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会津観光史学
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/04/09(火) 00:32:51.77ID:L2XJqscU0
薩長への怨念が丸出し史学
0096名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/05(日) 07:47:18.74ID:OFVzjQDg0
意味不明
0097名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/05(日) 20:45:41.67ID:ibhyTjfs0
会津からすれば天皇から最も信頼され手を汚してきた背景があるからね
長州は天皇に嫌われ御所に発砲し朝敵なのに平然と抗戦したりしてるから
どっちが正義とは言えないよね
0098名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/05(日) 21:52:53.37ID:AXba6MoM0
天皇からもっとも信頼されってレトリックだよなあ
孝明天皇としては誰でもいいから御所の警護をしてほしかった
京に兵力を常駐させてて、攘夷は駄目と説得しようとしないのが会津だけだった
0099名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/06(月) 02:08:46.94ID:52vDUZfb0
西郷頼母は無能
0100名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/06(月) 10:24:15.38ID:4b3ERN350
明治期に明治天皇に最も信頼されてたのは
三条実美と木戸孝允だから、しょうがない。
即、白旗上げた慶喜のほうが正しい。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/07(火) 02:51:47.56ID:OE1FZsi20
逆賊の会津藩
0102名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/07(火) 18:34:35.20ID:lPeOYRbJ0
豊臣秀吉に封じられた蒲生氏郷以降、上杉、加藤、保科と会津藩は伊達の抑えを目的としていた 

伊達政宗の野心は秀吉、家康共に大いに警戒するところであり、その後も東日本最大の外様である伊達62万石は幕府の警戒するところであった

一方、庄内藩は、秋田に移った佐竹を抑えるため特に酒井が選ばれた封じられた 鶴ヶ岡城は対佐竹を構想して築城されたともいう

神君家康公もまさか会津が南から攻撃されようとは、仙台が会津を庇おうとは想像だにしなかっただろう

西国雄藩が家康の懸念通り東上し、これを迎え撃つべく山陽道、東海道に並べた譜代親藩がドミノ倒し 一方、警戒していた奥羽の外様大名群が佐幕とは、世の不思議である
0103名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/09(木) 02:39:55.59ID:02FbRQ3r0
テロリスト藩
0104名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/10(金) 03:00:09.39ID:TMm6oJL30
観光史学
0105名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/10(金) 08:25:50.46ID:Nsm7VbWr0
ずっと一人でぶつぶつ言ってる基地外おるなw
0106名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/10(金) 14:40:14.95ID:b8pa3FId0
保守のつもりなんじゃないの
0108名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 04:57:13.08ID:WxBToLBb0
幕末史学で会津藩が薩長の被害者扱いされたのは平成からだろ?
薩長を諸手で向かい入れたのは重税に苦しんでいた会津の領民だという事実
0109名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 08:50:51.41ID:AwZpbTvM0
>>108
昭和から
0110名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 09:49:43.86ID:x1g0/nUZ0
会津藩という桎梏がなくなって一揆に忙しくて
埋めなかった方なのに、
なぜか100年後には官軍が禁止したニダっていう
会津領民。

ドラクエとかによくあるストーリーですねw
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 10:09:56.05ID:EVBVqYtT0
現在の鹿児島県民の多くの御先祖は農民
薩摩藩は八公二民という収奪にも程がある苛政を敷いていた 島津一族の政治により農民たちは塗炭の苦しみに喘いでいたのである 

というような事はどこもあんまり教えない 
なので子孫は無邪気に殿様上げしたりするわけである
0112名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 20:14:47.48ID:5+livtcu0
薩摩の抑圧から廃藩置県で解放した西郷が英雄
敵だった庄内藩にも慕われてた
0113名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 20:31:52.48ID:EVBVqYtT0
庄内藩は、領民との関係は良好だった
会津とは雲泥の差 
0114名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/11(土) 20:39:37.35ID:5+livtcu0
会津が特別に見えるかも知れんが
当時の藩はどこもあんなもん
勝者の薩摩も大島の住民を奴隷酷使して利を稼いでいた
板垣が外国と戦争になったら結果は知れてると自由民権運動に目覚めたのも自然の流れ
0115名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/12(日) 03:00:02.85ID:beQxDkRk0
会津藩の惨状を見て板垣退助は四民平等の必要性を痛感したらしい
0116名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/14(火) 22:17:01.70ID:X7KCrT8g0
土佐の農民みても痛感しなかったのか
0117 警備員[Lv.10][新苗]
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2024/05/15(水) 00:10:22.92ID:5Qapvl+b0
ぶっちゃけあれって薩長との派閥争いに負けたから権力闘争のためにやった側面の方が大きいし農民云々なんて本気じゃないっしょ
0118名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 00:20:00.50ID:6dF5nRbc0
明治維新はレボリューションではなくレストレーションでありクーデターでもある
支配階級間の権力移動であって、農民などなんの関係もない
0119名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 12:43:33.04ID:TcDBKwt20
自藩の領民から忌み嫌われて自滅したのが会津藩なのは事実な
0120名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 20:22:42.59ID:Wo+KuN900
>>116
会津が敗戦に近づいてから見て思ったんだろな
土佐も敗戦に近づけば同じことが起きると痛感しただろう
特に土佐は郷士とか居て会津よりややこしいし
土佐が窮地に立てば郷士は喜んで反逆しそうだし
0122名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 13:45:31.70ID:vS/D5Zcg0
江戸時代の奥羽は農業には厳しいエリアだった
気候も今より寒冷だったし農業技術もまだ未発達 西国に比べどうしても飢饉は多く農民は苦しい

だが同じ奥羽内でもかなりの差があって、苛政が酷いのは、津軽、南部、会津 割と良かったのは伊達、佐竹、後期の上杉 例外的にいいのが庄内の酒井

津軽と南部はこれはもう土地が厳しい 南部は全国で苛政ナンバーワンな藩だが、広いばかりで平野に乏しく気候は苛烈で、ヤマセの直撃はまず南部 広大な平野を抱える伊達とは雲泥の差である

会津は気候的には津軽や南部よりはるかにマシ また親藩であるので手伝い普請などは緩い 後に蝦夷地警備などの賦役が増えるが、会津の苛政はその前から始まっている
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 14:49:46.96ID:ms9llz7R0
>>121
「上下欲を一致するものは危機に陥っても強し」というのは孫子の兵法だが。

まさに幕末の長州藩がそれ。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 15:00:25.21ID:VXZkwIHW0
日本兵捕虜は何を話したか?の本で
著者の山本武利も米英の捕虜になった途端に機密情報をペラペラ喋る日本兵が非常に多かったんだと書いてた

上から強制的に押さえつけてる圧政は団結してる様に見えるが一歩外に出るとすぐに簡単に壊れる
0125名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 16:59:01.70ID:vS/D5Zcg0
日本軍は捕虜になった時、どうすべきかについて将校にも兵にも教育していない

生きて虜囚の辱めを受けず、と叩き込んでる
起きない事に対する対応など考える必要はないそれは矛盾の極みだからである

日本兵が捕虜になれば、家族も村八分もはや国に帰る事もできないとなれば、虚無状態で聞かれたことは流れるように答えるわけである

官姓名、所属を答えて後はダンマリしろと叩き込んでいる英米独とは大きな差がある

捕虜は情報の宝庫である 日本軍は、捕虜から情報がダダ漏れ 暗号も破られダダ漏れ 逆に敵の情報は情報部が健闘して相当に得るものの作戦部が丸無視で全く生かされてない

兵器とか技術もだが情報戦においては米英と日本は月とスッポンだった
0126名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 17:46:13.05ID:Xl7EauYp0
>>121
いや一揆多かったじゃんw
0127名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 17:55:21.93ID:Xl7EauYp0
>>125
普段が苛烈だからちょっと飯食わせて優しい言葉でも囁けばコロリだからな
ある意味で会津と日帝は近い部分がある
雑兵だろうが領民だろうが下を大切にせんとここぞという時に綻びが出る
0128名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 22:00:48.34ID:IlTwQWJK0
米中と破滅戦争をしてしまったバカすぎる昭和初期の旧日本軍幹部は
会津藩と同じく佐幕派地帯の東北出身者ばかりじゃねえかw

日露戦争で日本が奇跡の勝利をしたのも薩長閥が主導してたからに他ならない
0130名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/17(金) 17:42:32.86ID:1RiB6qRI0
>>128
連合国はまた別の見解のようである

連合国的戦争犯罪人であるA級戦犯陸軍海軍軍人及び文官の出身地

陸軍
板垣征四郎 岩手
木村兵太郎 東京
土肥原賢治 岡山
東條英機  東京(岩手)
武藤章   熊本
松井石根  愛知
荒木貞夫  東京
梅津美治郎 大分
大島浩   愛知(岐阜)
小磯國昭  栃木(山形)
佐藤賢了  石川
鈴木貞一  千葉
橋本欣五郎 岡山
畑俊六   福島
南次郎   大分

海軍
岡敬純   山口
嶋田繁太郎 東京
永野修身  高知

文官
広田弘毅  福岡
賀屋興宣  山口
木戸幸一  山口
白鳥敏夫  千葉
平沼騏一郎 岡山
星野直樹  神奈川
東郷茂徳  鹿児島
重光葵   大分
松岡洋右  山口

民間人
大川周明  山形
0131名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 04:02:01.08ID:/tZqd5uj0
>>129
北日本人が向いてるのはスポーツだけやね。
北日本で最大企業のアイリスオーヤマでさえ創業者は大阪出身者。
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 11:55:48.98ID:ftIBJ8Xa0
そのとおり
0133名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 13:00:13.20ID:eoO0HgU+0
>>131
TDKの創業者の斎藤憲三は現にかほ市出身で、事業経営のために創業地こそ東京だが、戦中はにかほ市に疎開していて、現在にかほ市にも工場があるぞ。
自由民主党所属で科学技術庁の創設に関わっている。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 13:02:03.08ID:eoO0HgU+0
ちなみに、にかほ市は江戸時代は仁賀保藩ね。陣屋しかない1万石の小藩だ。
戊辰戦争では、新政府は長州から山本登雲助というサイテーの指揮官を連れてきて、大言し猛将の如くふるまっても稚拙な指揮で庄内藩にボロ負けw
亀田藩なんか、あまりの理不尽な行為に一度新政府側についたのに、領土を占領され幕府側に裏切るほど。
現在の秋田空港のあたりまで侵攻され、山本登雲助はこりゃ駄目だと青い顔をするものの、佐賀藩の前川清一郎は何いってんだコイツ感いっぱいに
「これは庄内藩の南から新政府軍が近づいているから、反撃されないように強烈な戦闘をしてその後撤退するつもりです」と敵の意図を正確に読んでいた。
でかい顔をするなら、戊辰戦争でもっとましな指揮官よこせよw (ちなみに前川はその戦線の指揮官ではない)
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 13:03:57.10ID:eoO0HgU+0
山本登雲助は戊辰戦争で、春の戦闘でも秋の戦闘でもボロ負け。稚拙な指揮ぶりなのに、猛将じみた自己愛あふれる態度!
0136名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 13:46:16.27ID:VweVtVig0
庄内は色々別格すぎる
他の徳川があんななのに頑張りすぎてて泣ける
色々会津を助けようとして巻き込まれた長岡はより泣ける
恭順を受け入れてくれさえすれば回避できた死だった
戊辰戦争やその後の醜い政争での内戦と暗殺、死ななくていい命が大勢失われたのは本当にやりきれない話だ
0137名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:07:38.20ID:6n7O2WJp0
東北の大物実業家といえばアラビア太郎こと山下太郎 
0138名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:43:42.51ID:22juL4wo0
毛利家中では関ヶ原をどう語ってたんだろう

黒田長政や細川忠興といった家臣たちは、血湧き肉躍る合戦模様を語れるわけだ。その時、彼らの先祖たちが敵兵を次々と倒した様子を、大久保彦左衛門のように熱狂的に語るだろう。

一方、毛利家中は語るべきことがあまりない。南宮山でお弁当を食べて無事に国に帰ってきた、というだけの話だ。まるで遠足のような話だ。

島津義弘も合戦終了後に大奮戦した、と漫画などで描かれているが、実際はそれほど活躍したわけではない。真面目に戦った宇喜多秀家、小西行長、石田三成、大谷吉継、平塚為広たちから見れば、島津義弘の活躍など取るに足らないものだろう。

立花宗茂が関ヶ原の戦いに参加していたら、戦いの結果は大きく変わっていたかもしれない。

他家と関ヶ原の昔話になったら、毛利家臣たちは居心地悪くなるだろう。
0139名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:45:38.35ID:22juL4wo0
>>136
庄内藩は、独自の文化や歴史を持つ個性的な藩でしたが、他の徳川諸藩と同様に、財政難や政治的孤立などの課題を抱えていました。戊辰戦争では、会津藩と共に最後まで抵抗を続けましたが、新政府軍に敗北し、多くの命が失われました。庄内藩の悲劇は、当時の政治情勢や諸藩の思惑が複雑に絡み合った結果であり、単に「頑張りすぎた」という言葉で片付けられるものではありません。戊辰戦争やその後の内戦で失われた命を悼むとともに、歴史から教訓を得ることが重要です。
0140名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:48:47.20ID:22juL4wo0
会津藩と長州藩は、それぞれ異なる立場から幕末維新を戦いました。会津藩は譜代大名として徳川幕府を支え、長州藩は尊王攘夷思想に基づいて倒幕運動を推進しました。両藩とも、それぞれの正義に基づいて行動したと言えるでしょう。
0141名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:50:13.05ID:22juL4wo0
>>135
山本登雲助は、戊辰戦争における会津藩の戦局に大きな影響を与えた人物の一人です。会津藩家老として、彼は戦略・戦術の立案、部隊の指揮など様々な役割を担いました。特に、白河城の戦いや会津若松城の戦いでは、重要な役割を果たしました。

しかし、彼の指揮には賛否両論があります。最新の研究では、彼の戦略・戦術には問題があったと指摘する声もあります。例えば、白河城の戦いでは、彼が立てた籠城戦は兵力差を考慮せずに強行されたという批判があります。また、会津若松城の戦いでは、彼が適切な指揮を執らず、城下の住民を巻き込んだ無謀な戦術を採用したという批判もあります。

一方で、彼の統率力や決断力が高く評価されることもあります。白河城の戦いでは、劣勢にもかかわらず長期にわたって籠城を続け、会津藩の士気を高めました。また、会津若松城の戦いでは、最後まで諦めずに戦い続け、新政府軍に多大な損害を与えました。
0142名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:53:06.75ID:22juL4wo0
江戸時代の奥羽は、地域によって農業生産量に差があった。比較的恵まれた地域として、仙台藩や久保田藩などが挙げられる。一方、津軽藩や南部藩は、山間部が多く、気候も寒冷で農業に不利な条件だった。

会津藩は、比較的温暖な気候であり、水田地帯も存在したため、奥羽の中では恵まれた条件にあった。しかし、藩政初期には財政難や凶作などの問題があり、農民の生活は苦しかった。藩政中期以降は、積極的に農業政策を推進し、灌漑施設の整備や新田開発などを行い、農業生産量を向上させた。また、会津藩は親藩であり、他藩に比べ年貢負担が軽かったことも農民にとって有利だった。

会津藩は、戊辰戦争で新政府軍と戦ったことで有名だが、藩政全体を通して苛政だったという評価は必ずしも正しいとは言えない。確かに、会津戦争前後の時期には、政治的混乱や財政難のため、厳しい政策が実施されたことも事実である。しかし、それ以外の時期には、比較的穏健な政治が行われていた。会津藩の苛政というイメージは、戊辰戦争での敗北と結びついた結果生じた側面も大きい。

観光史学においては、史料に基づいた客観的な評価を行うことが重要である。そのためには、会津藩の政治、経済、社会、文化など、様々な側面を多角的に分析する必要がある。
0143名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:55:50.08ID:22juL4wo0
豊臣秀吉に封じられた蒲生氏郷以降、上杉、加藤、保科と会津藩は、奥羽地方の安定化と蝦夷征伐への貢献を担い、同時に伊達氏に対抗する役割も担っていました。

伊達政宗は奥羽地方最大の外様大名として、一定程度の警戒対象となっていました。

一方、庄内藩は、上杉氏旧領を平定し、奥羽地方の安定化に貢献するために酒井忠次が封じられた。鶴ヶ岡城が築城されたのは、酒井氏の本拠地としてであるが、佐竹氏に対抗する目的もあったという説もある。

戊辰戦争においては、西国雄藩が東上し、譜代親藩の多くがこれを迎え撃った。一方、奥羽の外様大名群は分裂し、佐幕と新政府軍に分かれて戦った。
0144名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 16:57:12.56ID:22juL4wo0
>>1
会津観光史学には、戊辰戦争を題材としたものも多く、その中には薩長に対する敵対意識を強調するものも見られます。しかし、一方で、会津藩の武士道精神や悲劇的な側面に焦点を当てたもの、戊辰戦争全体を客観的に分析したものなど、様々な視点が存在します。

確かに、特定の視点に偏り、史実の多様性を十分に反映していない観光史学も見受けられます。しかし、会津の歴史を多角的に捉え、来訪者に深い理解を与える観光史学も増えています。今後は、こうした多様な視点を取り入れた観光史学の開発が期待されます。
0146名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 20:36:12.42ID:6n7O2WJp0
東北の財界人で随一は日曹コンツェルンの創業者で総帥の中野友禮

GHQに15大コンツェルンとして財閥解体の対象となった大グループを作った
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