ここで本書の著者平山に視点を戻すと、平山が安川との対立的な構図のなかに置かれるようになったのは、
平山による文春新書『福沢諭吉の真実』(参照)がきっかけになっている。同書は2004年の出版当時話題になったので既読の人も多いだろう。
本書は一見すると福沢諭吉全集の編集問題を扱った、いわば文献学の地味な種類の書籍ように見えるが、その全集を批判的に見直すと、
福沢諭吉の作品とされてきた文書が必ずしも福沢本人に帰属しないことが示唆されていた。そしてここからが「福沢諭吉問題」との関連になるが、
概ねではあるが、安川が批判したような右翼的な福沢像の論拠となる文書がどうやら福沢本人のものではない可能性が出てきた。

 問題はここから錯綜し始める。福沢諭吉全集に含まれている右翼的な福沢像がすべて福沢諭吉本人のものでないなら話は単純である。
だが、そこの切り分けはそう簡単にはいかない。そしてその切り分けの難しい地点に「脱亜論」が存在する。研究者によっては、
この脱亜論は福沢自身によるものではないとする見解があったが、本書で指摘されているように、
現在では「脱亜論」は福沢本人の執筆であると見てよい。すると、やはり安川の論点は基礎を持つといえるだろうか。


 この議論については先の新書の第五章「何が『脱亜論』を有名にしたのか」で言及されているが、
本書第三章「福沢諭吉の『脱亜論』と<アジア蔑視>観」は同じ基調でありながら原典を参照した補論となっている。
この議論を今回も読み返した私の印象では、平山の考えが整合的であると思われるし、
安川の議論はイデオロギーが突出しすぎて文献学的な基礎が弱いように思われる。ただし、福沢諭吉のこの面での思想評価は存外に難しいだろうとも思う。

 本書の構成に戻る。本書は書名から予想されるように、安川の福沢像の反駁論の基軸を持ちながらも、
実際には、まとまった書籍というより、平山の、いくつかの多面的な福沢論考集を合本にしたものであり(そのため章はキンドル用電子書籍としても販売されている)、
第一章の福沢諭吉の祖先探索などは、こういう言うとなんだが、今日的な意味合いはほとんどないだろう。また第五章の大西祝との対比も、挿話的な印象を受ける。

 さて、本書の今日的な話題、福沢諭吉問題とも言えるものは、丸山眞男との関連もありイデオロギー的に興味深いとも言えるが、
一歴史愛好家の私としては、本書第二章「『西洋事情』の衝撃と日本人」がより興味深いものだった。驚いたと言っていい。近代日本観が変わった。
雑駁に一言で言っていいものかためらうが、私の印象では、明治維新政府というか近代日本のグランドデザインを決定したのは、
福沢諭吉の『西洋事情』であったのかという驚愕である。
従来私は、『西洋事情』という書籍は当時の西洋に関心をもつ日本人に西洋の基本情報を与えた情報書くらいにしか理解していなかった。
が、本章を読み進めると、そんな参照レベルではないようすが察せられる。莫大な影響力がありそうだ。ただし、歴史学的に見るなら、この部分の考察はまだかなり粗い。

 それにしても、これから一万円札を見るたびに、その金銭的な価値だけではなく、「おお、福沢先生!」と敬意を表したくなる気持ちに駆られるだろう。