JoyDivision_03
(ピストルズの)2度めのショーをやった7月20日の時点で、俺たちのバンドにはベーシストとドラマーが加わってた。 実を言うと、セックス・ピストルズの最初のライブの時に、マルコム・マクラーレンが手引きしてくれたんだ。 当日会場の外で誰かを待ってた無防備な様子の男に、マルコムが「お前がベーシストか?」って声をかけると、 そいつはイエスと答えた。 するとマルコムは「奴らは中にいるよ」と言って、俺がいたチケット受付のところまでそいつを連れてくると、 窓越しに「彼がお前のバンドのベーシストだ」って言うんだ。 それがスティーヴ・ディグルだったんだけど、やつは明らかに困惑してたよ。 「じゃあ、ハワードが上にいるから紹介するよ」そう言って俺がやつを連れてこうとすると、スティーヴは 会場でもうひとり別の人間と会うことになってたらしくて、「セックス・ピストルズのライブがもう始まるし、 とりあえず観ないか?」って言った。 俺たちはそんなやりとりを交わしつつ、翌日には一緒にリハーサルしてた。 その後、1ヶ月位前にドラムキットを買ったばかりだった16歳のJohn Maherがバンドに加入した。 俺とハワードは1975年末くらいから曲を書いてたから、ライブの準備はできてたんだ。 スローター・アンド・ザ・ドッグスのやつらは、自分たちがバズコックスよりも多くの客を連れてこれるってマルコムに訴えてた。 それは本当だったけど、やつらのいう客っていうのにはスローター・アンド・ザ・ドッグスのファンだけじゃなくて、 ピストルズの最初のライブに来てた客や、そいつらから噂を聞いて興味をもったやつらのことも含まれてた。 それにセックス・ピストルズ自体が話題になり始めてたから、次のライブにより多くの客が来たのは当然だった。 結局その公演で前座を務めた俺たちは、30分のセットの最後に客席に突っ込んだ。 大切なのはギグがどういうものかっていう既成概念をぶっ壊すことだったから、そういう無茶もアリだと思ったんだ。 リハーサルでは俺はハーフソーンのStarwayのギターを使ってたんだけど、ある日俺がかなり激しくそれを弾いてた時に、 勢い余って床に投げると真っ二つに割れちまった。 その時に、実はそのギターがハーフソーンじゃなかったってことが判明した。こんな安物ならまた買うかってことになって、 俺はAudition GuitarのやつをWoolworthsで20ポンドくらいで買った。 どうせ安物だから、俺とハワードはセットの最後にそのギターを思いっきりぶっ壊すことにした。 やつは弦を次々に引きちぎり、俺はギターを床に叩きつけた。まさにカオスそのもので、すごく気持ち良かったよ。 セックス・ピストルズは明らかにレベルアップしてた。 俺が「アナーキー・イン・ザ・UK」を生で聴いたのはあの日が初めてで、始まった瞬間にこれは時代を変えるって確信した。 まるで開け放った扉の向こう側から、巨大な像の群れが突進してくるかのようだった。 数週間後に再び彼らのライブに行った時、フーリガンと化していた僕はスローター・アンド・ザ・ドッグスの ヴォーカルのウェイン・バレットにピーナッツを投げつけたことで、危うく会場から放り出されるところだった。 僕の目には、やつらはフェイクとして映った。 ピストルズを初めて観た日から6週間、誰が本物で誰がそうでないかを見極めようとしていた僕らには、 スローター・アンド・ザ・ドッグスはただブームに乗っかろうとしているだけのバンドに思えた。 その一方で、その日のトップバッターだったバズコックスは本物だと感じたし、地元のバンドだってことにも希望を持てた。 会場には最初のライブにも来てたやつらがちらほらいて、自然と会話が生まれた。 バンドを始めたい、あるいはファンジンを作りたいっていうやつらが大勢いたよ。パンクは来るものを拒まない。 「これは俺たちのもので、お前らはおよびじゃないし、それは今後も変わらない」みたいな、 それまでのアートフォームにありがちだった閉塞感がなかった。「お前にもできるさ、やってみろよ」、 それがパンクのアティテュードだった。 ユーモアたっぷりなところも魅力だった。 そのバンドがやらかすかもしれないことについて考えるだけで楽しかった、それがまずあり得ないとわかっていてもね。 あのバンドならこんな無茶をしでかすかもしれない、そんな風に想像を巡らすことがリスナーの楽しみでもあったんだ。 俺たちは2回目のセックス・ピストルズのライブにも行った。 バズコックスが前座をやってたけど、その頃には俺たち自身もシーンの一員だって感じてた。 ハワード・ディヴォートとかに比べて労働者階級臭さが強すぎるとか、そんな理由で隅っこの方に追いやられてはいたけどな。 俺たちは不良だとみなされてたし、実際その通りだった。 俺らがつるんでた連中や、俺らが生まれ育った地域には、そういうイメージが染み付いてた。 向こうはアートカレッジとかで自由を謳歌してたんだろうけど、俺たちはまだ自分たちの居場所を見つけられずにいた。 それでも素晴らしいシーンだった。 パンクスがまだマイノリティだった頃、The Ranchは聖地みたいなものだった。 コミュニティ的なムードの中で俺とバーニーは浮いてたけど、気にせず通ってたよ。 