい。
2013/02/28(木) 01:04:03.39ID:cygfYo2v0
アメリカの義勇兵は売春したり態度も横柄だった一方で
ソビエトの義勇兵は真摯で品行は方正だったという。
(マジで)
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2013/03/07(木) 17:38:33.42ID:I3iLZxKJ0
 ――日本軍を「足の曲がったごきぶりども」と罵ったのは・・・彼だ
 『中国日記』(J・スティルウェル みすず書房 昭和41年)
 日本軍を中国大陸に縛りつけ継戦能力を奪うことで日米戦争を有利に展開させようと狙ったルーズベルト
によって?介石の許に送り込まれながら、?介石とソリが合わず、最終的にはルーズベルトによって44年秋
に中国戦線米軍司令官兼?介石付参謀を解任されたJ・スティルウェル将軍の日記である。
 「一九四一年十二月七日 日本軍はハワイを攻撃」からはじまり、「(1944年)十月二十七日 
夜明けに飛行場を去る。午前八時、中国・ビルマ・インド戦区の最後」で終わる日記の間に、時に戦意昂揚し、
時に意気消沈し、時に悲憤慷慨し、時に茫然自失し、時に辛吟慨嘆する心情を赤裸々に綴った夫人宛の
数多くの手紙が収められている。41年から44年秋までの日本軍に対するルーズベルト、米軍首脳陣、
?介石、宋美齢夫人ら側近たち、国民党軍首脳、加えるに中国共産党などの幾重にも絡み合った利害関係
(対日戦勝利という“大義”から個人的利権まで)が、スティルウェルの立場から詳細に綴られている。
あの戦争の動向のみならず現在に繋がる米中関係の“深い闇”を知る上では貴重な資料だ。
 行間からスティルウェルの持つ狷介な性格が読み取れるが、それにしても、「ピーナッツ」「小男のでくの坊」
「小男の成上がり者」「握り屋で、偏屈で、恩知らずのがらがら蛇」「愚鈍で強情」「チビのばか野郎」「底抜け
の愚鈍さ」「小さながらがら蛇」「ゲシュタポと党諜報機関によって支えられた一党政府の長」「強欲、汚職、
えこひいき、増税、幣制の崩壊、おそるべき人命浪費、あらゆる人権の冷淡な無視」「名義上の頭首」
「その資格と業績に比して度はずれなアメリカでの宣伝によっておしたてられている」と止め処なく飛び出す
?介石に対する凄まじい悪罵。こんな気持ちで対応されたら、流石の?介石も頭にきた筈だ。
 国民党に対しては、「自分の見たところによって判断する。〔国民党〕汚職、怠慢、混乱、経済、租税、
言葉と行為、退蔵、闇市場、敵との取引」と辛辣極まりないが、一方の共産党に対しては「共産党の綱領
・・・・・税金・地代・利子の引下げ。生産と生活水準の高揚。統治への参加。宣伝していることの実行」と
極めて寛容で好意的な判断を記している。

 ビルマ戦線で苦戦を強いられた日本軍に対しては、「私の希望は、そのうちこの野郎ども(日本軍)を踏みつぶし、
戦争を終わらせることです」「足の曲がったゴキブリどもがどうやってわれわれの平和な生活をぶちこわしたかを考えると、
アジアの一つ一つの街灯にジャップの腸をまきつけてやりたくなります」と、想像を絶するまでに憎悪の念を隠さない。
 スティルウェルが綴っている日米開戦の日から44年秋までの日本をめぐっての米、中、さらには英国、ソ連の
“対日戦争勝利後”の中国をめぐっての虚々実々の駆け引きと同様に興味深いのが、この本の出版そのものだろう。
 「訳者あとがき」で、その戦中の戦績・業績に比してスティルウェルが余りにも不当に扱われていると憤慨した後、
この本が「どちらかと言えば冷戦時代の本国でよりも、むしろ世界の民主的世論に歓迎されたことが特徴であ」り、
「この日記をもっとも詳しく紹介したのはソ連の雑誌『新時代』であったことは偶然ではない」とし、スティルウェル
に対し「中国の反人民的な指導者ではなしに、抑圧されている人民のうちに自己の理想の支柱を見出そうとした」
「真の中国の友人として敬愛された」と熱烈な“讃辞”を送っている。
 翻訳者は満鉄調査部に巣くった左派代表格の石堂清倫。出版は「民主的」なみすず書房。出版された昭和41
(1966)年といえば、70年安保闘争の前夜だ――この3者の結びつきの背後に何やら政治的意図が感じられる。
(拙稿809、835回を参照願えましたら幸甚)《QED》
http://mizuhonokuni.sblo.jp/article/61945095.html
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2013/03/07(木) 21:39:16.33ID:fRUep3Pz0
とにかくエンジン、いちにもににもエンジン。
0032名無しさん@お腹いっぱい。
2013/03/20(水) 17:07:53.72ID:M17z1cY20
B-29撃墜目指して開発 関係者が語る幻の戦闘機(前半)http://news.rcc.jp/?i=MjAyNDU=&#a
 特集です。10万人以上が亡くなったとされる東京大空襲から今月10日で68年がたちました。多くの犠牲者は、アメリカの爆撃機Bー29の無差別爆撃によるものでした。
 その後、広島での原爆投下にも使われたBー29。その撃墜を目指した日本軍の幻の戦闘機がありました。関係者の証言です。
 (瀬尾斎さん)「模型のBー29が飛んで来るのを、雨の日は、ぴゃっと600!言うて押す。600m先で秋水の30ミリの機関銃がちょうど交差するように設計されとるから」
 神石高原町の瀬尾斎さん、現在84歳です。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20245.jpg
 旧制府中中学在学中、16歳で海軍の予科練に志願し、「ゼロ戦乗り」を目指しました。成績優秀と評価され、秘密兵器のパイロットに選ばれます。
 その秘密兵器が、Bー29撃墜のため開発が進められていたロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」です。
 太平洋戦争末期、Bー29は日本上空に次々に飛来、終戦までに200を越える都市を攻撃しました。
 対応に迫られた日本軍は、終戦が近い1944年、当時同盟国だったドイツから潜水艦を使って設計図を取り寄せ、
陸海軍の総力を挙げて「秋水」の開発を進めたのです。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20245_L.asx
 時速は800キロ。ロケットの推進力を利用し、Bー29が飛ぶ高度1万メートルまで日本のプロペラ戦闘機なら40分は
かかるところを、わずか3分30秒で到達する設計でした。
 秋水の訓練パイロットだった瀬尾さんが書いているのは帽子ではありません。
急激な気圧の変化に体を慣らすための低圧タンクです。高度1万メートルと同じ低い気圧になるとあることで大変困ったそうです。
 (瀬尾斎さん)「そうすと、こうやっとくとだんだん腹がふくれたり、おならが出ていけん様になる」
 そのため秋水のパイロットには、白米に加えガスの出にくい高カロリーの肉や牛乳を支給されたそうです。
 (瀬尾斎さん)「へいじゃけえねー、ものすごいええ食事をさしてもらいよった」
 日本軍が力を注いだロケット戦闘機の開発―。終戦が刻々と迫っていました。(3/14 19:16)
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2013/03/20(水) 17:11:54.01ID:M17z1cY20
B-29撃墜目指して開発 関係者が語る幻の戦闘機(後半)http://news.rcc.jp/?i=MjAyNDQ=&;#a
 (鍵本文吾記者)「呉の大和ミュージアムにきています。こちらの展示物なんだかおわかりでしょうか。太平洋戦争末期、日本軍が開発した秘密兵器の一部なんです」
 この壺のような鋳物製の部品は、秋水のロケットエンジンの燃焼室とノズルです。戦艦大和を作った呉の広海軍工廠で作られました。
 2種類の薬品を化学反応で爆発させ、そのエネルギーを飛ぶ力にします。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20244.jpg
 日本には、ゼロ戦などの優秀な戦闘機があったのに、ドイツから設計図を運んでまでなぜ秋水のようなロケット戦闘機が必要だったのでしょうか。
 (大和ミュージアム 戸高一成館長)「当時の日本は1万メートル上空の爆撃機(Bー29)を撃墜する方法がなかなか
無くて、当時ドイツで開発してましたロケット戦闘機の資料をもらってですね日本で作ったのが秋水で。
ですから、ゼロ戦なんか非常に有名で優秀な戦闘機なんですけれども1万メートル上空で戦うことを想定していないので実際問題としては非常に難しかったんですね」
 しかし当時、従来の戦闘機でBー29を撃墜した人がいます。http://news.rcc.jp/rccnews/data/20244_L.asx
 廿日市市に住む太刀掛俊雄さん、91才。岐阜県の川崎航空機で軍用機のテストパイロットをしていました。
 1945年1月のこと。Bー29が名古屋を空襲するため現れます。
 太刀掛さんは、工場の滑走路にあった戦闘機「飛燕」に飛び乗り、伊勢湾上空で一機を打ち落としました。
 (太刀掛俊雄さん)「高度8000メートルで伊吹山の上空から名古屋の方に向けて右旋回した。
Bー29の編隊へ向けて私が後ろから追っていって、編隊の下をもぐったわけ。そして2号機へ向けて、20m4門機関砲を発射して」
 ただ、太刀掛さんのようなケースはきわめてまれでした。
 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。
 (市場久一さん)「うーん、やっぱりあのゼロ式艦上戦闘機というのにね、なんと言いますかね、
こだわり過ぎるというか、その後継機を早急に作り上げるという事に対する熱意が海軍にもなかったんじゃないかと思います、はい」
 島根県松江市に住む、市場久一さん、88歳。ゼロ戦の改修などの仕事をしていました。
 秋水は、名古屋の三菱重工の工場で作ることになり、まだ21歳だった市場さんも加わって操縦装置の設計を担当しました。
 ドイツから苦労して持ち帰った設計図は名ばかりで、実際はごく簡単な図面だったといいます。
 (市場久一さん)「私が担当した操縦装置にしてもいわゆる想像でやるしかないという面が沢山ありましたからみんな苦労したと思っています」
 徹夜も続いた突貫作業の末、ドイツでは3年かかった開発を1年で終えました。
 1945年7月、横浜の海軍基地での試験飛行。秋水は見事に離陸します。しかし、燃料タンクのトラブルで墜落、初フライトは失敗に終わりました。
 時は終戦目前。結局、秋水はBー29を1機も撃墜することなくその歴史に幕を下ろしました。
 (市場久一さん)「何か計画では、敗戦の次の年、3千機ぐらい作るという構想もあったように聞いていますんでまあ陸海軍も本気だった様ですね。これがあったらと言う」
 もし、秋水が早く実用化されていたら広島・長崎への原爆投下も防げたのでしょうか。
 (大和ミュージアム 戸高館長)「もしですね、仮に量産されたとしてもですね、実際に飛べる時間が3分少しかないんですよ。
ですからよほどコントロールしないと飛び上がってBー29の真下にたどり着くことができないですし、
機体が出来てもですね、実際の運用と言うのはきわめて難し方というのが現実だと思います」
 秋水のパイロット訓練を受けていた瀬尾斎さんは、茨城県の霞ヶ浦で終戦を迎えました。豪華な食事の待遇も様変わりしました。
 (瀬尾さん)「それが戦争に負けた言うたとたんににね、大根の葉っぱを入れたようなご飯に変わってしもうた」
 日本軍が秘密裏に開発を進めたロケット戦闘機「秋水」。アメリカよりも工業力が劣っていた当時の日本の限界を示すエピソードです。(3/14 19:16)
0034だつお ◆t0moyVbEXw
2013/03/22(金) 10:05:11.28ID:jjV4bxhv0
>>33
>当時ドイツで開発してましたロケット戦闘機の資料をもらってですね

1945年4月初めまでに、ルフトバッフェは1,200以上のMe262を受領しました。
その月においては戦闘機用配備が最高になりますが、ピークでも200機以下で、
戦闘部隊に供給されたのは生産機数の6分の1程度でした。
実用性はお粗末なままで、60%あたりをさまよっていました。Me262が昼間
戦闘機として飛ばされたのは最大でも57機にすぎず、それは1945年4月7日のことでした。
By the beginning of April 1945 the Luftwaffe had accepted more than 1,200 Me 262s.
The month saw the high point in the fighter's deployment, yet at the peak fewer than 200
of these aircraft, or about one in six of those built, served with combat units.
Serviceability remained poor, hovering around the 60 per cent mark. The largest number
of Me 262 day fighter sorties flown on a single day, only 57, was on 7 April 1945.
http://nazi.org.uk/military%20pdfs7/TheLastYearOfTheLuftwaffe-May1944-May1945.pdf

(SATURDAY, 7 APRIL 1945)
EUROPEAN THEATER OF OPERATIONS (ETO)
STRATEGIC OPERATIONS (Eighth Air Force): Mission 931: 1,314 bombers and 898
fighters are dispatched to hit airfields, oil and munitions depots and
explosive plants in C and N Germany; all primary targets are bombed visually;
they meet 100+ conventional fighters and 50+ jets; the German fighters attack
fiercely and in the ensuing air battle down 15 heavy bombers; the AAF claims
104-13-32 aircraft including a few jets:
http://paul.rutgers.edu/~mcgrew/wwii/usaf/html/Apr.45.html

 戦闘機不足の一つの理由は、ジェット機を製造する工場と、その組み立て
をする飛行場を、第15航空軍が何度も執拗に爆撃していたからだった。ドイツ
は一四〇〇機のジェット戦闘機を製造したが、そのうちのごくわずかしか飛ば
せなかった。レーゲンスブルクの飛行場はこの戦闘機の基地の一つだった。
第15航空軍が一九四五年二月八日の偵察飛行で撮影した写真では、四八機の
ME262が飛行場に駐機していた。第15航空軍は何度もこれに攻撃を加えた。
第455爆撃機群と、そこに属する第741飛行隊も、この二月の攻撃に参加
した。爆撃機群は一二機のME262を破壊し、四機に損傷を負わせた。他の
爆撃機群も同じような損害を与えていたから、敵は壊滅したも同然となった。
その後、ME262が単独で、あるいは小集団を組んで現われることはあったが、
飛行隊規模の編隊で出現することはついぞなかった。陸軍航空軍の公認の歴史
にもこう記されている。「あの優秀なジェット戦闘機が現われるときはいつも
少数だった・・・・・・ほとんど抵抗されることなく、ある飛行場から別の飛行場へと、
あるいはドイツの前線の背後に閑散としたアウトバーンへ飛んでいくさまは
ドタバタ喜劇のようだった」
<S・アンブローズ「ワイルド・ブルー」 >

Here is a breakdown for the US, British and German training for fighter pilots.
(ドイツ空軍の飛行訓練時間の推移)
http://www.taphilo.com/history/8thaf/8aflosses.shtml
0035だつお ◆t0moyVbEXw
2013/03/22(金) 10:53:30.85ID:jjV4bxhv0
>>33
> 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、
>失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。

議事録には次のようなイーカーの言葉が引用されている。
「日本にたいし航空兵力のみの使用を主張する者はきわめて重大な事実を見過ごして
います。それはつまり、航空機のみが敵と対決するときは、航空兵の死傷者数は決して
低下しないという事実です。現在の航空兵の死傷者数は一度の任務につきおよそ二パー
セントであり、一月当たりでは約三〇パーセントです」イーカーは続けた。
「時期を逸すれば、敵が有利になるだけです」
「日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌」(T・アレン&N・ボーマー著)

"GENERAL EAKER said that he agreed completely with the statements
made by General Marshall in his digest of the memorandum prepared
for the President. He had just received a cable in which General
Arnold also <page 559> expressed complete agreement. He stated
that any blockade of Honshu was completely dependent upon airdromes
on Kyushu; that the air plan contemplated employment of 40 groups
of heavy bombers against Japan and that these could not be deployed
without the use of airfields on Kyushu. He said that those who
advocated the use against Japan of air power alone overlooked the
very impressive fact that air casualties are always much heavier
when the air faces the enemy alone and that these casualties never
fail to drop as soon as the ground forces come in. Present air
casualties are averaging 2 percent per mission, about 30 percent
per month. He wished to point out and to emphasize that delay
favored only the enemy and he urged that there be no delay.
http://www.endusmilitarism.org/casualty_projections_Giangreco.html

>現在の航空兵の死傷者数は一度の任務につきおよそ二パーセントであり、一月当たりでは約三〇パーセントです

正真正銘のB-29です。尾翌の番号から、機体製造番号は、45-21739で、
米国のB-29関連のHPに記載の番号と同じでした。展示説明板には、
ハングルの他に英文で次ぎのように説明していました。
『世界的に有名なB-29は、第二次世界大戦と韓国戦争の3年間を通して
任務を果たした。韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。
この超空の要塞は、18個に分解され、1972年3月にカリフォルニアの
チャイナレイクからソウルへ輸送した。そのB-29は韓国空軍によって
再組み立てされ、そして、1972年8月以来Yoid Museumに展示された。』
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.trip/trip.korea.html

COMBINED SUMMARY OF 20TH AIR FORCE & 9TH GROUP OPERATIONS
     20TH AIR FORCE                 9TH BOMB GROUPC
     From June 5, 1944 on             From February 9, 1945 on
Missions          380                        75
Sorties        
Combat          31,387                       1843
Other           1,617                        169
Total           33,004                       2012
Bomb and
mine tonnage      171,060                      11,376
B-29 losses
Combat losses      494                   14 + 5 non-combat
Training losses in U.S.  260                          1
Air crew losses
Killed             576                26 + 1 ground crewman
Missing           2,406                  96 (12 repatriated)
Wounded or injured    433                         30
http://www.9thbombgrouphistory.org/Chapters/Chapter_07.pdf
0036だつお ◆t0moyVbEXw
2013/03/22(金) 10:58:08.52ID:jjV4bxhv0
>>33
> 太平洋戦争中のBー29の延べ出撃機数は3万3000機に対して、
>失われた機体は714機。損失率は2.2%と極めて低い割合でした。

ところで太平洋戦線でアメリカは27,000機もの航空機を失ったって知ってるか?
欧州戦では未生還機に修理不能損傷機(damaged beyond repair)を加えても18,000機なのに対し。

Aggregate United States plane losses during the course of the
Pacific war, not including training losses in the United States,
were approximately 27,000 planes. Of these losses 8,700 were
on combat missions; the remainder were training, ferrying and
other noncombat losses. Of the combat losses over 60 percent
were to antiaircraft fire.
http://www.anesi.com/ussbs01.htm

In the attack by Allied air power, almost 2,700,000 tons of bombs
were dropped, more than 1,440,000 bomber sorties and 2,680,000
fighter sorties were flown. The number of combat planes reached a
peak of some 28,000 and at the maximum 1,300,000 men were in
combat commands. The number of men lost in air action was 79,265
Americans and 79,281 British. [Note: All RAF statistics are
preliminary or tentative.] More than 18,000 American and 22,000
British planes were lost or damaged beyond repair.
http://www.anesi.com/ussbs02.htm

なお、第二次世界大戦における航空機の損失は、事故や自然損耗のほうが圧倒的に多い。
また太平洋戦線では、公式統計の米軍死者406,000人の他、行方不明者もそれとは別に存在する。

 大体においてヨーロッパ戦域は、ジャングル病、マラリア、デング熱、
そのほか熱帯特有の病気に冒されないだけでも、まともな戦場といえた。
大戦中もっとも病気が恐ろしかった戦場は二つあり、一つはビルマで、
もう一つはニューギニアだった。イギリス軍の経験では、一九四三年
にビルマ戦線で戦闘による負傷者を一人後方に移送するたび、戦闘以外
の原因で後方に移送する者は百四十人を数え、その大半がマラリア
および他の熱帯性の病気の罹患者だった。この数字は一九四四年には、
徹底した防御策と新薬の導入により六十人に落ち、一九四五年には
四十人へと激減した。それでもなお、罹患者数は実に多い。
 アメリカ軍に目を向けてみよう。アメリカを離れなかった軍人や非戦
闘区域にいた軍人などを含め、アメリカ軍全体で考えると、戦闘による
負傷で戦闘不能になった者の率は、わずか一八%にすぎない。ビルマ、
ニューギニア、その他の熱帯地域で戦った軍人は、イギリス軍と同様、
数多くの熱帯性疾病の危険にさらされた。罹患者は敵軍による負傷者
より多い。敵軍がいなくても、病気の危険は去ってくれないからだ。
 アメリカ軍はメラネシアにあるサンタクルス諸島のヌデニに飛行
基地をつくろうと企てたが、多数の工兵が次々とマラリアに倒れ、
計画を放棄せざるを得なかった。それに加え「内国地帯」(軍事用語
=交戦国内で作戦地域を除く地域)での事故率が、飛び抜けて高かった。
一九四三年だけで、軍事関係の飛行事故で五千人が死んでいる。
<第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著 大貫昇/訳>
The German surrender on 8 May 1945, and the Japanese surrender on 15
August 1945, together marked the end of World War II. Of the estimated 16
million Americans who served during the war, 406,000 had died and almost
79,000 were missing. The war with Germany resulted in roughly 24,000
unaccounted-for, and with Japan over 54,000.
http://www.dtic.mil/dpmo/news/special_reports/documents/2000_wwii_report.pdf
0038名無しさん@お腹いっぱい。
2013/03/22(金) 14:32:27.65ID:2gL+k2Qn0
>>36
>一九四三年だけで、軍事関係の飛行事故で五千人が死んでいる。

World War II (1941-1945)
Total            293,121   670,846     115,185
European Theater   185,179    498,948     66,805
Pacific Theater     107,903    171,898     48,380
http://www.vfw.org/PR/Media%20Room/AmericasWarDead1775_2009.pdf

 太平洋戦争の特徴の一つは、非戦闘要因で破壊された航空機が多いことだ。
 戦争全体を通して見ると、敵前の行動で失われた航空機は、たったの25%にすぎない。
 残りの原因は天候不順、空母からの発着艦ミス、急造滑空路による事故と、熱帯性気候による航空機の損傷だった。
こうした太平洋独特の状況のため、航空機のロスは欧州戦線などよりはるかに高かった。
 アリューシャン作戦では、なんと87%が非戦闘要因による損害だった。
 たしかにアラスカには熱帯性の気候はなかったが、北極の悪天候が航空機の寿命を大幅に短縮したのである。
「第二次世界大戦 あんな話こんな話」 ジェイムズ・F・ダニガン
アルバート・A・ノーフィ 大貫昇=訳 文春文庫,P295
http://www6.atwiki.jp/army2ch/pages/58.html

>>36
>406,000 had died and almost 79,000 were missing.

World War II ended on August 15, 1945 . Nearly 406,000 of the 16 million Americans who
served in the war died. At the end of the war, the USG was unable to recover, identify,
and bury approximately 79,000 as known persons. They include those buried with honor as unknowns,
those lost at sea, and those missing in action. That number also includes the 1,100 sailors entombed
in the USS Arizona Memorial in Pearl Harbor. Today, more than 78,000 Americans remain unaccounted-for from WW II.
http://forums.army.ca/forums/index.php?topic=64228.0;wap

大戦中、アメリカ陸軍が指揮下に置いた船舶数は十一万一千隻。これに対しm
海軍は一万四千隻から一万七千隻(船の分類の仕方で変わってくる)の戦闘艦
を指揮下に置いた。船の数でいえば陸軍のほうが多いわけだが、ただし陸軍は
一隻の軍艦ももっていなかった。
 第二次世界大戦での上陸作戦のほとんどは陸軍が主導権をにぎっていたのだから、
陸軍が大船団を擁していても不思議はないかもしれない。陸軍は千六百二十五隻の
小型(千トン以下)外航船、それに一万一千百五十隻の内航船(曳き船、機雷敷設船、
燃料用艀、浚渫船などを含む)ももっていた。こういう分野は海軍が手を出したがらない。
<第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著 大貫昇/訳>

世にも奇妙な「空軍であって地上戦闘軍」
<中略>
 ドイツ空軍地上軍の半分以上は,高射砲部隊に属していた.
 いちばん多いとき(1944年末)は100万の兵士(数千人の女性兵士含む)が,2万基以上の空軍
(陸海軍所属の高射砲は別にある)の対空砲とサーチライト部隊に配属された.
 連合軍の進撃にともない,これら後方基地の高射砲部隊が前線に位置する結果になった.
ドイツ軍は地上の敵と戦うことも予想して高射砲をデザインし,兵士をも訓練してあった.
――――――第二次世界大戦 あんな話こんな話 / J・F・ダニガン/著 A・A・ノーフィ/著
http://keshiintokorozawa.web.fc2.com/faq08a04o07.html
0039名無しさん@お腹いっぱい。
2013/05/08(水) 17:04:24.52ID:ggfniBuw0
ドイツ空軍は、米空軍に敗れる以前に、ソ連空軍にも敗れていたと思う。

Crew training was important to all national air forces. Throughout the war the amount of time spent on
training decreased for all air forces. Here is a breakdown for the US, British and German training for fighter pilots.
http://www.taphilo.com/history/8thaf/8aflosses.shtml

上の独・英・米それぞれの飛行時間推移をご覧頂きたい。

特に注目すべきは、「1939 TO SEPT 1942」と「OCT 1942 TO JUNE 1943」で、
独空軍と英空軍の飛行時間の差が大きく逆転していることだ。
また1943年の米空軍は、シュヴァインフルト航空戦の失敗などで、戦略爆撃を断念していたはずだ。
それから航空機の損害機数でも、独ソ戦の前後で大きく変化している。
つまり独空軍はバトルオブブリテンでは負けてはいなかったが、独ソ戦では負けているということだ。

Luftwaffe Aircraft Used Only Against Allied Bombers
Month Year Percentage
June 1940 0%
June 1941 7%
June 1942 17%
June 1943 21%
June 1944 29%
January 1945 50%
http://www.angelfire.com/ct/ww2europe/stats.html

「Only Against Allied Bombers」は、米英戦略爆撃に対してのみの割り当てであろうが、
1943年の6月では21%に過ぎず、米英戦略爆撃が独空軍を弱めたとは考えられない。
1943年に独空軍の飛行時間が縮まったのは主として独ソ戦によるもの。
再度繰り返すが、1943年はシュヴァインフルト航空戦など、米空軍は戦略爆撃を断念していた時期だ。

戦線別ドイツ軍戦死者統計
Losses per theater
Theater      Dead      %
Africa       16.066     0,3   ←アフリカ戦線ww
Balkans      103.693    1,9
 North      30.165     0,6
 West       339.957    6,4
 Italy       150.660    2,8
Eastern Front
(- Dec 1944)  2.742.909    51,6   ←ソヴィエト赤軍は
Germany (1945) 1.230.045   23,1   ←頼もしいよなぁ♪
Various       245.561   4,6
 Total       4.859.056
http://www.axishistory.com/axis-nations/germany-a-austria/144-germany-unsorted/statistics/2461-german-losses-per-theater

くだらない西側の反ソ宣伝に騙されないよう気をつけような。

               あ  り  が  と  う  ソ  連  邦  !
0040名無しさん@お腹いっぱい。
2013/05/13(月) 23:31:49.69ID:ffeiUKvu0
【日露】「無条件降伏で失った北方領土、何の根拠もない日本は黙れ」ロシア副首相、日本の要求を一蹴[04/25]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1366898746/

ロシアのロゴジン副首相は24日までに、
北方領土問題に関連し「われわれは領土論争が好きではない。特に何の根拠もなければなおさらだ」と述べ、
日本の領土返還要求を一蹴した。英BBC放送(ロシア語版)のインタビューで答えた。
 副首相は「日本の仲間はメドベージェフ首相に、南クリール諸島(北方領土)に行くのは良くないと指摘する。
無条件降伏し自ら開始した戦争の結果として失った領土に関して、日本は黙っているべきだと注意を促したい」と語った。(共同)
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2013/06/01(土) 08:06:05.48ID:q8f2saH60
旧ソ連の技術水準は、核開発で比較するとアメリカよりも4年遅れだが、イギリスに対しては3年早かった。
これでソ連とイギリスの技術開発力の差が、誰の目から見ても明確になってしまった。

旧ソ連の核開発
1949年 8.29. セミパラチンスク核実験場で原爆実験に成功し、アメリカの原爆独占を終結させる
1953年 8.12. 水爆実験に成功
イギリスの核開発
1940年 原爆生産の可能性を検討する科学者委員会が設置される
1943年 アメリカのマンハッタン計画に参加
1946年 原子力研究所を設立し、独自の原爆開発計画を推進
1952年 10.03. オーストラリアのモンテベロ島で原爆実験に成功
1957年 5.15. クリスマス島で水爆実験に成功
2002年 2.14. アメリカと共同で臨界前核実験を実施
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/Peace/J/pNuclear1_1.html

3年といえば、日本が本土空襲のころになってようやく南方で鹵獲した米英レーダーをコピー生産の
後に実践運用したくらいの期間である。原子爆弾という最強兵器でイギリスより3年早いということは、
ソ連の技術水準がイギリスと比較していかに高かったかを如実に語っていることになろう。
同じ戦勝国でありながら技術力でイギリスはソ連に大きく遅れて、世界の物笑いの種となった。
二番のソ連にさえ遅れているのに必死こいて三番目に核開発なんて、列強工業国として非常にみっともない。
こんなことなら「非核三原則」を理由に、イギリスは戦勝国でも核兵器は持ちませんということにすべきだった。
核開発をする実力はあるが、あえて「非核三原則」の理念を守るということで、核開発を止めたほうが列強としての面子が保てたろう。
まさにソ連の核兵器はアメリカの原爆独占を終結させイギリスをコケにし、しかも誰も殺さなかった「清潔な核兵器」だった。

              あ   り   が   と   う   ソ   連   邦   !
0042名無しさん@お腹いっぱい。
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:YVc+/xdMP
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

そりゃ米軍が援助してるんだから、当たり前だがな。蒋介石軍は、本当に恥ずかしい。

 一九四四年四月、日本軍は一五個師団に五個旅団を合わせて侵攻を開始した。
これを迎え撃つべき中国軍三〇万は、あっという間に姿を消してしまった。
五百人ほどの日本軍部隊に、何千という中国軍部隊が敗走させられた。中国軍
の指揮官たちは、自分たちの家族と財産を奥地に避難させるべく、トラック
隊を指揮した。シェンノートは、もしスティルウェルがもっと十分な「貸与法」
物資をこれらの中国軍部隊に与えてくれたら、こんなことにはならなかったはず
だと主張した。しかし、実際はこれらの部隊はたっぷりとアメリカの物資が供給
され、指揮官たちはそれを闇市や日本軍に売りとばしていたほどだったのだ。
<「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)>
0043名無しさん@お腹いっぱい。
2013/09/18(水) 21:43:11.61ID:N4eWqasbP
『世界的に有名なB-29は、第二次世界大戦と韓国戦争の3年間を通して
任務を果たした。韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。
この超空の要塞は、18個に分解され、1972年3月にカリフォルニアの
チャイナレイクからソウルへ輸送した。そのB-29は韓国空軍によって
再組み立てされ、そして、1972年8月以来Yoid Museumに展示された。』
http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.trip/trip.korea.html

>韓国戦争でのB-29は、延べ22,983機出撃し、197,000
>tonの爆弾を投下した。しかし、34機のB-29を失った。

COMBINED SUMMARY OF 20TH AIR FORCE & 9TH GROUP OPERATIONS
     20TH AIR FORCE                 9TH BOMB GROUPC
     From June 5, 1944 on             From February 9, 1945 on
Missions          380                        75
Sorties        
Combat          31,387                       1843
Other           1,617                        169
Total           33,004                       2012
Bomb and
mine tonnage      171,060                      11,376
B-29 losses
Combat losses      494                   14 + 5 non-combat
Training losses in U.S.  260                          1
Air crew losses
Killed             576                26 + 1 ground crewman
Missing           2,406                  96 (12 repatriated)
Wounded or injured    433                         30
http://www.9thbombgrouphistory.org/Chapters/Chapter_07.pdf

朝鮮戦争の中朝軍と比べたら、旧軍の対空火力は10倍以上。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
2013/09/19(木) 13:10:27.53ID:kQekjjPq0
戦後ドイツでは鍵十字のナチス国旗を掲げることはおろか、ナチス擁護の
発言も取り締まりの対象になったとのこと。

これに対して日本は日の丸を堂々と掲げられて、中国人差別も平気でやれる。
中国人をチンピラゴロツキとか蛆虫とかゴキブリとか呼んでも全然平気。
つまり皇軍はドイツ軍とは違い、完全に負けたわけではなかったのだ。
負けは負けでも太平洋の日米戦に限定され、日中戦争は最後まで無敵皇軍。
日の丸はかつて大陸打通作戦中国チンピラゴロツキ殺戮街道3000キロで
皇軍が勇名を馳せたシンボルで、中国人に計り知れない恐怖を思い起こさせる。

大東亜戦争は正当防衛だったが、戦力が敵に及ばなかっただけ。
あの戦争を「侵略戦争」呼ばわりするのであれば憲法九条改正なんてやるな。
戦争は大東亜戦争のような大義名分の大きい戦争だけが肯定される、
そうでなければ憲法第九条の平和主義は守られるべきだと自分は考える。
また大東亜戦争は東洋平和のための戦いだから、平和憲法の条項に反しない。

ただし中国人が「東洋平和」と聞くと、これは東洋鬼が平和と叫びながら
大陸打通作戦3000キロを進撃してくる姿を想像して恐怖を感じるであろう。

     9 7 式 中 戦 車 チ ハ

それは機械的信頼性と燃費効率と走行性を兼ねそろえた、現在の日本自動車
産業の先駆けともいえる、世界最先端の自動車製造技術の象徴とも言えよう。
これはあくまで戦車ではなく、中国のチンピラゴロツキ蛆虫ゴキブリドブネズミ
サナダムシ専門の高性能機動殺戮マシーンであったのだ。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2013/09/19(木) 13:43:22.72ID:kQekjjPq0
中国人という生き物は、ただただ日本軍に虐殺されるために涌いてきた、殺戮の標的物でしかなかった。
日中戦争は中国のチンピラゴロツキの大発生が原因で、チンピラゴロツキが増えすぎて増えすぎて、
皇軍が虐殺しなければ地球上がチンピラゴロツキだらけになってしまうところだった。
それからチンピラゴロツキを虐殺するのは楽しいし、また虐殺したチンピラゴロツキから物資を調達できた。
さらに言えば中国人を虐殺して、虐殺した中国人をすり潰して脂を抽出して、航空燃料にすればよかった。

さらにいえば米軍は朝鮮戦争でそのチンピラゴロツキ相手に大苦戦。皇軍の97式中戦車チハが
中国人を虫けら同様に虐殺してきたのと比べて、米軍の弱体ぶりは笑うべきものがある。
97式中戦車チハは戦車というよりは中国のチンピラゴロツキ専門の殺戮マシーンで、
それはまさに『地獄の大車輪』または『走るアウシュビッツ』と呼ぶにふさわしかった。
0046だつお ◆t0moyVbEXw
2014/01/02(木) 13:53:24.70ID:NyxZH/O10
>>18
>著書で日本や南京政府の占領地はどこも貧しく荒れ果てているのに
>敵の支配地は裕福だったとか

中国社会の近代化を半世紀遅らせた
中国社会の近代化を半世紀遅らせた
中国社会の近代化を半世紀遅らせた

 ◇計算できない物質的財産の破壊
 「日本の侵略戦争が中国に与えた財産上の損失も、莫大で驚くべきものだ」、戦争中、日本軍はいたるところで、
狂気のように公共や個人の財産を略奪し、文化遺産を破壊し、鉱物・森林資源を採掘、伐採し、偽札を発行し、
軍事・民生施設を焼き払い、爆破し、中華民族の物質的精華は日本侵略者によってほとんど全部奪い去られた、卞博士はこう指摘した。
 この数年、抗戦時代の損失問題を研究し続けてきた卞博士は、当時、直接戦禍にみまわれなかったチベット、
新疆の両省クラス行政区を除き、残りの省は全部または部分的に陥落するか、一部が戦場になり、多くの都市、
郷・鎮が日本軍の盲爆にさらされたとみている。
 卞博士は、近年の研究結果で、全戦争期間中、中国が受けた直接の財産損失は1000億ドル、間接的損失は5000億ドル
に達することが明らかになったと語った。
 「むろん、戦争状態という制約から、抗戦の損害調査は、時間的完全性からも、空間のカバーという点からも、
極めて不完全なものである」、「日本の侵略戦争が中国に与えた巨大な物質的財産の破壊と壊滅ぶりについて、
正確な回答をみつけるのは不可能に近い」、卞博士はこう語った。
 そして日本の侵略戦争がもたらした大きな傷が、中国の近代化プロセスの重大な障害になったことは、学術界で突っ込ん
で研究する必要があると強調した。
 ◇中国社会の近代化を半世紀遅らせた
 日本の侵略戦争は中国社会に一大災難をもたらした。それは国家の安全、主権独立と領土保全を著しく破壊し、
中国の物質的、文化的財産に巨大な損失を与え、中国社会の発展と進歩を著しく停滞させることになった。
 卞博士は、「中国は世界の反ファシズム戦争中に最もひどい被害を受けた国であり、この戦争のために、
中国のように大きな犠牲を払った国はほかにないというのは少しも誇張ではない」と述べた。
 さらに、戦後の中国政府は国際情勢の変化に迫られ、また中日両国人民の友好への願いから、戦争被害の損害賠償請求
を放棄したと指摘、「しかし、中国は賠償請求を放棄したからといって、決してわが民族が受けた災難と損失を忘れたわけではない。
中国人民は永遠に日本軍がかつて中国で犯した戦争の罪悪と反人道的暴挙を忘れることはない」と述べた。

日本の侵略戦争は中国にどれだけの損害を与えたか 新華社解説
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/qqq115/t202631.htm
0047名無しさん@お腹いっぱい。
2014/01/21(火) 13:40:51.77ID:w8yJwes0P
米軍はB-29による成都から日本への爆撃には、1機あたり23トンの軍需
品(燃料、爆弾、弾丸等)が必要と考えていた。そのため、B-29、100機分と
成都防空の戦闘機が必要とする軍需品を合わせて、最低6,000トンの物資の
集積が必要であった。最新鋭の「超空の要塞」も石油がなければただのアル
ミの物体に過ぎないのである。
 昭和19(1944)年6月13日、ようやくカルカッタに待機する第20航空
軍所属の第58爆撃団(B-29)に出撃命令が下った。機体には250kg爆弾2ト
ンが積み込まれた。成都では燃料の補給だけが行われた。
 昭和19(1944)年6月15日午後、B-29、75機が成都の飛行場を離陸した。
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/pdf/4/4367/201105_065e.pdf

9)在華米空軍は,1941年初めに結成された米人の義勇空軍「フライング・タイガーズ」が
発祥であり,その後42年 7 月に正式に米陸軍航空部隊に改編されて第23追撃隊となり,さ
らに翌43年 3 月に米陸軍第14航空軍に改編された。44年 4 月30日現在の配備機数は,偵察
機10(P38),戦闘機294(P38,P47,P40,P51),爆撃機168(B24,B25)の472機であり,
重慶空軍233機と合わせて705機と判断されていた。当時の日本の第5 航空軍の出動可能機
数は約230機であり,彼我の戦力比は約 3 対 1 であったという。(益井康一『本土空襲を阻
止せよ!―従軍記者が見た知られざる B29 撃滅戦』光人社 2007年 23〜26頁,95頁,98頁)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/inoue.pdf

In January 1944 the air force had 194 fighters, 38 medium bombers, and 50 heavy bombers;
for the 9-month period beginning in October of that year. the totals were
Month    Fighters  Medium Bombers   Heavy Bombers
October     457     105           45
November    535     109           47
December    510     105           56
January     520      94           70
February     521      92           56
March       564     99           65
April        525     103           69
May        500     117           69
June       483      127           65
http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-9.html

ちなみに英本土上空戦のイギリス軍機は、以下の通り。

Day 22 July 31st 1940
July 31, 2010 in 74 Squadron, July 1940 | by Tony Rudd | Leave a comment
Weather: fair everywhere.
FIGHTER COMMAND SERVICEABLE AIRCRAFT AS AT 0900 HOURS:
Blenheim 63
Spitfire 239
Hurricane 348
Defiant 25
Total 675
http://battleofbritainblog.com/category/july-1940/
0048名無しさん@お腹いっぱい。
2014/01/29(水) 17:12:33.03ID:ShzOJaTPP
WWUでの中国の役割は不当に過小評価されている。日本軍の兵力の80%を引き付け国連軍を勝利に導いたのは中国の貢献だ
公開2013年10月21日(月) 17:49
中国の南京市にある南京大虐殺遭難同胞記念館で
第4回海峡両岸抗日戦争歴史学術シンポジウムが21日開かれた。
これに参加した海峡両岸の歴史学者たちは、第2次世界大戦における中国の貢献が過小評価されていたとみている。

南京大虐殺遭難同胞記念館の朱成山館長は
「戦後の冷戦などの要因により、第2次世界大戦中に中国が果たした役割がずっと低く評価されていた。
中国は第2次世界大戦中、日本の約80%の兵力を引っ張り、第2次世界大戦の勝利にきわめて重要な役割を果たした。
しかし、戦後、西側諸国は中国の貢献を十分に認めていない」と述べた。

海峡両岸抗日戦争歴史学術シンポジウムは今年で4回目となっている。
当日海峡両岸の基金会や大学、研究機構、記念館からの専門家、学者90人あまりが出席した。

http://itaiinews.blog.fc2.com/blog-entry-195.html
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2014/02/24(月) 02:10:56.52ID:M/jaujX8P
During the war, FEAF units flew 720,980 sorties and delivered 476,000 tons of ordnance.
For these numbers FEAF estimated it had killed nearly 150,000 North Korean and Chinese
troops and claimed the destruction of more than 975 aircraft, 800 bridges, 1,100 tanks,
800 locomotives, 9,000 railroad cars, 70,000 motor vehicles, and 80,000 buildings.
This damage was inflicted at the cost of 1,841 men killed, wounded and missing,
and 750 aircraft destroyed by the enemy.
http://www.state.nj.us/military//korea/factsheets/air_f_fs.html

何をやってたのかよくわからんものの、朝鮮戦争時のB-29の、のべ出撃機数は
実に約21300機で、これは対日戦におけるのべ約33000機の64.5%にもなる。
が、その損失は極めて軽微だった。
戦闘損失はわずか24機(!)、総損失でも107機(偵察型を含む)に過ぎない。
戦闘による損失率は0.11%、事実上、損害は無かったと言っていいレベルだろう。
共産軍の対空能力は、無力だった。
<中略>
ちなみに、この時の分析によると、共産軍のレーダーに、
日本陸軍のタチ18号、さらにはフライアのパルスパターンがあった、
という事なだが、ホンマかいな…。
この結果、アメリカは、ソ連のレーダーの多くが第二次大戦時に英米が
レンドリースでソ連に供与したタイプのコピー、あるいはその発展型だと知る。
野郎、勝手にパクりやがって!と怒るよりも、これはありがたかったはずだ。
なにせ、自分で作ってるんだから、その正確な周波数はおろか、
あらゆる性能データは調べるまでもなかった。
こうして、一方的とも言える対レーダー戦が展開されて行く。
http://majo44.sakura.ne.jp/planes/F22/origin/32.html
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2014/04/24(木) 16:36:42.51ID:6YzZ9vt60
 スティルウェル問題は、一九四四年、東部中国において、日本軍が「一号作戦」
[大陸打通作戦の一部]にのり出した直後にやま場を迎えることになった。
 日本軍のこの作戦は、一九三八年の武漢占領以降初めての大規模なものであったが、
それというのも、アメリカの潜水艦隊が日本の沿海水域に侵入して、東南アジアの
占領地域への物資の海上輸送ルートを切断したために、遠隔地にある日本の拠点は
物資が欠乏し、連合軍の攻撃に対する抵抗力を失いつつあったので、代替輸送ルート
として、以前はそれほど必要でなかった中国を南北に縦貫する鉄道の確保にのり出し
たものであった。同時に日本はこの作戦で、シェンノートの第一四航空軍が新しく
建設した前進基地を破壊することを計画していた。
 シェンノートはかねてルーズベルトに対して、もし自分に前進基地があり、飛行機
があり―そしてスティルウェルが軍需物資のいいところをみんな持っていってしまわ
なければ、日本本土を爆撃するB29もそこを使うことができる、というのが彼の主張だった。
 これに対してスティルウェルは、そんな基地をつくれば日本軍に破壊されるだけだ、
とまったく逆の立場に立った。そしていつものように、スティルウェルが正しかった。

「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2014/04/30(水) 10:05:33.42ID:2J+UBU0h0
 大陸打通作戦の第一次作戦(河南作戦)/昭和一九年(一九四四)四〜五月・・・・・・戦車第三師団、
戦車総数二五五両が参加。師団全体の踏破距離一四〇〇キロ、日数は三〇日(一日あたり四六・六キロ)。
師団捜索隊は約二〇〇〇キロ、三〇日(一日あたり約六七キロ)。
<中略>
 ここに示した日本戦車隊の長駆進撃も、連合軍側を大いに混乱させ急速な勝利をもたらした
典型例なのである。ちなみに、「電撃戦」と称賛される独ソ戦初期(一九四一年六〜七月頃)のドイツ
機甲部隊の場合と比較してみると、グデーリアンが率いる第二装甲集団が踏破距離約六五〇キロ、
日数二五日(一日あたり二六キロ)、マンシュタイン上級大将の第五六装甲軍団が約三三〇キロ、
四日(ドヴィンスク急襲時、一日あたり八〇キロ)で、日本戦車隊の"快速ぶり"はこれらに劣る
どころか優れた成果を上げているといえる。
<「陸軍機甲部隊」(学研)158頁  文・古是三春>
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2014/08/20(水) 07:55:24.62ID:VX9/UNPs0
174 :連合軍公刊戦史からの抜粋:03/06/05 23:41 ID:usnD2Jzo
 タクロバンの混雑 栗田艦隊が後退したとき、日本軍は絶好の機会を失った。
レイテ橋頭堡は危険状態にあり、二十五日朝第七艦隊の軽空母二隻が沈没、
残りの半数以上の軽空母は作戦不能の状態にあった。
 日本軍機は二五日一二〇〇〜一六〇〇の間一二回レイテに来襲し、
タクロバンで上陸用舟艇二隻を撃沈、倉庫を破壊、桟橋に損害を与えた。
 日本軍の勇敢な一機は夕闇にまぎれ、着陸前の米軍機数機の最後尾から
着陸進入を装いながら接近して、突如大型上陸用舟艇を爆撃、炎上させた。
この艇はのち沈没した。
 日本軍はこの夜の間に、増援部隊を載せた最初の輸送船団(五〜九隻
の駆逐艦と五隻の貨物船)をオルモックに上陸させた。我々はこれを阻止
する処置を執らなかった。
 二六日、日本軍は合計一五〇機を使用し、一二回の空襲を行った。
最初は〇五一五で、一発の爆弾がマッカーサー大将の宿舎の邸の端にある
比島人民家に命中し、一二人を殺し一〇人を負傷させた。他の一発は
従軍記者の宿舎に命中し、記者一人が死亡し四人が負傷した。
 タクロバン飛行場では、日本軍機の執拗な妨害を受けたが、一五〇〇までに
鋼製マット一、〇〇〇呎を敷き詰めた。日本軍の攻撃のうち四回は全然警報が
でなかった。我々は壕を入ったり出たりした。これらの飛行機は超低空で
進入して滑走路に沿って飛びながら掃射とともに破片爆弾を投下した。
爆弾の四分の三以上は爆発しなかったが、そうでなかったら我々は大打撃
を受けたことであろう。(注 「タ」弾攻撃と考えられる)

比島捷号陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 / 朝雲新聞社 ,
1971 ( 戦史叢書 ; [48] )
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2014/09/26(金) 14:58:30.71ID:qtSySjBk0
『戦史叢書 インパール作戦』p664-665

 これより先、日本軍第15軍主力によるインパール作戦が開始され、
コヒマは包囲され、インパールはの道は遮断された。日本軍が一気に
ディマプールへ突進して来れば、ディマプールを経由するスチルウェ
ル軍唯一の連絡線は危殆に瀕することになる。
 スチルウェル中将は敏感にこの危険を感じとり、ディマプール防衛
のために38師を反転させてその使用に供するであろうと強く申し入
れた。当時第38師はフーコン谷地をサズップ付近まで南下していた
ので、もしスリム中将がその申し出を容れていたら、フーコン作戦は
停頓していたであろう。
 スリム中将はこれを断り、現に雲南から逐次到着しつつある新来の
中国師団を併せ指揮して、できるだけ激しくミイトキーナに進撃する
よう要求した。
 スチルウェル中将は、スリム中将に対してその背後連絡線確保に関
する保障を求め、スリム中将は最悪の事態においても、10日以上連
絡線が遮断されることはないであろうと言明した。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2014/09/27(土) 04:25:31.34ID:E0AwzYoP0
日清戦争〜国共内戦までの名将
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1297819381/より
16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/04/01(金) 09:28:59.01 ID:xRM7gkBF0
個人的に選んでみた。

No.1 白崇禧 小諸葛亮の名に恥じない名戦略家。日中戦争での主要な勝利は殆ど白の功績。国共内戦でも林彪を唯一撃破した。
No.2 粟裕 車橋戦役での日本軍の撃破に淮海戦役を始めとする国共内戦での主要な勝利。白崇禧に匹敵する天才戦略家。
No.3 彭徳懐 遠征に秀で、朝鮮戦争では中国人民志願軍初代司令官を務めた。大軍を動かす事に優れた用兵家。
No.4 方虎山 朝鮮系の八路軍指揮官。朝鮮戦争で帰国し中共軍の介入まで米軍・国連軍を押し止めた。
No.5 孫立人 僅か一個連隊の兵力でビルマ奥地で日本軍に包囲された英軍を援護し、10倍の兵力差の日本軍を撃退した東洋のロンメル。
No.6 林彪 平型関戦で日本軍に勝利。国共内戦でも遼瀋戦役・平津戦役と次々と勝利を飾る。
No.7 薛岳 万家嶺戦役で日本軍に勝利。白崇禧の優れた作戦もあり、三度の長沙会戦でも日本軍の撃退に成功。
No.8 毛沢東 共産ゲリラの父。
No.9 張自忠 宋哲元・李宗仁の下で目覚しい奮戦振りを見せ付けた勇将。
No.10 蔡廷カイ 第一次上海事変で日本軍に勇戦。
No.11 朱徳 中共軍の父。
No.12 劉伯承 ケ小平と共に国共内戦を勝利に導いた中共名将の一人。
No.13 衛立煌 雲南遠征軍(ビルマ遠征軍)司令官。雲南・ビルマから日本軍を駆逐。
No.14 戴安瀾 杜聿明配下の国民党軍唯一の機甲師団指揮官。崑崙関戦での活躍後、ビルマに遠征。トングーで4倍の兵力差の日本軍の撃退に成功。
No.15 蔡鍔 護国戦争を勝利に導いた護国軍の総司令官。
No.16 胡l 台湾(金門島)を中共軍の手から救った名将。
No.17 馬継援 西北部で中共軍を翻弄し続けた青海王の子。
No.18 張学良 郭松齢と共に奉直戦争で活躍。
No.19 馬仲英 新疆でトルキスタン政府やソ連軍相手に暴れ回った馬家軍の若き頭領。
No.20 馬占山 巧みなゲリラ戦を用いて日本軍と度々抗戦した東洋のナポレオン。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2014/09/27(土) 04:29:04.02ID:E0AwzYoP0
番外:
聶士成 武衛軍の司令官。日清戦争・北清事変で奮戦。
宋哲元 馮玉祥配下の国民軍で張之江・鹿鍾麟と共に南口大戦で奮戦。長城抗戦で日本軍に対しても奮戦した。
李宗仁 台児荘の戦いで白崇禧と共に日本軍に勝利した。
盛世才 新疆に君臨した新疆王。
傅作義 綏遠事件で内蒙軍を撃破した。日中戦争・国共内戦でも奮戦。
張霊甫 日中戦争・国共内戦で奮戦した猛将。
余程万 常徳戦で凄まじい奮戦振りを見せ付けた勇将。
杜聿明 崑崙関の戦いで中村正雄中将を戦死させたらしい。
聶栄臻 黄土嶺の戦いで阿部規秀中将を戦死させたらしい。
賀龍 個人武勇が凄まじい人。
姉妹スレ
大陸打通作戦〜大地を駆ける3000`の雄叫び
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1176619163/
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2014/09/28(日) 13:04:36.81ID:FfB9oo0b0
南京大虐殺 →捏造:真犯人は、蒋介石国民党軍。

百人斬り →日本のマスゴミの捏造:戦時中の与太話。

日本軍は残虐 →捏造:黄河決壊事件を見ても、支那人民を救ったのが日本軍。虐殺したのがシナ国民党軍。


(結論)
歴史を捏造してるのはシナ。




 
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2015/01/25(日) 06:12:20.66ID:oPTQJOYD0
( `ハ´)「解放軍はアメリカ連合軍に勝てたのに、なぜ国軍は日本軍に勝てなかったのか」 【中国の反応】
http://asiareaction.blog.fc2.com/blog-entry-1681.html
海外「中国って日本に勝ったっけ?」 中国が抗日戦争勝利記念の式典を開催
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1289.html
「第二次世界大戦時のドイツと日本はどちらが強かったアルか?」 【中国の反応】
http://asiareaction.blog.fc2.com/blog-entry-1685.html

>17.とある中国人
>ドイツの相手であるイギリス、フランス、ソ連、みんな強国のなかの強国だった。
>すべて工業化国家だった。

ドイツのメルケル首相は、演説の中でドイツのポーランド侵攻はヨーロッパや世界
に多大な危害を加えたと謝罪し、
http://www.forumpoland.org/db/okano09.pdf

>日本の相手である中国、朝鮮、フィリピン、東南アジアは農業国家だから、比べものにならない。

1942年春、アメリカのルーズベルト大統領は子息に向かい、中国がなければ、中国が壊滅させられていたら、
日本はどれだけの兵力を他の地域の作戦に投入していたか。彼らはオーストラリア、インドを手中にし、
中東まで攻め入ってドイツと共同作戦を張って、大規模な軍事行動に出ただろう。中近東で合流して、
ソ連を孤立させ、エジプトを併呑して、地中海の一切の交通ルートを絶ったに違いないと語っている。
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200508/2-1.htm

>もし狂ってアメリカを潰そうとしなかったら、あんなに早く負けなかっただろうね。

 戦勝国の地位に対する不敬。中国の抗戦は、辛く苦しいものだった。中国は反ファシズムの東洋の主戦場で、
日本軍国主義と決戦を繰り広げた。中国は一部の重要な国際会議に出席し、国連創設に参与したが、
西側の一部の国は中国の戦勝国としての地位を尊重しなかった。戦後の日本の領土範囲の処理、
東京裁判、サンフランシスコ平和条約の締結などの重大な件は、すべて米国が独自に主導した。同盟国の戦時中、
終戦当初の共通認識は米国に放棄された。「冷戦」は世界の反ファシズム戦争の勝利の成果を奪い取った。
西側の一部の歴史学者は第二次世界大戦について記述する際に、米国とソ連の力を一方的に強調し、
米国の原爆投下、ソ連の出兵が日本を打ち負かしたとする説まで浮上した。
日本の右翼勢力は、中国の長期的な抗戦によって敗北したなど最初から考えていない。
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2014-09/03/content_33418762_2.htm

>ドイツと比較することはドイツを侮辱することだ。

同じく敗戦国のドイツについては、シュレーダー前首相は「歴史を変えてはならないが、
私たちの最も恥ずべき1ページから多くのことを学べる」と話した。日本もドイツのように、
痛みを教訓とし、戦争問題を徹底的に反省、清算できるとよい。そうすることが、
アジア太平洋にとって望ましく、日本にとっても望ましい。(中国戦略文化促進会常務副会長・秘書長 羅援)
http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-08/17/content_29746211_2.htm

 一九三六年四月八日、顧振を団長とする中国国民政府訪独団と、経済大臣兼国立銀行総裁
シャハト(Hjalmar Schacht)との間で、一億ライヒスマルクにおよぶ借款供与を内容とする
中独条約(別称HAPRO条約)が調印された。
http://www.seijo-law.jp/pdf_slr/SLR-079-045.pdf

 ところが、ナチズムの権力掌握後、独ソ関係の悪化によりこの軍事協力関係の維持は不可能となり、
ドイツ国防軍がみずからの活力を維持するためには、あらたな軍事的パートナーを必要とするにいた
ったのである。この面でドイツ国防軍、主として陸軍が注目したのは中国であった。・・・中略・・・
 また、国防経済という観点からも、ドイツ国防軍が親中路線を採用する理由が存在した。なぜなら、
両国の経済は相互補完的であったからである。ドイツ国防経済は、ロシアとの関係悪化後、
技術刷新の継続のためにも、また付加的な輸出の拡大のためにも、あらたな市場を求めていた。一方、
中国側は、ドイツからの工業製品輸入を天然資源の輸出で相殺することができたし、また一九三五〜三六年
のドイツの武器輸出総額のうち、実に五七・五パーセント(二千万ライヒスマルク)が中国に向けられていたのである。
 これに対し日本はその一パーセントにも満たない十七万七千ライヒスマルクであった。
<ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦 / 田嶋信雄/著 >
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2015/10/23(金) 02:29:49.46ID:gK9ezoGS0
 その後も国民党政権はことあるごとに日本に賠償を要求したが、日華平和条約にいたって請求権を放棄したの
は以下のようなやりとりの結果である。同条約が国会で批准された当時の外務省条約局長(後に外務次官)だった
下田武三の回想禄『戦後日本外交の証言』にはこうある。
 「国府側は賠償問題では、対日戦争の最大の被害者である中国が賠償を放棄することは中国の国民感情が許さない、
として対日賠償請求権を強く主張した。これに対して日本側は、中国大陸における中国の戦争被害は大陸の問題であり、
この条約の適用範囲外であるとして、条約からの削除を求めた」(下田『戦後日本外交の証言』)
http://chikyuza.net/archives/55677

日本は、アジアの近隣諸国に比べて経済力が優っていたため、長らく近隣諸国からの圧力を受けることがなかった。
過去政策において日本はこの状況をためらいなく利用した。1951年のサンフランシスコ条約に続く1950年代以降の日本
と近隣諸国のあいだの諸条約、諸協定および最後に1972年に出された日中共同声明は、経済力に乏しい近隣諸国の
経済的な利害状況を強く反映しており、倫理の問題と政治的責任にはほとんど触れられていない 70。そこで支払われた
額もドイツの場合と比べるとはるかに少なかった。日本はこれらの諸条約、諸協定で、支払いはほぼ完全に経済援助のか
たちをとり、その上で相手国の国民からの日本に対する個々の補償請求権はもはや存在しないものとみなすという要求を通した。
http://www.desk.c.u-tokyo.ac.jp/download/es_6_Hettling_Schoeltz.pdf

日本が中国に対する賠償責任を免れたのは、まさに大陸打通作戦のおかげだった。

中国人を3500万人虐殺しても、日本軍は中国軍に対して圧倒的に勝っていて、中華民国政府は崩壊して、
中国は日本に対して賠償請求ができなくなってしまった。野球で言えば、守備側が0点に抑えたようなものだった。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2015/10/31(土) 19:59:19.54ID:DpMxrgr80
If the United States stopped sending war materials to England, do you think England would lose the war?
Yes................................ 85%
No................................ 8
No opinion......................... 7
http://ibiblio.org/pha/Gallup/Gallup%201941.htm
(1941年1月4日の米世論調査では、米国がイギリスへの戦争物資援助を止めればイギリスは敗北するという意見が85%)

■ フランスはすぐに降伏した。イギリスは全期間を通してひどかった。
  アメリカは間違いなく勝てるという確信を持てるまで様子見してた。
  勝利はすべてソビエトのおかげと言っても過言じゃない。 +5 ロシア
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1451.html

イエナはチューリッヒ州にあるため、ソ連占領地であることが合意されていた。ところが、ソ連の占領が
もたついたため、カール・ツアイスの確保をもくろんだ米国は、イエナをいち早く占領してしまった。しかし、
ソ連の抗議によって、最終的には、イエナはソ連に引き渡された。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/01/1617254

ステイムソンは6月19日,ボレロ計画を支持する理由をしたためたFDRへの手紙を,英米首脳会談が行われている
ハイドバークに届けさせた。マーシャルが「名作(a masterpiece)」とほめたこの手紙を読むと,陸軍長官の対独戦に
対する並々ならぬ覚悟が伝わってくる。
…着実かつ敏速にして容赦のないボレロ作戦の実行は,ヒトラーの対ソ戦をくじく意味でも,ドイツを敗北させ
戦争を終わらせる意味においても,最も確実な方法(the surest road)である。ボレロ計画は…敵の心臓の中心部
(the center of our chief enemy's heart)に届く一番容易な方法でもある。…ボレロ実施における最大の危険は,
太平洋における日本軍の存在であったが,…最近の太平洋中央部での(アメリカ軍の)勝利がこの懸念を取り除いた。
http://dspace.bunka.ac.jp/dspace/bitstream/10457/1356/1/001032220_03.pdf

 スターリンをどう思っていたかって?私はだね、こういう風に考えている。もしもスターリンがいなかったら、
あの戦争もなかったはずだ。戦争があったとしても、一瞬にして終わっただろうな。こちら側からは日本軍
がウラルを狙って攻めてきて、あちらからもドイツ軍が、やっぱりウラルを目指してくる。どちらの側にも
兵器がたくさん。あそこには100万の軍隊がいたんだからね[日本の関東軍のことか?]。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/beseda79.6.html

 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とそ の影響を評価してこう記した。
「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」。
 ロシア人がこの勝利を誇りに思い、多くの戦線のひとつととらえたがらないのは当然のことだ。そしてドイツとその同盟国であるイタリア、
ルーマニア、クロアチアが84万人を喪失したスターリングラード攻防戦と、ドイツとイタリアが3万人を喪失したエル・アラメインの戦い
が同レベルの戦いと見なされることを理解できないでいる。
http://jp.rbth.com/society/2013/05/09/42899.html

 ユーリー・レヴァダ分析センターが実施した世論調査の結果によると、ロシア人の60パーセントが、ソ連は第二次世界大戦で
同盟国の援助なしに勝利できたはずだとの確信を示している。なお、回答者の32パーセントが、それに反対の見解をとっている。
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2011/06/22/52225119/

 シェンノートの方針は、中国において実効をあげず、ヨーロッパでの活動に制約をあたえていた。
 それは、飛行機やそのほかの装備品を、イタリアから中国に補給がえをしたためである。
http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/aircraft/chaina8.htm

(第二次世界大戦中、アメリカ軍は日本侵略をした場合に生じるであろう死傷者数を推定して約50万ものパープルハート章を製造した。
このパープルハート章は戦後65年たっても尽きることなく2003年当時で残っているパープルハート章の総数は12万ほどだった)
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/6347441.html

クルスク・ベルゴロド作戦以降は怖いものなしの状態だった。皆すでに勝利を確信し、搭乗員たちの士気は非常に高かった。
出撃する度ごとに戦果を挙げられたよ。空中戦では負け知らずだった。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/gorelov6.html
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2015/11/24(火) 13:52:33.85ID:b1ykwev50
AAF Fighters in the European War, 1942‐?1945
Type Sorties Tonnage Lost
P-47 423,435  113,963 3,077
P-51 213,873  5,668  2,520
P-38 129,849  20,139 1,758
P-40 67,059   11,014  553
P-39 30,547   121   107
http://www.americancombatplanes.com/p51_3.html

『・・・1942年から43年の間、P−40航空隊は北アフリカ、シシリー、イタリアの航空戦で鍵となる役割を果たした。
ある日の彼らの任務は爆撃と機銃掃射であり、別の日は中爆の戦闘護衛であった。
その欠点にもかかわらず、この種の航空戦においてカーチスP−40は優れた兵器であった。それは決して高速で
高高度を飛行できる機体ではなかったが、タフで、信頼でき、重武装で、相当量の爆弾を携行でき、
そして中国や太平洋と異なり、交戦した敵機よりもマニューバブルであった。P−40パイロット達は、より最新の
ライトニングやサンダーボルトやマスタングで飛びたいと願っただろうが、ウォーホークはその時点での
唯一の米国戦闘機であり、彼らはそれでベストを尽くしたのだった。・・・』
(カール・モールスワース、MTOのP−40ウォーホークエース(オスプレイ社刊)より引用)
http://www.geocities.jp/yoyuso/p40/p40gall.html
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2015/12/27(日) 21:00:49.71ID:2SeSdCs80
 兵士の多くが一八歳の少年だったことから「ダイアパー」(おむつ)師団とのあだ名をちょうだいした
第七十五歩兵師団は、一九四四年の秋、ケンタッキー州ブレッケンリッジ・キャンプで戦闘訓練を
終えようとしていた。元一兵士のハーヴィー・カッツは回想する。
「ある日、われわれは列車に乗せられた。そして、全員じっと座ったまま、列車は西へ行くのだろう
か東へ行くのだろうかと考えていた。東へ向かっているのがはっきりしたとき、誰もが歓声を上げた。
行く先はヨーロッパだとわかったからだ」
<日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 トーマス・アレン ノーマン・ボーマー 181頁>

MILITARY      HOSTILE               NON-HOSTILE
ACTION       DEATHS      WOUNDED    DEATHS              
World War II
(1941-45)
Total          293,121        670,846       115,185
European Theater  185,179        498,948       66,805
Pacific Theater    107,903        171,898       48,380
Korean War
(1950-53)        33,741       103,284         2,827
Vietnam War
(1961-73)       47,415        153,303        10,789
Iraq War
(2003-09)       3,444        31,342         857
http://www.vfw.org/PR/Media%20Room/AmericasWarDead1775_2009.pdf

負傷者と死者の比率を比べてみれば、兵士にとって過酷な戦場はどこなのかは自明であろう。
0064名無しさん@お腹いっぱい。
2015/12/31(木) 10:10:12.41ID:ZuydUKPA0
世界の戦場を駆けた「P-51」(渡辺洋二)
[対日戦のマーリン・ムスタング]
 太平洋戦線で最初にマーリン・ムスタングを装備したのは、中国大陸の第14
航空軍の1隊として、すでにP-51Aで戦っていた第23戦闘グループの第76戦闘
飛行隊。1944年2月からP-51Bへの改変を進め、C型も加わった。9月以降さらに
2個飛行隊が、P-40から切り替えられていく。
 同グループの変わり種は、6月に編入の第118戦術偵察飛行隊。偵察機装備が
本来なのに、P-51Cを主装備機とし、戦闘機隊とみなされて作戦した。
 第51戦闘グループの3個飛行隊は1944年3月から年末にかけて機種改変。
インド方面の第10航空軍から編入された第311戦闘グループ(旧・戦闘爆撃
グループ)は、P-51B/Cを装備して8月に中国奥地の成都近郊に進出した。
D型とK型の配備は1945年に入ってからである。
 逐川、零陵を基地とする第23グループは、10月の香港空襲の掩護、大陸打通作戦
に圧迫される中国地上部隊の支援などを実施。成都防空の第311グループは華北へ作戦
地域をうつし、11月から鉄道施設攻撃のB-25の護衛や漢口、南宛の飛行場を襲った。
<雑誌「丸」編集部 P-51ムスタング/P-47サンダーボルト 図解・軍用機シリーズ8>
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2015/12/31(木) 16:18:40.92ID:g/YUfrr90
(1)生産能力と技術者・労働者の温存
 戦争中に軍需生産の必要や、陸軍の要求した生産力拡充計画等によって、重工業・化学工業はそ
の設備を増設した。そのかなりの部分は戦後に残存した。例えば、銑鉄生産設備は1937年には
300万トンであったが、戦争中の最高能力は660万トンに達し、敗戦時にも560万トン分がなお
残っていた。工作機械生産能力も1937年度には2万2千台だったが、戦時中には6万台を超える
能力ができ、敗戦時にも5万4千台分の能力が残っていた。
 重化学工業の設備が残存し、その技術者や労働者が残っていたことが、戦後の経済復興が重化学
工業を中心にして進められる条件になった。
http://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/f02_2010_11.pdf

駐日満州国財務官の発表では、1937年9月時点で承認件数は839件、承認総額は9,251万7,000円であった。
表〜2にみるように、ソ連の技術装備を高めるような機械類や船舶類の輸出の割合が高く、機械類では
移動式発電装置、電動機、発電機、変圧器、電気溶接機、電気起重機、各種ディーゼル機関、車輪、旋盤、
ポンプ等である。船舶類は川崎船、蟹漁船、カッター、等の生活必需物資が供給される一方、人絹、
織物類が輸出されて日本製品を身につけたロシア人がモスクワのメインストリートを闊歩する姿がみられたという。
このいわば奢侈品はモスクワ政府が仕入れ値段よりはるかに高価な価格で市民に販売することによって
国庫収入を増やすことを目的としたものであった。
http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP98.4/honbun2-2.htm

 二十二戦隊は手駒不足の五航軍の期待を担い、地上軍の上空援護、進攻・制空、そして漢口の防空にと、
出勤を続けていた。ただ、米第14航空軍の行動がゲリラ的なため、正面きっての空戦があまりなく、
このころまでの合計で未生還四〜五機で撃墜十数機と、得失とともに小さな数字だった。
 出動回数は少なくはないが、「まだ酷使というほどではなかった」と整備隊長だった中村氏は証言する。
これが「酷使」へ移行しかかるのは、満州、鞍山の昭和製鋼所が九月八日にB−29に空襲されたあとだ。
 漢口から北へ五二〇キロの新郷へ前進してのB−29邀撃任務を五航軍から付加された岩橋戦隊長の
口から「よく使いやがるな」の言葉がもれた。
 料理屋で神保少佐、新美大尉に対しても、「地上の作戦参謀は航空をなにも知らない」「隊員たちは疲れ
きっている」と述べ、任務の多岐、飛行場移動の増加を批判した。〔237ページ〕
<未知の剣 (ミチノツルギ) 陸軍テストパイロットの戦場  渡辺 洋二 >
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2016/01/07(木) 17:21:59.05ID:FRpoOsW/0
>>7
>中国東岸を基地 として対 日攻撃 を行うという戦略は,この戦略修正によって破棄 され,

中国?什?不拍一部《?大的抗日?争》??
https://www.zhihu.com/question/33567660

ソ連邦大祖国戦争
「来来来,人家1943年8月到1944年12月期???了“被コ?完虐”的十次斯大林突?,十次?利。」
中国抗日戦争
「与此同?,K?的表?如何??」

中国語は機械翻訳でもわかりにくいが、それでも、

ナチスドイツを撃破してベルリン入りを果たしたソヴィエト赤軍>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>>( 越 え ら れ な い 壁 )>>>>>>>>>>>>>>>
>>>>>>>>大陸打通作戦でドツキ回された中国チンピラゴロツキ

・・・という内容であることは自明だ。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
2016/01/09(土) 16:17:58.02ID:1EI3HYg80
○説明員(森山喜久雄君) 湘桂作戦でございますが、これは昭和十九年の四月から二十年の二月に
かけましてシナ派遣軍が一号作戦というのを行ったわけでございますが、これは当時、中国に進出して
おりましたアメリカの空軍の基地をつぶす、そのことによって日本本土への空襲を防止する、
それと東シナ海における海上交通を確保するというような目的のもとに行われたものでございます。
 この一号作戦と申しますのは、北支から南支にわたります大陸縦貫作戦といいますか、非常に大きな
作戦でございまして、このうち中支の作戦を湘桂作戦と言っているわけでございます。この地域にあり
ます戦略基地といいますのは、長沙、衡陽、桂林、柳州といったようなところでございます。この湘桂作戦
は昭和十九年の五月から十二月にかけて行われたわけでございまして、防衛庁の戦史叢書によりますと、
参加兵力は三十六万二千名というふうになっておるわけでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/101/1020/10105081020010a.html

○島村政府委員 恩給局所管の事項につきましては三件ございまして、一件は、戦後のソ連の強制
抑留につきまして、抑留加算をふやしてくれという件でございます。
 それから二点は、中国で湘桂作戦というのがございまして、それについて戦地の加算を認めろ、
こういう要望でございます。いま申しました湘桂作戦が八の番号でございます。
<中略>
 それで、中国全土につきましては、大東亜戦争が始まりました前後から戦地加算として二カ月の加算
が認められておるのでございます。それを、この湘桂作戦というのは米空軍の爆撃のもとに非常に熾烈
な戦いをやったということで、中国における普通の作戦とは違うではないかということで、戦地加算として
三カ月を認めてくれ、こういう要望でございます。
 そういう状況でございますが、いま申しましたように、昭和十九年から一号作戦ということで、
連続して京漢作戦、湘桂作戦、粤漢作戦というふうにいろいろございまして、その中の湘桂作戦だけを
取り出して戦地加算を三カ月認めるわけにはいかないのではないかというふうに実はわれわれは考え
ておるわけでございます。また、京漢作戦、湘桂作戦というのは、一号作戦ということで一つの連続
した作戦になっておるわけでございますが、それ以外にも中国においていろいろの作戦が行われております。
確かに湘桂作戦というのは、その中でも規模において大きいわけでございますけれども、それ以外の
戦闘がなかったとは必ずしも言えない。いろいろの作戦があったわけでございまして、私どもも、
この湘桂作戦だけを取り上げて戦地加算を認めるということについてはどうであろうかというふうに実は考えております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/095/0026/09511260026002a.html
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2016/02/22(月) 02:44:59.63ID:sFUf/u5+0
 モスクワは間一髪のところで陥落を免れた。一二月第一週にはドイツ軍がクレムリンから三五キロの
地点に迫っていた。ドイツ軍将校の双眼鏡でモスクワの主要な建造物を確認できる距離だった。先導し
ていたのは装甲部隊である。一二月五日から六日にかけて、ジューコフは集中攻勢を仕掛けた。主力は
「シベリア兵」からなる部隊。ソ連極東部から送り出されてた新来の予備兵力で、そのなかにはノモンハ
ンで彼自身が指揮した部隊も多数含まれていた。ノモンハンよりも危機的な状況に陥っていたが、ジュ
ーコフは当時と同様の諸兵科連合戦術を、今回はもっと積極的に採用した。その結果ドイツ軍を約一六
〇キロ後退させることに成功し、冬季の間、ドイツ軍をその地点に釘付けにしたのである。まさに食う
か食われるかの戦いだったが、完全な冬季装備の予備兵を東部から送り込んだことが決定打となった。
一九四一年一二月にソ連を訪問したイギリス外相のアンソニー・イーデンによれば、スターリンはこの
とき彼に、「最近の戦局好転は、新たな援軍を導入できたためだ」と語ったという。
 ジューコフが大反抗を開始した翌日、日本は真珠湾を攻撃した。ドイツはアメリカに、アメリカはド
イツに宣戦布告し、アメリカは太平洋とヨーロッパの戦争に巻き込まれることとなった。この週は第二
次世界大戦の転機を画す、枢軸国の運命を決する一週間であった。
 だが日本の軍首脳部が一九四一年の段階で、ノモンハン事件以前と変わらず赤軍を過小評価していた
とすると、事態はまったく違う方向へ進んでいたことだろう。もし一九四一年七月または八月に北進が
決定されていたなら、おそらくソ連は崩れ去っていたと思われる。日本軍はソ連軍を撃破する必要すら
なかったのではあるまいか。アジアに長大な戦線が存在することだけでもソ連には重荷になったろう。
一八個もの師団に加え、戦車一七〇〇両、軍用機一五〇〇機をヨーロッパの戦場に移動させるなどとい
うことは不可能だったはずである。それだけではない。戦争を遂行するうえで、ソ連極東部は貴重な経
済的貢献を果たしていた。独ソ開戦の初年に西部の産業が壊滅的な被害を受けたことに鑑みれば、その
重要さのほどがうかがわれよう。一九四一年のモスクワ攻防戦も、また四二年のスターリングラードの
戦いも、ソ連にとっては薄氷の勝利だったのである。難敵の日本が極東で猛攻を加えたなら、戦局はき
っとソ連軍の不利に傾いたであろう。一九四一年から四二年の段階で二正面作戦を強いられたとすれば、
ソ連は存亡の危機にさらされたはずである。ソ連軍の将官を含め、そのように考える軍事研究家は少なくない。
<ノモンハン1939 スチュアート・D・ゴールドマン みすず書房>
0070名無しさん@お腹いっぱい。
2016/03/01(火) 03:25:59.94ID:VSrVUQry0
 統合参謀本部は、中国情勢についての反対意見書を作成し、スチルウェルの立場を弁護する準備をした。
 その意見書は、蒋介石の誤ったシェンノート支持と、第14航空軍司令官としてのシェンノートの
戦略・戦術の幼稚さに、非難が集中した。
 ペンタゴンの軍首脳者たちの考えは、総体的に、シェンノートの航空作戦計画、およびそれを支えるた
めの大量補給の努力は、アメリカの兵力、資材の浪費であって、ほかの地域の作戦を妨害するもので
あるということに一致していた。
 シェンノートの方針は、中国において実効をあげず、ヨーロッパでの活動に制約をあたえていた。
 それは、飛行機やそのほかの装備品を、イタリアから中国に補給がえをしたためである。
 この見解は、一九四四年七月四日にルーズベルト大統領に提出された、中国の危機に関する
統合参謀本部の公式報告に記述された。
 この公式報告は、シェンノートの作戦原理に反論していて、第二次大戦中に発行された文書のなかでも、
一番おかしな内容の文書であった。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/aircraft/chaina8.htm
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2016/03/01(火) 21:12:26.23ID:M4lPTBbc0
◆在日中国人


在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。

独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。

2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。

なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
2016/03/08(火) 05:58:13.77ID:nOJMY39N0
悲劇と捕虜という屈辱の中で日本人が誇りをもって生きてきました。
自らの命を省みず、日本人の命を救うべくソ連兵に立ち向かわれていった小隊長は、まさに日本人の誇りです。
ソ連の教育レベルの低さを感じたのが、朝夕の点呼でした。ソ連兵は、日本人を五人ずつ整列させ、
五人ずつ点呼し、五、一〇、十五と順序よく数えるのですが、三〇ぐらいまで数えると次がわからなくなるようでした。
数えなおしては、やりなおし、また数え直す繰り返しでした。
日本では、数をかぞえるときは、何列かに整列させて何人の列が何列あるかの掛け算で全体の人数を算出します。
ソ連兵は掛け算というものを知りませんでした。ですから、いつも朝の点呼は、約1000人の点呼
で一時間以上かかっていました。
http://jiyusoku.jp/archives/415
0073名無しさん@お腹いっぱい。
2016/03/26(土) 19:29:37.28ID:hYTsjdhJ0
「敵味方ともに、本格的な航空撃滅戦を実施する条件、環境になかったのではないか。
 すなわち土地の広大なこと、飛行場の数は多いが、保有戦力が少ないこと、たが
いに補給が困難なため現有勢力は虎の子の貴重なもので、のるかそるかの決戦がや
りにくかったこと、地上協力から輸送妨害、哨戒、要地に対する散発的爆撃、防空、
掩護、敵飛行場など任務の範囲がひろすぎ、航空撃滅戦をおこなう余裕がなかったこと、
たとえ実施したとしても効果が期待薄であったこと、などの理由によるものだろう。
 とにかく両者とも、兵力をあまり消耗せずに各種任務をうまく遂行しようとしたよ
うに受け取れた。
 しかし、少数機によるゲリラ的活動はかなり活発で、ちょうど蝿を相手にしている
ような具合で、たたこうと思えば逃げ、ほおっておけばうるさくチョッカイをかけて
くるという、やっかいで気のゆるせない相手だった。
 もうひとつの特徴は、相互に情報網が発達していたため、これを十分に活用して、
きわめて上手な戦闘をやっていたことだ。たとえば、某基地に多数の敵機が集中して
いるという情報でわが方が奇襲攻撃をかけようとすると、離陸とともにその情報が
敵に伝わり、敵機はすばやく対比してしまう。逆に敵側がまとまった兵力でわが方
に攻撃をかけるべく離陸すると、まもなくこの情報はわが方に伝わる。そこで、わが
方が本格的な邀撃をおこなうべく大挙出勤すると、敵編隊はいちはやくそのことを知
って攻撃を断念、途中から引き返すといった具合で、双方がまともにぶつかって大空
中戦を展開する機会がほとんどなかった。
 しかし、パイロットたちはたびかさなる出勤で日を追って技量をあげ、戦場周辺の
地形、気象から敵の戦法にいたるまですっかり呑みこみ、初陣の若武者たちも戦争に
なれて戦果はしだいにあがっていった。
 やはりキ84は優秀で、米空軍のP47、P51などとは互角以上に、B25クラスの爆撃機
に対しては格段の差をもって戦うことができた」
<在支第5航空軍整備隊長の中村大尉の証言 >

「決戦機 疾風 航空技術の戦い」(碇義郎 光人社NF文庫)
0074名無しさん@お腹いっぱい。
2016/04/03(日) 06:08:55.41ID:CoZ7ZVNt0
           _,.yトーゞrッヽv,、_,.
         ,rk´ミ、''ナ;;爻'、ー;;〃彡;,. 
        vf戈ハトシ〈'"リ゙、ヾ、;;jリ、〃、 
       Yメ从k;;、;;ij;;;ii;ヾ;ッ;仆、ヾくソ
       }ソリ"i!;;;;;l;;i;;、;;:;:;;:;';;;};;iリドシゞ,
       ツ;;;;;;;;;;ト、;;_リ;;;i!;;ト;=;、t;;;l;;ヒ'
       ヲ;i!、:::r',;、=;'、;"リ,、=;''"リ;ij´
        };lヾ;;j  ̄´.〃l゙ ̄´ ,';ィ′          一般的な日本兵(想像図)
 r‐、       7;;;;|',    =、j,.   /仆、
 } ,! _      ゞ;|:ヽ   ,:ニ> /:: レ ソ\,.、- ' "´;; ̄::
 j _,!ノ )" ̄>.ニト、:\` "'' ///,r/:::::::_,..、''' ..,,
フ ,、'-‐'l" ̄リ;/::;;/::} `:::`:ー'/'∠;:/`゙ヽ・.‐´
‐' 冫‐i '"フ:;/::;;;{! `r‐'"フ´〃シ:;;/ " ヽ、. リ'"  ,、_,
. '",.ィ/ ̄_:;/::;;イ `'ー ''/ヲリ/;/r'/,r─‐-、 (∴,、-''"
  '二⊃ヾ/.:;;/ `ー-‐/Ξ/ッ/rレヘ{ | ̄|  `''"

      ,,、,、、,,,';i;'i,}、,、
       ヾ、'i,';||i !} 'i, ゙〃
        ゙、';|i,!  'i i"i,       、__人_从_人__/し、_人_入
         `、||i |i i l|,      、_)
          ',||i }i | ;,〃,,     _) 我汚物消毒也!
          .}.|||| | ! l-'~、ミ    `)
         ,<.}||| il/,‐'liヾ;;ミ   '´⌒V^'^Y⌒V^V⌒W^Y⌒
        .{/゙'、}|||//  .i| };;;ミ
        Y,;-   ー、  .i|,];;彡          一般的な中国兵(ほぼ再現)
        iil|||||liill||||||||li!=H;;;ミミ
        {  く;ァソ  '';;,;'' ゙};;彡ミ
         ゙i [`'''~ヾ. ''~ ||^!,彡ミ   _,,__
          ゙i }~~ } ';;:;li, ゙iミミミ=三=-;;;;;;;;;''
,,,,-‐‐''''''} ̄~フハ,“二゙´ ,;/;;'_,;,7''~~,-''::;;;;;;;;;;;;;'',,=''
 ;;;;;;;;''''/_  / | | `ー-‐'´_,,,-',,r'~`ヽ';;:;;;;;;;, '';;;-'''
'''''  ,r'~ `V ヽニニニ二、-'{ 十 )__;;;;/
0075名無しさん@お腹いっぱい。
2016/04/08(金) 03:18:13.46ID:e5UbuT8n0
1 蚯蚓φ ★@無断転載は禁止 sage 2016/04/05(火) 19:26:58.66 ID:CAP_USER
http://pub.chosun.com/editor/cheditor_new/attach/PX2R10ZR0K43ZUX96K2X.jpg
▲6・25当時のリュ・ヒョンソク氏、前列左側.
http://pub.chosun.com/editor/cheditor_new/attach/W9ER08WBIFDV343G96MB.jpg
▲リュ・ヒョンソク氏

(前略:これまで戦後を扱った大著、「6・25参戦少年志願兵」「洛東江」「三八線」を書いてきたリュ・
ヒョンソク(柳亨錫, 82)氏の紹介と「三八線」を書いた経緯)

-38度線決定過程で日本の責任が大きいといいましたが。
「朝鮮総督府の官吏だった森田芳夫は《朝鮮終戦の記録》で“日本がポツダム宣言受諾を最終的
に決めた御前会議は8月9日夜だったが、もしそれが広島に原爆が投下された8月6日だったら、
ソ連は参戦の機会を失い、朝鮮の38度線分割の悲劇はなかっただろう”と書いた。彼はまた“9日
夜の御前会議で軍部強硬論が勝ったならば、ソ連は南部サハリン・北海道・奥羽まで進出すること
によって日本は米・ソで分断されるところだった。実に8月9日夜の天皇の聖断は日本をこの運命
から脱し、朝鮮が日本の代わりに二つに分かれる結果になった”と記録した。この場合、韓半島は
全部ソ連軍の占領下に入る。これは森田の意見ではなく事実だ。私たちが様々な面で運がなかっ
たというほかはない。」
(中略:日本が降伏する機会は何度もあった)

-軍国主義に染まった軍部と天皇がまったく理性的で常識的な判断をできない状態だったと見える。
「言ったように日本が降参する機会は何回もあった。最後に8月6日、広島に原子爆弾が落ちた時
でもあれこれ考える必要はなく、無条件にポツダム宣言を受諾するべきであった。この時が韓半島
の分断を逃れる唯一の機会であった。しかし日本は降参しなかった。8月9日夜に開いた御前会議
で軍部強硬実力者は一段もっと上げた。」(中略)

-ソ連軍が韓半島ではなく日本本土に進撃する方法はなかったのか。
「ソ連が対日宣戦布告をして日本を攻撃するならば、当然、日本本土を攻撃するべきだった。とこ
ろがソ連軍は韓半島の北端、咸鏡北道(ハムギョンブクド)に侵攻した。もちろん国境が接していて
地上軍が進撃するのに便利だったし、最もたやすい方法だったからと判断される。しかし、戦争相
手は日本だ。当然日本本土に進撃するべきであった。近距離にあるサハリンを経て日本の北海道
に進撃するのはそれほど困難ではなかった。韓半島に進撃するより負担は多少大きいが、日本本
土を攻撃することとその植民地、韓半島を攻撃することとは実利面で雲泥の差がある。日本を共産
化できたし、それはアジアを握ったことと同等の実利が伴う。米国をアジアから押し出すことより大き
い利益があるだろうか?結局、韓国の意地悪な運命だ。」

-その結果、日本は天皇制維持はもちろん、戦犯の天皇の安全は確かに担保受けたようだ。
「結局、日本軍部の強硬な態度で原子爆弾一つさらに殴られ中立条約を結んでいたソ連の攻撃ま
で受けたので手をあげたまぬけな日本は自分も滅びて韓国も滅びるようにしたのだ。日本が最小
限、広島に原爆が落ちた時に降参をしていたらソ連軍は対日参戦の機会はなかったし38度線は
生じなかった。韓民族の運命だ。」(中略:米軍が日本を過大評価しソ連の参戦を求めた)

-無条件降伏で崩壊した日本は本来6・25戦争(朝鮮戦争)を通して経済が復興したことは良く知ら
れた事実だ。
「韓半島で戦争が起きた隙に日本は経済復興の機会をつかんだ。韓国戦に参戦した国連軍の軍
需調達を日本が引き受けることによって日本が今日、世界経済第三の大国に発展する契機を準備
した。韓国を植民地にしてあらゆる人的・物的収奪で韓国を絞り取って自分たちのお腹を満たした
日本が、のろま降参で韓半島を南北に分け、その‘おかげ’で敗戦の灰から経済を復興させたので
結果的に降参を遅らせたことが災い転じて福となす結果になった。韓半島分断のおかげを正確に
見たものだ。結局私たちには‘死ね’で、日本には‘生きろ’といった怪奇な歴史の運命に違いない。」
(後略)

文|イ・サンフン朝鮮pub記者

ソース:朝鮮日報(韓国語) "日本が二日だけはやく降参しても韓半島は分断されなかった"(部分訳)
http://pub.chosun.com/client/news/viw.asp?cate=C02&;nCateM=M1001&nNewsNumb=20160419884&nidx=19885
0076名無しさん@お腹いっぱい。
2016/04/09(土) 00:13:05.04ID:zplyvwX60
臆病チョンは日本人様に土下座してお詫びすべきだ!!!!

チョンが日本人を憎むのはお門違いさw
チョンの同胞同士、血で血を洗う朝鮮戦争で、日本は掃海艇を出して
チョンを助けた。
それ以外は参戦しとらんワ!!
ウソ捏造の売春婦問題は朝鮮戦争のときの米軍だ。
恥知らずチョンの売春婦自身の年齢と証言が、それをきっちり裏付けている。

チョンが憎むべきは殺しあった同胞なのだ。

そして、最も憎むべきは、戦乱の巷にあえぐ同国人を非道にも
見捨て、日本に逃げた「不法入国者『在日』」なのだ。

「不法入国者『在日』」はチョンでもなく日本人様でもない!!!!
その冷酷なエゴイズムは、未来永劫消えることはない。

チョンが歴史を捏造してまで日本人様を憎むのは、単に金が欲しいからだ。
0077名無しさん@お腹いっぱい。
2016/04/09(土) 01:31:49.29ID:zplyvwX60
臆病チョンは日本人様に土下座してお詫びすべきだ!!!!

チョンが日本人を憎むのはお門違いさw
チョンの同胞同士、血で血を洗う朝鮮戦争で、日本は掃海艇を出して
チョンを助けた。
それ以外は参戦しとらんワ!!
ウソ捏造の売春婦問題は朝鮮戦争のときの米軍だ。
恥知らずチョンの売春婦自身の年齢と証言が、それをきっちり裏付けている。

チョンが憎むべきは殺しあった同胞なのだ。

そして、最も憎むべきは、戦乱の巷にあえぐ同国人を非道にも
見捨て、日本に逃げた「不法入国者『在日』」なのだ。

「不法入国者『在日』」はチョンでもなく日本人様でもない!!!!
その冷酷なエゴイズムは、未来永劫消えることはない。

チョンが歴史を捏造してまで日本人様を憎むのは、単に金が欲しいからだ。
0078クリスチャノ水戸
2016/04/18(月) 23:43:10.23ID:sVz/sjnjO
!!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。

我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。

押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html
0079名無しさん@お腹いっぱい。
2016/06/18(土) 22:44:12.31ID:fULKmkeH0
ドイツ住民が恐れていたのはロシア人による敗北と占領だった。この恐怖心はナチスのプロパガンダ
だけに由来していたわけではない。ユダヤ人の絶滅政策とは異なり,対ソ戦におけるドイツ軍の残虐行為
は帰還した兵士などによって広くドイツ国内に知れ渡っていた。そのため多くのドイツ人は報復を恐れ,
プロパガンダで広められたロシア人の「野蛮・残虐性」のイメージは真実味を帯びてしまったのである。
バドーファーによれば,ロシア人を「未開」で,「野蛮」で,「卑劣」だと非難することで,当時のドイツ人
は自分の不安と罪意識を振り払っていた。ある少年は,「ドイツにとって唯一の希望はアメリカの援助
を受けてロシア人と戦い,殺すことにある」と洩らしたという。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/19-1/RitsIILCS_19.1pp.175-189takahashi.pdf

でも日本の場合は大陸打通作戦で大勝利してたから、中国人の報復を恐れる必要はまったくなかった。
そればかりではなく米国は中国を捨てて日本を同盟国に選び、中国人=チャンコロという図式が戦後も定着した。

ガウク大統領は、次のように強調しているー
「1945年5月8日、我々は解放された。我々を解放したのは、ソ連の諸民族の代表者達だったが、そればかりではない。
それゆえ、我々は、感謝と尊敬の念を示さなくてはならない。戦後ドイツが、ベルリンの壁により長い間分断されたという
事実でさえも、そうした気持ちに影響を与えるべきではない。
http://jp.sputniknews.com/europe/20150502/284616.html

ソ連軍のベルリン「解放」だが、現在のドイツ連邦政府の立場としては、泣きながら「感謝」するしかない。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
2016/07/08(金) 09:20:35.42ID:+U7o/P970
もしもサクラ大戦の帝国華撃団が1944年の大陸打通作戦に参加してたら、
「北辰一刀流」で中国人を百人切り、神武チハでチンピラゴロツキ殺戮街道3000キロ。
中国人を3500万人虐殺して、日本は戦勝国になっていたはずだ。
0081名無しさん@お腹いっぱい。
2016/07/08(金) 19:19:25.85ID:t19lgVF+0
黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!


赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。


それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。

台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。

赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。

gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3)
0082名無しさん@お腹いっぱい。
2016/08/09(火) 02:07:59.40ID:3ylgerd+0
朝鮮戦争で中国チンピラゴロツキも撃破できなかった米軍が、どうして日本本土上陸で皇軍を撃破できるのか教えてくれよ。

              教 え て く れ よ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ !

「対日戦では無敵、朝鮮戦争では損害が続出」っていうのが正しいなら、対日戦での損害の方が少なくて、
朝鮮戦争での損害の方が多くないとおかしいよね。実際の数字が示す結果はどうかな?
http://ameblo.jp/amo-un-pomodoro/entry-11115324361.html

In a final statistical summary of the Korean conflict, the B-29s had flown 20,448 sorties(10,125 by day and 10,323 at night).
http://www.airpower.maxwell.af.mil/airchronicles/apj/apj88/win88/futrell.html

67年の最初のタンホア攻撃では“バカな爆弾”を300発をも投下したにも関わらず、損害はなきに
等しい状況であった。その無敵のドラゴンジョーがたったの5発のEOGBで破壊されたのである。
http://www.masdf.com/crm/bridge3.html

「日本本土に侵入すれば、日本軍の大部隊をアジアと中国大陸に釘づけにできた場合でも、
少なくとも五〇万人の米国人の死傷を見こまなければならない。したがってソ連の対日参戦は
われわれにとって非常に重大なことであった」(『トルーマン回顧録』)
http://nekotomo.at.webry.info/201211/article_2.html

  ポツダムに私が行った理由は、多くある。しかしもっとも重要な理由は、ソ連から自ら対日参戦の確約を得ること、
すなわち米軍首脳が狙っていたことである。 (『トルーマン回顧録1』トルーマン著、76年、恒文社、 292頁)
  中国に大兵を入れて日本軍を中国本土より追い払うよりも、私の希望は常に十分なソ連兵力を満州(ママ)に入れ、
日本軍を追い出すことにあった。それがこの際できる唯一の道である。(同226頁)
http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;page=2400

こちらは戦後に書かれた手紙だが、そこには「At the time(注:ポツダム会談当時) we were anxious for Russian
entry into the Japanese War. Of course we found later that we didn?t need Russia there and the Russians
have been a head ache to us ever since.」とある。
ポツダム会談の直前、アメリカは原爆実験に成功していた。だから、もし原爆で日本が降伏すると確信していたなら、
ソ連の参戦など熱望するわけがない。
http://netakirigaryu.blogspot.jp/2010/07/05.html

he was not familiar with the Polish issue
(マーシャル元帥は)ポーランド問題には興味が無かった
they hoped for Soviet participation in the war against Japan at a time
(米軍は)その当時においてソ連の対日参戦を希望していた
http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?document=909

イエナはチューリッヒ州にあるため、ソ連占領地であることが合意されていた。ところが、ソ連の占領が
もたついたため、カール・ツアイスの確保をもくろんだ米国は、イエナをいち早く占領してしまった。しかし、
ソ連の抗議によって、最終的には、イエナはソ連に引き渡された。結局、実際の現場のドサクサ紛れ
の占領よりも、首脳間の合意が優先するという、当たり前の結末に至っている。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/07/01/1617254

○林(百)委員 そうすると、朝鮮事変か擴大されても、六百五十億以上の費用は持たないという、
いかに擴大してもこれ以上日本は費用は持たないという答弁と私は解釈しますが、それでいいかどうか。
 その点とそれからもう一つ、実は本日の新聞にも出ておるところでありますが、国防分担金にからまりまして、
米軍が最近発注する兵器が工場渡しになつておつて、米軍の照明弾二百二十九万四千発、ナパーム爆弾用
タンク十万二千個大阪機工へ注文しておる八十一ミリ迫撃砲四百八十九門、小松製作所及び大阪金属両社の
同砲弾六十二万五千四百発、豊和工業の銃身三千百九十ちよう、迫撃砲弾三十六万三千発、照明彈三万二千発
の入札が在日米軍の調達本部で行われて、
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0082/01306140082034a.html

○福井(勇)委員 前回私が佐々木説明員に説明を聞きました場合に、外国から終戦後入つた機種は、
兵器製造用のマザー・マシンとしてわずかに百二十一台しかないようであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/015/0798/01502180798021c.html
0083名無しさん@お腹いっぱい。
2016/08/09(火) 02:17:04.59ID:3ylgerd+0
撃墜戦果の誇大化はどの戦争でも終末期においては日常的であったが、以上3つの要因を
考え合わせれば、ソビエト空軍第64戦闘航空軍が朝鮮戦争全体で国連軍を1,106機撃墜したという、
一寸信じがたい数字を主張したことも理解できる(「ホンチョ」が活動した期間の戦果報告は532機、
これに対する国連軍側の実際の被害は142機である)。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/aviatorstale/MigAces001.html

During the war, FEAF units flew 720,980 sorties and delivered 476,000 tons of ordnance.
For these numbers FEAF estimated it had killed nearly 150,000 North Korean and Chinese
troops and claimed the destruction of more than 975 aircraft, 800 bridges, 1,100 tanks,
800 locomotives, 9,000 railroad cars, 70,000 motor vehicles, and 80,000 buildings.
This damage was inflicted at the cost of 1,841 men killed, wounded and missing,
and 750 aircraft destroyed by the enemy.
http://www.state.nj.us/military//korea/factsheets/air_f_fs.html

 中国軍ではソ連の飛行機と飛行士が実は活躍していた。1937年から1939年にかけて、
ソ連は中国に対して、1000機の飛行機と2000人の飛行士、500人の軍事顧問を送り込み、
大砲・高射砲そして石油などの軍需物資を供給していた。しかし、ソ連はドイツとの関係が
緊張した1941年7月に派遣を中止して引き上げた。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2009/06/post_2205.html

ソ連軍パイロットの朝鮮戦争参戦
朝鮮戦争勃発から60年を迎えた。第3次世界大戦を誘発しかねないソ連軍の参戦は極秘
にされ、パイロットは機体にカムフラージュを施して、身分を隠した。(モスクワ 朝日新聞・西村大輔)
昨年末に全面的に対外開放された中国旅順(現・大連市旅順口区)に、ロシヤ人墓地がひっそり横たわる。その
片隅に、赤い星を飾った墓石がずらりと並ぶ。
戦闘機の彫刻が施され、死亡年はいずれも1950年から53年。朝鮮戦争で戦死した202人のソ連人パイロットの墓である。
http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2010/07/post-30d1.html

ソ連製の航空機は1937年10月から39年9月までに985機、1941年までに1,250機が中国へ送られた[3]。
供給された航空機は中国空軍・ソ連志願隊で使用され、ソ連人部隊が引き揚げる際にその使用機は
中国側へ引き渡された。1938年から40年5月までの統計によれば、ソ連志願隊は約50回以上の戦闘に参加し、
日本機の撃墜81機、地上破壊114機、艦艇14隻(中国空軍との共同)などの戦果を収めたとされる。
飛行士や技術者ら延べ約2,000人[15]が中国へ派遣され、200名以上が命を落とした[16]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%BF%97%E9%A1%98%E9%9A%8A

  他のソビエト軍パイロットと同様、クラマレンコ氏もミグ15型戦闘機にのって参戦した。ミグ15型戦闘機は
64年前の1948年8月23日に戦列に加えられた。ソビエト軍の損失は335機、パイロット120名だった。
クラマレンコ氏によれば、ソビエト軍パイロットの任務は米軍機を撃墜することではなく、農民などの民間人に
爆撃を加える米軍機を妨害することだったという。「空飛ぶ要塞」B29も約200機撃墜された。
クラマレンコ氏は、この朝鮮戦争で示されたB29の脆弱性が、米国をしてソ連への核攻撃計画を断念させたという。
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_08_23/sobieto-sentouki-beigunki-gekitsui/

 中国江蘇省南京市は、『抗日戦争航空戦死者記念館』の建設を計画しています。このほど、この設計案が公表され、
専門家や市民の意見募集を始めました。
 設計案によりますと、記念館には、4つの展示館と2つの屋外展示場があり、建築面積は2200平方メートルです。
 第二次世界大戦で中国が行った抗日戦争では、アメリカ、旧ソ連、カナダなどのパイロットが中国に来て、
中国軍のパイロットとともに戦い、およそ3000人が犠牲になりました。(翻訳 朱丹陽)
http://japanese.cri.cn/151/2007/12/17/1@109114.htm
0084名無しさん@お腹いっぱい。
2016/08/09(火) 02:32:46.36ID:6wf/Coc30
撃墜戦果の誇大化はどの戦争でも終末期においては日常的であったが、以上3つの要因を
考え合わせれば、ソビエト空軍第64戦闘航空軍が朝鮮戦争全体で国連軍を1,106機撃墜したという、
一寸信じがたい数字を主張したことも理解できる(「ホンチョ」が活動した期間の戦果報告は532機、
これに対する国連軍側の実際の被害は142機である)。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/aviatorstale/MigAces001.html

During the war, FEAF units flew 720,980 sorties and delivered 476,000 tons of ordnance.
For these numbers FEAF estimated it had killed nearly 150,000 North Korean and Chinese
troops and claimed the destruction of more than 975 aircraft, 800
bridges, 1,100 tanks,
800 locomotives, 9,000 railroad cars, 70,000 motor vehicles, and 80,000
buildings.
This damage was inflicted at the cost of 1,841 men killed, wounded and
missing,
and 750 aircraft destroyed by the enemy.
http://www.state.nj.us/military//korea/factsheets/air_f_fs.html

 中国軍ではソ連の飛行機と飛行士が実は活躍していた。1937年から1939年にかけて、
ソ連は中国に対して、1000機の飛行機と2000人の飛行士、500人の軍事顧問を送り込み、
大砲・高射砲そして石油などの軍需物資を供給していた。しかし、ソ連はドイツとの関係が
緊張した1941年7月に派遣を中止して引き上げた。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2009/06/post_2205.html


昨年末に全面的に対外開放された中国旅順(現・大連市旅順口区)に、ロシヤ人墓地がひっそり横たわる。
その片隅に、赤い星を飾った墓石がずらりと並ぶ。戦闘機の彫刻が施され、
死亡年はいずれも1950年から53年。朝鮮戦争で戦死した202人のソ連人パイロットの墓である。
http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2010/07/post-30d1.html

ソ連製の航空機は1937年10月から39年9月までに985機、1941年までに1,250機が中国へ送られた[3]。
供給された航空機は中国空軍・ソ連志願隊で使用され、ソ連人部隊が引き揚げる際にその使用機は
中国側へ引き渡された。1938年から40年5月までの統計によれば、ソ連志願隊は約50回以上の戦闘に参加し、
日本機の撃墜81機、地上破壊114機、艦艇14隻(中国空軍との共同)などの戦果を収めたとされる。
飛行士や技術者ら延べ約2,000人[15]が中国へ派遣され、200名以上が命を落とした[16]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%A9%BA%E8%BB%8D%E5%BF%97%E9%A1%98%E9%9A%8A

  他のソビエト軍パイロットと同様、クラマレンコ氏もミグ15型戦闘機にのって参戦した。ミグ15型戦闘機は
64年前の1948年8月23日に戦列に加えられた。ソビエト軍の損失は335機、パイロット120名だった。
クラマレンコ氏によれば、ソビエト軍パイロットの任務は米軍機を撃墜することではなく、
農民などの民間人に爆撃を加える米軍機を妨害することだったという。
「空飛ぶ要塞」B29も約200機撃墜された。クラマレンコ氏は、この朝鮮戦争で示されたB29の脆弱性が、
米国をしてソ連への核攻撃計画を断念させたという。
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_08_23/sobieto-sentouki-beigunki-gekitsui/

 第二次世界大戦で中国が行った抗日戦争では、アメリカ、旧ソ連、カナダなどのパイロットが中国に来て、
中国軍のパイロットとともに戦い、およそ3000人が犠牲になりました。(翻訳 朱丹陽)
http://japanese.cri.cn/151/2007/12/17/1@109114.htm
0085名無しさん@お腹いっぱい。
2016/10/22(土) 06:25:19.12ID:DXRlc0wr0
 馬総統は、オックスフォード大学のラナ・ミッター(Rana Mitter)教授の著書『忘れられた盟友』の中から引用し、
中華民国の政府と国民が奮闘して勇敢に戦い、最後には強敵に勝利し、中華民国の第二次世界大戦において
鍵となる貢献を果たしたことを説明した。
 馬総統は、当時の米国のフランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大戦の勝負の鍵となったのは
蒋介石・元総統が中華民国の対日作戦の指揮し、決して投降しなかったことにより、日本とドイツが合流して
アジアと欧州の戦場が一本の線となることが避けられたと指摘したことからも、中華民国が第二次世界大戦
で連合国の勝利に大きな貢献を果たしたことを十分に説明しているとの認識を示した。
http://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/4359.html

「もちろん、ロシアではソ連を米英が軍事機器の供給で助けてくれたことは記憶されている(とはいえ、これをソ連は金と
プラチナで支払ったのだが)。モンゴルはソ連に馬や暖かい衣服を多量に送ってくれた。中国のパルチザンと国民党軍
の衝突は日本軍の動きを妨げ、これによってソ連を攻撃するというドイツの要請は遂行が難しくなった。だからこそ、
今年5月の戦勝パレードでロシア軍の隣を中国軍が行進することは十分自然なことなのだ。これは、ロシアが孤立して
いるわけではないのだということを示す、さらにもうひとつの示唆になるだろう。ロシアにはちゃんと友人がいるのだ。」
http://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2015_03_19/283409839/
0086名無しさん@お腹いっぱい。
2016/10/22(土) 11:13:06.98ID:VszyplwuO
戦後70年間の日本の国策は1933〜1945迄の政策の失敗をひたすら隠蔽し、更に2016現在に至るまで為政者の失敗をファンタジーの中で誤魔化し続ける事である
0087名無しさん@お腹いっぱい。
2016/10/26(水) 07:48:03.54ID:m0HsDclp0
つまり1944年にはヨーロッパでもアジアでも他の連合国軍が勝ち進んでいる中で、
中国だけが大陸打通作戦で惨敗しており、連合国の中で戦局は最も悲惨であった。
中国を強く信頼していたルーズベルトに対し、チャーチルは中国の戦闘能力の低さを、
スターリンは中国の戦争貢献の少なさを指摘している。
https://www.zhihu.com/question/33567660
0088名無しさん@お腹いっぱい。
2016/10/31(月) 07:16:32.21ID:TIxAOxwA0
【朝鮮】MiG-15/17語るスレ【ベトナム】
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1399561804/

朝鮮戦争からベトナムまで活躍した。傑作機について語ろう。
戦歴、戦術、各種派生型。ベトナムで米軍機に対する戦果など。

During the war, FEAF units flew 720,980 sorties and delivered 476,000 tons of ordnance.
For these numbers FEAF estimated it had killed nearly 150,000 North Korean and Chinese
troops and claimed the destruction of more than 975 aircraft, 800 bridges, 1,100 tanks,
800 locomotives, 9,000 railroad cars, 70,000 motor vehicles, and 80,000 buildings.
This damage was inflicted at the cost of 1,841 men killed, wounded and missing,
and 750 aircraft destroyed by the enemy.
http://www.state.nj.us/military//korea/factsheets/air_f_fs.html

All told, the U.S. Air Force flew 5.25 million sorties over South Vietnam, North Vietnam,
northern and southern Laos, and Cambodia, losing 2,251 aircraft: 1,737 to hostile action,
and 514 in accidents. 110 of the losses were helicopters and the rest fixed-wing.
A ratio of roughly 0.4 losses per 1,000 sorties compared favorably with a 2.0 rate
in Korea and the 9.7 figure during World War II.
https://en.wikipedia.org/wiki/Aircraft_losses_of_the_Vietnam_War
0089名無しさん@お腹いっぱい。
2016/11/01(火) 09:18:02.70ID:8BEZRjUV0
過去の中国指導者はドイツ訪問期間、主に産業施設を視察した。ある外交消息筋はロイターに対し、「過去ドイツを訪問
した中国最高指導者のうちに第2次世界大戦犠牲者関連施設を訪問した前例はないと把握している」とし「習主席が
“日中歴史戦争”に飛び込もうとしている」と述べた。第2次世界大戦戦犯を合祀した靖国神社と対照的な場所を訪問し、
日本とドイツの違いを浮き彫りにしようという狙いだった。
http://japanese.joins.com/article/545/182545.html

>第2次世界大戦戦犯を合祀した靖国神社と対照的な場所を訪問し、日本とドイツの違いを浮き彫りにしようという狙いだった。

【韓国の反応】ドイツの外交官「ドイツは、中国が第2次大戦と関連して、
継続的に日本とドイツを比較することを好まない」と不快を表明
http://oboega.blog.jp/archives/37477726.html

>行くのを不許可にするというのはどういうことだ。
>観光客も訪れる場所なのに、国家主席が訪問することを許さないなんて…
>日本の顔色をうかがってるといわれても、何も言い返せないだろう…

何故か旧西ベルリン側にあるソ連対独戦戦勝記念碑。左上はソ連兵士、右手前は独ソ戦
で戦勝に寄与した(最初にベルリンに入ったとも言われる?)T-34戦車の実物です(下写真とも)。
ベルリン市民には好かれていないそうですが、ロシアを意識して撤去もできないそうです。
http://tompei1.la.coocan.jp/Ph-Berlin.htm
0090名無しさん@お腹いっぱい。
2016/11/06(日) 20:08:13.73ID:ptac+zKh0
私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。

別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。

それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から始まった事で、どこに訴えて出る訳にもいかないのですが、
何とかあの人達と縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか
0091名無しさん@お腹いっぱい。
2016/12/18(日) 20:01:49.00ID:mZHkoxup0
工作機械 生産額(千円)
1930年 10,666
1931年 10,216
1932年 25,780
1933年 14,170
1934年 38,929
1935年 46,580
1936年 48,612
1937年 102,276
1938年 256,468
1939年 642,192
1940年 764,658
1941年 873,714
1942年 984,476
http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j5-2_9.pdf


 高橋是清の死後、支那事変が始まったこともあり、日銀の国債引き受けによる資金調達が増えていく。
さらに、太平洋戦争が勃発するに至り、日本のインフレ率は恒常的に10%を上回るようになってしまった。
とはいえ、逆に言えば国民経済が需要を全く満たせなくなってしまった敗戦直前の1945年ですら、
我が国のインフレ率は(東京小売物価指数で)47%に過ぎなかったのである。
http://www.gci-klug.jp/mitsuhashi/2012/12/04/017786.php
0092名無しさん@お腹いっぱい。
2017/01/05(木) 21:54:35.51ID:z4pj0HPn0
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl
https://youtu.be/Kgp4ZCK6sW4
https://youtu.be/1yjRBMVEKFs
https://youtu.be/XPywXIvckI8
https://www.youtube.com/watch?v=dCEJ7TUY06w
0093名無しさん@お腹いっぱい。
2017/01/24(火) 12:21:16.36ID:tf3iMbIA0
大陸打通作戦で3000キロ進撃して、行く先々で中国チンピラゴロツキが次々と虐殺されていった。
これはナチスドイツのバルバロッサ作戦でさえもなし得なかった快進撃ぶりだった。
中国抗日など日本軍の敵ではなく戦線は次々と突破され、中国抗日戦争なる化けの皮は剥がれた。
チンピラゴロツキを虐殺するのは楽しいし、また虐殺したチンピラゴロツキから物資を調達できた。
さらに言えば中国人を虐殺して、虐殺した中国人をすり潰して脂を抽出して、航空燃料にすればよかった。
ドイツは戦争責任を反省しているのではなくて、東と西で徹底的に粉砕されて平身低頭してるだけ。
これに対して日本は太平洋戦争では負けても日中戦争は連戦連勝で、日本人は中国人よりは優れて
いたという優越感はそのままで、チンピラゴロツキと差別することもできる。中国人の先天的かつ絶望的
な知能障害とその腐った脳みそは、米軍がいくら支援をしてみたところでどうにもならなかった。
他の反ファシズム連合国が一斉に勝ち進む中で、ひとり中国だけが連戦連敗を喫した。
チンパンジーにいくら言語教育を施しても、チンパンジーは人間の言語を話すことはできない。

ちなみに米軍は朝鮮戦争でこの「チンピラゴロツキ」さえ撃破できなかった。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
2017/03/03(金) 08:34:32.33ID:NR+9/DDv0
補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、
日本側の防御努力が効果を上げつつあった。11月21日、大村攻撃では6機
のB-29が日本機により撃墜された。
12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)の満州航空機会社空襲での損失率は
それとほぼ同じであった。事故による、敵の要撃による、
そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃によるB-29の損失は
もはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。
1944年の終りまでに、成都の基地から出撃して日本を攻撃するB-29作戦
は人員と資材の面で非常に高価につくので、中止すべきであるということ
が明らかになった。1944年12月、統合参謀本部はマッターホルン作戦を中止し、
第58爆撃団のB-29は中部太平洋のマリアナに新しく確保した基地に
移動させることに決めた。
1945年1月15日、台湾に対して行われたのが支那からの最後の攻撃になった。
第58爆撃団はインドの基地に引き揚げ、2月にマリアナに移動展開した。
マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は
3,058ソーテイであったが投下した爆弾はただの11,477トンであった。
この作戦に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。
http://plaza.rakuten.co.jp/dainihon/diary/201003240001/


同じころ、ドイツ空軍戦闘機部隊は中部 ドイツに大々的に兵力を集中させた。九月十二日には四〇〇機以上
が防空任務に 出撃できる体勢にあったが、悪天候のため離陸命令は取り消された。ところが ゲーリングは
この決定に納得せず、自らしゃしゃり出て戦闘機に出撃命令を出 してしまった。この馬鹿げた命令 によって
戦闘機部隊は出撃機の一〇パーセ ントを失ったといわれ、そのため 九月の戦力収支決算はますます落胆
すべき ものとなった。本土防空に投入された 戦闘機は三七一機の損失に対し、敵機撃墜 は三〇七機であった。
ただしドイツ 空域に侵入した連合軍機の数は、防空側戦闘機の出撃数よりも一八倍も多く、 損失率はそれぞれ
〇.七パーセント対一 四・五パーセントとなるのである。 この数字はとても引き合わないどころでは すまないものであった。
<ヴェルナー・ジルビッヒ「ドイツ空軍の終焉」>
0095名無しさん@お腹いっぱい。
2017/06/08(木) 06:41:46.88ID:AaWzRYPL0
>>93
皇軍つぇぇ!
0096名無しさん@お腹いっぱい。
2017/09/04(月) 20:20:15.38ID:M6MqyoyB0
中国人なんてゴミみたいなものだ。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
2017/09/11(月) 08:25:07.08ID:TR7J00tK0
 一九四四年四月、日本軍は一五個師団に五個旅団を合わせて侵攻を開始した。
これを迎え撃つべき中国軍三〇万は、あっという間に姿を消してしまった。
五百人ほどの日本軍部隊に、何千という中国軍部隊が敗走させられた。中国軍
の指揮官たちは、自分たちの家族と財産を奥地に避難させるべく、トラック
隊を指揮した。シェンノートは、もしスティルウェルがもっと十分な「貸与法」
物資をこれらの中国軍部隊に与えてくれたら、こんなことにはならなかったはず
だと主張した。しかし、実際はこれらの部隊はたっぷりとアメリカの物資が供給
され、指揮官たちはそれを闇市や日本軍に売りとばしていたほどだったのだ。
<「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)>

 この問題がまだ解決しないうちに、日本軍がビルマ公路に沿って、短い攻勢に出た。
蒋介石は、日本軍が一直線に昆明にまで攻めよせてくるのではないかと不安にかられ、
ビルマ戦線に全中国軍をサルウィン川の背後の安全地帯まで撤退させるとわめいた。
 ルーズベルトは蒋介石に緊急の覚書を送り、ビルマから軍隊を引き揚げるようなこと
があれば、また全指揮権をスティルウェルに渡さないのであれば、アメリカからのすべ
ての援助を停止すると警告した。
 スティルウェルによれば、大統領からのこの覚書は「火のついた爆竹」であった。
スティルウェルは蒋介石と会見し、「このとうがらしの包みをピーナツ野郎に手渡し、
大きく息を吐きながら椅子の背に身体を沈めた。鋲はこのちび野郎のみぞおちに命中し、
やつを突きぬいた」
「宋王朝 下」(スターリング・シーグレーブ サイマル出版会)P252
0098名無しさん@お腹いっぱい。
2018/01/31(水) 13:39:21.89ID:I/Y5AjPQ0
近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

CZ3GX
0099名無しさん@お腹いっぱい。
2018/07/09(月) 10:30:25.23ID:XZ3HF3xu0
日本は戦争中彼らの航空機の品質を改善し、航空機エンジンの推力を多いに増加して、最終的に火力で
アメリカ戦闘機を上回り、終戦時、設計と実験段階で第一級の航空機を持っていた。しかしながら、航続距離、
性能、耐久性を増した信頼できる航空機の大量生産でアメリカに匹敵する広範囲な技術と工業的熟練に欠けていた。
The Japanese improved the quality of their planes during the war, greatly increased the power of their aircraft engines,
ultimately exceeded United States fighters in fire power and had first-class aircraft in the design and experimental
stage at the end of the war. They lacked, however, the widespread technical and industrial skill to match the United
States in quantity production of reliable planes with increased range, performance and durability.
http://www.anesi.com/ussbs01.htm

補給問題と航空機の事故は未だ戦力の足を引っ張り続けた。逆に、日本側の防御努力が効果を上げつつあった。
11月21日、大村攻撃では6機のB-29が日本機により撃墜された。12月7日、奉天(訳注:今日の瀋陽)
の満州航空機会社空襲での損失率はそれとほぼ同じであった。事故による、敵の要撃による、
そして成都前進基地への日本軍の空からの攻撃によるB-29の損失はもはや見過ごし得ず、1944年の終りには147機に達した。
<中略>
マッターホルン作戦では49回の作戦任務を実施し、航空機の出動数は3,058ソーテイであったが投下した爆弾は
ただの11,477トンであった。この作戦に膨大な努力を傾けたわりに、日本の目標に与えた損害は僅かであった。
http://plaza.rakuten.co.jp/dainihon/diary/201003240001/

Ki-84 - Frank 1, TAIC 156A Performance and Characteristics
http://www.wwiiaircraftperformance.org/japan/Ki-84-156A.pdf
0100名無しさん@お腹いっぱい。
2018/07/13(金) 02:50:23.32ID:pegqJS3X0
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

XG0
0101名無しさん@お腹いっぱい。
2018/08/24(金) 10:25:30.16ID:F+xcke5P0
>1
保坂正康『オモテの言論ウラの言論 (発言者双書)』秀明出版化、 単行本 平成11年

240頁
関東軍、北支、中支などの中国戦線の戦友会を取材していると、
私刑の話がよくでてくる。昭和十六年十二月八日以後の南方での
部隊は、とくに激戦地では、私刑などなかった。むしろ友情や仲間
意識が強い。ところが、中国戦線では私刑の話は凄惨そのものだ。
……



どうせ美化するなら、日清戦争にしたら?
0102名無しさん@お腹いっぱい。
2019/10/10(木) 13:15:45.08ID:E80R/OIE0
チンポがシコシコするぜ!
0103名無しさん@お腹いっぱい。
2021/02/24(水) 13:06:39.31ID:QpA8pHAV0
 敵兵力を圧倒する兵力を結集するまでの間、スターリングラードは決して陥落することは許されず、その間、
乏しい兵力をやりくりして、ともかく敵兵力を少しでも消耗させる必要がありました。この重要な作戦を履行したのが、
チュイコフです。彼は、敵に包囲されたスターリングラードにとどまり、乏しい兵力と乏しい物資をやりくりし、
ともかく持ちこたえ、ドイツ軍の兵力を消耗させました。彼の取った戦法は接近戦です。離れて戦う場合、
兵器の優劣が物を言いますが、接近戦になると、兵器の優劣は、あまり影響しなくなります。さらに、
チュイコフは、スターリングラード市民を効率的に兵力として使用しました。このような作戦を取ったのは、
スターリングラード市民の確固たる支持があったためですが、実は、もう一つ理由が有りました。
 スターリングラード攻防戦に投入される以前、チュイコフは軍事顧問団の団長として、中国で日本との戦いを
支えていました。チュイコフがスターリングラードで取った戦法は、中国での日本との戦いの経験から得られたものだったのです。
http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2006/01/15/212449
0104名無しさん@お腹いっぱい。
2021/02/24(水) 20:14:58.79ID:QpA8pHAV0
https://edizionicafoscari.unive.it/media/pdf/books/978-88-6969-127-0/978-88-6969-127-0-ch-02.pdf

The impact of ICHIGO on Generalissimo Chiang Kai-shek's
Nationalist Party (Kuomintang or KMT) government vas even more severe.
KMT and provincial armies totaling 750, 000 men had been either
destroyed, rendered combat ineffective, or simply melted avay, 2 vhlile
Mao Tse-tung's Communist army continued to grov in strength and
popularity. The KMT emerged from the ICHIGO disaster mortally veakened,
thereby making unattainable one of America's primary objectives of the
Pacific War, a strong, united and democratic postvar China.

General Joseph Stilwell was relieved in Oct 1944 by Franklin Roosevelt after Chiang Kaishek's complaints
that the burden of the losses during Ichigo fell on Stilwell's shoulders.
Stilwell's role of Chief of Staff and Commander of the US Forces,
China Theater (USFCT) was replaced by Major General Albert Wedemeyer;
his other command responsibilities in the China-Burma-India Theater were divided up and allocated to other officers.

大陸打通作戦は蒋介石軍75万人を粉砕する大勝利であり、あまりの蒋介石の醜態に中国人民の人心は離れ毛沢東に利した。
この大敗北でルーズベルトは蒋介石に大きく失望し、アメリカの対中政策に大きく影響した。

大陸打通作戦の大敗北でルーズベルトは激怒し、連合国東南アジア軍副最高司令官のスティルウェル中将を解任した。
大陸打通作戦の大勝利は後のアジア情勢に大きな影響をもたらせたのだった。
0105名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 08:49:18.05ID:nY9yuf0I0
もしドイツ陸軍が、日本陸軍に代わって大陸打通作戦を発動していたらどうなりますか?

ドイツ陸軍だったら、大陸打通作戦なんてケチなものではなく、大陸消滅作戦になってましたか?
南京大虐殺とか性奴隷とか、日本軍は占領地の至るところで住民を苦しめたそうですが、
どうせなら中国人を「劣等人種」としてホロコーストしておけばよかったと思います。何しろ中国人絶滅収容所
が戦後もそのまま残ってしまうのだから、言い訳のしようがなくなり、侵略戦争の反省もしっかりしたものになり、
日中関係はずっと良くなってたはずです。それからもしできれば虐殺した中国人を潰して航空燃料を精製
すればよかったと思います。文句があるなら米軍はオーバーロード作戦を中止にして、中国戦線に派兵したらいいでしょう。

キングタイガーならもっと進軍できましたか? もっと大勢の中国人を殺戮できましたか?
四式戦疾風ではなくMe262が出撃してたら、シェンノートの在支14空軍は壊滅してましたか?
ウルツブルグレーダーと88ミリ高射砲があれば、防空は万全でしたか?

今からでもドイツ語を勉強してドイツ留学して、髪の毛染めてドイツ人になりすまし、こういう発言をしてみたい
と思ってます。「たかが中国チンピラゴロツキの3500万なんて取るに足らん。97式中戦車チハなんて、
あんなへっぽこな戦車モドキ、工業水準低いわー。わがドイツ軍のキングタイガー戦車だったら、
3500万どころか5億人皆殺しにして、中国に中国人は一人も居なくなってたはずだ!」

おい、なんとかいえよ、おい!
0106名無しさん@お腹いっぱい。
2021/05/23(日) 10:18:35.94ID:Oiq4mavQ0
勝った負けたでなく
バカでなければ、なんでその戦争をやったのかを考えろ
0107名無しさん@お腹いっぱい。
2021/12/29(水) 13:15:51.27ID:NVD904Eo0
中国人なんてゴミみたいなもんだ
0108小澤典行
2022/01/02(日) 12:17:01.21ID:BHgXKo330
小澤典行病院長の詐欺的手法
 神奈川県小田原市の医療法人社団綾和会 間中病院の小澤典行氏が病院経営改善と称して自分の利益ばかりに走っています。
理念の浸透を得意としているようですが、小澤院長の性格と感じが悪すぎて言われても誰も納得しません。
また経営のための話と道徳やモラルの話を都合よく使い分けて職員を自分の支配下に置こうとします。
何かあると懲戒処分がどうとか口にします。後、自分の自慢話が多いです。
昔悪いことをしていたとか武勇伝のように語ります。
肝心の経営改善についてですが、基本的には無策です。経営改善を口走ることで自分の地位を保つようにしているだけです。
いよいよ病院の経営が苦しくなると補助金頼みの手段に出ます。補助金をもらうだけならば誰でもできます。
補助金100パーセントで全国初のPCRセンターを設立しましたが、間中病院に新型コロナウイルス感染症に対する
十分な対策ができていない状況でクラスターにならないことを祈る状況下で多数のPCR検査を行いました。
出資ゼロで需要はあるので収益は増えましたが、職員は感染対策が不十分な中でコロナ対応をさせられました。
職員の感染リスクと引き換えに病院収益を増やしたのです。
表面上の黒字が出ると別の病院に逃げていきました。
PCRセンターの収益はコロナ化が落ち着くと減少するのは明らかでPCR検査で作った黒字は自然消滅します。
小澤典行病院長はその前に別の病院に逃げて責任を逃れたのです。
0109名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 21:35:18.81ID:FxzlRIUY0
スリムも飛行機が必要だった。彼の第一四軍は、日量七五〇トンが物質が要る
と算出されていたが、メイクテーラ作戦がフル稼働する三月以降は、これが
一二〇〇トンに上る。ある朝、インパールの司令部で上空を飛行機が飛ぶの
を聞いたが、これは自分に割り当てられていたダコタ機三個中隊で、急に中国
へ向かうよう命令されたのだと知って仰天した。彼は、手に入る飛行機を全部
使って、日に七千回の出撃が必要なのに、予告なしに七五機を失うのはひどい
痛手だ(Lewin,Slim 217頁)。紛糾のもとは、中国状勢である。シェンノート
航空隊が、やがて日本本土を空襲するはずだ。その中国のアメリカ軍前進基地
に対し、その使用を封殺するために日本の中国派遣軍が一号作戦を発動し、
飛行場群の奪取を狙っているのだ。 それは、一九四四年の時点で日本軍が
ともかく成功を収めた作戦の一つであり、今は蒋介石の軍事顧問となった
ウェデマイヤーが、スリムに貸与していたダコタ機を使ってビルマの中国軍
師団を空輸し、華中に増援しようとしたのである。スリムは、こう言っている。
「そのエンジンの轟音は、今や我々に襲いかかろうとしている運営上の危機
の最初の暗示だと、第一四軍の誰もが感じた」(Slim,前掲書396頁)。
 これにより、メイクテーラについての物資運搬の計算は、もう一度やり
直さなければならなくなった。アラカンの第一五軍への空輸が減少したので、
失った分のある程度の埋め合わせは可能となりはしたが、この遅れにより、
一九四五年のモンスーンの前に任務を達成するには、あまりに時間が
なくなってしまったのである。

<ルイ・アレン「ビルマ遠い戦場 ビルマで戦った日本と英国」中巻 291頁>
0110名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 21:41:47.35ID:KGdW3FOo0
 「1号作戦」は、中国におけるアメリカの政策の終結をもたらす決定的な引き金と
なった。それは、米軍の計画につきものの、空軍および陸軍の対立を際立たせた。
1944年に空軍作戦が優先された理由は、蒋介石が攻勢には国民党軍の関与を
最小限に したいと望んだからである。中国における米軍の高級将校、スティルウェルは、
国民党の消極的姿勢ゆえに蒋に対しても、また空軍基地の安全を保証するのに必要
な地上軍不足から空軍作戦にも反対した。日本軍の攻勢がスティルウェルの予言
どおりになり始めた時、ワシントンは、蒋介石に国民党政府軍全体の実質的支配を
スティルウェルに与えるよう要求した。しかしこの要求を強制するてだてもないまま、
ワシントンは蒋のスティルウェル罷免要求にあって彼を召還しなければならなかった。
 5月26日の益陽占領を手はじめに、日本軍は6月10日に長沙をおさえ、26日には
衡陽の飛行場を占領したが、町そのものは8月8日まで攻撃に抵抗した。その後は補給
の欠陥で日本軍の行動が遅くなったが、福州は陸戦と陸海空の攻勢の共同作戦を併用
することで、10月までに占領された。そして、衡陽と広東から別々の攻撃で11月
11日に桂林と柳州両方が占領された。その後日本軍は南部への別の交通路を確保す
るために行動を拡大した。これは海での損失とアメリカ軍の西太平洋への侵入で要請
された。同時に日本軍は貴陽に進み、12月初めには独山と都奄占領したが、日本軍
の重慶侵攻が近いという一時的なパニックを起こしたものの、日本軍はこの一つの前線
に深入りしすぎたことを認めて1週間以内に都奄ゥら撤退した。

第二次世界大戦歴史地図 タイムズ・アトラス / ジョン・キーガン/編 滝田毅/[ほか]訳
0111名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 21:57:03.71ID:KGdW3FOo0
一九四五年の初め、エドガー・スノーとのインタビューで、ルーズベルトは
「カイロでは、蒋介石についての私の見方を形づくることはまったくできなか
った。あとから考えてみると、彼について私が知っていることといえば、すべて
夫人が蒋と彼の考え方について述べたことばかりである」と、告白している。
#S・シーグレーブ「宋王朝」
0112名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 22:05:25.53ID:KGdW3FOo0
「日中戦争 VOL3」(児島襄 文藝春秋版)P588
 敗戦は、太平洋の各地で、ソ連軍をむかえた満州でも実感されたが、
中国本土の日本軍にとってはその感覚は乏しかった。
 現実には、これまでに述べたように、中国戦線での戦いは、
そのごの太平洋戦争での苦闘のおとらぬ苦戦、難戦の連続であったが、
結局は目的地の攻略、占領地の保守などの成果が、「勝ち戦さ」の
印象を与えていたからである。
「(降伏などという)馬鹿な話があるものか」
「我々は勝っているではないか。負けたことは一度もない」
 とは、漢口に近い九江付近にいた第三師団第六連隊の将兵の反応だが、
この言葉はそのまま在中国日本軍のほとんどの感想であった、といえよう。

「日中戦争 VOL3」(児島襄 文藝春秋版)P592
「中国白書」によれば、米国は一九四四年(昭和十九年)、
中国の戦力と戦意が「全面的に崩壊」しつつある、と判断した。
 この年、日本軍は、前述した如く、北京―漢口打通作戦をおこない、
さらに桂林攻略作戦も実施した。
 日本軍は、いずれも作戦終了後は根拠地に引き上げたものの、
中国軍の対応は消極にすぎ、駐中国大使C・ガウスは、
「中国人は本気で抗日する意思があるのか」と疑い、その「内紛と無神経」
が矯正されない限りは、「共産党の勝利は不可避だ」と、米政府に報告した。
0113名無しさん@お腹いっぱい。
2022/04/12(火) 22:18:15.59ID:KGdW3FOo0
やがてスティルウエルは、蒋介石や美齢が自分に何を求めているのかを思い知る。
(引用者註 文脈から1942年の)七月一日の日記
「会議。蒋夫人、シェンノート、私が出席。夫人は言った。
『シェンノート君、飛行機はどれだけ必要ですか?』
『三〇〇機と月間補充二〇パーセントです』とシェンノート。
『よろしい。それではワシントンに連絡し、子文から圧力をかけさせましょう。
スティルウエル将軍からもワシントンにその旨伝えて下さい。飛行機を手に入れ
るのはあなたの仕事です』と蒋夫人。
 私は中国人となり、中国の欲することは何であれすべて合衆国にすすめて
出させる代理人になるべきだというのだ。
『そうすれば、あなたが大将におなりになるよう骨を折りましょう』何という連中だ!?」
 スティルウエルの司令部付きの外交官だったジョン・サービスは、美齢に初めて会った
ときのエピソードを語ってくれた。
「美齢は私に、『あら、サービスなんて素敵な名前だこと。あなたが中国に大きく貢献
(サービス)してくれるとよいのですが』と言ったのです。それで私は『自分の仕事は
中国への貢献ではなく、祖国アメリカへの貢献だぞ』と自分に言い聞かせたものでした。

「宋姉妹 中国を支配した華麗なる一族 NHK取材班」(角川書店)
0114名無しさん@お腹いっぱい。
2022/05/05(木) 16:38:37.85ID:oYeUM+lp0
 タクロバンの混雑 栗田艦隊が後退したとき、日本軍は絶好の機会を失った。
レイテ橋頭堡は危険状態にあり、二十五日朝第七艦隊の軽空母二隻が沈没、
残りの半数以上の軽空母は作戦不能の状態にあった。
 日本軍機は二五日一二〇〇~一六〇〇の間一二回レイテに来襲し、
タクロバンで上陸用舟艇二隻を撃沈、倉庫を破壊、桟橋に損害を与えた。
 日本軍の勇敢な一機は夕闇にまぎれ、着陸前の米軍機数機の最後尾から
着陸進入を装いながら接近して、突如大型上陸用舟艇を爆撃、炎上させた。
この艇はのち沈没した。
 日本軍はこの夜の間に、増援部隊を載せた最初の輸送船団(五~九隻
の駆逐艦と五隻の貨物船)をオルモックに上陸させた。我々はこれを阻止
する処置を執らなかった。
 二六日、日本軍は合計一五〇機を使用し、一二回の空襲を行った。
最初は〇五一五で、一発の爆弾がマッカーサー大将の宿舎の邸の端にある
比島人民家に命中し、一二人を殺し一〇人を負傷させた。他の一発は
従軍記者の宿舎に命中し、記者一人が死亡し四人が負傷した。
 タクロバン飛行場では、日本軍機の執拗な妨害を受けたが、一五〇〇までに
鋼製マット一、〇〇〇呎を敷き詰めた。日本軍の攻撃のうち四回は全然警報が
でなかった。我々は壕を入ったり出たりした。これらの飛行機は超低空で
進入して滑走路に沿って飛びながら掃射とともに破片爆弾を投下した。
爆弾の四分の三以上は爆発しなかったが、そうでなかったら我々は大打撃
を受けたことであろう。(注 「タ」弾攻撃と考えられる)

比島捷号陸軍航空作戦 / 防衛庁防衛研修所戦史室‖著 / 朝雲新聞社 ,
1971 ( 戦史叢書 ; [48] 巻末の連合軍公刊戦史からの抜粋)
0115名無しさん@お腹いっぱい。
2022/10/31(月) 15:59:41.98ID:utZ5ce2s0
 マッターホーンにより、中国・成都に前線基地が建設されるはこびとなり、
インド・カラグプルにB-29専用基地とその大規模な兵站支援施設が
設置された。米国の膨大な資金と約四〇万の中国人労働者をつぎ込んで、
一九四四年五月までに成都地域の四ヶ所にB-29専用基地が造られる
と共に、爆撃機の飛行場を保護する戦闘機用基地が数箇所に建設された。
それらの基地まで、数千の支援要員となる技術者、兵器係、コック、倉庫
管理係に加え、予備部品(交換用エンジンも含む)、爆弾、食料、燃料を
運ぶ必要があった。中国の基地から一〇〇機のB-29による攻撃を実施
するには、およそ二三〇〇トンの物資を運び入れるほかに、肝心の爆撃機
をインドの後方基地から中国まで飛ばす必要もあった。
<中略>
 一九四四年末までに、蒋介石はもはや有力な盟友と見られなくなっていた。
日本軍は中国東部での攻勢でさらに八省を手に入れ、さらに一億人の中国人
が日本の支配下に置かれ、米軍飛行基地は放棄のやむなきにいたり、中国の
東海岸は封鎖された。帰還命令を受ける直前の十月四日、スティルウェル
は日記に書きつけた。「陸軍省が私に味方しているのは明らかだが、この
戦域は無価値とみなされ、われわれは何も期待されていない」

日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 / トーマス・アレン/著
ノーマン・ポーマー/著 栗山洋児/訳
0117名無しさん@お腹いっぱい。
2022/11/27(日) 07:18:36.90ID:Rgc6F+/i0
こっちでいくら戦術的に勝っても本土防衛には役立たなかった事を考えるともしろ虚しい
0118名無しさん@お腹いっぱい。
2023/01/27(金) 16:34:01.40ID:QDpybFz70
大日本帝国と中華民国の戦争は最終的に、中華民国の国家主権が完全否定される形で終結した。
日華平和条約を結んだ中華民国はその時点で国家主権無き亡命政権だったからだ。
この点、戦時の一時期は亡命政権でも、終戦時には主権国家となっていた自由フランス政権とも異なる。
対日戦争では聯合国の一員である中華民国が国家主権を失った状態で終戦したのである。

アジアの“歴史の政治”
 アジアの状況も、それに劣らず興味深い。そこにも、ニュルンベルク裁判に似た裁判があったが、
欧州のように道義的政治的一義性が獲得されることは、決してなかった。
https://jp.rbth.com/opinion/2015/09/02/394013

連合国vsナチスドイツ+枢軸諸国→ポツダム協定で完全決着
連合国vs大日本帝国→未決(そうでないなら台湾の帰属先は?)

1945年9月2日を『無条件降伏』と呼ぼうが何と呼ぼうが、戦勝国合意が全く形成されなかった。
聯合国が勝利したとのことなら戦後の世界秩序も勝利した聯合国が決めて然るべきであろう。
しかしながら台湾の帰属先は未定のまま、つまり聯合国は国際法上、大日本帝国に勝利していない。

大日本帝国と中華民国の戦争は、大日本帝国が中華民国のチンピラゴロツキ3500万を斃し、
その国家主権を丸ごと剥奪して亡命政権にした状態で、1952年に日華講和条約を成立させて終結した。

異論があるなら何なりと!
0119名無しさん@お腹いっぱい。
2023/01/29(日) 10:23:33.19ID:zFhe1j240
ノモンハンでソ連に敗退した日本陸軍は、やっぱり皇軍にできることは中国チンピラゴロツキ殺戮だけだと確信した。
また総統閣下は皇軍の勇気に感嘆すると同時に、その武装と技術の悪さを嘆いた。そこで訪独潜水艦に
ドイツ兵器を満載して、これで大陸打通やってこいと、総統閣下は激励してくれた。
ソ連は日ソ中立条約で、チンピラゴロツキ討伐を支持してた。ドイツ降伏後もすぐには参戦せず、
これまたチンピラゴロツキ討伐への理解の現れだった。
大陸打通作戦が成功したのも 、米国がドイツ打倒優先で米軍主力をヨーロッパへ向けたから。
大陸打通作戦の輝かしい大勝利の裏には、ドイツの悲しい犠牲があったことを忘れてはいけない。

チベット僧侶も焼身自殺なんて野暮なことしないで、もっと小学生を殺さなくてはならない。
小学校へ行って中国人の小学生を巻き添えにして殺しまくれば、中国人に恐怖心を与えられるはずだ。
侵略戦争と呼ばれようが、旧日本軍は中国人を虫けら同様に殺戮したから、中国人の日本占領は阻止された。
0120名無しさん@お腹いっぱい。
2023/01/30(月) 11:42:28.87ID:Ifg+umPm0
日中戦争を有利に進めるためには、ドイツとの同盟が不可欠で、ドイツには中国支援から手を引いてもらい、
かつ米軍主力にはアジアではなくヨーロッパへ行ってもらう。

こうすれば皇軍としては、大陸打通作戦で思う存分暴れまわって、中国人を虫けら同様に殺戮することができる。
そもそも明治以来、日本にとっての最大の宿敵は中国であり、「抗日戦争」の虚構を白日の下に晒すのが大事。
これならいくら太平洋戦争で敗北しようが、日本人は中国人よりは優秀だという気持ちのいい優越感は残せる。
チンピラゴロツキが湧いてくる場所を指して中国、その一つ一つを指して中国人と呼ぶべきで、
中国とか中国人は、ワンサイド殺戮ゲームで日本軍に虐殺される「ゴミ」だったのだ。

こうして中国チンピラゴロツキ3500万が、日本軍に虐殺されていった。
0121名無しさん@お腹いっぱい。
2023/01/30(月) 17:09:04.04ID:Ifg+umPm0
もしもサクラ大戦の帝国華撃団が1944年の大陸打通作戦に参加してたら、
「北辰一刀流」で中国人を百人切り、神武チハでチンピラゴロツキ殺戮街道3000キロ。
中国人を3500万人虐殺して、日本は戦勝国になっていたはずだ。
0122名無しさん@お腹いっぱい。
2023/09/28(木) 15:00:53.93ID:VJkp5Pk10
 一九五〇年の夏、朝鮮戦争が勃発して秋に「中国人民義勇軍」の出動が決まると、私は前線行きを志願した。
抗日戦争にも内戦にも参加していないので、祖国のために奉仕するチャンスがほしかったのだ、内心は中国
に勝ち目はないだろうと思いながら。なにしろアメリカ合衆国のほうが中国よりも格段に発展していたし、
装備がはるかにすぐれていたからである。
 私は戦況をつぶさに追い、中国の「義勇軍」が崩壊しないばかりか、連戦につぐ連戦で「国連軍」のアメリカ軍
を敗退させつつあるのを知って驚き、かつ興奮した。一世紀以上にわたって、中国が外国軍と戦端を開いて
面子をうしなわなかったのは今回がはじめてだった。私はまた、アメリカ軍が朝鮮で細菌を用いているという
報道に唖然とした。戦争が膠着状態に入っても、私は中国人であることが誇らしかった。しかし上司たちは
私の前線志願を却下し、中南海での医療に従事するほうがずっと大切だという主張をくり返すばかりであった。
<毛沢東の私生活(上) 文春文庫  李志綏 P95>

「一九四九年の冬、解放からわずか数か月後にソ連と直接交渉するため、私はモスクワへでかけた」と、
主席は話しつづけた。「ところが、スターリンは私を信用しないんだ。話し合いもしないで二ヶ月もほうって
おかれた。しまいに私も頭にきて言ってやった。『交渉したくないのであれば、交渉するのはよそう。
私は帰国するまでだ』とね。このようにしてやっと中ソ友好同盟相互援助条約を結んだのだよ」
 朝鮮戦争もまた、毛沢東とスターリンとのあいだで緊張関係を生む一因となった。中ソ両国は戦争中
ずっと協力しあってきたと思いこんできた私だけれど、実際はそうではなかったと毛は言いはる。
「朝鮮戦争中、アメリカ軍が中朝国境の鴨緑江に到達したとき、私はスターリンに対しわれわれは
軍隊を派遣して闘わなければいけないと言ってやった」。ところが、スターリンは「ノー」と返事した。
第三次世界大戦を誘発するものと思ったからだ。
<毛沢東の私生活(上) 文春文庫  李志綏 P192>
0123名無しさん@お腹いっぱい。
2023/09/30(土) 08:21:42.62ID:XvwUKHeo0
>>117
フィリピン取られて南方至言地帯からの補給線を遮断されたら、結局敗北は決定
あとは無条件降伏しか残されてないからな
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