戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
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簡単なことやん
錦旗かかげられてもそのまま戦えば勝てた
慶喜が江戸に逃げ帰った後でさえも箱根で正面を幕府陸軍、後方を幕府海軍を使い部隊を上陸させ挟み撃ち
オマケに中腹を艦砲射撃
これで完勝
鳥羽伏見の最中に幕府海軍で薩摩に上陸しても勝てる
つかまともに戦ってさえいたら幕府が負けることなんてない >>2
確かに幕府海軍をうまく使えば勝てたと俺も思う
慶喜が錦の御旗を掲げられて怖気づいちゃったってのが一番の敗因かな
だとしたら錦の御旗を上げられる前に勝負をつけるべきだったかもな
思うに勝敗のポイントは
1.錦の御旗が上がる前に京都御所を抑える
2.大阪城で徹底抗戦→江戸から幕府海軍を呼ぶ
3.小栗上野介の箱根決戦案を受け入れる
この辺にあったと思う
おまえらの意見を聞きたい >>1
西陣に作らせた錦旗が岩倉の発注ミスで韓国国旗(太極旗)だった場合。 討幕派のバックは英仏なんだから勝ち目は無いだろ
英仏に操られる薩長の朝鮮部落民の存在が問題だ
外来種を国内に入れないことが肝要だ
今となっては土着民がマイノリティーになってるようだが >>3
それ幕府神話じゃね
幕府軍は別に錦の御旗で撤退したわけでなく戦況不利を悟って撤退したんで
大阪城に籠っても周りの諸藩は続々寝返って不利になる
小栗上野介の箱根決戦案も箱根に来る官軍に対してはやれても他方面から進んでくる官軍には何の策もないし 幕府海軍って悪天候と勝手に沈んでるイメージしかないんだけどな・・・ 戊辰戦争はさすがに無理だろ。仮にプロイセンに北海道割譲して
資金・武器援助を受けたとしても間に合わないよ。 あー北越戦争以降じゃなくて鳥羽伏見からか。すまん腰おった(@_@;) 幕府軍の指揮官がへたれだったから負けたんだよな
有能な指揮官がいたらな >>7
幕府がちゃんと組織だって抵抗抗戦したら新政府側は軍資金がつきて終わり
寝返った諸藩どころこか朝廷までテノヒラクルーでそうなったら薩長見捨てて幕府につく
そもそも鳥羽方面の撤退は幕府軍がそこで戦闘する気もない行軍モードで勃発したものだからもともな指揮官が現場にまだいないとき
しかも鳥羽伏見に参戦した幕府陸軍は全体の一部にすぎず
幕府近代陸軍部隊は江戸開城までほぼ無傷で残ってる その幕府近代陸軍部隊はどのくらいの戦力だったんだろうな
箱根で尾張やら東海諸藩を取り込んで膨れ上がった新政府軍を迎え撃ったとして勝てるのか? 肥前さえ味方に引き入れられたら、割と簡単に勝てたと思っている武器廚はけっこういるはず。 慶喜が幕府を一枚岩にして手足のごとく指示が出せたなら勝てただろうし
そうでないから負けたとしか言いようがない >>14
長州征伐で少しはやる気のあった肥前が
幕府の無能な指揮官のせいでやる気なくしたからな
長州征伐で愛想をつかしてるだろう そもそも慶喜本人が改革派で守旧派嫌いなのにその慶喜を頭に守旧派を率いて改革派打倒とか土台無理だろ
井伊のクソバカがやらかした時点で幕府は信望も権威も失墜して事実上崩壊幕臣ですら三遠駿三州以外返上して退くべきと言い出してるのに どうせやるならペリー相手に旗本八万騎(笑)でバンザイ突撃したほうがマシ
朝廷には攘夷しましたと言い訳できるし無能な守旧派は敗戦の責任とらせて全部改易切腹させれば改革開放の障害もなくなる >>20
竹中重固とかの現場指揮官だよ
人数の上では有利なのに人数を活かした戦術が取れなかったってことよ 幕府軍は忠誠度が低い急ごしらえの軍だから勝つの無理だったろうな 官軍もやる気ない軍隊だったけど先鋒に薩長土の軍隊使ってたから強かったんだよな 戦術論なのか戦略論なのか。
それとも、そもそも論を展開していけばよいのか。
前提条件なしに論ずるのは難しくない?
