「駅」「訳」「沢」等々にて書く可しと主張せるのならば、當然「繹」の字は否定されねばならぬ。
さうすると必然的に「演繹」と云ふ詞は使へぬ縡になる。
「単」では無く「單」と書くのを批判されるのならば、「憚(はゞかる)」と云ふ字を書いてはならぬ。
「繹」が許されるのならば、「驛」「譯」「澤」等々も普通に許されて宜い筈であるが、現代表記主義者は其を許さぬ。
「憚」が許されるのならば、「禪」「蟬」等々を書いても何等批判される謂は無い筈である。
而して其程迄に常用漢字を大事だと思ふのならば、常用漢字表には無い「繹」「憚」等々の漢字の使用は當然に制限されねばならぬし、
「演繹」は「演えき」、「憚る」は「はばかる」と平假名表記にせねばならぬ。
普段から正字を普通に用ゐてゐる筈であるにも拘らず其にすら氣附かず、正字を使つてはならぬと宣ふは啻に癡者としか思へぬ。

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