西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 2
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廃藩置県なんて当時誰でも考えていた流れで
西郷が考えたわけでもないし、まともに理解していたかも怪しいぞ
明治6年の政変で西郷が下野した後の鹿児島を見れば
現実の西郷がどのようなものであったか分かろうというもの 西郷党とも言える私学校はナチス党や中国共産党と同じく、誰も逆らえない一党独裁者になり
城下士と郷士との身分差別は深まった
本土の百姓も奄美の奴隷も解放されるどころか、旧藩同様の簒奪を受けた 西郷君臨下の鹿児島はシンプルに北朝鮮と同じであった
いや島津時代のほうがまだましであったと言える
何しろアンチ久光を広言する西郷のような者でも殺されずに藩政に参加できていたのだから
よほど民主的であったのだろう
西郷君臨下の鹿児島はどうか
西南戦争では従軍を拒む郷士をその場で虐殺した 西郷の理想がどうだったかは知らないが
唯一史実として言えるのは、私学校独裁の鹿児島を
西郷は甘受していたということ
そこには中央政府時代に後押しをしたとされる廃藩置県や徴兵制の片鱗も見えない 腐敗した封建制度や世襲制度って……、ベルバラのイメージならそうだね。
マリーアントワネットが「パンがなければケーキを食べればいい」っていうのはフィクションだったけど
賭博にハマって血税をガバガハ浪費したことは本当なんだよなぁ。
それで革命が起きて、即位だけはした最後の国王ルイ17世は人道もなにもあったもんじゃない虐待行為によって
わずか10歳で悲惨な死を遂げたけどその顛末の認知度は低い。
革命というのはエスカレートしすぎるからよくない。国王夫妻を断頭台で処刑するのもドン引きだけど、その子どもまでも
虐待死させるのが正義を叫んでノリノリだった革命派。
原理主義一神教の信者脳は排斥する対象に容赦がなさすぎる。
対して、キリスト教に禁教令を出していた徳川幕府は殿様さえも質素が美徳とされていた。
西洋の封建制度と日本の封建制度は呼び名を同じにしているのがおかしいほど別物だ。
世襲制は高水準の技術の継承には必須たった。
農業・林業・大工・その他伝統工芸の技術者も幼い頃から道具や現場に馴染んで経験を
積まなければ手に入らない高度な技能だ。
政(まつりごと)の家系には次代の殿とその側近をセットで育成しなければならないかった。幼い頃から
徹底して教育するなら世襲ってなる。ほぼ当然。
庶民からは見えなかったお偉いさんたちの社交による根回しも、メインは茶室や碁を打ちながらの明晰な脳の
コンディションで行われていた。
酔っ払いが勢いで国家を運営したら惨憺たることになるから当然と言えば当然ではあるが。
テロ活動にいそしむ薩長工作員は密会するにも潜伏するにも酒飲んで女遊びする場所ばかりだったから
やることやること酩酊脳の勢い任せでテンションがおかしい。
強い権力者は悪だーってテンプレな思い込みも短絡的。
外様大名には不評だった参勤交代も街道・宿場町の経済を潤していたし、行軍訓練にもなっていた。
戦争経済の依存しなければやっいてけなくて朝鮮出兵をやらかした豊臣政権よりも上手くやってるなぁと感心する。
江戸時代の粗探しをしてみると大組織の運営の試行錯誤が興味深いけど、たまに忠臣蔵のような
通り魔狂人に追従する勘違い忠義者が非武装の老人を夜闇に集団で殺人しにいく美談(?)が流行したりしてたけど、
おおむね歌舞伎のような庶民の娯楽になって流行する程度で国を揺るがすほどのものにはならなかった。
薩摩藩と西郷は粗探しなんてしなくても粗だらけ。雑だし残虐だし幕府の粗探しをしてレッテル貼りして
世論誘導してと……、その行動パターンは己の所業を顧みてないところがもうアカンやつ。
西郷も黒糖地獄見てきた経験があるけど生還してから奄美のためのことどれほどのことをしたっけ。
久光を田舎者と罵ったくせに江戸の先進的な文化とやらを薩摩に広めることもしない。
戦場をプロデュースして戦して目立ったから英雄? 戦国時代に回帰したかっただけの迷惑野郎なんじゃないの? 大型連休明けの忙しい日にもかかわらず職業反日プロパガンダは暇が存分にあることだけはわかった。wwww 公武合体派の軍学者赤松小三郎を、その教え子・人斬り中村半次郎に斬らせた黒幕は
西郷だったと「諸説あり」って番組で言っていた。
仮説とはいえさもありなん。暗殺が歴史を動かすのに有効手段だった時代だ。
西郷は戦好き。公武合体が実現したら戦ができない。戦こそが時代を動かす。
徳川幕府を戦で滅ぼして新時代をってビジョンを強く持っていた。
それにしても赤松暗殺の理由は、彼の知識が幕府軍を強くするのを危惧したって
ことらしいが、赤松にしたら災難なことだ。
役割を終えて帰ろうとしたら教え子に斬られるって、恩を仇で返されたってことになる。
軍事の技能をパクって用済みになったら機密保持のために消す。
招かれて行ったら、教える側である間はもて囃されるが生還はできない。それが薩摩。
余所者に対してだから冷酷な決断ができた?
西郷も同郷の大久保らに見限られているから因果応報?
……後味の悪い話だ。 >>155
廃藩置県を考えたのはたくさんいたが、実行に移せるのは西郷以外にいなかったってこと。 >>161
この時期の桐野は小松帯刀から重用されてて、西郷の命令下で動く事はあまり考えられないがなぁ
むしろこの時期の桐野は政略的な面での活動が多くて、小松帯刀や朝廷工作をやってた大久保に近かった頃だし
西郷に抜擢され麾下で動くようになるのは戊辰戦争の頃からだしね
しかし小松帯刀が桐野に暗殺を指示するっても、彼の政治姿勢を考えたら想像し難い事で…小松帯刀ってイメージより黒かったのかもしれんけどね >>162
実行もなにも西郷は何もやってないよ
そもそも実行するような実務能力が無い >>164
スレ主は、時々こういう卓袱台をひっくり返すようなレスをします。
スレ主が自分で荒らすんだから、そりゃスレは荒れる。
荒らしてレスが来るのが目的の、かまってちゃんだから仕方ないのでしょうが。
こんな人に「人望」の意味が分かるはずがありません。 実際に「実行」という言葉に値することなんて何もしてないじゃん
『山県有朋らが進める廃藩置県に西郷は理解を示し協力した』って言い方が正しい
「実行」「人望」・・・実体の無いポエムだな
バカ 「西郷はその人望と求心力で廃藩置県を実行した」
・・・すごい深い意味がありそうだが、ちょっと考えれば何の意味も無いポエムだと分かる
西郷を礼賛するバカが使う表現てこんなのばっかりだわ >>166
スレ主の知識不足は深刻レベル。
>『山県有朋らが進める廃藩置県に西郷は理解を示し協力した』って言い方が正しい
その言い回しは西郷は廃藩置県の蚊帳の外にいてサポートしたかのようにミスリードしているが全然不正解
実状は山縣が廃藩論を提起し西郷に同意を求めている。政治的ポスト、力関係から西郷
に伺いをたて、同意を求めたと言った方が正しい。実際伺いをたてに西郷を訪れたことは一次史料にも残っている。
その他、あえていうなら木戸、大久保らも廃藩置県断行に大きく関わった人物ではあるが、
廃藩置県断行に不可欠な武力の後ろ盾である新兵を組織した西郷が最重要人物であった。 >>164
桐野の人生をぐぐってみたけど、改名しただけで人斬りは放免されたっぽい?
人殺しに相応の罪状がつかないとは変な時代だ。
赤松暗殺を人斬りに命じた「黒幕は西郷ではなかった説」もさもありなん。
西郷以外にも赤松を消しといた方がいいって判断をするお偉いさんは何人も居たってことだろうか。
冷酷なのは人間多すぎだよ、薩摩藩! 西郷でなければ実行できなかったという言い方は微妙だなぁ
薩長土の武力前提だから西郷の取り込みが必須ではあったけど >>168
黒鉄ヒロシの妄想を信じるなよ…
赤松が薩摩にとって邪魔だったって説には信州人が地元の人物を実際以上に重要人物に見せたいという魂胆が見え見え
薩摩がまだ公武合体をあきらめてなかった慶応3年5月の赤松から久光への建白書を持ってきて
武力倒幕には邪魔だったと強弁したりと史料の裏付けがまったくない >>167
Q : 西郷さんのおかげで明治政府は廃藩置県を断行し、旧体制からの決別を出来たんですよね?
A : 明治3年、新政府は廃藩置県に先立ち、
鹿児島の西郷隆盛と5千人の薩摩藩士を御親兵として東京に出仕させました。
廃藩置県に反発する武士層の反乱が予想されたため、
これを鎮圧するのに、薩摩兵とこれを束ねる西郷の力が必要であったのだが、
もっとも反乱を起こしそうなのが鹿児島住みの薩摩藩士と西郷であったために、
これを未然に懐柔しておくためでもあった。
ではなぜ西郷は懐柔されたのか。
西郷にとっての廃藩置県は、藩主に権力を返上させ、その下にいた士族が実権を持つ
という意味であったからだ。
西郷は、出仕の際に出した意見書(「西郷吉之助意見書」)で、
「新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、
近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようである」と糾弾しており、
廃藩置県には同意しても、士族中心の国体を固守する考えに変わりはなかった。
旧弊にとらわれない中央集権国家を目指す新政府とは同床異夢であったといえる。
新政府からの同様の懐柔措置は長州と土佐に対しても行われており、
いずれも御親兵を東京に出仕させている。
つまり西郷隆盛はあくまで、廃藩置県に協力した一人である、
という話なのです。
よく言われる、岩倉使節団が洋行しているあいだに、
西郷がその声望と求心力で、廃藩置県を断行した、という類の話しも
まったくのデタラメです。
新政府が廃藩置県を断行した後に、岩倉使節団は出発しています。 >>171
コピペを出すんじゃなくて、自分の言葉でかいつまんで反論してみろよ。自信がないのか? コピペじゃないよ テンプレだよ
君の言ってることって、テンプレ以前の情報量と見識でしかないんだよ
本質を言えば、廃藩置県における西郷隆盛の功績は
新政府に懐柔されてあげて反乱の芽を自ら摘んだこと
それ以上でもなければ以下でもない
むろんただで懐柔されたわけではない
目の上のタンコブであった島津久光など門閥層の無力化は西郷にとって「ざまあ」としか言いようのないものであったし
配下の桐野利秋なども陸軍少将という破格のポストと超高給が約束されたうえでの出仕であった
これって言わば西郷閥という新しい門閥が旧門閥にとって代わったにすぎないんだけど
そういう矛盾を西郷はどう考えていたんだろうな >>173
結局、また脇道に逸れてはぐらかすのかwww
>>164の「実行もなにも西郷は何もやってないよ
そもそも実行するような実務能力が無い」についてダイレクトに説明しろよ。 ダイレクトって何? 信者用語?
西郷は廃藩置県では何もやってないって
むしろ抵抗などせず何もやらなかったことが、西郷の大功績と言えるのに
それこそが西郷という存在の価値だよ
「西郷が実行した」「西郷が断行した」・・・アホか
信者が西郷のことをいちばん分かってないわな >>175
ダイレクトの意味もわからないのかwwww
directだよ、辞書を引けよ。
お前の書いているのは意味のあるもの全くなし。自分で書いたもの見てみろwwww
著作権法違反のコピペ転載、抽象論、罵詈雑言だけなんだよ。www >>170
黒鉄ヒロシって誰だろう? レビューすら読んだことなかったから一通りアマゾンの
レビューを読んできたけど読破できるのはいつのことやら。
有名な竜馬がゆくはレビュー読んだだけで生理的に好かなかったから読んでない。
英雄っぽさがわざとらしくしか演出できないテロリストたちの美談だの、
実はダーティーだったという暴露本なども、実はさほど興味がない。
ただ西郷英雄説への嫌悪感はどこからかというと、ハリボテ感ハンパないから。
聖徳太子伝説ほど時代の隔てがあれば、そういうレジェンドも作れるだろう。
だが西郷を伝説化するには、時代的に近すぎて明らかになっている醜聞がありすぎる。
明治維新の立役者たちの偉業とやらのハリボテっぷりは、ちょっとぐぐれば早々に
化けの皮が剥がれる薄い薄いものだ。
マンセーするの、無理。 んでも良くも悪くもそういう先達があってこその今なんだよなと
下手すると自分やお前らの先祖は未だ底辺弱小百姓階級のままだったかもだし
いやいや大陸・半島連中に蹂躙されてハングルor北京語標準になってたかもしれんw 廃藩置県が西郷なしでは断行できなかった事実は薩長、西郷嫌いの半藤でも認めているからな。 >>180
プッw
「廃藩置県は西郷が断行した」
↓
「廃藩置県が西郷なしでは断行できなかった」
に変えてやがる
ダサすぎw 薩長の戦力、とくに兵数の多い薩摩の戦力を取り込まずして廃藩置県はできなかったのであり
べつに薩摩の窓口は誰でもよかった
西郷が薩摩の窓口に居座っているので西郷に根回しするしかなかっただけで
西郷がこの世にいなければもっと簡単に政府は薩摩の戦力を取り込んでいたろうな
西郷のおかげで薩摩士族の暴発が防げたかのような話は幻想だよ
実態は、西郷がいたせいで薩摩士族が西郷軍団化し、一種の圧力団体として政府にプレッシャーを与え
西郷への根回しが不可欠になったということだ
西郷は薩摩という圧力団体を抑えたのではなく、薩摩を西郷軍団という圧力団体に仕立てた張本人なのだ
いわば自作自演 お笑い岩倉とんでも使節団の物見遊山の間に西郷は廃藩置県の後処理、学制、徴兵令、地租改正とか留守政府で
どんどん断行していった。西郷でなければ反乱だらけだったろうな。
まあ、外遊組が残っていたとしたら、かえって何もできなかったろうから、岩倉慰安旅行もあながち悪くなかったかな。
ちなみに、岩倉旅行団は不平等条約改正の目的は全くなかったそうだな。
旅行団がアメリカについた時に、駐米の森有礼が焚きつけたらしい。 しかしこんな奴しか擁護する者もいなくなったのか西郷どんは・・・
大河「西郷どん」は、西郷伝説という電球が切れる最後の一瞬の輝きなのかもな スレ主は最近バイト先で「これではまるで現代の異端審問だ」とか文句を言って、
馘になったんじゃないかな。 鹿児島みたいな地方でもバイトってバカにされるポジションなんだ?
鹿児島とか全員バイトレベルの人材で回してる県という印象だけど そういや司馬遼太郎は西郷の立ち位置を
現代で言えば、労組の委員長みたいなものだと表現してたな
労働組合のトップであり、経営層からは煙たがられる存在
しまいには経営層を追い出し、労組の幹部が経営をするようになり
あたりまえだが会社を潰した まあ、司馬史観参考にするのもどうかとおもうが
歴史上の人物あらさがせばそらいろいろ必ず出てきてしまうけど
西郷の場合、英雄にまでまつりあげられてるからそのあらが色濃く見えてしまうのも仕方ないし、かわいそうでもある
ある意味西郷も被害者なのかもしれん
希代のぶっ壊し屋であったけど、政治家としてはなあ… ぶっ壊し屋か・・・
世間では、古い時代をぶっ壊してくれた人と思われているが
じつは違うんだよなあ
ぶっ壊したリストの中に幕府や門閥も含まれているので
「古いものを壊してくれた人」扱いされているが
西郷にとっては不平不満の対象がその時には幕府や門閥だったということであり
時期が違えば鉄道や近代的価値観の官僚をあたりまえのようにぶっ壊そうとしてるからな やはり原口虎雄氏の言うように「永遠の不平家」だったのだろう
貴乃花親方と同じで、自分の知らないところで大事なことが決められたり
自分のことを認めようとしない人間が自分より上の地位にいることが
どうにも耐えられない性分だったとしか思えない
ふつうそのような人間は誰にも相手にされなくなるものだが
貴乃花にしても西郷にしても常人には無いカリスマ性があるので
付いていく人間も少なからずいるし
知らない人が離れて見れば正義の改革者のようにも見えるので、世間人気がある しかし近くにいる者は、貴乃花や西郷の性分を分かっているので
近い人ほど離れていく
正義や義憤でやってるようなポーズをとるが
自分が具体的な解決策を持っているわけではなく、
じつはライバルや気に食わない者を追い落とすこと自体が目的であることが
貴乃花や西郷に近い者には分かっているのだ
貴乃花の実家の家族は全員離れたし、以前貴乃花派だった親方衆も離れる者が続いている
西郷の近親者も従道はじめ離れた者が多く、かつて盟友だった大久保にも見限られた
西郷を高く評価したのは西郷に会ったこともない福沢諭吉とか
昔に何度か対峙したことがあるだけの勝海舟とか
ようは反政府的心情の持ち主がプロパガンダとして西郷を祭り上げてるのだ 西郷さんは結局偉大だったという結論になるな
洋行組が西郷筆頭の留守政府に嫉妬して権力闘争しかけただけで
宮廷の権力闘争に長けて皇帝を操ったりする中国で言う宦官みたいなもんやね 荒らしとダメンズウォーカーしか西郷を擁護しないスレッド。 近代化、民主化の基礎に必要なことは留守政府でほとんどはやり尽くした感がある。
ありがとう、西郷ドン。
ここに集う、こんなにも身分の卑しいアンチ西郷にも自由に書き込みできる権利を与えてくれて。 岩倉使節団が命がけの洋行で近代文明の調査に力を尽くしていた頃、
日本に残った西郷隆盛は何をやっていたのでしょうか・・・
西郷と同じく参議の職にあった大隈重信の証言がある。
「西郷には実に困った。彼は一般の政務には関心なきが如く、
留守内閣では太政官の正院に出頭しても、
ただ板垣(退助)と相対しつまらぬ話に打興じ、やがて家に帰っていった」
明治新政府における西郷の浮き上った、無為無策な姿が目に浮かぶようだ。
「 世間の多くの人は西郷を英雄と言い、豪傑と称しているが、
私は不幸にして、未だに西郷のどこが英雄でどこが豪傑だったのかさっぱり分からない 」
日本史籍協会編『大隈伯昔日譚』二、東京大学出版会、1981年履刻 大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で
西郷については冷評していることが多い。
『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、
頗るこれを疑うのである」と語り、そのために壮士輩が談判を迫り、脅迫状が届いたという。
それでも大隈は発言を訂正せず、その後の座談でも西郷の「感化力」は認めながらも批判的である。
しかし最後の筆録となった『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり、
木戸・大久保の人物評とあわせて一つの参考になると思う。 >>196
>『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり
これがどんなものかが結構重要な気がする >>186でスレ主は、印象で物を書き、実像は全然知らないんだと、自分で言ってますね。
「スレ主 イメージと実像が最もかけ離れた男」 三井の番頭こと井上馨とつるんで私腹を肥やしていた大隈は西郷に嫌われていたんだよな。2人が不仲だったのは有名な話。 >>195
>岩倉使節団が命がけの洋行で近代文明の調査に力を尽くしていた頃、
「近代文明の調査」ねぇ。www
アンチ西郷のスレ主が大好きな曖昧なワードですな。
具体性ゼロの、ほんとうに無意味なワード
「命がけ」ではなく、国内の反乱を恐れての「命乞い」の洋行と言った方が正しいだろ。
特に大久保は反対を押し切って、強硬に使節団に入っているよな。 鹿児島じゃ海外逃亡だと教えるんだ
岩倉使節団の背景を
聞いたことねえわ(苦笑)
そういや鹿児島には独自の大久保伝説がいっぱいあって
・西南戦争に西郷が参加していると知った大久保は激しく動揺して家の鴨居に頭をぶつけた
・大久保が紀尾井坂で襲撃されたとき、女のように悲鳴を上げながら逃げまわった
・薩英戦争の時に大久保が屋根に登って沖合の英艦隊を見ていると
突然英艦が砲撃して、腰を抜かした大久保は屋根から転げ落ちた
などそんな大久保ヘタレ伝説が固く信じられていたそうだな
そのリストに入れとくわ
・大久保海外逃亡 >>196
いやまぁ前半生の大隈は他人の悪口言いまくりなんで、あまり彼の発言を参考にしない方が…
逆に晩年は急に性格が丸くなってしまったんで、晩年の彼の褒め言葉もアテにならないんだけどね >>202
明治28年の『大隈伯昔日譚』は西郷を快く思っていなかった大隈の肉声に近いのかなと思うが
大正11年の『大隈侯昔日譚』は露骨に西郷美談調なんだよな
大隈が使いそうにない「忠義」「徳」などという言葉が使われている
大隈の心境に変化があったかもしれないが、著者(編纂者)の違いによるものもあるかと思う
ちなみに明治28年の西郷評は>>3の西郷評と同じ冷たいトーンであるが
大正11年のは、重野安繹が「西郷南洲逸話」で書いた、西郷に対し同情的な箇所とほぼ一致する
西郷は子分とワンセットで「西郷隆盛」であったという見方は完全に同じである 重野安繹 『西郷南洲逸話』の西郷に対して同情的な箇所
西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、
古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などが
そうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、
自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、
いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分の長所?)と思って居るから、
自分も努めてする。
幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。
西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、
薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。
西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。 大隈重信 大正11年の『大隈侯昔日譚』
西郷は破壊的で建設ではない。すなわち破壊の勇者で建設は不得手であった。
政治は建設的で破壊は力である。だから長き強き封建を破るという破壊的維新には、
西郷の力与って大いに力があったが、復古で目的を達した後は浪人してあまり政治には関係しなかった。
そのまま猟でもして余生を養ってときどき陛下の御諮問にでもお答えする位にしていたら間違いは無かったんであるが
非常に情に脆い涙弱い人であって、乾兒(こぶん)が沢山あったからついに乾兒に誤られたんである。
勇者は強者には強いが柔に出逢うと溶けるんで、流石の西郷も乾兒どもには弱かったんである。
この情に脆い結果が西郷の徳をして盛んならしたと同時に、一方生涯の過ちを惹起したと察せられるんである。
これは一つには政治家としての性格でもない、軍人としても戦術家ではない。政治家でも軍人でもなし、
一個の自然人で、ただどこまでも忠義一途なんで、国家の為となると、将軍も島津公も眼中にない。
少しも私心無き卓越したる英傑であった。維新前後にはこの種の人が多少は現れたが、古今には甚だ少ないんである。 この二つの西郷評のおかしな点を少し書くと
重野の「薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。」
他国の婦女子とかそんな事実はまったく無い
そして大隈の、西郷は「少しも私心無き卓越したる英傑」という評
大隈が本心からそう思うだろうか??
西郷が論理的な理念や方針を持たない壊し屋であることを「私心無き」と皮肉ったというなら話は分かるが・・・ >>206
>この二つの西郷評のおかしな点を少し書くと
大隈と重野の文書が信憑性がないということは良く分かった。 イメージと違って西郷の留守政府がなにかと酷いんだよな 留守政府での西郷がやったことは近代日本の礎を築くものばかり。 このスレッドに常駐する維新信者はわざわざ複数IDを使っているのか?
スレ主呼ばわりされた人は何人もいるけど、信者の人数は書いてる文は
似通っているし、1人か1チームだけのような気がする。
わざとカルト信者のようにふるまってアンチ明治政府、残念な西郷を一般論化させたいのか
重度なカルト信者脳でイッちゃっているのか、……どちらだろう。 西郷の墓地で大久保の法要「待った」 反発受け名称変更
http://news.livedoor.com/article/detail/14671364/
こういう狂信者がここにも来て荒らしてるのかもな
https://www.keiten-aijin.com/
西郷と大久保はどちらも鹿児島出身で固い絆があったとか美談化するのもキモいし
西郷を死地に追いやった大久保は絶対許さねえというのもキモすぎる
登場人物全員キモい まじでキモいよ
https://www.keiten-aijin.com/syuisho
敬天愛人フォーラム21 趣意書
『敬天愛人』この思想は、民主主義以上の世界最高のものであり、
人道として国民として実に千古の大教典である。 上の主催者が経営してる会社
https://www.giftbank.co.jp/
多重債務者にカードで換金性の高い商品を買い物させ
それを買い取り、現金化してやるという
敬天愛人どころか、「弱者を食い物」にする商売 >>201
ついにヘタレ大久保伝説の新しいテンプレ完成!!!!
ありがとう、スレ主様ーwww
>
・西南戦争に西郷が参加していると知った大久保は激しく動揺して家の鴨居に頭をぶつけた
・大久保が紀尾井坂で襲撃されたとき、女のように悲鳴を上げながら逃げまわった
・薩英戦争の時に大久保が屋根に登って沖合の英艦隊を見ていると
突然英艦が砲撃して、腰を抜かした大久保は屋根から転げ落ちた
・大久保海外逃亡 >>208
信憑性とかは置いといてさ
重野の場合は若い頃のとんがった西郷を知ってるが故に、世間で知られてる西郷とは違う普通の人としての面を語りたかったんだろね
大隈の場合は本人が歳をとって自分も子分に囲まれたり、それなりの地位になって若い頃のように好き勝手出来なくなった自分を顧みたんだろね
歳とって西郷と同じような状況になった時に感じるものもあったろうし、老境に入って過去の事が大隈的に美化されることもあったろうからなぁ
>>212
それなぁ、慰霊祭を行おうとしたのが鹿児島の有志団体(含む西郷隆盛の子孫)で、反発したのが東京のグループなんだよね
戦前ならともかく、今の鹿児島で大久保利通に恩讐なんて考えられんだろね
どちらも郷土の偉人として尊敬されてるしな〜 一番ヤバいのは毎回スレ主認定して草生やしてる奴じゃないだろうか キチガイを笑っちゃいけない
西郷どんスゲエ → 鹿児島人の俺スゲエ
の思考回路は鹿児島人の基本だが
日本人自体が
大谷スゲエ → 日本人スゲエ → 日本人の俺スゲエ
となる奴が多いわけで
このスレの鹿児島人のキモさを見て我が振り直せをすべきだろうな イメージと実像が最もかけ離れた男といえば福沢諭吉
あ、坂本竜馬も
伊藤博文も
天皇も
・・・
明治の連中は美化されすぎで正しく教えられていない
誰か一覧表にしてくれるか
福沢諭吉
X 天は人の上に人を作らず
○ 労働者、貧乏人、身体障害者など弱い者を徹底的に汚い言葉でののしり
こんな人間が日本に存在していたことが極めて恥ずかしい 伊藤博文?
伊藤博文は武士っぽくないからイメージ軽いけど
あれだけ貧相な感じの男が明治以前に洋行したり
明治六年の政変では西郷を追い込んだり
とても常人ではできないことをやってるよ >>219
そう言う話に持って行くなら
大久保ヘタレ → 鹿児島県人の俺ヘタレ
と言う風にスレ主は持って言ったらどうなの?
それはしたくないんだろ。 スレ主は矛盾だらけなんだよな。wwww >>223
意味が分からない
ようは鹿児島県人はダブルで悲惨てこと? 歴史上の人物にかぎらず誰がなにをしてもその行いは視点を変えれば善にもなるし悪にもなりうる
美化された面だけに目を向けて賞賛することも、否定的な側面を一つ見つけて存在価値を根底から覆した気になって蔑視することも間違いです 大久保について言うのは分かる、立場が違えば見え方が違うというのは
しかし西郷の場合は視点の問題ではなく、「功績」や「善行」と言われてるもんがそもそも実在してないんだわ 西郷の功績は分かりやすいが倒幕、江戸無血開城、廃藩置県、徴兵制と
大久保の功績こそよく分からん
留守政府が明治維新と言える大改革やった基盤の上に権力闘争で横滑りに乗っただけで >>227
そうそう、
大久保は単なる秀才、事務屋さん。まあ、IQは高かったんだろうが代わりはいくらでもいた。
まあ冷血な策略家としては特段に秀でているが。
大久保に裏切られ、売り飛ばされた人たちの代表
精忠組の面々
島津久光
西郷隆盛 >>219
鹿児島県人は置いておいても、日本人自体の思考はまさに我が振り直せだな
>>225
激しく同意 >>219
自分の国、自分の街、自分の郷土出身の人を応援するのは万国共通。
海外に出たことのない人は、日本人が日本のことを応援するのがおかしいことと
思ってしまうんだろうな。当たり前のことなんだがな。
まあ、海外はすごいとか、コンプレックスが根本になるんだろうな
「俺は地球市民だー」とか言って脳内全域花畑の左翼思想全開のスレ主を笑ちゃいけない。
かわいそうな人なのだから。 今日、日曜日のAM4 時すぎから、西郷信者ガー、薩摩ガーと言ってる奴はさらに病的でヤバい。 効いてる効いてる。
悔しくて悔しくて悔しくてたまらんのだろ。
ここんとこアンチ西郷、論破されまくりで涙目wwwwwwww 会津ってパヨクが日本近代史を否定する為の駒だったんだよ。
会津プロパガンダの嘘がバレて尻すぼみだけど
まだ止めないもんな星亮一とかな。
戦争で決着はついてる。会津は自分達から戦争しかけて負けた。
にも関わらずプロパガンダを発信して未だに戊辰戦争を継続中。
特定の地域を差別している。武士道の武の字もない。それが会津だ。
会津はパヨク!!!!!!!!!!!!!! 日本史自信ニキに聞きたいんだけど。
西南戦争とか征韓論あたりで論争になってることとかある? 論争なんてないよ
西郷と仲間たちは感情でやってるから
感情 vs 論理 の間には闘争はあっても論争など無い >>238
当時の論争ではなくて、現在の論争があるかを知りたいんや 西郷は征韓(武力外交)を主張したのか、遣韓(平和外交)を主張したのかの論争はあるよ
西郷信者は西郷は平和外交を望んでいたことにしたみたいだけどいろいろ無理があるよ
遣韓使節自体が武力制裁をチラつかせての最後通牒みたいなものだし
信者がなぜ西郷の、武力を背景にした外交をやっきになって否定するのか理解に苦しむ
当時も今も外交のリソースは武力か金しかないわけで
平和外交などというのはお花畑の鳩山さんのような人の脳内にしか存在しない
信者的には西郷が武力外交だったとすると、西郷の思想といわれる「敬天愛人」の教えと
矛盾するので、西郷は武力制裁を否定しあくまで平和的な話し合いにこだわったのだ
という話にすり替えたいんだろうな パワー系老害に振り回されたんだよ
西郷に深い考えなど無い
その時の気分や人間関係で衝動的に動いたり、手紙にいいことを書いてるだけで(ほぼ実行されてない)
それをまわりが勝手に、西郷さんに深い真意があるかのように錯覚してただけで
津田出の一件も、西郷が村田新八を紀州に派遣したところを見ると
その時には津田に期待する気持ちが盛り上がっていたのかもしれないが
津田が新政府に来てから西郷が津田をサポートしたなどの話はまったく聞かない
手紙にはいいことを書くが実行はしない、という西郷さんのいつもの行動パターン ◆ 西郷が死ぬまで続いた奄美の砂糖地獄 大島商社と西郷隆盛
http://www.synapse.ne.jp/~amamian/tubuyaki/minaminihon-h11106.html
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために粉骨砕身した偶像であり鑑である
かもしれない。しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの象徴であったに
すぎないのではないのか。それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか、義理も人情もなく奄美を踏みにじった薩摩士族の大親分
としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、薩摩へあてた手紙では徳之島
の人々のことを「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を薩摩で教育する際、奄美出身者
であることを他言するな、と厳しく命じた。島に残された母アイカナは非業の死を
とげる。これは西郷という人間像の一コマではあるが、実は次に述べる彼の政策論
とも表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、彼は、禄支給廃止
にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、桂久武に命じて不法な独占
「大島商社」を維新後に設立させたのである。これによって薩摩は再び収奪をほしい
ままにすることができ、奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治10年、奄美から「大島商社解散」を要求する55人の嘆願団が上鹿したが、
いきなり全員投獄。老人などを除いた35人は田原坂から敗戦中の西郷軍に強制出陣
させられた。うち戦死した者6人、残りは官軍に投降。許されて島へ帰還する途中、
2人を除いて全員遭難し、結局生存者はわずかに24人であった。(前田長英著
『黒糖騒動記』参照)
西郷という人物は薩摩城下士族(私学校党)の行く末しか案じていなかったようで、
その支配下にあった藩内の土民(農民)、さらに下層のリキジン(奄美、琉球人)
から、いかにして収奪して自己保身するかに専心していたのである。彼の諸政策に
うかがわれる基本的な理念は、「征韓論」や後の「大東亜共栄圏」などにも通じて
おり、弱者を無視し切り捨てる右翼国家主義そのものである。 いっそすべてを実行しないで日本史の端っこに埋没していたら良かった。
戦の仕掛け人としての実行力はあった。
テロ工作は実行していた。
「短刀一本あれば片付く」という恫喝交渉も実行しない方が良かった。 「短刀一本あれば片付く」って逸話に実体は無いよ
浅野長勲という小御所会議に出席していたマイナー大名の名前で昭和12年に出版された「浅野長勲自叙伝」に
突然その逸話が載って、西郷信者が西郷さんカッケーと飛びつき
ドラマなどでもそのシーンが採用され、あたかも史実であるかのように流通しだした逸話である
100%ウソ逸話であると言える
「短刀一本あれば片付く」とは小御所会議で西郷が岩倉に言った言葉とされるが
当の岩倉の『岩倉公実記』にはそのような件は無く
小御所会議の記録が含まれる『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『明治天皇紀』にも無い
昭和12年に、西郷とは何の関係も無さそうな浅野長勲という元大名の自叙伝の中に突然出現した逸話である
西郷の美談や武勇伝の9割以上はこの類の、西郷が死んでから何十年も経ってから
突然出現した逸話がソースになっている 明治維新を語るとき、詐欺師と借りパクと人殺しが偉人扱いされている。
いろは丸の事故で賠償金水増し詐欺をした崎本龍馬。当たり屋の手法である。
薩摩藩が払うべき生麦事件の慰謝料を、幕府に肩代わりさせた大久保。
その後倒幕するのだから恩を仇で返している。
江戸を火の海にすると脅して結果的に江戸城を無血開城させた西郷。
戦好きゆえか無血開城よりも戦がしたかった素振りあり。完全に脅迫者。
本質的にきわめて悪質。どこが偉人の成した偉業なんだか。
ぼったくられて脅迫されて強奪された徳川幕府は弱体化して政権を奪われた。
本当に酷かったんだな。明治維新って。 西郷は謀略など使わないよ自分で使わないと言ってるし
西郷が江戸を攻めるのは当たり前だし
慶喜が戊辰戦争引き起こしたんだから
旧幕府が自分で戦争引き起こしといて攻めないでとかおかしな話 >>247
戊辰戦争ひきおこしたのは薩摩ですよ
大嘘ついてはいけませんね 戦争引き起こしたのは幕府だよ
討薩の上表掲げて勝手に京に進軍
幕府軍艦が一方的に薩摩軍艦を砲撃 >>244はスレ主のレスですが、ちょっと興味深い。
スレ主は、小御所会議で西郷が「短刀一本…」と発言したのは100%捏造としています。
もとになっているのは、ウィキペディアの脚注です。
ウィキペディア「小御所会議」脚注より
>なおこの休憩中に岩下方平が屋外で警備兵を指揮中の西郷隆盛を呼び出し、
西郷が岩倉に対して「短刀一本あれば片が付く」と、
暗に岩倉に反対派と差し違える覚悟を迫り、
それを承知した岩倉が短刀を忍ばせて会議に戻ったといわれる。
この話の出典は会議の出席者である浅野長勲が半世紀後に口述した
『浅野長勲自叙伝』(昭和12年(1937年))などに見られるのみで
『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『岩倉公実記』『明治天皇紀』などの他の史料には見えない。
井上清なども著書『明治維新』(新政の演出 岩倉具視)の中で触れているが特に出典は記されていない。
(引用終わり)
ところがこの「短刀一本…」の逸話は、西郷を顕彰する人たちばかりではなく、反薩長史観の原田伊織なんかも、明治維新がテロによってなった根拠としてあげています。
もし逸話が捏造だと仮定しても、西郷という人は、正反対の立場の人々からそれぞれ祀り上げられなければならなかった、ということは言えるんじゃないでしょうか。
ところでスレ主は、『浅野長勲自叙伝』とほぼ同時期(昭和16年・1941年)に発表された竹崎櫻岳著「肚之西郷」に記された、「桐野利秋が西郷を射殺しようとした」説は真実だと言っています。
西郷の死後何十年もたって、ほかの証言もないまま突然出てきた「肚之西郷」は真実だとする根拠はなんでしょうか。ソースをあげた答えを聞いてみたいものです。
あ、片岡吾庵堂著「横目で見た郷土史」に依拠した、古いテンプレのコピペは飽き飽きしているので、貼らないでくださいね。 テンプレでは「肚之西郷」を根拠の一つとして扱っています
定説になっている「西郷突撃→自決」は明らかに不自然であり
状況的に考えて「西郷逃亡→桐野銃撃」が西郷の最期であったとするのが妥当かと思います
念のため以下にテンプレを貼っておきます 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード1《 まさかの命乞い 》
明治10年9月24日、鹿児島県城山。7か月あまり続いた西南の役は幕を閉じました。
被弾した西郷が「晋どん、もうここらでよか」と別府晋介に首を刎ねさせたとされる日です。
一般には、西郷は潔く切腹した。薩摩士族を道連れに自らサムライの世に幕を引いた
などと美談のごとく語られています。
しかしその数日前の西郷の行動についてはほとんど知られていません。
・・・なんとこの人、助命嘆願してたんです。
19日、政府軍側に使者を遣わし、西郷本人の助命嘆願をしている。
西郷軍への従軍をしぶる者をタタキ斬り、強制徴募や軍資金強奪を行ったあげく、
1万数千人にのぼる戦死者を出した総大将が助命嘆願、などというのは、
薩摩戦史上はもちろん日本戦史上も例を見ません。
しかも政府軍に助命を拒否され、山県有朋に、武士であるなら潔く自決するよう諭されるというありさまでした。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード2《 西郷さんは桐野利秋に強制玉砕されていた ?!》
24日、最期の突撃を試みた西郷は足を撃たれたあと、自決したとされていますが、
その西郷の足を撃ったのは、じつは西郷の部下である桐野利秋であったという説をご存知ですか?
政府軍に助命を拒否された西郷さんですが、玉砕することにどうにも納得いかなかったらしく、洞窟を出て投降しようとした。
しかし玉砕を主張する桐野がこれを発見、激怒して西郷を追いかけ銃撃したというのです。
思わず「ホントかよ?」となりますが、しかしこの桐野による西郷銃撃は
目撃者の証言があるのです。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード3≪ 創られた西郷自決 ≫
ちなみに広く信じられている西郷の最期、「晋どん、もうここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、
別府晋介に首を刎ねさせたいう逸話、出典はご存知ですか?
西南の役から30年以上たってから出版された「西南記傳」という本。
編纂者と出版元は右翼団体。まるで見てきたように書いていますが、
西南の生き残りが書いたわけではないし、誰の証言なのかも曖昧。
そもそもが西郷と薩摩士族の顕彰のために企画されたプロパガンダ本であり、
西郷や西郷軍のイメージに傷が付きそうな史実がばっさり省略されているのが特徴の資料です。
かねてから、銃弾飛び交う切迫した戦場で、前述のような芝居がかった自決が可能なのか
という見方はありました。
じつは西郷遺体の“検死報告書”にはこう記録されています。
「右大腿より左骨部貫通銃創、頭(頸)体離断」
腹部に刀創はありませんので、切腹はしていない。
また、銃弾が肥満した西郷の身体を(骨ごと?)貫通していることから
(当時の銃の性能を考慮すると)至近距離から被弾した可能性が高い。
「頭(頸)体離断」は首が無かったということです。
つまり、大腿を至近距離から銃撃されたあと、
首を切断された可能性が高いのです。 西郷隆盛 最期の五日間
エピソード4≪目撃者≫
桐野による西郷銃撃を目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると、「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、
銃で撃った 」というものです(出典「肚乃西郷」竹崎武泰著)
城川氏は鹿児島県人であり、反薩摩でも何でもなく、嘘をつく動機は皆無
前述の右翼団体のプロパガンダ本よりよほど信憑性があります。
ところが「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、“城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この目撃証言を奇説として退けた。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説はいったん否定されました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています