歴史通:2017年1月号
総力特集A「歴史の常識」はウソだらけ
近衛文麿は「日本のマッカーシー」?
■新谷 卓
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 しかも、近衛一人だけがこのような考えを持っていたわけではなく、この説を信じていた者が当時少なからず存在したという事実も
無視できない。例えば、2・26事件以降予備役となっていた皇道派の陸軍大将真崎甚三郎、弟の海軍少将真崎勝次の兄弟は、
日本の中枢には共産主義の魔の手が伸びていて共産主義革命を導こうとしているという認識を持ち、2・26事件ですら「アカ」の罠
だということを信じていた。真崎の釈放後、真崎の復活を期待して真崎邸には多くの人々が訪れていたが、例えば、岩淵辰雄、
予備役陸軍中将小畑敏四郎、田中義一内閣の総理秘書官であり台湾総督府殖産局長だった殖田俊吉などがこうした認識を
共有していた。さらに彼らの周辺にいた元外務次官で、戦後首相になった吉田茂もまた戦中、そして戦後も一貫してこの見方を
自分のものとしていた。いってみれば、それは支配階層の一部の人々のディスクール(言説)だったともいえる。
 さて近衛らがそのように考えるようにいたったのはなぜか。それなりの理由や背景があるはずである。まず殖田俊吉がこのグループに
及ぼした影響を見ておきたい。殖田は、独自の情報ルートから共産主義者の陰謀を真崎甚三郎に伝えた。さらにその情報は
小畑敏四郎、岩淵辰雄らを通じて近衛の耳にも入っていた。
 さらに、小畑の仲介によって殖田は直接近衛と会談の機会を持っている。殖田によれば、そのとき近衛は殖田の話に驚き
「あなたのお話は思い当たる事ばかりです。何故私にもっと早く話をしてくれなかったか」と驚きを隠さなかったという。
 ただし、殖田がもたらした秘密の情報のほとんどが、石原莞爾の下で宮崎正義が「日満財政経済研究会」で作成したものを
基にしたものであり、確かに彼らの作った案は、ソ連のやり方を模倣したものであったが、決して共産主義の実現を目的とするもの
ではなかった。
 近衛の下には、殖田経由以外でも共産主義に対する情報が寄せられている。外務省から入手した情報は、近衛が上奏文を
作成するにあたって参考にしていたと考えられる。・・・(略)・・・
          (中略)
《続く》