漢文は、「訓読」とよばれる伝統的な翻訳法をもってまず古語の日本語に訳され、
その訳文(書き下し文)を日本語の現代語に移しかえることで読解されている。
たとえば「子曰、学而時習之、不亦説乎」という文は「し いわく、まなびて ときに これを ならう また よろこばしからずや」と訳し、
ついでそれを「孔子はいった 学んで時々それを復習する、それはよろばしいことではないかと」のように訳する。
いわば中国語→日本語(古語)→日本語(現代語)という二重の翻訳を行っている。
現代の日本人にとって、訓読の技術を身につけるには学習を必要とするが、
この書き下し文の意味をくみとるのにもまた学習を必要とする。二重の負担だ。
もし古語を介せず、はじめから中国語から日本語(現代語)への翻訳法があれば、その負担は解消されるのではないか。
さあ語れ。