>>587
>君の認識している世界はあくまで君だけの世界で、他にイコールなものなんぞ無い。
ちょっと意味がわからなかったが、「この世界は君の認識とイコール」を「俺の世界と君の世界がイコール」と読んだ?
徹頭徹尾、「君」の主観に視点を置いたつもりだったんだg.

というか、一段落目は皮肉なのだから、そこにだけ反論されても、反論になってないぞ。

>科学と言うのは、その限界を弁えた上での信仰でしかないと言う所に立脚してる。
「切っていて涙がでるのはジャガイモじゃなくて、玉ねぎだよね。なぜ?」という問に対し、
「人間は自分の認識の範囲でしか世界を認識できないから、玉ねぎで涙がでるんだ」とか言っても意味が無い。
そりゃ玉ねぎで涙がでるってのも、「人間の認識の範囲内」の話だが、玉ねぎの話をしてる時に、そんな話をしても何の意味もない。
情報の保存則もそれと同じ。経験科学の蓄積の中で確立された理論の話に対してドヤ顔で
「痕跡のあるものしか認識できない」が故に、「情報の保存則」は必然とか言っても全く意味は無い。

>三原色で視覚情報を認識しているほとんどの我々にとって、四原色の瞳を持つ人間の視覚世界を認識出来ないのと一緒だよ。
クオリア=現象的質については、わからないように思われる(実際には、この考え方は哲学では批判もあるので、そう単純ではないが)
ただ、主観的な現象の「質」の差異は、意味(志向的や命題的な性質)を担っていないことも重要。
「私の赤」と「あなたの赤」が同じじゃなかったとしても、別の「赤」を意味してはいないし
「私の赤」と「あなたの青」が同じだったとしても、それは同じものを指している事にはならない
そういう意味においては、主観的現象世界は、その認識世界の差異を意味しない。

さらに言えば、”三原色と四原色の認識の違い”自体が経験的知識に基づいてはじめて提出できる種類の思考だ。

>認識不可能=非存在ではない。
「認識不可能=非存在」とも「認識不可能=非存在ではない」とも原理的には言えないよ