古文漢文板の質問スレ4 [転載禁止]©2ch.net
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>>449
ネットで太平御覧を適当に見ていたらこの記述を見つけて、なんか面白そうなこと書いてるなと思って訳そうとしたけど断念してここで訊く事に
ネットだと句読点が付いてたけど本来の文にはないものなので、先入観なしで文の意味を考えたくて取り払いました >>452
この解釈は、あなたが読んでいた文章の文脈に合ってますか?それとも合わない?
「西の方に人が住んでいて、その人が飲まず食わずで髪も振り乱して東に向かって走った。
そして、とうとう(東へ)行って(西に)戻ってくると、
その奥さんの恒さんが(理由を)追求してこのことをまとめようとしたが、
ただ話を聞くにとどめられず、彼女もまた髪を振り乱した。
名前は「狂」というが、別名に「顛」、また別の名が「覆」。
この夫婦は世界(自然)とともに生きて、東へ西へと狂ったように走り回り、それに昼夜をささげた。 >>447の文は前後の文と関わりがなくこれだけで完結しているので、この文章の中でおかしな点がなければどんな訳だろうと合ってないとは言えないと思います。
質問
>このことをまとめようとしたが、
掔の字をどのように解釈したのでしょうか?
>東へ西へと狂ったように走り回り、
狂の字を走者の名前ではなく狂ったようにと訳した理由はなんでしょうか? >>454
>掔の字をどのように解釈したのでしょうか?
その文字は深く考えずに飛ばしました。文脈理解上あまり影響を与えなかったので。
>狂の字を走者の名前ではなく狂ったようにと訳した理由はなんでしょうか?
何の理由もありません。狂騒、狂信、狂乱、狂笑、のような感じで軽く受け止めました。
でも、言われてみれば、名前が「狂」だと書かれているから、この夫婦の名前かもしませんね。
それにしても、これだけで話が成り立ってるというのもびっくりですね。
何かの話の中で、引用されたり例に挙げられたもののように見えます。
それを書いた人は何が言いたくて書いた文章なのでしょう? そういう説明もないですか? >>455
ちなみに、自宅には漢和辞典がなくて、わからない漢字は調べようもなくて、「掔」を
飛ばしたのです。
>>447のご質問が
「この文を訳したいのですが意味がちっとも解りません 何と書いているのでしょうか?」
だったので、大まかな全体の解釈でいいのかと思いました。 >>454
もしもあなたがもっと丁寧な訳を必要としていて、
それでも漢字の意味とかを調べるすべがなかったら、
今日、職場で、漢和辞典(漢語辞典というものもあります)で調べてきてあげてもいいですけど。
それはすごく必要なものですか?
仕事から帰るのが23時頃になるので、それまで待てるのであれば、ですけど。 >>455
太平御覧はただの辞典で、この場合は「髪」について記述がある文章を手当たり次第引用している中でこの文章も引用されているだけで、引用に深い意味はないですね。
引用元の神異経は異国の地を紹介したガイドブックで、狂夫妻の話も西方にはそういうおかしな夫婦がいるという話があるのを紹介しているだけで、著者に何らかの主張があって書かれた話ではないです。
>>457
意味を知りたいのは単なる趣味ですが、私の趣味の為で良ければ調べていただけますか? >>458
急ぎではないのですね。
わかりました。調べてきます。
でも、よければ、もっといろんな質問をしてくださいね。
さっきの文を訳すのも結構楽しかったです。
英文和訳は子供の頃に結構やりましたが、
漢文は、頭の中で読み進めるだけで、和訳して文字にするなんてことはしたことがないので
とても新鮮でした。 不肯聴止
聞くだけにとどまらず?
制止を受け入れなかった、じゃない? 追?録之
これも記録ではなさそうですね
追いかけ捕まえ拘束した、というニュアンスかな…
被髪も婦人の場合は髪を振り乱したとうよりは、被髪左衽
つまりは蛮族の身形だったということじゃない? あ…
>>458
すっかり忘れてしまいました…
遅刻ギリギリで職場について、夜まで結構バタバタして、
ほんとにごめんなさい。
期待されてないことを祈るばかりです…
>>460
それはなんとも判別つきかねます。
ただ、それなら誰が制止を?
>>461
これもちょっと私にはなんとも断言できませんが、
拘束に関しては、続きに、この夫婦が天下と共に生き、東西走り回るのに昼夜を投じた、とあるのが気になります。
また録の後ろにある「之」は他動詞の目的語でしょうから、
受け身ではなく「之を録した(もしくはさせた)」
主語は奥さんですので、奥さんが旦那さんを拘束した(させた)というのは、後で走り回ることを思えば、ちょっとイメージできません。
ところで私は調べてこれなかったのですが、漢和辞典をお持ちの方がいたら、「掔」の字の意味を教えてください。 >>460
元の文章を今みてみましたが、「不肯聽止」は、
たしかに「あへて止むるをゆるさず(止むるをゆるすをがへんぜず)」
「やめることを受け入れることを受け入れず」
と読めますが、意味が繰り返されて不自然に感じます。
不自然とはいえありえなくはありません。 >>462
了解です 気長に待ってます
ちなみに、ここで訊く前に自分がぼんやりと考えていた訳は、
西方有人焉不飲不食被髮東走已往復來其婦恒追掔錄之不肯聽止婦頭亦被髮名曰狂此人夫妻與天地俱生狂走東西以投晝夜
「西方に人がいる。飲まず食わずで髪も振り乱して東に向かって走り、(東へ)走り終えると(西に)戻ってくる。
その奥さんは(走る旦那を)常に追いかけて『掔錄』←?
(走る旦那を奥さんが)止めても(旦那は)聞き入れず、奥さんもまた髪を振り乱した。名を「狂」という。
この夫妻と天地はともに生まれた。狂が東西を走ると『投晝夜』←?」
なのですが、その訳は不自然・有り得ないという部分はあるでしょうか? 『投晝夜』
『投』は他動詞なので、
昼夜(時間、日々)をその作業に費やすという意味でしょう。
『追掔錄之』
目的語の「之」は、先に述べたものを指します。ここでは「追」(した内容)もしくは「西方の人(つまり夫)」。
(代)名詞の前には他動詞や、返読文字(前置詞的なものや有無多寡)を置きますから、「之を掔錄して」となります。
そして主語をあえて提示した後で
・追掔錄之
・不肯聽止
と述語を並べて続けているので、この二つの主語は同一(其婦恒)となります。 手持ちの辞書で調べました(新選漢和辞典・小学館)
掔・ケン@かたいAひく、ひっぱる=牽
追掔錄之
Aの用法だと思います
録にもくくる(括る)という意味はあるようですが、狂人を縛り上げるほどの
強烈な使用法があるのか、と問われれば、かなり疑問が残ります。
が、追いかけて捕まえた、で大過はないような気がします。もちろん主語は其婦恒です 不肯聽止
主語を其婦恒とする意見とは対立します。
やはり、妻の制止、説得を夫は頑として聴きいれなかった、が穏当のような気がします
婦頭亦被髮
妻が突如としてトランス状態に入った訳ではないと思います。
婦の頭、また、被髪。婦人恒の形容描写でしょう。 名曰狂
名づけて狂という。名前が狂というわけではありません
主語は明示されていませんが、しいて言えば、ハタで見ている市井の人でしょうか
夫はガチの狂人で、飲まず食わずで走り回る。
妻は理性を保っているけれど、ボサボサ頭で夫を追い回している。
ハタで見ている人からすれば、同じことをしているわけですから、二人揃って立派な狂人です。 天地俱生
天地開闢の時代から生きているという意味ではないと思います。
人間的な生活を営まず、禽獣同然の暮らしをしている、という意味でしょう。
狂走東西以投晝夜
東西を狂走して、以って昼夜を投ず。
生活を顧みず、四六時中夫婦で追いかけっこをしているのですから、
なるほど、狂とあだ名されるのも当然ですね。 >>497
なるほど、句点の位置がちがうのですね。
「之を掔錄す。肯へて聽止ず婦が頭も亦被髮し」
ではなく、「之を掔錄するも肯へて聽止ず。婦が頭も亦被髪し」なのですね。 其婦恒
恒は婦の名前ではなく其婦恒追(その婦は恒に追っている)という意味では?
恒が婦の名前をわざわざ紹介したものなら婦頭の部分は恒頭と書くのでは? "追掔"をググったらたくさん出てきたよ。だいたいどれも時事追掔と書かれてる。中国人に訊けばわかる話かもね。
それにしても、質問するスレは、質問するのが目的で、だれも解答してあげないものなのか。 ああ、わかったかも
追牽で調べたら「牽手相随」と出てきた
つまり「其の婦は恒に(夫に)手を牽かれ付き従い之を錄する」
錄の意味はまだわからないけど、錄には写すという意味があるようなので、夫を写している(かのように息ぴったりで走っている)という意味かも
夫婦で手を繋いで仲良く走っているのだとしたら「不肯聽止」は誰が誰を止めようとしているのか、また謎が増えるけど 「止」は、相手の行動を制止するという意味はなくて、
(自分が自分の行動を)止める(手を止める)、止まる、終える、終わる、休む、という意味だから、
休む(終わる)のを聴(ゆる)さず、か、聴く(聞く)のみにとどまらず、だろうね。 https://ja.wiktionary.org/wiki/止
意義
2.とめる。とどめる。行こうとするのをおさえる。
禁止、制止
止には禁止制止の意味もあるようだから
走るのを止められても拒んだという意味にも解釈できるのでは 録には裁判などを審理するという意味もありますね
妻が「どうして、そんなことをするの?」と事情聴取したのかも知れません
調書を取れば、まさに「録」です >>475
聴くのみとどまらず、なら行動主体は妻を想定しているはずですから、
不肯ではなく不敢がセオリーではありませんか?
妻の要望「走るのを止めて」に対する応えだからこそ、
不肯、「俺は止めないぜ」となると思うのですが… http://www.zdic.net/z/1c/js/6B62.htm
● 止
2. 拦阻,使停住:〜痛。禁〜。
中国の漢字サイトでも止だけで阻むの意味があると解説してる >>480
禁が阻むの意味でしょ?
禁じて止めさせるのが禁止なのでは?
漢文では止で、「やめさせる」の意味は見たことがない。
止の意味は「已む」または「留む」なのでは?自分の行為をやめる、物事が終わる、と言う意味で。
私は漢文では「制」で相手がやろうとするのをやめさせる意味を表現してきたけど。
普通に相手に行為を思い止まらせる時に「止」って使っていいのかな。
もしそうなら私も遠慮なく使うことにするけど。 列子
河曲智叟、笑而止之曰、甚矣、汝之不惠。以殘年餘力、曾不能毀山之一毛。其如土石何。
黄河のほとりに住む利口な老人が、あざ笑ってこの作業をやめさせようとして言ったことには、
「ひどいことだよ、あなたの愚かさは。老い先短い力では、山の草一本だって取り除くことはできない。ましてや、あれらの土や石をどうしようというのか。(いや、どうにもできまい。)」と。
止を「やめさせる」の意味で使ってるね >>482
全然違うでしょ、「引き留めて」でしょ。止めさせてないし。之の意味は、「この人(少年)」と言う意味だよ。
さらにいうと、「其れ」は「ましてや」ではなく「そもそも」。
「老い先短い」とはどこにも書いていないし、この老人は利口な老人ではなく、
単に智叟と言う名前だっただけ。ま、近所では知恵者と思われていた老人、と言う意味。
老人が笑いながら引き止めた相手は、正義感に満ちた少年。少年に対して「君の残りの人生を全部かけても無理だよ」と笑いながら言ったんだよ。
そして、それを聞いた愚公が、「ヤレヤレ」と長い溜息をつきながら、この知ったかぶりの老人を言い負かして黙らせてしまう。
ググればすぐ出てくる。
出典:『列子』湯問
解釈:どんな困難なことでも努力し続ければ、必ず成功するというたとえ。愚公という老人が交通の便をよくするため、家の前にある山を崩しはじめた。これを見た人が笑うと、「子孫が次々と続けてやればいつかは成功する」と言ったという故事から。 中華サイトでも止は愚公を引き留めたのではなく愚公を阻止したと解説してる
http://www.gushiwen.org/GuShiWen_4706290ae0.aspx
河曲的智叟笑着阻止愚公说 >>484
なるほど納得
とはいえ「止愚公」とは違い、「不肯聴止」には「之」などの目的語がないため、そのように解するより、「立ち止まる」「手を止める」または「のみ」のどちらかと解釈するのが自然だろうね >>485では頑固なことを書きましたが、
実は、私の経験から、他動詞の後ろに目的語が欠けているとき、
英文和訳では「もの」または「人」を補うと自然になるように、
漢文和訳では「それ」「そのこと」「その人」などを補うと自然になることが多いと思います。
ということで、この箇所は。もはやちんぷんかんぷんです。 皆さん、有難うございます
色んな意見を聞くことが出来てとても有意義でした
特に掔錄と読むとばかり思っていた部分が正しくは追掔だと判明したのは大きな収穫でした
また手に負えない文を見つけたら質問させてくださいね 「かかる仰せごとにつけても、かきくらす乱り心地になむ」
[訳] このようなお言葉につけても、心が暗み取り乱した気持ちでございますよ。
この「心地に」のにの品詞がよくわからないです
心地 は名詞
意味は気分
に は格助詞
結果を表しているのでそのまま に と訳す
この場合下のなむは係助詞で、その下にあるはずの侍るが省略されている
こういう解釈でよろしいのでしょうか。 >>486
和文の文法を英文や漢文で理解しようとすることが頓珍漢というか…頭惡いね… >>489
下に存在を表す動詞が省略されて、「に」は断定の助動詞「なり」の連用形でしょうね。
みだり心地は辞書に名詞として紹介されてるので、その理解でいいでしょう。 ありがとうございました
古典の尊敬と謙譲について、動作の受け手に敬意、動作主に敬意を示す、どういうことか理解できません。また敬意の対象は『』なら話し書いている人が主語などと決まっているのですか?教えて下さい <その敬語がついている文節>の主語に対する敬意は尊敬語です。
<その敬語がついている文節>の目的語に対する敬意が謙譲語です。
例:姫、急ぎ殿に参り給ひて、
とあった場合、<参り給いて>が<敬語のついた文節>です。
<参り給ふ>の主語は姫。目的語は殿(または殿の主)。
姫への敬意を表しているのは尊敬語「給ふ」。
殿(の主)への敬意を表しているのは謙譲語「参る」。
手持ちの例文で、その文節の主語と目的語を考えてみてください。 丁寧語「侍り」「侍ふ」「候ふ」は、いつでも、その話(言葉)を聞いてる人、読んでる人が敬意の対象です。
『……』の中で「侍り」「侍ふ」「候ふ」が丁寧語として使われていたら、敬意の対象は聞いてる人、読んでる人です。
ただし、「侍り」「侍ふ」「候ふ」は、時々「おそばにおります(お控え申し上げる)/お仕えする」という意味の謙譲語になることがあります。この意味になっている時だけは謙譲語なので気を付けてください。
尊敬語と謙譲語はそういうことは全く関係ないので、主語なのか目的語なのかを見つけてください。 これを売りつけるためにそれ繰り返してるの?
214名無氏物語2016/10/22(土) 22:40:57.14ID:Ug9Ejxow
正字正假名變換ソフト
契冲、http://www5a.biglobe.ne.jp/~keichu/index.htm 「契冲」は平成五年五月に發賣を開始して、今年は二十五年目に當ります。この間の御愛用に心より御禮申上げます。
「契冲」の使用で「正字・正かなが止められなくなつた」との御感想を頂くのも有難く、
もしかして、販売目的ではなく、こっちの方かな→「契冲」の使用で「正字・正かなが止められなくなつた」 「さりともと頼めし甲斐も…」とあるのですが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形だとしたらカ変・サ変動詞以外には連用形接続です。
ですから、その上の「頼め(訳が「期待した」となっていたのでマ行四段?)」は連用形の「頼み」になりますよね?
なぜ「頼め」なのでしょうか?? これは男性の和歌で、「さりともと頼めし甲斐もなきあとに世のつねならぬながめだにせよ」
(訳:そうは言っても(逢えるだろうと)期待した甲斐もなく(私が)死んだ後には、
せめて並一通りではないもの思いだけでもしてください)とあったので「期待させた」の意味の下二段「頼む」は変だなぁと思ってたのですが、
「そうは言っても(あなたを)(逢えるだろうと)期待させた(あてにさせた)…」を言い換えただけかもしれないですね 「頼む(下二段)」は受け身というイメージがあったのですが「約束する」という意味もあったのですね、メモっときますφ(.. ) たいてい、恋愛の話では、男性が主語の場合は下二段の「頼む」が多いように感じます。 ありがとうございました
筆者の主張が最も表されている一文を書きぬきなさい、という問題で
私は一番初めの、『大事を思ひ...』
だと思います。いい線いってますでしょうか?
http://i.imgur.com/hA6tnYM.jpg >>503
これはそのプリントをくれた先生に訊いたほうがいいですね。
こういう問題の解答のコツとかキモってやつがあるはずです。
国語の先生にきくのが一番です。 神令犬献上天令猫卭下地
皆さんならこれをどう訳しますか? >>507
前後関係がないとなんともね。
どっから持ってきたの?
神っていう語を単独で名詞扱いするのはあまり見かけないから神令犬が主語かもしれないし、
エロっていう漢字もあまり見かけないから、なにかの助字の古い形かもしれないし。
結果としては猫が地面に降り立ったのかな、とは思うけど、結局、前後関係がないと判別つけかねます。 神、犬、猫はそれぞれ単独の名詞です
前後の文は「Aさんは犬と猫を生んだ」「神令犬献上天令猫卭下地」「下地はBさんを生んだ」と言った内容でこの更に前後の文はこれとは全く関係ない内容です ↓新字バカAKIの新たな恥www
http://itest.2ch.net...kobun/1498835597/l50
0285 名無氏物語 2017/08/28 03:39:59
ID:k28DOoZk
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。
「書體」という語の使いかたが違うよ。
そういう場合には「字體」といいなさい。
なぜかわかる?
字體が言語の構造とどう關係あるのかね?
説明してもらえる? >>509
猫は下地(地上)を卬(あおぐ)?
仰ぐのは普通天では? 意味的には却「しりぞける」がやっぱり良さそう
前文の献の対になるし…
犬は上天に差し上げる、猫は下地に棄ててしまえ、てな感じでは? 狡兔死して走狗烹らる
のもとの文は、対句で平仄も揃ってるの? こんな文章があるらしい。
颛顼乃命重犂典司祝融重献上天以属神犂抑下地以属民以絶上下之通以规三辰之行 『路史』
難解なのでわかりませんが、「抑」ですかね? 「下地を抑える」の場合、「献上天」はどういう意味になるんでしょうか? 「こそ〜已然形」で逆接の意味を持たす「逆接強調法」になる場合があると習ったんですが、「こそ〜已然形」の係り結びの強調とはどこをどう見て見分けたらいいんですか?
西行法師の「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」という和歌について調べるのが課題です。
この詩の場合逆接になることは分かってるんですが、何もヒントがない状態でどこからそう判断を導き出せるのかが知りたいです >>518
道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
訳:道辺にきれいな水が流ていた柳の木陰。ほんの少しだけって思って立ち止まったんだけどね…(なかなか動く気になれないよ)。
「こそ…已然形、〜。」=「已然形だけど、〜。」
の(〜。)が省略されています。
現代語にもこれは残ってる。例えば「わが子であれば、愛しこそすれ、恨むなどできない。」 もうすぐ初めてのセンター模試
今回古典は捨てていいですかね?
とりあえず国立の医学部医学科志望です。 >>520
好きにすればいいと思うよ。しょせん模試。本番じゃないんだから。
本番で「捨てる」ことは(国立医学部志望である以上)不可能なので
それまでにきちんと対策とっとけば、いいんじゃないの。 >>519
省略されてるのは分かってるんですけど、初めてその和歌を見たときに、ただの係り結びの強調だけではなく、逆接の意が加わり(つい長居してしまった)の部分が省略されてるって判断することはできないんですか?
「こそ 立ちどまりつれ(立ち止まったのだ)」のようなただの強調ではないというのがどうやったらこの和歌から読み取れるか?ってことです >>522
ほんのちょっとの間だけと思って、を受けたからじゃないかな。 『丘傑字偉跱,吳興烏程人也。十四遭母喪,以熟菜有味,不嘗於口。
歳餘忽夢見母曰:「死止是分別耳,何事乃爾荼苦。汝噉生菜,遇蝦蟇毒,靈牀前有三丸藥可取服之。」
傑驚起,果得甌,甌中有藥,服之下科斗子數升。丘氏世保此甌。大明七年,災火焚失之。』
yahoo知恵袋で↑を訳してくれと言ってる人がいて、それで訳されたのが↓ですがどう思いますか? 解釈がちょっとおかしい気がするんですが
丘傑は字を偉跱といい,吳興群の烏程の人である。十四歳で母の死に逢い,加熱した食品は味が有るといって(嫌い)口にしなかった。
1年余りして、突然夢に母を見、母は言った「死んでも、あなたの分別を止めさせるだけです。お前は(体に良いはずの)茶が苦いとは何事でしょう。お前は生の食品を食べたので,蝦蟇の毒に当たりました。
靈前に三つの丸藥がありますから、取ってこれを服用なさい」傑が驚いて起きると,果たして甌(容器)があった,その中に藥があり,それを服用するとオタマジャクシを數升も下した。
丘氏は代々、この薬入れを保存した。大明の七年,火災に在って失ってしまった。 死止是分別耳。何事乃爾荼苦の部分はかなり怪しいですね
死して止まるはこれ分別のみ
人は死んでも分別は残るものなのですね(母の気持ち)
何事乃爾荼苦は訓読が難しいのですが、
どうしても、そのように、苦い葉っぱを食べたりするのですか(母が息子を気づかう気持ち)
的な意味になると思います。荼は茶ではなくニガナです
何事、なんぞ事とせん
乃爾、すなはちかくのごとく
荼苦、名詞でトクと読みました >>526
死んだのは母でしょう?
分別は「好き嫌い」です。
「死するもこの分別を止めんとするのみ」
「(私は)死んだとしても、ただ、(おまえの)この好き嫌いだけはやめさせたいのです。」 また、「止まる(とどまる)」は、「終わる、休む、働くのをやめる」という意味で
「留(とどまる)」とは意味が違うと思います。
結果、「死して止まる」は「死んで無くなる(働きをやめる)」になってしまう。
「死するも(世に)留まる」とは違う。 分別、フンベツ、思慮・知覚・意識の意味で読みました。
母親は霊魂の存在を聴いてはいたけれど、半信半疑だったのでしょう。
ところが実際に死んでみると、霊魂は存在し、生前と同じように知覚があり、
息子と交信さえできる。その衝撃に対する感想ですね。
死止是分別耳。:死してとどまるは、これ、分別のみ
死んで肉体は朽ち果てたのに、意識だけは残っているのね。
死者への追悼文に「魂而有霊:死者に知覚があるのならば」という常套句がありますが、
それと同系統の文章だと思いました。 >>529
つづき
分別(ブンベツ?)好き嫌いについては、あまり賛同できません。
そもそも、私の解釈では、息子は「好き嫌い」で偏食をしているのではなく、服喪の行動
として、意図的に食を減んじているのです。
上では、「どうしても、そのように、苦い葉っぱを食べたりするのですか」と便宜的に訳しましたが、
母親も当然、息子が自分の為に度外れた粗食を敢行していることは、理解しています。
母親としては、一刻も早く普通の食事に戻して欲しいのですが、服喪の中断は中華思想では、
これ以上ない不孝となるので、母も制止はしませんし、強情な息子が勧告を受け入れないこと
くらい、母は承知しているでしょう。だからこそ、薬の紹介へと文章が繋がっていくのでは
ありませんか? >>530
つづき
止まる=留まるはイレギュラーだとの指摘は確かかもしれません。
とはいうものの、
「死するもこの分別を止めんとするのみ」においても、是を指示代名詞として扱うのはどうでしょう?
普通は此でしょうし、もっと言えば、人称代名詞の汝あたりの方がいいとさえ思えます。
「死するも止めんとするは、これ、分別のみ」なら、「あり」かも知れませんが・・・
少々、想像力が逞しすぎますが、私の解釈はこんなところですね。 まとめ
新字バカAKIのマヌケ発言その1
>白川静…漢文学者、中国史家
>つまり中華思想の持主。日本を中国の属国にしたくてそう言ってるんでしょ。
>結局、繁体字大好きなのは、中華思想にとりつかれて、日本を見下している連中。
新字バカAKIのマヌケ発言その2
>世界中の傲慢な華人(漢民族)や、香港等でも使われている「中国国語」の文字が繁体字。
新字バカAKIのマヌケ発言その3
>繁体字というのはシナ文字のこと。
>朝鮮でも日本でも、繁体字はあくまで「古代文字」に過ぎない。
新字バカAKIのマヌケ發言その4
>語法や文法を効率よく説明するためには、既存の文章を探してくるのではなく、ピンポイントで説明できる文を自分で作ってあげるのが一般的です。
新字バカAKIのマヌケ發言その5
>"以"に他動詞の意味はありませんよ。前置詞と副詞の意味です。
新字バカAKIのマヌケ發言その6
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。 >>507に回答を下さった方、ありがとうございました
また訳し難い文があったのでご意見お聞かせください
有山名曰去痓南極果北不成去痓果
この文にはどんな訳が考えられるでしょうか? 山があり、その(山の)名前は去痓。
南の最果てにあり、その山を北に移すことは叶わず、結局去痓のままだった。
天帝様が山の位置を決めようとでもした創世記みたいな神話的な話なのかな。 山有り、名づけて去?という
(病気を治すために)南より極めて北を果たす(地球を一周した)も、
病を去ること成らず、(山は発見できず)、果つ(死んだ)
私ならこう解釈しますね。
地球が丸いことを知っているとしたので、新しい文章でないと困ります。 漢文で果の字が「(地の)果て」や「死ぬ」の意味で使われることはあるんでしょうか?
ちなみにその文は、世界は平らな大地で中華がその中心に位置しているという考えが常識だった時代に書かれたものなので、
地球一周の観念が著者にあった可能性は低いと思われます >>538
「果」のそういう使い方は日本独自の用法(いわゆる国訓) >>538
>>539
地球一周はさすがに言い過ぎました。
果たすは「とげる」の字義で読んでいるつもりです。極=果で「きわめる、つくす、とげる」かな・・・
果=死は国訓でしたか・・・
となると、私的には、痓(病?)を去るの果を成さず、ですね。
(どんな病をも治してしまう)去痓という山がある(らしい)
南から北へと(あらゆる手段を)尽くしてみたが、
(去痓山は発見できず)病を去るという成果は達成できなかった。
こんな感じでどうでしょう? あと、確認ですけど、この文章はホントに中国人の手によるものですか?
初見の時から、どうにも和臭を感じているのですが・・・ 少し調べたら、全く頓珍漢でした
山海経の中の一節ですね。
大荒之中,有山名曰去痓。南極果,北不成,去痓果。
さまざまな注釈の中でも難解とされているそうです。
結論は、読めません、です。 >>536-542
ありがとうございました
参考にさせていただきます
またご意見をいただきたいのですが
有神人面無臂両足反属于頭上
この両足反属于頭上の意味がいまいちわかりません
神がいて、人面で腕がなく、両足は反っていて頭上に属する
つまりこういうことでしょうか?
じゃなくて、
有神人面無臂両足反属于頭上
人の顔をした神がいて、
腕と両足が(あるべき場所に)なくて、かわりに頭の上に、腕と両足がついていた、
ってことだと思います。
新字バカAKIのマヌケ発言その1
>白川静…漢文学者、中国史家
>つまり中華思想の持主。日本を中国の属国にしたくてそう言ってるんでしょ。
>結局、繁体字大好きなのは、中華思想にとりつかれて、日本を見下している連中。
新字バカAKIのマヌケ発言その2
>世界中の傲慢な華人(漢民族)や、香港等でも使われている「中国国語」の文字が繁体字。
新字バカAKIのマヌケ発言その3
>繁体字というのはシナ文字のこと。
>朝鮮でも日本でも、繁体字はあくまで「古代文字」に過ぎない。
新字バカAKIのマヌケ發言その4
>語法や文法を効率よく説明するためには、既存の文章を探してくるのではなく、ピンポイントで説明できる文を自分で作ってあげるのが一般的です。
新字バカAKIのマヌケ發言その5
>"以"に他動詞の意味はありませんよ。前置詞と副詞の意味です。
新字バカAKIのマヌケ發言その6
>支那国語表記における正しい書体が、日本国語表記における正しい書体とは言えないことは>両国言語の構造の差異を解するものであればまず否定しえぬ事実ではないか。
これらのマヌケ發言についての言ひわけまだ?? 無が臂と両足の両方に掛かっているという発想はありませんでした
ご意見ありがとうございます 無ABという文で無がAB両方に掛かっている例が同じ書の中で他にあるのかを調べてみたら1ヶ所だけ状如牛〜無角一足というよく似た記述がありましたが
これは角と足1本がない(3本足)ではなく、角がなく1本足と解釈されてるようですね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Wu-Renchen-Shanhai-jing-guangzhu-Kui.jpg
無臂両足もやはり無は臂だけに掛かっているのでしょうか >>535
山海經には譯本が存在しますので、ご自分でお探しになつては。 実は訳本は持っているので、それを使ってここで遊びたいのが本心でござる。 >>551
では、訳本では「有神人面無臂両足反属于頭上」がどう訳されているのか教えてください。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています