【太平洋戦争】そろそろ決着つけようぜ…2
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ある人曰く「東アジア、太平洋の利権をかけた長期的なアメリカの陰謀だ!」
ある人曰く「数々の見切り発車による選択ミス、陸軍・海軍・政府の団結力の無さによる無能な日本の責任だ!」
ある人曰く「コミンテルンの罠に日米はめられた!」
ある人曰く「これらは全てロックフェラー、ユダヤ人、ロスチャイルド(ry」
ある人…
何が本当なんだ?自分が思う太平洋戦争の原因教えてちょ
あと回避する方法はあったんか?
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1509637424/ おつおつ。新スレ建てようとおもったけど「スレタイが長すぎます」とか
撥ねられて、そのあと受け付けなくなってしまった(´・ω・`) >大日本帝国に正義あり
正義があるのに世界中のどこの国もその正義を言葉で理解させることができなくて
実力で押しつけることにしたとでもいいたいのかねw お前らまだやってるのかww
勉強熱心だな
また読ませてもらうぜ >>3
いやいや、そういう連中が真に言いたいのは、
「朝鮮民主主義人民共和国に正義あり」
なんじゃないかと思う。 正義じゃなくてキムチだろwwww
ご飯ですよwwwwwww いやぜんぜん別物だろ。日本帝国がいまの北朝鮮みたいな独裁体制なら
あんなおろかな開戦もしなかったし敗戦もしなかったよ。あきらかに政体と
しては北朝鮮のほうが上 これを見た貴方は「今すぐ」に死にます死にたくなければ、このレスをコピーして他のスレに 10回貼り付けて下さい。1時間以内にです!もし無視した場合は、今日寝ている間に富子さんがやってきて
□貴方の首を絞めに来ます。富子さんは太平洋戦争の■
■時に1歳という若さで亡くなった女の子で、未だに成 □
□仏していないそうです。信じる信じないは貴方次第。 今年になってからこのレスを無視した人で、“呪われ □
□て死亡した人”が続出しています。これは富子さんの 呪い。呪われて死んでもいいのならこれを無視するこ□
□とでしょうね。
貴方がこうしているうちに富子さんが後ろから見ていますよ 先程書きましたが上の文について知ってる方は教えてください >>9
それはないわ
日本は全体主義から軍の独裁国家になったけど、元は近代国家、立憲主義国目指してたからな
北朝鮮も朝鮮戦争引き起こしてるし、中国ソ連の後ろ盾あったから残ってる
今は核武装して抑止力高めているけど、通常兵器はボロボロ
アメリカと一対一で戦ったら日本より悲惨だよ
日本はまだ史上初の空母同士の戦いとか演じれた位の国力があったけど ・
朝鮮人日本兵の蛮行
http://politics.wealthyblogs.com/archives/3605
日本兵を騙って蛮行の数々をおこなった朝鮮人
日本兵にしてやった日本軍に恩を仇で返した朝鮮人
日本軍の評判を貶めることばかりしたのが朝鮮人であった
・ >>9
独裁には、実力者による独裁と世襲独裁とがあり、北朝鮮のような世襲独裁は優れているか微妙ではある
だが、国家の方針の一貫性という点では北朝鮮のほうが優れているというのは一理ある
当時列強のほとんどは、ファシズム、共産主義、自由主義、立憲王政などの政体を問わずおしなべて
圧倒的な権力を持った強力な指導者個人による独裁体制だった
ただ、大日本帝国だけがそうした指導者がいなかった
歴史番組や歴史書の写真でスターリンやヒトラー、ルーズベルトやチャーチルと並んで東條を載せている
しかし、東条の権力は彼らに比べるとあまりにも見劣りする
開戦時は、陸軍の作戦に関与することさえできず参謀総長を兼任した時点でさえ海軍の作戦には口をはさめない
軍を自由にできないもののどこが独裁者なのか
日本は軍部独裁ともいうが、軍部にははっきりした思想はなく、陸海の間はもちろん、陸軍内、海軍内の高級軍人の考えもばらばら、
その時点時点で声の強いものの方針に引きずられ、結果として右往左往となる
諸外国から見ると行動が非常に読みにくい国だっただろう 北朝鮮かて中露が首縦にふりゃしゅんころやけどな
国際政治の妙よ 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
5OWWV >>1に書いてあるのは全部違う
あの戦争の目的は2つあった
その目的は2つとも達成された
わりと単純なことだが
それを計画して実行に導く大勢の人々がいるということに驚く いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FRB 愚かな山本五十六の暴走によって
日本は惨敗し、栄光の歴史に
侵略国家の汚名を残す結果となってしまった。
こいつさえいなければ
世界大戦も東西冷戦も無かったと思う。 太平洋戦争目的ははアメリカを欧州戦線へ参戦させるついで日本の解体 久しぶりで来ましたよ、と。誰も覚えてないだろうけどね。
今回は、前回のバージョンアップ版を、書き込んでいく予定。
ものすごく長くなるけど、何故、日米は戦争するに至ったか?という話。
こんな長いのを読む人がいるのか、疑問だけど。
それから、初めましての人もいるだろうから。趣味で書いた、今のところ私の唯一の著作↓
『心理的衝撃としての原子爆弾』
ttps://books.rakuten.co.jp/rk/d14ba60664bf31449077ff7a65c801f3/
そして現在、二冊目を執筆中。
タイトルも内容も未定だが、日米戦争に至るまでを、大まかに説明するもの。
ここの書き込みは、その一部になる予定。本当に書き上げられるか分からないけどね。 【1】
それでは本題。なぜ太平洋戦争は始まったか?
それについて、まず、アメリカの戦争決意から。
もともとアメリカは、日本ともドイツとも戦争する意思はなかった。
それが変わるのが、第二次世界大戦が勃発し、フランス敗北が決定的となった1940年5月下旬頃。
アメリカは、自らの安全保障上、ドイツのヨーロッパ支配を阻止しなければならなかった。
だからアメリカは、そこでドイツ打倒を決意。全力での戦争準備とイギリス支援を開始する。
その時点では、アメリカは日本との戦争は回避する方針だった。
ところがその後、1940年9月、日本がドイツと同盟してしまう。
故にアメリカは、ドイツ打倒のためには、ついでに日本も打倒しなければならなくなった。
そして七面倒くさい紆余曲折の末、結局、そうなった。
太平洋戦争というのは、とどのつまりは、それだけの話になる。
しかしながら、その紆余曲折がものすごく複雑で、要点を見極めることが非常に難しく、
そのあたりが種々の誤解やトンデモ説が出てくる原因なんだろうね。 【2】
たとえばネット上では、こういうページ↓があった。
ttps://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-us-military-numbers
一目で分かるけど、1941年以降、大幅な軍備拡大が進んでいる。
そして、1941年にそうなっているということは、その始まりは1940年なわけで。
たとえば1940年9月に制定された、1940年の選抜訓練徴兵法↓
ttps://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/draft-and-wwii
で、何故アメリカが、その頃そんな軍備拡大に走ったのかというと、疑問の余地なく明白。
ドイツ打倒以外にあり得ないでしょ。ドイツのヨーロッパ支配を阻止するための。
逆に、1939年以前は戦争する気が皆無であること、米軍の頭数からしても明らかなはずだ。
そしてドイツ打倒という共通の目的のため、アメリカとイギリスは事実上の同盟国となっていた。
後に日本は米英不可分の判断を下すが、それはそういう状況を見てのこと。
ちなみにドイツのヒトラーは、フランス攻略後、イギリスと講和して戦争を終わらせたかった。
しかしイギリスのチャーチルは、徹底抗戦の構え。
映画『ダンケルク』の最後にもあるけど、当時こういう演説をしている↓
ttp://nijiiro-no-yume.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-23f6.html 【3】
そういう時期、参戦反対のリンドバーグらは、アメリカ第一委員会を作り、さかんに運動していた↓
ttp://www.charleslindbergh.com/americanfirst/index.asp
1940年〜41年当時、口先ではルーズベルトは参戦しないと言っていたが、
現実としてアメリカがドイツとの戦争に突き進もうとしていること、誰の目にも明らかだった。
しかしアメリカは民主主義国だから、世論を動かせば、ドイツとの戦争は阻止できる。
これは『リンドバーグ第二次世界大戦日記』にも記されているので、もし興味がおありなら。
ついでに、『堕ちた英雄』のリンドバーグが、非常に偏向した人物だったことも分かる。
(リンドバーグは、ナチスドイツの肩を持つ発言をしてバッシングを食らった)。
当時、リンドバーグのみならず、アメリカ世論は参戦反対の意見が強く、そういう状況の中、
ルーズベルトは、どうやってアメリカを戦争に向かわせるか?という困難に直面していた。
なのだが、それでもアメリカは、1941年には、まだ不十分ながら、かなり参戦に傾いていた。
そして当たり前だが、このときのリンドバーグには、ドイツとの戦争しか念頭に無かった。
日本との戦争は、可能性として考えていた程度だった。 【4】
しかしアメリカの政府および軍部は、違っていた。
アメリカがドイツ打倒を決意し、日本がドイツと同盟した以上、ほとんど確実に日米も戦争になる。
事実として、戦後にコーデル・ハルは、日米交渉が成功する可能性は、
当初から「百分の一もないと予想していた」と証言している。
逆に言えば、99.9%まで戦争になると考えていたということで、
だから日米交渉や石油の禁輸やハル・ノートは、それを前提として見る必要がある。
すなわち、いうなれば石油の禁輸は、99.9%の敵国に対して行ったもの。
99.9%を100%にすることを嫌って、ぎりぎりまで先送りされていただけでね。
そして、いうなればハル・ノートは、石油の禁輸で100%になっていたものを、
再度99.9%に引き戻す試みを中止したに過ぎない。 【5】
ただし、逆に言えば、当時アメリカが考えていたのは、
『見込みは非常に小さいが、日米交渉成功の可能性はある。皆無ではない』という事でもある。
アメリカがなぜそう考えたのかというと、理由は二つ。
ひとつは、アメリカの実力が日本より遙かに上である以上、
アメリカがどこまでも強く出れば、日本は最後には引くだろうという、常識的な見方。
もうひとつは、米国人の神父、ジェームス・E・ウォルシュ(司教)と、
ジェームス・M・ドラウト(神父)が、日米交渉の初期にくちばしを挟み、そして歪ませ、
そのためにアメリカのみならず日本にも生じた誤解。
実のところは、日本は、自身とドイツの力を過大に見積もり、
最後には日本はアメリカに勝てるという結論をねつ造までする。
そしてアメリカは一貫してドイツ打倒の方針なのに、日本はドイツとの同盟に固執。
となれば、日米交渉成功の可能性は初めから皆無。どのみち戦争になるしかなかった。 【6】
戦略的な見地からは、少々違う話になる。
1940年〜1941年時点でのアメリカの方針は、
できれば日本との戦争は回避し、ドイツ(およびイタリア)とだけ戦争しようというもの。
理の当然で、全戦力をヨーロッパに向けた方が、遙かに有利に戦争できる。
さらに、もともとアメリカは、日本とは戦争する理由がない。
単に日本がドイツと同盟してしまったために、戦わなければならなくなるだけのこと。
だからアメリカは、本心としてこれは間違いなく、
できることなら日本にはドイツとの同盟を破棄(または死文化)してもらい、
それで日本との戦争は回避したかった。
それは善意ではなく、冷徹な損得計算だった。
なのだがその頃のアメリカは、日本のそれまでの行動から、日本を全く信用していなかった。
そもそも日米交渉成功の可能性は、ほとんどゼロだとアメリカは考えていた。
だから日米交渉も、裏では日本に対する戦争準備を進めつつだったし、
アメリカの戦争準備が整うまで戦争開始を遅らせる欺瞞外交という目的もあった。
ルーズベルトの「ベイビー・アロング」発言なんか、まさにその線なわけだ。 【7】
つまりアメリカは、出来れば日本との戦争は回避したいと思っていた。
しかし、その可能性は非常に低いと当初から判断。
いずれ日本と戦争になると想定した上で、日米交渉を行っていた。
込み入っているが、とにかくアメリカは、好き好んで日本と戦争したわけではない。
ところが、世間には、こういう俗説があるわけだ。
「アメリカは、日本を、無理矢理に戦争に追い詰めた」という。 【8】
そういう俗説の一つとして、
「アメリカは、日露戦争後から満洲を狙っていた」というのがある。
これについては、日露戦争までさかのぼらずとも、
冒頭で説明したようなアメリカの戦争準備を見ただけでも、
そうでないことは明らかだろう。
事実としては、アメリカはセオドア・ルーズベルトの時代は親日的で、
方針が変わるのは、タフトから。
そしてそれは、とどのつまりは金儲けに一枚加わらせろというだけで、
領土を狙うものではなかった。
そもそもの話、日露戦争後、日本の勢力圏になったのは南満洲だけ。
北満洲は、変わらず帝政ロシアの勢力圏。
日露戦争頃のアメリカが、帝政ロシアに太刀打ちできるわけがない。
アメリカが満洲を領有しようなんざ、そもそもアメリカにそんな意思はないが、
やりたくても不可能だった。 【9】
次に、「アメリカはドイツと戦争したいから、日本を追い詰めた」という説。
しかし、これまた筋が通らない話。
もともと日独伊三国同盟は相互の防衛を約したもの。
日本からアメリカを攻撃した場合、ドイツに参戦義務はない。
また、もしドイツがどうしてもアメリカと戦争したくない、あるいは先送りしたいなら、
日本がアメリカと開戦した直後、日本との同盟を破棄するという手もある。
故に、アメリカにとって、そういう目的で日本を追い詰める意味は皆無。 【10】
また、「アメリカは、石油禁輸で、日本を戦争に追い詰めた」という説。
当時の世界情勢を理解すれば、これも誤解に過ぎないことが分かる。
つまり、日本がドイツと同盟した時点で、アメリカ・イギリス・オランダにとって日本は、
近い将来刃を交えるであろう敵性国家になってしまった。
だから本来ならアメリカは、日本に、石油という戦略物資を渡すわけにはいかない。
なのだが、出来れば日本との戦争は回避したい・少なくとも先送りしたいという思惑から、
それは先延ばしされていた。
石油が禁輸されるまで、当時の日本はせっせと石油を買い込み、備蓄していた。
それは戦争に備えてのことだが、アメリカはそれを承知で日本に石油を売り続けていた。
ところが日本は、どこまでもドイツとの同盟に固執する。
および、アメリカとの戦争は回避しようとはしたが、好機をつかんで、
東南アジア方面への侵攻、すなわちイギリス・オランダとの戦争はしようとする。
先述のような経緯から、イギリスはアメリカの事実上の同盟国であり、
したがってアメリカにとって、そのような事態を看過できるわけが無く、
だから遅かれ早かれアメリカは、いつかは日本に対する石油禁輸を行ない、
日本と全面対決しなければならなかった。 【11】
そして、「アメリカは、ハル・ノートで、日本を戦争に追い詰めた」という説。
および「ハル・ノートはソ連の陰謀だった」という説。
ここは少々面倒くさい。
これについては日本の戦争決意から説明する必要がある。
そもそも日本の戦争決意は、1941年11月5日の御前会議の時点。
それは、日米交渉は1941年12月1日午前零時まで行う。それが不成功なら開戦するというもの。
ところがハル・ノートは、1941年11月27日。
つまり日本は、ハル・ノートで戦争を決意したのではない。 【12】
説明を続ける。
1941年11月5日の戦争決意に至るまで、日本は種々の検討を行った。
そのひとつが、もちろん、アメリカの要求を受諾すること。
その際、検討の対象になったのは、1941年10月2日の米国覚書。
つまり、日本の戦争決意につながったのは、ハル・ノートではなく、こちらの方。
その1941年10月2日の米国覚書↓
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/image_B02030719900?IS_STYLE=default&IS_KIND=detail&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=B02030719900&
内容は、日米首脳会談の拒否、四原則(領土・主権の尊重、内政不干渉、機会均等、現状維持)、
中国・仏印からの撤兵、日独伊三国同盟の死文化。
そして日本では、10月2日の米国覚書は、満洲事変以来の成果をすべて失うものとして、
「三等国になる」として、受け入れられないという決定になった。
しかしそれで戦争決定というわけでもなく、その1941年11月5日、
12月1日まで行う最後の交渉として、甲案・乙案が決定される。 【13】
こうして最後の日米交渉が行われるのだが、ここがまた、ややこしい。
改めて説明だが、もともとアメリカには、日本に譲歩する意思は皆無。
政治的にもだが、根本的には先述の通り、日本がドイツと同盟しているかぎり、
どのみち日米は戦争になるので、譲歩など無駄だった。
そしてアメリカは、日本の外交暗号を解読していたので、
甲案・乙案に、11月29日いっぱいというタイムリミットがある事も分かっていた。
(日本本国の決定は12月1日午前零時までだが、大使館には11月29日午後12時までと指令)。
その期限が切れた後、日本が戦争を開始するであろう事、自明の理だった。
それがアメリカに対する戦争か、アメリカは避けてイギリス・オランダに対する戦争か、
そこまでは断定不能にしても。 【14】
そこまで分かっている中、1941年11月21日、
アメリカの軍部と国務省とで、日本への対応が協議される。
結論としては、アメリカの戦争準備が遅れているので、
出来れば3ヶ月〜6ヶ月、戦争開始は先送りしたいというもの。
だから国務省は、日本の甲案・乙案に対する回答として、
暫定協定案と基礎協定案の二つを作成した。
当初は、それらをセットで日本に出す予定だった。
そして暫定協定案でアメリカは、民需用に限るが限定的に石油供給を再開し、
それで日本との戦争を先送り、できれば回避しようとした。 【15】
暫定協定案の作成後、アメリカは中華民国やイギリスなどにそれを示し、了解を取ろうとした。
ところがここで、日中戦争真っ只中の中華民国が、石油供給の再開に強硬に反対。
それにイギリスも同調。
それ以前に、日本がドイツとの同盟を破棄しない以上、どのみち日本との戦争は避けがたい。
東南アジア方面では、日本は戦争準備を完了し、まさに攻撃開始直前の状況。
加えて、石油供給再開といっても限定的なので、日本が受け入れるか疑問。
そして日本との戦争開始後、中華民国は重要な同盟国になるので、その意向は無視できない。
なのでハルは、これで日本は戦争に踏み切ると承知の上で、しぶしぶ石油供給再開を諦めた。
それは中華民国の反対からではあるが、のみならず総合的な判断だった。
日本が必ず戦争を始めると判っている以上、もはや日本に対する外交はすべて無駄。
しかし外交上、それでも日本に対し、何らかの回答はしなければならない。
アメリカ側から外交を打ち切ることは、アメリカの非になるので望ましくない。
だからハルは、大統領の承認を得た上で、暫定協定案を破棄。
同時に作られていた基礎協定案に修正を加え、それをハル・ノートとして日本への回答とした。
ハル・ノートおよび暫定協定案と基礎協定案↓
ttp://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nitibeikaisen/Hullnote.html
よく知られた事実だが、ハル・ノートの後、アメリカの方針は、
どうやって日本に一発目を撃たせ、戦争の名分を得るか?に移る。 【16】
以上、「アメリカは、ハル・ノートで日本を戦争に追い詰めた」説は成り立たない。
事実としては、本当はアメリカも、日本との戦争は回避したかった。
けれども自身の国策を曲げてまでそうする意思は無く、それは日本も同じだった。
それでは、「ハル・ノートはソ連の陰謀だった」説はどうか?
実は当時のアメリカでは、日本に対する回答案が、色々と考案されていた。
そのひとつが、財務省のハリー・ホワイトの手によるもので、
それがモーゲンソー試案となって、大統領と国務省に提出された↓
ttp://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nitibeikaisen/Morgenthau.html
それが、基礎協定案の叩き台となった。
そして先述のように、その基礎協定案に修正を加えたものが、ハル・ノート。
ところが、そのハリー・ホワイト、戦後にソ連のスパイ疑惑がかかる。
ソ連陰謀説の唯一の根拠が、これ。
なのだが、当時、ハリー・ホワイトが本当にスパイだったのか、疑わしい↓
ttp://www.geocities.jp/yu77799/worldwar2/nitibeikaisen/White1.html
仮にスパイだったとしても、その関与はモーゲンソー試案までだし、
それは『対日緊張を緩和し独の敗北を確実ならしむる課題へのアプローチに就て』。
そして当初、暫定協定案と基礎協定案は一緒に出す予定だった。
ここからして、ソ連の陰謀説もありえない。 【17】
付け加えるに、当時のソ連には、日米戦争を望む理由がなかった。
とどのつまりは、当時の日本がソ連攻撃にでるはずがないということ。
ハル・ノートは1941年11月末で、つまりは冬。
そんな季節にソ連攻撃を開始する愚者はいないよ。
そして、当時の日本は石油を禁輸されていた。ゆえに、日本の選択肢は二つに一つ。
アメリカに屈服するか、武力で蘭印の石油を奪うか。
そこでソ連攻撃を始めるほど、日本は血迷ってはいない。
ただし、それでも日本がソ連攻撃に踏み切る場合はありえる。
ドイツに対するソ連の敗北が決定的になった場合。
および、ソ連極東軍が非常に弱体となった場合。
日本がそういう意図であること、ゾルゲの諜報活動によりソ連は察知していた。
では、ソ連が、そういう事態を避けるためには、どうするか?
もちろん色々あるが、そのひとつが、
アメリカ・イギリスから、できるだけ支援を受けることではないだろうか?ってこと。
故に、その時点で日米戦争が起きるのは、ソ連にとってまさに不利益だったと言える。
ソ連への支援がそれで減るのは理の当然だからだ。 【18】
そして指摘したいのは、ハル・ノート以外にどんな回答が、
その時のアメリカに出来ただろうか?ってこと。
もちろん、文面は変更できた。
なのだが、これまで説明してきたように、少なくともアメリカは、日本に、
日独伊三国同盟の破棄または死文化は求めなければならなかった。
ところが、これだけでも日本は断固拒否なわけだ。
したがって、どのみち交渉解決など不可能で、
唯一可能だったのは、石油供給の再開による戦争の先送りだけで、
それすら出来ないとあれば、もはやすべてがお仕舞いだった。 【19】
更に言えば、もし暫定協定案が提示されても、日本はそれを拒否したはずだ。
そもそも暫定協定案は、基礎協定案と一緒に出される予定だった。
となると、それは三ヶ月戦争を先送りしてアメリカの戦争準備を進めるための、
策略と見なされたはず。
もうひとつの理由は、石油。
当時日本が求めていたのは、アメリカから400万キロリットル/年、
蘭印から200万キロリットル/年。
↑は、乙案関連で、1941年11月26日、連絡会議での決定。
それは、昭和15年度の輸入量を多少上回る量だった。
(昭和15年度はそれぞれ、330万、180万)
これに対し、暫定協定案は、民需分だけに限っての石油供給。
日本が希望する全量を許すものではなかった。
ここまで差があっては、折り合いがつくわけがない。
一応ちなみにだが、当時の日本の民需分は、
『杉山メモ』によれば、140万キロリットル/年。
アメリカはその数字を把握していなかったはずだが、事実としては。 【20】
それから、ハル・ノートは最後通牒だったのか?問題。
これについては、そもそもハル・ノートは試案だし、
その文面からしても、最後通牒と解釈することは不可能。
そう解釈するのが当たり前。
当時の外相の東郷茂徳は、その著作『時代の一面 東郷茂徳外交手記』で、
〈屈服か、戦争か、どちらかを強いる挑発なのだから〉という論旨で、
少なくともタイムリミットのない最後通牒だったと主張しているが、
これは東郷茂徳の曲解だ。
ちなみにだが、吉田茂(戦後の首相。当時は外交官)は、
当時これについて相談を受けており、最後通牒ではないと正しく判断していた。 【21】
それでは、なぜ太平洋戦争は起こったのか、その日本側の話。
これについては、本当は満洲事変から話を始める必要がある。
何故かというと、こういう流れだから↓
(1)日本は、国防国家建設のため、満洲事変を起こし、成功する。
(2)満洲事変で味をしめた日本陸軍は、更に暴走を続け、北支工作を始める。
(3)それが日中戦争につながり、収拾のつかない泥沼状態となる。
(4)そうした時ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、ドイツが緒戦に大勝。
(5)日本はドイツと同盟し、日中戦争の解決と、東南アジアへの勢力拡大を狙う。
(6)しかしそれにより、ドイツ打倒を決意していたアメリカと敵対関係になる。
(7)以降、いろいろ七面倒くさい紆余曲折の末、アメリカとの戦争となる。 【22】
それで、ここで詳しくは説明できないが、ちょっとだけ満洲事変について。
今更言うまでもないが、満洲事変は、
統帥権の独立を悪用して行われた日本陸軍の暴走だった。
そして日本陸軍は、国防国家建設のため、それを行った。
その首謀者の石原莞爾は、実行前に陸軍内部で入念に根回しを行っており、
その言動が記録されているため、↑が分かっている。
国防国家というのは、総力戦が出来る国家ということ。
そのためには、日本の勢力拡大と、日本の体制の改造とが必要だった。
石原莞爾の構想では、満洲事変は、そのような勢力拡大の第一歩だった。
ただし勢力拡大は、満洲だけでは不足。
さらに中国と、東南アジア方面まで、日本の勢力圏を広げる必要があった。
満洲事変の時点で具体的な計画などないが、そこまで考えられてはいた。 【23】
そしてこの満洲事変、ソ連に対する防衛という意図もあった。
なんだが、ここが大問題で。
日露戦争後の満洲は、北部は帝政ロシア、南部は日本の勢力圏だった。
ロシア革命後、ソ連は、東清鉄道は保持し続けたが、北満洲からは手を引く。
したがって事実上、北満洲が日ソの緩衝地帯になっていた。
ソ連国内の混乱もあり、この頃はソ連極東軍は小さかった。
ソ連極東軍が拡大されるのは、実は、満洲事変後。
それは、日ソの国力差から、関東軍を遙かに上回る大きさになっていた。
1935年時点で、兵力は3倍以上、戦車・航空機は約5倍。
そして、ソ連がなぜそうしたのかというと、言わずと知れているわけで。
つまりは、この観点からは、満洲事変という要らぬことをしたために、
かえって危険な状況を招いてしまったことになる。
だから当時の日本は、何よりもまず自らの国力を増大させ、
十分な軍備を備える必要があった。
しかしそれが達成できないまま、日中戦争・太平洋戦争に突入していく。
そして↑は、後に日本がソ連攻撃を見送った理由でもあった。 対米開戦の理由は単純で明快です。
海軍の山本五十六がどうしても1941年内に真珠湾奇襲をやりたかったからです。
海軍はそれにすべてを賭けており、開戦の1年前からそう決意しており、
対米交渉なんか初めから眼中にありません。
もし交渉が進展すれば、妨害して潰されます。
実際にそうなりました。
日本の主導者の多くは陸軍は暴走するから、陸軍主導より
海軍主導のほうが安全で手堅いと思い込んだかもしれません。
しかし実際には山本五十六が主導する海軍は、陸軍以上に
愚かで大暴走し、世界中を戦争に巻き込みました。
当時、海軍が敵視していたのは、アメリカでも中国でもありません。
海軍は陸軍を敵視し、陸軍に負けるくらいならば、アメリカと全面戦争をやって
負けた方がマシだと考えていたと言われています。
アメリカの対日禁油が悪いなんて言ってますが
その前にその原因となった南部仏印進駐で
日本は何をしてたか知ってるでしょうか?
日本は南部仏印になんと14個もの飛行場を超急ピッチで整備し
陸海軍の主力を集結させ、連日上陸作戦の猛訓練です。
まさに開戦前夜です。
誰が見ても日本は対米英戦争を決意したと思われて当然です。
南部仏印進駐は、進行中の対米交渉を妨害、破綻させるために海軍によって強行されました。
元海軍次官、豊田外相による計画的な策略でしょう。 そんな国がアメリカに石油を売れといって、アメリが石油を売るでしょうか?
