ARB 及びメンバーソロ [転載禁止]©2ch.net
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立ててみました。
とりあえず3X3X3や光浩の40周年の曲目や、
感想など、観に行かれた方、よろしく! >>196
背中まるめ歩いてゆく → イェイェイェイェイイェイ 現役はイエローで聞くのやめてたけど、ここ1週間で砂丘ワンアンドロクオバペーパシンパラブザブラックと3期までコンプ。
きっかけは、ロフト40th.での再燃、w ザ・ダイナマイツ、頭脳警察、アナーキー、ARBなどビクターのロック・カタログが一挙紙ジャケ再発 - TOWER RECORDS ONLINE
http://tower.jp/article/feature_item/2016/12/28/0704
BAD NEWS<初回限定盤> 発売日2017/03/08
http://tower.jp/item/4423329/
ボーナストラック
14.Tokyo Cityは風だらけ
15.R&R AIR MAIL 映画さらば相棒 DVD
https://www.amazon.co.jp/dp/B01MF98VF2
(本編58分)
ラチ、クミコ、銀次は九州から上京してきた仲間。クミコはピンサロに勤め、銀次はスナックで皿を洗い、ラチはライブハウスでシャウトをしている。
ロックのスーパースターを夢見るラチは持ち前の一本気な性格のために思うように事は運ばず、バンドメンバーやマネージャーとトラブルを繰り返し、見放される。
そこへ、ある音楽事務所からレコーディングの話が転り込んだ。
夢の実現に三人は小踊りして喜ぶが、音楽事務所にはもう一つの顔があった……。
豪華なスタッフ・キャストが揃い、若きロックアーティストのギラギラした野望と挫折を描くロックン・ロール・フィルム。
スタッフ
監督:宇崎竜童/脚本:宇崎竜童 、黒沢清/撮影:長田勇市/音楽:A・R・B/助監督:水谷俊之//技闘:戸井十月
キャスト
石橋凌、太田あや子、山根銀次、安岡力也、島崎奈保美、蘭童セル、島武美、黒田征太郎、A・R・B、アナーキー、内田裕也 甲斐よしひろが甲斐バンドで上京する時、石橋秀樹を誘ったって本当? 甲斐が一郎から相談されて、KBCの岸川ディレクターを介して探してもらったみたいね。
アップルツリーの頃から目を付けてて、甲斐バンドのメンバー候補だったらしい。
あと、あまり知られてないけど、サンハウス、ショットガンの浦田賢一は初代ドラマーだからね。
デビュー直前になって床屋になりたいと言って、揉めに揉めて殴り合いのケンカになったらしいけど。 しかし、石橋秀樹を甲斐バンドに入れようとしてたとしたら、一体何をやらせる気だったんだ?
ボーカルは甲斐だろうし、ギター?ドラム?まさかなぁ・・・ >後から聞いた話であるが甲斐は久保の他に「アップルツリー」の石橋秀樹にも声をかけたらしい。
http://www.myoanji.com/1970/25/index.html >>209
ピエロのギターだった松藤をドラムにしたんだから
アップルツリーのボーカルもドラムだろ 甲斐はARBから一郎を引き抜く時も石橋に仁義を切ろうとして話し合いをしたんだよね。まぁ石橋にとっては有り得ない話しだから決裂して、あんな感じになったんだと思うけど >>199 わろた
10年くらい前にもキース監修で全作紙ジャケ再発
してたよなまあそんなもんか >>212
そうなんだぁ。甲斐は石橋に一郎をくれって話してたんだね。
まぁ、でも80年代はずっとレコーディングにも参加してたし、ギターソロまで
弾くくらいだったしね。欲しかったんだろうね、一郎が。 久留米に「アップル・トゥリー」というバンドがいた。
久留米で絶大な人気のあった彼らも毎週「照和」に出るために久留米から車で通っていた。
久留米といえば松田聖子やチェッカーズが有名であるが彼等がまだ中学生くらいのころの事である。
リード・ボーカルは「石橋秀樹」。今は俳優、ARBのボーカル「石橋凌」である。 聴いたことないけどいいバンド名だな
ビートルズ好きなんだろうな 秀樹はポール推しだったんだな
俺東京ドーム行くで〜 UNEXTにだまされてプリッツ買うな暴力戦士もさらば相棒もない
GYAOに暴力戦士あるけどな ほんと今更だけどNO EASY ROADって
COME ON FEEL THE NOIZEだな 今、凌が出ているガムのCMを見た
、、、何だろう、涙が出て来たよ 一郎はARBに在籍して居た頃から甲斐バンドのレコーディングにちょくちょく参加していたんだけど、
そのことを凌とキースは快く思ってなかったらしいけどサンジは「ARBに支障がなければいいんじゃない?
友達は大切にした方がええし。」と、一定の理解を示してくれたらしい。
一郎はARBを辞めた最大の理由は達成感があったからと答えていて辞めた時点では
甲斐バンドに加入することは決まってなかったとも言っている。
キースとは数年前に共演してるんで和解してるみたいだけど凌とは現在は全く交流が
ないみたい。 それよか再結成時、浅田白浜には何も声かけをしたのかしなかったのか
知りたい。表情報では凌がキースに誰がいいと聞いて若手2人の名が出たと
あるが、解散時、対等4分の1のARBで解散したのであれば声かけ
ないとおかしな気がする。勝手に凌キースで俺たちのARBだし
勝手におっぱじめるかとなったのか。 白豚がクズ
白豚の動き次第でレジェンド枠に入れたのに
ARBが仲間割ればっかでグダグダでなった元凶 キースは随分前からライブ後ホテルに直行って感じだし、あのままARB続けるだけの体力残ってないと思う
一昨年グルービン再結成ライブで相変わらずの姿が見られて嬉しかったが、やっぱりライブ後は打ち上げ出ずに帰ったし 俺は再結成の時に凌&キースのユニットで良かったと思うんだよな。ゲストで花田入ったりとか
白浜浅田のARBも嫌いじゃないしむしろ好きだし白浜曲もセンスいいよ
再結成してアルバム一枚しか買わなかったな 私は4期が一番好き
REAL LIFEとエルドラは良かった >>239
INFINITELYやバラとサボテンは好きだ、MADWAVEもいい
オレはイチロー、ミツヒロも好きだが白浜時代が好き
垢抜けた感がある 白浜期ファン多いはずだけどカキコが少ない
一郎期マンセーに圧倒にされるから出てきずらいんだろな
おれはリアルタイム光浩期から入って再結成後は良く知らんがその前はそれぞれ全部好き 初めてARBを聴いたのがNHK~FMのニューサウンズスペシャルのスタジオライブだった
白浜と凌で演奏された魂こがしてのアコースティックバージョンが自分の中でベストテイクだな
間違えて消しちゃったんで記憶の中にしか無いけど このスレ的に、イエローブラッドってのはどう評価されとるん? すげー力作だろ 黄色い血
ギター効きまくりのロックにこの時代的なゲートエコーとか
エフェクトを組み合わせたりして 相当の野心作と思うわ
力強さでは全アルバム中トップと違うかな
こんな高テンションのアルバムの次作の砂丘が
なんか妙に落ち着いちゃったのが気になる 半ば産業ロック化する白浜期への前兆みたいに、斉藤期って多層的な音らしく表現するために工面したり失敗したりしているよね。
「Maybe Tomorrow」なんかはスリリングで良い。
逆に、「Holiday」は白浜(ライブ)式のキーボードが入った編成のほうが正解に感じるから、ギター1台ではちょっと無理な曲想だったのかもしれない。
石橋凌が言った「ARBがツインギターのバンドだったら斉藤くんも活きたろうけど」というのはこのへんかな。 当時のARBがライブでHolidayを演奏するときは石橋凌がアコースティックギター弾いて、斉藤光浩がエレキギターを弾いてたな 凌がステージでギター弾くのってholiday,after,魂、淋しい街。
飲まずに、factory、just a 16もあった?
新旧問わず珍しいのライブで見た人いないか? アルバムでは「イエローブロード」と歌ってるけど
「ブラッド」が正解でよな >こんな高テンションのアルバムの次作の砂丘が
> なんか妙に落ち着いちゃったのが気になる
ほんとそれ。
Yellow Bloodをはじめて聴いたとき、新生ARBにめちゃくちゃ期待したよなぁ。
岡部、斎藤でも全然イケてると思ったんだけどな。 鏡の中のナイフ
「鋭く光る銃口が」が
「鋭く光るウ○コが」って
聴こえるのは俺だけか? ☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。国会の発議は
すでに可能です。平和は勝ち取るものです。お願い致します。☆☆ YELLOW BLOODは向井秀徳が日本ロックの名盤に選んでたな アルバムは聞いたことないんだけどね、イエローブラッドってタイトルがインパクトあったから、その時代だけだけど、ARBの活躍を覚えている。浅草オールナイトロックフェスだったかなぁ。 砂丘は決して悪いアルバムではない 俺も好き
ただ一年でえらい落ち着いちゃったんだねえ、と当時も今も思う
光浩が期待されてBOWWOWまで巻き込んで移籍して たったの3年でケツ割ったのは
凌の役者志向(タレント志向とでも言うべきか)に嫌気がさしたからだ、とのことだけど
テンションの鎮静化はそういう事も関係してるのかね
ロックンローラーやゴッドブレスリング、踊り子ルシアとかを聴いてると
あー光浩の3枚目を聴きたかったなあ、と思う 光浩脱退後の凌のインタビューががっかりだつたな、
「ギターは上手いんだろうけど、アレンジャーとしては足りなかった」と
ほんの少し前までいっしょにやってた仲間をそこまで言うかと。
同じインタビューか同時期のインタビューでツインギターも考えていたとも言ってた。
その後、目の前でBOOWYが爆発する中、凌の俳優活動の宣伝とデブ浜の活躍で
知名度お茶の間露出度はARB最高潮を迎える。確かにデブ浜ほどの灰汁の強さを
持たないそれらしい曲しか書けなかった光浩には無理だった。 灰汁の強さw
>凌の俳優活動の宣伝とデブ浜の活躍
これは否定しないけど、それよりも白浜時代はバブル最高潮と合致してるのよ。
まだ音楽がビッグビジネス足り得た幸せな時代だったのだな。
逆の意味で今のような時代に、もしBOOWYが再結成してアルバムを出したら
どのくらい売れるかかなり興味あるな。
今年はデビュー40周年だし、ARBも何時までもいがみ合ってないでなんかやれ! 再結成しなくていいから各時代の完全収録ライブ盤出してくれ。 エンマや宮城在籍時のライブが見てみたい
映像素材があるらしいことは分かってるので
そこらへんをなんとか。
再結成は置いといてエビや内藤はまだ形式上メンバーだよね >>265
そうそう。
編集盤じゃなくて一つのライブを完全収録で。
ARBはまだ出してないんじゃないかな? ARB is ってライブアルバムはそうじゃなかったか?
あれが活動停止前最後のライブだとかなんとか >>267
リキッドルームの完全収録みたいだね。
ありがとう。
音源ってたくさん残ってるんだろうな。 >>262 バブル背景だけではデブ浜時代の広がりはなかったと思う。
あのまま光浩でバブル迎えてもロックファン層の中での評価は維持できたかもしれないけど。
最期のgod bless the ring,rockn rollerって大枠では何にも変わんないよな特にgod blessは12inch前2作が
鮮烈だっただけに残念感もあった。松田に言われてた「いつまでも子守してないで」(本当は映画の世界に
来いという意味だけど)ってのに影響されたのかもっと大衆に受け入れられたかったんでしょ、
新たなファン層獲得できたデブ浜先生起用は正解だった。HAPPINESSなんかなんでもっと
売れなかったのかと不思議なくらいの歌謡ロックの秀作だと思う。 まあ白浜をメンバーに迎え入れたのは正解
凌は活性化したかったのだろう
ONE and ONLY DREAMsやペーパーズベッドなんかは俺は好きでね
クレジットを凌&久にしたのは凌の嫉妬もあるよ 良い意味でイチローミツヒロ時代を壊したのは白浜しか出来ないかと
メロディーセンスは白浜が一番だと思うよ
イチローもミツヒロもいい曲書いたけどね >>271は白浜ファン
メロディーは一郎、光浩、白浜どれも魅力的で比べられるものではない 内藤幸也はかっこよかったけどARBには合わなかった気がする。
エビもなんか迫力が足りなかったな。 浅田は素人が聞いてもテクニックや表現のレベルの高さがわかるが
岡部ってどうなの?詳しい人。 浅田のプレイは上手いスタジオミュージシャンがやってるように聞こえて
正直あんまり個性を感じないな
白浜のギターがえらい個性的なのでアンバランスというか
一郎サンジ時代や光浩岡部時代は良くも悪くも聞いてて引き込まれるものがあった 長年見たかったさんまの番組が上がってた!
ラストのキース今では絶対放送無理だろうな CM出てた次女しか知らんかったけど
デブ橋君の長女ってギャビガルシアだったんだな 当時は田中一郎もビジュアル的にイケてたろ。
白浜は三枚目キャラ。 一番の謎キャラ担当
エンマは加入前脱退後の活動がわかる
残るは 岡部 阪芸卒、紳助 その後は? キースがグラサンしてないようにも見えるなw
もう一郎、光浩、白浜にキースでARB再開しろよ
歌は3人が持ち回りで キースって白浜、光浩との仲はどうなんだろ?一郎経由でいけるんだろうか。 白浜はキースと岡部を下手だから、という理由で苛めたらしいが
もう彼の音楽がウケる時代でもないし
いい加減両方とも爺さんなんだから和解したらいいのにね
そもそも自分の古い友達だか知らんが 一郎や光浩とトーシロを共演させるというのも
考えようによっちゃ失礼な話だわな 一郎・白浜=子供の頃からの付き合い
[出会いの不思議さ]
白浜さんの今までの人生は、ミラクルな出会い・出来事が多いのに驚かされる。
しかもそれは生まれる前から既に始まっていた。
白浜家の第三子として母の胎内にいる頃、
ある2歳の少年は、斜め前の家のもうすぐ生まれる子を待ちかねていた。
その少年はのちの元”ARB”リーダー田中一郎さん(現“甲斐バンド”)である。
当然、幼馴染としていつも遊んでくれた優しい近所のお兄さんだった。
[音楽の始まり]
転勤族の父と共に北海道など国内を転々とする。再び福岡へ戻り、中学は福岡市南区三宅中へ入学。
(先輩には甲斐よしひろさん〜”甲斐バンド”、永隈晋一さん〜元”SHOTGUN”、そして田中一郎さん〜“甲斐バンド”らがいる。)
中2の時に新潟県長岡市へ転校。
住んでいたのはバスが1日5本しかない町。長岡では近くのレコード店へ行くも、洋楽のお目当てのレコードは皆無。
その為お小遣いを貯め、半年に一度日帰りで特急に片道5時間乗り、
東京までレコードを買いに行くのが年中行事になっていた。
高校は長岡の進学校「新潟県立長岡高校」を受験。
合格したらギターを買ってもらう約束を両親とし猛勉強。もちろん合格。
早速もらった5万円を握りしめ近くの楽器店へ走るが、GRECOすら置いていない。
なんとか見つけたYAMAHAの赤いセミアコを、大好きだったイギリスのブルースロックバンド”Ten Years After”のギタリスト、アルヴィン・リーを真似て購入。
(実際にはギブソンだが、遠目では同じと言う事で。しかしすぐに別のギターに買い替える。) [三度(みたび)福岡へ。そして照和との出会い。]
高2の時福岡へ。
福岡へ戻ってまずのカルチャーショックは、楽器店でフェンダー、ギブソンが置いてあり、
レコード店で苦労せずに好きな輸入盤が普通に買えた事。
それでもレコードが幾らでも欲しくなる為、
苦肉の策で母からもらったお昼代を食べずに全部レコード代に費した。
17歳の時九産大生中心のバンド”Razamanaz(ラザマナス)”(のちの”SHEENA&THE ROKKETS”のドラム川嶋一秀さんも在籍)でギタリストとしていきなり照和デビュー。
そこで”リンドン”でメジャーデビューする直前の田中一郎さんとも再会。
(ちょうど”TULIP”や”甲斐バンド”も東京行く直前のタイミング)
当時、照和はジャンルのルツボ。ハードロックしか知らなかったのを、
照和で出会った先輩から色んなジャンルのレクチャーを受ける。
永隈さんからはウエストコーストの見た事も聞いた事もないバンドのレコ−ドを、
中野茂樹さん(元ノーマン・ホイットフィールド 甲斐よしひろさんも在籍、元野多目ジャグバンド)からは
ラグタイムの古いレコードを教えてもらったりと、
10代の内にアメリカのロック系図がかなりわかった。
しかも「この曲のココがスゴイんだ!」と諸先輩方は音楽的英才教育まで行ってくれた。
「10代の頃はずっと曲を聞く勉強をし、恐らく人の5倍は聞いたと思う。
そして、この頃の照和は皆オリジナリティを競っていて、
17〜18歳の(今、思えば)とても早熟な素晴らしいミュージシャンがたくさんいた。
本当に良い時期に自分も照和に関わったと思う。
機会があれば、あの75年頃の照和の音源をCDにして残しておくべきだね。」 [大学時代]
西南大学文学部英語専攻入学。大学にはほとんど行かず、大学1年の時すでに留年決定。
19歳の時には音楽仲間の溜まり場だった永隈さんの部屋に居候して、永隈さんが中洲のハコの仕事でいない時も”カヤック”他レアなバンドのレコードを山ほど聴かせてもらっていた。
”THE MOZZ”(のちの”THE MODS”)でも活動するが2年で脱退。
脱退前に書いた曲で”THE MOZZ”がPOPCONつま恋本選会に進み、作曲者として本選会に参加。
その時、自身のバンド ”THE ZIGY”は惜しくも九州大会で涙を飲んだ。
(”THE MODS”のデビューのきっかけになったデモテープは白浜さんがギターを弾いていて、おまけシングルとしてその曲が使われている。)
そして大学6年目にバンド活動封印。「目指せ、高級官僚!」と一念発起し、
残りの単位(144単位中残り80単位の為、最後の1年は月曜の1限目から土曜の2限まで授業を全部とった)をがむしゃらに取得し、
国家公務員の試験も合格。
[法務教官時代]
大学を無事に卒業し、初の赴任地は神奈川県の小田原少年院。
そこで犯罪少年(特に性犯罪や薬物依存)の矯正教育に携わる法務教官となる。
今までの人生でこの時が一番勉強したと思うほど哲学や心理学などハマって勉強し、やりがいも感じていた。
しかし2年経ったある日かつて受け持った少年が再び罪を犯し、
被害者の人生を取り返しのつかないものにしてしまった。
「もし自分が違う教育や指導をしていたら・・・。もし・・・。」そう思うと、もう辞めざるを得なかった。
後にも先にも自分の人生の中で一番の挫折。
これに比べたら、自分の音楽が売れないなんて何て事ないとさえ思うのだった [デビュー]
法務教官の2年間は勉強ばかりして遊ばなかった為、貯金はそこそこあった。
しばらく仕事をせずに過ごしていたら、世の中が短絡的に暴力に走るのを感じる。
当時、横浜の名門高生が頻繁に「おやじ狩り」をし、800人検挙された時期でもある。
やる事もなかったので、その事をテーマに曲を書き溜めていった。
そして浅田孟さん(当時“SHENA&THE ROKKETS”ベース)が頻繁にアパートへ遊びに来ていて、デモテープを作った事があった。
その時のデモテープが何故か業界に出回り、ビクター他数社からオファーがあり、いつの間にかソロデビュー決定。
レコーディングにタッチはしていなく、「出しても良いけど。」程度でキャンペーンも殆どしなかった。
その頃照和時代に面識のあった石橋凌さんがスタジオに遊びに来て、1曲セッションをする。
その後飲みに行き、石橋さんから「もう一度昔のお前に戻ってくれ!」と言われ、ソロデビューしてすぐに“ARB”へ加入。
驚いたのは大学生活の最後の1年間と就職してからの2年間の合計3年間は殆どギターは弾いていなく、
福岡時代も含めて全くデビューする気がなかった(”THE ZIGY”でもデビューの話が何件かあったにも拘らず)と言う事実。
その3年間は楽器は触らなかったが、曲は相変わらず聴いていて
「演奏するよりも曲を聴く方が好きで、人前に出てやるのはあんまり得意じゃない。」と白浜さんの口から意外な本音が出た。
[ARB時代]
この時代の活躍は周知の事実。
白浜さんは80年代はギターからシンセサイザーの時代に入ったと認識していたので、
ARBをパンクからキーボードを大胆に取り入れた形態に変化させ、アルバムは結成以来一番の売上げを記録した。(RYO&HISASHIとして曲だけでなく詞にも携わる。)
4年間の加入期間の内、スタジオアルバムを4枚、LIVEを2枚プロデュースし解散。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています