ざこね堂・雑魚寝祭について
京都洛北の大原社の雑魚寝や、
神戸市長田の駒ヶ林のざこね堂や、
古きよき、おおらかな時代に、
神仏の前で行われた、乱交について語りましょう。
おおぜいの男女が一堂に集まって,
雑魚(ざこ)のように入りまじって寝る
風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや)
や季節の変り目の行事におけるおこもり
の際に行われた。西鶴《好色一代男》(1682)
に〈今宵は大原の里の雑魚寝とて〉と記されて
名高い大原(おはら)の雑魚寝は,京都大原の江文
(えぶみ)神社の拝殿でかつては節分の夜に行われた。
宵宮は今では本祭の前夜祭のように考えられているが,
本来祭りは神の降臨する真夜中に行われた。東京都府中市
の大国魂(おおくにたま)神社の5月5日の例祭が暗闇(くらやみ)祭
と称されるのは,神輿渡御の際,その道筋の家々が灯を消したこと
による。宇治市の県(あがた)神社の県祭は6月5日(かつては5月5日)
から6日の未明にかけて行われるが,梵天に神移しの儀が執り行われた
後はいっさいの灯火が禁じられる。沿道の家々では男女が雑魚寝して
お渡りを待ち,性的な行いも伴うので,種もらい祭ともいわれた。
静岡県伊東市の音無神社の尻摘(しりつみ)祭として知られる11月10日
の例祭は,暗やみのなかで祭典が行われ,神酒の杯を回すときに尻を
つねって合図するのでこの名がある。一般におこもりとよばれるれる参籠は,
修行僧などが堂宇にこもって神仏に祈願をこめる風習で,9世紀末から10世紀
にかけて始まった。祭りの場でのおこもりは共同祈願のための物忌に服する忌籠
(いみごもり)の祭りであったのが,後に暗やみに乗じて性的行事を伴ったものである。 海泉禅寺
臨済宗 南禅寺派。
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、
慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。
のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。
慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。
のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、
花時には賑わう名所となつていた。が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、
明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に
駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂
の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂
が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂といわれる。
●追記 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔村の阿弥陀堂でその後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
また神戸又新日報 1934.5.1-1934.8.3(昭和9)には、
海泉寺
駒林神社の北に海泉寺がある、本寺は近年公会堂の所から現位置に移転され本堂
は昔駒林大御堂と呼ばれ昔駒林の雑魚寝堂(ざこね堂)を移転したものであって
ほぼ旧形を存するらしい、昔昔一村男女がざこねした堂であるというのは誤りで
仏恩報謝の勤行のため参篭したのを誤り伝えとのことであるとも語られている
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/l_area/60nagata.html
神戸市長田区の伝承行事にも〔ざこねと記されています。〕
神戸市湊部〔枕寺=まくらでら・ざこね堂〕
雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔その後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、その頃
は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑魚寝に用いた枕と
いうのが七八十も積んであったので、枕寺の由縁も、在りし昔の
雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。
中山太郎の「日本婚姻史」
中山太郎の「日本婚姻史」に駒ヶ林の雑魚寝堂〔ざこね堂〕とその行事が
記載されています。 神戸市長田区駒ヶ林にある、
海泉寺は近隣の五ヶ寺が合併し、現在の様な海泉寺になったようです。
海泉寺の震災で倒壊した本殿は諸説有りますが、むかし近隣の漁師町の
若い善男善女が夜を徹し参籠する事が有名な地元の人に愛されたお堂でした。
地元の人々は親しみを込めて海泉寺本殿を「ざこね堂」「枕寺・まくらでら」と呼んだそうです。 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/l_area/60nagata.html
神戸市の行政のHPにも長田区の伝承行事として〔ざこねが記されています。〕
駒ヶ林・阿弥陀堂 長田区駒ヶ林町 寝宿 ざこね 人生儀礼/婚姻 12月31日・1月1日
海泉寺は近隣の5ヶ寺が合併して現在の様になったようですが、
合併したうちの1ヶ寺が阿弥陀堂であって、そのお堂を移築し本堂として利用していたようです。
移転後も近隣の人はざこね堂として親しんでいたようです。 大原雑魚寝について
大原雑魚寝(おおはらざこね)は、節分の夜、京都府愛宕郡大原村井出
(京都市左京区大原野村町)の江文(えふみ)神社で雑魚寝した風習である。
「和漢三才図絵」「山城名勝志」などによれば、江文神社の祭神は天三降霊命化神、
内裏三十番神のひとつとあるが、また一説に倉稲魂命であるともいう。
里伝によれば、むかし井出の大淵に大蛇がいて、おりおり里に出て、
ひとを捕り食らうので村中の男女はひとところに集まって臥て隠れた。
これから雑魚寝がはじまると「大原物語」にはある。
かつて節分の夜、老若男女は産土神の江文神社の拝殿に参籠し、
通夜した。 したがってこの夜はいかなる情事〔性行為・乱交〕があってもみのがしたという。
「にしき木の 立聞きもなき 雑魚寝かな」 蕪村
『日本婚姻史』は民俗学者の中山太郎が著し、昭和3年に刊行された。
著者の中山氏は、岡野知十、柳田國男に師事したとのこと。ネットや
パソコンのない時代に、記者をしながら、膨大な量の本を読み、話を
聞きに方々に旅し、〔神戸市長田区駒ヶ林のざこね堂も調査しています。〕10年
間で2万枚のカードにまとめたという著者の 努力には、ほんとに頭
が下がります。 婚姻だけでなく、各時代の離婚にも触れるなど、細
かいことまで調べられていること、戦後の価値観が入ってくる前に
書かれていることなど、かなり価値があると思われます 神戸市長田区役所のホームページに駒ヶ林の阿弥陀堂(現海泉寺)のざこねが伝統行事としてのっている。ざこね、寝宿。人生儀礼、婚姻。12月31日、1月1日。なんで雑魚寝の意味をかかないんだろ? 新聞記事文庫 都市(12-118)
神戸又新日報 1934.5.1-1934.8.3(昭和9)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00749022&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA&TOP_METAID=00749022
海泉寺
駒林神社の北に海泉寺がある、
本寺は近年公会堂の所から
現位置に移転され本堂は
昔駒林大御堂と呼ばれ昔
駒林の雑魚寝堂(ざこね堂)
を移転したものであって
ほぼ旧形を存するらしい、
昔昔一村男女がざこねした
堂であるというのは誤りで
仏恩報謝の勤行のため参篭
したのを誤り伝えとのこと
であるとも語られている
神戸市湊部
雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。
同村の未婚の男女が毎年節分の夜にここに
集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに始まる。
その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、
いかに神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、
年老いた男が若い女を妻とするのは世の慣わしに
背くというので廃止されてしまったが、今でも節
分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが籠
ることになっている。こうすると安産だと言われている。
筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、
その頃は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑
魚寝に用いた枕というのが七八十も積んであったので、
枕寺の由縁も、在りし昔の雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。
駒ヶ林の阿弥陀堂は海泉寺に移転合併して本堂とされました。
民俗学の大家、中山太郎先生が駒ヶ林に調査に行かれているときは、
まだ海泉寺とざこね堂が合併されるまえであったと思われます。
長田区の歴史をまとめた「西摂大観の下」には、海泉寺とざこね堂が別欄に、
記載されています。ざこね堂の欄には、
ざこね堂、駒ヶ林字堂の町にあり、寛政年間創建せしものにて、阿弥陀堂なりしとぞ、
或いはいふ初め堂の成就するに當り村中の男女七日七夜の間、参篭せしより此名ありといふ
由来不詳。
とある。庶民の裏の歴史ゆえに文書にざこねの風習の子細が書かれていることはありえない。
それを詳細にしらべられ、後世に駒ヶ林のざこねの風習をつたえられたのは、
民俗学者の中山太郎先生等の業績である。 記載されている書物によっては諸説あり、
駒ヶ林の大御堂=ざこね堂
駒ヶ林の大御堂=阿弥陀堂
ざこね堂=阿弥陀堂
ざこね堂=観音堂とされている。駒ヶ林には寺院では無いお堂、
観音堂、阿弥陀堂、薬師堂がありいずれでも雑魚寝が行われていた可能性がある。
明治初年には、海泉寺、宝珠寺を残し、慈眼庵、松源庵、松月庵は廃寺され、
海泉寺に合併されている。 現存するかどうかは不明だが、海泉寺本堂前の子育てにご利益のある、
「乳母が石」や、現札所本尊仏の「子安観音」などざこね・雑魚寝
に関わりがあったであろう、遺産が伝えられる。
ざこねの目的の一つである、「種もらい」との関連性がうかがえる。 ★妊娠を目的としたる雑魚寝
古代の雑魚寝の土俗が時の力に駆られて崩壊し、更に他の土俗と抱合して
種々なる変態的の派生を見るようになったが、次に言う妊娠を目的とした
雑魚寝は、その一例として考えることができる。これは「神の申し子」の
俗信を培い、再変して「感生伝説」の源流となった。
山城の国宇治町縣神社
例祭で、神輿が町内を渡御(午前二時頃)する間だけは、神前はもちろん
町中一切の灯火を消す全くの闇(くらやみ)祭だが、その闇黒の時間を利用し、
諸国から集まった多数の男女が旅館または民家に鮨詰めのようになって寝るが、
その折に名も所も知らぬ男女が手が触れ足の障るままに相通ずる。
その結果妊娠した婦人が、神様から子種を授けられたことになるのである。
★子種石、乳母が石、またげ石と種貰い〔他人の精子を貰うという意味〕
摂州の住吉神社の「子種石」や大和奈良の水屋神社の「お×こ石」や、
京都の梅宮神社の「またげ石」なども、その古い土俗に遡れば縣神社の
種貰いと同工異曲のものだと想像される。
摂津の国真上の笠森稲荷(瘡守と付会されて有名な下の病の神)
毎年七月十七日から二十日まで四日間行われる例祭で、子の無い
婦人は夜々尻をまくって河原の石の上に座っていると、
必ず子を授かるというので、大正の時代にも祭礼の後にはこうし
た志願の女性を見かけるとあるが、この子供を授ける神の正体も
大概は見当がつくのである。
下野の国柏倉の金毘羅神社
明治八九年の頃は子授けの神として関八州の流行神となり、
参籠の女性が群集したものだが、子授けの神は天狗の仮面を
被った神官どもであることが露顕した騒ぎがあった
。神の申し子の真相は概して神官の奸計に出たものが多い。
★神戸市長田区の駒ヶ林の雑魚寝も妊娠を目的としたる雑魚寝であると思われる事。
神戸市長田区の駒ヶ林のざこねの風習も、
土地の「子安観音」信仰や「乳母が石」信仰から見ても察せられる様に、
快楽を求めるだけの祭りではなく、妊娠を目的としたる雑魚寝が本来の目的かもしれない。
子供は本当の父が分からなくとも、村の子供として神仏から授かったとして育てる、そして
共同体としての村の結束力を高める意義があったとおもわれる。 海泉禅寺
臨済宗 南禅寺派。
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は
宝珠庵、慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、
宝満寺の子坊となつた。のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、
更に本山直寺となつた。 慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、
村の経済の都合で廃寺となつた。のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、
一株のサツキが庭一面に枝をはり、花時には賑わう名所となつていた。
が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、
もと長田港の西方にあったが、明治七年火災に遭い
現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。
大正十二年に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。
このとき発見した阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。
この阿弥陀堂が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂と言われる。
修復の如来初公開 震災で全壊の長田・海泉寺
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2003/01/19
長田区の海泉寺で十八日、阪神・淡路大震災で全壊した本堂から救い出され、
修繕を終えた阿弥陀如来像の公開が始まった。三年前に安置した十一面観音
のお参りの日に合わせてお披露目。「被災して地元を離れた人たちが、
里帰りできる機会になれば」と住職らは思いを込める。
同寺は、鎌倉時代に建立された臨済宗の寺院。福原西国三十三番の
第三番札所として知られる。
震災で本堂や鐘楼が全壊し、再建のめどは立っていない。市の指定文
化財にもなった阿弥陀如来像は指などが折れ、京都で修繕を受けていたが、
二年前に帰ってきた。
同像を一般公開するのは今回が初めて。仮本堂に安置され、檀家(だんか)
らが手を合わせた。同区で被災し、京都府や奈良県などに移り住んだ元住民らも訪れ、
懐かしい話に花を咲かせた。檀家の一人、東田千恵子さん(55)は「鐘楼がないから、
大みそかに鐘の音が聴けなくて寂しい。でも、懐かしい人たちに会えたし、
ようやく本尊が見れてうれしい」住職は「お年寄りたちが顔を合わせ、
話ができる場になりつつある。地元に愛着を持ってもらう機会になれば」と話している。
公開は二十日午後八時まで。 木造阿弥陀三尊立像
鎌倉時代
宗教法人海泉寺 兵庫県神戸市
阿弥陀如来立像(像高78cm)
勢至菩薩立像(像高50.5cm) 観音菩薩立像(像高50.5cm)
木造阿弥陀三尊立像
本三尊像は、鎌倉時代初期に活躍した仏師快慶が創作したスタイルである
「安阿弥様(あんあみよう)」来迎三尊の佳作として注目すべきもので、
13世紀の作と考えられる。中尊は快慶の作風と比べると、表情・肉身・
衣紋などすべて穏やかにまとめられ、目が小さく、目鼻立ちが顔の中
心部に寄り気味なのも特徴的である。脇侍像は、ポーズや衣紋表現な
どに動きがみられ、中尊とは作風を幾分か異にする。
阪神・淡路大震災により本堂が倒壊し、本三尊像も被災したため、
各矧ぎ目に離れと緩みがみられ、欠失や欠損部もあるため、解体修理を行う。
ざこね堂〔阿弥陀堂〕は阪神大震災で倒壊してしまったようですが、
ざこね堂の本尊の阿弥陀堂は現存するんですね。
その昔、駒ヶ林の人々はこの阿弥陀様の前でざこね・雑魚寝していたんですね。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、
明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に
駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂
の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂
が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂といわれる。
また本堂が再建されれば、
雑魚寝の阿弥陀様もお祀りされるだろうから、
そのときは、再建された、
本堂が新ざこね堂になるね。 沖縄県のA島では、なんとも奇怪な祭りが行われている。それは通称「種子取り祭」と呼ばれ、
若い男女の営みを参加者に公開する、セックス祭りである。
沖縄県は八重山で最も人口が少ない島”A島”。ここでは、島出身者以外の旅行者では絶対に参加できない
秘祭が行われている。それは豊年祭と呼ばれ、表向きは神を讃える祭りなのだが、特に見物人に対しての制限は難しい。
運良く見物人として参加できても、写真撮影禁止、そして決して祭りを口外にしてはいけないという固い厳守事がある。
一体なぜなのか? それには驚愕の真実が隠れているからである。この祭り、実は裏では
「種子取り祭り」と呼ばれる、いわば公然セックス鑑賞会なのだ。
毎年、過疎化を防ぐために島で選ばれた若い男女が、この祭りの時に、島中の人々が集まる場でセックスを行うのである。
首里王朝に伝わる古の書物には「風俗の乱れこれあり…」と書かれた一説があり、
島では若い女性たちは半ば強制的にセックスさせられ、種付けをさせられるという。
ちなみにもし、島外の者がその場を見物していることがバレると、
島中の男たちから半殺しに遭い、五体満足の体では二度と本島には帰って来れないという。
http://www.naimaga.jp/entry/1/17/0/368/ その若者が見せるセックスの内容はどんなん?きまりとかあんの? 沖縄県は八重山で最も人口が少ない島”A島”=新城島(あらぐすくじま)?
これはひどい捏造。
確かに豊年祭は写真撮影禁止の秘祭だが、過疎化云々は完全な創作。
とりあえず以下参照。
参考スレ
秘められた祭
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1027010437/
138 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:07:45
沖縄、八重山諸島、新城島の秘祭、豊年祭が、先週の木〜金にかけて行われたそうです。
この祭りは島民以外の見学がかなり制限され、撮影、筆記など一切禁止、
カメラをもったよそ者が見つかったらリンチされたりと事件が起こってる位、
秘密で行われている日本民俗学最大のタブーとされてる祭りです。
ここまで徹底的に秘密にするので、人魚と称して子供の肉を食ってるとか、
女を監禁して神様が生まれる儀式として輪姦してるだのおどろおどろしい噂が出てるんです。
まあ、都市伝説みたいなものなんでしょうけど、そこまで隠すからそういう噂が出るんでしょうね。
僕の調べた民俗学者などの資料の限りだと観光客には見せないアカマタ、クロマタ誕生の儀式は
男役と女役の島民が性交をする真似をする儀式があるらしく、
それで神が誕生するとなってるのが見せない、秘密にするので女を監禁して輪姦という噂になったんじゃないかなと思います。
実際、ここで生まれるアカマタ、クロマタという神はポリネシアの神々に非常に近く、
また東北のなまはげの原型とも言われ、南方〜日本と繋ぐ文化のルーツとしてオカルトとしてじゃなく学術的にも興味深いのですが、
見せない事で幻想を守り、興味を引くって意味ではモザイクみたいなものかもしれませんね。 神戸市の長田区のホームページに
駒ヶ林の雑魚寝の紹介に寝宿と有ったので、
★寝宿★の説明です。
結婚前の青年男女が集団で寝泊りする宿舎。
泊り宿、遊び宿、寝屋、寝部屋なども同じ。
男女別々が通例であるが、同宿のものもあった。
専用の建物よりも民家の一室を気のあったツレ、
ドシたちで借りる場合が多かった。この場合は集
会所たる若者宿とは別になる。しかし娘組では娘
宿がそのまま寝宿になる場合が普通であった。
夕食後寝宿に集まり、翌朝起き抜けに帰宅するのが常だった。
寝宿では夜なべも行われたが、遊びに終始してしまうことが
少なくなかった。男女の寝宿どうしの交流は活発で、
これにより恋愛、結婚に至る例も多くみられた。
宿の主人夫婦たる宿親が宿子の指導や監督にあたったが、
また若者たちの自治によって宿生活を運営するのが原則でもあった。
寝宿の分布は東日本より西日本に、農山村より漁村に濃かったが、
明治末年以後しだいに衰退した。 昭和二十年の初めまで、関東から以西の主に沿海部の漁村〔長田区駒ヶ林も漁村〕
に分布する独特の風俗習慣に「寝宿(ねやど)」と言う制度があった。
北日本、東日本ではその存在が希薄である「寝宿」は、地方により「泊り宿」
や「遊び宿」とも言う。
婚姻媒介目的の場合、若い衆は「寝宿」から娘衆の家・娘衆宿・娘の寝宿へ
夜這い(よばい)に訪れ、おおらかに相性を確かめた上で将来の伴侶を選んだのであり、
そのさい宿親と呼ばれる宿の主人夫婦や宿の若い衆仲間達が、助言や支援を行った。
明らかに村落共同体としての合意ルールによる「夜這い」である。
いずれにしても、この制度は「夜這いを容易にする手段でもあった」と言える。
駒ヶ林などの漁村に於ける村落共同体の性意識は「とても解放的」で
、一夫一婦制はあくまでも「建前的なもの」にしか過ぎなかった。
従って、「結婚したから」と言って、その相手を性的に独占できる訳で
はなく離婚も簡単だった。元々当時の農民家には大した家財道具や財産
など無いから風呂敷包み一つ持って家を出れば済むような、「極めてお
おらかな事」だったのだ。つまり歴史的経緯からすると村落社会におけ
る夜這いは、言わば「集団婚の一形態である」と考えられるのである。
「集団婚(群れ婚)」という婚姻形態は、一言で言えば「複数の男と
女がグループ」で婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取狩猟時代
から人類の間で歴史的に長く行われていた。共生の為の「群れ社会」と
言う特別の信用信頼関係を構築するには、特別の間柄が継続して実践証
明し続けなくてはイケナイのだが、そうなると一夫一婦制の既成概念は取り払わなくてはいけない。
言ってしまえば、群れ内は「フリーセックス」と言う事に成る。そして
個別の二つの群れ同士の争いに解決方法は二つ、武器を持って争うか仲
間として合流するかである。個別の二つの群れが平和的に合流するとな
れば、誓約(うけい)の概念に拠る「集団婚(群れ婚)」が、双方を
「特別の間柄」と継続して実践証明する「群れ内フリーセックス」
が現実的だった。
日本では、通い婚が衰退した後も、漁村を中心に若者宿とか寝宿といった場所で、
男女が相手を見定めたり、地域によっては未婚・既婚かかわらず男女が総当たりで
セックスし、男女の性的満足感と、地域の連帯感を高めたのだそうです。
現代の社会では「悪」とか「犯罪」と決め付けられそうなことが昔の日本では普通の
こととして行われ、それにより救われていた人もいたように思います。
現代の日本人として学ぶべきことがあるのではないでしょうか。
入ってすぐのところ、目立つ墓が 3基連なっている。
これは兵庫頭取の若林代々のものである。
順番から行くと一番左の若林銀兵衛が最も古く、
右側面に「弘化四辛未夏建之」とある。残り 2
つの墓はいずれも「明治四十年四月建之」と背面
にあるが、右の若林佐太右衛門が先、若林平蔵は
その後継者である。右の台石には「建立 若林平蔵」
とある。 ここには若林佐太右衛門の弟子である大林
森之助の墓があるが、天気が良すぎるのが災いして、
探すのは困難を極めた。やっとのことで見つけたのが
左下の写真である。彫りが浅く、しかも冬の午前中
の低い太陽を真っ向から浴びては何が書いてあるものやら、
さっぱり分からず…ということで、正面中央に「先祖代々」
とあり、右下に「宗惇居士」、左下には「妙浄信女」と
あるのだが、非常に分かりにくい。大阪では明治37年
1月の関脇を最高に幕内を足掛け12年務めた力士で、
小野川部屋。本名を松本菊松といって、明治 8年に
駒ヶ林で生まれたご当所力士である。
晩年は神戸の新開地で用心棒をやっていて刺し殺されたと伝わる。
大正15年 4月13日歿、左側面に「大林浄機居士」と戒名がある。
30
はざこねとは関係ないけど、
神戸の新開地で刺し殺された、
元相撲取りのお墓も駒ヶ林の
海泉寺にあって、有名だそうです。 ★何らかの思想的宗教的意義の下で行なわれた乱交
性的興奮を高めるため、或いは何らかの思想的宗教的意義の下で行なわれる。
性的快楽をタブーとしない宗教や1960年代のヒッピー・コミューンにおいて
このような関係が見られたが、長期的に継続することはないとされる。
その理由は多々考えられるが、子供が生まれた場合に父親の同定が困難であ
ることが挙げられる[要出典]。道徳的観点の批判も存在しており、個人の主観
によって大きくイメージが異なる。また、当然ながら性感染症のリスクは高まる。
このような性的関係が、継続性をもって維持されることは稀有である。
ただし、性風俗関連では興味をそそる対象として実態以上に喧伝される傾向にあり、
実行せずとも潜在的に興味を持つ人がいることも事実である。
なお、社会規範的には正常な性生活とは認められない場合が多い。
未婚の男女間でも互いを尊重し合う1対1のパートナーシップは一般的
なので、グループセックスへの欲求は異常性欲と見なされる可能性が
ある。
よばいはそこの家族に見つかってはいけないから入れて出すだけのまじわり。 ざこねは一晩中まじわりを楽しむまつり。 事実です。
今では考えられないことですが、
戦前くらいまで農村、漁村の性は
非常に解放的なものでした。 >>35
もう60年以上も前に君も参加したんだろうw
ざこねの時のざこね堂の室内の明るさはどんなんやったんやろ? ざこねする時は、今でいうシャワー浴びたりするぐらいなことすんのかな? 湯川秀樹は原爆の理論をアメリカに売り飛ばした国賊?
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/959e048d053ef72dd26206df5cc05a42
渡部悌治氏はつづける。「(核爆弾の理論的完成をみていたものを)
それを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。
米国は終戦後、湯川の功績を論功行賞としてノーベル賞を授与させている。
日本の利益にはならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。」
これが、湯川秀樹がノーベル賞をもらえた真相である。渡部氏は
「まさに国賊である」と憤る。
>>1
良かったな。まだ香川じゃ残ってたじゃないかw
参加してこいよ。 明治後、特に戦後、西洋キリスト教文化の価値観で村落に伝わる性のしきたりや祭礼を、隠したがり、無かったことにしようとする動きがある。 農村・漁村の乱交、昔は当たり前。隠す必要ない。いやならそう言う風習・伝統ある神社や寺を守るしかくがない。やめろ。 ざこねの歴史を消し去りたい、現代人。ざこねの歴史が嫌ならやめるべし!本尊のざこね阿弥陀がないてるぞ!たたりや!たたりや! 社会的に必要があったからこういうことしてたんだよな
必要がない時代には消滅する
でも、今はけっこう必要な時代だって気もするんだよなw
少子化問題とかいって騒いでるいっぽうで、
大量の喪男や喪女たちの悲鳴が圧殺されてる社会なんだからさ
つい先日も乱交パーティーが弾圧されたねえ・・・ 結婚できない男女、子供を作る事の出来ない夫婦、お金がなくてもセックスを他人としたい、見せたい、見られたいなどマンネリ打破、ストレス発散快楽追求の為昔の人が考えた祭り。それが「ざこね」 顔が良くて背が高く、若くてお金のある人以外は
セックスをしてはいけません!
あと、やせてて、頭の毛もふっさふさであることも条件! 鉄人28号や三國志よりも、ざこね。ざこねで町起こし。ざこねで盛り上がる町に全国から来客。 ざこね「乱交」が伝統行事の町、長田区。くわしくは長田区のホームページを御覧ください。 湯川秀樹って、アメリカに情報ながしてたご褒美にノーベル賞をもらったとか?もらわないとか? 雑魚寝があっても、歌垣があっても、夜這いがあっても、
それでもうまいこと相手を見つけられなかった、
そういう男もたくさんいたであろうことを忘れてはいけない それはあるね。
種もらいの思想で行われた意味もあるから、
いくら生まれてきた子供は村の子供とするといっても、
嫌な男の種はもらいたくないだろうし。
現在、駒が林では旧の村の範囲で地域の親戚つきあい、近所つきあいは
どんな感じなんだろう。 神戸市長田区の区役所のホームページにも、
駒ヶ林のざこねは伝統行事としてしるされている。
ざこねの本尊の阿弥陀を祭る、臨済宗南禅寺派の海泉寺の本堂の再建が
まちどおしい。
ざこね堂の阿弥陀堂が再建されれば、
神戸市長田区の駒ヶ林の伝統行事〔ざこね〕
は再脚光を浴びるであろうし、
神戸市の伝統行事、伝統芸能、民俗学資料として、
ざこねが行われていた事実を盛り上げていかなければならない。
このまま歴史の闇に伝統行事の歴史を埋もれさせてはいけないと思う。
村の子供として育てられた、
ざこねで出来た子供達。
養父である男達も、
実子として可愛がってそだて、
また阿弥陀様のご加護をもらった、
子供として他の子供と分け隔てなく、
育てた。理想の村。旧駒ヶ林村。
村内は一家。
村内みな兄弟。
そういう理想郷は仮想としてはあり得るよなあ。
でも、「是非ともそこに入れてくれぇ!」というやつがいると、
絶対に理想郷にはならないんだよね。
この程度のスレ見ててもそういうやつは確実にいるからなw 夜這いのある村、ざこねの風習のある村は、
村内は一家
村内みな兄弟
だから村単位として結束できる。
村人同士、いろんなことが有っても乗り越えられる。 ヒッピーの理想郷そのものだなあ・・・
今からでも国内の過疎村かなんかでやってみればいいんでねえの? 戦前くらいまでは
町内は一家
町内みな兄弟。
町内以外から来る人も居たそうだけど。
種もらいと、快楽のために。 二葉新地
1945年3月16日の米軍の大空襲により
福原等の遊廓が廃燼と化したため、
1945年5月頃から福原新川(敏馬を含む)
業者50余軒が長田区二葉町5丁目の花街
に遊廓を移転開業した。 業者は移転後
数年間は、当時の繁華街大正筋・六間道
に近いこともあり相当栄えたが、地元の
産業の経済的変動も手伝ってか、
一時300名を数えた従業婦も1957
年4月には業者40軒程度に減少し、
1958年3月中旬業者は解散した。
すぐ南には駒ヶ林漁港があり、
昔は随分栄えたところで、
遊郭の二葉新地や道幅が6間
(10.8 メートル) あること
から六間道商店街と名付けられた。
ざこねの風習が無くなってからは、
遊郭か・・・・・
駒ヶ林はすごいね。 神戸、神戸と皆いてしまう。
神戸狭かろ大和衆で
神戸市長田区番町は、旧糸木村付近に奈良県の○民が
移住して来て膨張した町 神戸市中央区南本町・中山手8丁目・下山手?丁目
長田区一番町・二番町・三番町・四番町・五番町・六番町・七番町
東灘区住吉宮町1丁目〜魚崎西町4丁目
灘区神前町ほか
須磨区行平町
西区玉津上池
長田区弁・番町弁
長田(比較的神戸でガラの悪いとされる地域)でも使わないという人もいますが
長田出身の自分は意味わかりますし使います。底辺でもなんでも結構。
カッサラかいわ、カッサラかいねん(冗談きついわ、うそつくなよ的な意味)
ぐらいガラの悪い言葉使ってれば『あ、長田語…』って特定できそうですが
ヤカるを使う地域なんて広すぎて話しにならないかと思います。
使う人は使いますし、使わない人は使わない 「ぼっかけ」「だぼ」「かっさら」「ごっと」
などは【ジゲ言葉】とか【長田弁】もしくは【番町弁】といわれてる言葉です。
未来に残したい日本語ですね。
もちろん活字にしても雰囲気があります。 長田には番町と呼ばれる地域がある。そして小学生の90パーセントがやくざの息子と呼ばれている。いいすぎ。
いや、確率的にはありえなくもない
異名、ジゲ。ジゲと聞くだけで神戸っ子は少し引いてしまう。
“異名”じゃない。“差別語”です。歴史文献的には“地下”と書く。住んどうとこ知っとって目の前でゆうたら殺されんぞ。
「ジゲ」は番町のこと?それとも一般的な名詞?
「ジゲ」は一般名詞みたい(ということにしときます)。ここなど参。しかし尋ねただけで殺されそうになる話題ですゎ。
三番町が最も怖いという話も。(元 御蔵住人)
隣同様、大阪市以上にドロドロしているかも。 ざこねは高麗返しだけではなく、
近隣の人達にとっても一大イベントだった。 神戸における被差別部落の近世-近代移行期に関する研究は、落合重信『神戸の未解放部落』
(神戸部落史研究会、1968年)以後、ほとんど成果があがっていない。当該期の神戸(兵庫)については、近世以来のかわた村である糸木(番町)、
風呂谷(宇治野・宇治川)の他、明治以降のと畜場移転と関わって形成されたと考えられる新川(生田川)などがあり、移行期研究における重要
な論点を含みながらも、十分な研究の進展をみていないのが現状である。今、改めて近世-近代移行期を検討する場合、神戸開港を基点として、
1890年代後半以降「貧民部落」と認識・位置づけられる町・村々の、近代以降の歴史を可能な限り詳細に追求し、同時に、それと並行する形で
当該期における被差別部落の変化が問われなければならないだろう。そうすることで、開港地神戸の部落問題をより鮮明にすることができ
るのではないだろうか。
明治初期における神戸の都市下層
http://blhrri.org/kenkyu/project/ishin/ishin_00010.html
風呂谷・糸木など、兵庫津との関係の深い、近世以来の部落の実態と変容についてみてきたが、最後に、開港以降急激に発展した
神戸方面の部落・下層社会について簡単に確認しておきたい。幕末以来、干鰯交易の衰退などにより兵庫の市場支配力が弱まり、一方、神戸港周辺では、
開港と身分制の崩壊、インフラの整備に伴って大量の無産者の流入という事態が起こっていた。当該地域ではこれに対応する形で、日稼人足会所、二百
軒長屋といった施設が相次いで設立され、また、1880年代後半には「長屋裏屋建築取締規則」「宿屋営業取締規則」といった法令によるスラム規制が度々
なされている。布川弘は、条約改正を契機とした、1890年代後半以後の大規模なスラム形成を重視するが、1880年代後半には、その第一段階ともいえる
貧民問題への対応があったといえよう。
日本は、大昔は乱交〔ざこね〕の国。らしい。
柳田国男の民俗学の本なんかで読んだのだけど、農村の寺・神社に若い男女が夜中に詰めかける訳だ。で、乱交。
その結果、誰がパパだか分からない子が出来る。 その子を可愛がるうちに、ムラ全体が家族のようになって
「ムラ社会」が安定する、と。
内閣書記官長で文化勲章受賞の民俗学者柳田國男の弟子の中山太郎も駒ヶ林を調査。
神戸市湊部
雑魚寝堂〔阿弥陀堂〕というのがあるが寺ではない。〔その後海泉寺となる〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、その頃
は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑魚寝に用いた枕と
いうのが七八十も積んであったので、枕寺の由縁も、在りし昔の
雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。
また海泉寺には乳母が石として安産祈願の石もあった。
海泉寺ざこね堂は震災で不幸にも倒壊してしまったが、
ざこね堂本尊の阿弥陀は無事であったのが幸いである。
ざこね堂〔阿弥陀堂〕の再建が待ち遠しい。
友だちにざこねの話をしたら
閉鎖コミュニティでの乱交は近親相姦のために知恵遅れや死産が増えて
社会不安を抱えるようになるとかなんとか訳のわからないことを言われたんですけど
どう答えたらいいんでしょう 日本では、通い婚が衰退した後も、
農村・漁村を中心に若者宿とか寝宿〔ねやど=ざこね堂〕
といった場所で、男女が相手を見定めたり、
地域によっては未婚・既婚かかわらず
男女が総当たりでセックスし、
男女の性的満足感と、地域の連帯感
を高めたのだそうです。
一部の農村・漁村では、
「筆おろし」「ヒラキ」と呼ばれる「前近代的」な儀式がおこなわれていた。
精通期の男子をつかまえて、初体験をさせるのである。
一種の通過儀礼といえるだろう。男子が相手を選んだり、
自分の好きにふるまうことは許されない。相手は、
共同体が近所のおばさんや遠い親戚の女性から選択するか、
相手をつとめる女性が「あんたも齢頃だからヒラいたらどうぢやろ」
と声をかけるかして(高倉薫「童貞開きの伝習奇習」179頁)、決定した。
我が国の近代は西洋化の歴史だから、時代が下るにしたがってセックスが禁止されていく。
それと並行的に、男女性別役割が強化され、男性は労働力+兵士となり、女性は家事専従者
になっていく。ここで女性の仕事は、家庭内に限定されていくので、労働者としての役割が
なくなっていく。必然的に良妻賢母が褒めそやされていく。婚外のセックスが否定され、
女性に貞操が要求されていく。誤解しないで欲しい。
戦前の農村では、女性は男性と同様に重要な労働力だった。
だから、農村の女性には良妻賢母など求められなかったし、
彼女たちの活動は家庭内に限らなかった。
農村部には売春婦はいなかったし、女性に貞操が要求される
こともなかった。こうした背景があったので、漁村農村の女性
は自立していたのだ。 神戸市長田区の駒ヶ林の雑魚寝も妊娠を目的としたる雑魚寝・種貰いであると思われる事。
神戸市長田区の駒ヶ林のざこねの風習も、
土地の「子安観音」信仰や「乳母が石」信仰から見ても察せられる様に、
快楽を求めるだけの祭りではなく、妊娠を目的としたる雑魚寝が本来の目的かもしれない。
子供は本当の父が分からなくとも、村の子供として神仏から授かったとして育てる、そして
共同体としての村の結束力を高める意義があったとおもわれる。 寝宿とは。
昭和二十年の初めまで、関東から以西の主に沿海部の漁村に分布する
独特の風俗習慣に「寝宿(ねやど)」と言う制度があった。
北日本、東日本ではその存在が希薄である「寝宿」は、地方
により「泊り宿」や「遊び宿」とも言う。若い衆には「若い衆宿」、
娘衆には「娘衆宿」があるのが普通だが、男女別のものばかりではなく、
土地によって同宿のものもあった。集会場や仕事場としてのみ用いられ
るものは「寝宿」とは呼ばない。「寝宿」は文字通り寝泊宿で、男子
の場合、若い衆へ加入と同時に「寝宿」へ参加するものと、「寝宿」へ
加入する事が、逆に若い衆組への加入を意味する「形態」とがある。
娘衆の場合、集会としての娘宿は多いが、寝泊宿の例は比較的少なかった。
たとえ、寝泊宿があったとしても、いずれにせよ、一つの寝宿に
兄弟姉妹が同宿する事は避けるものであった。
寝宿の機能は、「婚姻媒介目的」と「漁業目的」
の二つに大別され、双方を兼ねる場合もある。
婚姻媒介目的の場合、若い衆は「寝宿」から娘衆の家・
娘衆宿・娘の寝宿へ夜這い(よばい)に訪れ、おおら
かに相性を確かめた上で将来の伴侶を選んだのであり、
そのさい宿親と呼ばれる宿の主人夫婦や宿の若い衆仲間達が、
助言や支援を行った。
寝宿とはA
つまり、明らかに村落共同体としての合意ルールによる
「夜這い」である。いずれにしても、この寝宿制度は
「夜這いを容易にする手段でもあった」と言える。
したがって結婚すれば寝宿から卒業する地方もあった。
一方、漁業目的の場合は、寝宿から夜間の漁に出たり、
寝宿に宿泊して遭難、災害、紛争(他の村落相手)
等の非常時に備える現実的な目的(今で言う自警団)があった。
「寝宿」としては、一般に新婚夫婦のいる家屋の一部屋
を利用するものが多いが、漁業に関係した「寝宿」は
網元の家が用いられる事もあつた。
また寝宿専用の家屋が常設されている地方もあった。
こうした慣習が、関東以西の広範囲に大正末期までは
顕著に続けられ、その名残は、地方によっては村の青
年団や消防団などがこうした習慣を継承して、
昭和の二十年代初めまで続いていたのである。
長田区の伝承行事
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/entertainment/l_area/60nagata.html
駒ヶ林・阿弥陀堂〔海泉寺〕 長田区駒ヶ林町 寝宿 ざこね 人生儀礼/婚姻 12月31日・1月1日
えーと、要するに現代で言うとクリスマスイブにホテルみたいなもん? 来年の大河ドラマは平の清盛。
神戸の隠れた伝統芸能
駒ヶ林の阿弥陀堂の寝宿・ざこねの風習にも
スポットライトを当ててほしいです。 今の時代
大々的にざこねをしようとすると参加者は「公然猥褻罪」主催者は「公然猥褻罪幇助」に問われる可能性がある。 本日発売の週刊ポストに、夜這いの特集があった。
駒ヶ林のざこねの事についてもふれてほしかった。 神戸市長田区駒ヶ林にある臨済宗南禅寺派の寺院
宝珠寺(通称・サツキ寺さつきでら)海泉寺(通称・枕寺まくらでら)(雑魚寝堂ざこねどう)
大原雑魚寝について
大原雑魚寝(おおはらざこね)は、節分の夜、京都府愛宕郡大原村井出
(京都市左京区大原野村町)の江文(えふみ)神社で雑魚寝した風習である。
「和漢三才図絵」「山城名勝志」などによれば、江文神社の祭神は天三降霊命化神、
内裏三十番神のひとつとあるが、また一説に倉稲魂命であるともいう。
里伝によれば、むかし井出の大淵に大蛇がいて、おりおり里に出て、
ひとを捕り食らうので村中の男女はひとところに集まって臥て隠れた。
これから雑魚寝がはじまると「大原物語」にはある。
かつて節分の夜、老若男女は産土神の江文神社の拝殿に参籠し、
通夜した。 したがってこの夜はいかなる情事〔性行為・乱交〕があってもみのがしたという。
「にしき木の 立聞きもなき 雑魚寝かな」 蕪村
おおぜいの男女が一堂に集まって,
雑魚(ざこ)のように入りまじって寝る
風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや)
や季節の変り目の行事におけるおこもり
の際に行われた。西鶴《好色一代男》(1682)
に〈今宵は大原の里の雑魚寝とて〉と記されて
名高い大原(おはら)の雑魚寝は,京都大原の江文
(えぶみ)神社の拝殿でかつては節分の夜に行われた。
宵宮は今では本祭の前夜祭のように考えられているが,
本来祭りは神の降臨する真夜中に行われた。東京都府中市
の大国魂(おおくにたま)神社の5月5日の例祭が暗闇(くらやみ)祭
と称されるのは,神輿渡御の際,その道筋の家々が灯を消したこと
による。宇治市の県(あがた)神社の県祭は6月5日(かつては5月5日)
から6日の未明にかけて行われるが,梵天に神移しの儀が執り行われた
後はいっさいの灯火が禁じられる。沿道の家々では男女が雑魚寝して
お渡りを待ち,性的な行いも伴うので,種もらい祭ともいわれた。
静岡県伊東市の音無神社の尻摘(しりつみ)祭として知られる11月10日
の例祭は,暗やみのなかで祭典が行われ,神酒の杯を回すときに尻を
つねって合図するのでこの名がある。一般におこもりとよばれるれる参籠は,
修行僧などが堂宇にこもって神仏に祈願をこめる風習で,9世紀末から10世紀
にかけて始まった。祭りの場でのおこもりは共同祈願のための物忌に服する忌籠
(いみごもり)の祭りであったのが,後に暗やみに乗じて性的行事を伴ったものである。 【仙台市】
大手門の大六天神社 木製男根 仙台市青葉区大倉大手門
上愛子(かみあやし)の道祖神社 木製男根 仙台市青葉区上愛子字中遠野原
齋の道祖神杜 木製男根 仙台市青葉区栗生6-5
下愛子の道祖神 石製男根 仙台市青葉区落合1-2
郷六の道祖神社 木製男根 仙台市青葉区郷六字久保
実沢の道祖神 木製男根 仙台市泉区実沢字道祖神
古内の道祖神社 石製、木製男根 仙台市泉区古内字入山田
糺・加茂神社の男根石 石製男根 仙台市泉区古内糺1
福聚院の道祖神 双体、木製男根 仙台市太白区門前町8-22
鹿野八幡神社の男根レリーフ 男根レリーフ 仙台市太白区鹿野本町17
北赤石の道祖神社 木製男根 仙台市太白区茂庭字小塚西
秋保長袋・佐藤宅の石棒 石棒 仙台市太白区秋保町長袋字石神
出羽の国の山寺
毎年七夕の夜に麓の町村の男女が
登山し、民家に宿り枕席を共にする。
またこの奥の最上川の辺りにめたくた
村というのがあり、常に男女が往来寄
宿する。めたくたとは滅多苦多という意味である。さらに、寛政の頃に書かれた書物に、山寺に近いさばね峠も古くはざこね峠と称していたとある。