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【通知用】 李氏朝鮮VS琉球王国
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0002マンセー名無しさん垢版2018/06/05(火) 17:50:32.86ID:BHSbmpkq
すまんな
0003マンセー名無しさん垢版2018/06/05(火) 17:55:59.01ID:w5/alJ87
>>1
大韓民国臨時政府ということで中国板にスレ立てました
荒らしに分からないように分かる人だけが分かるスレタイにしておきました
0004マンセー名無しさん垢版2018/06/05(火) 21:05:57.51ID:WSP0JJLs
なんつーかネトウヨ退治とか抜かしてるけど
やってることネトウヨそのものだよな今回の荒らしてる連中
0005マンセー名無しさん垢版2018/06/06(水) 09:37:56.31ID:WY5ZrS5g
上げるで
0006マンセー名無しさん垢版2018/06/06(水) 19:00:04.32ID:TLlEeG6T
もうどうにもならんな
0008マンセー名無しさん垢版2018/06/07(木) 18:37:01.20ID:kcNyRMM4
例のブログ

9 名前:マンセー名無しさん[] 投稿日:2018/05/21(月) 20:56:06.93 ID:SQi/XzVm
ブログを復活させました。まとめ形式にしようかな。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf-rakuen/
0009マンセー名無しさん垢版2018/06/08(金) 01:50:20.54ID:teTOFzlp
ブログ見て思い出したんだけど、
電通の『沖縄県観光振興総合計画に関する報告書:誘客プロモーションを中心に』を頑張って閲覧した。

多田治の描写から受ける印象とはずいぶん違って、全体としてはいかにも広告代理店が作りそうなレポートだった。
124ページの報告書のなかで、「沖縄の歴史」の開発を提案している部分は2ページ、
県民対策としてPRのテーマを「観光立県」よりも「沖縄の文化」としたいと述べているのは1ページ弱。
意識して探さないと見落としそう。
残りのページの半分以上は、広告打つから電通に金を払えという内容で、
電通一押しのキャッチコピー「ファンタジア沖縄」がダサすぎてどん引きなんだけど、これ結局採用されたの?
0010マンセー名無しさん垢版2018/06/08(金) 15:01:40.34ID:gV/r7MQP
ブログの過去ログは移転したの?
0011マンセー名無しさん垢版2018/06/09(土) 16:41:56.43ID:1CZuS27z
4マンセー名無しさん2018/05/13(日) 11:42:42.24ID:445B+6BT>>5
令制国の「〜国」と琉球国を同一視して、琉球は江戸期の藩の一つ、と言い出すデマが出てきてるっぽい
https://togetter.com/li/949472

尚氏が江戸時代初期には薩摩に対して琉球国司と名乗っていたことに誰一人として触れないのが逆にすごい。
これだけ書き込みがあるのに。
0012マンセー名無しさん垢版2018/06/10(日) 00:17:26.19ID:zsW4PNZd
琉球国司というと、その昔、かの仲松弥秀が、
「島津氏の十二島地頭職は沖縄に及んでいて、それが室町時代に琉球守護職になって、そのときに尚氏を国司に任じた」
とか言い出して、それに当時30代なかばの高良倉吉が噛み付いたという面白エピソードがあるんだけど、
バカッターのやつらは誰も知らないんだろうな
0013マンセー名無しさん垢版2018/06/10(日) 18:47:38.47ID:zsW4PNZd
「奄美」という語は近代になって急に復活したように見えるんだけど、経緯わかる?

「奄美」の初出は「アマミキヨ」なんかよりずっと古い。
日本書紀の657年の記事に「海見嶋」が出てくる。682年の記事には「阿麻彌人」が出てくる。
平安時代は小右記997年に「奄美嶋」の海賊の記事がある。
鎌倉時代の金沢文庫所蔵日本図の「雨見島私領郡」が俺の知る限り最後。

奄美大島を「大島」とよぶのは「奄美」よりも新しいけど現代まで続いている。
1306年の千竈時家処分状は「大しま」はおそらく奄美大島だし、
李朝実録1462年の記事に「吾時麻嶋」もそうだろう。
奄美群島全体を大島とよぶのは明治になって大島郡ができてからだと思う。
0014マンセー名無しさん垢版2018/06/11(月) 18:17:19.86ID:qhteZ79i
鹿児島県庁公式サイト
http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bunka/yurai.html
奄美とは奄美大島および奄美諸島全域をさす。古くは「海見」「阿麻弥」「奄美」と表記されていた。奄美地区は、
1609年(慶長14年)の島津氏による琉球侵攻以前、琉球(沖縄)国に属しており、その名の由来は、琉球国の
始祖「阿麻弥久(アマミク)」がこの地に降臨したことによるといわれる
0015マンセー名無しさん垢版2018/06/11(月) 22:04:56.04ID:lzBwGqAI
うん、そういう説明をよく見るんだけどさ、
アマミキュの文献上の初出は袋中の『琉球神道記』(1605)なわけで、奄美よりも千年近く下る。
どうしてアマミクが千年さかのぼって奄美の語源になると信じられるのかな。

室町以降で「奄美」が使われた例を探しているんだけど、
もし全然ないのならアマミクと奄美は使用時期が重ならないかもしれない。
0016マンセー名無しさん垢版2018/06/12(火) 21:12:46.67ID:sV6SY6NM
沖縄奄美自身で書き記した一番古い書物って何なんだっけ?
下手すると尚円の書状とかかな
0017マンセー名無しさん垢版2018/06/13(水) 00:15:57.47ID:xXAzafUA
室町からかなり下って明治の頃の事情となると、国会図書館デジタルコレクションが役に立つ。

『分邦詳密日本地図』(1890=明治23)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937062
奄美群島には名前が与えられておらず、単に「大隅之内」と書かれている。奄美大島は単に「大島」。
明治23年はちょうど都道府県が今の形に落ち着いた年で、この頃は旧国名が引き続き使われていた。
8コマ目を見ると、琉球国が西海道の中に入っていて、薩摩、壱岐、対馬に続いている。

『日本地理教科書附図及附録』(1902=明治35)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762727
ざっと見たかぎりでは地図に「奄美」が出現するのはこの年から。
14コマ目に「奄美群島」が登場する。奄美大島は「大島」のまま。
明治31年には那覇区が日本で29番目に人口が多い市区町村だったとのこと。
0018マンセー名無しさん垢版2018/06/13(水) 01:56:26.50ID:rgoB13Ud
朝鮮と琉球で同じ紋章(赤青黄の三色三つ巴)使ってるのはなんでなんや
0019マンセー名無しさん垢版2018/06/13(水) 11:27:08.07ID:+HLqc2JM
朝鮮の三つ巴ってどんなの?具体例を見せて
0021マンセー名無しさん垢版2018/06/13(水) 23:39:40.72ID:ifPCjVEW
琉球というか尚家の三つ巴(左御紋)は家紋なので元々は色を塗り分けるということはなかったはず。
いつから三色になったの?

三つ巴を使って「琉球国旗」をでっち上げようとした占領期の米軍には根本的な誤解があって、
そもそも家紋というのは家のもので、他家の人間が気安く使えるものではないんだよね。
仮に徳川時代が続いていても、一般人にとって三つ葉葵は「彼ら」のものであって「俺たち」のものにはならなかったはず。
エイサーのチームとかが気安く三つ巴を使っている状況はとても非琉球的と言える。
0022マンセー名無しさん垢版2018/06/14(木) 17:20:21.94ID:6Zf5q9bL
「代主」と室町将軍との往復書簡で写しが残るのは、
「代主」からのは1420年のものが、室町将軍からのは1414年のものが一番古いようだ。
年代からすると「代主」は思紹ということになるが、本当に思紹かは怪しい。

漢文世界以外で「琉球」を目にすることはほぼないと思うんだけど、
「りうきう國のよのぬしへ」という復書にはひらがな表記の「りうきう」が出てくる。
自称の方で「りうきう」の例はあるのかな?
0023マンセー名無しさん垢版2018/06/14(木) 18:21:52.26ID:eXQ1BgyB
琉球国旗と称するものの過去ログまとめは例のブログにあったじゃん
つか移行できないとどうしようもないか
0024マンセー名無しさん垢版2018/06/14(木) 21:45:10.90ID:9+v7eGNb
旗について調べてたのは俺だww
まとめが消えて不便なんでブログ主には復活させてほしい

3年前も触れたが『琉球紋章譜』(1978)という田口二州という怪しい占術家の自費出版(?)本がある。
この本に、著者が昭和45(1970)年に沖縄タイムス社で徳田安周から仕入れた以下の与太話が載っている。
信憑性はともかくとして、三つ巴に対する当時の感覚がわかっておもしろい。

那覇のレコード会社が、トレード・マークに左御紋を用い『御紋レコード』の名称で発売することを考え『御紋の
使用料として五百ドルでは如何でしょうか』と尚家に申込んで断られた。結局《三つ巴紋》のマークはあきらめて
『御紋レコード』と言うことだけで発売することにしたが、そんな事を考えるヤツもヤツだが、五百ドルと言うのも
何処から割りだした値だろう
0025マンセー名無しさん垢版2018/06/15(金) 01:54:32.21ID:xaoMIE9W
>>20
韓国料理屋とかコリアタウンに描かれてるやつやな
見る頻度は太極のほうが多いけど
0026マンセー名無しさん垢版2018/06/15(金) 17:40:15.97ID:B7dMM1WW
最近一部で話題になってる会津観光史観と比べてどうなのかな、沖縄琉球観光史観は
0027マンセー名無しさん垢版2018/06/15(金) 20:18:52.26ID:mLymcWdH
日本列島ほぼ全域描く、最古級の地図発見 広島の博物館
https://www.asahi.com/articles/ASL6H36LKL6HPTFC009.html
 14世紀中ごろの室町時代(南北朝時代)に描かれたとみられる、本
州から九州のほぼ全域が記された日本地図がみつかった。広島県福山市
の県立歴史博物館が15日発表した。現存する最古の日本地図は京都・
仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるが、西日
本が欠けており、全体が残った地図では最古級。日本地図の変遷をたど
るうえで重要な発見と注目される。
 博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦
122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託さ
れた。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑
の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都か
ら各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、
日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を
「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町
の地名が多く記されるなど室町時代の特徴を備え、さらに文字の書体の
古さなどから14世紀中ごろの作と判断した。
 博物館の久下(くげ)実(みのる)・主任学芸員は「鎌倉時代と室町
時代の特徴がある地図は知られていなかった。空白の期間を埋める資料
という点でも重要だ」と話す。
0028マンセー名無しさん垢版2018/06/15(金) 20:37:41.11ID:mLymcWdH
下から順に龍及國、種子嶋、鬼界嶋、黒嶋とならんでいる。
この並びだと鬼界嶋は奄美群島の喜界島ではなく硫黄島のことだろう。

鎌倉時代と推定される金沢文庫の日本図には「龍及國宇嶋身人頭鳥雨見嶋私領郡」とあった。
今回の地図は「龍及國頭□□」と読める。
0029マンセー名無しさん垢版2018/06/15(金) 23:01:59.95ID:BKa96Azs
会津観光史観って悪意ある呼び名だよな
最新の幕末史研究が反映されているとされる八重の桜見るにそこまで大げさに誇張してるようには見えないけどな
0030マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 08:58:53.87ID:BX/6G8wW
>>24の御紋レコードの話について
田口は左御紋タブーが沖縄に生き続けていたとか書いているが、違うと思うなあ。
尚家の権威なんてとうに失墜していたけど
他家の家紋だから勝手に使えないという意識が残っていたというぐらいじゃないか。
0031マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 12:50:06.04ID:KrJpTvzs
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jjtaro_maru/20110618/20110618105111.jpg
http://img01.ti-da.net/usr/t/a/r/taru2014/app-007750300s1503277682.jpg

ところで琉球国旗云々でお聞きしますが、上図の船の右端、下図の船の左端に掲げられてる青地に赤丸っぽい旗はどういうもんなんでしょうか?
それと上図の日の丸の上の五色の旗もわかりましたらお教えください。
0032マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 13:16:25.36ID:iPNp7/kC
五色のは満州旗に似てるね
0033マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 13:16:43.21ID:w90qOLsL
オカルト板でやれ
0034マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 21:05:12.54ID:xZMYQtwj
進貢船に掲げられた旗にはどんな意味がある?
http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/archives/%E9%80%B2%E8%B2%A2%E8%88%B9%E3%81%AB%E6%8E%B2%E3%81%92%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%97%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%EF%BC%9F
ムカデは後ろに下がる事なく、必ず来た道を通って帰ってくるので、
行った船が必ず帰るという縁起を担がれました。
そして、中央のマストにある三角の日の丸の旗は、太陽を意味しており、
天候が荒れないように、祈願する意味を持っています。
五色旗は、元々中国の道教に端を発する旗で、東西南北と中央の方角をあらわし、
それらの全ての方角を守ってくれるという意味があります。
西龍、白虎、朱雀、玄武の四聖獣と同じなのだそうでいわゆる吹き流しというモノです。
黒い旗には、七ツ星が書かれています。
それは天空の北斗七星を意味していて、不動の星、北極星信仰と関連しているようです。
こちらも航海の安全を願い、最短の時間で、航路を往来できるようにという願いが込められています。
赤い菩薩旗は、媽祖神信仰に関係しています。
媽祖とは北宋時代に実在していた中国の少女で、千里眼の能力があり、
船を遭難から守ったというような逸話があり、船乗りが守護神として祀るようになります。
進貢船の中には、媽祖廟が安置され、拝礼を欠かす事はなかったようです。
0035マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 22:52:01.59ID:jBfn2xIP
そのブログがあってるかどうかは知らん。
上から赤、黄、緑(青)、白、黒という配置は中華民国の五色旗と似ている。
五色の旗は仏教系でも見るが、配色が違うようだ。
0036マンセー名無しさん垢版2018/06/16(土) 23:48:38.08ID:jBfn2xIP
松居南岱『万国舶旗図譜』(1854)に旗の絵が載っていて、
注釈に寛政十年(1798年)に銚子に漂流した「琉玖」船の旗とあるのは以前紹介した。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/viewer?&;cd=00061200
いろいろ調べていたら、これに関連する論文が2017年に発表されているのを見つけた。

三枝 大悟:沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」と関連資料
http://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/hakukiyou10/006.pdf

同じ漂流事件に基づく旗の絵を沖縄県立博物館・美術館が所蔵しており、
元の所有者は千葉の歴史に興味のある個人収集家ということで、現地で描かれたかその複製の可能性が高い。
絵に「午二月廿日銚子港入」とあるのは寛政十年(1798年)。
船は王府の楷船ではなく、大嶺筑登之親雲上が所有する馬艦船だが、王府がチャーターしていた。
絵には「琉球舩」と書いてあって、「琉玖」船となっている『万国舶旗図譜』より正確だ。
二重横線が三つ巴の上に配置されいるのは『万国舶旗図譜』の反対で、さらに三つ巴の下に波模様が配置されている。
色はわからないが塗り分けられているようには見えない。
『万国舶旗図譜』の方は伝聞を重ねて歪んだ情報を伝えているのではないか。
以下の指摘は興味深い。

巴紋の幟は日本式のものであり、中国に対して薩琉関係を隠蔽しなければならない琉球船が、
御紋旗を中国との往来の際に掲げたとは考えにくいとの指摘がある(12)。
(12) 板井英信「『那覇港図屏風』にみる19世紀那覇港の船」(『比較民俗研究』22、2008年)。
0037マンセー名無しさん垢版2018/06/17(日) 00:21:56.98ID:22zghyHW
連投御免。「午二月廿日銚子港入」は「午二月廿日銚子湊入」の誤字。

琉球「船舶図面五枚」の付箋(『東京国立博物館図版目録 琉球資料篇」2002年、東京国立博物館、260〜262頁、2002年)を
豊見山和行が分析した結果が表1にある。
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5971/1/1-1_TOMIYAMA%20Kazuyuki.pdf
唐船(進貢船)、楷船、馬艦船のうち、唐船と楷船の両方に「御紋籏」が入っており、板井の主張と整合しない。
銚子に漂流した民間の馬艦船に「御紋籏」が掲げられていたのは、王府がチャーターしていたからということで説明可能か。

唐船の三つ巴を豊見山は「青地に三つ巴で示された御紋籏」と説明する。
楷船のそれも同じで、どちらも「日本式の幟」に見える。
豊見山は「むすびにかえて」で、王府が1865年になって、
「一、首里中から(唐)旅行之外、鞁打躍候儀并やまと風籏立候儀、禁止之事」と
大和風の風見鶏の掲揚を禁止(というか制限)する命令をだしたことに触れている。
だとすると、「御紋籏」が日本式の幟なのは都合悪くないか?
0038マンセー名無しさん垢版2018/06/17(日) 00:59:48.77ID:22zghyHW
板井 英伸:『那覇港図屏風』にみる19世紀那覇港の船、比較民族研究 22、2008年
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&;active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=17513&item_no=1&page_id=13&block_id=83
低品質のスキャン画像なのが残念。
表8に楷船の分析がある。左三つ巴紋は紺地白抜きか白地に紺のいずれか。
表9の馬艦船にも三つ巴が掲げられた例がある。以下、関係する記述を本文から引用。

『琉球船舶図』につけられた付箋によれば、艫と艫檣に「関帝王旗」と「黄色旗」、「ム
カデ旗」、「三角旗」が、主檣に「三角旗」と「七星旗」、「ムカデ旗」と「進貢旗」が、前檣と
舳に「三角旗」と「五色旗」、「舳旗」がそれぞれ掲げられることになっているが、絵の中では、
それらに加えて王家である尚氏の紋章(巴紋)を白く染め抜いた日本式の幟が加えられている。
これは和船である弁才船や鹿児島港路の楷船のようを主に薩摩と関係する諸船に見られるもの
であり、『那覇港図屏風』でもそのように描かれているが、中国に対して薩摩との関係を極力隠
そうとした当時の琉球が、あえて掲げたとは思いにくい。『琉球船舶図』は王府による船舶管
理が過去の話になってから以後、明治期になってから描かれたものであり、唐船との混同が起
きた可能性を考えるべきであろう。

『琉球球船舶図』の付箋によれば楷船には「御紋旗」が掲げられることになっており、実
際に巴紋を白く染め抜いた日本式の幟が加えられている。これは先述のとおり『那覇港図屏風』
でも見られるものだが、薩摩に対しては琉球国も日本の方式に従っていることを示すねらいが
あったのだろうか。
0039マンセー名無しさん垢版2018/06/17(日) 01:11:59.05ID:22zghyHW
ということで、豊見山の2012年の分析は、2008年の板井によってあらかじめ反駁されていたww
板井論文は以下の文から始まり、これを「おわりに」でも繰り返している。
よっぽどレベルが低いんだな。

筆者はかつて「奄美・沖縄の船に関する議論の中には、しばしば全体の文脈とは関係なく都
合の良い記述や描写だけを恣意的に選び出し、『昔は』や『伝統的には』などの抽象的な括り方
で時系列を無視したり、単発的な記述を一般化して強弁したりするものが散見された」と指定
し、「こうした時系列に対する無責任な態度は、奄美・沖縄の船に限らず他地域を含むモノ資料
研究全体の信頼性を損ないかねない」と述べたことがある
0040マンセー名無しさん垢版2018/06/17(日) 09:22:02.10ID:Il4aLsrA
掘り出し物を見つけるきっかけをくれた>>18には感謝。
昔のやりとりを覚えている人は少ないと思うから改めてまとめるよ。

白地に黒・紺の三つ巴、下に赤黒横線の旗が琉球王国の国旗だったニダと信じている困った人たちがいて、
こんな感じで世界に拡散してしまっている。
https://www.flaggenlexikon.de/fjapokin.htm#historische%20Flaggen

この図が載っているのは幕末から明治初期にかけて本土で出版された本で、俺が見つけたのは以下の3冊。
『万国舶旗図譜』(1854)、『内外旗章地球国名』(1873)、それに制作年代不明の『内外旗章便覧』。
http://school.nijl.ac.jp/kindai/SUMI/SUMI-00237.html
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761507
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/biblio/bib40-2/05.html
これとは別に那覇港の様子を描いた絵がいくつか残っているが、いずれもこの旗は載っていない。
また、いずれの本も琉球を「琉玖」と表記していたり、「清道」旗を朝鮮国旗扱いしたりと、
クオリティの低さが推測できた。
『万国舶旗図譜』には注釈があり、寛政10(1798)年に銚子に漂流した船の旗がソースだという。
実際にこの年に琉球船が銚子に漂着しており、『琉球人漂着一件』という取調べ報告も残っている。
ここまでが3年前に調べてわかったこと。

今回、沖縄県立博物館・美術館所蔵「琉球船の図」という、同じく1798年の漂流事件をもとにしており、
しかもより信頼できるソースが見つかった。
この絵は色がついていないが、三つ巴は白地に単色(おそらく紺)、上に二重横線という
今でも神社とかでよく見かける日本式の幟であって、国旗風に仕立て上げられていたわけではなかった。
こうした家紋の幟は大名が船に掲げることになっており、
例えば、島津氏の「丸に十文字」の幟は首里城公園所蔵「那覇港図」で確認できる。
薩摩との関係を隠蔽する都合上、日本式の幟が唐船に掲げられた可能性は低く、
もっぱら薩摩と関係する王府の船に使われたはずであり、
そうすることで琉球国も日本の方式に従っていることを薩摩に示すねらいがあったと板井は推測している。
0042マンセー名無しさん垢版2018/06/17(日) 17:49:50.38ID:LvRhQH4x
検索したらこんなんも。
既成事実化が進んでますな。

岩手県花巻市議会議員(元朝日記者)のブログより

沖縄だよりG―「本土復帰」45年と3本の旗
http://samidare.jp/masuko/data/14948229271.jpeg
http://samidare.jp/masuko/note?p=log&;lid=434305
初めて見る旗だった。赤と青と黄色を「巴」(ともえ)状に配した不思議な図柄だった。「これは450年間、続いた琉球王朝の
家紋だと言われているんです。“左三つ巴”というそうです」と知花さんは説明し、「実は…」と続けた。「10年ほど前、当時83歳
だった元海兵隊員からもらったんです。『沖縄は日本の植民地。米軍はその植民地支配から解放するためにやってきた。
これは大切な解放旗だ』と…。上陸する前に末端の米兵たちはそう教え込まれたというんですよ。それが真っ赤なウソだとは
すぐに気が付いたけど…」。泡盛を入れる陶器には別の旗が施されていた。「1950年1月25日/米国軍政府 琉球旗設定」と
記されていた。知花さんが言った。「当時の沖縄は星条旗でも日の丸でもなかった。海賊船などから漁船を守るために、この旗を
船首に掲げたらしい」

中略

 「アメリカ世(ゆ)のあわりから/平和憲法・民主主義/求めてヤマト世来たけれど/思(うむ)いこがれたヤマト世は/ヤ
マトの為の世の中で/人間不在の政治だけ…」―。「とすると、知花さんにとっての心の原郷ってどこになるのですか。やはり、
かつての王国?」と私は問うた。しばらく、考えた後にこう答えた。「一時期、米軍が巴の琉球王国旗を“解放旗”と見たのは本当
だったのかもしれない。それが占領政策の手段だったとしても…。この旗にはやっぱり、シンパシ−を感じる。でもいきなり、
“琉球独立”論にはいかない。運動に排外主義があってはならない」


(写真は琉球王国の国旗をされる旗を広げる知花さん。「かつての沖縄の姿をヤマトの人たちにもぜひ、知ってほしい」=5月6日、読谷村波平の自宅で)
0043マンセー名無しさん垢版2018/06/18(月) 12:54:42.86ID:z5Ad6af8
>>27
14世紀半ばだと三山の明への朝貢も始まってないが、それ以前からりゅうきゅうと自称してたんですかね?
0044マンセー名無しさん垢版2018/06/18(月) 19:20:05.44ID:/ATWppFz
リュウキュウという恐ろしい人食い野蛮人の国が南方にあるという認識が本土で広がっていただけで、
リュウキュウの自称はもちろんのこと、どこを指していたかもはっきりしない。

漢字の違いを無視すれば、琉球の初出は『隋書』(636)の「流求」。
この「流求」が沖縄か台湾かあるいはその両方なのかは決着が着いていない。
ともかく『隋書』由来の人食い野蛮人のイメージが日本でも受け入れられていたことは
『性霊集』(9世紀前半)中の空海の漢詩(「留求」が出てくる)などで確認できる。
13世紀前半の『漂到流球国記』は、漂流先が「流球国」だったと信じていた人からの聞き書きなんだが、
ちょっと笑えるくらい漂流先でビビりまくっている。
少しあとの金沢文庫所蔵の日本図(鎌倉時代後期)には「龍及國宇嶋身人頭鳥 雨見嶋私領郡」と書かれている。
「頭鳥」は、『隋書』に村長を「烏(鳥)了帥」と呼ぶとあるのと関係しているのかもしれない。
0045マンセー名無しさん垢版2018/06/19(火) 19:03:18.43ID:PeZ/yFzN
元代までの琉球は台湾ってことでいいらしいけど
明朝が元皇子を追放した琉球ってのも台湾でいいのだろうか
0046マンセー名無しさん垢版2018/06/20(水) 13:02:34.26ID:h0eVgYm3
尚氏、向氏の名乗頭の朝は源為朝からとったというのは本当なんでしょうか?
0047マンセー名無しさん垢版2018/06/21(木) 18:49:04.41ID:qT8EVHh4
由来の怪しい三つ巴の旗には大きく2種類ある。
1)白地に黒・紺の三つ巴、下に赤黒横線
2)勾玉部分が赤青黄の三つ巴
>>40は1、>>42は2。
2は米国民政府が1954年に作ってはみたものの正式採用しなかったということで決着がついている。
>>41の1978年の児童書にもなぜかこの旗が載っている。
昔現物を図書館に見に行ったことがあるんだけど、ブックカバーが捨てられていて確認できなかった。

赤青黄の旗の隣にみえる紺地の幟や、それを白地にしたものであれば同時代の資料で確認できる。
この種の幟から1の旗が出てきたとすると、上下を逆にしてさらに表裏を逆にしたうえで適当に色を塗ったことになる。
0048マンセー名無しさん垢版2018/06/21(木) 21:24:44.54ID:JsMTcJ0p
前のブログまとめによれば、三色巴旗は屋良朝陳が戦後すぐにでっち上げたって結論してたが
山田真山は戦前から活躍してた芸術家なわけで、それ以前から知られてたんだろうか
それとも戦後になって知っただけなのか
0049マンセー名無しさん垢版2018/06/22(金) 21:36:53.29ID:RUAUiyLb
そもそも尚家が三つ巴を家紋にした経緯ってなんだっけ?
0050マンセー名無しさん垢版2018/06/23(土) 09:05:22.19ID:fmwIKXif
山田真山が亡くなったのが1976年で、問題の子供向けの伝記が出たのが1978年。
ちなみに沖縄返還が1972年。
三色三つ巴を含む挿絵を誰がどういう経緯で描いたのかわからない。
本文のどこかに何か書いてあって、それを俺が見逃した可能性はある。

沖縄の米国民政府が旗を作った経緯は内部文書を見ればわかるはずで
日本の国会図書館の憲政資料室がマイクロフィルム化されたものを公開しているんだが
もはや見に行く気力も時間もない。
0051マンセー名無しさん垢版2018/06/23(土) 17:05:58.57ID:hCy5QUhd
>>22で言っていた「りうきう」を自称する例だが、1543年の国王頌徳碑がそうだった。
「大りうきう國中山王尚清」とあるのは漢文の「大琉球國中山王尚清」の直訳だ。
0052マンセー名無しさん垢版2018/06/23(土) 17:33:52.62ID:IVGWXFqh
尚寧の世子がどうってこれか。

歴史の闇に葬られた王子: 目からウロコの琉球・沖縄史 2005年7月 1日 (金)
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/07/post_34e5.html
尚寧王といえば、1609年島津軍の侵攻で降伏した悲劇の王として知られています。
この尚寧の次の王には佐敷王子朝昌という人物が尚豊という名で即位していますが、
もともと尚寧には別の正式な後継者(世子)がいたのをご存じでしょうか。彼の名は
「尚煕」。またの名を「中城王子朝長」といい、尚寧のイトコに当たります。

本来、尚寧の次に国王になるはずだった尚煕が、なぜ尚豊にとって代わられたのでしょうか。
一番の大きな原因としては島津氏の琉球征服があげられますが、その他の背景には王国の
内部対立があったと考えられています。
0053マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 10:05:54.60ID:8yW7/weD
支那人は漢語の「琉球」に対応する土語は「おきなわ」だと思っていた。
網羅的に調べたわけではないが以下の例がある。

陳侃、高澄の『使琉球録』「夷語附」(1535)は漢語「琉球」に「倭急拿」を対応付ける。
『琉球館訳語』(16世紀後半?)には「琉球」を含む複合語が何度も出てくるが一貫して「倭及那」と訳している。
潘相『琉球入学見聞録』(1764)も「琉球地」を「屋其惹」とする。
0054マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 11:31:42.89ID:mbHu6+yP
沖縄は、鑑真が漂着したときのアレにも出てくる言葉だから
起源は喜界島開発にも遡ると思われる。

ところで現代の沖縄方言や遺伝子プールのベースが
日本なのは当然として、
一部の地名は日本語での解釈が難しくないか?
沖縄含め。あと那覇。

泊や牧港などが日本語での解釈が容易なのに対し、
那覇はそうではない。

那覇は尚巴志が開発したものだという話が以前にあったが、
沖縄の人間と文化のベースとなった
初期の日本からの渡来人は
那覇を無視して浦添周辺ばかり使ってたから
那覇については原住民の命名が保存されたんじゃないかな。

原住民の人種や言語が何系統だったかは何ともいえないが。
0055マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 11:37:58.75ID:mbHu6+yP
>>15
アマミクはおもろそうしにも出ていたはずだ
(浦添の)イソの城はアマミクが作った、という一節ね。
おもろそうしが実際にどこまで沖縄人の古い観念を代表しているかは
大いに議論の余地があるがwwww
0057マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 12:20:09.68ID:znS2hLqV
宮古語は子音だけで構成される単語があったりして音韻体系が異様にかけ離れてる気がする
0058マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 16:09:08.07ID:G5XhhBaM
那覇や沖縄は日本語としては全然普通だと思う。
謝名、宜野座、我那覇あたりの濁音始まりの地名の非日本語感がすごい。
でも北海道の利尻、礼文、留萌のように語頭にr音が立つ地名がまったくないという点では日本語的である。
0059マンセー名無しさん垢版2018/06/24(日) 16:26:28.04ID:G5XhhBaM
濁音始まりの地名は、奄美大島にも大熊なんかがあるにはあるけど、
奄美、宮古、八重山では目立たず、沖縄的という印象を持っている。
座間味、田名等の離島地名もあるので、沖縄諸島というべきか。
0060マンセー名無しさん垢版2018/06/25(月) 20:59:17.80ID:TdInGy2V
例のブログ、前のブログの琉球国旗ネタ再掲してくれたのね
0061マンセー名無しさん垢版2018/06/25(月) 21:26:12.64ID:UWbUl91U
おおブログの旗のエントリーが復活している!
>>39にタイポがあった。「指定」は「指摘」の誤り
0062マンセー名無しさん垢版2018/06/26(火) 12:52:56.90ID:2XalDwYa
沖縄で先住民の地名の可能性を考えるなら、比較対象は東北アイヌ語地名だな
ラ行ではじまるアイヌ語風の地名って東北にあったっけ?北海道ならあるけど
0064マンセー名無しさん垢版2018/06/27(水) 20:09:05.94ID:7dbvPSd9
ウィキペディアのソース不明リストにあがっているのは青森県の類家、岩手県の綾里だけか
0067マンセー名無しさん垢版2018/06/29(金) 21:33:49.62ID:pwIslRXF
今はどうなんだっけ?本土と比べて
0068マンセー名無しさん垢版2018/06/29(金) 21:45:08.56ID:zqqa0LZq
五十嵐氏の日琉語類別語彙第4版で同じ語を見るとカラス以外は清音はじまりだ。
氏はアクセントの対応付けに力を入れていて、語形はどの程度検討したのかわからない。

take 竹
kani 蟹
garasu/garasa 烏
kuzira 鯨
https://researchmap.jp/mu6jgh90m-1856949/
0069マンセー名無しさん垢版2018/06/29(金) 21:50:57.37ID:nCGD/lr7
>>68
五十嵐ゼミの学生垢あるしその辺質問したらどうや?
最近呟いてないっぽいけど
https://twitter.com/hit_igarashi
0070マンセー名無しさん垢版2018/06/30(土) 08:54:25.06ID:RYDgeQM9
ねらーなんでばかったーに突撃とかしたくないww
見たところあまりわかってなさそうな学生アカウントだし

五十嵐氏の「九州・琉球同源語調査票」を見ていて驚いたんだけど、
太陽の意味の *teda という語が南部九州(薩隅)にもあることになっている。
https://researchmap.jp/mu90vd43k-1856949/
ティダは民俗学方面ではわりと重要視されているし、これが本当なら大きな発見じゃない?
0071マンセー名無しさん垢版2018/06/30(土) 12:32:49.51ID:nSk3MN/d
>>69
去年の段階で3年生という事だから、今年の今頃になってツイッターに入り浸ってたらまずいでしょw
0072マンセー名無しさん垢版2018/06/30(土) 21:56:09.47ID:XCBspksB
五十嵐氏が引いている野原三義の紀要論文シリーズは
九州諸方言の辞書から琉球と関係しそうな項目を抜き出している。
*tedaは見当たらなかった。

琉球方言と九州諸方言との比較(I)
http://hdl.handle.net/2308/1290
琉球方言と九州諸方言との比較(II)
http://hdl.handle.net/2308/1294
琉球方言と九州諸方言との比較(III)
http://hdl.handle.net/2308/1295
琉球方言と九州諸方言との比較(IV)
http://hdl.handle.net/2308/1493
琉球方言と九州諸方言との比較(V)
http://hdl.handle.net/2308/1528
0073マンセー名無しさん垢版2018/07/01(日) 17:06:11.97ID:WNKs+u84
水谷知生
南西諸島の地域名称の歴史的および政治的背景
地理学評論 82–4 300–322 2009
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/82/4/82_4_300/_pdf/-char/ja

話題が変わるけど、これ、事実関係の整理としては面白い。
まあ、しかし、この手の論文を書く人は「地域名称の政治性ガー」って言わないと気が済まないんだろうか。
庶民には見渡すこともできない広域を命名対象として認識する必要性が全然ないわけで
海軍あたりが必要に迫られて名前をつけるのに何の不思議もない。
0075マンセー名無しさん垢版2018/07/02(月) 20:51:43.98ID:Yi6ffBXf
>>74
楽浪土器まで琉球諸島に輸入されていたのに稲作は来なかったというのは不思議やな
0076マンセー名無しさん垢版2018/07/02(月) 22:21:23.81ID:YKSP2L5q
刀剣擬人化のブラウザゲーム「刀剣乱舞」は、熱狂的なファンが「刀剣女子」と呼ばれて、各地の博物館などで来客数増加の効果があり
一部で話題になってますが、ついに千代金丸がキャラクターの一つに選ばれたとか。
若干には過ぎなくとも観光客も増えそうですな。

刀剣乱舞攻略速報【7/11まで】那覇市歴史博物館で展示中の琉球宝剣3振り「千代金丸、治金丸、北谷菜切」の展示期間が延長
http://xn--dkqp0gri91r38rn1wmlurtz.com/archives/76724653.html
0078マンセー名無しさん垢版2018/07/04(水) 14:55:44.00ID:eHDdbTrB
沖縄世界遺産「今帰仁城跡」の石垣崩落 台風7号の影響か
http://www.sankei.com/west/news/180704/wst1807040027-n1.html
沖縄県今帰仁(なきじん)村教育委員会は4日、同村の世界遺産「今帰仁(なきじん)城跡」の
主郭東側の城壁の石垣が、幅約9・7メートル、高さ約6・4メートルにわたって崩落したと明らかにした。
沖縄本島付近を1〜2日に通過した台風7号の風雨の影響とみられるとしている。
0079マンセー名無しさん垢版2018/07/04(水) 21:14:38.28ID:/QDJAIEz
ほぉ〜ちゃんと機能してるのかこのスレ
沖縄って歴史が完全に消えてしまった土地だよな
公文書も8割焼けたらしいし
0080マンセー名無しさん垢版2018/07/04(水) 21:38:07.44ID:/QDJAIEz
よく見たら産経とかソースにしてんじゃん...😰
0081マンセー名無しさん垢版2018/07/04(水) 21:48:19.27ID:6DaUdFjX
>>41の表表紙になっている旗や幟の絵は山田真山本人が描いたことが確認できた。
順を追って書いていこうと思うが、いま全然時間がないので、まずはハン板向けのネタから。
この本、奥付をみるとなぜか韓国で印刷・製本していたw

印刷 서울特別市西大門区万里洞一街六二ー七
製本 光明印刷公社
0082マンセー名無しさん垢版2018/07/05(木) 18:28:38.46ID:jsqlHFmL
へー、どういう経緯なんだろ。ただ単純に海外発注が安かっただけなのかどうか。凸版印刷の技術導入してたみたいだし。

凸版印刷(株)『凸版百年』1970年4月 光明印刷公社(韓国)と合弁で光明凸版印刷(株)設立(ソウル)(1980.5.7株式譲渡)

光明印刷公社
http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0005113
0083マンセー名無しさん垢版2018/07/06(金) 19:13:41.53ID:ASsjB7et
YouTubeのチャットで韓国人と日本語で楽しく話せる場所。

YouTube内検索で「City Pop シティポップ RADIO」
0084マンセー名無しさん垢版2018/07/06(金) 22:56:33.02ID:Q+3ySfFp
東恩納寛惇は『南島風土記』において、
謝敷、謝名、安謝、与謝、謝花などは海岸の地名であり、
アザ貝(シャコ貝)に由来すると言っているとのこと。
https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&;lpg=PA608&ots=ReuusIL3Dz&hl=ja&pg=PA147#v=onepage&q&f=false
http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN00342

語頭のアが脱落したとすると、脱落の条件をアクセントあたりに求められないかな。
どうも「謝」地名は国頭に偏っている気がする。ただし大謝名は中頭だ。

与謝ってどこ?安謝、真謝、古謝、我謝などに現れる末尾の「謝」は別かもしれない。
比謝は東の意味のヒガの口蓋化のはずだし。
座安、座喜味、宜野座、平安座、宇座、安座間、仲座などの「座」と「謝」は同じだろうか?
「座」地名は島の南側に偏っているように見える。
0085マンセー名無しさん垢版2018/07/08(日) 00:17:05.99ID:BVFwpPJy
崎原久による山田真山の伝記には口絵が載っているが、
それらは『沖縄絵物語』(1953)から抜粋したと前書きに書いてある。
表表紙については何も言っていないが、款記の形式が同じなので
少なくとも山田の絵であることは推測できる。
伝記本文にも出てくるが、山田は米軍の新聞「デイリーオキナワ」に絵を書いていた。
『沖縄絵物語』はそれらを後にまとめて刊行したもの。
0086マンセー名無しさん垢版2018/07/08(日) 00:34:21.15ID:bRWgaFvI
台風8号も直撃しそうだな
しかも前回台風の2倍の風速...大丈夫かよ😥
0087マンセー名無しさん垢版2018/07/08(日) 08:51:31.36ID:oGxnFeOb
>>41
情けないんだけど、左端の崩し文字って何て書いてあるの?
0088マンセー名無しさん垢版2018/07/09(月) 00:52:50.68ID:GpoeLm5O
「一千九百五三年秋・山田真山」だと思う。
「五十三」が期待されるところだけど「十」が見えない。
0089マンセー名無しさん垢版2018/07/10(火) 23:08:50.47ID:x5Qsqsht
『沖縄絵物語』は2巻構成で、no.1が1952年、no.2が1953年刊行。
英語と日本語が交互に書かれていて、なんというか、植民地の趣があった。
http://www.baxleystamps.com/litho/oki_2_yamada.shtml

問題の旗と幟の絵はno.2の23 The King's Crestだった。
no.2はThe Commodore Perry Contennial Issue、
つまりペリー来航100周年記念号ということになっていた。
no.1には『デイリーオキナワ』に掲載していたのをまとめたと書いてあったけど、
no.2もそうなのか、新聞連載とは別に新規に描いたのかわからなかった。

改めて奥付を見ると、no.2は印刷が11月20日、発行が12月5日となっている。
>>88の俺の読みが正しければ、その年の秋に描いた絵が年内に刊行されたことになる。
0090マンセー名無しさん垢版2018/07/11(水) 18:01:17.34ID:7XGYtGUI
https://twitter.com/saemonhiguchi/status/1016526385211248640
「なんでグスクって土のものも含めて、城壁で囲むんですかね?中国の影響ですか?」聞いたら、
中井師匠が「台風対策や」って。目からウロコ。たしかに中の建物は、風から守られてますな。
ホントかな?
0091マンセー名無しさん垢版2018/07/11(水) 23:47:59.23ID:T1/8rwDa
縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html
約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析
した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られ
たゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任
助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノ
ム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから
来たのかを考えるうえで注目されている。
研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告され
たほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。
0092マンセー名無しさん垢版2018/07/11(水) 23:55:05.76ID:T1/8rwDa
The prehistoric peopling of Southeast Asia
http://science.sciencemag.org/content/361/6397/88

あいかわらずのマスゴミだ。
著者が66人もいる巨大プロジェクトで覚張氏は第5著者にすぎないし、
もちろんコレスポンディングオーサーでもない。
内容的にも超大御所のWillerslevがやっている東南アジアプロジェクトであって
縄文人はメインじゃない。
0093マンセー名無しさん垢版2018/07/12(木) 18:15:13.47ID:jKy5Mi0c
>>89
過去ログによるとこうだけど、その1953年の『沖縄絵物語』を見た上で米国民政府が元ネタに取り入れたのかね?
それとも>>42の活動家の話みたいに、実際に戦中から米軍が知っていたものか


199 :マンセー名無しさん:2015/02/04(水) 18:19:29.47 ID:XycQTmf1
>>197
そこで言及されている我部政明『日米関係のなかの沖縄』(1996)を確認した。
「幻の「琉球旗」」(98-104頁)に旗の写真が出てくる。
この本はモノクロなので色があっているかわからないが、形からすると、2種類あるうちのこっち。
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Flag_of_the_Ryukyu_Kingdom.svg

この旗は、米国民政府(要は米軍)の1954年の内部文書にデザイン案として出てくるけど、
正式採用されることはなかったとのこと。
ソースは米国公文書館のアーカイブで、著者の我部がワシントンで直接確認している。
0094マンセー名無しさん垢版2018/07/14(土) 13:21:59.52ID:E2Obu+0L
NHKBS 7月19日(木)20時放送
http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2018-07-19/10/18262/2473143/
英雄たちの選択 琉球スペシャル第1弾「独立を守れ!島津侵攻 尚寧王の決断」

江戸時代初め、独立国だった琉球王国に薩摩の島津氏が侵攻、勢力下におく事件が起きた。
なぜ島津氏は琉球に侵攻したのか。当時の琉球王、尚寧王の立場から読み解いてゆく。

もともと琉球王国は中国や東南アジア各国との貿易で栄えてきた。日本とも交流はあったが
上下関係ではなかった。ところが豊臣秀吉が天下を取ると、琉球王国にも支配下に入るよう
島津氏を通じて迫り、朝鮮出兵に協力させる。秀吉の死後も徳川家康は中国・明との国交回復に
琉球を利用しようとするが、琉球は日本の支配下に組み込まれることを嫌い、返事もしない。
島津氏からは武力侵攻も辞さないと脅迫される…尚寧王の決断は?

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】上原兼善,千田嘉博,島田久仁彦
0095マンセー名無しさん垢版2018/07/14(土) 20:49:37.57ID:/yWennvp
上原兼善といえば上里大先生のこれを思い出した。
自説は変わってないだろうけど、NHKの見解として琉球頑張った史観になるんだろうかどうか。

2009年5月10日 (日) 侵攻400周年シンポに参加して
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/05/post-3d57.html
さて僕が今回この記事を書くのは、シンポジウムで琉球の軍事的対応をめぐる議論について、報告者の方々の
意見に少々疑問を感じたからです。基調報告をされた上原兼善先生は、侵攻事件の経過を説明するなかで、
島津軍に対する琉球の軍備は劣弱でしかも火器兵器が装備されていたかったことを、1606年に琉球を訪れた
夏子陽『使琉球録』を根拠に主張されていました。またパネルディスカッションにおいても、琉球は軍事組織と
呼べるほどの軍団が編成できない状態で、島津軍に対応したとの意見がありました。

琉球の軍事をめぐる問題を調べている僕からしますと、この見方には賛同しかねる部分があります。
0096マンセー名無しさん垢版2018/07/15(日) 21:19:36.93ID:7Jq74LMb
島田久仁彦というのは歴史学者じゃなくて、国際交渉の専門家か
0097マンセー名無しさん垢版2018/07/16(月) 22:29:58.57ID:sQIshRxy
>>93
そのへんをいま調べてるの。山田の絵が米国民政府のエピソードのちょうど前年だから、何か関係ありそうだと思って。

で、>>89の続きだが、絵には表に英語の説明、裏に日本語の説明がつけられている。
対訳にはなっていない。日本語では「尚家の巴旗」だし、英語ではThe King's Crestであって、
「琉球の旗」とは一度も言っていないんだが、アメリカ人に微妙なニュアンスが伝わるとは思えない。

The King's Crest
This is the family crest of the last King Sho in Old Okinawa. The Sho Dynasty was in power for
four hundred and ten years before 1879 when the Ryukyus was included in Japan.

尚家の巴旗
 尚家の紋は八幡の神紋で琉球の定まった旗ではない、一種の家紋である。(日本の菊の紋と同じ)三つ巴
の紋様は左巻又は右巻がある。種々な説があるが水をシンボルせるもの也と伝えられている。
0099マンセー名無しさん垢版2018/07/18(水) 12:19:06.96ID:7vO+Mdaq
真夏なのに随分暑苦しい格好してるな
0100マンセー名無しさん垢版2018/07/18(水) 20:56:53.22ID:PPrm0sL7
>>98
うわー、どっかの祭礼での御神楽の一場面みたいなw
土俗的ってこういうのだよ
0101マンセー名無しさん垢版2018/07/18(水) 21:23:48.66ID:CLxKNiAX
夏なのに長袖ばっか
どこで撮った写真かも分からんし、手登根が自ら撮った写真でも無さそう
てかカメラ位置高すぎだろ
0102マンセー名無しさん垢版2018/07/19(木) 23:05:20.54ID:CvnP2TSA
https://sci-hub.tw/downloads/b31c/10.1126@science.aat3628.pdf
>>91-92の東南アジア+伊川津縄文人の全ゲノム分析の研究なんだけど、
図2Cの分析を見ると、薄緑の仮想祖先集団の占める割合はこんな感じ。
伊川津縄文人と沖縄:大半
本土:6-8割
韓国: 3-4割
中国: 2割以下
ウイグル:1割以下
東南アジア:検出不可能

前々からわかってたことではあるんだけど、
沖縄は日本の中ではアイヌと並んでもっとも大陸から離れているよね。
0103マンセー名無しさん垢版2018/07/20(金) 20:06:53.92ID:Ch2Y+wRy
>>94
上里先生インタビューと、那覇港に3000の兵で薩摩を撃退、はやっぱり出てきてたねw
0104マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 11:58:35.16ID:H7uwLlAE
ブログ主は生きてんのかなぁ
0105マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 12:13:46.09ID:H7uwLlAE
琉球は奄美を捨て石にすることで国体を護持し、王府が続くことができた
つまり琉球は同胞を見殺しにした国家である
0106マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 12:43:38.25ID:SYlDbYRo
まるで日本だな
0107マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 12:48:34.62ID:UEwdC5me
日本は県民を10万人以上見殺しにしてるし、琉球とは比べ物にならんよ
時代も違うし
0108マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 13:04:38.24ID:H7uwLlAE
奄美諸島の住民を見殺しにしておきながら、自分たちは内地の捨て石にされた、差別されたとのたまう卑怯者が沖縄本島人
0109マンセー名無しさん垢版2018/07/21(土) 14:34:09.34ID:4C6A0M1z
https://twitter.com/ka_sod_3/status/1019927435167453184
おっかけ #英雄たちの選択 尚氏が統一したばかりの琉球は海洋国家として欧州にまで名を知られ、
むしろ日本は琉球の一部と認識されていた。応仁の乱後、島津薩摩、相良肥後、伊東日向などを
臣下に治めた琉球が八重山諸島から北九州の支配者となることもあり得たと、春に出た文藝春秋
日本史特集にあった
0111マンセー名無しさん垢版2018/07/22(日) 12:06:21.54ID:wtjV2/Q6
>>104 生きてるよ。
最近本業が忙しくてなぁ。
気になる話題があったら
適当に小まとめにしてくれたら
コピペしてそのまま記事にするよ
0112マンセー名無しさん垢版2018/07/23(月) 20:34:37.66ID:Mvj07WNR
これのフィリピンで交易してたのって古文書残ってるんだっけ?

日本の貿易史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2#%E5%8D%97%E8%A5%BF%E8%AB%B8%E5%B3%B6
琉球は輸入した日本刀に螺鈿細工や朱漆塗りの外装をして輸出しており、レキオやリキーウー(琉球刀)と呼ばれた[† 48][157]。
琉球の外交文書集『歴代宝案』によれば、1570年(隆慶4年)のシャムが最後の東南アジア派遣だが、それ以降も東南アジアの
品物は記録されている。アユタヤ朝がビルマのトゥングー朝に占領されてからは、1571年(隆慶5年)にスペイン領フィリピンが
成立したマニラなどで活動していたと推測されている
[158]上里隆史 『海の王国・琉球 - 「海域アジア」屈指の交易国家の実像』 洋泉社〈歴史新書〉、2012年。
0113マンセー名無しさん垢版2018/07/23(月) 23:19:52.35ID:q9ldb3Gw
大先生は物事の大局を見るのが苦手なんだと思う。
琉球の性格を一言であらわすと「ニッチ」だ。
交易なんて消費地なしに成り立たないけど、その消費地は一体どこかということ。
0114マンセー名無しさん垢版2018/07/24(火) 13:12:18.18ID:isu/0IqW
まあ普通に地元沖縄だろうな。消費地。
0115マンセー名無しさん垢版2018/07/24(火) 13:23:29.72ID:isu/0IqW
高良倉吉氏は、一般論として、「15世紀初期-中期、琉球船は兵庫や博多、
坊津などの貿易港に渡航し、中国および東南アジア産品を売って
日本の特産品を直接購入したと思われる。
琉球船の渡航はその後も続くが、時代が下るにしたがって、
むしろ日本の貿易船が那覇港に直接出向き、
琉球に集荷される中国・東南アジア産品を買い求め、
日本商品を提供するという構造へと転換した」

と高良は言ってるが
歴代宝案には、尚巴志が明から購入品の指定を受けて
金ももらって日本に買いに行ってる文書が複数にわたってある。

金の使い道は明が指定していて
船が沈んで喪失した場合はきちんと報告されている。

のみならずその後もあらゆる年代に渡って
「絹織物をもらっても貢物品が買えません
 銅銭ください」という哀願が繰り返されている。

中山が自力で資金を調達していたというのは妄想。
王府が明や東南アジアを交わしていたのは
基本的には朝貢活動の範囲内に収めて考えるべき
何か商売やってたとしたら沖縄の地元民に対して。

朝貢そのものも金がかかるので
資金調達のために私商から金を借りて
なおかつ朝貢使にも参加させていた可能性はある
勝手な商売してる奴がいると
中国が文句言ってる文書もちらほらあるしな
ただそいつらは内地人か中国人で王府には忠誠心ない。
0116マンセー名無しさん垢版2018/07/24(火) 14:27:45.77ID:kKcyEVAs
まあ、琉球史関係者の信用は地の底にまで堕ちてるのは当然なんだけど
実際は薩摩史関係者と陰に陽につるんでる様は連綿と続く薩琉の共犯関係で、喜界島の城久遺跡のスルーぶりを見てると薩琉ともに古代奄美史は抹殺したいんだろうなと
0117マンセー名無しさん垢版2018/07/24(火) 19:38:04.20ID:2midofDj
宮内庁 講書始の儀におけるご進講の内容(平成30年1月10日)
対馬宗家文書からみた江戸時代の日朝貿易(進講者:田代和生)
http://www.kunaicho.go.jp/culture/kosyo/kosho-h30.html

江戸時代の対馬藩の朝鮮交易での交易用東南アジア産品は、全部オランダ商館からの仕入れだったんだな。

でもまあこれ、すごくまとまっててわかりやすい。さすが講書始に選ばれる先生は違うぜ。
0118マンセー名無しさん垢版2018/07/24(火) 23:24:41.62ID:MWY+AstD
江戸時代の朝鮮貿易は実態としては支那の産物の中継貿易で、長崎と競合していたんだよね。
ポルトガルだって、戦国時代にわざわざ極東までやってきて、何のためにマカオと長崎を往復してたかというと、
これまで支那の生糸を日本で売りつけていた。
室町時代の朝鮮との交渉は仏典に関するものが多いけど、全体に占める割合はどの程度だったのかな。
0119マンセー名無しさん垢版2018/07/25(水) 20:24:26.63ID:ff+ZPmKX
村井章介の受け売りだと木綿・綿布が一番の目的だっけか
1540年代からの銀の産出激増の前と後でも違うんだろうけどね
0122マンセー名無しさん垢版2018/07/28(土) 22:19:55.31ID:JhCmZYPE
アイヌだって江戸時代に場所請負制が導入されてから本土に従属したように思われているかもしれないけど、
考古学でいうところのアイヌ文化は本土の市場に組み込まれたモノカルチャー経済だったりする。
0123マンセー名無しさん垢版2018/07/29(日) 21:08:32.23ID:7h9ObjlF
鷲羽と乾鮭のモノカルチャーだっけ?
0124マンセー名無しさん垢版2018/07/30(月) 18:01:05.60ID:thdWWujf
https://www.sankei.com/life/news/180729/lif1807290018-n1.html
小説家・秋山香乃が読む『天地に燦たり』川越宗一著 誰も描いたことのない物語

この夏、すごい才能の作家が誕生した。第25回松本清張賞を受賞した川越宗一氏だ。
世に面白い物語はごまんとあるが、己の生き方を変えてみたいとまで思わせる本との
出会いは多くない。受賞作で、デビュー作の本書は、そういう稀有(けう)な力を秘めた大作だ。

 物語は、別々の国に生まれた3人の男たちを軸に進んでいく。1人目は倭国島津家の重臣、
樺山久高(ひさたか)。2人目は朝鮮国の被差別民「白丁」に生まれた明鍾(めいしょう)。
3人目は「守礼之邦(くに)」琉球国の密偵、真市(まいち)。島津軍と大友軍の攻防から、
秀吉の朝鮮出兵を経て、島津の琉球侵攻までが、日本・朝鮮・琉球を舞台に描かれる。
0125マンセー名無しさん垢版2018/07/31(火) 18:28:49.50ID:aL87G9vU
船に掲げる旗はその船の所属を表すもの(国旗とか)だと思うところだけど
かつての東アジアではそうとも限らなかったらしい。
長崎歴史文化博物館研究紀要第5号所収の
深瀬公一郎「十七世紀後半の長崎港における船旗の役割」によると
旗は一種の通行証としても使われていて、
バンタン・ジャカルタ出港の唐船がオランダ旗を掲げて長崎に入港したり
琉球の渡唐船が海上で攻撃されないようにオランダ旗を掲揚したりといった事例があるとのこと。
http://www.nmhc.jp/publication/kenkyukiyo5.html
0126マンセー名無しさん垢版2018/08/01(水) 19:53:03.77ID:74XHTy6p
http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2018-08-02/10/27588/2473144/
英雄たちの選択 琉球スペシャル第2弾▽辺境の声を聞け!探検家笹森儀助の挑戦

明治12年琉球藩は廃止され、沖縄県が誕生する。しかし、人々は、重い税と風土病に苦しんでいた。
探検家・笹森儀助は、沖縄の島々をめぐり、その窮状を世に訴えた。

探検家・笹森儀助は、青森県弘前の士族の家に生まれた。日本中を旅行し、北海道の千島探検の記録を
出版して、天皇に奏上されるほど評価を得た。これを契機に、時の内務大臣から、沖縄の調査を依頼され、
沖縄探検に出発する。ハブとマラリアの地への決死の思いの旅だった。ところが、現地で、笹森が
眼にしたものは、厳しい自然だけでなく、人頭税という重い税に苦しむ人々の姿だった。探検家・笹森儀助の
苦悩に迫る。
0127マンセー名無しさん垢版2018/08/01(水) 22:54:13.53ID:PjUDmmAd
薩摩からの圧力を理由に先島の庶民に人頭税などの重税を課したのは沖縄本島の伝統的な手口
明治の世になっても先島に重税を課する人頭税が残っていたのも明治政府が沖縄県だけ特別扱いにするように、旧慣温存政策を強固に主張したのも沖縄本島琉球王府の首里士族たち
沖縄本島のいつもの手口だ
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