話を絞るなら鳥羽伏見の戦いだけにした方が分かりやすいし、話易くない? 兵隊なんか敵から攻撃されたらビビッて逃げ出すもんだし
味方が攻勢だとしれば調子にのって飛び出すもんだよ
精鋭部隊でもなきゃ個々の兵員のやる気など大した差ではない 結局は兵の強さは指揮官次第だよな
指揮官が的確な戦術や補給をとれるかどうか そもそもアンチ長州だった薩摩をコントロール出来なかった時点で終わり
京都守護職を言い出しっぺの薩摩に押し付けられていれば歴史は変わっていた 最初の長州征伐の処分が甘かった
10万石くらいに減封してれば
さすがに幕府軍が勝てただろ >>29
そしたら幕府に従おうとしてた保守派も奮起して幕府軍破ってそう 長州は京都御所でテロるから長州征伐が行われたんだっけ?
すると、京都御所は北朝だから、長州は南朝ということになる
しかし毛利は北朝であり、矛盾するように思える
しかし、長州藩というものは存在せす、小さな藩が混在した時代を長州と言うようだ
すると京都御所に攻め入ったり、明治維新の中核になったテロリストの長州下級武士とは
大内氏の連中なのだろう
大内氏は毛利に攻め込んで返り討ちに合い、粉砕されて田布施村に逃げ込んでいた
武士ですらない朝鮮部落民だ
それが日本政府を作ったとなると問題なので長州藩というものをでっちあげているのではないか
大内氏は百済人だから南朝だ
南朝のアジトは京都御所でなく奈良の吉野だった
西郷隆盛、薩摩、島津とは北朝なのだろう
それが王政復古のために大内氏と組んだものの、孝明天皇を殺害されて南朝天皇を立てられた
ハメられたと思った西郷が激怒して西南戦争なのだろ
つまり明治維新の、徳川vs薩長とは、華人vs半島人連合であり
その半島人連合の中に、更に北朝(新羅)と南朝(百済)の醜い争いがあった
華人の徳川には高句麗の連中が入り込んで内部から破壊工作をしていたという
それは水戸藩であり高句麗なんじゃないのか
百済とは高句麗から生まれた国であり、大内氏と組むのは当然だ
英国ロスチャイルド+バチカンはチェスをするごとく見事に朝鮮人を操ったものだ
しかし日本の歴史には日本人が一人も登場しないというのは悲しいな >>30
何がなんでも京都を出るべきではなかったと思うわ
帝を取られたから錦の御旗を上げられたしな
薩摩に容易に御所を抑えられたのが問題だわ 幕府が追い詰められてじゃなく、最初から大政奉還して一諸侯に戻れば良かった
そうすれば薩長や諸藩の心証も良くなったろうし
将軍ではなくなるが領地が削られるわけでもなんでもないから、幕府は無くなるが別に害はない ふと気付いた
「幕府が史実より早く降伏しても、薩長が会津をボコりたい限り戊辰戦争は発生する」 >>29
たしか最初の長征で10万石減封されてるよな長州は
形式上は
実行はされてないようだが
つか幕府がそれをやれる力すらもはやなかったので形式上の取り決めとしてあるだけで実行できなかったとか 実行できないって
幕府直轄領の石高が400万石
旗本領が約400万石で合計800万石って言われてるのに
旗本八万騎はどうしてたんだろうな 清河みたいのに将軍警護隊の外注委託しちゃうぐらいの窮状だったからね…… 旗本八万騎はどうしてたんだろうなもなにも講武所ボーイズに全部押し付けて楽隠居でしょ 旗本8万騎も江戸中期以降は官僚や事務処理集団に変貌を遂げてしまったから... 小栗上野介を鳥羽伏見の現場指揮官にしてれば勝てたかもな 小栗逸話も嘘くさいけどね
箱根で待ち伏せ→勝海舟にも同じ様な逸話がある
小栗の策が入れられれば自分の首は無かったと大村が言った→大村はそもそも江戸攻めの時官軍に居ないから言うはずがない 幕府側は制海権を握っていたのは確かだけど中仙道が主力で東海道&北陸が陽動だったら小栗の策って意味ある?官軍側も制海権握られてる前提で考えるのが自然な気がする 小栗が言うように孝明とかいう猿以下の知能の愚物をさっさと島流しにすべきだった ペリーの絵を描いてるんですが、腰から下の画像がどうしても見つけられません
ペリー本人じゃなくてもいいので同型の軍服の画像ってありませんか? >>43
陽動もクソも幕府が抵抗抗戦したら官軍側の軍資金が尽きる
抵抗して時間かせぐだけで勝てる なんとなくだけど鳥羽伏見の戦端が開かれなければ慶喜の勝ちが確定みたいな >>48
引き伸ばしが過ぎても
薩摩が密貿易で資金と軍備蓄えてくからなぁ… 八重の桜見て思ったんだが
山本覚馬が長崎で購入を約束した新式銃が届いてれば大分違ったんじゃないの?
会津・桑名に1300挺、紀州に3000挺らしいから
薩長に負けない火力で鳥羽伏見を有利に進められたんじゃないかと思う
1867年3月に購入の約束して届かないなんてどんだけ待たされてんだよ >>48
慶喜は新政府入り確定
薩摩の強硬論は孤立していた
長州でさえ引いてた位 幕府軍を洛外に待機して慶喜とお供数名で御所に乗り込める方法ないかな >>54
そんなことするくらいなら初めから小御所会議に出ればよかった話じゃね? >>55
史実だよ
結局この銃は明治2年になって神戸に届くけど
明治政府が買い取ってる
スペンサー銃って言って元込め式で射程も800mあって7連発できる代物だわ
薩長の銃よりも数段格上 連射ができても実包まで輸入だから弾薬供給が
足りないというのが最大のネックだったみたいね >>59
弾が国内生産しようがなくて輸入頼りでしかも入手困難とか
戦時じゃちょっと採用したくない銃だよな スペンサー銃って騎兵銃だから寝転がって撃てないしな
薩長より優れたシャスポー銃持ってた旧幕府軍が負けてるんだから銃器の差は意味ないわ シャスポーの紙薬莢が湿気るとかゴム部品不足で函館に着く頃には相当数破棄されたとか 戊辰開戦までの官軍と旧幕軍の戦闘経験&装備練度の差が物凄く開いていて比べ物にならないって訳でもないような気がする 結果負けたのは事実だけど。 長州の桂太郎とか、薩摩の大山格之助が庄内藩に連戦連敗だったのは、庄内藩がスペンサー銃を持っていたからなのかもね。
このスペンサー銃だけど、200挺と弾薬1万発以上を津軽藩に渡して奥羽列藩同盟から離脱しないでね…とやったけど
結局ぶんどられて、新政府側の秋田藩とかで使われた。
ところが、秋田藩は上手く活用できないんだよ。やはり、戦闘訓練加味で運用しないとねえ。 スペンサー銃なら、長崎振遠隊もスペンサー銃だな。
秋田の角間川で長崎振遠隊と庄内軍のスペンサー銃同士の戦いになる訳か。
この戦いでは、結果的に囮作戦みたいな形になって、新政府側が大打撃を受けて負けてしまうんだけどね。 結局は密貿易で財政が潤ってた薩摩と長州と
財政が火の車だった会津、桑名の差もあるんじゃないの(桑名はどうか知らないが
しかし大藩だった加賀藩と仙台藩があのザマだとなんだかなぁと思う 財政というより藩論のほうだとおもうよ。薩摩や長州だって開国・討幕に至るまで
もじどおりの血みどろの内部闘争があったわけで、むしろ加賀や仙台は統治が
保守的で安定してたから改革期に愚物として振舞うことになったのではないか。
軍事や政事は経済力だけが全てではないよ。 維新前後で強力なリーダーシップのワンマン経営で乗り切った殿様って誰がいる?どこの藩主も押し切られた感があるような 幕藩体制の限界が極まってたね 千葉請西藩の林忠崇は有名だな。みずから藩士を率いて
箱根の関所を占拠して小田原藩を恭順から佐幕に一時的に
でも転向させた。まあ佐幕なんだけどwこのひとは幕末史では
あまり注目されない偉人のひとり >>72
そんな感じの小藩の殿様興味深いね 調べてみよ 庄内藩みたいな強い藩が鳥羽伏見に参加してれば状況も変わっただろうな そうやって大事な戦いを他藩任せにするような根性が幕府を滅亡に追いやったんだゾ うーん。一応庄内藩は譜代大名だからなあ。
つーか、庄内藩が挑発に乗らず薩摩江戸藩邸焼き討ちをしなきゃ、鳥羽伏見は無かった訳で…
まあ、敗戦後の西郷の庄内藩に対する寛大な処置にも繋がるんだけどね。 >>72
> 千葉請西藩の林忠崇は有名だな。
この人、昭和16年まで生存していたんだなw 焦土戦術とフランスへの介入要請。
植民地化される可能性が高まるが。 >>69
藩内の佐幕派を粛清して、倒幕へ転向した徳川慶勝。
東海地方の諸藩・寺社・旗本領全部制圧したし。この人は過小評価されている。 明治維新は英国が起こした
英国は世界に植民地を持っているが
英国人を現地に派遣することなく搾取する方法を考えた
銀行を支配する、つまり通貨発行権を握るのだ
これを世界の50ヵ国でやった
まずバチカンが宣教師を送り込んで、政府に虐げられている少数派民族を探し出す
懺悔室とか使って根掘り葉掘り聞き出すのだろう
それで見つけたのが薩長の朝鮮部落民だ
そいつらに、お前たちをこの国の支配者にしてやる
毎日酒池肉林だぞと誘う
そして教育する
長州ファイブとか英国の話が抜けているから、
日本では自発的に英国に学びに行ったように言われるが、勿論英国の方からそそのかされているだけだ
そして英国は坂本龍馬経由で最新の銃器を配った
後で坂本を消せば、英国と薩長の接点が消えるという作戦だ
つまり、外国勢力の手先になってしまう異民族を国外に追放するのが肝要じゃ
というのがこのスレの回答だ 仮に大阪城で決戦したとしたら勝ち目あったのかな?
会津があれだけ持ったんだから江戸から軍艦が来るまでは籠城で持ちこたえられると思うけど
大阪城決戦前には薩長の他に土佐、津、岡山、徳島、彦根辺りも新政府軍として参加してたみたいだけど
あと尾張、紀伊や東海諸藩がどっちにつくかにもよると思うけど >>81
この時点で幕府海軍は大阪湾じゃないかな? 鳥羽伏見の開戦直前の幕府軍って討薩の表を掲げていても目的は殲滅じゃなくて軍事的圧力で朝廷工作を優位にって感じなんだよね >>81
代々の勤王家藩である尾張は官軍だろよ。
東海道の諸藩も尾張にならえだろな 家康亡きあとの徳川家はじつは圧倒的に戦に弱い最弱軍団。
長州か薩摩かどちらかを味方にしないと勝てないんじゃないか?w
第二次上田合戦
徳川(秀忠)3万8千 対 上田城(真田)2千5百
敗北
島原の乱
徳川 13万 対 原城(天草四郎以下農民) 3万7千
農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝
第二次長州征伐
徳川 15万 対 長州 3千
敗北
鳥羽伏見の戦い
徳川 1万5千 対 薩長土 5千
敗北 しかしまぁ、室町期とか見てると「あの」日本人がよく2つに分かれた「だけ」で終わったなと思わなくもないな
下手すりゃ植民地どころか清後中華みたいに群雄割拠だろうに 知的エリート層が参勤交代で江戸の空気をみな吸ってたのが大きいんじゃないのかな。
廃藩置県などひとりの藩公も反対せず全員一致で承認されたくらいで、内心ではいろいろ
思惑あったろうけど外面(タテマエ)は公共には平伏して黙従するという慣習が江戸期を
通じて確立していたというのが大きいのだろう。 >>81
大阪城決戦になれば
幕府海軍が艦砲射撃で新政府軍は虫の息だろ
津藩とかも再び裏切るよ 市役所職員(司馬遼)に戦争ができるかな?という疑問。
刀銃持たせたら即兵隊になるなら苦労しない。 >>90
ただ史実でいるんだよな
自分はやったことないけど本に書かれてることだけをたよりに軍の近代化をおこない
みようみまねの運用、戦術でもってわずか数千の兵力で10万以上の軍に勝っちゃった医者がなw
学校もいかずに参考書片手に東大うかるよりはるかに難しいことやっちゃってるわけだw 水戸家出身の慶喜公なら逆に薩長から天使様を奪還する為ってなりそうな感じだけど 軍事は相対性の話しになってくるからな。どんな小さな勝利でも連戦連勝をつづければ
そちらが正義扱いされて、大衆はドっとそちらに傾く。ナポレオンなんかまさにそう。 >>86
> 島原の乱
> 徳川 13万 対 原城(天草四郎以下農民) 3万7千
> 農民相手に大苦戦の末、九州の諸大名の助けを借りて辛勝
戦国時代でも屈指のイクサ上手だった立花宗茂が現地入りしたのが大きかった。 実際、尾張とかってどのくらいやる気があったんだろうな
代々将軍家とはあまり仲良くないから
こういうチャンスがあれば朝廷側につくつもりだったんだろうか
勤皇派を粛清してるし >>95
それどころか尾張江戸間の大名や神社仏閣に新政府軍に逆らわないように書状送って進軍の助けをするという
山内一豊みたいな事やってんぞ >>96
ま、東海諸藩を相手にすると
自分らが先鋒をやらされるからってこともあるだろうけどな >>90、>>91
村医者・村田蔵六改め、大村益次郎(日本の近代兵制の創始者)が第二次長州征伐の時、長州藩の
奇兵隊に授けた戦略・戦術が「散兵線」作戦だ。
ミニエ銃などの飛距離が長く、命中精度が高く、殺傷能力が大きい新式銃の実戦配備によって従来の
密集隊形型突撃では膨大な死傷者が出るようになったので、全軍を各々独立して戦える少人数の班
を基本単位として編成し、各班が目前の戦況を独自に判断しながら全体的作戦に則って全軍司令官
の指揮の下に秩序を保って戦うというものだ。
散兵線は各兵士の自立性と協調性が求められる戦術なので、近代文明の根底にある「個の自立」の
考えを体得した人でないと全軍にそれを納得させ、戦場で実行させるのは難しかったはずだ。
大村が大阪・適塾で福沢諭吉や橋本左内らと共に必死で学んだ蘭学を通して身に着けた近代的知識
と思想が生きたのではないか。
これらは旧幕府側の儒教に縛られた事大主義では理解できないことだった。 >>98
大日本帝国陸軍の軍歌「歩兵の本領」の中の歌詞
携帯口糧あるならば
遠く離れて3日4日
荒野千里にわたるとも
散兵線に秩序あり 四侯会議でうまく薩摩と協調していればな
薩摩の面目を潰してしまって幕府主導にしてしまったのがまずかった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています