松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう15
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骨董品好き、植木好き、世話好き殿好き恩師好き。
そんな木戸について引き続き語っちゃげて。
前スレ
松菊木戸孝允(桂小五郎)について語ろう14
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1342871083/
・sage推奨。荒らし、コピペ、脱糞君、age君は華麗にスルー。
・幕末明治に関する小説、TVやドラマの話題もOK。
・木戸周辺の人たちの話題も歓迎。
・ここ見て木戸が気になった人は松菊木戸公傳・木戸孝允日記・木戸孝允文書・木戸孝允遺文集・木戸孝允関係文書などを読んでみよう。
大きな図書館には大抵あるよ!
・木戸に関する論文や小説は>>2以降参照 「跳ぶが」では、辛辣な言葉をつかって木戸さんの性格を描いている。
本当にきらいなのだと思うよ。ただ、この小説は、他と違って史実に基づくスタイルを
とっているので、木戸さんの実績については評価していると思う(評価せざるを得なかったというところかな)。。
例えば、版籍、廃藩は木戸さんが中心だったとか、文民統制のことなど。
その反対が西郷かな。愛情をもって描いているが、この人は明治以降の実績が少ないため、
さすがの司馬さんも実績面では評価しづらかったようだ。 尾崎行雄も木戸嫌いを公言していたな。
なぜ木戸が嫌われるのか俺にはわからないのだが。 私は、木戸さんと後藤象二郎の要素を持った人間です。あと、特に自分が若い頃は江藤みたいなところも。
大久保、西郷にはなれんです。 何かの歴史本で読んだげと、
歴史ファンは自分の性格に似た人物のファンになるみたい。 >>29
ぶっちゃけこいつに好かれたところでなあ…みたいな人物ではあるがw>尾崎
尾崎が木戸嫌いって初めて聞いたな
幸一の方じゃなくて?
単純に閥族政治嫌い→長州のドンだから悪者!みたいなノリか?
大隈直系だし色々吹き込まれたのかね 木戸と大隈の関係は特に悪くなかったのではないか? 大木喬任とも悪くないはず。 大隈は政治家として第一は木戸、第二は大久保と言っている。
維新当初は木戸を頂点とする開明派にいたわけだし、タイプは似ていたのかもしれない。
廃藩直後には木戸の推挙で参議に再任しているし、木戸に対して悪い感情はない筈。 嫌いという言葉が一人歩きしそうだが
どっちかというと
強烈な偏った個性がないので興味をもたれにくいというところではなかろうか
司馬のキャラ生活付けも創作を盛り上げるためのものでもあるし 維新後は気難しい人だったみたいだからなあ。
伊藤博文も木戸の死後に愚痴っている。 京大・齊藤本、誰一人カスタマーレビュー書かないのな。
ホント、本を読まなくなったよな、この国の人はorz ただひたすらスマホだもんな。電車乗っていてもあきれる程の光景だし。 斎藤紅葉さんの本の書評が載ってるというので読売新聞買ってきたが本当に読んだのか?という感じでがっかりした・・・ ”廃藩置県を主導し" までは良いがその後のコメントがなぁ〜。 齋藤本、昨日から読み始めたが、
プリミエールであることもあるのか、本人及び編集者の力量にやや難があって、文意の通じないところがかなりあるね。
接続語の使い方、主語・述語の関係に?が付いたり、明らかな間違いもあるし…
内容に関して言うと、
「理想主義的」という見られてきた木戸の姿の、具体の何を指して「理想主義」というのか、
その姿が、幕末期・維新直後・廃藩置県後でどう変わるのか変わらないのか、読解できるようには書かれていないように思う。 土居豊 @urazumi
本日から開講したはびきの市民大学の西郷隆盛講座、次回は6月22日です。
この講座は、一回のみの聴講も可能ですので、西郷や司馬遼太郎、『飛びが如く』など
