京劇の『西遊記』は非常にアクロバット的、サーカス的で非常に
激しい動きを伴うらしいが、ここに、日本の「能」と違った、本来の
散楽雑技の伝統が生きているのではないか?元来が「立ち回り」の
場面の多い「西遊記」は舞台で演じられることを主眼に置いていた
のかもしれない。
さらには、京劇の『西遊記』では相当にユーモアも強調されている
ようで、三蔵と彼を誘惑する女達との絡みの場面など、大人向けの
寓話と言える。これは道中記であり、日本の道中記は「東海道中膝
栗毛」や同じ作者の「金草」など、ユーモアを強調したものが多い。
勝海舟の父親の自伝も、その大きな部分が少年時代の伊勢詣りの
珍道中や成年になってからの領地への年貢催促に出かけた際の百姓
達との面白い交渉を綴った話などで占められている。
西鶴の「好色一代男」も、ほとんどは道中の出来事を面白おかしく
書いている。
西洋では「サチュリコン」も道中記だ。
義経記は、戦いの場面を多く挟んでいる点でも、非常に西遊記と似た
構造を持った道中記であると言える。もっとも、こちらは道中記
というよりも、道行記と言った方がふさわしいかもしれないが。
それにしても、道中記であることには変わりない。しかも、義経記の
中盤以降の義経は、甚だしく精彩を欠いて弱気になっており、これを
三蔵にたとえることはいかにも順当であり、弁慶は孫悟空であり、
片岡や佐藤弟や常陸坊は八戒や沙悟丈、馬に似ている。また、実質的な
主役が第一の従者である弁慶と孫悟空である点でも義経記と西遊記は
共通している。
西遊記と義経記との人物設定の似通っていることから来るユーモアの
質の共通性は相当なものと私は思う。義経記の原型がおそらく南北朝
時代に出来上がっていたとすれば、その時点での日本のユーモアの
水準は相当なものなのだが。