【道祖神】路端の石像【地蔵様】
>>284
亀レスだが、単純にそういうわけでもなさそうだぞ
新谷たかのりが言ってたわ 今日は庚申だな
庚申待ち18回で庚申塔を建立するらしいけど、これって3年弱に一度ってことだし、結構な頻度だよね。じみに経済的負担が多い気がする。 庚申講ってどんな人達のあつまり?
太子講とか報恩講みたいな檀家つながりでもないし、
とび職が秋葉や古峰の講を作るみたいな、職業つながりでもないし、よくわからん。 神話のようにネットで金が入ってくるらしい方法
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
FHAV7 サイクリング中にふらりと。お寺の中にありまくが門にも綺麗なお地蔵さんがあります。
https://i.imgur.com/pVgxJ2T.jpg >>301
建立は昭和15年らしい
東京・谷中の安立院 すげえ、イノシシに乗っててどう見ても摩利支天なのに、胴と兜の法輪は地蔵というひっかけ
案外台座や背中にも梵字とか彫ってありそう いろいろと役に立つパソコン一台でお金持ちになれるやり方
役に立つかもしれません
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
9TY 京阪は地蔵信仰は盛んでちょっとした辻堂も多いけどけど道祖神ってあんまないね
道標石は多いのに 新暦で実施する地域だと今日は地蔵盆か。
道祖神まつりは小正月、地蔵盆はお盆の翌週くらいで実施する時期も正反対だな。 @関東
道祖神は滅多に無いけど(全く無いわけでは無い)、
道標を兼ねたお地蔵さんや念佛塔や馬頭観音とかが今でも道路沿いに残ってる
昔はもっと建ってたはずだから、それゆえ道祖神の出る幕というか必要性が無く定着しなかったんじゃなかろうか 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! クスバエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 地元の地蔵はむかしむかし悲惨な亡くなり方をした人を奉って建てたと伝わっている >>295
江戸時代以降の信仰なら庚申塔や講のときに飾る本尊や掛け軸である程度講員の分類ができるし
地域性もはっきりしてる
三猿や青面金剛を祀ってるなら天台宗系が多くて、サルタヒコなら神道系、帝釈天だと日蓮宗特に中山門流系(お題目付きならほぼ確実)の講のことが多い
もともとは天台宗系のが主流で全国各地にあるけど、寛文年間に山崎闇斎や橘三喜が神道に庚申神道を取り込む時に猿田彦引っ張り出してきたのが神道系
これは九州の筑後から北肥後あたりに集中的に分布
日蓮宗は江戸時代に宗論が禁じられたせいで祈祷や行事を通じて現世利益を全面に出した布教を行っていたけど、
この流れの中で江戸で流行っていた天台宗系の庚申信仰を取り入れたのがはじまり
中山門流の柴又帝釈天が何度かの江戸での出開帳で大当たりしたおかげで教線の拡大に成功
柴又から船橋にかけての太日川沿いと何故か三浦半島に多い >>311
天台宗系と限定するのは?
本山派や出羽を含むとしても、真言宗や当山派もやっていたし
何なら浄土宗も曹洞宗も臨済宗も対応していたぞ(これは後発と思われるが)。 >>308
サエノカミと地元で呼ばれている場所に、いわゆる道祖神が無いことはある。 >>312
すごい言いがかりを見た
多くてとか主流でと書いてる時点で限定はしてはいないだろ
それとも君は真言宗などが庚申信仰の中心だと言いたいのかい?
青面金剛はもともと道教の神で日本には円珍が持ち込んだもんだし、三猿信仰が山王信仰と関係深いのを踏まえればメインストリームが天台宗というのを否定する方が難しいだろ >>314
言いがかりではなく、率直な疑問なだけ
青面金剛を円珍が日本へ持ち込んだ?
不勉強にて初耳です。エビデンス的なものをご提示願いたく。
是非読んでみたい。
最新の研究を知らないが、日本渡来当初の庚申信仰を広めたのが仏教なのかどうかすら確定していないのでは。
初出史料を神亀元年十一月庚申日の宴(続日本紀)とするならば最澄以前。
三猿が山王信仰由来というのは仮説じゃないですかね。
しかも三猿は庚申信仰の歴史としてはさほど古くない。
三重県にある永享十二年銘の三猿塔が石造物としては異例の最古ですが、これは宗派が不明。
一昔前まで最古とされていた茅ヶ崎の三猿塔は真言宗寺院にあり、付近に天台の寺は無い。
二猿であれば日吉山王信仰由来と見て良いのだろうとは思います。
ただ、山王と庚申に密接な時期があったのは確かですが、その山王信仰が天台かどうかはっきりしないんですよ。
山王社はとにかく多い。1つの村に3つ4つあることすら(天台寺院も本山派寺院も無い村で)。
中には山号が山王山なのに曹洞宗(天台だった時代はない)なんて寺すらあります。
別に庚申信仰のメインストリームが天台でも良いのですが
そう断定できるものなのか?というだけですのであしからず。
こんなやりとりをこの板でやれるとは思ってもいなかった。 庚申信仰の初出史料が神亀元年十一月庚申の宴?さすがに冗談だよね?
君が言うのは「十一月庚申。召諸司長官并秀才及勤公人等。賜宴於中宮。賜糸各十絇。」だろうけど、これは偶然に宴の日が庚申の日だっただけ。
この十一月に(事情がある場合は前倒しで)宮中で宴を催してその際に官人に糸や綿、布などの禄を下賜するのはこの時代の通例で毎年の話。
神亀二年には十一月己丑に「即引文武百寮五位已上及諸司長官大学博士等。宴飲終日。極楽乃罷。賜禄各有差。」とある。
神亀三年には九月壬寅に「文人一百十二人上玉棗詩賦。随其等第。賜禄有差。」とあり前倒しで詩歌の会を催してから十月から行幸に出てる。
神亀四年十一月己亥は「是日賜宴文武百寮已下至使部於朝堂。五位已上賜綿有差。累世之家嫡子、身帯五位已上者。別加絁十疋。」
きりがないからこれくらいでやめておくけど、神亀元年十一月庚申の条を庚申信仰の初出とする根拠はない。
庚申の宴だと言うなら次の庚申の日に当たる閏正月にも同様の宴の記録があるはずだけどそんな記述ないよね?
青面金剛に関しては鎌倉・南北朝時代時代の渓嵐拾葉集が出展。
室町期以降に書かれる庚申縁起にもしばしば同様の内容が出てくるので庚申塔の出現する中世期には受け入れられてたと見ていいと思う。
やっぱり出てきたかという感じの茅ヶ崎の三猿塔だけど、応永年間に上杉憲実が出した、懐島氏に比叡山領の横領をやめるようにいう書状があったりする。
少なくとも茅ヶ崎周辺に関しては天台寺院の存在は強く否定出来ないと思うよ。
それに山王社があるのに天台寺院がない集落があるなんて言われてもそうですかとしか言いようがない。
そんな印象論による誘導されてもねえ。
ただ中世の庚申塔だと青面金剛も猿も阿弥陀や地蔵などと比べて優勢ってわけでもないのでちゃんと論をまとめられると面白いと思うよ。 ああ、これは怪しげな本を真に受けて孫引きしてるだけで続日本紀なんて読んですらいませんわ
したり顔で書き込みされたせいで原典チェックさせられた方こそ災難だ
ネットでエビデンス出せと騒ぐ奴に限って自分の主張がとんちんかんだという好例だわな >>316
書き方が悪かったか。
神亀の条については、「とするならば」と書いたので仮定と理解してもらえるかと思った。
窪氏が史料から抽出した資料にあったもので、続日本紀は該当部分はチェックしたが、前後は読んでいない。
お手間をとらせてすんませんでした。
窪氏も、あくまでも可能性、としている。
疑いなく初出とできるのは円仁の日記になるのでしょうね。
あの記述は、当時の日本で中国由来だと認識されていなかった程度に普及していたとも読めるので
国内の坊さんの日記があれば、838年以前に庚申待をやったことが確認できるのでしょうけれど
さすがの窪氏もそこまでは調べ切れていない。
渓嵐拾葉集。必ず読みます。
庚申縁起はいくつか見ていますが、江戸時代の写本(翻刻)を数冊のみ。
中世の作成が確実な庚申縁起は読んだ事がない、というか目にできても読めないが。
もちろん儀軌に青面金剛についての説明があるのだから、登場していて違和感はありません。
茅ヶ崎の懐島界隈に叡山領があったと。
そこまでは調べてなかった...。
境内に、昔は近くの禁足域にあった山王が移されていて、なぜこの寺にあるのか質問した所、さあ、と言われてそれきりだった。
叡山領を示す山王社だった可能性は、ありそう過ぎる。
長過ぎてNGくらったので分ける >>316
続き
天台系がない村にも山王社が多いというのは、事例がありすぎるのだが
例えば足柄上郡赤田村。山王社が4宮。寺は曹洞宗1寺のみ。
ただ、足柄の上下郡は小田原に本山派の大先達があったので影響を無視はできないけど。
山王については地名レベルだと山の中の小字というか、地元呼称の地名になるといくつあるのか判らないくらい。
探せば石祠が見つかる事もあるが、山神と同一視されているようなので
文字面上の混同か、江戸の日吉山王祭がメジャーになりすぎていたので、その影響などを想像していますが、
いつからその地名を、などは調べようも無いものの、これは天台とは無縁なものが大多数だろうと。
庚申塔と宗派については興味のある所ではありますが
現存最古とされる文明3年塔があるのは日蓮宗寺院だが、種字バイ(ベイ?)なので
そもそも日蓮宗で種字を使うか? ベイ主尊だと古い天台系庚申塔にあるが、とか
解読するにはまだ知識が不足し過ぎているのが現状です。
中世の庚申信仰物に猿がいるのかどうかは知りません。
石造物は「申待」をどう見るかですかね。
ただ、中世の絵図や掛仏の類いに猿がいたらかなり嬉しいw 天台系がない村にも山王社が多いという事自体を否定するつもりはないが、それだけでは説得力が弱い。
庚申信仰と山王信仰の関係を否定的にせよ論じるならちゃんと個別の事例を検討しないとならないし
それをしないなら印象論以上にはならないよ。
たぶん大庭御厨の印象が強すぎるせいだろうけど、茅ヶ崎の話でも14世紀半ば以降の急速に荘園の解体が進み15世紀になると神宮の支配の実態が無くなるあたりの細々した話を見落としてる人は多いし。
あと法華曼荼羅なんかが典型的だけど、日蓮宗も種字は使う。
ただ実相寺の所属する中山門跡は南北朝以降に門流離脱したり天台や真言律とつるんだり門跡復帰したりしてるんで
確実に日蓮宗のものかと言われると断言はしにくい。
同時期に旧入間川流域から緑泥片岩いわゆる秩父石の板碑が大量に出てきてるんで
そっちと合わせてみたほうがいいんだろうけど、
足立の文明十五年癸卯十月十五日銘庚申待供養板碑なんかは寺に安置されてたわけでもないし来歴不明すぎるし
現時点では室町時代の話はちょっと難しい気がする。 >>320
山王信仰と庚申信仰が密接だった時期があるのは確実で、そこを否定はしていない。
どういう経路でそういうことになったのかを知りたいと思って、ちまちまと調べてます。
また、山王を広めたのが天台系のみだとすると、前述のようにおかしな事例が(状況証拠にすぎないが)多々。
山王山の山号なのに天台ではない寺がいくつかあるので、質問してはいるが住職は知らんし。
だらだら書くと愚痴になるので中止。
渓嵐拾葉集。読み始めましたが、気になるネタが多過ぎてなかなか進めないw
荘園時代は完全に意識外でした。
古くからある社は荘園と関係あると気がつかされました。ほんと感謝してます。
実相寺。もともと寺は都内にあったとかで、緑泥片岩の方は近くから出たもの
とか教えられたことがあるのを思い出しました。 一応報告だけしておく。
青面金剛法の解説の最後の方に以下があって、これが典拠とされているらしい。
此法相傳事 師示云。此法者。山門東寺其ニ根本ハ無之。
智證大師許傳來給ヘリ。仍三井流祕法ト習傳タリ。
然而當世ハ山門ニテ傳持流布セリ 云云
興味深いのは山門東寺其ニ根本ハ無之かな。
叡山にも真言にも根本経典が無いと書いている。
書かれた時点で東寺の名が出て来るのは、東密もやってた可能性は否定できない。
もちろん主流は三井寺で記録時点では叡山も流布でいいのだろうけど。
ただ、念のため智證大師の請来目録を調べたが記載されていなかった。
渓嵐拾葉集は1311~1358に書かれているようなので、智證大師が帰朝してから
大雑把に500年近いので、その間に秘法が作られちゃった...は穿ちすぎか。
何にしても渓嵐拾葉集、面白かった。 「千と千尋の神隠し」で最後の方で両親の車がぶつかった石碑が道祖神っぽい。禁忌の場所としてしめ縄飾りがありまつろわぬ民の不浄霊がいる所に見える。平安期以前は仏教徒ではない村。 円珍とか言う空海の甥にして五代目天台座主、寺門の創始者という属性過多な困ったちゃん
でも一番の特徴は頭のかたちがおかしいこと 道祖神とドンド焼き(左義長/サイト焼)の関係がさっぱりわからぬ。 歳の神=どんど焼き、賽の神(道祖神)=道祖神祭り、って無理やり分けて考えると分かりやすいかも
芦ノ尻/野沢温泉/道祖神あたりで調べてみ うん。俺は長野県民だが、たんに語呂が似てるから一緒くたになっただけ(元々は別の神様で無関係)では?と思ってる
お偉い研究者様がたがどう考えてるかは知らんw
真実はわからんが、混同されたり形を変えながらもこうした信仰や行事がなんとか残ってるならば嬉しいものだ どんど焼きを食べる祭りだから祭りの名前もどんど焼きなんだぞ どんど焼きってどこ方言なのだ
神奈川民はセート焼き(さいと、せいと、さえと/焼きを省く方が多い)だったのに、いつのまにか
どんどが襲って来て、昨今は左義長(京都勢)がでかいかおしつつある。
中央集権の支配の歴史を見ているようで気分が悪いw 左義長(どんど焼き)の時、道祖神を火にぶっこんでる所って多い? >>330
神奈川県鎌倉市海側だが、この辺は40年くらい前にはどんど焼きって言ってたな
新興住宅地と村が入り乱れてる辺りで多分近い藤沢や気持ち内陸の深沢や山崎とかもそんな感じ >>332
そのエリアも60年前はセート、サイトだったらしいんだよ。
もっと古くなるとオンベ焼きとも呼んでた。 >>330
元禄元年の法度書きに「正月十五日さきてう焚并祭の神焚」を禁じるお達しがある。
「さきてう焚」は左義長のことなので、幕府としてはそれで全国に通用する言葉と見なしていたと想像はできる。
ちな鶴見(横浜市)の名主あたりの家が持ってた文書。 延宝年間の「仮名往来」に左義長の解説があるらしい。
要約すると
漢の明帝の代。仏書が渡り、道士が訴えた。
そこで、左に仏書、右に儒書を置き火をかけると儒書は焼けたが左の仏書は焼けず。
これをもって「左の義、長ぜり」と仏法の義が勝り東土へ流布す。 石仏の写真撮ってたら、撮るなと怒鳴られた
地元が大切に祀ってるからというのが理由らしいが
その割に石仏は倒れて半分埋まってた 路傍の石仏につけられた解説書を読んでると、昭和に書かれたであろうものには
道祖神と結びつけてるのがやたらとある。
古っwと失笑してしまう お地蔵さん、道祖神、塞の神、クナトの神、道饗祭、八衢、皇御孫之命、サルタヒコ、サカ
村の辻々にあり地蔵盆を行う
関西では一番広く信仰されている ここの住民ってなんだかんだで意外と史料読み込んでるな お地蔵様に非常に不快なイタズラをしている北九州のガイジYouTuber
これは器物損壊だろ
https://youtu.be/MgUpCxKyjHs 江戸時代は脇往還だが小規模な宿場として取立てられ
明治以降はうまいこと地場産業が成立できて昭和中期(戦後)までそれで栄えた土地
そんな町の旧街道沿いに古くから続く商店で聞いた話。
宿場だったので江戸時代は飯売旅籠が、明治以降は工場もできて人が増え色街があった。
そういう所の女衆が拝んでいた石があって今もうちが管理している。
その場所は表通りからは見えない、商店と商店の隙間にある小さな稲荷で
一坪ほどの境内のすみに小さな石祠と庭石のようなものもあった。
石祠が先代でそれを拝んでいたのかと訊くと
いや、拝んでたのはその丸い石だと庭石のようなものを指した。
その石は自然石だが中央に立て長のシワが入っていて、いわゆる陰石になっていた。 色街に稲荷があって女郎達の病除け祈願がなされていた事例は少なくないが
陰石が祭祀対象だったとは思いもよらず
案外、見逃されているだけで、笠守稲荷とかの境内にもあるのではと思ったのでした。
余談だが、戦前までの色街に作られた稲荷が今も残っていることはあるが
今の色街って、こういう祭祀対象は無いのだろうか 昭和中頃まで花街だったという所へ行ってみた。
村の鎮守から50mと離れていない街道筋で渡場の手前300mくらいが花街だったらしい。
鎮守は近いものの、花街の女達が拝みに来ていたような雰囲気がない。
鎮守の街道に面した場所に丸彫りの如意輪があったので、これか?と思ったが
ボロボロ過ぎてどうもそぐわない
そこでさらに捜してみたところ、花街の外れに別の神社が2つあった
風土紀犒などに載っている江戸時代からの小社は全て明治期に鎮守へ合祀されていることと
名前が大鷲神社と白子園神社という、花街らしい色っぽさがあるので間違いなかろう。
白子園は由緒不明だが、大鷲(おおとり)は関東だと吉原のおとり様が有名で花街にはわりと勧請されている。
残念ながら陽石や陰石は無かった。 道端で見つけて気になったのですがこれって道祖神?菩薩像?馬頭観音?
何なのでしょうか。
前面も側面文字も読めず詳細がわからないのですが。
https://i.imgur.com/BgS2gbZ.jpg >>351
正面は「先祖代々之精霊」「家内 安全」
側面は「施主大島□□□」「大正十一年三月」
ということで彫像は大島家の氏神か守本尊かなにかだろ 平塚の花街だった場所に残る大鷲神社へ行ってみた。
江戸時代の平塚はしょぼかったが、明治以降は駅と工場が誘致できたおかげで
爆上げし、花街は数カ所できていたらしい。
大鷲神社があるのは東海道沿いにあった飯盛旅籠が一ヶ所にまとめられた花街。
業態は貸座敷屋で江戸時代とはだいぶ変わってたが、屋号が続いている店もあり、
その1つの店が造立した丸石文字道祖神塔があった(大正の震災前)。
これに縦線とか入っていれば>>348と同じだが、ただの丸石だった。
よくわからんわ、花街の店連名ならともかく、単独で道祖神を建てるのは何故なのか。 中世末期、埼玉の土豪に道祖土(さいど)氏ってのがいたらしい。
今も子孫はいるようだが、この一族が施主になった道祖神があったら面白いのに。 >>353
その店の由来が周囲と違うからでは?
静岡東部から西湘あたりの商家などは甲州からの移住者がポツポツいるし。うちの近所の魚問屋も武田から北条に嫁いだ姫様についてきた商人が小田原でアワビの仲買を始めたのが創業らしいけどそこの屋敷神は丸石だし >>355
小田原は丸石を祀ってる祠がいくつかあるね
ただ、小田原の資料を軽く調べた範囲だと丸石は神籬の役目で置かれているという印象だった
それと文字情報だと「丸石」と表現するしかないが
甲州あたりの丸石は本当に丸いよね
>>353の丸石は河原石的な楕円形というかオニギリ型というかで、サイズの大小はあるが関東信越以北ではよく見るタイプだった >>359
狸合戦の?
ちょっと唐突な気もします。 >>358
横着しないで全ての文字が読み取れるような写真うp >>361
見つけた時はカメラもスマホも持ってなくて、家からも遠いので横着しました、どうもどうも。
でも、ホントに横側や裏を見ても何もなく、“金“しか刻まれてないんです。 いや、金の下に明らかに平らに加工された部分があってなんか書いてあるでしょ
水って文字が明らかに読めるぞ う〜ん、僕にはよく見えないけど、たしかになんか不自然な形してますね。
もう一遍行ってもいいんだけど、前に“妖怪ハンターごっこ”と称して近所のサルタヒコの石像をスマホで撮ったら
ナゾの頭痛に悩まされて、神職さんにその話をしたら、写真なんか撮ったらいけないってクギをさされたんです。
だからどうも写真うpは気が進みません。いつか現地でもう一度確かめて、何か進展があったら報告します。
地元の教育委員会に郷土史家を紹介してもらうとか、何か方法はあるかも。 横からすみません
子供の頃、奈良に行った時道路真ん中に転々と百葉箱みたいな
中に何か奉ってあるものがあったのを覚えてますがあれって何ですか? >>370
論じたいことがあるなら自分で書け
なんでお前のために他人がわざわざ文章作ってやらにゃならんのか 路傍の石像は田舎だと信仰面が大きいんだけど、都市部だと実益的な面もあるよね
例えば迷子石(迷子みしるべ石、奇縁氷人石)と呼ばれる石柱は上部に仏尊が彫られその角柱の左右にたづぬる方、をしゆる方と書かれそこにそれぞれ名前や特徴、目撃情報などを記した紙を張っていた。都内だと浅草寺や湯島天神に現存するけど、寺社だけでなく繁華街の道沿いにも設置され人探しに利用されていた。現存する例としては八重洲の一石橋迷子しらせ石など
関西方面だともっとすごくて迷子探しどころか店の求人や縁談募集などまで貼り出す奇縁氷人石が繁華街に置かれてたとか 道標石も信仰関係なしにしばしば地蔵とか観音とか彫ってある 江戸幕府はしばしば町奉行所に町名主集めて迷子の保護と送還を命じていたりとわりと真面目に対策してるんだが迷子石の新設には否定的。数が増えると確認のために多くの場所を回らねばならず利便性が低下するのを嫌ったようだ 江戸の迷子は現代の迷子と違って大人も含むからな
奉公先から発作的に逃げ出して本来なら無宿人になるのを迷子扱いにして穏便に済ますなんてこともあったし 来訪神や去来神とは違う、どこから来たのか、どこへ行くのかもわからない、
出自や帰属が不明の、「はぐれた神」「迷い神」「さまよう神」ってのは
いるのかな。トランプのジョーカーみたいな「謎の神」。