福島県の人は山口県の人が嫌いなの?
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他県のやつらが煽ってるだけで、県民にしたらどうでもいいよ 山口って明治前後の主役なのに
なんであんなクソ田舎なの 福島県内の他藩からすれば会津に巻き込まれたようなもんだろ 福島県民だがそんな事を考えた事は無いし、どうでもいい。
県内で今さらそんな事にこだわっている人を少なくとも自分は見た事は無い。 会津だけ
福島は浜通り・中通り・会津で別文化
相馬中村藩も仙台藩などと組み、奥羽越列藩同盟として戊辰戦争で争ったが敗北
その後は中村県→平県→盤前県→福島県と移り変わる 新撰組(尊攘派必ず殺すマン)を
取り仕切ってたのが福島県民
新撰組に殺されまくったのが山口県民
その仕返しとして
明治以降の奥羽越列藩同盟の福島県民を
殺しまくったのが山口県民
コレに福島県民が
キレ散らかしてるというのが今の現状 遺恨が全くないわけではないだろうが
時代小説家の創作と誇張の影響 一回両知事が仲直りしよう
みたいな雰囲気になったんだけど
福島の地元民がワーワー騒いで
結局流れたってことあっただろ そういやそういうこともあったな
しかし一般市民が言ったのか、一部の変な団体とかじゃなく? 原爆落とされてもアメリカ人には何とも思わないのにな いまだに根に持つような奴は何処で産まれ育とうが何かを逆恨みしながら生きてく奴でしょ 会津出身の飲み屋のお姉ちゃんに聞いた事があるな
確かおばあちゃんは嫌ってたとか言ってたよ >>13
会津の人間は○鮮人の様に100年前の事でも恨み忘れないみたいな人種だからなw >>38
その会津に150年たっても恨まれている長州もまた、
毛利家が徳川家に冷遇されたことを江戸400年ずっと恨み続けていた人種なわけだしな
人間みんなそんなもんなんだよ 東北の人間が九州嫌いなのはある。昔の人だがね。親父が宮崎の人間だが、面と向かって言われたらしいから。九州の人間は好かんと。 くだらねーな
世界規模で物事考えろよ
なんならお前等ど田舎の市町村レベルでやり合ってんだろ
だからお前等はダメなんだよ
世界をまたにかけて仕事してる俺からしてみたらクソみたいな論争なんだよ 会津に行って山口から来たって言ったらタクシー降ろされたとか、
結婚破談になったとかそんな軽い感じのは聞くよ
会津の温泉に泊まったらフロントの後ろ戊辰戦争の絵だった 前に福島出張した時に聞いたの仙台人が嫌いだと
福島の人間は根っからの田舎もんだなーと思った 会津出身で山口の大学行ったばかりにスゲー嫌われてる人知ってる 今のフザけた日本を作ったのは
長州と土佐の人間やぞ
薩摩の大久保利通、肥前の大隈重信は
結果的に売国野郎になったけど
全てはコイツらのせいだわ >>37
地元の一流選手たちが広陵や広島新庄に奪い取られるから? 広島は中四国地方の盟主を気取ってるから周りから嫌われるんだろ
当人はそんなつもりはないし実際盟主たりえる立場だけど鼻につくのかね
押しの強い人が多いのもあるかも >>43
なんならって表現が苦手なんだけど、その前に使い方間違ってるよWorldさん どっちか言うと薩の方が恨み深いんじゃないの
西南戦争の抜刀隊は戊辰の仕返しだったんでしょ >>12
こういうのを見ると、全国の若者が未熟とはいえ、思想的に交流し合い、
互いを認め合った4−50年前の新左翼学生運動の功績は大きかったように
思う。
今は勉強や仕事など、思想や芸術などの感性面での交流が無いので、変な
反感が生まれやすい。幕末の頃の敵対と今の世代に関係など無いはずだが。 >>59
訂正
今は勉強や仕事など、→今は勉強や仕事などだけで、 東北は排他的だから西日本は全部嫌いだと思うよ。遺恨とか関係なく そもそも会津藩は解体されて青森県の下北半島中心に島流しされたはず。
なのでその付近の人達が山口、鹿児島嫌いって言うならわかるが、その様子なし。
都市伝説だよ。 千葉民だけど埼玉嫌い
千葉から埼玉に入ると、静岡から愛知に入ったような民度の低さがある >>62
斗南藩ね
そこと福島に原発をいっぱい作る薩長の政治家は・・・ 高知のどっかの都市が会津若松市と、戊辰戦争から100年経ちましたしここいらで姉妹都市になってお互い発展しましょう的な話持ちかけた際に、会津若松側は「まだ100年"しか"経ってませんけど?」って突っぱねたのは有名な話 まあ、下層の個人レベルで仲の良い関係は多いと思う。
蒲田の肉体労働の現場で沖縄、鹿児島、高知、青森、北
海道の人間同士が仲良くなるのは昔は多かったよw >>63
全く同じこと知り合いの埼玉県民が言ってたわwww 中通り出身だからあんま気にしたことないな
きっと会津のお年寄りはまだ気にしてるかもしれない
そもそも福島に住んでた頃、福島競馬場以外で他地域の人間とあまり接点なかったかも… 今更引きずってる人はそう多くない
どっかの半島の民族じゃあるまいし 福島か、、
新幹線で一度だけ通った事あるが、街のど真ん中に300mぐらいの山があるな。
郡山の方が県庁に相応しい気もするけど。 ならぬものはならぬ。
長州もんは一生ゆるさね。
安倍さ、みてみろ
お里が知れてるべっちゃ。 今100歳くらいの爺さん婆さんなら自分の祖父や曽祖父殺されまくってんだから恨みは強いだろうな >>64
六ヶ所村に核燃料施設を誘致したのは、斗南に移住した会津藩士の子孫の北村正哉。
福島に原発を建てたのは、福島県出身で東電社長だった木川田一隆。 京都人が山口人嫌ってるって聞いたことあるけどほんと? 泉谷(山口)
vs
江田照(福島)
田辺(福島)
五十雄(福島)
伊藤工(福島) >>62
まず斗南に流されたってのが会津プロパガンダ
おまえみたいなアホが島流しとか書くからおまえよりアホが鵜呑みにするだよ
まず斗南行きは会津の家老・山川が決めたこと
話し合いは会津人だけで行われている
政府から猪苗代でもいいとされたが
会津松平は圧政だったため領民が戦争中から一揆を勃発させていた
だから会津地方には住めなかったんだよ
斗南行きは強制ではないから会津に残ったり東京に行った士族もいたんだぞ
会津プロパガンダいい加減にしとけ 仲悪い県
福島 vs 山口
東京 vs 大阪
埼玉 vs 千葉
京都 vs 近畿地方(京都除く) >>76
その祖父や曾祖父が各地で蛮行してたのに
会津プロパガンダで被害者ぶるなよ
会津の蛮行は味方の史料にも記されてるし
会津は国土をプロイセンに売り飛ばそうとした売国奴じゃないか >>40
なんで300年から400年に増えてんだよ?
やり口パヨクだな
どう冷遇されたんだ?
恨んでたなんてのは小説以外に出てこないぞ >>64
それどっちも福島の奴が誘致してるんだが
薩長ガーってやり口がパヨク・朝鮮ガーすぎる >>73
安倍は東京出身でルーツは東北だぞ
長州もんは一生許さないとか書くおまえのお里が知れるぞ
会津プロパガンダ洗脳者 信用がない会津
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 金を貪る会津
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考) >>83
福島vs山口は福島による一方的な会津プロパガンダだよ
仲が悪いというのとは違う 脅しの会津
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は終わった模様である。 蛮行の会津
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。
しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻) もうすぐ50に手が届く山口出身のおっさんだけど保育園のお遊戯会みたいな保護者招いて行われる会で白虎隊の劇やったの覚えてる
会津城が燃えてる〜とか保護者の前でやったけど山口側は何とも思ってなかったってことなんだろうか?それとも園児が知らないとこで問題になってたんだろうか? 町民に捕まる会津兵
組織だった徴発だけではなく
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3) 民衆に乱暴する会津
武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿 >>95
お城か燃えてるは会津プロパガンダだね
園児の頃から洗脳してるんだな
勘違い切腹は会津プロパガンダによる嘘だから
飯沼の回顧録にそんもん出てこない
小学生に籠城飯食わせてるニュースもあったな
会津って本当日本の支那朝鮮だわ
嘘ばっかり 蛮行三昧の会津一味
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 信用の回復ができない会津
そもそも最初から信用がない会津
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 >>68 埼玉県民自身が言うんかいw
まぁ…愛知はもっと酷いけどな… 笑われる会津
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ。」
(新津市史通史編下巻) 大金を脅し取る会津
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。
(新潟市史通史編3) >>98
いや俺山口県人で山口の保育園での話なんだよw 米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。 信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。
「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。 離別を求められるほど酷い会津
新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿) 味方に迷惑かける会津
米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。 世良の手紙は会津が作った偽物だと仙台が認めている
慶応4年8月29日(1868年10月14日)
仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を
歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を
熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と
米田虎之助が応対した。
この仙台藩の降伏交渉の際、仙台藩側は
「会津藩が手を尽くして本物のように
見せ掛けた世良修蔵の偽手紙に
仙台藩を滅ぼすと書いてあったので
会津藩に味方すると決めて世良修蔵を
殺害してしまったが、仙台藩には
朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明。
世良修蔵の名で書かれた慶応4年閏4月19日
(1868年6月9日)付けの大山格之助下参謀宛て密書は
会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。
会津はマジで糞だな わろたwwwwww
白虎隊の伊東悌次郎の遺体は占いで見つけたんだそうだwwwwww
『戦後、悌次郎の親友・井深茂太郎の遺族が
占いで茂太郎の死地を探し当てた際
茂太郎の遺骸とともに悌次郎の遺骸も見つかった。
遺族は、遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置き
遺髪のみを持ち帰って菩提所に葬ったという。』
遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置きって
飯盛山で自害したのは
長瀬雄次、石田和助、篠田儀三郎
野村駒四郎、林八十治、飯沼貞吉だろうがwwwwww
会津人って朝鮮人だろwwwwwwwwwwwwwwwwww >>102
違う違う、埼玉県民が千葉県民は民度が低いて言ってたって話w
運転マナー酷すぎって怒ってた 福島県の内堀雅雄知事は23日
新型コロナウイルスを国内外の政治家らが
「中国ウイルス」「武漢ウイルス」などと
呼んだことについて、「誤解や偏見を生むような
対応はできる限り控えることが重要」と
苦言を呈した。定例記者会見で質問に答えた。
福島県姉妹都市
会津若松市 中国湖北省荊州市
いわき市 中国遼寧省撫順市
須賀川市 中国河南省洛陽市
二本松市 中国湖北省京山県
西郷村 中国天津市薊県
泉崎村 中国北京市房山区竇店鎮竇店村
楢葉町 中国黒龍江省五常市
富岡町 中国浙江省海塩県 暴かれた白虎隊士中二番隊の嘘!
隊長は1人で食料調達に行ったのは嘘。
隊長は隊士17名と城に戻っている。
隊長達とはぐれた飯沼達20人が勇敢に戦ったのは嘘。
飯沼の回顧には逃げ回ってた話しか出てこない。
飯沼達と対峙した薩摩軍の足取りを考えても勇敢に戦ってないと分かる。
飯沼達20人が飯盛山で勘違いして切腹したのは嘘。
飯沼達は飯盛山まで逃げて話し合いをし、切腹する者と下山して城を目指す者に分かれた。
切腹したのは飯沼を含む6人で飯沼以外の5人死亡し遺体は妙国寺に埋葬された。
下山した14人は敵に見つかり8人が死亡。6人は城に戻れた。
8人の遺体がどこに埋葬されたかは不明。
戦後何故か妙国寺にある5人の遺体を掘り返し飯盛山に墓を「16」建てる。
その後墓を3つ増やして19にしている。
飯盛山で自決し死んだのは5人で妙国寺に埋葬された。
下山して死んだのは8人でどこに埋葬されたのか不明。6人は生き残っている。
妙国寺に埋葬された遺体以外の遺体はどこから持ってきたのか?
何故6名生きてるのに生きてる人の墓まで作るのか?
何故墓の数を増やしているのか?
白虎隊士中二番隊の話は会津プロパガンダで嘘にまみれている! どっちも原発持ちの終わり県なんだから仲良くしろや
福島第一原発&福島第二原発
祝原発 遺体埋葬の開始:10月3日
世直し一揆の開始:10月3日ww
新政府が埋葬作業やってる時に、
会津の皆さんの御先祖である農民は、一揆に夢中。
埋葬作業の邪魔しちゃダメでしょうw 新島八重
>生い立ち、生涯より
>「幕末のジャンヌ・ダルク」
>「会津の巴御前」
>「元祖ハンサム・ウーマン」
>「日本のナイチンゲール」などと称されている。
どこでだよwwwwwwwwwwwwww
会津プロパガンダで勝手に言ってるだけだろwwwwww
>当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女に
>鵺というあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。
会津プロパガンダで美化されただけで実質は悪妻wwww
新島八重は明治政府から勲七等宝冠章と
勲六等宝冠章を受賞してるんだが
会津プロパガンダ洗脳者はそこスルーすんの?w
会津プロパガンダ洗脳者が嫌いな明治政府からですよ?wwww
しかも民間人の女で初めて勲章を貰っている。
会津プロパガンダ洗脳者によると会津人は差別されてるんだよね?wwww
おかしいねぇwwww差別されてるはずなのに会津人の女がが民間人初の勲章授与ねぇwww
八重が勲章貰った明治29年12月に総理大臣だったのは
鹿児島出身の松方正義。
八重が2回目の勲章貰った明治39年4月の総理大臣は山陰道鎮撫総督の西園寺公望で官軍だった人物。
しかもフランス留学後に伊藤博文の腹心となってる。
おかしいなぁwwwwww会津プロパガンダだと差別されてるはずなのに
旧官軍の総理の時に2回も勲章貰ってるんですかぁ?wwwwww 東北地方には「部落はない」といわれてきたが
藩政一覧などで東北各地に部落は存在していた。
しかし、部落を歴史的にも
存在しなかったことにする意識が
部落民に離散を強制して解体させたところもある。
しかし、沈黙のなかにおかれ
劣悪な環境がそのままにされているところもある。
会津坂下町では、部落側だけが側溝が
細くなるという現実がいまだに残されている。
部落の側が低地にあるため、呑みきれない雨水や
雪解け時の水が側溝にあふれて
部落の側に流れ込む現実を見た。
和田委員長が地域の人と地道な
行政交渉を続けた結果、一般対策ではあるが
少しずつ環境改善がすすんでいるようすが見られた。かつて町は、同和対策事業を住民に黙って実施した。
住民側は「同和地区実態調査除外申請」を出すまでの事態になり
それ以降、政府の問い合わせに町は応答していない。
会津若松市でも同様に、同和対策事業の
実績がありながら、真剣にやろうとはしなかった。
部落の隣接する地域の土地整備事業を優先させた。
部落への差別感情に乗っかることで
推進した事業はきわめて不自然な区画を現出させた。
高低差を無視した下水路など実態を放置し続けた行政の姿が見てとれる。
「会津魂」がすばらしく藩主の領民を思う名君がいたのなら
なぜに今日も部落の人たちのみが不当な現実のなかに置かれなければならないのか考えさせられる研修となった。 白虎隊士中二番隊の勘違い切腹話は嘘ですよ。
切腹した人数は6人です。
飯沼貞吉が残した回顧録には勘違い切腹で
20人が切腹したとは記されてません。
飯沼達は隊長達17名とはぐれてしまい
飯盛山まで逃げてこれからどうするか話し合い
飯沼を含む6名が山中で切腹し5名死亡。
残りの隊士は下山してます。
城に戻る途中で戦死したり自害してますが
6名は生きて城に辿り着いてますよ。 2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
会津が郡山で放火や略奪をした史料です
会津は悲劇のヒーローなんかではありません
会津の支持者はパヨクだらけです
会津プロパガンダはパヨクによる反日プロパガンダです 英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。 英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
これが会津武士道なのか?(´д`|||) 斗南強制連行は会津プロパガンダによる嘘
会津再興が認められて
新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと
聞かれた時、偽金の不満から一揆が多発する
会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。
もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった
領民達の一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時
新領地は斗南にしようと言い出したのは
山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの
怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が
会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。
会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら
斗南を選んで移住したのだ。 寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
酷いことをしてたのは会津 会津は売国計画を進めていた
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。 白河似北一山百文と差別されたのは嘘
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889) 昔殺し合いしたとか言ってもアメリカに空襲受けたり原爆落とされたのに比べたら大した事ない
それなのにアメリカを憎んでる奴は皆無だからな
日本人同士仲良くしろ >>127
アメリカの対日政策のうまさだよ反米にならないでかつポチにするために
テレビを使ったから 山口県民だけど全く意識したことないな
まあ現代でも安倍を生み出した土地だし他県民に嫌われるのは残当だと思ってるが戊辰戦争のことはいくらなんでも根にもちすぎだわ >>130
会津プロパガンダこそ頭大丈夫か?だわ
音読してこい >>127
それはお前がアメリカに洗脳されてるからじゃん(笑)
俺はずっとアメリカ嫌いだけどな。日本が早くアメリカの植民地から独立するのが夢だよ。 さいたま市内ですら浦和と大宮、仲悪いという事実。アホくさ。 茨城県などの会社に出回るウソの車の当たり屋ナンバーだと山口の山ナンバーが一番多い
この電波は福島県から来てるのかもしれないねw
なにわ、姫路、北九州、筑豊ナンバーなどと混ざって送られてくる 長州藩出身のワイ、白河藩出身のヨメと20年前に結婚。
ヨメ方のじいちゃんに会津じゃなくてよかったのぉ
って言われた。会津の長州嫌いはガチで逆はそうでもないな >>56
平成初期に福島県郡山市に行ったら薩摩藩マークの土産物屋があって驚いた。調べたけど今は無いと思うけど。
同じ頃に福島県西郷村に宮崎県出身者2人で仕事に行ったら歓迎してくれたよ。そこには熊本県出身の人も社員でいた。
そして宮崎にも西郷村ってのがある。
福島県には福岡県からの入植者もいて、知り合いにもいたし西田敏行の先祖もそうじゃないのかな。 山口と鹿児島は嫌いだ!と語る爺さんがいたので福島出身?と聞くと、東京出身!
5代前が福島出身で、山口と鹿児島は信用するな!と代々伝えられてきたと
日雇い警備員の講習会初日に聞かされたが、最後の4日目が終わると会社の会長職に戻ると言い出し消えた >>142
福島、福岡 同じ福が付くのも関係あるのかな
昨日一蘭ラーメン食べたら
福岡の由来は「福が多か」みたいなことが書いてあった >>147
福岡からの入植者がいたから、
福島弁の語尾に「〜だばい」って表現があると噂を聞いたことがあるな (浜通りのほう?)
更に変化して「〜だっぱいよ」って言う人も居たり 福岡と千葉も古くは鎌倉時代から行き来がある(蒙古襲来の千葉氏)
近代では製鉄関係で九州から千葉に移り住んだりしてる
福島、千葉と九州から離れているのに縁があるんだね 福島の地理を知らないから今地図で見てたんだけど会津ってのは猪苗代湖の辺を言うんだね
どうりで地名に津があるわけだ
何とか通りってのがよくわからんけど震災の時によく報道されてたからなんとなく
海側ってのはわかる 福島に相馬ってとこがあるけど知り合いに苗字が相馬っていう人がいて青森の下北半島の出だった 幕末明治維新から150年たってるから
そういう話がまだあるのかよとか思うかもしれんけど
実際いまだに遺恨話があるんだよな
結婚できないとかは生の声で聞いたことあるな 自分の先祖が殺されて時が経てば許せるかと言われたら・・・
と言っても戦争だしな、どっちも戦死してるのに片方だけが悪者
この辺がよくわからんな >>148
だばいを使うのは郡山
安積開拓で福岡から人が集まってきたから
郡山市にも久留米という地区がある 山口って朝鮮半島から渡ってきてそのまま
住みついたやつが多いだろ
だから金や李や安のついた苗字が多い >>145
何とも思ってないんじゃないか
抗戦しようとしたけど地元出身がほとんどの下級武士に反対され、
頑強な抗戦派が越後に行って北越戦争して地元じゃとっとと恭順して戦場にならなかったし ID:vbYykc6r0とかID:BL5QAOn20を見れば
いかに薩長が頭おかしいかが分かるな >>77
ちなみにその北村正哉の実家は今でも細々と続く競走馬の牧場 >>161
ちゃんと貼られてる史料文献音読しろよ
すぐ薩長だと思う会津プロパガンダ洗脳者
プロイセンに国土を売り飛ばそうとした会津はまともか? 会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。 会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史 駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った 福島原発が作られた当時の東電社長も福島人
東電関係者の解説
渡部氏は東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので
後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは
木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは
福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一
第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と
親交が深く雇用対策として誘致した。 会津世直し一揆
かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。
9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の
10月3日に会津若松から遠い大沼郡で
まず一揆が勃発し以後、領内各地に波及していった。 会津は放火魔
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村、
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より 明治2年5月11日
旧幕軍(会津含む)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある 孝明天皇から直で守護職任命されたのは
会津プロパガンダによる嘘
孝明天皇が直で朕を守ってと勅を出したのは
萩の毛利家と水戸の徳川家
京都守護職は慶喜と越前松平が会津松平に回した
天皇を守っといたというのは会津プロパガンダによる誇張 会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています