永田鉄山
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>>281
>作戦部長の石原をバックアップして支那事変を収拾したろうね
同意。
支那事変初期に事態が拡大したのは、不拡大派だった作戦部長の石原に対して
直属の部下だった作戦課長の武藤章が拡大派の旗振り役になっていたことも
大きな要因だったけど、それ以上に陸軍省側に石原に同調する人間が少なかった
ことも大きな原因だった。
陸軍省と参謀本部という主要な機関が対立してしまったために支那事変の拡大に
歯止めがかからないことになってしまったけど、永田が生きていたなら状況は
大いに変わっていた可能性があるだろう。
>さすがに武藤章でも永田が言ったらいうことを聞くだろうし
武藤が石原に逆らったのも、相沢事件〜2.26事件で見せた石原の動向について
反発してたからってのも有るんじゃないかと思ってる。
石原は相沢事件で弁護人を引受けようとしていたり、2.26事件の時には
満井佐吉・橋本欣五郎らと密会して青年将校側に有利に運ぶように収拾する案を
練ったりしていて、世上言われているように「討伐一辺倒」という態度では
なかったことが筒井清忠らの近年の研究で明らかにされている。
武藤はそうした石原の動きを陸軍省高級課員として間近で見ていたこともあって、
石原に対する不信感を抱き続けていた形跡があるように思う。 結局明治以来、日本は陸軍も海軍も、中枢にいる人間の私的な人間関係で動きすぎだね。
海軍のしても、真珠湾攻撃は山本五十六、大西瀧治郎、源田實という私的なつながりで立案された訳だし。
後進国の軍隊たる由縁か? >>287
なるほど。言われてみれば確かに、片倉衷と石原莞爾は満州事変以来の仲ですものね。
とても参考になりました。ありがとうございます。 >>281
満州事変を是認した永田に収拾なんか無理だろ
将校に殺されるぐらい人望がないし >>278>>279
ん?
永田信者は寺内や田中が名宰相だと主張してるのw >>291
相手が狂人では人望とか関係ないよ
皇道派でも相沢でなければ陸軍省で刺殺とか無茶なことはしないだろ たしかに相澤は狂人だからねぇ。まさにキチガイに刃物だねぇ >291
>満州事変を是認した永田に収拾なんか無理だろ
満州事変を是認したのは当時の陸軍軍人は全員そうなんだが。
陸軍大臣になった荒木貞夫からしてその代表だぜ。
>将校に殺されるぐらい人望がないし
人望がどうこうとか関係ねーじゃん。
支離滅裂もいいとこだな。
お前さんも「相沢に続け!」とか言っちゃうタイプの人間なのかな? >292
>永田信者は寺内や田中が名宰相だと主張してるのw
ん?
こちらが言っているのは、「官僚出身の政治家であっても、首相になる前にほかの行政組織の長を
経験するなどして 実績を積んでからでなければ首相になどなりはしなかった」ということなんだが。
他の行政組織の長を経験していれば自動的に「名宰相と評価する」なんてことは言っていないよ?
必要条件と十分条件の違いを理解する脳ミソすらないんだね。
ご愁傷様。 >>295
>人望がどうこうとか関係ねーじゃん。
>支離滅裂もいいとこだな。
ありゃりゃ永田信者さん、人望なしにどうやって政治をやるのよ
トチ狂いましたか? >>296
>>211
>そんな人間が国家のトップになって一国の舵取りを行うような事態が「いくらでも」あったの?
>ずいぶん杜撰な歴史認識だこと。
この記述はつまり官僚派の宰相を評価してるんだよな
けどここでは「俺は官僚派の首相が優秀なんていつ言ったんだ!」と主張してる
ブレブレですぜ永田信者さん?(笑) 81回目の8月12日午前9時40分が間もなく来てしまいますね。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl 自分が優秀だと錯覚した頭でっかちたちが優秀な仲間たちと権力を奪取して
「優秀な自分たちの考えだから間違っていない」と勘違いしたまま暴走
一夕会こそ本当は批判されるべきなのになぜか誰も取り上げない 一夕会なんて若造の勉強会だろ?
そこに所属してたのが後に陸軍の主要ポストに就いたというだけで影響力や因果性ははっきりしない。
現に一夕会に顔を出してなかった人が陸軍大将に出世していたりもするのでね。 >>304
いや、研究もされているし、はっきりしているだろ?
それに課長クラス前後が若造? 陸大出てすぐの少佐とかだろ
そんなのがどう暴走して日本をコントロールしたってんだよ 一夕会というだけでなんの手柄もない富永があそこまで出世したわけだが?
長州閥の情実人事を批判しておきながら自分たちはもっとひどい情実人事をしてやがる 関係ない
一夕会だったのに左遷された石原莞爾もいる >>308
それは一夕会の無い時代の話だから関係ないのでは? >>309
東條英機なんかが少佐クラスの中間管理職だった頃の集まりなんだから
富永が出世したのも、日本が暴走したのも、東條英機が首相になったのも、
全部、一夕会がなくなった時代の話だよ 昭和4年から数年ほどしか開かれなかった会合がそこまで評価されるなんて誰も思ってなかっただろうな。
一夕会なんてみんな階級が上がって忙しくなったから消滅したとかいう程度の集まり。
226事件の影響で軍を追われて脱落してったメンバーもいたな。 相沢の偶発的過ぎる事故がなく生きてたとしても、226で渡辺の代わりに
襲撃対象になってたんじゃないか(真崎の天敵だし)って気がするんだけどどうかね? 相沢事件なくば、226も無かったという見解もある。 まもなくその時間がやってくる(二時間を切りました) たしかに二・二六事件は、永田暗殺発生直後の陸軍省の混乱ぶりを見て、
案外、簡単に中央をマヒさせられるんじゃないかと思ったのがきっかけらしいからね。 >>313
そうなるでしょうね。
(漫画ジパングのように、奇跡的に相沢事件が阻止出来たとしても、226事件が起きたら間違いなく消されますね)
>>314
そうですね。相沢事件が226事件の導火線になったのは間違いないですから。 >>318
相沢事件が無かったら、2.26事件も起きていなかった可能性も考慮するべきでしょう。
青年将校たちが決起した理由として、「自分たちよりも十歳以上も年上の
相沢中佐が永田暗殺という「義挙」を行ったのに、自分たちが我が身かわいさに
自重などしたら、獄中の相沢さんに合わせる顔が無いぞ」といった焦燥感に
駆られて決起計画が具体化に向かって動いて行ったとする述懐を残している
被告が結構います。
もともと、北一輝や西田税といった革命家たちと近しい関係にあった人間は
決起将校の中では少数派で、多くは付和雷同的に参加を決めた人間だったり、
先輩から言われたので断りきれずに参加したという人間も多く、そういった
連中に対しての殺し文句として「相沢中佐があれだけのことをやってのけたのに」
という煽り文句であった、とのこと。
軍隊という、体育会系組織の極北とでもいうべき組織において、「根性の無いヤツ、
勇気のないヤツ」という嘲りは、かなりの力を持つものであったと考えるべきで、
栗原安秀や磯部浅一らの急進派が決起に向けて多くの人間の参加させうことが
できたのも、そうした力学の存在を無視することはできません。 磯部が永田暗殺直後の状況について、
「これが名にし負ふ日本の陸軍省か、これが皇軍中央部将校連か、
今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら陸軍省は完全に占領出来るがなあ、
・・・情けない軍中央部だ、幕僚の先は見えた、軍閥の終えんだ、
・・・ヨオッシ俺が軍閥を倒してやる、既成軍部は軍閥だ、俺がたほしてやると云ふ決意に燃えた。」
と書き残している。(『行動記』)
相澤事件がなければ二・二六事件はなかったと断言していいだろう。 統制派の中国一激論が日米戦争に発展した事から言えば、永田が日本を亡国に
導いたと言える。
ハッキリ言って、日本に必要なかった人物。 >>321
対支一撃論については、本当に永田本人が言ったか不明な点が多いので、決めつけるのはだとではないですよ。 >>321
中国一撃論が日米戦争に発展したというのは人口に膾炙した話だが、
実際には皮相的な見方でしかない。
一撃を与えて中国が降参しないのであれば、講和条件を引き下げて妥協するか、
戦略上の失敗を認めてて撤兵すればよいだけのこと。
それをせずにひたすら陸軍の権益を守ろうとし、頑なに自分たちの
失敗を認めようとしない硬直した考え方を陸軍が持ち続けたこと。
そして、現地部隊の命令違反の暴走を上層部が追認して延々と戦線を
拡大させて無駄な予算を使い続けるという統帥の失敗があったこと。
結果として前線での兵士の死を延々と無益に積み上げ続けることになり、
国民の命を無駄にどぶに捨てるという愚かな選択を続けたこと。
こうした「陸軍の頭の悪さ」こそが日米戦争に発展した原因だ。
対支一撃論それ自体は、満州事変の延長線上にある軍事思想であり、
失敗したならば責任者がキチンと責任を取ればそれで済む話。
失敗を認めず、責任を取らず、手前勝手な欲望を押し通そうという
陸軍省・参謀本部・出先部隊それぞれが抱えていた「我欲の強さ」こそが
日本を破滅へと追いやる日米戦争を招きよせた原因だよ。 >>323
中国一撃論の意味が分かっているのか?
この根幹は、
「中国で事変・事件を起こしたとしても、不拡大、現地解決すれば出世できた。」
この仕組みを作ったのは間違いなく統制派である。
このやり方で出世のために片っ端に一撃を始めてしまい、収拾がつかなくなる。
この統制派の中国一撃論が中国での陸軍の泥沼化を生み出し、対米戦争まで引きずる
ことは明白である。 >>324
>「中国で事変・事件を起こしたとしても、不拡大、現地解決すれば出世できた。」
根本的に間違ってますよ。
不拡大どころか、中央の不拡大方針に反して拡大すれば出世できるというのがこの時期の
陸軍に顕著に見られた傾向です。
そして、その構図を生み出したのは石原莞爾が主導した満州事変。
なんでもかんでも「統制派」とバカの一つ覚えのように言っても説得力がありませんよ。
上司や軍首脳の指示や命令に服さないことをいう「下剋上」こそが陸軍がはびこった病根であり、
その病根を植え付けたのは統制派ではない石原莞爾であり、それを繁茂させたのは荒木貞夫を
総帥に仰いでいた皇道派です。
皇道派が自滅して陸軍から姿を消した後は、皇道派に反感を持っていた人間しか陸軍には残らなかっただけです。
反皇道派を一括して「統制派」として把握するような粗雑な知識しか持っていない人間には
なかなかこの辺の理屈が理解できないので、相手にするのに難儀しますね。 >>324
>不拡大どころか、中央の不拡大方針に反して拡大すれば出世できるというのが
>この時期の陸軍に顕著に見られた傾向です。
>そして、その構図を生み出したのは石原莞爾が主導した満州事変。
意味がわからないが、当時の日本の陸軍は、中国で泥沼化することを歓迎したという
のか?
少なくとも、中国戦線の泥沼化は、東條も懸念したし、陛下も気になっていた。
また、石原は満州事変を起こしたが、ちゃんと解決したから満州国ができたんだが?
石原が正しいとは言わないが、解決したことは間違いない。
>なんでもかんでも「統制派」とバカの一つ覚えのように言っても説得力がありませんよ。
>上司や軍首脳の指示や命令に服さないことをいう「下剋上」こそが陸軍がはびこった病根であり、
>その病根を植え付けたのは統制派ではない石原莞爾であり、それを繁茂させたのは荒木貞夫を
>総帥に仰いでいた皇道派です。
これも理解できない。
永田と小畑はなんで決別したのか?
間違いなく、永田の”中国一撃論”と、小畑の”ソ連脅威論”じゃないのか?
いろいろあったが、最終的には東條の統制派が勝ち、永田の中国一撃論が陸軍内に
はびこり、その延長が日米戦争だろ。
あの時、小畑が勝ち、ソ連脅威に対応することに徹し、満州の経営に専念すれば、
日本が5大国の立場を堅持していた可能性が高いと思う。
>反皇道派を一括して「統制派」として把握するような粗雑な知識しか持っていない人間には
>なかなかこの辺の理屈が理解できないので、相手にするのに難儀しますね。
当時の陸軍において、皇道派はエリート集団であり、それ以外を統制派と呼んでいた。
その平凡集団を天才の永田が率いていたわけだ。 >当時の陸軍において、皇道派はエリート集団であり、それ以外を統制派と呼んでいた。
???
どう考えても、皇道派は非エリート層が地盤でしょ? 軍政畑の軍人がエリートというのが日本陸海軍の特徴だが、
皇道派に軍政畑はいない。
だから荒木貞夫が陸相になったとき、軍政が混乱した。 >>329
それは言えているね
あまりにも軍政能力がないものだから、永田も嫌になって、林にシフトチェンジしたのだろうね。 >>326
>>あの時、小畑が勝ち、ソ連脅威に対応することに徹し、満州の経営に専念すれば、
日本が5大国の立場を堅持していた可能性が高いと思う。
小畑が言った「予防戦争論」は、満州の経営に専念ではなく、ソ連が五ヵ年計画が終わる前に、先制攻撃をして叩くというものですよ。 >> 326
> 日本の陸軍は、中国で泥沼化することを歓迎したというのか?
陸軍中枢が泥沼化を歓迎するわけないでしょ。
現地軍が「泥沼化する危険を承知ででも、無謀な軍事行動を起こして
出世の糸口となる軍事的功績を挙げて得点を稼ぎたい」という欲望を
抱いていたというだけ。
> 中国戦線の泥沼化は、東條も懸念したし、陛下も気になっていた。
それでも現地軍は「予算をよこせ、作戦をやるぞ、兵士を補充しろ」と
延々と中央部に言い続けて、撤兵どころか戦線縮小・兵員の削減すら
受け入れようとしていなかっただろ。
そういう「現地軍を統制する力の喪失」こそが陸軍の宿痾だったってこと。
自分が手柄を立てて出世することしか頭にない視野の狭い軍事官僚が、
国家的見地からの思考や判断といったものを度外視して好き勝手な
振る舞いをすることとが容認され、上層部もそんな出先機関を叱責したり
左遷したりしない組織になってしまったことが、中国戦線の泥沼化を招いたのさ。
> 石原は満州事変を起こしたが、ちゃんと解決したから満州国ができたんだが?
たまたま偶然に上手く転んだってだけで、あの時点で日中間が全面戦争に
陥って、英米を敵に回して破滅する可能性だってあったんだが。
停戦協定が結ばれて満州事変が一応の解決を見たのは昭和8年。
その時点で石原はすでに関東軍から外されて、松岡洋石たちと共に
国際連盟の随員としてパリに行って、国際連盟からの脱退という
日本が破滅に向かう道へと歩みを進める現場にいたんだけど。
どこが「ちゃんと解決した」なんだか。 続き。
> 永田と小畑はなんで決別したのか?
> 間違いなく、永田の”中国一撃論”と、小畑の”ソ連脅威論”じゃないのか?
そこがそもそも間違い。
永田は満州国の保護育成を掲げてソ連や中国との関係改善を目指しており、
対して小畑は対ソ作戦一辺倒で、すぐにでもソ連に攻め込むことを考えて
いたというのが現実。
これは永田に批判的な川田稔ですらそう結論付けている。
> 最終的には東條の統制派が勝ち、永田の中国一撃論が陸軍内にはびこり、
ホントに粗雑極まりないお粗末な歴史認識ですね。
中国一撃論ってのはシナ事変勃発時点で「戦線を拡大するか、縮小するか」
という判断をする際に「拡大したほうが良い」とすることを選んだ
武藤章や田中新一らの考え方で、そもそも中国本土を軍事侵略することを
念頭に置いた考え方ではない。
「一撃したら中国は黙らせられる、その後にソ連に向かう」という意味で
対支一撃論といっていたのです。
なので、当然のことながら「一撃しても中国が黙らなかった」のならば、
兵を引いて自分の判断の過ちを認めなければならない。
それを、自分が責任を取らなきゃならなくなるのがいやだからってんで
突っ走り続けていったのがアホな現地軍の連中だったってだけ。
そもそも、中国全土を支配下に置こうなんて大それた戦略だの方針だのが
あってのことじゃなかったんだよ。
ただひたすら、「失敗した」という現実を見ようとせずに、責任から逃れようと
あがき続けてただけ。 > 当時の陸軍において、皇道派はエリート集団であり
陸軍の傍流に追いやられていた上原勇作の流れを汲む皇道派がエリート?
省部の中枢にほとんど付けずに地方周りをさせられていた荒木や真崎、
柳川平助や山岡重厚といった連中のどこがエリートなんでしょうか。
そもそも、彼らがエリートであり中央の要職を占めるに足る人材だと衆目が
一致していたなら、荒木が行った荒木人事に対して圧倒的多数の人間が
「不適材不適所、派閥の専横だ」として皇道派に反目したりしやしない。
ひいきの引き倒しってのはこういうことを言うんでしょうね。
北岡伸一や戸部良一、筒井清忠や川田稔の著書を少しでも読んだことがあれば
こんな頓珍漢な勘違いは起こしようがないんだけど、皇道派賛美の駄本しか
読んだことがないトンチキにはまっとうな歴史理解ってのが望み得ないことが
こう発言からも読み取れますね。 >皇道派賛美の駄本しか
>読んだことがないトンチキ
しかし日本の一般大衆レベルでは、統制派より皇道派の方が人気があるのも事実。
高倉健主演の東映映画『動乱』では完全に皇道派青年将校が善玉で、
永田鉄山をモデルにした役は悪玉。
トンチキと言ったって、大衆のほとんどがトンチキのヤンキーなんだから、しょうがない。 臨時軍事費を獲得できるしポストも増える。
戦時加算で昇進も早くなり、手柄を立てたり勲章に叙爵の可能性も。
自分と仲間内だけ甘い汁を吸って国を滅ぼす。
今に続く官僚悪の典型だよな、永田。 >>337
でも後輩の桂太郎が自分と同じ公爵になったら激しく嫉妬して、
桂を信頼していた明治天皇の死後、桂が帰国する前に内大臣に押し込めて
失脚させた元勲山縣。 >>336
自分と仲間内だけ甘い汁を吸っても山縣みたいに
しっかりと統制を取れる人物がいれば良かったけど
永田斬殺後は統制を取れる人物がいなくなってしまった
永田が生きていれば無秩序に廬溝橋事件から戦線が無秩序に拡大することもなかったろうね
「統制派」といいながら陸軍内部の統制が全く取れていなかったのが問題
陸軍内部の下克上が収まるのは皮肉にも永田の懐刀だった東條が
陸軍大臣になるまで待たねばならなくなった
永田が生きていて東條が陸軍のNO.2かNO.3になっていたら良かったのだが
永田と違って東條に周知のごとく大局観が全く無かったのが日本にとっての悲劇だった
キチガイの集まり・創価学会・公明党!
人殺しの殺人鬼が政治活動・創価学会・公明党!
池田大作・人殺しの殺人鬼・創価学会・公明党!
あやかりドチンピラの池田糞作・創価学会・公明党! 東條英機はなぜ軍の下克上体質を改善できたんでしょうか。
そこがカミソリたる所以でしょうか。 >>343
以前書き込んだ、>>174を再掲します。
東條のことを評した言葉に、「実務的に遅滞をせずに次々に決断して
物事を処理する人間だ」というものがありました。
他の人間であれば、いくつかの選択肢があった時に「これはもうちょっと
あれこれ考えてから決めよう」と思うような事柄があっても、東条の場合は
即決してしまおうとするところがあった、というようなものがあります。
よく「メモ魔」としての彼の姿を「頭が悪いからだ」という一面だけを
もって見る人がいますが、逆に言うと「それだけ勉強熱心だ」という
側面でもあるわけです。
西浦進が回想を残していますが、陸士・陸大で勉強することを強いられる
「学生」の立場でいるときには優秀な人間が、ある程度のところまで来ると
途端に勉強をしなくなってしまうという傾向にあったそうです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
上級者−といっても課長、局長級以上、時として高級課員だが−仕事を
知らないことは当時私のびっくりしたことだった。幸い永田、山下両課長の
如きはそんなロボットではなかったが、局長会議等で会々その末席に列って
いると、全く寒心すべきことが多かった。どうしてもっと勉強しないのだろう
かと思った。人事に不適当もあったろうが確かに不勉強だった。
東条大臣などはこの点からすれば確かに異色だった。高級課員級に至っては
仕事の実際を知らずに観念論をやるのが多いのも困ったものである。こういう
人達が一般論できめるものだから、班長以下のする仕事は高級課員以上の
仕事と遊離してしまうことが多かった。宛も政務官の如き遊離した存在だった。
この点は東条大臣時代に至って漸く正道に帰った感があった。私が高級課員
時代にはこの弊の除去に特に努力したつもりであった。
陸軍の下剋上の風が盛んだったのには、上級者が実際の仕事から浮いていた
ことも一つの理由である。上級者の業務に対する不勉強は確かに下僚を
増長せしむる素因であつた。
西浦進『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(p77)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
この「勉強しない」ということについては海軍の方でもあった話のようで、
今刊行されている『証言録-海軍反省会』の1巻でもこんなことが書かれてます。
「成績のたいしたことない二、三番のものが何か言うとね、もうえらいことになる。
だから席次の上のやつは安心して勉強しない。下のやつは諦めちゃって努力しない。
だから総合的に士官はだめなんだ。だから、アメリカで日本海軍の士官の評判
悪いって話を、どなたかがしましたがね。あれは悪いはずなんだ」(p314)
この辺、事情は陸軍の方でも通用するんでしょうね。
陸大を出て省部の中央に配置されるような境遇になれば、あとはどんなに勉強を
しなくったって大佐ぐらいまでにはなれるという安心感があって、ろくすっぽ
勉強をしなくなるってことなんでしょう。
なにしろ、進級試験なんてものがないわけだから。
そういう人間の中においてみれば、とにかく努力して勉強をし続ける東条のような
人間は下からも上からも一定の評価を得られたのでしょう。 ついでに>>183の書き込みも再掲。
「ある人材はその組織内で昇進できる限界点に達する。
人は昇進を続けてやがて無能になるが、必ずしも高い地位がより難しい仕事であるという意味ではない。
単純に、以前優秀であった仕事と仕事内容が異なるだけである。
要求される技術をその人材が持ちあわせていないだけである。」
つまり、軍事課の中で予算班で評価されて高級課員や課長になった人間がいたとして、
その人間が編成班や外交班といった他の班の仕事内容まで熟知しているとは限らないし、
内容をある程度でも知っていなければ部下となったそれらの人々に的確な指示をだせない
ってことになります。
また、軍事課長として評価されて軍務局長になった人であっても今度は防備課や馬政課などの
他課の仕事内容まで知っているわけではないので・・・、という具合。
もともと陸軍の人事ってのは上記のような事態を避けるために、優秀な人間に複数の班で
仕事をさせて、ある程度「大丈夫そうだ」という目途がついた人間しか課長にはしなかったし、
課長になったならば他の課の課長もやらせてみて、そこでも「問題なさそうだ」となった
人間しか軍務局長にはつけないという形で「軍政のスペシャリスト」を選抜しながら
育成していっていました。
いろんな仕事の内容を把握すべく勉強して知識を身に着けた人間しか課長や局長といった
職には付けない、というキャリアパスが不文律のようにして存在していました。
それが荒木人事や2・26事件後の粛軍人事などによって、そうしたキャリアパスが
ひっくり返されてしまい、それまでのキャリアを無視して人事異動が行われてゆき、
陸軍省内の実務知識を下から積み上げる形で身に着けた人間が局長や課長などの層から
居なくなってしまったということだと思います。
西浦が上記の「局長や課長クラスでも不勉強が多かった」という回想を残すのは、
西浦が陸軍省に着任したのが昭和6年10月という満州事変の直後だったこともあって
翌年から始まる荒木人事以降のキャリアパスの混乱を間近でみたからって側面も
有るのかもしれません。 >>341
陸軍パンフレットのようなものを出す煽動家・永田がまともなものか。
陸軍のメンツを保ちたいだけの連中の東條sage・永田ageも聞き飽きたわw >>346
東條sageではないな
それどころか東條は軍事官僚としては非常に優秀だった
二・二六事件のときも満洲をしっかり混乱なくまとめていたし
上で書かれていたように陸軍大臣として陸軍内部の下克上を収束させた手腕は素晴らしいものがあった
ただ政治家としては致命的に向いてなかったのが日本の悲劇だが
軍人である東條に政治的な手腕を求めるのは本来は酷かもしれない
その点で永田や石原莞爾のような陸軍の軍人が政治に大幅に関与したのは
日本にとって大きな禍根になったので、確かに永田は擁護できないのは同意見ではあるね
もっと近衛や広田などの政治家がしっかりと腹をくくって行動すべきではあった
(たぶん殺されるだろうけど) あと面子を守りたいというのはどこの組織も同じではあるな
海軍もそうだし外務省もそうだろう
内務省だってそうだ
現在の官庁も基本的にはそういうところは全く変わってない
組織にまともに属したことのない人間には分からないかもしれないけどねw >>347
よく言われる「東條英機が下克上を収束させた」ってのはどういう意味なんでしょう?
東條が陸相になってから、226みたいのが起きなかったってことですか? >>349
>>344さんが引用した西浦進『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』を
読めば分かるけど東條が陸軍内の仕事に精通していたから、下の人間が逆らえなくなった
というのが大きいと思う
たとえば下の人間がうまく東條を利用しようとして自分たちに都合のいい政策案を持ってきても
東條は関係法令を全部暗記してたような人だから「ここはちがうのではないか?」と言い返して
却下することも可能だ
下手をすると利用する気がなくても「ここが法令集にあるのと違うのではないか?」と
重箱の隅をつつくようなことを言われる恐れすらある
恐れ、というかたぶんその官僚的性格からしてそうしただろう
(ちなみに現在の公務員にもそういうジジイはたくさんいる)
これは怖い
というか議論で相手を言いくるめるという陸軍伝統のやり方が通じないのだ
下克上どころではあるまい >議論で相手を言いくるめるという陸軍伝統のやり方
これは今では自衛隊全体がそうなんだそうだ。
防大の教育が、アメリカのディベートを重視するやり方を採り入れたので、
防大生が、みんな、そういう風になってしまったそうだ。 >>349
正攻法の事務力の他、人事を専横し、憲兵政治で下克上を許さなかったから。
基本的には永田が推進した皇道派の下克上と同じだが、更に上手だった。
傀儡を立てれば全体を上手く回しつつ自己主張だけを通すことができると思っている永田流の考えでは成り立たないのが答えだった。
整合性をとるには陸軍だけでなく全体を統制しないとダメだよね。永田の視点は低すぎ。 >>352
>永田が推進した皇道派の下克上と同じだが
永田は皇道派では無いしそれどころか皇道派に憎まれて
斬殺されたのではないの? >>353
永田は元々は皇道派だったのが、荒木陸相の無能ぶりに嫌気がさして皇道派を離れたんだよ。
だから永田は、初期皇道派の中心人物の一人だった。 >>354
永田を皇道派というのは少し無理があるような
荒木を利用しようとしたのは確かだけども
そもそもその頃に皇道派というものが既にあったのかどうかも疑問 >>355
しかし佐々木隆が陸軍の派閥研究をしていた頃、永田を初期皇道派に分類しているよ。 少なくとも当初は皇道派推しで散々利用して宇垣閥を追いやっている。
小畑とかも永田とは元々の仲間だし。出世した途端に仲間割れ。
利用した後に捨てようとした皇道派に殺されたのも因果応報だな。 官僚組織は地位が上昇すると、次に行くポストがどんどん減っていくから、
仲間割れを起こしやすいのだろうね。
永田と小畑は、「両雄並び立たず」的なものを感じる。
むしろ荒木−真崎のように、最後まで仲間割れしなかった方が珍しいような… >>358
ドサ回りばかりやらされた岡村タン、カワイソス >>359
ドサ回りばかりだったから陸軍に残れたという側面もあった訳で。 >>358
岡村寧次いわく
永田と小畑を同じ部署に、絶対に置かないでくれと荒木に言ったのに
荒木はなぜかそれをしてしまう 結局、永田のやったのは新世代官僚による猟官運動。
しかし、内外を調整する能力がなかったから空中分解と仲間割れ。
どちらにしろ見込みのない運動だった。
民主主義が未熟な時代は元老や宇垣閥あたりに任しておいた方が失敗はなかったろう。
既に日露戦争辺りから下僚が開戦工作に走って強行していたからな。 >>347
2.26で満州国を平穏に収めたなど、無理矢理な評価だな。
永田ageが陸軍擁護のレトリックだと言われて粗雑に東條ageしなくていいぞ。
陸軍パンフレットのような物を出す永田が政治家なんぞ務まる訳無いだろ。
東條がどうのこうのいうより陸軍パンフレットに見られる陸軍の政治介入が元凶だろ。
統帥権という欠陥を露呈しているのに廣田だの近衛だのに責任転嫁するなど選民気取りのバカ
を擁護する連中の歴史への無知は甚だしいわ。
>>348
旧陸軍はとっくに滅びましたよ、おじいちゃん。ボケた人間の気持ちなどわからんわw 東條英機は、226に対する満州での対応が評価され、関東軍参謀長、陸軍次官と出世を重ねたっていう認識ですが、あってますか? 関東軍参謀長時代に里見甫とつるんで、阿片利権を握って政界工作に使うようになったからじゃね?
同じ時期にいた岸信介もそう。二人の政治資金は里見が出していた。 >>352
>永田が推進した皇道派の下克上
無知もいいとこ。
永田が荒木を陸相に押した時点では、「皇道派」などは存在していない。
あくまで、陸相となった荒木が人事を専横して自派を要職につけ始めたことで
「皇道派」が現出したのだということが理解できていない。
「永田は、前にも述べたように南軍政の重要な一角を担っており、荒木支持が
明確であったのは、せいぜい満州事変の勃発ないし十月事件の発覚のころから、
一九三二(昭和七)年 二月末の第一期皇道派人事までの五ヶ月であったといってよい。」
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(p191)
>整合性をとるには陸軍だけでなく全体を統制しないとダメだよね。
>永田の視点は低すぎ。
永田が国家全体としてのバランスを考えて大蔵省や外務省や内務省の官僚たちと
協調姿勢を取って国内の改革を進めていこうとしていたことが理解できていないのか。
こりゃ処置なしだわ。 >>354 : 名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/05(月) 15:19:13.92 ID:iWRdgFrw0
>永田は元々は皇道派だったのが、荒木陸相の無能ぶりに嫌気がさして
皇道派ってのは単に荒木の取り巻き連中である佐賀閥・土佐閥の
連合体だよ。
満州事変後の永田は、単に動揺する陸軍の立て直しには能吏として
事務処理が得意な人間ではなく、親分肌で人をまとめる力を持った
人間でないとどうにもならないとして荒木を推しただけ。
だから、荒木が自派を重用する荒木人事を見て荒木を支持しなくなった。
>>356 : 名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/05(月) 18:36:47.65 ID:iWRdgFrw0
>佐々木隆が陸軍の派閥研究をしていた頃、永田を初期皇道派に分類しているよ。
その後の研究の深化によって否定された見解がどうかしたの?
>>358 : 名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/05(月) 20:41:35.51 ID:iWRdgFrw0
>荒木−真崎のように、最後まで仲間割れしなかった方が珍しいような…
宇垣の後継者だった南次郎がこういう内容のメモを残している。
「中堅軍官僚の多数は南に近いが、彼らは陸軍の内情が多少変化しても
その地位を脅かされるわけではなく、結束力に乏しい。
これに対し皇道派の運命は荒木・真崎の運命に直結しており、結束して
彼等を盛り立てようとしている。
それゆえに多数派・主流派は容易に皇道派を圧倒できない、というのである。
これは一九三三(昭和八)年春から秋にかけての南系と荒木系との対立・均衡の
構造を、鋭く見抜いたものであった。」
北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』(p199-200)
皇道派が結束して居たのは、自分たち個々人は無能だから、派閥を離れたら
すぐに今の地位から追われるのを自覚していたから。
そして、彼らに反対する人間たちがあまり結束して事にあたらないのは、
自分たちは有能で、別に派閥なんぞに頼らなくとも出世できるという
自信があったからってこと。 >357
>少なくとも当初は皇道派推しで散々利用して宇垣閥を追いやっている。
宇垣閥を追いやったのは荒木らの皇道派で、永田はそれには関与していない
どころか、それに反発して荒木から離れたんだが。
北岡伸一の「陸軍派閥対立(一九三一―三五)の再検討」ぐらい読みなさいよ。
この時期の陸軍内の暗闘について語るなら、最低限その程度の知識は必要だろ。 >362
>永田のやったのは新世代官僚による猟官運動。
猟官運動?
それは皇道派の専売特許だろ。 >>363
>陸軍パンフレットのような物を出す永田が政治家なんぞ務まる訳無いだろ。
>東條がどうのこうのいうより陸軍パンフレットに見られる陸軍の政治介入が元凶だろ。
陸軍パンフレットこそが政治家としての永田の真骨頂だよ。
現に、その当時既成政党に変わって勃興しつつあった社会大衆党の麻生久らが
このパンフレットの内容を高く評価している。
そして麻生らを中心とした社会大衆党と、その政策内容に共振した内務省や
農林省・逓信省といった省庁の官僚たち、いわゆる「新官僚」たちが結集して
のちに近衛文麿を担ぎ上げて「近衛新体制」という国内の全政治勢力を糾合する
新たな政治組織を作り上げる母体となっていった。
戦前の政治史をちょっと理解していれば、「陸軍パンフレット」がいかにこうした
流れに大きく寄与したのかぐらいは理解できそうなものだが。 >>364
>東條英機は、226に対する満州での対応が評価され、
満州での対応というよりも、事件勃発に際していち早く「断固討伐」という
意志を露わにしたのが評価の理由だと思いますよ。
最初のうち、反乱を起こした青年将校たちは「反乱軍」とも呼ばれずに「蹶起部隊」とか
呼ばれていて、陸軍の上層部にはその行動を容認する空気すらあったから、場合によっては
ここから一気に皇道派が巻き返して統制派を軒並み拘束したり殺害したりするような事が起こり、
クーデターが成功する可能性も考えられる状態でした。
そうした時点で、満州に居た皇道派軍人や支那浪人たちを拘束するというのは
かなり明確で強烈な意思表示となります。
また、このあとの粛軍人事で皇道派にちょっとでも近しい態度を取っていたと判断された人間は
軒並み左遷されるか予備役に編入されるかしたので、その意味でも事件前は軍内での序列が
かなり下だった東條が一気に浮上するきっかけとなったことも確かです。
>関東軍参謀長、陸軍次官と出世を重ねたっていう認識
関東軍の参謀長になったのはこの時の皇道派退治がきっかけだったとは言えますね。
この事件を機に、前任の参謀長だった板垣征四郎が東條に目をかけるようになった
と言われていて、自分の後任に東條を持ってきたのは板垣だったともいわれます。
また、陸軍次官となったのも、板垣が近衛内閣の陸軍大臣として中央に呼ばれる際に、
「自分は陸軍省の実務に詳しくないので、実務に堪能な東條を次官に欲しい」として
関東軍から呼び寄せて東條次官が誕生しました。
この経緯は筒井清忠の『昭和十年代の陸軍と政治』の中で詳しく説明されています。 >>365
>里見甫とつるんで、阿片利権を握って政界工作に使うようになったからじゃね?
政界工作に阿片で得た金をばらまくようになったのは、陸軍次官から陸軍大臣と
なって以降のことでしょう。陸軍としての意見を通すために、議会対策として
政治家に金を掴ませることはあったでしょうが、カネがあったから陸軍次官に
なれたというのは違うと思いますよ。
陸軍内部での昇進には、カネをいくらばら撒こうとも難しいし、本人の性格から
しても金の力で出世しようというタイプではなかったでしょうから。 東条の時代に陸軍で下克上がなくなったというのは、東条が戦時期であることを利用して、
自分のライバル(山下、阿南など)、子分でない奴を片っ端から外地勤務にして、
省部を自分の子分、イエスマンで固めたせいもあるんじゃない?
「東条幕府」と言われたのも、そのせいでは? >>367
こと旧日本陸軍において「出世する=有能である」ってのは違うだろ
むしろ出世コースから外れた人たちの方が有能だった 板垣が東條を次官に呼んだって本もあるし、軍内強硬論の代弁者として杉山陸相と梅津次官が呼び寄せたという話もある。 >>374
同感です
大臣、参謀総長、司令官は、陸大での順位も低いですし
陸大の時の東条の順位は11番なので(主席は今村均) >>374
永田グループの専横と内紛で人事が乱れたからね。
宇垣あまりのバランスでやっていればよかった。 >>375
ただ東条内閣崩壊の際、東条の陸相留任をやめさせて予備役に追い込んだのは
梅津参謀総長だとする本もある。
>>377
しかし永田も晩年は宇垣を高く評価するようになっていたとも言われるよ。 >>378
永田の出世の邪魔にならなければ評価を上げてもOKだから。
目の上のタンコブなら、じったいのない藩閥とかデッチ上げてでも宇垣を排除したから。 宇垣の凋落には、畑英太郎ら後継者にするつもりだった人間が早死にしたこともあるんじゃない?
宇垣本人が『宇垣日記』で嘆いていた記憶がある。 畑英太郎ってすごいキャリアだよね。弟俊六元帥もだが、すごい兄弟だ。 いったい、誰が支那一激論を提唱したのか?
それが無ければ日本がアメリカと戦争する可能性が相当下がったハズ。
統制派じゃないのか? そもそも満州事変を石原莞爾が起こさなければ
支那一撃論とかいうものもでなかったのにね
戦前でも現在でも石原と言う名の軍人や政治家はロクなことをしない >>382
皇道派の荒木に言わせると、永田が支那一撃論を言いだしたと日記に書いているようですが。
(敵対する皇道派側の資料なので、客観性に欠けているので、信用できないです)
今の豊洲市場の盛り土問題じゃないですが>>いったい誰が支那一激論を提唱したのか?>>
武藤章がおそらく、永田が起草したことを拡大解釈したのではないですかね。
武藤は永田が参謀本部第二部長時代に、中国大陸の資源など調査していたようですから。 >>383
石原が満州事変を起こさなくても、誰かが起こしたでしょうね。(何らかの形で事変を起こすということが前提で、一夕会全員が一致していたでしょうから)
ただ、あまりにタイミングが悪いのと、独断専行が尾を引いてしまう。 畑英太郎暗殺説ってのは当時わりと信憑性あったのかもな。今となっては検証しようもないが >>382
一撃論以前の話で、永田の支那資源占有論(しかも戦争容認)がワシントン体制を破壊して外交が成り立たなくなったのが破滅への道のりだったから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています