福沢諭吉における「足尾銅山鉱毒事件」・「軍備増強」

安川寿之輔・雁屋哲・杉田聡『さようなら!福沢諭吉
―日本の「近代」と「戦後民主主義」の問い直し』(花伝社、2016年)より抜粋

〈足尾銅山鉱毒事件〉...

日本の進路をめぐる分岐点の年として注目される1900(明治33)年、
国内では足尾銅山鉱毒事件で最大弾圧の「川俣事件」がひき起こされ、
田中正造が帝国議会で「民を殺すは国家を殺すなり」の有名な「亡国演説」を行なった。
対する明治政府は、中国反帝国主義闘争の「義和団」鎮圧のために八カ国連合軍の出兵で、
「極東の憲兵」として最多二万二千の日本軍兵士を派遣した。

 この事態に対して福沢は、内務大臣の足尾鉱毒地視察反対の社説を書き、
被害農民の大衆的請願行動を「政府が断然職権を以て処分し一豪も仮借する」な、
と厳しい弾圧を要求した。

(中略)

義和団鎮圧の「北清事変」への最多出兵を、「世界に対し日本国の重きを成したるもの」と、
日本の帝国主義列強への仲間入りを喜びながら、福沢は翌年2月に死去した。
由井正臣『田中正造』(岩波新書)が指摘するように、
「鉱毒被害民をはじめ資本主義発展のもとに苦吟する民衆を踏み台に、
この時点で日本は帝国主義にむかって大きくカーブをきった」。(38頁)

〈軍備増強〉

 福沢の生涯を通じての悲願は「国権拡張」であり、そのためには軍備増強が不可欠である。
日本は日清戦争の戦勝で当時の国家予算の4〜5倍にも達する償金をえたが、
福沢はその大部分を軍艦製造に用いよ、と記す(「軍艦製造の目的」岩波全集15巻、235頁)。
すべてを費やせと記すこともある(「軍備縮小説につきて」15巻、614頁)。

その姿勢はその後も変わらず、「目下の急は、一切他を顧みず国力の許す限り軍備を充実せしめて、
他に対するの力を備うるこそ肝要」と、福沢はくり返し記していた(「海軍拡張の外あるべからず」16巻、221頁)。
この引用は、一般国民に対し納税(特に酒税)を求めたものである。
軍備増強のために国民から酒税をとれという要求は、何十回とくり返された福沢の基本的な主張である。(93頁)