仮に大統領や石油会社が売りたいと思っても、アメリカ国民が怒るはずです。
なんで対米英戦争を準備中の国にアメリカが石油を売らなくてはならないのか?と。
アメリカが対日禁油に至ったのは当然のことで非は100%日本側にあります。
ルーズベルトを悪党、戦争屋のように言ってますが、戦犯は野村大使の方です。
野村大使はもと海軍大将であり、海軍の山本五十六、米内、嶋田海相らとは親密な関係でした。
アメリカでは野村大使は海軍と結託し、真珠湾奇襲を成功させるべく、米政府をだます「偽りの外交」を
やっていたと非難されましたが、その見解は正しいと思います。
外務省はアメリカ政府だけではなく、日本政府をも欺いていました。
何が何でも真珠湾奇襲を成功させたいからです。
しかし戦後、アメリカは共産主義との闘いが優先され、それには陸軍悪玉論のほうが都合がよく
(陸軍のほうが大資本勢力が金の力で世界を支配する市場原理主義を批判する社会主義派が多いため危険だと見られました)
野村大使は戦争責任を追及されるどころか、CIAの工作員になりました。
日本はアメリカに追い詰められたのだとか、
そんなの、幼児のいいわけ以下の低レベルの戯言ですね。 日中戦争は海軍の先制攻撃、渡洋爆撃によって勃発しています。
当時、国際連盟でもそのように判断し、日本の侵略戦争(不戦条約違反)
であるとして対日非難決議が採択されています。 (1937年10月)
国際法に違反した都市無差別爆撃であることも非難されました。 (1937年9月)
ルーズベルト大統領もシカゴの演説でこの海軍の都市爆撃を
激しく非難しました(隔離演説 1937年10月)
その後9ヶ国条約会議(ブリュッセル会議)でも日本の
侵略戦争を非難する対日非難決議が採択されました(1937年11月)
この海軍の中国空爆は計画的に準備して実行されており
自衛の武力行使とはとても言えません。
真珠湾奇襲と同じで、計画的な先制攻撃で侵略戦争(不戦条約違反)です。
そしてこの空爆をやる際に海軍省とその記者クラブが
さかんに宣伝したのが、海軍の大山中尉が中国軍に
虐殺された事件です。
日本国民に対し、中国に対する憎しみを抱くように国民世論は
扇動されました。
日本では中国を討伐すべきだという意見が沸きあがりました。
そして海軍は空爆を正当化していました。 しかしこの大山事件は、海軍による自作自演の
事件だったのです。
当時そのことは関係者はみんな知っていたようです。
しかし戦後の日本は海軍を支持していた者たちが権力を握り
彼らはアメリカとも癒着して
海軍の不正行為はすべて隠蔽し、陸軍に責任を擦り付けました。
戦争を煽っていた海軍省記者クラブの人たちは
終戦と同時に手のひらを返して、他者の批判を始めました。
彼らは戦後も言論界の主要なポストについて、彼らに都合のいい
陸軍悪玉論が宣伝されました。
日中戦争勃発時、海軍の実権を握っていたのは海軍次官だった山本五十六です。
そして海軍省記者クラブが絶大な影響力を持ち、新聞社による戦争扇動が
行われるようになったのもこの時からです。 結論としては
海軍の山本五十六が陸軍に主導権を奪われないよう、
陸軍の対ソ戦を阻止するため
日中戦争を勃発させ、対米戦争を勃発させた。
ふざけた話ですが、こういうことです つい最近まで大山事件がまさか
海軍の自作自演だったとは、だれも考えが及ばなかった。
いくらなんでも、それは無いだろうとおれも思っていた。
今でも詳細を知らないと、そんな話はだれも信じないだろうな。
しかし大山事件が海軍の計画的な謀略であったことは
もはや疑う余地は無い。
こうなると今までの歴史認識は、すべてがひっくり返る。
海軍の山本五十六が諸悪の根源だった事実は
だれも否定できなくなるであろう。 ■山本五十六の罪
@日本を海軍軍縮条約から脱退させた中心人物
A大山事件を図り日中交渉を妨害
無差別爆撃を強行して日中戦争を計画的に勃発させた。
Bアメリカを仮想敵国に見立てて予算を要求し、対米兵力を拡大させ
アメリカから経済制裁を受ける原因を作った。
C真珠湾をだまし討ちで攻撃するため、米大使館と結託し
偽りの外交を裏で指示した。
D太平洋戦線では捕虜をすべて殺害するよう指示
E愚かな作戦をくり返し、日本軍に壊滅的な被害を与えた張本人 以上、ここまで書かれていることは全て嘘です
歴史なんて90%が嘘なんです
真実を絵にすると、こうなってます
これを印刷して歴史の先生に見せてやりましょう
顔を真っ赤にして逃げ出します
https://dec.2chan.net/71/src/1531620737185.jpg 【24】
続き。
同じくちょっとだけ日中戦争について。
満洲事変の成功後、日本陸軍はさらに暴走を続け、内蒙工作や北支工作を始める。
中国大陸で、さらに日本の勢力圏を広げようというもの。
満洲事変以後、蒋介石は、日本軍の強さを恐れ、隠忍自重を続けていた。
なのだが、このままでは中華民国は滅亡すると判断、ここで徹底抗戦を決意。
盧溝橋事件(1937年7月7日)時点では迷いもあったが、
1937年7月19日には廬山談話を公表している(演説そのものは7月17日)。
付け足しだが、盧溝橋事件の何年も前から日中関係は非常に険悪になっており、
日中間の戦争を必至と見るのが世界的にも当たり前となっていた。
そして当時、ドイツが軍事面で中華民国を支援していた。
その軍事顧問のファルケンハウゼンも日中戦争を必至と観測、
軍備拡張と、日本を先制攻撃することまで(蒋介石は拒絶したが)進言していた。
だから「蒋介石はソ連(あるいはアメリカ)に操られていた」説は成り立たない。 【25】
対する日本陸軍の多数派は、一撃膺懲論を考えた。
日本が一発強烈に殴りつければ、それで中華民国は屈服するだろうという、安易な考え。
けれども石原莞爾(当時、参謀本部作戦部長)は、それに反対した。理由は兵力の不足。
中華民国打倒は不可能だし、屈服させられるか疑問だし、ソ連に対する防備も必要。
なのだが、当時の状況で日本が中華民国との戦争を避けるには、中国から引き揚げる以外無い。
要所だけの守備に徹し戦闘は最小限にする手もあったが、しかし結局、どちらも実現しない。
そして郎坊事件後には、石原莞爾も「もう内地師団を動員する外ない。遷延は一切の破滅だ」。
さらに中華民国軍は上海を包囲する。
当時の上海には陸戦隊しかなく、陸軍が派遣されることになる(第二次上海事変)。
石原莞爾は、これで自ら満洲へ転出、失脚していく。
以後、日本軍はさらに増派され、戦火は拡大していく。
中華民国軍は連戦連敗を重ねるが、徹底抗戦の構えは変わらず。
そうこうするうち、やがて日本の国力の限度を超えて戦線は拡大、そして長期化。
石原莞爾が危惧していたような、収拾のつかない泥沼となる。
そうしたとき、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、ドイツが緒戦に大勝。
それを見た日本は、ドイツと手を組んで何とかしようと目論む。
それが、ついにはアメリカとの戦争につながっていく。 【26】
それで話は、改めて日独伊三国同盟について、今度は日本側からの話。
これ以降は、なるべく詳しく説明していく。
まず、1940年夏頃の欧州情勢を説明する必要がある。
その時点では、ドイツはフランスを下し、唯一イギリスだけがドイツと戦争中で、
あとはほとんどドイツの同盟国・親独中立・ドイツ占領下となっていた。
(オランダは、本国はドイツ占領下だが、政府はイギリスに逃れ、戦争を継続中)。
1941年にドイツと戦争開始するソ連は、1940年時点ではドイツ寄りの立ち位置。
アメリカは、すでにドイツ打倒を決意しているが、戦争準備が整うには程遠い状態。
日本は、日中戦争の泥沼にはまり込んでいる状態だった。
そして当時の東南アジア一帯は、タイだけが独立国で、他は欧米諸国の植民地。
↑の情勢からして、もしイギリスまでドイツに敗北すれば、
当時アメリカ領のフィリピンを除いてだが、事実上の空白地帯となる。
つまり、そこへ日本が勢力を伸ばす絶好のチャンス。 【27】
そういう状況で日本が目論んだのが、マレー・シンガポール・蘭印に軍事侵攻し支配下とすること。
もちろんそれは、イギリス・オランダとの戦争を意味する。
ただしそれは、1940年夏に行われるであろうドイツの英本土侵攻作戦と呼応し、
アメリカが参戦する前に戦争の決着をつけてしまおうといった考え。
その時点では、アメリカとの戦争は意図していなかった。
そして↑の考えから、1940年7月27日に『世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』が、
1940年7月22日成立の第二次近衛内閣において、決定される↓
ttp://seesaawiki.jp/japan1/d/%C0%A4%B3%A6%BE%F0%C0%AA%A4%CE%BF%E4%B0%DC%A4%CB%C8%BC%A4%A6%BB%FE%B6%C9%BD%E8%CD%FD%CD%D7%B9%CB
ところが現実に決められたそれは、戦争決意などではなかった。
要するにそれ、日中戦争が終わるか、特に有利な状況になったら、侵攻するというもの。
逆に言えば、そうなるまでは見合わせるということ。
そうなるのも当然と言えば当然。
実はその時点では、日本陸軍は南方作戦の準備が全く出来ておらず、そもそも不可能だった。
にもかかわらず侵攻を考えること自体が無茶苦茶だが、とにかく当時はそうなっていた。
結局その時点では、ドイツと同盟だけしておくということになる。 【28】
そして1940年9月27日、アメリカと敵対関係にあるドイツと、日本は同盟する。
すでにアメリカは、ドイツと戦争する意志を固めていたのにもかかわらず。
しかし日本は、その時点では、自ら進んでアメリカに戦争を挑む意思はなかった。
日本のその時点でのねらいは、アメリカの参戦を防止することだった。
その頃の日本の目的は、日中戦争の解決と東南アジアへの進出であり、
そのためにドイツを利用すること。
外相・松岡洋右の主張では、その過程で日米は激突することになる。
しかし、日本とドイツと同時に戦争しなければならないとなれば、
アメリカはソロバンをはじいて戦争は思いとどまるだろうという考え。
ただし松岡洋右自身は、それは五分五分だと考えていた。
とどのつまり、日本にとっての日独伊三国同盟は、
日本の勢力拡大のため、敢えてアメリカと戦争になる危険を冒そうというもので、
日独が強く出ればアメリカは引くだろうという考えだった。
明らかに、アメリカの意思と実力を読み誤っていた。
日独伊三国同盟の条文↓
ttps://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%80%81%E7%8B%AC%E9%80%B8%E5%9B%BD%E5%8F%8A%E4%BC%8A%E5%A4%AA%E5%88%A9%E5%9B%BD%E9%96%93%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84-1614539 【29】
そして日本は、後に日独伊ソ四国同盟に発展させるつもりで、ドイツと同盟した。
しかしそれも、ドイツ・ソ連の意思を読み誤った結果だった。
そもそもアメリカに対抗するには日本とドイツだけでは不足で、ソ連を加える必要があった。
その意味において、日独伊ソ四国同盟の構想には一理ある。
問題は、ドイツもソ連もまったく信用に値しない国だったこと。
および、もともとドイツとソ連は、日本とソ連もだが、不倶戴天の敵同士だったこと。
そういう連中と手を組もうと考えること自体が、初めから間違っていた。
そして日本は、ドイツがイギリスを打倒することを期待してもいた。
しかしヒトラーは、同盟締結前に、イギリス本土侵攻作戦を断念していた。
ドイツはそれを、日本に伝達していない。
日本はここでも、ドイツおよびイギリスの実力と意思を読み誤っていた。
軍事的な観点からしても、ドイツ軍がイギリス本土に上陸するためには、
最低でも事前にイギリス空軍を撃破する必要がある。
ところがドイツは、バトル・オブ・ブリテンでそれを達成できなかった。
これではドイツがイギリス本土に侵攻できるはずがない。
にもかかわらず、日本はドイツの強さを過大評価し、後々までそれを期待し続ける。 【30】
ここで日本の政治体制についても説明しておく必要がある。
当時の日本の体制で、国家としての決定を行うのは、政府であり内閣。
制度上、形式上ではなく実態として天皇が命令することはないし、軍部だけで決定することも不可能。
そして当時の内閣は、全閣僚の全員一致制。もし閣内不一致が生じたら、それで内閣は総辞職となる。
現在とは違い、首相が特定の閣僚のみを更迭することは出来ない。
だから、たとえば第二次近衛内閣では、外相・松岡洋右だけの更迭はできず、いったん総辞職している。
(ただし、閣僚の方から辞表を出し、それで後任に代わることは可)。
そして、陸海軍大臣の現役武官制以降は、内閣は直接軍部の影響を受ける。
および満洲事変以後事実上の戦争状態が続き、その点からも軍部の発言力が強くなっていた。
なので事実上、政府・陸軍・海軍の三者の全員一致制となっていた。
ちなみに、周知のことだが、そういう制度を利用して陸軍は不正に政治介入した。
それから、統帥権は独立だが、陸軍と海軍の両方にまたがる事柄は、両者の一致が必要だった。 【31】
日独伊三国同盟締結の経緯が、そのような全員一致制および陸軍の政治介入の一例となる。
よく知られた事実だが、米内内閣(首相・米内光政)は、ドイツとの同盟に反対だった。
ところが、陸軍は賛成。
なので陸軍は政治介入を行い、米内内閣を倒閣する。
手口としては、陸相・畑俊六に辞表を提出させ、後任を出さないというもの。
それで米内内閣は総辞職せざるを得ず、代わって第二次近衛内閣が成立する。
これで、政府(第二次近衛内閣。首相・近衛文麿、外相・松岡洋右)と陸軍は賛成。
海軍も、実は反対は米内光政・山本五十六・井上成美らだけで、海軍全体としては、
ただし『アメリカと戦争にならない』という条件付きでだが、別に反対ではなく、
当時はそこを言いくるめられてしまった形になった。
これで政府・陸軍・海軍の三者全員が合意し、はじめて日独伊三国同盟締結に至る。
だから、もしそこに非があるとしたら、三者全員にあることになる。
もちろん正確には、それに限らず全ての事柄について。 【32】
言っておかなければならないのが、「陸軍が粗暴犯なら海軍は知能犯」ということ。
日本陸軍は、満洲事変以降暴走を重ね、政治介入を行い、日本の進路を大きく歪めた。
もちろん、それは不正な行為だった。
および、特に太平洋戦争開始後、戦争遂行のため国民を圧迫し、これが国民からの怨嗟の的になった。
じゃあ、日本海軍はどうだったのか?
陸軍の不正に対決することなく、むしろそれに乗っかり小狡く自身の利益を確保していたのではないか?
そういうことをしているから、結局は大局を誤ることになる。
日米戦争に関する限り、日本海軍は、ことあるごとに反対あるいは不同意を主張してはいた。
しかし大体にしてそれは控えめで、結局は日独伊三国同盟などアメリカと敵対する決定に同意した。
それが戦争につながる可能性があると承知しつつ、そして戦争に備えて準備をしつつ。
それは、国の舵取りを担う一員としては、あまりにお行儀の良すぎる態度だった。 【33】
とにかく、1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結される。
その直前の9月24日に、日本は、北部仏領インドシナへの進駐を実行する。
目的は、中華民国への支援ルートを遮断するため。
もちろんそれは、フランスがドイツに敗北したため可能になったことだった。
日本としては、フランスと協定を結んで穏便に進駐したかった。
なのだが、フランスはぎりぎりまで渋ったため、日本は武力進駐に切り替えようとする。
ところがその実行直前に、協定が成立する。
しかし現地の日本陸軍は武力進駐するつもりでおり、軍事衝突が起きてしまう。
日本陸軍の統帥の乱れが、ここでも起きてしまっていた。
ちなみに日本国内では、フランス側の要望に応えて進駐したと、虚偽の報道がなされた。
これは、当時行われていた日本国内に向けた情報操作および宣伝工作のひとつだった。
こういう意味において、確かに日本国民は騙されていた。
さらにちなみに、その時点でのフランスは、親独のヴィシー政権(フランス降伏後に成立)。
それがフランスの正統政府であり、一応は独立した主権国家のままだった。
ド・ゴールの自由フランスは、理屈としては、母国に対する反逆であり、
ド・ゴールはその罪により死刑宣告されていた。 【34】
そして北部仏印進駐(1940年9月)は、東南アジア方面への進出の第一歩でもあった。
なのだが、その後の南印進駐は1941年7月、太平洋戦争開始は1941年12月と、かなり時間が開いている。
ドイツ軍のイギリス本土侵攻作戦が1941年3月〜4月頃実行されると予想し、
それに呼応してマレー・シンガポールを攻撃しようという主張もあり、
そのための基地を確保しておこうと『対仏印、秦施策要綱』が決定されたりもし、
外相・松岡洋右も、その頃および前年からシンガポール攻撃を力説していたのだが、
その時点でも攻撃準備が出来ていないため、やりたくても不可能だった。
ちなみにドイツも、1941年春頃、日本に対し、しきりにシンガポール攻撃を勧誘していた。
ドイツのその意図は、ソ連と戦争している間、日本にイギリスの戦力を吸引してもらい、
背後の安全を確保することだった。しかしドイツは日本にその意図を伝達していない。
1941年6月、ドイツはソ連に侵攻するのだが、ドイツは日本にこちらも伝えていない。
そして日本は、日独伊ソ四国同盟の前段階のつもりで、1941年4月13日に日ソ中立条約を調印する。
その時点で日本は、独ソ開戦は全く予想していなかった。
ドイツがソ連を攻撃するという情報は世界中に漏れていたのだが、日本はそれを無視してしまう。 【35】
参考までに、1941年1月30日の『対仏印、秦施策要綱』↓
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12120201400
武力で無理矢理に、仏印やタイを日本に従わせようというものであり、
南方への侵攻のため軍事基地を設けようというものだが、
その時点でアメリカ・イギリスとの全面対決を意図するものではなかった。
なのだが、当時のタイは、一応独立国ではあるもののイギリス勢力下であり、
だからそのような行動は、イギリス(さらにはアメリカ)との衝突につながる恐れがあった。
昭和天皇はそれを危惧したが、(および日中戦争が終わっていないこと、名分に欠けることも)、
結局は↑のように決定される。
当時、昭和天皇の意見はしばしば無視されたが、これもそのひとつだった。 【36】
そして1941年2月頃、陸軍と海軍の間で、米英可分論・不可分論の議論が起きる。
要は「英蘭と戦争しても、アメリカとの戦争には結びつかない。だから南進しよう」が陸軍の主張。
対して「英蘭との戦争はアメリカとの戦争に直結する。しかし対米戦の準備はない」が海軍の主張。
ここでいう南進は、マレー・シンガポール、蘭印への侵攻ということ。
その後も陸海軍間の交渉は続き、結局この時点では、
陸軍としても戦争を決意していたわけではなく、海軍との合意で、南進は見合わせる事に決まる。
これが、1941年4月17日内定、6月6日決定の、対南方施策要綱。
それは、そもそも戦争準備が出来ていないという事情や、アメリカ・イギリスと戦争になった場合、
開戦後三年目には国力が急速に低下する見込みなどによっていた。
および、陸軍が主張した米英可分論は、当時の国際情勢を熟慮したものではなく、
単に陸軍がアメリカとの戦争を想定していないだけだったことにもよる。
昨年以来の南進論はなんだったのか?ということになるが、とにかくこの時点では、そうなった。
そしてとにかく、この時点では、陸海軍共にアメリカと戦争する意思はなかった。 【37】
参考までに、1941年6月6日の『対南方施策要綱』↓
ttp://seesaawiki.jp/japan1/d/%C2%D0%C6%EE%CA%FD%BB%DC%BA%F6%CD%D7%B9%CB
南進は仏印・タイまでとする決定。
「帝国と其の他の南方諸邦間に於いては正常の通商関係を維持するに努む」とあり、
それがつまり、それ以上の南進すなわち戦争はしないということ。
そして重要なのは、日本が武力行使する条件が記されている点。
そのひとつの「英、米、蘭等の対日禁輸により帝国の自存を脅威せられたる場合」が、
言うまでもないが、後に実現することになる。 【38】
ところがこの頃の日本は、重要な決定がころっと変わってしまう。
事実としては、そのすぐ後、日本陸軍は、南進およびアメリカとの戦争決意に大きく傾いていく。
それを進めた当事者の一人が、ただしその中の一人に過ぎないわけだが、
有名どころでは当時の軍務局長・佐藤賢了。
独ソ戦開始直前に、佐藤賢了は、それを予想しつつも、北進ではなく、武力による南進を主張した。
つまりはイギリス・オランダ・アメリカとの戦争を。
しかも、1941年6月6日、対南方施策要綱で南進は見合わせると決まったその日に。
(佐藤賢了も戦後に手記を書いており、言い訳がましいので私的にはおすすめできないが、
読んでおいた方が良いかもしれない)。 【39】
そして当時の日本陸軍は、アメリカ軍を弱敵と見下していた。実は佐藤賢了、ここにも関係している。
日本陸軍が対米戦を決意したのは、おそらくはだが、このためもあった。
それは、わざわざ研究するまでも無い弱敵という先入観でもあり、
信じがたいことだが、これはガダルカナル以降、敗戦を重ねたあとも変わらなかった。
これについては、『日本陸軍「戦訓」の研究』に詳しい。
ttp://www.fuyoshobo.co.jp/book/b101250.html
山本七平の著作は、フィリピン戦に従事した当事者の証言だ。
天王山のフィリピンに至っても、日本陸軍は、アメリカ軍の研究は何一つ行っていなかった。
そして井本熊夫著『大東亜戦争作戦日誌』では、
本土決戦直前に至っても、それが全く変わらなかったことが分かる。
(ただし井本熊夫は当時の国際情勢を理解しておらず、日米戦争の原因など誤解している)
ちなみにだが、硫黄島の戦いで有名な栗林忠道は、アメリカ軍の実力をきちんと認識していた。
だから佐藤賢了ではなく栗林忠道が陸軍中央の要職に就いていれば、
あるいは歴史は変わっていたかもしれない。 【40】
ところが陸軍内部に限っても、直ちに南進を決定することは出来なかった。
1941年6月22日に独ソ戦が始まり、陸軍内部が北進論と南進論に割れたため。
この時日本陸軍は、関特演で、ソ連攻撃の準備を始める。
日本は独ソ戦勃発は全く予想しておらず、従って事前のソ連攻撃の準備はなく、
そしてソ連極東軍は日本軍より非常に優勢だったため、
直ちにドイツと呼応してソ連に侵攻することは不可能だった。
陸軍内部のみならず、政府内では外相・松岡洋右も、声高にソ連攻撃を主張した。
ソ連との中立条約を結んだ張本人であり、これまで南進を主張し続けてきたというのに。
そしてドイツもソ連攻撃を要請してきたのだが、結局、日本はソ連攻撃を見送る。
実のところ日本陸軍は、早くも1941年7月時点で、ソ連の敗北は無いと判断していた。
(ただし、長期にわたる戦争の末、究極的にはドイツが勝つという意見ではあった)。
そして関特演時点で、満洲の日本陸軍は、およそ70万人。
ところが、それに対するソ連極東軍は、およそその倍、150万人以上。
戦車や航空機も、ソ連が遙かに優勢。
しかも攻撃開始は秋になるという時期的な不利も加わる。日本陸軍に冬期作戦の備えは無い。
これではソ連攻撃は不可能で、結局、日本陸軍としては南進しかないという結論になった。
正確には、南進は実行するが、日中戦争は継続し、北はソ連からの攻撃に備えるというもの。
その決定は、石油禁輸後の、1941年8月9日の帝国陸軍作戦要綱。 【41】
こうしている間も、1941年春から始まった日米交渉は、行われている。
これまたものすごく複雑なのだが、とにかく日米ともに強硬。妥協の意思はない。
そして第二次近衛内閣の外相・松岡洋右は、
アメリカに対する強硬姿勢のみならず、ドイツとの同盟を締結した張本人ということもあり、
ついにはアメリカから、事実上、罷免を求められるに至る。
(6月21日米国案のオーラルステートメント。アメリカは意図的に独ソ戦直前に出した)
これに松岡洋右は、その発言は『杉山メモ』に記録されているが、
ほとんど血迷うほどに激怒した。
その後に松岡洋右は、日米交渉の中止を言い出したことなどもあって、事実上の解任となる。
制度上、近衛文麿には松岡洋右を更迭できないので、いったん第二次近衛内閣が総辞職、
外相を豊田貞次郎に交代させて、1941年7月18日に第三次近衛内閣が成立するという形。
一応参考までに↓
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88#9%E6%9C%8825%E6%97%A5%E4%BB%98%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A1%88 【42】
ここも一応、説明。
第二次近衛内閣というか外相・松岡洋右の構想は、
日本・ドイツ・ソ連・アメリカで、世界を四分割しようというものだった。
そしてそれは、日独伊ソ四国同盟の成立と、ドイツがイギリスを打倒することが前提だった。
そうした構想から松岡洋右は、アメリカに対し、
ヨーロッパの戦争に加わらないこと、イギリス支援を行わないこと、
日中戦争についても日本の要求を受け入れること、などを求めた。
(1941年5月12日の日本案)
真っ向からアメリカに対立するもので、これで日米交渉が成功するわけがない。
事実としては、松岡洋右も日米交渉が成功する可能性は低いと思っていた。
松岡洋右自身の言葉では、30%。
なんにしても、その構想は独ソ戦勃発で破綻。松岡洋右は退場となる。 【43】
そして1941年7月末、ついに南部仏印進駐が実行される。
ここの経緯がまた面倒くさい。
そもそもその時、イギリス・オランダはドイツと戦争中。
アメリカもドイツとの戦争を決意し、全力で戦争準備を推進中。
なので、これらの諸国は、何よりも自らの戦争のために物資を必要としていた。
結果、日本まで回らない状況となっていた。
そして日本はドイツと同盟していたため、
それらの国にとって、近い将来刃を交えるであろう敵性国家になっていた。
となれば、本来なら日本に戦略物資を渡すわけにはいかないのだが、
出来れば日本との戦争は回避したい・少なくとも先送りしたいという思惑から、
それは段階的に締め付ける形で実行されていた。
そういった事情から、当時の日本は、物資の調達が思うように出来なくなっていた。
南印進駐は、それを解決する目的で、蘭印などに圧力をかけるために行われた。
(および、タイ・仏印間での国境紛争に対する圧力などの目的もあった)。 【44】
日本は、ドイツとの同盟以来、正確にはドイツが大勝した頃以来、
マレー・シンガポール・蘭印への攻撃の構想を抱いてもいた。
そのためには、南部仏印に基地を置く必要がある。
これも南印進駐の目的であり、
それはすなわちマレー・シンガポール・蘭印への攻撃準備でもあった。
(ただしマレー攻撃は、タイまで兵を進め、地続きでの侵攻が望ましかった)。
ところが、その時点での日本は、マレー・シンガポールおよび蘭印への攻撃を決意していない。
それは1941年7月2日の御前会議での『情勢の推移に伴ふ帝国国策遂行要領』に基づき、
「対英米戦を辞せず」として行われたものではあるが、
それでも国としては、その時点では戦争決意はなかった。
(および1941年6月25日の『南方施策促進に関する件』による)。
けれどもアメリカは、南印進駐に対し、資産凍結そして石油禁輸という最終手段で応じた。
日本は、制裁されること自体は予期していたが、
石油が禁輸されるならタイまで進んだ後だろうと思い込んでおり、
南印進駐時点でアメリカがそこまでするとは予想しておらず、
実行された後で驚愕するという有様だった。 【45】
参考までに、1941年7月2日の『情勢の推移に伴ふ帝国国策遂行要領』↓
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%83%8E%E6%8E%A8%E7%A7%BB%E3%83%8B%E4%BC%B4%E3%83%95%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E7%AD%96%E8%A6%81%E7%B6%B1
一見威勢の良い言葉がならんでいるが、実質的な内容としては、
(1)日中戦争は継続する。
(2)南印まで進み、南方への攻撃準備をする。
(3)かつ、好機が来たらソ連を攻撃する。そのための準備も進める。
つまりは好機に備えて北進南進両方の準備をしておこうというものであり、
国家の方針を決めかねて両論を併記したものでもあった。
その時点で、陸軍は北進と南進両方に割れており、松岡洋右は北進を主張、
海軍は北進に反対で南進を主張という、そういう有様だった。
(付け加えるに、このとき海軍が本気で南進の意図だったのか、非常に疑問)。
ただし、それとは別に大東亜共栄圏の建設(中国と東南アジアを勢力圏とする事)は決定されており、
だからここでいう北進論とは、まずソ連を始末してから南進しようという、順番違いの南進論だった。
同じく参考までに、1941年6月25日の『南方施策促進に関する件』↓
ttp://seesaawiki.jp/japan1/d/%C6%EE%CA%FD%BB%DC%BA%F6%C2%A5%BF%CA%A4%CB%B4%D8%A4%B9%A4%EB%B7%EF
武力行使してでも南印進駐を断行するというもの。 【46】
石油禁輸に関するアメリカ側の意思について、不明な部分はある。
なのだが、経緯としては、こう↓
日本の南印進駐は、フランス側と交渉後、実のところは強要だが、フランス側の同意を得て行われた。
ところがその交渉内容は事前に漏れ、アメリカでは一層、日本に対する反発が強まる。
米紙は日本に対する経済制裁を主張。
7月23日、ハルは駐米大使・野村吉三郎に、「交渉継続の基礎がなくなったと考えている」と伝言。
7月24日、野村吉三郎は、南印進駐について了解を得ようとルーズベルトと会談。
ルーズベルトは仏印の中立化を提案し、そして石油の禁輸を示唆。
7月25日、海南島から南印に日本軍が出発。
それを確認後、アメリカは、1941年7月25日午後8時、26日午前零時から資産凍結を行うと発表。
日本時間では26日午後2時。
これにイギリスとカナダが同調。
28日には蘭印も加わり、日蘭石油協定の停止、対日輸出の許可制、つまり事実上の禁輸を行う。
7月30日、日本軍がサイゴンに上陸。
これに対しアメリカは、8月1日、石油の禁輸を実施。
表現上は1935〜36年度までの量の許可制だが、資産凍結のため、事実上の全面禁輸となる。
当時の日本の石油輸入はアメリカと蘭印からなので、これで日本は石油を一滴も輸入できなくなった。
ここで日米は、文字通り戦争直前までに激しく緊張。
両国間の船舶の運航は、この後、完全に停止する。 【47】
先述のようにアメリカは、かえって日本を戦争に駆り立ててしまうことを嫌い、
だから敵性国家であるにもかかわらず、これまで石油の禁輸は行わなかった。
ところがアメリカは、日本の南印進駐を、東南アジア方面への攻撃準備と見た。
それも、既に決意を固めた上での攻撃準備と。
この旨はコーデル・ハルが野村吉三郎に語っている。
だから理屈としては、アメリカにとって、これで石油の禁輸を行わない理由はなくなってしまった。
また、ここでアメリカが強硬姿勢を見せることで、
可能性は小さいが、あるいは日本は戦争を思いとどまるかもしれないということになる。
事実は逆で、石油を禁輸されたために日本は戦争を決意していくのだが、
アメリカにそこまで分かるわけがなかった。 【48】
この石油の禁輸によって、日本では、やっとアメリカとの戦争決意が固まり始める。
改めてその時の状況をまとめると、↓のようになる。
まず、これまで説明したように、ソ連攻撃は不可能。
『情勢の推移に伴ふ帝国国策遂行要領』時点ではまだだが、8月時点ではそう結論が出ている。
ただし完全にその意図を捨てたのではなく、もし好機が来たら攻撃するというものではあった。
そして、国家にとって石油はどうしても必要。
この状況で日本が石油を入手するには、アメリカに屈服するか、武力で蘭印を奪うかしかない。
東南アジア方面のオランダ軍(およびアメリカ軍・イギリス軍)は弱体で、確実に撃破できる。
それらは、頭数は多いが資質は劣等の植民地軍だった。
ところが当時の情勢からして、オランダとの戦争は自動的にイギリスとの戦争になり、
それはすなわちアメリカとの戦争に直結すると考えられた。
従って、もしアメリカに屈服しないなら、アメリカと戦争するしかないという理屈になる。
事実としても、陸海軍共にアメリカとの戦争を主張する声が強くなっていく。
問題は、アメリカと全面戦争になった時、最終的に勝利できるか?だった。
それがまさしく大問題で、結局、戦争決意は11月まで遅れることになる。 【49】
ちなみにだが、この頃、内大臣・木戸幸一は、日清戦争後の三国干渉の時のように、
一旦アメリカに屈服し、臥薪嘗胆するしかないと考えていた。
木戸幸一日記の昭和16年(1941年)8月7日の記述。
普通に考えれば、それが当たり前だろう。
日米の国力差、日本の置かれた状況、総力戦という戦争の形態、などからすれば。
ところが、その当たり前が通らないのが、当時の日本だった。
ただし木戸幸一は、10年間を目処とする臥薪嘗胆の後、今度こそ南進する考えでもあった。
つまりは大日本主義的な夢で、戦後の人間とは全く違う考えだった。
さらにちなみにだが、石橋湛山は大正時代、既に小日本主義を唱えていた。
満洲も朝鮮も台湾も日本には不要ということで、少数だが、そう考える人間も当時いたってこと。 【50】
そして木戸幸一日記の1941年7月31日には、
軍令部総長・永野修身の上奏が記されている。
内容↓
○戦争は避けたい。
○ドイツと同盟している限り、日米関係は好転しない。
○石油が禁輸されるなら、戦争に打って出るしかない。
○勝利はおぼつかない。日本海海戦のような大勝利は望めない。
という煮え切らない態度。
結局のところは、海軍内部で主戦派と避戦派が綱引きしていたため、
海軍全体としては、そうなっていたものと思われる。
補足して説明だが、当時の日本海軍の研究結果では、そもそも艦隊決戦など起こらない。
真珠湾攻撃は研究中で、山本五十六は強く主張していたが、この時点ではまだ成功の見込みは無い。
さらにちなみにだが、
NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』は、
木戸幸一日記のその箇所を誤読し、軍令部は主戦論を唱えていたと誤解している。
新潮文庫版だと85ページ。NHKは、たまにこういう間違いをしでかす。 【51】
このように日本は右往左往なのだが、アメリカはドイツとの戦争にまっすぐ向かっていた。
民主主義国としての事情から、まだ最終決定ではないとはいえ。
アメリカは、1941年8月9日から12日までイギリスと大西洋会談を行い、共同で大西洋憲章を発表する↓
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
↑は、まだアメリカは参戦もしていないのに、ドイツ打倒を宣言している。
が、意図的に日本とイタリアの名は外している。
すなわちそれは、
「ドイツと手切れするなら今のうちだ。さもなくばドイツもろとも打倒する」という、
日本とイタリアに対する遠回しなアピールでもあった。
付け加えるに、↑は、植民地解放も宣言している。
「日本はアメリカの植民地にされていたかも知れない」なんて説もあるが、
事実としては、アメリカにそんな意思などなかった。 【52】
そして日本陸軍は、日本内部ではいち早く、1941年8月9日の帝国陸軍作戦要綱で、
南進を、つまりはアメリカとの戦争を、ほぼ決意した。
その内容↓
一、在満鮮十六個師団を以て対ソ警戒を至厳ならしめる。
二、中国に対し既定の作戦を続行する。
三、南方に対しては十一月末を目標として対英米戦準備を促進する。
(『大東亜戦争全史』より)
陸軍にとっては戦争準備イコール戦争決意であり、
だからアメリカとの戦争に大きく傾いたと言えるが、陸軍としても最終決定ではない。
つまり、当時の日本の体制上、開戦を決定するには、政府・陸軍・海軍の全員一致が必要。
しかしこの時点では、政府(第三次近衛内閣)と海軍は戦争に同意していない。
ただし、アメリカとの戦争は避けたいと思っていたにもかかわらず、
海軍も積極的に戦争準備は進めており、どうしても戦争に反対というわけでは無かった。
これまた面倒な話だが、海軍にとって戦争準備は戦争決意では無く、
つまりは戦争準備だけ先に進めておいて戦争決意は後回しにしようということで、
だからこの時点では戦争決意には不同意ということ。
そして陸軍も、この時点では、日本の要求が通って日米交渉が成功するのならば、
それでよいという意思だった。
問題は、陸軍にはアメリカに譲歩する意思が薄かったという点で、
これが日米交渉を進めようとする首相・近衛文麿にとって、大きな障害になった。 【53】
石油の禁輸後、首相・近衛文麿は、なお日米交渉に望みを託した。
1941年8月4日に近衛文麿は、日米首脳会談の案を陸軍と海軍に示している。
何故首脳会談かというと、ひとつには近衛文麿の思いつきだったのだが、制度上の理由もあった。
そもそも日米交渉を成功させるには、日本側もそれなりの譲歩はする必要がある。
ところがその頃の陸軍には、そういう意思がほとんどない。
当時の日本が、事実上、政府・陸軍・海軍の全員一致制である以上、
陸軍がそういうつもりとあっては、もはや日米交渉は、制度上、不可能。
だから近衛文麿は、日米首脳会談により、そういう制度上の制約をすり抜けようとした。
しかし不幸なことに、アメリカは、日本のそういう事情を理解しなかった。
大西洋憲章の後、8月17日、ルーズベルトは野村吉三郎に強い警告を行う。
これ以上日本が武力による進出を続けるならば、アメリカはあらゆる必要な処置を執るという旨。
最後通牒に近い台詞だが、ここでは同時に、日米首脳会談に応じるかのような姿勢も見せていた。
しかし最終的には1941年10月2日の米国覚書↓で、日米首脳会談はつぶれることになる。
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/image_B02030719900?IS_STYLE=default&IS_KIND=detail&IS_TAG_S1=InD&IS_KEY_S1=B02030719900&
内容は、日米首脳会談の拒否、四原則(領土・主権の尊重、内政不干渉、機会均等、現状維持)、
中国・仏印からの撤兵、日独伊三国同盟の死文化。
(ただし事実上はその前、1941年9月3日時点のアメリカの回答で終わっていた)。 【54】
近衛文麿は、日米首脳会談が潰えた後も、なお交渉解決を目指して頑張った。
そして1941年10月12日、荻外荘(てきがいそう)で会談が開かれる。
ここで首相・近衛文麿は、交渉の継続を提案。
これに対して陸相・東条英機は、交渉に見込みはないと主張。つまりは戦争ということ。
そして海相・及川古志郎は、「いまや和戦いずれかを選ぶときである。その決定は総理に委せたい」。
(海軍はアメリカとの戦争に反対だが、公式にはそう言えないので、同じく反対である政府に一任)。
つまりこの頃には、8月時点とは違い、陸軍は完全にアメリカとの戦争を決意。
陸相・東条英機は、アメリカとの戦争を決意するよう、首相・近衛文麿に圧力をかけるようになる。
海軍がはっきり反対すれば、体制上それでお終いで戦争は出来ないのだが、海軍はそうしなかった。
このあたりも、陸軍が粗暴犯なら海軍は知能犯、だろう。
その後に近衛文麿は駐兵問題の譲歩を考えるが、東条英機はそれも拒否。
結局、閣内不一致から第三次近衛内閣は総辞職し、東条内閣が成立する。 【55】
次は、いよいよ日本の戦争決意について。
まだ第三次近衛内閣の頃、1941年9月6日の御前会議で、帝国国策遂行要領が決められる。
内容としては、十月上旬頃までに交渉成功の目途が立たない場合、開戦を決意するというもの。
問題は交渉の成否ではなく目処であり、その有無はまた別に判定する必要があり、
従ってまだ戦争の決定ではないが、そちらへ大きく歩を進めるものではある。
ところがこの御前会議で、昭和天皇は異例の意思表示を行う。
よく知られているが、「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」
戦争には反対という意味。
先述のように、10月12日の荻外荘の会談で東条英機は、交渉に見込みがないと戦争を主張した。
それは、↑の御前会議の決定による。
同様にそれは、↑の昭和天皇の意図に背くものでもあった。
この後、1941年10月18日、第三次近衛内閣に代わって東条内閣が成立する。
そのとき昭和天皇は、9月6日の決定は白紙に戻して再検討するよう、木戸幸一から東条英機に伝えさせた。
こうしている間も戦争準備は進んでいるのだが、
とにかくこれで、戦争するかしないかは、いったん未定になる。 【56】
ところが東条英機は、文字通り律儀に再検討だけ行い、再度戦争へ向かう決定をしていく。
つまりは、もちろんその真意は当人以外分かるわけないのだが、
昭和天皇の意思を承知しながら、それに逆らったことになる。
首相就任後、一応日米交渉はしているので、単純に昭和天皇の意思を無視した訳でもないし、
当時の体制からして、東条英機個人の責任でもないのだが、とにかく。 【57】
なぜ、昭和天皇の平和の意思は無視されてしまったのか?
簡単に説明すると、それは明治憲法の規定、天皇の政治的無責任による。
だから天皇は、責任が生じる行動は出来ず、自らの意思で命令は出来ない。
出来るのは、政府および軍部が決定した事柄を、そのまま追認するだけ。
それに関して意見や感想を述べることは出来るが、
命令になってはいけないので、それも控えめでなければならず、
そして政府および軍部は、それに従わなくて構わない。
昭和天皇は、政府や軍部に説明を求めることは出来るし、
あれこれ質問も出来るし、そこに瑕疵があればその指摘も出来る。
だから開戦前、昭和天皇は「本当に大丈夫なのか?」と何度も、
時にはほとんど詰問だったが、繰り返した。
なのだが、「それでも戦争しかありません」、
「危険はありますが、勝利の可能性はあります」などと言われれば、
昭和天皇に拒否権は無いので、それでお仕舞い。
だから開戦前、昭和天皇は漠然とした平和の意図を示すことしかできず、
結局それは無視されてしまった。話としては、ただそれだけのことになる。
昭和天皇が、ああしろ、こうしろと言ったことは確かにあるが、
実のところ、それに命令としての効力は無く、実態は命令口調の意見に相当する。
天皇は、確かに権威を持っているが、突き詰めればお飾りに過ぎない。
臣下が天皇の意思を重んじるなら実態として違ってくるが、当時はそうならなかった。 【58】
そのような天皇制の実態は、さらなる大問題を内包していた。
ひとつには、全体的な状況を把握した上で総合判断を下せる人間がいないこと。
体制上、それが出来るのは昭和天皇ただひとりなのだが、昭和天皇は意見までしか言えない。
臣下がそれを尊重すれば良いのだが、当時はそうならなかった。
(ただし、昭和天皇にも正確な情報は伝えられないことが、当時、しばしばだった)。
そして、何を決めるにも、協議を重ね全員一致に至らなければならないこと。
そういうことでは、往々にして決定そのものが困難になるし、現実にそうなった。
玉虫色だったり、両論併記だったり。
理屈としては、制度に欠陥があっても運用でなんとか出来るのだが、
当時はそうはならなかった。
また、実態がどうあれ、建前上それは天皇の命令であり、しかし天皇は政治的無責任。
故に、政府も軍部も、決定について責任は負わないことになる。
当時の日本は、一種の無責任体制だった。 【59】
さかのぼって、なぜ東条英機が首相にされたのか?というと、これまた面倒な事情がある。
まず、第三次近衛内閣総辞職後、皇族(東久邇宮)を首相にすることが考えられた。
しかし、その時点で陸海軍の不一致が解決されていないことが、まず問題だった。
そして、皇室に累が及ぶ恐れもあった。現実に、後に東条英機に怨嗟が向かっていったように。
だから内大臣・木戸幸一は、その職責からそれに反対し、代わりに東条英機を推した。
それが1941年10月17日の重臣会議においてで、そして結局、そうなった。
理屈としては、その時点で陸軍は完全にアメリカとの戦争を決意しているため、
和平を目指す人間が首相に就任することは、もはや不可能。
その時には、必ずや陸軍が政治介入するからだ。
そこからすると陸軍の軍人を首相にするしかなく、その時点でのそれは東条英機になる。
その後に陸軍の意思通りアメリカとの戦争になったとしても、そして敗北したとしても、
その責を負うのは、および国民の恨みが向かうのは東条英機となり、皇室は守られる。
さらに、首相兼陸相となった東条英機に、9月6日の決定を白紙に戻し再検討するように言えば、
それに陸軍は文句をつけられず、アメリカとの戦争は回避できる可能性がある。
とにかく東条英機は、自ら首相になろうとしたわけではないし、その能力を買われたわけでもない。
単に日本の国内事情から、そうなっただけのことだった。 【60】
ついでに言うと、明治憲法下の日本には、首相選出の規定が無い。
建前上、それも天皇の命令なのだが、前述と同様、昭和天皇が直接選ぶことはできず、
「誰それが良いと思います」という臣下からの上奏に従うことしかできない。
太平洋戦争前の当時、それを行っていたのは西園寺公望で、その死後は重臣会議となった。
(当時の重臣とは首相経験者だが、木戸幸一など、そうではない人間も加わっていた)。
さらに言えば、そもそも明治憲法には、内閣の規定も首相の規定も無い。
単に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」とあるだけ。
それを定めているのは内閣官制だった。
そして、当時の首相は国務大臣の代表者に過ぎず、
統帥権の独立という制度からも、特に大きな権力を持っているわけでは無かった。
ttps://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/1-1.html
ttp://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html 【61】
さらについでに、御前会議とは何なのか?という話。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E4%BC%9A%E8%AD%B0
これ、会議と名がついているが、実は違う。
すべての決定は事前に政府と軍部で行われており、
それを昭和天皇に報告する儀式みたいなものが、昭和の当時の御前会議だった。
儀式とは違うが、天皇は現人神で、当時は過度の神格化なので、それじみた感じになる。
一応質疑はあるが、それも事前に決められており、形だけだった。
昭和天皇は、御前会議の場では沈黙しているのが常だったが、
その実態が↑である以上、黙って聞いていることこそが当然だった。
この御前会議、そもそも制度的な裏付けは無い。
そして昭和の当時のそれは、単に重要事項の決定というだけではなく、
事実上の政府・陸軍・海軍の全員一致制のためでもあった。
とどのつまりとしては、三者は対等で(軍部の発言力は強くなっていたが)、
三者間の意思を調整する機関も、最終的に裁定を下す機関も無い。
だから当時、「これで決定だからな。後で文句つけるなよ」と、三者間、
特に陸軍と海軍の間で念を押しておく必要があり、それが御前会議だったということ。
ただしそれも、両論併記だったり玉虫色だったりして、
決定になっていないことが、しばしばだった。
そして、天皇の前での決定は反故にできないので、
後になって状況が変わったとしても、柔軟に対応できないことにもなった。 【62】
話は、日本の戦争決意に戻る。
以上のように、十月下旬に再検討が行われ、なおも面倒な紆余曲折の末、
最終的には戦争へと進んでいく。
つまり、この頃には、やっと海軍もアメリカとの戦争に同意。
「戦機は今」などと勇ましい台詞を言い出すようになる。
(軍令部総長・永野修身の台詞)
それは、その時点では日本海軍の実力がアメリカ海軍を上回っていたこと、
(数的には劣勢だが、練度は大きく上回り、総合的にはやや優勢くらい)、
けれどもこの先アメリカの戦争準備が進めば日本側が劣勢になること、
戦争するなら備蓄の石油が尽きる前でなければならなかったこと、などによる。
(1942年3月の開戦も検討されたが、それでは備蓄の石油が底をつく)
そういったところから、海相・嶋田繁太郎は、1941年10月30日、
それまで反対だったにもかかわらず、アメリカとの戦争に同意した↓
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E7%94%B0%E7%B9%81%E5%A4%AA%E9%83%8E
制度上、海軍大臣の決定が、海軍の意思ということになる。 【63】
改めて海軍の戦争決意について。
先述のように、当時の日本には、アメリカに屈服するか戦争するか、二つに一つしかない。
しかし屈服は、満洲事変以来の成果をすべて失うことになり、
多くの犠牲を出した日中戦争も捨てることになるので、文官ですら断固拒否だった。
それでも、どうしても戦争が無理なら、否応なく屈服するしかない。
が、当時の日本には、総合的にはアメリカをやや上回るくらいの海軍力があった。
常識的には、その程度では戦争には勝てない。
どころか、国力・工業力の差からすると、そしてそれが総力戦になるとすると、
最終的には日本が負けると判断するのが当然。
なのだが、とにかく戦争は出来るのであり、
断行すれば、あるいは不利を克服して局面を打開できるかも知れない。
そして、陸軍は既に戦争を決意していたこと、
軍人の立場としては、戦わずして屈服しようなどとは言い出せなかったこと、
今を逃せば、アメリカの戦力が整い、石油が枯渇するので、戦争自体が不可能になること、
また、海軍内部にも主戦派はいたこと、
そうしたところから、結局、海軍も戦争に同意してしまったのだと思われる。
陸軍は大体ストレートで分かりやすいんだが、海軍には不透明なところも多い。
それから参考として↓
ttps://ci.nii.ac.jp/naid/110007410516/ 【64】
そして一応、組織防衛の話。
「海軍は、組織防衛のために、アメリカとの戦争に反対できなかった」という説はよく聞く。
当時の人々の本心は確認不可能だが、おそらくそういう意図はあったと思われる。
なのだが、これは陸軍にも全く同じ事が言える。つまりは日中戦争。
当時はもはや、日本が撤退して終わらせる以外ない状況に陥っていた。
にもかかわらず、陸軍がそうできなかったのは何故か?
やはり、そこには組織防衛の意図もあったんじゃないか?ということ。
日本の戦争については、陸軍の責任は大きい。
なのだが、それとは違う形で、海軍の責任も大きかった。
色々な点から、「陸軍が粗暴犯なら海軍は知能犯」だった。 【65】
そしてこの時、東条内閣成立後の再検討で、改めて米英蘭の可分・不可分が議論され、
やはり不可分という結論になる。
その理由のひとつは、これまで説明してきたような、当時の国際情勢。
もうひとつは、軍事的な理由だった。
とどのつまり、当時アメリカ領のフィリピンを残していては、
南方作戦に支障を来すということ。
この点、日本〜フィリピン〜東南アジア各地の位置関係を、
地球儀などで確認すれば、一目瞭然のはず。
更に、アメリカと戦争しなければならないなら、アメリカの戦争準備が整う前に、
日本から先制攻撃した方が有利なこと、これまた自明の理。
従って軍事的な点からも、日本は英・蘭とだけ開戦することは出来ず、
アメリカとも戦争するしかないという結論になった。 【66】
ただし、まっすぐに戦争と決まったわけではない。
一応当時の日本では、アメリカに屈服することも検討された。
当時の状況では、それは基本、10月2日の米国覚書をのむということだった。
ところが、外相・東郷茂徳だけは少し違ったが、
他は文官も含めて、満洲事変以来の成果を失うことになると、それを拒否。
「三等国になる」と。
隠忍自重も検討されたが、それでは結局、
備蓄の石油を食いつぶした後、アメリカに戦わずして屈服しなければならなくなる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています