【最後の】徳川慶喜【将軍】
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徳川慶喜だけは有能か無能かで極端に評価が分かれやすい 徳川慶喜
「長州は最初から敵対してたか構わないが薩摩は途中から寝返ったから許せぬ」 徳川慶喜
「長州は最初から敵対してたから構わないが薩摩は途中から寝返ったから許せぬ」 徳川慶喜
「長州は最初から敵対してたから構わないが薩摩は途中から寝返ったから許せぬ」 幕府の限界を知り時勢は読めてたみたいだから有能ではある 倒幕なんて慶喜のおかげだからな
最大の功労者は慶喜 鳥羽伏見の戦いで板倉勝静に討薩への出兵を要求されたときに答えたのが
徳川慶喜「我が方に西郷、大久保に匹敵する人材がいるのか?」
これを理解してただけでも徳川慶喜は有能 >>5
長州の伊藤博文とは葬儀に参列するほど終生に仲良くしてたみたい 鳥羽・伏見で敗北したあと、圧倒的兵力を有しながら何故とっとと江戸に逃亡してしまったのか
日本史の分かれ目だよなあ
あそこで逃げ帰らなければ歴史は変わっていたかもしれない そこが不思議
内戦を避けるためか、幕府を生き残らせるためか、何だったんだろ?
下々はビックリしただろうな
総司令官が逃げたとなると 第二征長は幕府軍の志気上がらず実質敗北
そのやる気のなさは友軍の熊本藩もキレたという
鳥羽・伏見も圧倒的寡兵の薩長軍に完敗
大坂で迎え撃つにしても進発するにしても、三度敗北するのが見えたのであろう
それより江戸に戻って体勢を立て直せば自軍が負けるはずがないと考えたのでは
まさか西国と中部地方までの全ての藩(御三家から親藩、譜代に至るまで)が新政府方につくとは思っていなかったのかも
慶喜が逃亡する時点では、相当数の藩が佐幕方につくとの見込みは持てたけど、逃亡したことによってほとんどの味方を失ってしまった
では大坂で勝てたか?
それは誰にもわからない 朝敵になりたくないという水戸史学を学んでたのが大きすぎるね >>12
慶喜が戦ってたのは西郷と大久保なんだよな
大政奉還、小御所会議、 >>12
慶喜が戦ってたのはあくまでも西郷と大久保なんだよな
四侯会議、大政奉還、小御所会議、鳥羽伏見の戦いの流れ見たら長州も土佐も相手にされてない >>7
王政復古とかも薩摩だし
つか長州って慶喜からあんまり相手にされてないよ
西郷、大久保の名前は知ってたけど長州は多分慶喜から誰も名前知られてないだろ 薩摩は幕末の政局の最終段階のギリギリまで幕府の子分だったからだろ
幕府は長州と戦争やって負け時点で詰んでた
長州が勝ったのを見て薩摩は幕府の腰巾着から長州側に寝返ったんだしな 慶喜が将軍だったのはとっくに勝負が着いたあとの1年にも満たない期間
その3代も前の家茂の代に長州に負けて幕府は詰んでるし勝負は着いてる
長州は禁門の変、四境戦争と2回幕府と戦争して勝った
薩摩は長州が勝ったのを見て勝ち馬に乗っただけだしな 慶喜が将軍だったのはとっくに勝負が着いたあとの1年にも満たない期間
大して重要な人じゃないんだよ
敗戦処理ピッチャーでありケツ拭き係 >>21
第一次長州征伐で長州が降伏して、徳川が処分下そうとしてたのに参謀の西郷が勝手に穏便な処分で和解して、第二次長州征伐は薩摩から大量の新式武器を与えられて長州に同情的なやる気のない周辺の藩と小競り合いしてるだけやん
幕末って磯田が言ってるように「薩長土肥とか言ってるけど薩摩が中心にいてかき回してる」
ってのが正しいんだよ
幕末の話は枝葉末節が多くてわかりにくいけど、徳川と薩摩を中心に見れば分かりやすい >>23
徳川と本気で戦ったのは鳥羽伏見だけだぞ
他にも小御所会議とかドンパチ以外の戦いしてる
歴史知らなすぎ つか、西郷は第一次征長の決着なんて軽く考えていて、自分が取りなして長州を10万石に削減して奥州にとばすつもりだった 薩長同盟というのは対幕府の軍事同盟ではなく、互いに侵しませんという不可侵条約
四境戦争で薩摩は幕末方に与しないかわりに、長州の味方として参戦もしないということ
武器の購入を手伝ったが、その時点ではおそらく長州が勝つかはわからないので「様子見」といったところだろう >>22
>>23
自演か?
そういえばこの前やった渋沢栄一の大河、徳川目線の大河で、薩摩との戦いしか描いてなかったよね
徳川と薩摩だけの戦いにしたらわかりやすくなったって評判結構良かったらしい
あれは時代考証は磯田さんかな? 長州パートをやったら話がやたらややこしくなって複雑で長く時間取られるからやろ
薩摩だけなら明治改元のちょこっと前の
薩摩に裏切られました→幕府滅びました
でサクッと終わる 長州はずっと斗(たたか)ってきて多くの血を流したが、薩摩は土壇場の最終局面で寝返って美味しいとこ持ってただけの火事場泥棒だからな
実際に江戸で強盗や殺人や放火を働いたし 徳川目線の大河ドラマで長州出しても禁門の変と、長州征伐の割とどうでもいいのくらいしか出しようがないからな 維新史というものは大藩である薩摩藩と薩閥に配慮して、また長薩盟約の過大評価や西郷・大久保などの活躍を描かないといけないから無駄に薩摩が重要視されている
幕府Vs.幕府とずっと斗(たたか)ってきた長州という構図がスッキリするし正確だ
薩摩は長州のサポート役に過ぎない >>31
禁門の変では徳川と薩摩は悪役、第一次長州征討も徳川と薩摩は悪役、四境戦争でも徳川は悪役で薩摩は中立だからな
正直、禁門の変で久坂義助と来島又兵衛が散華するところと、四境戦争で高杉や木戸や大村が大活躍して幕府軍を倒すのはドラマで映画で刷(す)られすぎてて「またか感」があるのは認めるよ
長州国内でそういうドラマティックなエピソードは山ほどあるが、薩摩国内でなんかあったっけ?
せいぜい大久保と西郷の少年時代ぐらいか 長州というのは、幕末史における正規軍であり正義軍でありイケメン軍なのである
幕府と会津と桑名と新選組は悪役のフツメン軍、薩摩はサポート役の脇役、ブサメン軍なのである >>12
慶喜こそが幕府側で一番有能だったんじゃないか? 結果として薩長が勝ったからこそ(勝者が称えられる)評価であって幕府方に人材がいなかったかというとそういうことでもないと思うがな 徳川慶喜こそ幕府側一の人材だろ?
勝海舟も入れるならそうだが 徳川慶喜は30代後半以降の40年余りはスーパーニート >>38
幕府側の人材は今の幕府のままでダメだって考えだからね
結局自ら辞任(大政奉還)になる
倒幕は慶喜の自作自演 そう蝦夷地まで逃れたりして時勢が読めずに最後まで戦った奴らは本物の無能バカ
救いようがない屑どもよ
それに比べたら徳川慶喜の処世術は天下一品 緒戦の鳥羽伏見では幕軍がポンコツ過ぎて残念だったが、薩長と渡り合う覚悟を持って進撃していたらどうなっていたか 司馬遼太郎の最高傑作は『最後の将軍』じゃないかと思う時があるわ
本人も書いていて徳川慶喜がこれほど酒精度が高い人物だとは思わなかったとあとがきで語ってる >>51
勝てる戦だったけど、敢えて身を引いた印象 勝海舟
「長州に大村益次郎がいる限り幕府に勝ち目はなし」
戦っても勝てるわけがない 令和4年にもなれば大昔にケイキさんを実際に見たことある人はもう居ないか 徳川慶喜
「我が方に西郷、大久保に匹敵するものがいるのか」
板倉勝静
「いません」
徳川慶喜
「ならば勝てるわけがないから戦うのをやめた」 こういった感情にとらわれない冷徹な判断力はどうやって培われたんだろう >>62
負ける側にも知性が必要て事ね
昭和の軍に欲しかった・・・ 水戸藩以外から15代目将軍が選ばれていたなら薩長と全面戦争して
敵の実力が分からない対米戦争時の旧日本軍みたいに惨敗してたんだろうなw >>13
長州人の井上馨も大正時代まで同じ静岡市内で暮らしてたから徳川慶喜と顔を合わせた可能性が高い >>62
その有名な鳥羽伏見前夜の言い回し
俺は大好きw
今後の行く末を全て言い当てたようだw >>62
その有名な鳥羽伏見前夜の言い回し
俺は大好きw
今後の行く末を全て言い当てたようだw 薩長が勝ったのは近代兵器で優勢だった時くらい
幕府の近代兵器装備した歩兵部隊とは長州征討の時から互角
東北諸藩にも近代兵器の装備が遅れてたから勝てたようなもん
近代兵器装備していた長岡藩や庄内藩には苦戦してる
まともに徳川と戦えば勝ち目はない >>62
鳥羽伏見の戦いの前夜での徳川慶喜の言い回しは
あらゆる日本史の名場面の中でも特筆する 徳川慶喜の鳥羽伏見の戦い前夜の演説。
王政復古の小御所会議。
明治六年政変での西郷と大久保の論争。
この三場面は日本史全体の中でも名場面中の名場面。 慶喜は戦争が苦手
第二次長州征討の時もフランス式の近代化した軍隊で攻めると息巻いてたのに
小倉が陥落すると弱気になり止めた
攻めてれば国力差で幕府が勝っていたろう >>74-75
徳川慶喜も西郷、大久保に引けを取らない大政治家にして大役者だったのであろう それだけ、ならぬことはならぬで思考停止状態の会津藩が時代遅れのバカだったということだな 慶喜クズ扱いしないやつはダメなやつ
ただ怪物政治家だったのは間違いない 数多くの問題を抱えながらも幕末では一番好きな人物かもしれないw 一応はウイキペディアにも書いてあるけど
周りにいた記憶じゃないか?
板倉勝清とか従者の ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています