(1)福沢諭吉

 福沢諭吉は、日本では最高額紙幣の顔となるほどの著名人である。慶應義塾大学の創始者であり、幕末・明治初頭に三度洋行して、『西洋事情』『学問のすすめ』等のベストセラーを書き、
また「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、『すすめ』冒頭言葉で知られている。

 けれども、『すすめ』冒頭には確かに「天は人の上に造らず…」と書いてある、だが福澤はこれを、「・・・と云えり」と単なる伝聞として記し、後に続く文に先立つ譲歩節として置いただけである。

 天皇制についても、福沢諭吉は、明治8年(875年)の『文明論乃概略』までは、「我が国の人民は数百年の間天子の存在を知らず、ただ、伝説のように言い伝えてきただけである」
「鎌倉時代に入り人民が皇室を知らなかったことは七百年に近い」

「国君といっても同じ人類である。偶然の生まれで君主の位にいる者か、または、一時の戦争に勝って政府の上にいる者にほかならない。どうしてこのような輩の命令にしたがって
、我が一身の徳義品行を改めるものがあるだろうか」

「政治と天皇を尊び祭り上げることを、一つのものとする考えで世間を支配することとなったら、日本の未来はない」などと言っている。

 ところが、福沢諭吉は明治15年(1882年)の『帝室論』、明治21年(1888年)の『尊王論』では、突然、「我が帝室は日本人民の精神を収攬する(集める)中心である」
「我が大日本国の帝室の尊厳神聖の得は高い。我々臣民としては帝室を尊ばなければならないことは万民の知るところである」などと、それまでとは正反対に、天皇を祭り上げることを言い始める。

 どうして、突然それまでとは違うことを言いだすのでしょうか。福沢諭吉は、実利を重んじる人間であって、実利を得るためには言うことを平気で変えてしまう。福沢諭吉は、
日本を欧米諸国と同じ国民国家としての形を作るためには、天皇を中心に据えることが役に立つと考えて、天皇崇拝を推し進めたのである。

『帝室論』には、

@ 我が国の皇統は外国に比べるものがないほど長い。これを活用すれば場合によっては大きな効能があるだろう。

 A 国體論は行政の順序を維持するためには大いに便利である。

 B 君臣の儀、上下の名分、は文明の方便である。

と書かれている。

 天皇を利用したのは明治維新を成し遂げた薩長土肥と公家たちも同じで、15歳の少年である天皇を「玉(ぎょく)」として担ぎ上げ、天皇の権威を利用した。
その天皇にそれまでの代々の天皇がもっていたものとは全く別の権威を与え、自分たちはその権威を利用することにした。我々が天皇を崇めるのだから、
人民も天皇を崇めろ。そして、そこでひっくり返して、その天皇に地位を与えられた我々は偉いのだ。として自分たちに権威を与えるのである。

 彼らは、1889年に明治憲法(大日本帝国憲法)を発布し、天皇に国の主権を与えた。

 天皇に形の上で主権を与えておいてその天皇を操って自分たちが実質的な権力を行使するという彼らにとっては大変便利な憲法である。

 明治政府はそれだけでは足りず、翌1890年に「教育勅語」(「教育に関する勅語」)を発布した。

「明治憲法」は政治的に日本人を縛るものであった。しかし、「教育勅語」は日本人の心まで縛るものとなった。

「教育勅語」の肝は

 @ 天皇には忠義、父母には孝行を尽くせ。「忠」「孝」は日本の国体(天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方)の精髄である。

 A いったん戦争となったら国に身を捧げ、天地と共に永遠に続く皇室を助けるべし。の二つである。

 明治憲法にも、第3条に、「天皇は神聖にして侵すべからず」と書かれているので、それだけでも日本人の心を束縛するものであるが、この「教育勅語」こそ、
「国家神道」と相まって日本人を天皇に心の底まで縛り付けるものとなった。

 明治政府は新政府樹立後すぐに「国家神道」の政策に取り掛かる。明治4年に「神社が国家の宗祀(祖先を尊び祀ること)である」と宣言し、官幣社などの神社制度,
神官職などの神官制度を定めて、日本中の神社を政府の統率のもとに置く。

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 明治政府が成立する以前の本当の神道とは、「祭天の古俗」であった。