幕末・明治初頭の歴史ものにご興味あれば、気軽にお申し込みください。
ttps://twitter.com/urazumi/status/1005076503523090433
>一回のみの聴講も可能
マ ジ で ! 齊藤本、注釈が多過ぎてね。
しかも巻末に置いてあるもんだから、本文と行ったり来たり読まなければならず、
本文が集中して頭に入って来ない。
頁捲りも大変。あの大きさの装丁だから猶更手の操作が大変。 斉藤本、”てにをは”の使い方にやや難あるが、博士論文を基にしているだけあって、
読者受けを狙って木戸を描くのではなく、多くの歴史資料を使って客観的且つ無機質に
木戸を描こうとする姿勢は伝わってくる。 木戸がライバル心が強いってのはどっから出てきたん? 齊藤本は研究者が研究者向けに書いた研究書・学術書だから、われわれ素人には難解なうえ、
研究者の習性として先行研究が進んでいる部分は深入りせずにさらっと流すことが多いので、
伝記として読む場合にも不満が残ることになるだろう。例えば初期の部分(第一章・第二章)では、
吉田松陰との関係、丙辰丸盟約(成破の盟約)に至る水長提携運動、文久2年の攘夷藩論への
大転換に至る中津川会議・京都河原町藩邸での会議、これに起因する義弟(年齢は木戸より
4つ上だけど)来原良蔵の自刃などは素人的には興味深いところなんだけど軽く流しており、
その他でも「これについてはすでに指摘されている(注)」という記述がやたらと多いのが難だな。 >>41
大阪住みの人行ってほしいね
平日だもんなぁ… 司馬が竜馬がゆくを執筆したのは出石の木戸が潜伏した旅館ではなかったかな。
司馬の木戸に対する感情は屈折しているように思える。 「西郷どん」が寺田屋事件の文久2年(1862年)まで来て、初の長州藩士として久坂玄瑞が登場、
そろそろ桂小五郎も出てきそうなので、文久2年までの桂(木戸孝允)の予習・復習となる論文
落合弘樹「幕末政局と木戸孝允」(『明治大学人文科学研究所研究紀要』第76冊、2015年3月)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/17628/1/jinbunkagakukiyo_76_%281%29.pdf でも西郷と木戸は、慶応元年1月、西郷が木戸を伏見で迎えたときが初対面だから、まだまだ先よ。 でも西郷と木戸は、慶応元年1月、西郷が木戸を伏見で迎えたときが初対面だから、まだまだ先よ。 史実とこの大河は別ですし。
つか、史実通りで良かったんだよ(遠い目 NHKといえば「幕末未来人」は、史実とは違って桂小五郎が幕末に暗殺されてしまったなw
フィクションだから何をやってもいいわけだがw いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
EI3 >>49
「幕末政局と木戸孝允」と銘打ちながらメインは長井と周布の政治活動と毛利父子の去就
題名と中身が全然違うという最近の歴史新書本のやり口をなぜ論文で踏襲してしまうのか 使節団編成の時に大久保が居なくなるのを反対していた井上が賛成に転じたのは木戸を外遊させたくてねじ込もうとしたからじゃないかって言うのを読んだ
井上イイヤシ…
木戸の使節団入りが本決まりした後にまた大久保が行くのを反対し始めたのはワロタ 禁門の変の際、部隊長として兵を率いて戦ってたって説とあくまで文官としてあちこち駆けずり回ってたて説あるけど
どっちだったの? 仕事はできるが、ひがみっぽくて、気難し屋で、気に入らない仕事だと投げ出す
ようなタイプだったのかな。
台湾問題の時、どうしてもっと踏ん張れなかったのか。廃藩までリードしてきた
プライドが邪魔したのか。大久保の執着心の半分でも持っていたらな。 【 &⇒ふ 】 御用学者が漢字由来と捏造中のカナ文字、実は <へブル文字> だと知ってましたか?
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1532140889/l50
え! なんで日本人がイスラエル人と同じ文字を使ってるの! 幕末・維新人物伝 木戸孝允
加来 耕三 (企画・原案), 中島 健志 (イラスト)
出版社: ポプラ社 (2018/8/11)
ttps://www.amazon.co.jp/幕末・維新人物伝-木戸孝允-加来-耕三/dp/4591159493
さて >>49 の落合論文はミネルヴァ日本評伝選で執筆予定の『木戸孝允』の草稿と講義ノートを
お手軽にまとめたような、文久2年までの評伝、概説書といった感じで、
論文としての深みがあまり感じられない。
それに、手書きの原稿をあまり出来の良くない学生にでもワープロ入力させて、
それをきちんと校正していないのではないかと疑われるほど、誤字・誤変換が多いのも難点。 ミネルヴァの評伝、早く出て欲しですよね・・・(遠い目) 明治5年に西郷が国元にあてた手紙
「榎本らの処遇について木戸だけが厳罰を主張していたが、周囲に説かれてやっと嫌々ながら黒田清隆の寛大案を呑んだ」
木戸さん…… そりゃ木戸はトップに全ての責任を取らせてそれで手打ちにしましょう派だし 今でいうと 荻上チキ みたいな人だったんだろうな。 >>66
木戸がいかに貴重な存在かわかる
今の自民党でいうと、安倍さんの案にも
とりあえずNOを言える存在
そういう人がいないと、政府は単なる私党になってしまう まだ新しい体制で憲法すら無かった明治初期の体制を現代に置き換えるのは馬鹿げてる
ましてや後世に名を残す偉人を100年後には忘れられてるような現代人に置き換えるのは偉人の矮小化に他ならない >>69
>とりあえずNOを言える存在
野党のことか 筒井清忠編『明治史講義【人物編】』(ちくま新書、2018年4月)
第1講 木戸孝允—「条理」を貫いた革命政治家 落合弘樹(p.15〜30)
江戸遊学と研鑽/政治活動の開始/藩論転換を主導/攘夷断行と藩の苦境
薩長連合の成立と木戸/急進改革の演出者/煩悶する元勲
『明治史講義』というタイトルにも関わらず、明治史は最後の4ページほどで、
幕末史が中心となっている。ミネルヴァ日本評伝選も幕末中心になりそうだな。
松尾本がほとんど明治なのを意識しているのかもしれない。 海音寺潮五郎は木戸孝允を「手腕は買えない」「革命家として全部失敗してる」つってる
七卿落ちも蛤御門の変も失敗したと言って
どっちも木戸孝允の本だと木戸は反対してた側だとされるもんだけど、実際はどうだったんかね >>73
海音寺潮五郎は木戸のどういうところ(長所)は評価しているの? >>74
覚えてないから、そういう言及無かった気がする。まぁ鹿児島生まれの人だしね
薩に肩入れする人が維新史を書けば維新は薩摩中心になるし
長に肩入れする人が維新史を書けば維新は長州中心になるっていうよくあるパターン
版籍奉還なんか発端は長州閥だったと思うが、「西郷も当然考えていた」、「誰が最初とか言っても仕方がない」とする ちゅーか一小説家の私見持ってこられてもね
そんなんるろうに剣心をソースに幕末語られるのと同レベルの話だし… その時代の雰囲気が大切なんだろうけど10年も経つと自分が生きていたのに
なぜあんなものが流行ってたのかも分からなくなってしまう。
まして150年昔がどんな時代だったかなんて分からないんだよ。 6月7日から8月30日まで、他の本に回って中断する期間がありましたが、
齊藤紅葉氏の京大本を読み切りました。マーカー、傍線一杯引いてね。
組織人としていろいろ参考になりました。
欲を言えば、病の具体の内容・経過を書いて欲しかったけれど、それは医師の方のあの小説に譲りますかね。
ところで、昨日、母に
「桂小五郎ってどんな人?何をやったの? 西郷・大久保は分かるけれど…」と訊かれました。
「長州藩のリーダー。幕末から維新の過程の事象、ほぼ全てに関わった。廃藩置県を早くから提唱。」
と答えましたが、
もっと具体に分かり易く説明するなら、どうなりますかね?
母に齊藤・京大本を読めというのは無理なので。 歴史詳しくない人なら、あの伊藤博文は桂小五郎の従者だったよとか?
いち早く世論の大切さに気づいて新聞雑誌を作ろうとしたり、国家の発展は国民の教育が不可欠と教育に力を入れたり
あとは東京桜前線の観測地点、靖国神社の桜を植えた人 ●幕末長州藩のリーダー。
●薩長同盟を結んだ人。
●”5か条〜”、版籍奉還、廃藩置県、四民平等、三権分立を主導した人。
●会津藩士を青森(斗南藩)に閉じ込めて弾圧した人。
●普通教育の振興を主唱した人。
●高杉晋作がつくった奇兵隊を潰した人。
●伊藤、大隈の兄貴分であった人。
●靖国神社の銅像の人を発掘した人。
●憲法の制定、国会開設による立憲政治(漸次立憲政体樹立の詔)を主導した人。 維新政府の創業期はある種の合議制だったから、どれが誰の功績かってのは一概には言えないのが難しいとこだ
表立って出てないけど、発案、あるいは空気づくりの点で実は木戸の手柄ってのは割とあるんだろうなぁ 木戸孝允は日本大学の創立に大きく
貢献した人。
日本法律学校は長州藩士の山田顯義(市之允)が
創立したんだが、木戸孝允(桂小五郎)の
構想を具体化したのが山田顯義です。 愛エメ 木戸松菊公逸話読んでて初めて知ったんだが木戸孝允て藤田東湖好きだったんだな「最も敬慕しておられた」って
なんかあんまそんなイメージなかったわ 斎藤本はダメダメだね。
たとえば木戸日記明治7年2月6日条「今日岩倉にて会議あり、台湾一条なり、
廻しの書面に同意せり、よって今日出会を断れり」
つまり台湾出兵自体には同意してるという指摘(これに反論、再反論が続くが省略)
に対して何ら答えてない。しかもまだ「薩長同盟」だの「討幕」だの言ってるのは驚くほかない
これじゃ読んでもしょうがない 明治4年6月27日 木戸孝允日記
「わが論のたちまちに彼の心腹に入るを覚ふ。西郷の公心、余の心に徹し覚えず感歎せり」
醒めた炎では、”わが論”を廃藩置県と解釈しているが、解釈に少し無理があるように思う。
制度改革のことではないかな。
参考までに、木戸孝允遺文集(妻木忠太編)によれば、「明治4年6月27日西郷が始めて公(木戸)が
言う廃藩置県の主意を了解した」となっていて、醒めたと同じ。 そうだね。6月下旬なら木戸の関心は政体改革以外になく
西郷への働きかけも行われている。
制度取調は7月5日に西郷を加えて開始。
廃藩置県はまた別途、7月8日以降に伝わってるからこの時点では違うし、
7月9日の木戸邸での会談でも政体基則が議題に挙がっている。
笠原英彦「廃藩置県と留守政府:明治4年の政治動向」に木戸日記のその箇所が注釈で挙がっている
file:///C:/Users/Shigeo%20Ohshima/Downloads/AN00224504-20070428-0095.pdf やはり制度改革のことだよね。
木戸孝允遺文集は、妻木さんが、木戸日記にのっていない事柄を、備忘録やメモ書きを
集めて、編集したものと理解している。これに廃藩のことが載っているということは、
西郷に対して当日の本題である制度改革の話の中に廃藩をさらりと織り込んだのかしらん。
遺文集によれば6月4日三条へ、6月5日岩倉へ制度改革案、廃藩のことを意見している。
<<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1038118>> 西郷どん、酷い描き方だわ。廃藩置県、木戸が最大の主導者なのに…orz 東京大学は文部卿木戸孝允(桂小五郎)の
手によってスタートしました。
木戸孝允の後を継いだのが山田顯義(市之允)です。 >>97
西郷どんでマトモな描かれ方をした人物がいたか? 西郷家の人物以外、ホンマ、殆ど全てリスペクトsareteiない人物造形なんだよな。 西郷どんの木戸は、文句を言っているだけだなw
長州藩政、明治維新政府を主導した姿がこれっぽっちもないw
齋藤紅葉氏はNHKに抗議しているかな? 木戸さん大河ならだいたいイケメン枠でしょう
なお性格は… 日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 [無断転載禁止]©2ch.net
https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1506120669/l50
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 1
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1501510625/
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 2
https://tamae.5ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html >>101
西郷どんはフィクションとして観るようにしています。 そら、最初からフィクションなわけだが、
こんな木戸や大久保、見とうはなかった! 木戸幸一は木戸孝允の孫と関連のサイトや書籍に書いてあるからいままでそう信じていたけど
木戸孝允の妹の血筋であって直系ではないんだね。木戸幸一の父親は木戸孝允の娘と結婚していたけど子を成す前に死別しているし
戸籍的にはそうなんだろうけど普通に祖父とか孫とかいっているから直系だと勘違いしていたよ >>108,>>110
木戸公が亡くなったことを伝えた新聞記事には「胃の腑の腫れ物」と書いてあったとか。
最終的に胃癌がトドメだったのかもしれないけど、多病な人だから複合要因だとは思う。 >>112
異端だが、あの木戸孝允が一番良かったと思う。 胃の腑の腫れ物 = 胃癌 としか解釈しようがないのだが。 長州藩には珍しく汚職はしなかったよな。
藩医に息子だったから裕福だったからかな 伊藤と木戸の関係性いいよな物語として
兄弟同然→対立→やや仲直り→死別
伊藤は木戸のような政治家を理想としていたかはわからないけど、晩年になればなるほど思想も行動も木戸に似てくる 実際のとこ伊藤は木戸のことどう思ってたんかねぇ
飲んでる時に高杉晋作に、「来原良蔵と桂小五郎どっちが上か?」って聞かれて「来原良蔵」って答えて、
その話を噂で聞いた桂小五郎がしばらく不機嫌だったって話好きなんだがwあれほんとなんだろか 長年の付き合いからくる遠慮のなさというかある種の親しみを感じるエピソードよな >>118
『伊藤公直話』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1224551/117
「木戸孝允を語る」はコマ番号22〜33、「来原良蔵を語る」は62〜64。
「処世の術は木戸或は来原に勝るものがある。然れども学問・見識・人格に
至つては来原は遥かに木戸の上にある。」(コマ番号64、原本100ページ)
新人物文庫にも『伊藤博文直話』と改題されて収録されているよ。 乱世に必要なのは
処世術 >>>>> 学問・見識・人格
だからな。
明治新政府には無学で人格的にも問題があった政府高官が多数いたわけで。 >>121
この本の信憑性ってどこまで信じられるんかね
小松緑って人が昭和10年に「伊藤博文公からこんな話を聞いた!」って言って出した本らしいけど >>124
はしがき(コマ番号10)に「これらの直話は、末松謙澄・大岡硯海・大橋乙羽・古谷久綱・
坪谷水哉諸氏及び私どもが、親しく筆記して(伊藤博文)公の検閲を経たものである。」
と記されているので、それを信用していいと思いますよ。伊藤之雄先生をはじめ名だたる
歴史学者も引用してますし、捏造・歪曲があったら公爵伊藤家が黙ってなかったでしょう。
なお、>>121 の「来原良蔵を語る」は「来原良蔵割腹の話」の誤りでした。 ・幕末、明治維新の騒乱期ばかりでなく現代でも処世術は大変大事。
・木戸は政治家であり、学者・思想家ではない。岩倉が「木戸は才あるが、云々)と評価した
よに、政治家としての学識は十分であった思う。
・井沢元彦本は、木戸は天成の調整家であり、攘夷か、開国か真っ二つに割れていた藩内を
無血で開国(下関)でまとめた。帰国後の長州は事実上、桂政権であり、藩主のお気にいりで
あったと述べているので、処世術は大変長けていたであろう。
・一方、伊藤も、担ぐ神輿を高杉→木戸→大久保→岩倉と変えて総理まで昇りつめたのだから、
処世術は長けている。
・木戸は議論好きで、相手を不快にするまで論破することがあり、後日、相手の意見が
価値あると分かるや、自分の意見のように提起することがよくあったとのこと。
伊藤にあてはまる史実としては、伊藤の版籍奉還案は木戸らにより後退させられ、兵庫県知事の
辞職を余儀なくさせられたこと、洋行中における条約改定問題に絡んで、青木の前で木戸から
叱責されたことなど。伊藤はおもしろくなかったろう。
・以上からの想像だが、木戸と伊藤は処世術に長けた似たもの同志故、反目と融合を繰り返し、
けっして心許せることはなかった。伊藤は木戸を政治家としては評価したが、自分が処世術に
長けている故、処世術に長けている木戸を生涯の師とするような気持ちまでにはなれなかった。 伊藤は才識においては木戸がまさり、忍耐力においては大久保がまさったと述懐してる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています