爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話5
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>>125
そうだよね。ほんと凄い話だと思う。俺の父親(大正14年生まれ)には残念ながら
そんな話は無かったなぁ。あ、歴史上の人物じゃないけど某国営放送の解説委員で
政治部長にまでなった人物が旧制中学の同級生で配属将校に下僕のように媚びまくって、
(信長に対する秀吉みたいに、配属将校が靴を脱ごうとするとき、速攻に寄って行って
ゲートルを解いてやったりねw)いたということを聞かされたくらいかな。 金日成追ってたじいちゃん。
あと、新兵で中国のどっかに派遣されたとき、度胸をつけるためと称して、なんの罪もない中国人を銃剣で殺すように命令されたんだって。
周りでその男の家族が泣いて命乞いするなか、命令に従わざるを得なかったって。
あれは心底辛かった、と。
狂気だよね、本当に。 もう誰も見てないかな。
父方母方の先祖達の話を色々聞いたから、書き込みたい。
ちなみに2ちゃん書き込むの初めてなので、変なとこあったらすみません。
母方の曽祖父母の話。
明治の人で、曽祖父亡き後、ひとり残っていた曽祖母が亡くなった後、日記や手紙などから祖父らも知らなかった曽祖父母の来歴が分かったらしい。
祖父達が信じてた曽祖父母の過去は「九州から進学のため上京した曽祖父が、遠縁の曽祖母と親戚の世話で結婚し、東京で所帯を持ち、卒業し就職した」というもの。 でも本当は九州で地方役人の夫と子供のいた曽祖母は、うだつの上がらない夫より書生だった曽祖父の有望さに賭ける気になり、何もかも捨てて7歳年下の曽祖父と東京に駆け落ち。
東京の学校に曽祖父を入れて曽祖母が稼ぎながら卒業させ、判事にさせた、というのが真相だったらしい…。
ちなみに祖父ら子供達は、曽祖母は曽祖父より3歳年下だと聞いてたらしい。サバ読むひいばあちゃんがちょっと可愛い。
母親が結婚前に亡くなったので私は会ったことはないけど、亡くなる直前まで、ピンと背筋を伸ばしてハキハキ物を言う、気の強い人だったらしい。
祖父曰く、「明治生まれの女の胆力は凄まじいからなぁ」だそうな。 父方の先祖の話。
曽祖父は孝と言うが、孝の親の話。
孝の父親は寅次郎と言い、村のお巡りさんだった。
犯人逮捕の賞状や立派なお墓なんかがあり、孝も写真や故人にまつわる物が多く残されていたから、この2人の親子関係をみな信じていた。
けれど本当は、孝と寅次郎の関係は父子ではなく、祖父と孫だった。
寅次郎には娘が2人しかおらず、長女に遠方から婿を取ったそうだ。
長女は孝を生むが、産後が思わしくなく、他界した。
昔の風習で、次女が婿と結婚し、孝を育てることになったが、その前に易者に結婚の良し悪しを占ってもらったそうだ。
すると「干支の回りが良くない」という結果が出て、寅次郎はそれを信じたらしい。 婿は実家に帰ることになり、孝は次女が独身のまま育てることになった。
両親不在と言う理由から、孝は祖父である寅次郎の養子となって、育ったようだ。
婿のことは、寺にも当然墓にも記録が残ってないし、うちにも手紙のひとつも残されてない。
なので今となってはどこの人なのか、名前は何か、ということすら分からなくなってしまった。
祖父の葬式の席で、祖父の妹である大叔母に聞いた話です。
この話は祖父も祖父の弟も、誰も知らなかったらしい。
大叔母はその話を大叔母(孝を育てた寅次郎の次女)から、家の歴史として他所に嫁ぐ際に聞いたらしいです。
その話を聞いた時、父親が驚きすぎてギックリ腰になったのはダブルで衝撃的だった…。
お婿さんカワイソス この孝さん(曽祖父)の嫁取りにまた色々話があるんだけど、またの機会があれば書き込みます。 大正の終わり頃、俺の爺さんは大学生で、旧大名の伯爵家の書生をしていた。
常に書生が3名ほど、女中さんが数名、執事と運転手がいたそうだ。
書生は子供達に家庭教師したり、庭仕事など力仕事をやる他に、
伯爵家の護衛係でもあるので、みな体格が良かった。
伯爵様は貴族院議員だったので、自宅に政治家がよく来た。
政治家が来ると、茶を出すのは書生の役目で、女中は客間に
入れなかった。話が外に漏れるのを警戒したんだろうな。
世相を反映して右翼みたいのも来たそうだ。その時は警棒や目つぶしを
学生服に仕込んで、皆で部屋の中で控える。右翼が子爵様を威嚇する
ような事を言うと、黙ったまま全力で右翼を睨みつける。
それから20年後、戦争が激しくなると、伯爵夫妻が女中一人を連れて
3人で我が家の離れに疎開して来た。伯爵様が女中を呼ぶ時の
カン高い「きーわー」という声が、時代掛かっていて可笑しくて、
親父たち兄弟は声マネをして、祖父に叱られた。 訪問先のお婆さん(大正4年生まれ)から聞いた話。
農家の女が初めてタクシーに乗る時=嫁入りの時 だったそうな。 今の子供たちは爺さん婆さんから戦争の話を聞くこともないんだよなぁ
俺が高校に進学したときに爺さんが新兵苛めで苦労した話をして激励?してくれたのが懐かしい 戦時中に半島に赴任していた爺ちゃんによると
朝鮮の人たちは色々物をくれてやさしかったそうだ
政府への矛先をそらすため反日教育を推進した韓国政府と
それに対してすぐに反論しなかった日本政府の対応を嘆いていた たぶn日本の土着民も朝鮮の土着民も似たようなもんだったと思う
そこにアラブから凶暴な氏族がやってきた
まず朝鮮半島で土着民を奴隷にして王族をやって
そこを唐に追われると、日本にやってきて天皇を名乗る
日本の土着民を身分制度の最下層の農奴に追いやり
歯向かう奴の首を片っ端から切り落として家畜やペットのように
大人しい品種に変えていった
日本人が世界的にみて従順で大人しいのは天皇による激しい圧政があったことを物語る
そのアラブからやってきたというのは
あるときは長州の部落民
あるときは新羅や百済の王族
あるときは秦氏
あるときは祭祀族
しかしてその正体は、スファラディ・ユダヤ人だ
日本に神社を広めたのはそのユダヤ人
日本の土着民はずっと農奴にされていて
自分の田畑を持てたのは実に70年前のGHQの農地改革のおかげ 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 痛みを感じにくい特異体質で、新兵イジメで木刀で尻を何度も叩かれても平気な顔してたら
尻の皮が破れて肉が出てきたらしくて、それでもちょっと痛いな、と感じる程度で、早く飯食いたいわーって思ってたら
これだけ打たれても声一つも出さずに涼しい顔してるとは根性のある奴だなって評価されたらしい 昔は、セムシの奴が学年に1人はいたな
電車乗っても、セムシのおっさんとか結構いた。
セムシというか、くる病なんだろうけど。
今は全く見なくなった。
でかいタンコブ付けてるおっさんも多かったな。
それから脱腸で、腰から袋でつり下げているおっさんも
少なからずいた。
ハゲてるおっさんの半分ぐらいは、中曽根首相みたいに、
鬢の系を伸ばして1:9分けやってた。
あの髪形の正式名称は何と言うんだろう?
今はほとんど見ないな
カツラが進化したからかな? 今から30年以上前の吉田松陰という本では
玉木文之進の息子 玉木彦助は俗論派として処刑されたって書いてある。 今から30年以上前の吉田松陰という本では
玉木文之進の息子 玉木彦助は俗論派として処刑されたって書いてある。 元集団疎開児が戦争体験語る10/28 12:40nhk
子どもたちに戦争の恐ろしさや平和の大切さを学んでもらおうと鳥取市の小学校で、太平洋戦争末期に神戸市から鳥取市に集団疎開した84歳の男性が、戦争体験を語る授業が行われました。
この授業は、戦争を体験した世代が高齢化するなか、戦争の恐ろしさや平和の大切さを子どもたちに語り伝えていこうと、鳥取市の湖南学園が行ったもので、6年生の14人が参加しました。
授業でははじめに、太平洋戦争末期の昭和19年には神戸市からおよそ2500人の子どもたちが県内に集団疎開したことが紹介されました。
そして実際に鳥取市に疎開した神戸市の森口武彦さん(84歳)が疎開中はあまり食料がなかったのでイナゴを捕って食べるなどしてひもじさを乗り切ったことや、夜になると家族が恋しくなって泣いたことなど戦時中の体験を語りました。
その上で森口さんは、「自分のような苦しい目にはあって欲しくないので、戦争のない世の中を作って欲しい」と子どもたちにメッセージを贈りました。
授業を受けた男の子は、「戦争の話はこれまで直接聞いたことがなかったので話が聞けてよかったです。戦争はいけないことだと感じました」と話していました。 松江市戦没者追悼式11/01 09:33nhk
太平洋戦争などで亡くなった松江市出身の戦没者を追悼する式典が松江市で行われ、遺族が祈りをささげました。
追悼式は松江市出身の戦没者5152人を悼み、平和な世界を願って毎年、行われているもので、31日は遺族らおよそ220人が参列しました。
式では遺族を代表して松江市遺族連合会の古藤政宣会長(80)が「英霊が願われた平和を守り、明るく豊かな郷土を築きあげていくため、戦争の悲惨な体験を将来の世代に伝える努力をしていくことを誓います」と述べました。
このあと、参列者が1人ずつ祭壇に花を手向けて祈りをささげました。
自身が生まれる2か月前に父親が戦死したという角田一夫さん(73)は「この日が来るたびにおやじがどういう人だったか思いをはせながら、平和な世の中を作っていかなければならないと気持ちを新たにしています」と話していました。
また、2歳の時に父親を亡くした細田美惠子さん(75)は「子供を残して亡くなった父たちの苦しみが、私も人の親になってわかりました。平和を願う日としてこの式典をずっと続けてほしいです」と話していました。
松江市遺族連合会によりますと、松江市出身の戦没者の妻は現在およそ20人とこの10年間で10分の1に減り子供の世代も平均年齢が76歳と高齢化しているということで、今後、孫の会を結成し戦争の体験を継承していきたいとしています。 戦争の記録伝える展示会11/29 13:09nhk
戦争の悲惨さを多くの人に知ってもらおうと県内で集められた戦没者の遺品などを展示した企画展が松江市で開かれています。
これは戦争の悲惨さを知ってもらおうと島根大学が毎年開いているもので、会場の島根大学附属図書館には日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺品などおよそ90点が展示されています。
このうち、昭和12年に松江市雑賀町から中国に出征した山村栄吉さんの日記には、戦死する前日までの出来事が自筆でつづられ、当時の心境がうかがえます。
また、松江市内に住んでいた若者が出征する際に渡されたものだという日の丸に書かれた寄せ書きには、60人以上の名前が連なっていて、無事の帰りを祈った周囲の思いが見て取れます。
ほかにも戦時中に出版された雑誌の付録や、戦争体験がつづられた資料などが展示されていて、その時代に生きた人々の暮らしぶりや思いを学ぶことができます。
この展示会は島根大学付属図書館で来月22日まで開かれています。 赤紙を配って平和を訴える12/08 12:13nhk
12月8日は、76年前に旧日本軍がアメリカのハワイを攻撃して太平洋戦争に突入した日です。
松江市では母親など女性たちで作る団体が戦時中の召集令状であるいわゆる「赤紙」を再現したチラシを配って戦争反対を訴えました。
この活動は、戦時中、「赤紙」と呼ばれた軍への召集令状によって国民が戦場へ送り出されていった歴史を語り継ぎ、平和の尊さと戦争反対を訴えていこうと、母親など女性で作る団体が毎年、12月8日に全国各地で開いています。
松江市ではこの団体のメンバーなど10人あまりが朝の通勤や通学の時間にあわせて「赤紙」を再現したチラシおよそ600枚を配りました。
ことしのチラシは、核・ミサイル開発をめぐる北朝鮮情勢の緊迫化にも触れられたうえ、「戦争は人殺し以外のなにものでもなく、犠牲になるのは多くの国民です」などと書かれ、日本は憲法9条を守り平和外交に徹するよう呼びかけています。
活動を行った「島根県母親大会連絡会」の浜田倫子副会長は「命を生み出す母親は命を育て、命を守ることを願っています。命を奪う戦争は嫌だという一心で活動を続けていて、若い世代にも引き継いでいきたい」と話していました。 >>137
朱子学的に考えて当時の日本は朝鮮にとって「上位」だったからだと思うぞ
単に軍事的に強いというだけでなく儒教的な道徳的にも上位
今は日本は第二次の歴史に関して道徳的下位にあるので
日本が頭を下げて朝鮮に教えを乞うべきというのが朱子学的解釈。
事実はどうでもいいんだぞ。 ポルトガル領事から贈られた懐中時計2017年12月14日(木)更新itv
明治初期にポルトガル領事から当時の松山藩知事に贈られた懐中時計が見つかりました。
この18金の懐中時計は、明治4年、1871年にポルトガル領事ジョゼ・ロウレイロが長崎を訪れた際、
当時の松山藩知事久松勝成に贈ったものです。魚の鱗のような模様が施され、方位磁石と温度計が付いています。
今年3月、県歴史文化博物館が松山市在住のコレクターから寄贈されたのをきっかけに研究を進めた結果、
ポルトガル領事と松山藩知事との交友が明らかになりました。
懐中時計の内蓋にはそれぞれの名前と贈った年が刻まれていて歴史的背景が分かることから、価値が高いということです。
このほか久松家の家紋・星梅鉢もあしらわれたこの懐中時計は、今月19日から来年1月28日まで、西予市の県歴史文化博物館に展示されます。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
A16FM いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
POS 明治期の話大河ドラマや朝ドラで見て思い出話があると思う。ただ家の家系では女が何人かいて最終的な落ち着き先が合った家を知っている。昔女遊びもやらなかった先祖がいる人に話しにくい。 昔、じいさんから聞いた南方の話
土人の弓矢攻撃に苦しめられたらしい
どんだけ弱いんだよ日本軍、、、 いや、普通に状況考えようか。
状況によってはそら驚異だろ。 弓矢を避ける訓練は想定してなさそう。
銃や爆弾とは違う恐怖だ。
よく生き残った。 去年死んだばーさんの話。葬式の時に弟さんから教えてもらったエピソードで、昔のことを話したがらなかったばーさんの過去を始めて知れた。
ばーさんは戦前生まれで、現存する某大企業の創業者の娘として生まれた。といっても、父親の芸者遊びで産まれてしまった、いわゆる望まれない子供だったとか。
ばーさんの母はその後どういうわけか樺太へ渡り、そこで別の人と結婚。嫁いだ先はとある軍需産業の元締めをしていた人の下で、戦時中はたいそう裕福だったらしい。
といっても嫁ぎ先には既に子供がいて、いわゆる後妻の子扱い。兄妹間の仲は非常に悪かったらしい。
そうして玉音放送直後。樺太には大量のロシア人が攻めて来ており、財産も着る物も何もかもそのままに引き揚げ船に乗ったとか。
いつ撃沈されるかも分からない恐怖に震えながら、まだ小さかった弟を抱きしめながら、
真っ暗闇の船底で命からがら北海道まで逃げて来たという。
ばーさんにそんなエピソードがあったなんて知らなかった。引き揚げる際、父親はどうせまた直ぐに戻ってこれると金目のものを
根こそぎ金庫に入れて庭先に埋めてきたらしい。もしかしたら今でも樺太に残っているかも。
当時住んでいた場所はある程度分かっているので、今年休暇を利用して樺太まで行ってみたいと思っている。
といっても俺の学生時代からの親友が樺太在住で、そいつに会いに行きたいってのが一番の理由だけどな。
ちなみに腹違いの兄貴はまもなく100歳を迎えるも生きており、葬式の時には飛んできた。
認知症も進んでいるし脳梗塞の影響で身体も不自由だが、
ばーさんの棺を前に背筋をピシッと伸ばしながら名前を叫んでいた。「なんで俺より先に死んだんだ!!」と。
戦中は仲が悪く、戦後もほとんど疎遠だったそうだが…腐っても兄妹。
いろいろ思うことはあったんだと思う。
無口で無愛想で高飛車なばーさんの、意外な一面を見れてある意味良かったと思う。
葬式があったからこそ初めて知れた。
その他にもじーさんのこととかいろいろ書きたい事があるが、とりあえずこの辺で。 20年前に93で亡くなった曾祖母が小学生の頃、隣に住んでた爺さんが松田松陰の塾下生だったらしくていつも自慢してたらしいよ。年代的にホントなのかな? 日本郵船でボーイをやってた爺さん。
アメリカ航路でシアトルに入港していた時、身なりの良いアメリカ紳士が周囲を伺いながらやってきて一言。
「何か、お酒はありますか??」
爺さんは酒庫で自腹でサントリーウイスキーを買い、紳士に見せると「いくらですか?」
爺さん「あなたの思うがまま」
5ドルももらいました。
当時のアメリカでは禁酒法だったので、高値で売れまくったそうです。
しかし、爺さんの乗る日本郵船が向こうのアルコール取り締まり専門の連中に入港と同時に監視されるようになり小遣い稼ぎができなくなりました。 20年前に亡くなった祖父さんのお話。
戦時中、皇宮警察で坂下門?の辺りにいたらしい。2つの印象的な事をよく話していた。
@大正天皇皇后が威厳がありすぎて、とても近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
A昭和20年8月14日の夜、近衛師団のクーデター未遂に巻き込まれて、営所に一晩監禁された。周囲を銃剣で固めた兵隊に囲まれて、とても怖かった。因みに皇宮警察の前は近衛第1師団に在籍していたらしく、以前の仲間達に監禁されたのは複雑な気持ちだったよう。 >>165
ああ、貞明皇后おひとりね。なんで大正天皇が・・・と
オカルト系の想像をしますた(汗 私が子供の頃、中国残留日本人孤児の調査がよく行われていた頃聞いた話
義理の叔母は終戦間際の満州生まれ
叔母の両親は満州で使用人を使い商売をしてたらしい
いよいよソビエトが攻めてくる段になって避難を始めたが現地の使用人たちは先にとっくに逃げてしまっていた。
ところが雇っていた中国人夫婦の子供が取り残されていたらしい
叔母の両親は、その子供に叔母の世話をさせて一緒に連れて命からがら帰国したらしい
叔母の世話をするそこ子が居なければ、叔母も中国に残してきて残留孤児となってただろうと
それくらい帰国するのが大変だったという話。 なんだけど
その連れ帰った中国人の子供はもちろん戸籍もなく、なので学校も行けず
日本から中国に帰ることも叶わず、結婚もできず叔母の実家の居候として一生を終えた。
子供心にお世話になった子なんだから養女なり、なぜ学校に通わせなかったのかなど
色々モヤモヤすることが有り、案外攫ってきたんじゃないかと思ってる 母方の祖父は海軍大尉だったが、巡視船?か何かの船長をしていて内地から出なかったので戦争についてこれといったエピソードはない
終戦時は瀬戸内海で釣りをしていたそうな
戦後母が生まれたんだけど、毎年冬になると馬車に家財道具を乗せて隣の隣の町まで家族で湯治に行っていたらしい
豪雪地帯なのでおいそれと行き来できないという事情があったのだけど、一ヶ月くらい温泉に宿を借りて生活していたとのこと 父の話
「戦友同士で殴らせられた」
「玉砕命令が出たら 生きてたらいけない」
「自分が指揮官になって 初任兵だけでシナ軍を攻撃した
うまくいって 隊長にほめられた」
「周囲をシナ軍に囲まれた 弾の数より兵隊の数が多い いくら殺しても
後から後から攻めてくる 中央の塔から 擲弾筒で 手榴弾を撃ち続けた
応援が来て助かった」 普通選挙でなく、納税額で選挙権を与えられたので、事実上戸主だけが投票に行けた。
つまり「一人一票」ではなく「一家に一票」。
買収の考え方もなかったので、朝一番に候補者から差し向けられた人力車に乗って投票所へ。
帰りには上野の精養軒で盛大に接待された。 何年か前の話だけど。
私の高祖父(ひいひいじいさん)は戊辰戦争の会津藩兵として戦死。
敗戦後、高祖父の息子(曽祖父)は東京に逃げてきた為会津時代の墓などは伝わっておらず(武士の中でも余り高い身分ではなかった為)、あるのは恐らく高祖父の戒名が書かれたものであろうボロボロの紙のみ。
それを頼りに近辺のお寺さんに問い合わせるも、当時の過去帳など、どこのお寺さんも戊辰戦争時に消失してしまったとの事。
どうにかお墓など見つけられないかと戸籍を取り寄せ、高祖父の名前を確認しググってみると、高祖父のお墓発見。
お墓があったのは栃木の山奥。
なんでもここで薩長軍と戦い、会津藩兵は全滅。
当時会津藩兵の埋葬が禁止されていて、これでは可哀想と当時の地元の方々がひっそりとその地に埋葬して墓石を立ててくれていたらしい。
息子であった曽祖父も知らなかったであろう高祖父のお墓を、平成になってPCの画面で確認出来た時には涙が出そうになるほど感激した。
また、戸籍で確認出来た名前から、詳細な身分も確認出来た為、古地図で当時の居住地もわかり、現代ってすげーなと感動。 続き、当時の地元の方々、お墓を立て埋葬して下さり本当にありがとう。
そんな思いに溢れました。 東條さんについてみなさんのお爺さんやお婆さんはどういう見識をお持ちでしたか?
自分のお爺さんは独裁者じゃなかったがよく威張っていたと笑いながら言っていたので
嫌ってはいなかったと思いますが >>173
104歳の曽祖母(存命)に聞いたことあるよ
庄屋だったから戦争でも困ったことなかったから世論の行く方に舵取りは任せてたら戦争に負けてしまったとね
開戦当初は我らの東條さんだが負けてから掌返しする人の多さにびっくりしたそうです うちの爺さんからは何も戦争の話は聞かなかったなぁ。
婆さんいわく、昔から明るい性格で、過去を思い出したり、記憶するのに頓着が無いというか、あっけらかんとしたタイプだったそうだ。
ファミレスに行って、飯が終わると、大人達は何か話してて、暇をもて余してるとよく遊んでくれたよ。
駐車場でそこら辺にある棒切れと石ころを使って、一緒にヤクザのベンツボコボコにして大爆笑してたなぁ。爺さんいわく、「これは悪者の車だ」ってw
懐かしいや。帰り際に父親が運転する車が駐車場から出る時に、ボコボコになったベンツ見てまた大爆笑して。
楽しかったなぁ。 もう亡くなったけど、母方のおじさん(昭和2年生まれ、我が母とは26歳差)の話。
山形県の山奥の出身で、海など見たことも無かったが、海軍の予科練に入った。しかも、はるばる山陰の美保基地にて訓練。
海軍とはいっても、予科練というのは飛行訓練兵の養成機関。とはいえ、もう戦争末期で、満足な練習用飛行機など無かった。
結局、船に乗って大陸へ行くことになり、実家あてに「もう帰れない」と手紙を書いた。
そして現地に着いたら、すぐに8月15日。戦闘行為は全く行わなかった。
でも、おじさん本人は絶対に戦争の話はしてくれなかった(相当嫌な経験をしたらしい)。我が母経由で聞いた話。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています