龍馬暗殺の黒幕8
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
やったのは武力倒幕派の薩摩か幕府の人間か。
武田鉄矢が怪しい。 ほとんどの人間が、黒幕は幕府か薩摩か土佐だと思っているだろう。
しかし長州だと思っている人間はほとんどいない。
そこが盲点である。
>>2が正解。 原田は確かにあの場に「居た」・・・が、それは「事後」であった
こなくそ!(ちくしょう、やられた・・・)
何者かによる讒言で現場へ向かったが「罠」だと理解り退散、その際に遺留品を「置いていった」
中岡が聞いたのは事実だろうが事後・気が動転していて
襲われた際と事後逃げた際に聞いた事を混同してしまった NHKは、永井が黒幕という結論か? それはないぜ(ww 中岡慎太郎は事件から数日生きていたそうだが、犯人について語らなかったのだろうか? 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
E9GJL 勝「龍馬暗殺したでしょ」
西郷「何のこつでごわすか」
勝「まあいいや。その真相を土佐侯に知らせてもいいんですが、江戸の総攻撃やめてくれるんならもう一度考えなおします」
西郷「…」
勝「…」
西郷「わかりもした」 暗殺ってのは屋内で殺られた件は後の大村の件があるんで如何ともだが大概は屋外での凶行ってな具合で
実際寺田屋では屋内に居たにも関わらず逃げお失せた経緯があるゆえ
しかも彼は当時永井邸に足繁く通っていた経緯もあるので
では何故屋外でやらなかったのか?という疑問が残るが果たして・・・ >>17
あえて狭い屋内を選び、小太刀の使い手を選んだとか
外出中に襲った場合、ピストルで反撃されると一般人巻き込む恐れがあったからとか
あ、でも藤吉は殺したんだよね
藤吉も取り次ごうとして背中斬られたんじゃなく、助けに入ってやられた説があるんだよね
断末魔聞いても「ほたえな!」とか間抜けもいいとこだもんな 醍醐さん 身請けなくなり 大誤算
飯盛りを 夜っぴいて 寝かせぬ くつわ虫
(※商売女に一晩中しつこくセックルをねだる煩い虫)
そのくせに 花は紅 もののふはなし
(※武士を気取るくせに 花代はくれない シミったれ) >>17
その通りで、見廻組は慶応2年の寺田屋での失敗から学んでいる
寺田屋の時は大人数で押しかけたあげく龍馬にピストルを使われ同心を殺傷され取り逃がした
そこで慶応3年11月のときは越前から帰京したという報を掴むと見張りを置き、
来客がいなくなって1人きりになった時に小人数で襲撃、短時間で仕留める作戦
見廻組が龍馬潜伏の情報を得たのは越前から帰洛した後で永井尚志ルートではない
容疑は、1に前年の寺田屋での同心殺し、2に慶喜襲撃計画を企てたこと いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
8P2 実行犯はもう割れてる
桂早之助が一人で二人を斬った
護衛に佐々木、渡辺、見張りに今井
全員小太刀の使い手
黒幕はしらん たぶん見廻りの単独犯行だよ
寺田屋の敵討
それですべてが説明つく 晩年永井邸に通っていたことは近くに居た佐々木も知っていたであろうに何故に道中で狙わなかったのか? >>17
中岡がいないからな。
下士の2巨頭狙い。
情報流したのは土佐藩 司馬遼太郎の妄想でヒーローに祭り上げられたクソ雑魚のスレはここですか? 最近の研究では、薩長盟約を仲介したのは坂本よりも中岡、田中光顕らで、薩摩藩側の代表者は西郷ではなく小松清廉(帯刀)、というのが定説
船中八策にしても、現物が存在しないから、歴史学的に事実か証明できない
剣豪説にしたって、ちゃんと記録がある木戸と違って、なんの証左も残ってない(女子供の手習いの薙刀の免状は残ってる)
つまり、坂本英雄説って、全部司馬遼太郎の妄想/でっち上げなんだよね >>23
そういえば寺田屋で龍馬は幕府の役人?を
撃ち殺したの?
フィクションだと一人も殺してないことになってるけど、
実際は違うよね 民間御用達歴史学者w の本郷和人w は「司馬遼太郎に発見された坂本龍馬」ってハッキリ書いてるしなあ
つまり司馬が妄想炸裂させてあーだこーだ言い出さなけりゃ、完全に埋もれた存在であり、忘れられた、誰も知らない存在だった そもそも(薩長同盟の)仲介をしたのがそんなに偉いか、ってのがある
同盟の主体者、薩長それぞれの代表者、リーダーたち(薩摩ならば小松、西郷、大久保ら、長州ならば木戸、広沢、高杉ら)のほうが数十倍偉くない?
実際に兵を動員、指揮できたのは彼らなんだから
中岡、田中光顕、坂本ら以外にも、間を繋ぐ小物はたくさんいただろうし、保険を打って、さまざまなルートからの、(今は忘れ去られた)無数の連絡役がいただろうことは想像に難くない
誰か1人に全面的に委ねるなんて、そんな危険を冒すわけがない >>27
>>30
超亀訂正
中岡、田中光顕と土方久元ね
最近の研究では土方がメイン? 最近、薩長同盟のことを薩長和解と呼ぶ動きがあるが、薩長はすでに慶應元年時点(近藤長次郎が毛利敬親に拝謁して島津久光宛ての親書を受け取り、島津久光に拝謁して同親書を手渡した時点)で和解しており、慶応2年正月22日にまとまった方針を重ねて和解と呼ぶのは理屈に合わない。
では、薩長同盟とは何かというと、前年に和解した薩長が今後の方針を取り決めたということである。その交渉をするため木戸が京へ上り、小松、西郷ら薩摩の首脳と話し合った。
しかし、その際、小松、西郷らの「長州は、幕府の重ねての処分を受け入れて戦争(第2次長州征伐)を回避して欲しい。」とする主張と、木戸の「すでに長州への処分は済んでおり、幕府が重ねて処分を行うなら幕府との戦争を辞さない。その時は、薩摩は後方支援して欲しい。」とする主張が対立して交渉は行き詰まった。このため、木戸は京を去ることにし、薩摩側も送別会を行った。
そして21日、木戸が京を立って伏見まで来たところで遅れて上京してきた龍馬と会った(正確には、龍馬はいったん京に入り、すでに木戸が去ったと知って木戸を追いかけ、伏見で追いついた(この伏見の件は、山本栄一郎氏の綿密な考証による)。)。そして、龍馬は木戸から前記事情を聴いた上で(木戸覚書)、木戸に今一度京に戻るように説得し、さらに同日夜、小松、西郷に会って木戸の主張を受け入れるように説得し(ここは史料はないけど、これら前後の事実から明白)、翌22日、薩摩側も木戸の主張を受け入れることに方針を決定し、現在伝わる内容の薩長同盟が成立した訳である。
この取り決めがあったからこそ、長州は四境戦争に踏み切れたし、薩摩も公武合体から倒幕への路線変更に踏み切れた訳である。
そうしてみると、龍馬が薩長同盟(薩摩は飽くまで長州を後方から支援することまでを約束し、一緒に戦う約束をした訳ではないので、連合とは言えない。日英同盟を日英連合と言わないように。)に果たした功績は、やはり大きいと言わざるを得ない。
龍馬がいなくても、いずれはこういう形で薩長同盟は成立したという意見もあるだろうが、成立の遅れは政治の世界では致命傷になりかねず、龍馬があの時、あの場所にいたからこその薩長同盟と言えるのではないか。 >>29
「司馬遼太郎に発見された坂本龍馬」とは驚いた。
龍馬は、死後17年目の明治16年には新聞小説の主人公になり、明治30年代に刊行された日本最初の児童向け偉人伝全50巻ではその1巻に取り上げられ、映画が発明されると日本最初の国民的映画スター坂東妻三郎が2度にわたり龍馬を演じている。
つまり、龍馬は昔から人気者だったのだ。その本郷なんとかという奴はバカ者じゃないのか? 英雄像としての龍馬は日露戦の時すでに使われてたんだろ確か 薩長やグラバーのパシリであり、暗殺される程の大物ではない。
寺田屋の役人殺人犯が死刑執行されただけの話。 >>37
いいから色んな人が言ってることをさも自分の説みたいな書き方するのやめろ
俺は〜だと言われてる説が有力だと思うっていうような書き方がなぜできんのだ 薩摩の鉄砲玉である限りはそうだがそいつに明らかに「別な」意思を感じ取れば
西郷はまごうこと無くそいつを切る、桐野も監視していたようだし(確か日記に行動を明記していたはず) 竜馬が土佐藩を動かして大政奉還が実現したって司馬遼太郎の創作だろ。
上士や殿様が脱藩浪人の言うこと聞くわけないだろ。
後藤にヒント与えたぐらいはあるかもしれんが。 京屋敷に居た連中も全てが龍馬をよく思ってはいなかったであろう事は推測できるよ
ましてや他の殿様に龍馬許してやってや〜なんて言われりゃあの殿様はよく思うはずもなく
故に土佐藩実行説なんてネタもある訳でね
あと龍馬を大々的に宣伝したのは坂崎の「汗血千里駒」だってばよw 龍馬が大政奉還に尽力したのは確かだ永井などとも会い説得している
ただ土佐藩を率いている後藤の方が影響力あったのは確かだろう 龍馬が慶応三年秋に永井に会ったのが確実なのは福井から帰った後であり、大政奉還前に会ったという史料はない。もちろん、だから会っていないとは言えないが、たぶん会っていない。
また、龍馬が大政奉還実現に尽力した証拠もない。龍馬にとっての幕府への大政奉還建白は、薩長の挙兵準備ができるまでの時間稼ぎとしての手段であるとともに、幕府が大政奉還を拒否することで土佐に薩長へ合流するしかないと決断させることにあった。だから、決起の準備としてライフル千挺を購入して土佐藩に売ったのだ。龍馬は大政奉還が実現することはないと思っていたのだ。その証拠に10月10日頃後藤象二郎に宛てた手紙で、「交渉が破断にならない内に土佐より兵隊を上京させ、後藤先生は早々に土佐へお引き取りになり、大政奉還の失敗をご老公様へお知らせするのが宜しいかと思います。この「破談にならない内に」とは兵を用いる術策でございます。」と記している。だから大政奉還が実現してしまったことは、龍馬にとってイレギュラーだったのだ。
そのため、福井に行った際、三岡八郎から「これからどうする。」と訊かれて「何も考えていない。」と正直に答えている。これからのいい考えがないものだから、土佐藩の使者として福井に行くついでに三岡に知恵を借りることにしたというのが本当のところだったと思う。
龍馬は、自分でアイディアを生むのは苦手だが、他人のアイディアから良いものを選択して実行するのは得意だったと思う。これぞ政治家に必須の資質だろう。 龍馬は風邪ぎみのなか何故「福岡藤次」に会いたかったのか
龍馬は中岡慎太郎の心境の変化を「福岡藤次」に報告したかった
龍馬は武力倒幕に突き進む中岡を説得した
風邪をひいているにもかかわらず二度も訪問し中岡の翻意を報告したかった
それは中岡の身に危険が迫っていることを龍馬が何らかの情報で知っていたからだ
龍馬は中岡暗殺に巻き込まれた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています