>その写本があっちこっちの寺に○○寺版てな感じでたくさんあって、

古事記の諸本は現在三十二本あるけど、「〇〇寺版」なんていう言い方はしないよ。

>それぞれ相互検証できるから、誰かが勝手に書き換えてたらバレバレなんだよ。
この点はおっしゃる通り。主だった諸本は『諸本集成古事記』で確認できるから、一目瞭然です。
それを見る限り現在伝わる主要な写本の段階では、単純な人為的なミスを除けば「書き写した人がどさくさまぎれに手心を加えて、付け足しなり改竄なり神話の作り替えをした」例というのは確認できない。
但し、真福寺本・兼永本の祖本の段階でどうだったかというのは判断できる材料がない以上「何とも言えない」。

>写本って言うけど、よーするに寺の坊主が字を覚えるための教本とした結果でしかないから、
>基本そのまんま。

古事記の写本が成立した動機というのは、字の練習という内容に関しての積極性を欠くものではなかった。
寺社における書写はやはり神仏習合下にあった信仰に支えられていたはずである。
従って、特に真福寺本なんかは「お経を書写する」ような態度で書写されたのだろう。
もっとも字は雑だし字句の間違いはあるけどそれは単純な人為的ミスである。