月刊正論2016年7月号
共産主義と日米戦争―ソ連と尾崎がやったこと
京都大学名誉教授 中西輝政
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劉少奇をトップとしたこの「極東コミンフォルム」の存在、あるいは、1949年10月の共産中国建国直前に中ソが取り決めたとされる
「アジアにおける共産革命は中国が受け持つ」という“役割分担”、同年11月に北京で開かれた世界労連で劉少奇がぶち上げた
「アジアの植民地・反植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない」という、いわゆる
「劉少奇テーゼ」は、戦後冷戦初期の安全保障問題を考える重要テーマだが、その全容はいまだ明らかにされていない。
          (中略)
 ひとことで言えば、当時の日本は「革命前夜」だった、ということだ。「防共」を重要国策として掲げていた当時の日本が、共産主義
の脅威との戦いにも敗れる寸前だったということである。
 しかも、その革命勢力の中で最も危険なのが「軍部内の一味」だと近衛は指摘している。
          (中略)
 しかし、考えてみれば、この上奏文は、近衛文麿という三度も日本国の首相になった重要人物が、天皇への上奏文という最高の
形式を踏まえてものにしたものである。
          (中略)
 上奏文の作成者は近衛一人ではない、ということも忘れてはならない。上奏文には、近衛をリーダーに、戦後日本を指導すること
になる吉田茂ら早期和平工作を進めていた欧米派、開明派の人々、いわゆる「ヨハンセングループ」が関わっていて、しかもその
実質的な起草者も吉田茂その人であったと思われるのである。
          (中略)
 『国防の本義』パンフレットは、軍務局軍事課長で政策班長だった陸軍少佐、池田純久らが中心となって作成したとされている。
          (中略)
 こうした経歴から、池田は、陸軍統制派の理論的支柱と目された。皇道派とならぶ陸軍の派閥だった統制派は、国家総動員体制を
推進し、対外的には中国(国民党政府)に強硬姿勢で臨む一方、ソ連とは友好関係を維持して英米のアジア侵略に対抗する、という
基本的な志向が支配的であった。(中略)一方、皇道派はソ連と共産主義勢力を最も警戒し、それゆえに中国の蒋介石政権や
米国との友好関係を重視していた。
 この池田こそ、近衛上奏文のいう「此の一味の中心的人物」であったとみられていた、とされる。
          (中略)
 ・・・近衛上奏文が、おそらく池田純久(「一味の中心人物」として)ではないかと見られてきた人物が公言していたとされる
「(支那)事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」との思想は、軍部以外の人物にも共有されていたことである。
《続く》