幕末・明治ちょっといい話悪い話
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長州が京都に放火し天皇を奪うという計画はやはり嘘だった!
吉田稔麿や宮部鼎蔵らは
長州藩邸に集まり計画の延期と
古高奪還のために新選組屯所に
襲撃をかける事を決めました。
そして、その事を潜伏浪士達に
伝えるために同日夜に池田屋に
集まり会合を行うことを決めます。
(維新土佐勤王史)
池田屋の集会は新撰組屯所を襲撃する集会だった! 山口県には白河踊りがあるらしい。
白河戦の後、長州兵が白河に50日駐屯し
戦没者を慰めるために踊りを覚えて
長州に帰ってからも戦没者を慰めるために
踊りを踊って現代まで伝承してるそうだ。
一方会津は会津プロパガンダで
被害者ビジネスを展開し
毎年長州人を殺す祭りを行っている。 会津はまだ嘘をつくのか!!
@aizu_tsurugajo
>斗南藩の生き地獄
>元会津藩士たちが追いやられた
>御家復興という名の流刑
自分達で斗南を選んで行ったのに何が流刑だ!
>南部藩の下北地方
>(現青森県下北地方)は
>元からの住民がいて
>長年に渡り居住していました。
>環境は良くなかったかも知れませんが
>「生き地獄」とまでいわれる
>覚えはありません。
>勝手に移住した人にとっては
>そうかも知れませんが
>そこが先祖代々の土地であり
>母なる大地です。
>斗南藩の話しは、斗南藩の移住者の
>視点(旧会津藩視点)で
>語られることが多いが
>移住者を受け入れた側からの視点での
>記録は少ない。あまりにも
>旧会津藩藩びいきの視点からの
>歴史が大きいですね。
下北出身の人も会津プロパガンダを指摘してるぞ!
会津は151年経ってもまだ被害者ビジネスか!! 会津は領地を青森県東部か猪苗代か
選択することができた。
会津士族の中には猪苗代での再興を
主張する者が多かったが
青森県東部で再興する選択を選んだ。
会津が青森県東部を選んだ理由は
領民に重税を課していたため
領民から恨まれて会津世直し一揆を起こされ
猪苗代での再興は難しいと判断したからだ。
また会津は多額の借金があり
更には偽金を作り、ハイパーインフレを起こして
領内の経済をボロボロにしていたことも
青森県東部に行く理由にもなった。
つまり長州による強制連行、流刑は
会津プロパガンダによる嘘である。 会津が郡山で放火や略奪をした史料です。
以前はネットでも見ることができましたが
なぜか削除されました。
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。 家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。 白虎隊のことを再確認するためにも、まず白虎隊記念館に立ち寄る。
館内には、史料1万2千点が所狭しと展示されている (有料)。
「会津藩は勤皇なり」の意味も理解できよう。
第2次世界大戦で、奈良と京都と共に、なぜ会津への空爆を
アメリカ軍が避けたのかも納得できるであろう。
ttp://www.aizue.net/index.html
これ米軍に確認とってるの?
史料があるから避けたんだってて脳内解決だろ(笑)
会津プロパガンダ洗脳者とか制作者って
何で脳内解決しかしないの?
あとさ、会津も新潟爆撃で余った爆撃
落とされてなかったか? 明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある 会津は南京の嘘にも荷担してるじゃん…。
ttp://aidu65.net/index.html ttps://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201502050000/
ttps://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201502160000/
読もう!会津プロパガンダに迫害されてる
三春町の人のブログです!!
未だに戊辰の敗戦の話をふってくる
キチガイ会津人の実態を知ろう!!
ストップ!会津プロパガンダ!! 会津の遺体埋葬の問題について思うところがある。
新政府が会津藩兵を賊徒とみなして戦死遺体の埋葬を
禁じたというのは真っ赤なウソだ。
こうした虚構を言い広めるのは、たいがい善意に基づいてのことだろう。
そんなやり方は許せないという正義感は、裏返せば
新政府の側にあった(主として薩長の)人々への悪意になる。
もちろん悪意を向けられる歴史上の人物たちにしてみれば
まったくの言いがかりでしかない。
歴史学者大山格 2013/04/26(金) 14:22:27.59 ID:7NS7sE4p0
二本松市民だが、山口鹿児島に対しての遺恨はさほどない
どっちかというと同県内の三春が許せない 薩長人を斬殺する会津新撰組まつりに参加した人のブログ。
ttps://blogs.yahoo.co.jp/kulika_naga/50698473.html 遺体埋葬の開始:10月3日
世直し一揆の開始:10月3日
政府が埋葬作業やってる時に
会津の皆さんの御先祖である農民は一揆に夢中。
埋葬作業の邪魔しちゃダメでしょうw 遺体埋葬の開始:10月3日
世直し一揆の開始:10月3日
政府が埋葬作業やってる時に
会津の皆さんの御先祖である農民は一揆に夢中。
埋葬作業の邪魔しちゃダメでしょうw 会津プロパガンダに洗脳されて恨文化の会津
帰宅。帰りのタクシーの運転手さんが会津若松出身のおじいちゃんで
「ホントに山口とか鹿児島と仲悪いんですか」
「あーーだぁめだよぉ、薩長土肥は全部だめだよぉ」
リアルの会話で薩長土肥って初めて聞いた
22:59 - 2019年10月9日
ttps://twitter.com/hiranokohta/status/1182173723136102405?s=19
https://twitter.com/thejimwatkins 福島県の内堀雅雄知事は23日
新型コロナウイルスを国内外の政治家らが
「中国ウイルス」「武漢ウイルス」などと
呼んだことについて、「誤解や偏見を生むような
対応はできる限り控えることが重要」と
苦言を呈した。定例記者会見で質問に答えた。
福島県姉妹都市
会津若松市 中国湖北省荊州市
いわき市 中国遼寧省撫順市
須賀川市 中国河南省洛陽市
二本松市 中国湖北省京山県
西郷村 中国天津市薊県
泉崎村 中国北京市房山区竇店鎮竇店村
楢葉町 中国黒龍江省五常市
富岡町 中国浙江省海塩県
分かりやすいにも程があるだろwwww わろたwwwwww
白虎隊の伊東悌次郎の遺体は占いで見つけたんだそうだwwwwww
『戦後、悌次郎の親友・井深茂太郎の遺族が
占いで茂太郎の死地を探し当てた際
茂太郎の遺骸とともに悌次郎の遺骸も見つかった。
遺族は、遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置き
遺髪のみを持ち帰って菩提所に葬ったという。』
遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置きって
飯盛山で自害したのは
長瀬雄次、石田和助、篠田儀三郎
野村駒四郎、林八十治、飯沼貞吉だろうがwwwwww 会津松平家は毛利家(本家)を手本にしていた
中村武生(京都女子大非常勤講師)
松平容保の「外国公使館の建設反対」と
「現条約の破棄と新条約の締結」に注目したい。
実はいずれも毛利家の主張と同じなのである。
「現条約の破棄と新条約の締結」
毛利家の要人周布政之助による一書がある。
「攘は排也、排は開也、攘夷して後、国を開くべし」
ここにはっきりと「攘夷し、のち国を開くべきだ」
と述べている。容保の意見と同一といえる。
「外国公使館の建設反対」
文久元年2月27日(1861年4月6日)
公儀の提案を英国公使ラザフォード・オールコックが受け入れ
品川御殿山に建設が決定した。これに毛利家家臣は反発した。
容保の建議から3カ月後の12月12日(1863年1月31日)
高杉晋作や
久坂玄瑞らによってこの公使館は焼き討ちされたのである。
どうして容保は毛利家と同一の意見を持つようになったのであろうか。
実は毛利家から情報を得ていたのである。京都守護職に任じられた容保は直から
京都に家臣を送り、情報収集を行わせていた。その一人である秋月悌次郎が
容保の建議の前月である閏8月に長州の桂小五郎に書簡を宛てている。
それが複数残されている。同月4日付には「このたび主人(容保)が
大任を命じられましたが、いまだ修行中の身なので家来に人材がいないとはいえ、とても当惑しています。お察しください。
つきましては京都の事情をはじめ良いお考えがあられましたら詳しく拝聴いたしたいので
どうか心に思っておられることを包み隠さずご教示願いたいです」とある。 続き
その後も2人は何度か面談した。同月21日付の書簡に、秋月が
「主人(容保)は御殿山について取り払う(廃止する)ように運ぶ予定ですのでご相談したいです」と述べているのは注目に値する。
御殿山の各国公使館の建設反対について、桂から学んでいることが知れるのである。 新島八重
>生い立ち、生涯より
>「幕末のジャンヌ・ダルク」
>「会津の巴御前」
>「元祖ハンサム・ウーマン」
>「日本のナイチンゲール」などと称されている。
どこでだよwwwwwwwwwwwwww
会津プロパガンダで勝手に言ってるだけだろwwwwww
>当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女に
>鵺というあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。
会津プロパガンダで美化されただけで実は悪妻wwww
新島八重は明治政府から勲七等宝冠章と
勲六等宝冠章を受賞してるんだが
会津プロパガンダ洗脳者はそこスルーすんの?w
会津プロパガンダ洗脳者が嫌いな明治政府からですよ?wwww
しかも民間人の女で初めて勲章を貰っている。
会津プロパガンダ洗脳者によると会津人は差別されてるんだよね?wwww
おかしいねぇwwww差別されてるはずなのに会津人の女がが民間人初の勲章授与ねぇwww
八重が勲章貰った明治29年12月に総理大臣だったのは
鹿児島出身の松方正義。
八重が2回目の勲章貰った明治39年4月の総理大臣は山陰道鎮撫総督の西園寺公望で官軍だった人物。
しかもフランス留学後に伊藤博文の腹心となってる。
おかしいなぁwwwwww会津プロパガンダだと差別されてるはずなのに
旧官軍の総理の時に2回も勲章貰ってるんですかぁ?wwwwww 世良修蔵/谷林 博
白虎隊が神話化されている会津若松地方では
世良は今もなお大悪人とされている。
しかし本書を読めば、いわゆる学者タイプの世良は
「火中の栗を拾わされた」明治政府誕生のための
捨石に過ぎなかったことがよくわかる。
大仏次郎、司馬遼太郎、早乙女貢、徳富蘇峰などの著作で
悪人扱いされてきた世良の生涯を
新しく発掘した史料と実地踏査による
遺族などからの聞き取りによって描き出した
唯一の「世良修蔵伝」として高く評価されています。
世良の手紙も会津が作ったと仙台が自白してるし
会津は本当酷いね。
更に谷林氏が宮城県にある世良の墓を訪ねたとこ
何と世良の墓には削って傷を付けらた状態だったとのこと。
東北人は世良を悪人に仕立て上げたうえに
なんと墓にまで傷をつける陰湿さ。
ついでに言うと宮城県には伊藤博文を殺害した
安重根を祀る神社がある事を記しておく。 0062 名無しさん@実況で競馬板アウト 2021/03/09 07:14:40
そもそも会津藩は解体されて青森県の下北半島中心に島流しされたはず。
なのでその付近の人達が山口、鹿児島嫌いって言うならわかるが、その様子なし。
都市伝説だよ。
2
ID:PNPAttUJ0
0064 名無しさん@実況で競馬板アウト 2021/03/09 07:24:36
>62
斗南藩ね
そこと福島に原発をいっぱい作る薩長の政治家は・・・
2
ID:a7s6TqCA0
六ヶ所村に核燃料施設を誘致したのは、斗南に移住した会津藩士の子孫の北村正哉。
福島に原発を建てたのは、福島県出身で東電社長だった木川田一隆なのに
なんで会津プロパガンダの薩長ガーってこんな嘘を発信できるんだ?
それに斗南行きは会津の家老山川が決めたこと。
強制じゃないから斗南に行かなかった士族もいる。
会津プロパガンダはいい加減にしろ! >今年、日本は1868年の明治維新が
>始まって150周年になる年だ。
>今の安倍総理は明治維新勢力の子孫だ。
>明治維新勢力は植民支配と太平洋戦争を
>起こし、私たち民族はその勢力の
>最大の被害者だ。
キム・ヨンデ(弁護士)
ソース:金泉新聞
朝鮮人も会津プロパガンダ!
なぜだか分かるよね?w 会津プロパガンダは反日プロパガンダ
会津のタクシーでは死体が3年放置されたという嘘を観光客に語ってるのか!?
ttps://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/241354 会津による売国計画が明るみになった一連の流れをまとめておく。
1995年
日大のアンドレアス・バウマン教授が
ドイツ連邦軍事文書館(連邦文書館)で会津からの売国打診の書簡を発見。
2011年
東大史料編纂所の箱石大准教授らがこの書簡を
ドイツの文書館で確認。
会津側に文献がないのは落城の際に燃やしたから。
しかし相手はこの文献を公文書と保管していた。
そしてインターネットの時代とこの保管されていた
売国の書簡が会津プロパガンダに向かい風となり
会津贔屓が蜘蛛の糸を散らすごとく消えた。
2013年
駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。
書簡とはもちろん会津から申し出があった北海道、新潟を売る内容に対する書簡である。
恐ろしいことに「ひとたび足がかりをつかめば
他の地の購入が容易になるだろう」と綴られてる事だ。
2016年
箱石准教授がボン大学の研究者と箱石准教授が
同文書館で、ビスマルク宰相が会津からの売国打診を
断った3週間後に一転、交渉を認可していた文書を発見。
分かるかな?もし会津が早々に負けてなかったから
プロイセンは会津から貰った土地を基盤に
更に日本の土地を買うつもりだったんだよ。
会津はとんでもない事を外国に打診した!! 会津からの売国の打診を受けたのは
駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。
1868年、本国に宛てた報告書には
会津サイドは困っているので交渉を長引かせ
優位な条件に持っていけるという内容が書かれていた。
1865年、1867年にブラントは農業技術者である
ライノルト・ガルトネルと北海道を徹底調査していて
ブラントは本国への報告書に
気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊かで農業牧畜に適している。
5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができると書いて送っている。
ガルトネルの調査書にも
ジャガイモや麦などの栽培に最適である。気候は北ヨーロッパと似ており
土地は広大、水は豊か、牧畜には最適であると書かれていた。
宰相ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から会津による売国を断ったが
突如一転して北海道、新潟の租借を受諾しようとしたが
会津の敗戦によりこの話しは流れてしまう。
しかし会津の残党を含む蝦夷地共和国と名乗る反政府軍が箱館近郊の七重町(広さ300万坪1000ha)を
99年間貸すという売国条約締結してしまう。
政府はこの条約を破棄するため賠償金62500両をガルトネルに支払った。
これをガルトネル開墾条約事件という。 ヘンリー・シュネルはプロイセンの将軍で
平松武兵衛と名乗ってた会津藩軍事指導教官
農業技術者ライノルト・ガルトネルの部下で
二人とも奥羽相手に武器で儲けていた
ガルトネルが蝦夷地の土地を担保に
南部、仙台等と取引
ガルトネルは北海道の七飯町を租借して植林栽培している
反政府はプロイセン相手に売国していたんだよ
まともな大名が奥羽の同盟から抜けるのは当たり前だ 松平容保ってマジで…
容保は日本の土地や金を狙っていた
ヘンリー・シュネルに日本名、屋敷
羽織袴、小脇差しまで与えている
米沢の家老千坂高雅もアホ
ヘンリーを軍事顧問にしてるんだから。
戊辰戦争が起こるとヘンリーは上海や香港から
武器弾薬を運び、奥羽越列藩同盟に送り込んでる。
おや?会津は武器買えなくて精神論で戦ったのでは?
ヘンリーの上司ライノルト・ガルトネルも
奥羽越列藩同盟に武器弾薬を売って儲けている。
あれ?会津は武器が買えなくて精神論で戦ったのでは?
挙げ句、蝦夷共和国(笑)はガルトネルに北海道の土地を渡してるんだからな
それを明治政府が大金出して買い戻してるんだぞ
ヘンリーはは日本人妻がいて会津若松から
アメリカに人を連れて行き若松コロニーを作り失敗
この辺はAの法則だな
その後、金策で日本に向かい行方不明になっている
金策で日本って蝦夷共和国(笑)で味しめてるの丸出しだな
弟のエドワルドはやはり政府に反発し、会津が売国しようとした新潟にいたみたいだぞ
その後東京に移って消えたみたいだけどな ブラントは本国への報告書に
5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができると書いて送っている。
駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントは
1868年、本国に宛てた報告書に
会津サイドは困っているので交渉を長引かせ
優位な条件に持っていけるという内容が書かれていた。
怖すぎる…
会津はとんでもない切っ掛けを作ってしまった…
結果蝦夷共和国が北海道の一部を外国人に渡し
明治政府が大金払って買い戻している
2700年の歴史で外国人に土地を譲渡した会津… 山川健次郎編『会津戊辰戦史』昭和16年版 p181によると、秋月登之助=江上太郎、渡辺綱之介=小池周吾など、幾人もの会津藩士が変名を用いて江戸開城を契機とする脱走に参加していることがわかります。しかも「藩庁の諒解を得て脱藩の形式をとり」と、藩ぐるみで大脱走に荷担していたことを示唆する記述もあります。
会津はマジでクズ
だから会津プロパガンダで被害者ぶって
歴史を修正してるんだな
当時の会津人が記した文章から会津プロパガンダが崩されるのはマジで草だ 国道49号について「明治時代に制定された会津を通る国道が忌み数49にされたのは長州の嫌がらせだ」と、真顔で述べる住人がいる。しかし、実際に会津に国道が制定されたのは、明治時代ではなく昭和であり、国道49号が誕生したのも昭和38年(1963年)である。 二本松藩は官軍から領民を護るとの名目で藩内から軍資金2万両を集めた。そのうち9千両は郡山から。しかしいざとなると老人子供を残し米沢に逃げた。霞城址には戒石銘なる領民あっての武士の意の記念碑があるが行動が伴っていない。会津藩は郡山に出張って官軍と対峙に備えたが、守山藩が官軍に付くと郡山に火を放って退却した。ならぬものはならぬものは単なるお題目だった。藩が優先で庶民など眼中にほとんどなかったのだろう。板垣退助は会津領民の藩士に対する態度を見て会津藩が領民に慕われていたとは思えないと言っている。 会津松平家が降伏してから死体埋葬が始まる。
↓
会津の農民が会津に対して一揆を起こしたり積雪で埋葬が一時中止する。
この間に勝手に死体に触れたら処罰する命令が出る。
↓
一揆の鎮静や積雪が落ち着き埋葬が再開される。
↓
時は昭和。日本が大東亜戦争に敗北。直後会津史談会が死体埋葬禁止を突然発表。
↓
昭和30年代に山口出身の総理が日米安保を進めると死体埋葬禁止の嘘が加熱する。
↓
2000年代に入り死体埋葬禁止を含む会津の嘘や売国、残虐性が次々にバレ、それらをまとめて会津プロパガンダと呼ばれるようになる。 慶応4年8月29日(1868年10月14日)
仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を
歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を
熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と
米田虎之助が応対した。
この仙台藩の降伏交渉の際、仙台藩側は
「会津藩が手を尽くして本物のように
見せ掛けた世良修蔵の偽手紙に
仙台藩を滅ぼすと書いてあったので
会津藩に味方すると決めて世良修蔵を
殺害してしまったが、仙台藩には
朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明。
世良修蔵の名で書かれた慶応4年閏4月19日
(1868年6月9日)付けの大山格之助下参謀宛て密書は
会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。
会津はマジで糞だな。 会津で起きた戊辰戦争を紙芝居で伝えたい。
戊辰150年に合わせ、白虎隊の悲劇など
会津の歴史を紙芝居で伝えている弁士
星絵里子さん(47)=会津若松市=が
山口県萩市で白虎隊の紙芝居を上演する。
戊辰戦争で会津藩と敵対した長州藩があった同県。
「会津で起きたことを素直に伝えられれば」と
節目の年での思いを明かした。
これってちゃんと会津の蛮行や売国計画
長州に助けてもらう内容をちゃんとやったのか? 思案橋事件
1876年(明治9年)に東京思案橋で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。
1876年(明治9年)10月28日に山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより生起した。
永岡久茂は鹿児島の海老原穆と新聞社を立ち上げていて政府と対立していた西郷隆盛を支持していた。
しかし能力が高いので山口出身の伊藤博文や井上馨が仕官の要請をしている。
同じく政府と対立していた山口の前原一誠とも懇意で前原が乱を起こすと呼応して会津士族を率いて反乱を起こす計画を立てるが東京の思案橋で見つかり警官と乱闘になる。負傷が原因で逮捕後に死亡。 慶応4年8月29日(1868年10月14日)
仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を歎願しようと
正使氏家兵庫と副使堀省治を熊本藩陣中へ遣わし
熊本藩は津田山三郎と米田虎之助が応対した。
この仙台藩の降伏交渉の際仙台藩側は
「会津藩が手を尽くして本物のように見せ掛けた
世良修蔵の偽手紙に仙台藩を滅ぼすと
書いてあったので、会津藩に味方すると決めて
世良修蔵を殺害してしまったが
仙台藩には朝廷に背く意思はない」
という趣旨の弁明をし、世良修蔵の名で書かれた
慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)付けの
大山格之助下参謀宛て密書は
会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。
また、福島城下・金沢屋について
遊廓・妓楼などと記した文献もあるが
実際には旅籠であった。
そして
会津藩は、世良が暗殺されたのと同日の
閏4月20日、白河城を攻撃している。
会津が戦争しかけるための工作だよね。 10月21日に会津大学(福島県会津若松市)で
開催された、明治維新ならぬ
「戊辰150年」に合わせた歴史文化講演会
「戊辰戦争 会津藩と徳川幕府」での
パネル討論でのこと。このパネル討論には
会津・庄内両藩や奥羽越列藩同盟で主力を
担った各藩の当主が出席し
「戊辰戦争が新政府軍の
『大義なき侵略』を目的に行われた」と指摘した。
売国企てた会津と庄内が何をほざく
政府に反旗をひるがえして負けたら侵略されたってバカだろ 渡部恒三は俺は会津だから長州の家来にはなれないと言って派閥を抜けた
これ地域差別だよな
国会議員は国民の為に働く公務員なのにさ何考えて国会議員になったんだ 「僕の故郷・郡山は会津藩の管轄ですから当然会津びいきです。会津の人間にとっては、明治維新で会津を徹底的に打ちのめした薩摩と長州は、許しがたい敵なんです。昔も今も。『神花』で長州の山県有朋に扮したとき郡山の友人たちに、“西田、何でお前、山県なんかやるんだ”と批判されました。だから今回、西郷役を依頼されたときは友人に相談したところ、“西郷はいいよ、長州じゃなければいいよ”と言われました。もう百何十年も経っているし恨みや憎しみは忘れようという声はありますが、足を踏んだ人は踏んだことを忘れても踏まれた方は忘れないものです」
西田敏行
郡山は会津に襲われてる所だし政府が開拓した土地だよ。
徹底的に打ちのめしたって反政府なんだから討伐されるのは当たり前。
会津はニセ手紙作り仙台や福島に世良を殺害させ、同じ日には会津から進軍してるんだよね。
おまけにプロイセンに売国持ちかけたりしてるしな。
それに長州は前原や奥平達が会津人の救済をして仲良くなってるし
木戸や大村は会津討伐に反対だったよね。
西田のこのコメントは2018年なんだよ。
もう会津の蛮行が色々とバレてた年じゃん。なのにこういうコメントを出してるのは会津プロパガンダで作られた歴史で止まってる証拠だよね。
まあもしかしたら本当は違うって知ってるのかもしれないけど。 「長州への怨念」は、戦後に「無垢(むく)な敗者」「近代日本の被害者」というアイデンティティーを獲得する過程で、あらためて喚起され直した感情だというのである。
30年代後半、徳富蘇峰が各地で行った講演で、「会津は逆賊などではない」と強調し、その「尊王の大精神」を称揚したことによって達成された。そして会津の「勤皇精神」は「大東亜戦争」中に国民が見習うべき規範という地位を確立し、絶頂期を迎える。
しかし「大東亜戦争」の敗戦によって、会津の人々はこの物語をリセットし、司馬遼太郎による「悲劇の会津」という新たな物語に飛びついた。
会津人は「軍国主義の寵児(ちょうじ)」という側面を「忘却の淵(ふち)に沈め」、好都合な「司馬史観」に乗り換えたのである。その過程で白虎隊の「非業」や「純粋さ」が神話として再設定され、会津の観光化の中で利用されていったと著者は主張する。
会津という神話 田中悟
分かってくると好きになれないんだよな会津人て。
いわきの方の人なんかは癇癪持ちだったりするけど根は純粋でいい人なんだよ。
会津人はどうも腹黒いよねぇ。 >「僕の故郷・郡山は会津藩の管轄ですから当然会津びいきです。
郡山は守山藩だぞ
水戸系の大名
福島県民の歴史観メチャクチャだな… わたくし『まぁ、そうでしたか❗地元はどちらでしょうか?会津若松市内ではないですよね?だいたい会津の人間に対して最初からバカにしたりしてるのは、裏切り者の三春藩か柳津人か浜通りの人間。見た感じ柳津ですよね⁉裏切り者の三春藩
例の山のおばさん
普段からそういう意識でいるんですね 「幕府山事件」とは、大量の捕虜が、「歩兵第六十五連隊」を中心とする「山田支隊」によって殺害された、とされる事件です。
この歩兵第六十五連隊とは会津若松部隊なんですよ。 昭和の戦陣訓の発案者は陸軍大臣畑俊六
会津人だよ
第二次大戦の日本軍に自爆が多いのは
トップが東北人だからだと思うんだよな
■陸軍
板垣征四郎(盛岡)陸軍大臣
東條英機(盛岡)総理大臣・陸軍大臣・参謀総長
畑 俊六(会津)陸軍大臣
小磯國昭(新庄)総理大臣
石原莞爾(庄内)陸軍中将
今村均(仙台)陸軍大将
■海軍
米内光政(盛岡)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(盛岡)海軍大臣・軍令部総長
山本五十六(長岡)連合艦隊司令長官
南雲忠一(米沢)海軍大将
嶋田繁太郎(江戸)海軍大臣・軍令部総長
井上成美(仙台)海軍大将 会津藩の戦意は高く、佐幕か勤皇かで決断ができない二本松藩に威嚇行動を行った。会津藩兵により安積郡の村々が略奪・焼き討ちされた。
え?二本松も会津に焼き討ちされてたのか…。
二本松藩兵の主力は白河方面にあり、代わって郡山宿に駐屯していたのが仙台藩兵です。当初は戦意が低かった仙台藩兵も、藩士が会津藩兵に射殺されたのを契機に、会津藩攻撃を決断。御霊櫃峠を守備していた会津藩兵への攻撃を開始した。1000人の仙台藩兵に対して、会津藩兵はわずかに135名。戦闘は仙台藩兵の圧勝で終結した。
え?味方の仙台兵を殺して仙台に返り討ちにされる会津?
アホじゃんw
混乱が続く安積郡で、湖南方面に駐屯していた会津藩兵が三森峠を越え郡山宿への放火を開始した。宿場の西南から放たれた火は、折からの強風にあおられ、宿場の八割を焼失する大火となった。宿場に放火した理由として会津藩兵は、新政府軍の後方を撹乱するためとしている。郡山宿への放火は当地での会津藩の名を汚す結果となった。
え?撹乱させる為に郡山に放火???
マジでバカだろ会津wwwww
郡山宿大火により死者は出なかったが、郡山宿は甚大な被害を被った。それでも町人は立ち上がり、翌日には新政府軍に救援を要請した。
郡山の町民が政府に助け求めてるじゃん。会津のせいで。
この時の郡山大火により戦国時代から続く奥州街道随一の宿場町の遺構や風情が永遠に失われてしまった。宿場町の中には三春の滝桜に匹敵する桜の巨木が2本あったが、大火により焼失。大火がなければ宿場町の風情を残した建物や遺構などが現在まで受け継がれ、郡山の街中も違ったものとなていたでしょう。
会津は本当ロクな事をしないね。
当時の会津藩兵の浅はかな行動が悔やまれてならない。戊辰戦争の会津藩は白虎隊に代表される悲劇だけがクローズアップされるが、逆に郡山や安積郡で会津藩兵が行った蛮行も同じく伝えるべきである。
まったく持ってその通りだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています