西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男©2ch.net
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以下、テンプレ
Q :西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。
それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、
それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」
重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) もう一人、西郷をよく知る人物の西郷評を紹介します。
市来四郎。西郷とともに島津斉彬の片腕として働き、集成館事業を遂行した人です。
「 西郷は掛け軸などの書をよく描くだけで、学識は無く、文章をつくる能力も無かった。
性質は粗暴で理財にうとく、実務も執れなかった。
いつも少年とばかり付き合い、同年代の人との付き合いは二、三人しかいなかった。
西郷に異論を言う者とは付き合わず、可愛がっていた少年でも、
ひとたび西郷に敵視されると、憎悪を剥き出しに悪口を言われ、捨てられる者も多かった。
器量の大きい人とは言えず、相手が他県人か同県人かで、態度や言動が変わった。
議論をすることはなく、物事を進めるに腕力に頼る癖があり、
そういう意味で豪傑と言えなくもないが、君主の風采はまるで無かった。」 ■ 西郷隆盛 その伝説と史実 ■
伝説 : 比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ敬愛した
史実 : 実際に会った人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている
伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり射殺された
伝説 : 清貧、高潔、質素な食事
史実 : 政府からの給料が現在価値で月2千万円 年収2億4千万円
豚の霜降り肉の食べ過ぎで超肥満に
伝説 : 自宅は雨漏りするボロ屋
史実 : 千百坪の超大豪邸に暮らす。使用人20人、飼い犬20匹
伝説 : 「子孫の為に美田を買わず」西郷家家訓
史実 : 西郷一族で東京ドーム117個分の土地を買い占め
伝説 : 「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」坂本龍馬による西郷評
史実 : 勝海舟による創作
伝説 : 幕府から指名手配された親友月照を不憫に思い心中を試みる
史実 : 藩命により、死ぬ気など無かった月照を海に突き落として殺害
伝説 : 江戸総攻撃を中止させ江戸百万人を救う
史実 : そもそも総攻撃を主張していたのが西郷本人だった
総攻撃に反対する英国大使パークスの圧力により断念
伝説 : 道義を貫きとおした巨星
史実 : 浪士を雇い、江戸で放火、掠奪、強姦、卑劣の限りを尽くし幕府を挑発 伝説 : 大久保利通とは幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無し
親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから
伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 西郷さんは「征韓論」ではなく「遣韓論」。西郷さんはあくまで隣国に礼儀を尽くそうとしていただけ
史実 : 西郷が板垣退助に韓半島出兵の算段を相談している
部下の有馬藤太には韓半島制圧後の統治プランを指示している
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人による創作
伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの?
A :
大河で西郷が好意的に描かれている、
逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けている
のは右翼団体や鹿児島人やが抗議してくるからだそうです。
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、
西郷ネタ、薩摩ネタに対する右翼団体と鹿児島人の抗議が一番多いらしい。
史実と違う、という抗議ならよいのですが、
史実通りネガティブな場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が
執拗にくるらしいです。
反対に幕府方からの抗議はあまり無いらしい。
徳川子孫の方が「我らに後ろめたきことなど何も無し、抗議すること自体がナンセンス」
と語ったとか。
かの司馬遼太郎も抗議を憂慮してか、
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話しを読んだことがあります。
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は
そんなところに理由があるのかもしれませんね。 Q : 西郷隆盛と大久保利通が薩摩の二大英雄とされ、鹿児島では誇りにされていると聞きました
A :
大久保は、西南戦争で西郷を殺し薩摩を滅ぼそうとした張本人として、
鹿児島では憎まれ嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていました。
現在、鹿児島市には大久保の銅像がありますが、これは西南戦争百周年に際して東京から
「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったそうです。
現在では、鹿児島でも大久保の再評価がされていますが、しばらく前までは
大久保の話も出来ないほどでありました。 Q : 西郷さんの度量の広さが、江戸無血開城を成さしめ、江戸の町を戦火から救ったんですよね?
A :そもそも江戸総攻撃を強硬に主張していた張本人が西郷隆盛です
幕府を憎悪していた長州の木戸でさえ江戸総攻撃には反対していました
イギリス公使のパークスから攻撃をやめるよう圧力があったとも言われていますが、
ともかく西郷は態度を変え、攻撃は中止されました
西郷はいわば自分で振り上げた拳をひっこめただけなのですが、
後世なぜか、暴走寸前の官軍を西郷が抑え、総攻撃を中止させたかのように美談化されました Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
西郷さんは丸腰で交渉に行って戦争を避けようとしたと聞きました。
A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。 Q :西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
行き場所を失った士族たちとともに、日本のため自ら滅ぶつもりの戦いだったんですよね?
A :
西郷はかねて回りの者に、
「熊本城に着けば、熊本鎮台は城門を開いて降るだろう。
そうなれば、熊本を拠点に九州を従え、広島(鎮台)を攻め、
大阪(鎮台)を破って海陸路で東上し、一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞)
と気持ち良さそうに語っていた。
またこうも語った。「自分は陸軍大将である。たとえ全国の兵を率いても
陛下の許されるところであり心配無用 」(「新編西南戦史」)
結果はみなさんご存知の通り、熊本城政府軍の徹底抗戦に遭った西郷軍は
緒戦から消耗し、戦わずして東上するつもりでいた西郷軍の敗色はこの時点で決定的になった。 Q : 西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ?
A :
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの
象徴であったにすぎないのではないのか。
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。
これは西郷という人間像の一コマではあるが、
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。 旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照) Q : 西郷さんのおかげで明治政府は廃藩置県を断行し、旧体制からの決別を出来たんですよね?
A : 明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。
廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であったのだが、
もっとも反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士と西郷であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。
ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、その下にいた士族が実権を持つ
という意味であったからだ。
西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。
旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。
新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。
つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話なのです。
よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。 >>91
▂▅▇█▓▒ (’ω’) ▒▓█▇▅▂うわぁぁぁ!! 「勝てば官軍」って、当時からそう言われてたよね? 西郷も常にそれを意識していたのでは? というか実は明治維新などやらずに江戸幕府のままでも良かった。西郷も含めて、
明治政府の人々は自らの栄達を第一目標としていた。 また24時間監視かよw どんだけ暇やねん発狂マンwwwwwwww コロコロ妄想暇人マンワロタwwwww
また24時間監視かよw
どんだけ暇やねん発狂マンwwwwwwww
>>19
978 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/09/10(日) 11:52:03.16 ID:EuvhppSL0
【火病】 発狂マン 30分で13連投www 【暇杉】
911名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:54:43.52ID:AxW2s4NA0
(1分53秒後↓)
912名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:56:36.71ID:AxW2s4NA0
(1分26秒)
913名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:58:02.37ID:AxW2s4NA0
(1分38秒)
914名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:59:40.27ID:AxW2s4NA0
(5分51秒 トイレ休憩)
915名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:05:31.32ID:AxW2s4NA0
〈6分26秒 連投規制で充電中に火病w〉
917名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:11:57.62ID:AxW2s4NA0
〈27秒 再発狂で最速記録達成w〉
918名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:12:24.46ID:AxW2s4NA0
(60秒 少し疲れる)
919名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:13:24.87ID:AxW2s4NA0
(47秒 加速)
921名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:14:11.97ID:AxW2s4NA0
(34秒 加速)
922名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:14:45.76ID:AxW2s4NA0
〈43秒 ペースダウン)
923名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:15:28.05ID:AxW2s4NA0
(1分37秒 電池残量少)
924名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:17:05.15ID:AxW2s4NA0
(7分36秒 電池交換)
925名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:24:41.13ID:AxW2s4NA0 スレ主のくせに他人のふりしてる妄想マンwwwwwwww 「発狂マン」って呼ばれてすぐ返事してんじゃねーよwwwwwww
自分以外 全部スレ主に見える馬鹿wwwww
しかもてめえの基地ガイ13連投を自分で貼って自己紹介してやがるwwww
西郷なんて鹿児島土民のカルトヒーローで他県民にはどうでもいい人物 Q : 西南戦争で薩摩士族は自ら滅び、鹿児島にも新しい時代がやって来たんですよね?
それもこれも西郷さんの捨て身の深謀遠慮のおかげなんですよね?
A :
薩摩士族は自ら滅ぶどころか、4人に3人は投降などして生き延びました。
西郷さんや幹部の城下士たちは九州中を6カ月以上も逃げ回りました。
その姿はどう見ても、自ら死を選び、滅ぶつもりの者たちの姿ではありませんでした。
戦役後、鹿児島では実権が城下士から郷士に移っただけで、士族支配であることになんら変わらなかったのです。
『薩摩見聞記』はこう記しています。
「明治中期の鹿児島では平民社会の
状態をみると, それはまことに哀れなもので,
鹿児島城下のわずかな一部の商人のほかは
財産もなく, 知識もなく, 勢力もなく, 士族との間には
なお甚だしい格差があって, 容易に融和しそうにもない。
藩政が崩壊してすでに20年にもなろうとしているのに、
薩摩だけはなお依然たる封建の地である。
政治、役人、教育、警察等の世界において
士族の勢力が強いこと、日本全国にその類をみない」
とあり、この状態はなんと太平洋戦争後まで続いたのです。 Q : 新政府の高官たちが富貴や汚職にはしる中、西郷さんは質素倹約をして国家と国民のことを考えていたんですよね?
A :
はい、西郷さんが賄賂を貰ったとか私腹を肥やしたなどの記録は一切ありません
ただ、質素倹約をしていたというのはどうでしょうか・・・
西郷さんが政府から貰っていた給金は現在の価値に換算すると月給2千万円
年収は2億4千万円です
住まいも江戸では元旗本屋敷、鹿児島では島津一族の元屋敷とかなりリッチな
生活をしていたようです
また自らの側近たちを軍の高官に大量抜擢させるなど、人事の私物化(多くの犠牲を払い新政府を打ち立てた
薩摩藩士からすれば当然のご褒美かもしれませんが)はありました
西郷さん的には民間の豪商などと癒着するのは絶対NGだったようですが、
政府のポストや金を自らの息のかかった子分たちに分配するのはOKだったようですね >>22
コロコロ妄想暇人マンワロタwwwww
また24時間監視かよw
どんだけ暇やねん発狂マンwwwwwwww
>>19
978 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/09/10(日) 11:52:03.16 ID:EuvhppSL0
【火病】 発狂マン 30分で13連投www 【暇杉】
911名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:54:43.52ID:AxW2s4NA0
(1分53秒後↓)
912名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:56:36.71ID:AxW2s4NA0
(1分26秒)
913名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:58:02.37ID:AxW2s4NA0
(1分38秒)
914名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 16:59:40.27ID:AxW2s4NA0
(5分51秒 トイレ休憩)
915名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:05:31.32ID:AxW2s4NA0
〈6分26秒 連投規制で充電中に火病w〉
917名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:11:57.62ID:AxW2s4NA0
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918名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:12:24.46ID:AxW2s4NA0
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919名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:13:24.87ID:AxW2s4NA0
(47秒 加速)
921名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:14:11.97ID:AxW2s4NA0
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923名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:15:28.05ID:AxW2s4NA0
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924名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:17:05.15ID:AxW2s4NA0
(7分36秒 電池交換)
925名無しさん@お腹いっぱい。2017/09/06(水) 17:24:41.13ID:AxW2s4NA0 スレ主のくせに他人のふりしてる妄想マンwwwwwwww 13連投が恥ずかしいという自覚はあるようだなコイツ↑ 余程気にしたのか新スレになってから連投が控えめでうけるw >>29
>>28
さすがコロコロ妄想暇人マンwwwwww
都合のいい妄想はお手のものwwww 連投が恥ずかしいとか言っといて連投してる妄想コロコロ暇人マンwwwwwwww 自分以外は皆同一人物に見えるタイプか?
どうせ自分がコロコロID変えたことがあるから他人も同じ手口やってると思ってるんだろうな。
>>30
俺は別に連投してないけど? 妄想? >>32
ワロタwwww
やはりスレ主wwww
お前のダブル回線は前スレでバレたじゃんwwwwwwww コロコロダブル回線マンwwwwwwww
暇人妄想マンwwwwwwwwwwww
スレ主の自演が面白いwwwwwwww >PCとスマホ
ああ、それがあんたの過去の手口ね。 自白乙。
西郷隆盛を過大評価だと思っている人間は世の中ではスレ主一人と妄想しているわけかw
スレ主が過去に自演したかどうかは知らんけど(スレ主に自演癖があるのかどうか過去スレ全部読んでないので知らん)
俺はスレ主や29氏とは別人だし、あんたの妄想に付き合う気もない。
>>1
もし、あんたに自演癖あるならやめた方がいいよ。 白けるだけだから。 >>36
ワロタwwwwwwww
俺のもうひとつの回線てどれですか?wwww 西郷隆盛は日記の類を書かなかったようで残っていない
西郷の行動の真意などが謎だったり盛られたりしている理由の一つはそれである
後世の者たちが勝手に想像を膨らませたり、そこに深謀遠慮があるかのように錯覚するのである
当時のインテリ層は日記を書くのが常識化していたようで、
木戸孝允も大久保利通も相当量の日記を残している
ちなみに大隈重信は日記を残していない
記憶力が抜群だったため、文書で記録を残す必要性が無かったそうだ 最近になって近代史に興味が出てきたけど目からうろこが多すぎる >>40
新史料が色々出てきたことと、インターネットの普及で様々な視点からモノを言える時代になったからね。
大手のマスメディアが情報や知見を独占し都合のいいものだけを世に出す、 文化人・言論人といった連中も同じで、
ネット時代以前は情報・知識は「流す側」と「受け取る側」に分化していた。
で、現在は従来の「受け取る側」が情報発信しだした。 このスレ関連で言えば、
既存の固定概念を死守したい側と異議申し立てしたい側が論争しているわけだ。 >>41
その出てきた新史料てなんだよw
昔からある史料だろw 実際は逆だったりするけどね
叩いている奴は昔からある怪しい情報のコピペをくり返すだけ
そこは新情報が出ていてこれこれだから違うぞと言うとレッテルを貼る 西郷は幕府を破壊しただけで
新しい政権構想は無かったでしょ ネットが普及する前も、美辞麗句を使っただけの西郷論を疑う人たちはいたわけですが
多数派の盲信や黙殺の前では、その声はかき消されてしまっていたのでしょう
このスレでお馴染みの重野安繹や市来四郎の書き残したもの、城川市二の証言などなど
比較的近年では歴史学の原口虎雄氏などがそうでしょうか
原口氏は鹿児島出身でありながら是々非々で西郷を論じてましたね
「非々」の部分はほぼスルーされていたようですが・・・ 以下は原口虎雄氏の文章の引用
これまで鹿児島に赴任する人々の間では、「南洲と斉彬の悪口は言うな」という、鹿児島社
会の風潮を恐れるタブーがあったそうであるが、顧みるにこの私も尖鋭な西郷絶対論者の一人
であったから、恥ずかしい。
庄内藩士書き留むるところの「南洲先生遺訓」や西郷の詩文、親しみ深い「上野の西郷さん銅像」
や「キヨソネの西郷肖像」などが、わたしと西郷を結びつけてくれた。
私の母校の田上小学校の門標は西郷の直筆で、この学校を出、県立一中や第七高等学校への
通行の途には武の西郷屋敷があった。
七高では敬天会に入り南洲寺にもよく参禅したが、なかんずく西郷糸子夫人の生家、岩山先生
の御宅には朝夕にお世話になり、立派な温かい家風を慕った。
幼時から青年期まで武の西郷屋敷附近で育った私にとっては、西郷は神様であった。
西郷の一言一動が価値の尺度であった。
少しでも西郷を批判する者がいたら、すなわち私の敵であり、「打ち殺せ」という気分にかられた。
しかしのち東大法学部に法制史を学び、さらに薩摩史を専攻するようになってからは、私の思考
の軌跡に変化が生じた。
−中略− ↓
西郷は道義国家の建設を目標としていた理想家だから維新革命に身命を賭したが、それ故に
第二、第三の維新を夢見た永遠の不平家である。
彼と同輩、または年長の人で尊敬したのは島津斉彬ぐらいで、他はおおかた彼の酷評の的に
なっている。
『西郷先生遺訓』は彼の理想であるが、現実の姿ではない。
維新草創の際、政府収入源は農村に求めざるを得ず、仮借なく封建貢租を取り立てたから、
明治元年から10年までの百姓一揆は維新前より頻発した。
少ない財源のうち4割を旧士族に与えねばならぬ当局の苦しみを西郷は知らなかったのだろうか。
米が1石、5、6円のころに1500円の巨大な年俸を受け、対外膨張論を唱えている。
西郷を取り巻く、財政も経済も世界情勢も知らない粗暴な私学校と袂をわかって、
多くの良識派の薩人が政府に残って近代国家建設の苦難に耐えたことを忘れてはならない。
弟の従道や従弟の大山巌、そのほか多年の朋友の心底は悲壮である。
もともと薩摩は日本南端の門戸で、黒潮岸辺を洗い、季節風が中国や異国の船を運んできた
外国と日本との接点である。
だから真っ先に外国文化の洗礼を受け、ハイカラ性が薩摩を支えてきた。
薩英戦争の結果、こだわりもなく英国文明の偉大さを学ぼうとして欧米に留学生を派遣した
聡明さや、敵味方を一様に供養する博愛の精神は、島津日新以来の薩摩の伝統である。
私学校の猛者たちの剛勇は、「薩摩的美学」の両面性の一つ、隼人以来の「バンカラ性」の
伝統であって、もう一つの美学「ハイカラ性」の欠落である。
太平洋戦争の誤りを二度と犯さぬためにも、「西郷神格論」からの脱却は今日的課題である。 馬鹿だろコイツwwww
原口氏の言ってることは全くその通りだが、コイツがいつも言ってるただの捏造と一緒にすんな馬鹿wwww >>39で西郷の軌跡が謎めいている一つの要因は、西郷が日記を残さなかったからだと書いた
もちろんそれだけではない
資料的な要因で言えば、西南戦争の際に政府軍が鹿児島に上陸する間際、
当時の公文書や記録が鹿児島士族の手で燃やされてしまった
その中には鹿児島で天皇化していた西郷についての文書も相当数あったはずである 以下は西郷個人とは関係無い余談だが、重野安繹は明治18年、全国的な歴史資料調査を行った
それまでの歴史書は軍記物語の類に依存してきたが、重野にとってこれらの物語は
「参考」に供すべきものにすぎず、確実な「根拠」となるのは古文書・日記の類であるとし、
全国に調査団を派遣、地方の社寺や旧家に埋もれる史料を探索することから始めたのである。
明治18年の関東六県での探索では、文書が8089通、書籍767部、系図58種を収集した この「大日本編年史」の史料探索は明治20年鹿児島でも行われた
この時の重野の手紙が残されている
このなかで、重野は、旧主である島津家に対し、当時鹿児島で保存されていた
島津家文書の閲覧を許可するよう求めたが、島津家がこれに難色を示している
という顛末を記している
結局、この調査は途中で断念されたという
戦国島津や薩摩藩に関して、島津家の軍記物を根拠とした、あり得ないようなミラクル物語が、否定されず
なんとなく信じられているのも、この時の不完全な調査が原因かもしれない・・ >>46
まあ西郷は鹿児島のご当地カルトヒーローで、県民全部が信者だからなあ。
おっと こう書くと発狂マンのw連打の5連投が来そうだ。 あいつ24時間スレ監視しているからなあ。 このスレで言ってる「イメージ」ってどれのことなん?
A. 主に鹿児島県内だけで、西南戦争参加者の子孫が自己正当化のために広めている西郷のイメージ
B.東京など他府県で学校で教えている西郷のイメージ
C.坂本龍馬・新選組・会津などを美化したフィクション・テレビ番組・一般書でねつ造されまくってる悪役西郷のイメージ
D.明治10年代から旧幕臣・土佐などを中心に新聞や大衆向けの出版物で大量に流布された噂話のたぐい
ここで必死に叩いてる人はAを否定して、CとDは正しいと主張してるように見えるが
Aを一般的に広まってるイメージのように語るのは適切なんだろうか AからDまで全部イメージでしょ
一般的には、大度量の人格者というイメージかな
「思い切ってやりなさい。責任はわたしが取る」という
ところでCの悪役西郷として描いたものってそんな多いだろうか?
具体的にどんなフィクションや作品で捏造されているか教えて欲しい 「思い切ってやりなさい。責任はわたしが取る」って大久保の発言だろ
西郷がそんなふうに描かれているものは見たことない
近い話でも、勝海舟が美化されている話では最初は攻撃的だが説得されたって流れだし
大村益次郎を美化する話でも、その後に海江田を押さえられない奴って薩摩sageが入る >>53
また勝手な妄想マンワロタwwww
また的外れな事言ってるwww >>52
さすがニワカwwww
薩摩で嫌われ者になった久光の子孫が嫌がっただけwwww
それが近年、玉里島津家文書として出されたんだろ馬鹿wwww
知らないのか馬鹿wwww てか勝手に妄想マンのレスの内容のなさwwww
毎度毎度連投がどうとか監視がどうとかお得意の暇人コビペwwww
歴史のスレなのにも歴史話しない馬鹿wwww
歴史知らないからしょうがないwwww おまえ、すぐ釣り針に喰らいつくから、 鹿児島ご当地ヒーローの話より
おまえをおちょくってる方がおもろいw >>60
また言い訳妄想マンワロタwwww
歴史知らないからしょうがないwwww >>62
わざわざ開くかよ馬鹿言い訳暇人妄想マンwwww
歴史知らない言い訳暇人妄想マンwwww >>66
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
>これもまたオウム返しですねwwww >>68
馬鹿だからオウム返ししか出来ないwwww
これもまたオウム返しですねwwww >>60
鹿児島の「ご当地ヒーロー」は薩摩剣士隼人
言葉の意味まちがえてるよ ■ 西南戦争 その伝説と史実 ■
伝説 : 西郷隆盛と大久保利通は幼少時からの親友。大久保家が困窮した時期、
利通少年は西郷家で食事を摂らせて貰っていた
史実 : 同じ町内の顔見知り程度で、個人的な付き合いは一切無く
親しくなったのは青年期以降に精忠組で一緒になってから
伝説 : 西郷さんは比類無き大度量・大至誠の人。誰もがその巨眼に引き込まれ三日で愛に変わった
史実 : 実際に近しくした人の証言 「偏狭であった」「人の悪口が多い」「人望を得ようと計算している」
伝説 : 西郷さんは薩摩士族を胸に抱き、自ら滅ぶつもりで戦争を始めた
史実 : 西郷「熊本城に着けば政府軍は我が軍に下る。一戦も交えず入京でき、
東京で花見ができるだろう」(東京日日新聞の記者の取材に答えて)
伝説 : 「おいの体をあげもそ」と西南戦争を決起
史実 : 玉砕の5日前に“自分だけ”政府軍に助命嘆願 → 拒否られている
伝説 : 「晋どん、ここらでよか」と潔く自決
史実 : 玉砕当日城山の洞窟から逃走 → 桐野利秋に見つかり射殺された
伝説 : 西南戦争で薩摩士族は滅び、鹿児島にも新時代が到来した
史実 : 薩摩士族は4人に3人は投降などして生き延びた
政治、役人、教育、警察等の世界ではなお士族の子孫しかその職に就くことができず
鹿児島ではそのような士族王国状態が第二次大戦後まで続いた
伝説 : 大久保利通による西郷暗殺指令
史実 : 鹿児島士族が政府の密偵を凄惨な拷問にかけて自白を強要しており、信憑性無し
伝説 : 奄美人を大切にした西郷さん
史実 : 子供を二人産ませた奄美の妻アイカナを捨てる
旧知の奄美人たちを西南の役に強制従軍 → 死亡
伝説 : 鹿児島私学校では西郷さん自ら若者たちに敬天愛人思想を講義
史実 : 当時の生徒の証言「西郷さんが私学校で講義したことは一回もありませんでした」
伝説 : 「西郷南洲翁遺訓」 西郷の教え41条
史実 : 東北庄内人によるほぼ創作
伝説 : 民百姓にも慕われた西郷どん
史実 : 鹿児島で西郷さんが外出するときは、地上での土下座では恐れ多いと、
百姓たちを道のわき溝に飛びこませ水から首だけ出して出迎えさせた
西南戦争では、百姓たちは木の上から見物、
西郷軍兵士が死ぬと身ぐるみを剥ぎ、売る コピペのやつは3〜40代の底辺なんだろうが内容は強ち間違いではない
つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」 龍馬などとどうでもいいやつを持ち上げるある層が存在する
しかもしつこい いまだに龍馬暗殺は西郷などと言っているのは相当な年寄りだな ん?
上記な性格な西郷であればそう考えてもおかしくないだろ?という話
「可愛さ余って憎さ百倍」じゃないが、
討幕で一致していたはずなのにいつのまにか幕府と故意やんか?と
桐野がちくった 証拠一切なしの妄想で、推定有罪なわけねw
西郷は大政奉還後に鹿児島に帰って、龍馬が京都に戻って来たことすら知らんのだが
大昔の創作を骨とう品のテープレコーダーのように繰り返す年寄り 桐野は過去に坂本妻のおりょうを強姦未遂したことがあるからな
その時に、坂本さんには言わないでくれとおりょうに口止めを懇願したそうだけど
眠れない日々が続いていたことは想像に難くない 大政奉還 上表 慶応3年 10月14日 翌17日 西郷他京を出立
その前 慶応3年 10月「10日」 龍馬、永井玄蕃に将軍に大政奉還を説得
しかも同17日に吉井から「藩邸へ来い」と言われる、鬼の居ぬ間なのか?
ちなみに桐野とは11月に散歩中に合っている 龍馬関係の本しか読んだことない人が必死に断片情報を集めたのねw つか単に可能性の話をしているのに逆に否定するのが必死すぎに思えるわww この手の情報が古い人にありがちの流れ
最初は断定
>つまり龍馬暗殺の主犯は「西郷」
その説古いよと匂わせてやったところで気づけばいいのに、偉そうな態度で粘る
ツッコミ入れられて窮すると、説が古くてアヤフヤだと言ってるだけの相手に
>可能性の話をしているのに逆に否定する
とか言い出すwwww この馬鹿はどうして小松西郷大久保が京を急いで離れたのか、恐らく理由を知らない ダメだこのスレ
チンカスなみの歴史なんもしらんニワカしかいない >>88
確かにw
龍馬暗殺の黒幕西郷てw馬鹿だろw てか「歴史を知らない」って言い方自体がレベル低くね?
幕末くわしい人は、こいつ誰々の何々を知らないとピンポイントで言うよね ほんダメだこのスレ
こんなことしか言えん歴史自体そのものを知らん低レベルのニワカチンカスしかいない みんなは、西郷さんは現代の人物で言えは誰にあたると思う? 現代の人物で言えば…とか、まじに歴史しらん奴の言いそうな質問w
まあスレ主も明らかに「西郷南洲逸話」を読んでないし
そこで書いてる敵って中山中左衛門のことだよと言っても誰それ?だろうし >>93
トランプ?
支持層
トランプ ←没落無能白人
西郷 ←没落無能士族
追い詰められ方は金正恩という気もするが 西郷絡みの細かい人物関係つっこまれて窮すると、幕末明治以外の話を始めるw
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