Dale StreetのFoo Foos Palaceの隣にあったビルの地下に、The Ranchっていう小さなバーがあったんだ。 Foo FooはLily Savegeみたいな、辛辣なウィットを持ったオネエだった。 そこは未成年でも酒が飲める場として知られていて、見るからに15歳以下のやつにも酒を出してた。 定番はカールスバーグのSpecial Brewで、ボトルにストローをさして飲むんだ。 そこで2、3本ボトルを開ければもうご機嫌さ。 1976年の8月、Lesser Free Trade Hallでセックス・ピストルズの前座を務めた後、 俺たちはFoo Fooがやってたマッサージパーラー兼サウナに行った。 肩からタオルを下げてた彼はいかにも70年代のギャングスターって感じで、『ロンドン特捜隊スウィーニー』 のワンシーンみたいだった。 「あんたのクラブでギグをさせて欲しいんだ」俺たちのその申し出を、彼は訝しみながらも承諾してくれた。 俺たちの考えは間違ってなかったってわけだ。 8月にそこで開催したライブには、The Ranchの常連客たちだけじゃなく、バズコックスの噂を耳にしてたやつら もたくさんやってきた。俺たちが数曲やったところで、盛装したFoo Fooが割り込んできてこう言った。 「その忌々しい騒音を今すぐ止めてちょうだい」 当時のThe Ranchは、Pipsに立ち入れなそうなボウイやロキシー好きのキッズたちでいっぱいだった。 最初のうちは金曜と土曜だけだったけど、そのうち日曜日にも人が入るようになって、そこは俺たちの社交場になった。 後にザ・フォールを始めるやつらと初めて会ったのもそこで、やつらはカウンターのそばで飲んでた。 すごく小さなバーで、50人も入ればパンパンって感じだったから、まさにちょうどいいサイズだった。 どんな身なりをしていても誰も気に留めない、そういう場所だった。 当時ちょっとでも奇抜な格好をしたやつらは、ほとんどのバーで門前払いにされてた。 The Ranchはドラァグの聖地だったし、文字通り地下にあったこともあってか、ドアポリシーは無いも同然だった。 誰もが歓迎され、そこでしか聴けない音楽を楽しむことができる場所だったんだ。 僕らは『So It Goes』にセックス・ピストルズを出演させた。 それがSeries 1の最終回で、僕らは半ば使命感から3組の未契約バンドを出演させた。 彼らの態度は横柄で、Clive Jamesに喧嘩を売ってたよ。かなり酔ってたからね。 彼らの出演は3分半の予定で、事前にリハーサルしてたにもかかわらず、 あと5分で撮影終了っていう状態から7分間演奏し続けた上に、スタジオの機材を蹴って破壊してしまった。 2日後、ディレクターは映像を3分半に編集した。その翌日、僕はGranadaの上司から大目玉を食らうことになった。 最初から嫌な予感はしてたがね。 シャツにジーンズ姿のTVプレゼンターが、まさかパンクに興味を示すとは思いもしなかった。 彼はGranadaで、地元のニュース番組の司会をやってた。 パンクのギグに彼みたいな人物がやってきたのは意外だったけど、テレビの世界と繋がりが持てるってことには やっぱり興奮した。 彼は『So It Goes』っていう番組をスタートさせ、セックス・ピストルズを出演させた。 7月に行われたセックス・ピストルズのライブ以降、シーンはしばらくの間沈黙していた。 みんな態勢を整えようとしていたんだ。バズコックスはDeansgateで、チェルシーとの2マンライブをやった。 ビリー・アイドルとトニー・ジェイムス、それにスティーヴ・ディグルと一緒に酒を飲んだのを覚えてるよ。 変わり者の一匹狼だった自分が電話でハワード・ディヴォートと話してるっていう状況に、僕はすごく興奮していた。 好きな言葉を5つ挙げて欲しいと言うと、彼は「I like eating ice cream」と答えた。 その時彼はアイスクリームを食べてたんだ。 ライブ会場では誰もが同じような格好をしてた。僕自身髪を短く切っていたし、他に着るものがないと言わんばかりに、 祖父の衣装棚から引っ張り出してきたかのような服を着てるやつが多かった。 シーンが沈黙していたその間、ワルシャワやバズコックスみたいなバンドは自分なりの回答を示すべく水面下で格闘していた。 言うまでもなく、その引き金になったのはピストルズのライブだった。 彼らと同じように、奇妙な音楽に夢中になっていたマンチェスターの同世代の若者たちがバンドを組み、 優れた音楽を生み出していった。 1976年の11月10日、俺はElectric Circusで初めてイアン・カーティスと会った。 当時バズコックスは自分たちでイベントを企画していて、その日はロンドンからチェルシーを呼んでた。 俺はキャッシャーをやっていて、そこにイアン・カーティスが来たんだ。 その夏にすごく話題になってたフランスのMont-de-Marsan Festivalがいかに退屈だったかということを、 彼は延々とグチってた。 熱っぽく話す様子を見ながら、こいつも自分たちと同種の人間なんだって思った。 Electric Circusは元々ヘヴィメタ専門のハコだった。大きさも手頃で、端に作られたステージはかなり立派だった。 壁が一面真っ黒に塗られてたから中は暗くて、入り口のとことホールの脇と後方にバーがあった。 盛り上がりつつあったパンクのオーディエンスを積極的に取りこもうとしていたElectric Circusは、マンチェスターにおける パンクとニュー・ウェーヴの中心地になっていった。 場所は寂れた市営住宅が立ち並ぶCollyhurstってとこで、中心部からは歩いて40分くらいかかった。 いつもその辺をうろうろしてたいかつい野良犬を追っ払えるよう、みんな何人かで一緒に来てた。 ライブハウスは数えるほどしかなかった。 Electric Circusは空襲に遭ったかのようだったOldham Streetの端にあった。Pipsはディスコをはじめ、ボウイや グラムロック以降のものはなんでもござれって感じだった。 Band on the Wallは伝統的なジャズが多かったけど、それ以外のイベントも時々やってて、交渉次第では月曜の夜なんかは 安く借りられた。 以前はクラシックのコンサートが開かれてたHoldsworth Hallとか、そういう借り手がなくなってるハコが狙い目だった。 セックス・ピストルズがElectric Circusでやった最初のライブはすごく良かった。 Anarchy in The UKツアーの一環だったから、宣伝もしっかりしてた。その時のポスターはずっと持ってたよ、 母親が勝手に捨てちまうまではね。 例の『Bill Grundy Show』に出た後、他の公演が次々にキャンセルになってたこともあって、彼らはそこでもう1回ライブをやった。 会場の外にはフーリガンや変人が行列を作ってて、向かいの建物からはボトルが大量に飛んできた。 もはや暴動って感じで、悪夢のような夜だった。 自主企画してた一連のギグが『スパイラル・スクラッチ』を作るきっかけになったのは間違いないけど、Anarchy in The UKツアーの あまりの成功ぶりに、パンクのピュアな部分が失われつつあるっていう危機感を抱いたことも関係していたと思う。 タブロイド紙にも取り上げられ、パンクはクリシェと化しつつあったけど、それは俺たちの感覚とはかけ離れていたから、俺たちは 自分たちのパンクを形にする必要があった。 一刻も早く実行に移すため、俺たちはちょっとしたリサーチをやって、仲間やピートの家族に資金集めを手伝ってもらった。 おかげで1000枚刷ることができたけど、それをどうするかはまるで考えてなかった。 9 Lever StreetにあったVirginのレコード店のマネージャーだったJohn Websterは、そのうちの何百枚かを買い取ってくれた上に、 近隣のストアマネージャーたちにも声をかけてくれた。 Virginは本部が仕入れを一括管理してたから、同僚たちを説得するのは容易じゃなかったはずだ。 その後ラフ・トレードのGeoff Travisが電話をかけてきて、気づけば俺たちは初期パンクムーヴメントの一端を担う存在として 見なされるようになってた。アルバムは再プレスを重ねて、約1万6000枚を売り上げた。 俺は7月にFree Trade Hallで行われた、ピストルズの2度目のライブに行った。 リズムセクションはタイトだったし、いいバンドだと思った。大いに楽しんだよ。バズコックスも良かった。 俺はスローター・アンド・ザ・ドッグスと仕事をしてたけど、場違いな感じは否めなかったね。 やつらがやってたのはグラムロックだったからさ。 ピストルズのファーストアルバムがますます楽しみになったけど、家に帰ってから俺はこんな風に考えてた。 「リズムギターは180本くらい重ねられるんだろうな。 クズってわけじゃないだろうけど、ありきたりなレコードになっちまうんだろうな」 俺が初めてプロデュースしたパンクのレコード、それがバズコックスの『スパイラル・スクラッチ』だった。 「俺たちはライブもやったし、雑誌にも取り上げられた。次にやるべきことは何だ?」そう話すリチャードに、俺はこう返した。 「レコードを出すのさ」 ピートの親父のMcNeish氏が金の目処をつけてくれて、俺たちは16トラックのマルチコレコーダーが置いてあったIndigoに入った。 その時も俺は色々試そうとしてたんだけど、スタジオのエンジニアはこんな風に怒鳴り散らしてた。 「だからスネアにそんなエコーかけちゃいけないんだよ!」 そんな感じだったから、結局4トラックレコーダーで録ったみたいな音になった。 あのレコードは未完成のままだ。 できることならマスターを奪ってミックスをやり直したかったけど、そのエンジニアがレコードをとにかく嫌ってて、 勝手に全部消しちまってたんだ。今聴くとモニターミックスかと思うだろうね。 極端に明るいギターの音なんか特にさ。コンプレッサーをかけた上に、俺が高音を足したんだ。 俺はあのギターが大好きだったからさ。それが彼らのサウンドだったし、あのレコードはその記録なんだよ。 76年の末頃、ピストルズはElectric Circusで2回ライブをやったと思う。 ザ・クラッシュやバズコックスが前座を務め、ローカルのキッズで満員になった会場の光景には興奮したね。 僕がワルシャワのことを知ったのは、彼らが実際に活動を始めてからだったと思う。 その頃から風変わりなワインセラーやストリップクラブ、大学の隅っこのスペースなんかで色んなイベントが開催されるようになり、 僕が彼らと出会ったのもそういう場だった。 新しいバンドを組もうとしていた俺は、Virgin Reocrdsの店内に「パワフルで情熱的なヴォーカリスト求む」っていう貼り紙を出してた。 誰かが「条件: 10000ボルトの電流に耐えられること」って落書きしてあったよ、マンチェスターならではのユーモアさ。 唯一連絡してきたのがイアン・カーティスで、俺たちはセールにあったVine Innていうパブで会うことにした。 イアンは背中に「hate」ってプリントされたジャケットを着てた。1976年当時のマンチェスターじゃ、それはかなり危険な行為だった。 ドンキージャケットを着たやつが店に入ってきた瞬間、周りにいた地元の奴らが「何だあいつ?どういうつもりだ?」って色めき立つのがわかった。 話してみると、イアンはすごくいいやつだった。 まともなやつなら、関わらない方が良さそうだって思っただろうけどね。 レザーパンツに「hate」プリントのコンバットジャケット、まるで『タクシードライバー』のデ・ニーロみたいだと思ったけど、 彼は実際あの映画が好きだったんだよ。彼はすごく落ち着いていて、実際の年齢よりも大人びてた。俺は当時18歳で、彼は20歳か21歳だったと思う。 「パンクこそが理想だ。結婚なんて退屈の極みさ」俺がそう言うと、彼は手にはめた指輪を見せてこう言った。 「俺は結婚してるけどね」 イアンとデビーはヒュームのStamford Streetにあった彼の祖母の家に住んでいて、俺も何度か行ったよ。 クリスマスシーズンで部屋の中には風船が浮かんでたんだけど、棒状のやつが丸いの2つに挟まれててチンコの形になってた。 彼の祖母はまったく気づいてない様子だったけど、イアンは笑ってたよ。 彼は本当にいいやつで、デビーに花やチャコレートをプレゼントしてた。 あんな絵に描いたようなカップルには会ったことがなかったから、正直妬けたよ。 イアンは本当に幸せそうだった。 子供こそいなかったけど、まさにバラ色の人生って感じだった。 彼はよくタバコを吸ってて、マルボロがお気に入りだった。好きな酒はColt 45だったけど、彼はあまり飲む方じゃなかった。 デビーを膝の上に座らせて、2人はテレビを観ながら一緒に紅茶を飲んでた。 若くして公務員になってた彼は、上流階級の出身だった。当時はサッチャー政権が始まる前で、まだそういうのがあったんだ。 彼は保守党を支持していて、とにかく野心に満ちてた。何があっても成功してみせるっていう、ギラギラしたものを内に秘めてた。 デビーは家にいることが多かったけど、俺たちはElectric Circusや初期のバズコックスのライブによく遊びに行った。 1976年にElectric Circusでやったダムドのライブにも行ったし、Anarchy in the UKツアーの2公演も観た。 レコードもよく貸しあったよ。 彼も俺と同じくイギー・ポップが好きで、あとヘヴィーなダブやジャマイカのレゲエにも詳しかった。 リー・ペリーやU・ロイ、I・ロイとかね。 俺がそうだったように、彼もセックス・ピストルズのライブを観て感化されてた。 彼はデビーと一緒にフランスのパンクのフェスに行ってたけど、俺は当時その存在さえ知らなかった。 出会ってから2週間後くらいに、俺たちは一緒にロンドンに行くことにした。シーンがどんな感じなのか知りたくてね。 Kings Roadにあったピストルズとマルコム・マクラーレンがやってたショップや、The Roebuckに行った。 どこかで遭遇するかもって期待してたピストルズのメンバーとは会えなかったけど、チェルシーのジーン・オクトーバーには会えたよ。 ロンドンのバンドをマンチェスターに呼んで俺たちが前座をやる、そういうプランだったんだ。 ドン・レッツと話した時のことはよく覚えてるよ。当時ドレッドロックは珍しくて、すごく目立ってた。 自分たちが前座をやる前提で、マンチェスターにロンドンのバンドを呼ぼうとしてるって伝えると、彼はこう言った。 「いいバンドがいるんだけど、まだ時期尚早だ」多分ザ・クラッシュのことを言ってたんだと思う。 イアンは彼にこう言った。「ロンドンのいいバンドを知らないかい?あんたってすごくクールだからさ」 シャイだった俺と違って、イアンは積極的に人に話しかけた。彼もシャイではあったけど、人と話すのは苦じゃないみたいだった。 その時点で、俺たちはまだ一度もリハーサルをしてなかったけど、やがて誰かの家の庭にあった物置やパブなんかでやるようになった。 俺がギターで彼がヴォーカルだったんだけど、彼が持ち歩いてたちいさなスーツケースにはリリックノートが大量に入ってた。 それから1ヶ月くらいして、俺はそれを読み始めたんだけど、そこには「デイ・オブ・ザ・ローズ」や「リーダーズ・オブ・メン」、 下書き段階だった「キャンディデイト」の歌詞が書いてあった。 1976年当時、彼はナチスの戦車隊の指揮官たちのことなんかをテーマにしたSven Hasselのフィクションをよく読んでて、 『Wheels of Terror』を特に気に入ってた。 「リーダーズ・オブ・メン」の歌詞を読んだ時は笑ったよ、Sven Hasselの本のまんまだったからさ。 79年か80年頃には2人ともすっかりリベラル派になってたから、そういう本を読んでたことは口にさえできなくなってたけどね。 ある日のリハーサルで、彼は死んだ蝿のダンスを初めて披露した。 ロクでもない曲だったけど、俺は無我夢中でギターを弾き、彼はこんな風に白目をむいたまま大きく仰け反ってた。 俺が知る限り、彼はまだてんかんを患っていなかった。 もしなってたんだとしたら、かなり上手にそのことを隠してたってことになる。 俺はその兆候を目にしたことはなかったけど、時々心ここに在らずって感じになることがあって、 そういう時の彼は近づきがたかった。 普段は思いやりのある優しいやつだったからこそ、その落差は不気味だった。 その頃ベーシストが加わって、俺たちはモス・サイドにあったGreat Westernっていうパブでいつもジャムってた。 電話で「おたくでリハさせてくれないか?」って交渉してオーケーをもらったんだ。 そこはいかつい労働者階級のやつらのたまり場になってて、みんな俺たちのことをじろじろ見てた。 ジャケット姿のイアンがマイクに向かってシャウトし始めると、「うるせぇ!」って怒鳴られて放り出されたよ。 当時、イアンはまだ自分の歌声を確立できていなかった。 みんなが知る前の彼は、猫背でボソボソと歌詞を読み上げるっていうスタイルだった。 そうこうしてるうちにクリスマスが過ぎた。結局ドラマーは見つからなかった。 バンド名の候補は幾つかあったけど、ワルシャワっていう案を出したのはイアンだった。 彼は当時、ボウイの同名のアルバムにハマってたんだ。 俺たちは優れたアイディアをたくさん持ってたけど、結局芽が出ないまま翌年の2月頃に自然消滅した。 バンドを組んだ俺たちが次にすべきこと、それは言うまでもなくドラマーとシンガーを見つけることだった。 祖母の家はドラムを入れるには小さすぎたから、リハーサル場所も見つけないといけなかった。 俺たちは当時ピカデリーにあったVirgin Recordsに行って、ドラマーとヴォーカル募集の貼り紙をした。 いかにもパンクっぽいだろ。 実際俺たちは、当時毎晩のようにパンクのギグに行ってた。 The Ranchではちょっとしたシーンが出来上がりつつあって、そこに行けばいろんなやつと知り合うことができた。 電話を持ってたのは俺だけだったから、その貼り紙にはウチの番号を書かないといけなかった。 いたずら電話が山ほどかかってきたよ。 俺とテリーは彼が持ってたVauxhall Vivaでディズベリーまで行き、筋金入りのヒッピーの男と会った。 俺たちはパンクスだったから自然な流れだろ? その男とは前にも一緒に飲んでて、そいつの家に行ったこともあった。そいつん家には椅子がひとつもなくて、 彼がクッションを床に置いてあぐらを組んでたから、俺たちもその向かいにクッションを置いて座った。 俺とテリーはお互いをちらちら見ながら、「ここは一体何なんだ?」っていう無言のメッセージを発し続けてた。 バーニーは既にギターとアンプを持ってたから、すぐにでもバンドを始められる状態だった。 ベーシストになるつもりだった俺は、フッキーがベースを買ったことに落胆した。 俺はやつよりも背が高かったし、ベーシストは長身って決まってるからな。 仕方なく俺はギターをやることにしたんだが、まずは金を貯めなくちゃいけなかった。 その後、俺たちはイアンと意気投合し、彼がバンドに入るとほぼ同時に、俺は自分のギターを買った。 シンガーを仲間内で見つけようとしていた俺たちは、まずフッキーの友達だったDanny Leeに声をかけた。 ビリー・アイドル顔負けの冷笑を浮かべた彼はすごくクールで、ヤル気もありそうだったのに、結局バンドには入らなかった。 仕方なく、俺たちは仲間内以外のところでヴォーカリストを探すことにした。 俺らはみんな無口でシャイだったから気が重かったけど、Virginのレコード店に貼り紙をしたところ、何人かが連絡してきたんだ。 そのうちの1人は文字通りの狂人で、見た目が今のミック・ハックネルそっくりだった。 赤毛の長髪をポニーテイルにしてて、Catweazleみたいなあごひげを蓄え、首と手を出すために穴を開けたクッションカバー みたいなのをジャンパーがわりに着てた。 家を訪ねた俺たちを前に、そいつは3弦のバラライカを引っ張り出してきた。 そいつが歌い始めると、俺たちは逃げ出すようにそこを後にした。 先が思いやられるなって2人で話してた矢先に、イアンが連絡してきたんだ。 イアンとはElectric Circusで会った。Anarchy in the UKツアーか、ザ・クラッシュのギグのどっちかだったと思う。 彼はIainっていうやつと一緒に来てて、2人ともドンキージャケットを着てたけど、イアンのやつは背中に「hate」って書いてあった。 いいやつそうだったし、すごく好感を持ったよ。その日はあまり話せなかったけど、やたら印象に残った。 それから1ヶ月後くらいに、俺たちはVirgin Recordsの店内にヴォーカリスト募集の貼り紙をした。 パンクの時代はそれが一般的なやり方だったんだ。 募集をかけて以来、気違いじみたやつらが大勢電話してきた。 マジでロクでもないやつばかりだったけど、ある日イアンが連絡してきた。 「ザ・クラッシュのギグで会わなかったかい?Iainってやつと一緒に来てただろ?」って俺が言うと、彼はその通りだと答えた。 俺はその場でこう言ったよ、「じゃあヴォーカルはあんたで決まりだ」ってね。オーディションもやらなかった。 どういう音楽が好きかって聞くと、名前の挙がったのが俺たちの好きなバンドばっかだったから、彼でいこうってことになった。 当時イアンはデビーと一緒に、モス・サイドのAyres Roadにあった彼の祖母の家に住んでた。 俺とフッキーは2人でそこを訪れ、その場で彼を正式にメンバーとして迎えた。 イアンとはElectric Circusの階段のところで知り合った。 俺たちの前にいた、背中にマスキングテープで「hate」って書いた服を着た男、それがやつだった。 そのテープは毎朝仕事に向かう前に剥がしてたらしいけどね、あの世にいても覚えてるといいんだけどな。 やつが背を向けるのを見て、俺たちは「『hate』とはね、気合い入ってんな」なんて軽口を叩きながらも、 イカしてると思ってた。 やつのことはいろんなギグで見かけてて、ちょっとガキっぽい熱さがやけに気になってた。 やつは友達とバンドを組んでて、そいつはギターをやってた。 当時はパンクバンドにツインギターはご法度みたいな暗黙の了解があったから、やつがそいつと一緒に 俺たちのバンドに加わることはできなかった。 後に状況が変わるわけだけど、バーナードと俺はずっとヴォーカルを探してた。 その頃の俺たちがどれだけ本気だったかは覚えてないけど、イアンが加わってトリオになった時、 欠けてたパズルのピースが見つかったって感じた。 ある日どっかのギグでまた顔を合わせた時、相方だったギタリストはもういなくなってたから、 やつはヴォーカリストとして俺たちのバンドに入ることになった。 。 やつがクッションカバーを着てないってだけで、俺たちは心底ホッとしてた。 イアンのことはそれとなく知ってたよ、同世代のネットワークってやつでね。 マンチェスターでパンクのライブに来るのはいつも同じやつらだったから、名前は知らなくても顔は覚えるんだ。 やつのことは印象に残ってたよ。 話しかけたこともあって、歌詞を書いたノートやアイディアを走り書きしたインデックスカードを見せてもらった。 やつがコラムスピーカー2本と小さなアンプを持ってるってことも知ってた。 やつは見るからに真剣だった。 使えると思ったし、俺たちがドン引きするようなところもなかったけど、人柄については知っておく必要があった。 ある日曜の午後、俺たちはロッチデールのアッシュワース・バレーで会うことにした。 一応オーディションってことになってたけど、実際には川に投げ込んだ木の枝を飛び越えたりしてして、 何時間か一緒に遊んだだけだった。 今思えば、オーディションとして悪くないやり方だったと思う。 イアンがいいやつだってわかったからね。家で待ってたデビーに、やつが何て話したかは知らないけどな。 イアンはIain Grayと会って、バンドを抜ける意思を伝えた。 それだけじゃなく、彼が持ってたアンプとスピーカーを俺に売ってくれるよう頼んでくれた。 そういう経緯で俺は彼の持ってた機材を譲り受けたんだけど、俺はギターがまるで弾けなかった。 どれだけ練習しても上達しなかった。 俺がその時点で既に出遅れてたってことも大きかったと思う。 バーニーは何年も前にギターを買ってたし、コードもいくつか弾けた。 フッキーもベースを買って、徐々に腕を上げてた。 俺がフッキーから2ヶ月遅れでギターを手にした時、バーニーとは既に2年の差がついてたってことだ。 ドラマー探しにも苦労してた。いいドラマーはそう簡単には見つからないからな。 いろんなやつを片っ端からあたった。しばらくして、俺は持ってたギターとアンプをドラムキットと交換したんだけど、 他のメンバーとの差はさらに開いてたから、苦労することは目に見えてた。 イアンは俺たちよりもずっと詳しくて、カンやクラフトワーク、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなんかが好きだった。 俺はというと、当時はジョン・ケイルに夢中だった。 Manchester Ship Canal Companyの食堂で働いてた頃の同僚が彼の大ファンで、レコードを全部譲ってくれたんだ。 ポップやレゲエ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルなんかを聞いてた俺とバーナードに、 イアンはイギー(・ポップ)とかのことを教えてくれた。 少しも押し付けがましくないのがやつのいいところだった。 ただ一緒にいて楽しかったから、俺たちは自然とやつから色々学んだんだ。 彼は俺たちのバンドにヴィジョンを持ち込んだ。 過激なものに惹かれてたイアンは過激な音楽を作ろうとしていたし、ステージでは完全に振り切れたパフォーマーであろうとした。 曲を作ってると、彼はいつもこんな風に言った。 「もっと冒険しようぜ。これじゃ普通すぎる、もっと狂ったやつがいい」 イアンにイギーのことを教えたのはデビーだった。見ず知らずのやつらがそう教えてくれたんだ。 彼女はイギー・ポップの大ファンだった。 イアンはデビーと恋に落ち、彼女は彼にイギーのアルバムを聴かせた。 バンドの音楽性にはメンバーそれぞれの趣味が反映されるわけだけど、そういう意味じゃその出会いはイビサと同じくらい 重要だったことになる。 イアンはバンドにイギーのスピリットを持ち込んだんだ。 1977年3月にApolloで行われたイギーのライブ、ボウイがキーボードを弾いた時のやつだけど、あれはLesser Free Trade Hallでの セックス・ピストルズのライブと同じくらい重要なイベントだったと思う。 数え切れないほどの人間があのライブに感化されたはずさ。 あのツアーの時のイギーは神がかってた。あんなライブは過去に見たことがなかった。 俺たちはウェイストにあったSwanってパブでリハーサルをしてた。 フリーメイソンだかバッファローだか知らないけど、あそこは何かしらの組織の一部だったと思う。 あそこの2階にあった会議室を使わせてもらってたんだけど、ソファの下に怪しげな引き出しがたくさんついてて、 中にはバッファローの皮なんかが入ってた。 あそこは秘密のミーティング場で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵のまんまだった。 バッファローのやつらのミーティングがない時に、俺たちはあそこでリハーサルしてたんだ。 なかなか気に入ってたよ、結局大家に追い出されたけどな。 当時の俺たちは初めてセックスする童貞みたいなもんだった。どうしていいかわからず何をやってもうまくいかない、まさにそういう感じさ。 音源として残されてる初期の曲よりも古いやつ、あれはマジで聴いてられないほど酷かった。 音楽も他と一緒で、上達したければ自分自身で学ぶか、あるいは誰かから教わらなくちゃいけないんだよ。当時は文字通り修行の日々だった。 最初期の俺たちのオリジナル曲は、完全にパンクの猿まねだった。 まるで真似しきれてなかったけどね。音楽的素養でいえば俺たちのレベルは9歳くらいだったけど、何とか7曲を書き上げた。 バズコックスと親しくなれたのは大きかったよ、彼らには色々と世話になった。ライブのブッキングも含めてね。 ピート・シェリーがRichard Boonをライブに連れて来てくれた時、俺たちは「イェーイェーイェーイェー、ファックオフファックオフ、 イェーイェーイェー、クソクソクソ」なんて感じの、マジでどうしようもない曲を演ってた。 彼にはこう言われた。「ライブは俺が探してやるから、お前らは曲を書け」。 曲がクソだってことは自覚してたから、そのライブに向けて俺たちは新曲をいくつか書いた。 あれはElectric Circusでバズコックスの前座をやった時だったと思う。用意した6つの新曲は随分マシだったけど、まだまだ未熟だった。 でも6週間かそこらで書いたにしては、飛躍的に成長してたはずさ。 そのうちの1曲か2曲は、『アンノウン・プレジャーズ』に収録されてると思う。 バンドを始めたいからアドバイスが欲しいって言われて、ある金曜の夜にやつらと会うことになった。 来るものは拒まずっていうのがパンクのアティテュードだったし、俺たちとしても一緒にシーンを盛り上げていく仲間を必要としてた。 ミーティング場所はサルフォードのFrederick Roadにあったパブだ。 飲みながらやつらの話に耳を傾け、形にするにはどうすればいいかを一緒に考えた。 ある日バーナードの家に行ったんだけど、エフェクターが内蔵されたギターを使ってたのを覚えてるよ。 当時にしてもかなり変わったモデルだった。 学校でバンドを組むような子供たちが最初に買うような、初心者向けのギターさ。 アイディアを交換し合い、それをどう実現するかについてあれこれ議論する、やつらにもそういう高校生みたいな純粋さがあった。 やつらのバンドはまだ模索段階にあった。俺たちはウェイストのバスステーションの近くにあったやつらのリハーサルスペースに顔を出し、 練習後はみんなで飲みながら今後の展望について話し合った。 やつらはただバンドがやりたいだけで、たちの悪い野心なんかは持ってなかった。 イアンは若さという情熱に取り憑かれているようだった。 アルチュール・ランボーのようとまでは言わないが、やつのストゥージズとヴェルヴェッツへの入れ込みようは半端じゃなかったし、 どこか近づきがたい何かを持ってた。 他のメンバーと同じように無邪気な一面を見せることもあったけど、やつはいつも生き急いでいるように見えた。 他のメンバーよりも内気で、その分思慮深いところがあった。 それがカリスマ性に繋がってたんだろうけど、やつだって聖人じゃなかったってことさ。 イアンはかなりボリューミーなヘアスタイルにしてた時期があって、ロクでもない床屋に行って「ローマ皇帝みたいな髪型にしてくれ」 なんて言ってた。俺たちみんな古代ローマにはまってたんだ。 彼はニーチェの作品もよく読んでた。 俺自身は読んだことないんだけど、制服や建造物がかっこよくて好きだった。 俺は昔から古典様式に惹かれてたけど、イアンはニーチェを通してそういうのに興味を持ってた。 Electric Circusでのバズコックスのライブに、俺たちは前座として出演した。それが俺たちの初ライブだった。 バンド名はまだ決まってなかったけど、Richard Boonは俺たちの名前をポスターに載せようとしてた。 俺らが決めかねてると、彼が「Stiff Kittens (怯えた子猫たち)ってのはどうだ?」って言った。 ピート・シェリーが思いついた名前らしかったけど、俺たちは断固反対した。彼はわかったって言ったくせに、 結局ポスターにその名前を載せちまったたんだ。 ライブ当日、俺たちはWarsawだってことにした。Stiff Kittensじゃなくてな。死ぬほど緊張したよ。 ステージに立った瞬間のことは覚えてるのに、それ以降のことは何ひとつ覚えてないんだ。 ライブ後に楽屋で「緊張でぶっ倒れちまうかと思った」なんて話したよ。その時の写真が残ってるんだ。 俺とテリーはドイツ戦車隊の指揮官の格好をすることに決めてて、そういう服をたくさん買っといた。変でもいいんだよ。 馬鹿げたステージ衣装、クソダサい髪型、唖然とするような発言、そういうのってバンドマンの特権だからな。 マンチェスターのパンクシーンにおいて、俺たちは典型的なルートを辿ってるはずだった。 ザ・フォールやザ・ワーストはバズコックスの前座をやって、その後あちこちに出るようになってた。 でも俺たちは最初のライブの後、どこからも声がかからなかった。 しばらくして俺らのことを探してたらしいMusic Forceから連絡があって、Raftersで何度か前座として出演させてもらった。 Stiff Kittensっていう、ピート・シェリーが決めた仮のバンド名は却下された。俺自身はキュートでいいと思ってたんだけどな。 怯えた子猫たちって、パンクバンドの名前としてバッチリだろ? 肉球を振りかざす段ボール箱いっぱいの子猫たち、これ以上にパンクなイメージはないと思ったね。 でも他のメンバーたちは気に入ってなかったから、結局ボウイの「ワルシャワ」って曲にちなんだWarsawで落ち着いた。 駆け出しの頃はその名前でギグをやってたしな。 彼らがPenetrationの前座として出演した時、イアンは後に確立するスタイルの片鱗を見せてた。 バンドはまだ発展途上って感じで、ライブはまぁまぁだった。 イアンは昔からとにかく服のセンスが良くて、すごくスマートなTonikのパンツと空軍のオーバーコートをよく着てた。 1935年頃にベルリンで実際に使われてたような実用的なやつさ。 バーニーは口ひげを生やしてた。フッキーはゲイのダンサーみたいな格好をしてて、ヴィレッジ・ピープルのメンバーかと思った。 つばの長いキャップは当時じゃ珍しくて、Pipsで見かけた時も同じやつを被ってた。 鋲を打ったレザーの首輪なんかもしてて、とにかくごちゃまぜだった。 演奏は決して上手くなかったけど、サウンドは当時のど真ん中だった。あの頃出てきたバンドの大半に言えたことかもしれないけどね。 僕らリスナーは批評家ぶったりせず、次々に新しいバンドが生まれる状況を歓迎してた。 写真も6〜7枚撮ったはずなんだけど、ネガはとっくの昔に失くした。 すごくエネルギッシュなライブだったけど、当時はどのバンドもエネルギーが有り余ってるって感じだったからね。 チェルシーやCortinas、Eaterなんかもそうだった。でもWarsawの曲はありきたりだったな。 彼らは最初から特別な存在だったわけじゃないと思う。 僕は前座のバンドも撮影するようにしていて、いつも3〜4枚は撮ってた。 何かが起きようとしていて、その過程を記録しているっていう実感はあったね。彼らに限らず、あらゆるバンドを撮影した。 自分が何かしらの形でそれに関わるかもしれないと感じてたから、できる限りのことをしようと思った。 ボウイやロキシー・ミュージックなんかのグラムが好きだった僕は、パンクスファッションには手を出さなかった。 あくまで傍観者のつもりだったけど、自分がシーンの一部だっていう実感はあった。 来るものを拒まず、当時のシーンにはそういう寛容なムードがあった。 ロンドンは派閥争いがすごかったけど、マンチェスターはそういうのと無縁だったんだ。 40周忌記念書きこします、日本時間19日午前4時〜6時 英でライヴ・ストリーミング・イベントあるらしいです↓ http://amass.jp/134568/ Joy Division: Juvenes 英語版 | Kevin Cummins 、 Ian Rankin | 2021/10/19 ハードカバー ¥4,825 ん https://reminder.top/437953211/ >この本を読んでとくに意外だったのは、ヴォーカルのイアン・カーティスがダブや >レゲエ好きだったということ。 >>391 買ってよかった。でかくて硬くて鈍器にもなる。 ソォー| ̄皿)o―――――――――C~-v(  ̄Д ̄).。o○フゥ~ read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる