なぜ日本では全く殺害の意思がなくても交通事故で人を殺してしまった場合に刑事罰が下るのだろうか? 加害者に刑務所という矯正施設は有効なのだろうか?

小保方さんのスタップ細胞騒動では、悪意の有無に焦点が当てられはじめた。悪意とは本人が認めたら悪意による犯行であったと言えるのだろうか?もしそうなら簡単に身代わり逮捕が出来てしまい、ある種犯罪を助長しかねない。

だからこそ悪意の有無の判定には客観的な論証が必要になってくる。

そしてその論証の仕方に刑法史における派閥がある事を知っているだろうか?古典学派と近代学派である。前者を旧派とい言い後者を新派とも言う。

旧派は人類には自由意思が在るという前提に立ち、犯罪もまた加害者の意思と目的によって犯されるという立場に立ち、新派は人類に自由意思はなく犯罪とは出来心、衝動的に犯されるという立場に立つ。

これまで長きに渡りドイツまた日本は近代学派の道を歩んできた。その結果がケーブルカー炎上事件等でドイツと日本の遺族だけが管理者に刑事罰を望んだり、悪意ない交通事故の加害者に対して刑事罰を与えるという現状に現れている。

おもくみた政府は今から10年前法科大学院制度を導入し記憶力だけでは越えられない設問を課し時代の変化に対応できる法曹を育ててきた。

内なる悪意が無くても、知らなかったではすまされないという事実が立証できた場合。それを過失と見るのか?故意とみるのか? 学派によって異なってくる場合がある。

STAP細胞騒動の結末が近代学派と古典学派の在り方に新たな方向性を示し新しい学派が生まれるかもしれない。

また世界から注目されている案件だけあって日本が近代学派によるか古典学派によるか?は司法会だけでなく経済にも大きな影響を与えるだろう。