日本の初代天皇は始皇帝を騙した徐福!?
徐福が連れてきた武人や技術者ら大人たちは船が沈没かお互いに殺し合いになり滅んだのでしょう
すでに先住の渡来系もいたでしょうし 技術レベルは後退してしまいました 渡来人同士で争ってしまったのです 秦が滅ぼした楚や斉からは、大陸内は無理なので船で逃げ出した有力者の一族もいたでしょうし・・・
彼らが先に来ていれば徐福など皆殺しですわ 徐福は正式に始皇帝の物資・資金援助を受け、工員など技術者をも引き連れ、格式も高く、秦国王家のミッションを果たすべく、最高水準の技術レベルの集団として準備万端で日本に乗り込んだと思われますし
徐福集団が来てその先進的な技術が南北九州で伝搬していれば、数百年後の卑弥呼の時代には少なくとも平地の住民は竪穴住居ではなく、一般の農家でも高床式の住居に住むとかしてたのでは・・・ 徐福の何百年も前から海に逃げて海流と風のタイミングが上手くいって九州に流れ着いた
中国沿岸部の諸勢力の遺民が何度も流れ着いてることだろう。
殷の時代の九夷、周の時代の東夷、徐、春秋戦国時代の呉越。
一度に数人から数十人規模の漂流で先住民に滅ぼされたり同化しながら
3000年前から2000年前の千年間で実力を付けたのだろう。
とはいえ古墳時代になっても縄文文化は色濃く残ってたから
中国渡来系同化勢力と縄文勢力が緩やかに融和して連合の形で大和王権になったと推察する。 遣隋使・遣唐使の出入り口であった浙江省が当時の船で行き来する際の
ベストポイントであったように、それ以前も海流と風の観点からこの辺の地域が
有史以前の日本と中国の接触の起点だと思われる。 え?
遣唐使船だって朝鮮半島沿いから対岸の山東半島辺りに渡り、それから海岸沿いにやっとそこまでたどり着く感じだよね
真っ直ぐじゃないよ >>18
妄想だらけじゃん
時代と知力を考えたら地方の一豪族になった可能性はあるけどな、中国船で近畿まで到達するのは無理
そして上陸して陸路を使うなら長崎か福岡発で何代もかかる >>1
徐福が日本に来たとか後世の捏造、大体現在の
日本人の中に古代中国人の末裔が1人も居ない事は
遺伝子解析で明らかなんだから、徐福一行が日本に
来てないのは明白、恐らく中国の何処かに隠匿してたんだろう。 コラコラ
日本人と同じD系統の遺伝子は世界に点在していますので・・・
適当なこと書かないように >>383
何処が適当なんだ?中国人と日本人の遺伝子は似ても似つかない
完全な別物別民族なんだから、徐福の子孫が実在するなら直ぐ
分かる、徐福一行の子孫が日本に居ないのは明白、お前こそ
誤魔化そうとするな。 中国人とは?
斉の国は羌族が主体だったとかも知らない人ですよね
D系遺伝子で調べる気すらないとは・・・ 稲作を日本に持ち込んで開始した連中もいる、稲のDNAが似ているのは・・・ >>380
遣唐使船の出入り口は山東半島の南の浙江省ニンポー
それから数百年後の明の時代の明の世界地図でさえ
日本列島はだいぶ南にあると認識されていた。
ずっと浙江省ニンポーから出入りしてるから日本列島がその近くだと思ったんだろう。
海流と季節風の概念がないからな 徐福も出航地は浙江省寧。古代中国水稲の北限も浙江省。
春秋の呉の支配地域も浙江省、漢代の呉が和を探そうとして台湾の東に船を出したのも、
魏が和に王号授けたのも浙江省の呉の東に和があると錯覚して呉を牽制する目的。
三国志時代の魏が金印を認めた異民族のもう一つは蜀の西隣の大月氏国 >>387
確かにそうですが、九州から直行ですか?違いますよね
航行の流れの話です 最終的な目的地を目指す際に中継地は必要でした
大陸の歴代政府は朝鮮半島を植民地として直接統治していたこともあれば朝貢を受けている時期も長い なので、最初は半島沿いにいくのです
卑弥呼の時代には帯方郡大守が使節を送ってきたり、将軍が応援で来て記録あり
時代を問わず商人たちが貿易で頻繁に訪れていたのは言うまでもない
明の政府だって九州の位置ぐらいは正確に知ってましたよ 四国の位置がおかしいとか全体は把握して無くても >>389
遣唐使船が朝鮮経由で行ったのは35年だけ、直行ルートは136年間。
その後中国の商船が直接日本に来るようになったこともあって遣唐使は必要なくなった。
明の古地図は明らかに現実の地図とは別の物しかない。
そもそもほぼ正確な地図を作るのはそれより数百年後の科学的知識がなくては無理だから。 寧波市(慈渓)を候補地としている者もいるが、中世には日本と宋・明の交易で栄えたとはいえ、秦代では会稽郡に過ぎない。
ありえないんだよ。妄想もいいかげんにしろよ。 やはり巨大な始皇帝像が立つ山東半島しかありえない
沈没リスクを考えれば、これより南は危険すぎる。
浙江省寧波市が国際貿易港として栄えるのはもっと後世の時代だ。
秦の時代ではありえないわけなのね。 >>391
秦の時代の上古音を操る渡来系の技術者が奈良に来て建設事業に関わっている 時代が違いすぎるので、半島で数百年を過ごして渡来して来た徐福船団の子孫だろうという説があり、正解な気がする
徐福は始皇帝の公認で皇帝の船団として出港した。
数百人の児童や専門の技術者達、護衛の兵士らと兵器、建築機材、各種の食用植物の種や農耕器具など、巨大な荷物を積んでいる船団だった。
普通の船団ではない、沈没リスクはできる限り避けるだろう?
そのためには渤海に近い航路で黄海を渡り、半島沿いに南下したと考えるのが普通。
つまり山東半島の渤海側から出港したわけ。「江蘇省から〜」など、この時代にあるわけない。
半島にはこの時代に大陸系の住人が住んでいる地域もあった(大陸の文書に記録あり)
徐福がそこを目指し、期間はわからないが滞在したと考えてもおかしくないわけなのね。 江蘇省も浙江省もこの時代ではありえないわけ 直行とかするわけがない
時代と積載量を考えろよと言いたい 隋の使者が見て、華夏と同じと記した[秦王国]は徐福と関係ありそうだが、時代が違いすぎるのに秦って?
どこで残党が生き残ってたの 徐福が来てたら漢字文化持ち込んでるっての 全くそんな痕跡出てこないのに驚きしかない
やっぱり秦人が集まっていたという辰韓にいっちゃったのかな 徐福来てなかったら、日本には今でも文字がなかった可能性 徐福がきた証拠はないし日本語も話せなかっただろうが楽浪郡、帯方郡から漢人が渡来していた記録はありますね。 妄想に過ぎない 道士が天皇になる道理がない 後の天皇は徐福の子孫を名のっていない
漢字なんか使ってた証拠は1ミリも発見されてない 数百年後の卑弥呼の時代ですら墓に金石文なし 嘘はやめよう 稲作伝授
長江あたりのタイ族系の渡来民が持ち込んだ
でも縄文時代から稲作も徐々に始まってる 一通り調べてみた(徐福について)
まだ完知の3%くらいだけど
http://gdmoment.livedoor.biz/archives/34890945.html
>>412
そうなの?
だとしたら富士山に天照大神の高天原があってもおかしくないし、徐福はそこを蓬莱山としたとか
富士山は不死山らしい
>>1
徐福は僕もう疲れたよっていって
日本に住んだんだわ
神農の子孫と富士山で会ってる 三_,____
三/ __` ヾ),_ 〆ミ ⌒ ヾゝ\
三/〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、 /キンマンコ\:\
三i / /´ _ニ=-=ニ .i l| .| ミ:::|
三| 彳 〃_. _ヾ!/ ようやく滅びたかw ミ|_ ≡=、´ `, ≡=_、|;/
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三 平成日帝 / ../⌒\〆★ヽ ̄ // '-'"☆`" <-‐ニ‐"
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三::.:::三::三ンィ⌒ ̄" ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ニ≡─‐ー-,! とノ/ / とノ\ ヽ○0o
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http://stat.ameba.jp/user_images/20190206/20/march001001/19/f1/j/o1080056614351653655.jpg 縄文人と弥生人(弥生人倭人説)
スンダランド(今のインドネシア辺り)にいた人類→縄文土器を作る→南方の島々から約1万5千年前に鹿児島南端に辿り着く→日本列島最初の縄文人
スンダランドにいた人類→揚子江河口まで移動し漁業を営む倭人になる→近隣のミャオ族などの少数民族(稲作開発者)の影響で半農半漁民になる →黄河流域の漢民族の勢力拡大に圧迫されて、船で中国沿岸部を北上→朝鮮半島の西岸を船で南下→朝鮮半島南岸から対馬に渡る→青銅器を携えて約3千年前に九州北部に辿り着く→日本列島最初の弥生人(中国や朝鮮半島沿岸付近の部族の文化的遺伝子的な影響はあるが、北方中国朝鮮の影響はない)
縄文人と弥生人がゆっくり時間をかけて(約500年間)平和的に統合
→国家成立前に日本人の原型が形作られる
稲作による疫病を恐れた縄文人のグループ→弥生人と交わらずに北上→オホーツク沿岸部の文化の影響を受ける→鎌倉時代にアイヌと呼ばれる文化になる
ちなみにゾミア(東南~インド中国の丘陵地帯)にも漢民族の圧迫から避難したミャオ族などの少数民族が混在していたからか、日本人とチベット人には遺伝子に共通点があるw
結論
縄文人と弥生人は日本に来た時期こそ違いはあるものの、ルーツは同じスンダランド系なのでお互いに文化的遺伝的な親近感があり、大規模な戦争やジェノサイドが起こらなかったのが重要なポイント。 1.考古学、遺伝学、文字で書かれた史料、現存する文化習俗など全てにおいて、外来勢力が在来勢力に対して大規模戦争したりジェノサイドして日本列島を征服した痕跡がどの時代にも一切ないこと。
2.日本書紀は今のモンゴル辺りで誕生して高句麗経由で入って来た天孫降臨神話(タカミムスヒ)と縄文・弥生期以来の神話(イザナキ・イザナミ~アマテラス・スサノオ~オオクニヌシ)の二元構造になっており、高句麗の王権神話が天孫降臨神話一元構造なのとは対照的である。8世紀になってもなお縄文系が相変わらず強い勢力だったので、それへの配慮が日本書紀の編纂に大きな影響を与えたと考えられること。
3.日本では7世紀まで父系出自集団は存在しないのは古代史の定説になっているので、父系制=血統主義の部族が日本にやって来たとしても、以後は双系性になり血統の連続性は絶たれてしまっていること。
4.古今東西どの部族にも何らかのインセストタブーがあり、他部族と交わらずに近親婚を繰り返しての人口増加や勢力拡大が困難なこと。
5.紀元前の日本にまだ文字がない頃に中国では既に代数の初歩レベルまで到達。そして江戸時代の関孝和の和算は当時世界最先端の数学。
つまり文明度でようやく日本が中国に追いついたのは江戸時代なので、江戸時代までの文化の伝播の方向性はほぼ中国→日本だったこと。
6.朝鮮半島から対馬は肉眼で見えるほど距離が近くて容易に行けて、対馬には日本神道の原型祭祀と思われる神社が多いこと。
7.日本列島は自然に恵まれ食料が豊富な上に、大陸と距離が離れており日本海も海流が速いので、攻め手側が圧倒的に不利な天然の軍事要塞に等しいこと。また渡来人も国家の圧迫から逃れて来た避難民や王朝交代時の政治亡命者や難民であり、予め征服の強い意志を持ち計画的に日本に侵略して来たのは元寇が最初だったと推測されること。 以上の7点から渡来人は入って来たけど、大規模な戦争で征服したのではなく、主に婚姻を通じてゆっくり時間をかけて対等な立場で平和的に縄文人と統合したと考えられる。
その渡来人は元々長江河口に住んでいた半農半漁民だった倭人。漢民族の勢力拡大の圧迫により、中国海岸と朝鮮半島海岸を船で移動した(強敵のいないこのルートにならざるを得なかった)。当時は平均寿命は短かったので、日本列島に到着する頃には何世代もの世代交代が進んで、中国沿岸部や朝鮮半島沿岸部の文化や遺伝子が混交し、長江河口に住んでいた頃よりかなり雑多な部族になっていた。
その倭人は日本列島で約500年かけて平和的に縄文人と統合するが、統合後でも元倭人の社会が形を変えて大陸や朝鮮半島に残っていたので、その人的ネットワークを通じて仏教や律令制度などを比較的スムーズに日本に持って来ることが出来た。 日本には7世紀までは父系出自集団が存在しないのは日本古代史の定説になっているので、早くても8世紀以降、現実には名実ともに父系制に日本がなったのは平安中期頃だろう。その時代に血統を強く意識した文学作品、源氏物語も生まれた。
それ以前の日本は双系制とみて良い。
というのも仏教伝来以前の日本の宗教は呪術であり、呪術の力こそが王権の正統性になっていたからだ。
ところが3~4世紀頃にモンゴル原産で朝鮮半島経由で入って来たある思想が日本列島に大衝撃を与えた。
天孫降臨神話、父系制、血統主義のセットである。
その先進性に衝撃を受けた大王家では後に崇神天皇と呼ばれる首長が先ず父系制を導入した。
ところが当時はまだ呪術の力が大変強くて理念倒れとなり、仏教が伝来して呪術の効力が低下し始めてから、徐々に父系制が日本列島に浸透していった。
だから古墳時代の数世紀は王権の正統性が呪術から血統主義に移った不安定な過渡期と考えられる。
まあ日本特殊な事があるとしたら、弥生人でも古墳時代からの渡来人でも、在来勢力と大規模戦争して征服した痕跡が全くない事だね。
おそらく日本に来た連中は、当時国家の圧迫から逃れて来た避難民や中国、朝鮮半島の王朝交代時に発生した政治亡命者や難民などの烏合の衆がメイン。だから征服される事なく、先進技術や文字文化だけを上手いこと摂取する事ができた。
それと縄文人は弥生人よりも1万年以上前に日本列島に来たアドバンテージがあった。それは日本各地の聖地を最初に支配出来たこと。聖地とは世俗的な力が及びにくい場所。地形や自然環境に左右されるので、かなり限りがある。地形や自然環境などは100年200年で変わるものではないので、縄文時代の聖地がそのまま古墳時代の聖地にもなっていただろうし、埋め立てなどで地形が変化した場所以外は現代でも大体一緒。少なくとも仏教伝来までは呪術に王権の正統性があったので、有力な聖地を支配していた縄文人は、先進技術は渡来人に劣るものの、呪術の力で上回っていた事で優位に立てた。
仏教が伝来すると縄文人の聖地に寺を建てるんだよね。本地垂迹とか言って、それからは神仏習合が日本では一番歴史的に長くなる。 また記紀神話の内容自体にも日本の特殊性は特にない。
神話自体は大昔には世界各地に似たようなものがいくらでもありふれていた。むしろ記紀神話の特殊性は記紀神話を編纂出来た事に尽きる。
あの当時でも縄文人みたいな国家を造らなかったタイプは淘汰されたか、辺境にしか居なくなったからね。
それが日本にはまだ中枢近くにいた。
ところが中世後半になってくると、被差別民というネガティブな存在になっちゃう。
それでも縄文勢力が強かった東日本では近畿に比べて極端に少なく、鎌倉時代には皇族が移り住んでた鎌倉の一区画にしか被差別民はいなかった。
東北にはほとんどいなかったし、明治になって日本に組み込まれた北海道沖縄ではゼロ。
しかし日本文化のメインストリームに縄文文化ががっちり組み込まれたおかげで、20世紀に日本が先進国になっても縄文的感性は失われていなかった。
アニメやゲームのキャラ、ゆるキャラ、萌えキャラなんかはそれこそ縄文時代の土偶を現代人の美意識にバージョンアップした様なもので、クリエイター個人の
才能だけでは説明できないほど量産されている。
実際に外国人にはなかなかこういうキャラは作れないんだよな。欧米人だけでなくアジア人も不思議なほど作れない。日本では可愛いキャラだらけ。
他の先進国でも、北欧のサーミ、カナダのエスキモー、アメリカのネイティブアメリカンなどいるけど、メインストリームから隔絶された劣った文化に見られている。そこが縄文系との違いである。
もう縄文人はいないけどね。 崇神天皇から十代遡ってもせいぜい紀元前一世紀くらいまででしょう
徐福は紀元前三世紀の人だから時代が合わない