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中島みゆきの父眞一郎氏が産婦人科の開業医であったことはバイオグラフィにも
書きました。普通、開業医で、しかも産婦人科と聞くと「お金持ち」のイメージ
がありますが、眞一郎氏は所謂「赤ひげ先生」のように弱く貧しい家の出産費は
取らず、家計は決して裕福ではなかったと対談で述べています。

その背景には眞一郎氏の父親つまり中島みゆきの祖父にあたる中島武市氏の存在
が大きかったのではないかと推測します。武市氏の略歴を記します。

1897年 岐阜県に生まれる
1936年 帯広商工会副会頭就任
1939年 帯広市実業連合会長・十勝商工会連合会頭就任
1942年 帯広市議会議員に当選
1943年9月〜1950年11月 帯広商工会議所会頭
1943年10月〜1946年9月 北海道商工経済会帯広支部長
1954年 帯広ロータリークラブ会長
1955年8月 帯広市長選挙に出馬するが落選
1959年 帯広市議会議員に返り咲く
1963年 帯広市議会議長
1965年 全国市議会議長会常任理事
1966年 同代表監事に就任

このように武市氏は帯広において名士でした。しかし、眞一郎氏はそんな父親を
嫌悪していたのではなかろうかと考えます。家業(古着屋)も継がず、政治の世
界へも背を向け、医学の道を選びます。そして医学の中でも特殊な産婦人科を選
び、地元の帯広には帰らず札幌で開業します(おそらく北海道大学医学部を卒業
したものと思われます)。父親を嫌悪するだけに名声を求めず弱く貧しい人々の
味方であろうとしたのだと推察します。

1957年岩内へ引っ越し(岩内協会病院に勤務したといわれています)、1963年帯広
で「中島産婦人科」を開業します。この年、武市氏は66歳で帯広市議会議長に就任
していますが、眞一郎氏も39歳となり若かりし頃の武市氏への嫌悪感は消え長男と
して老後の面倒を見る覚悟で帯広に帰ったのではないかと思われます。

しかし、皮肉なもので武市氏が1978年(81歳)まで長生きしたのに対して、眞一郎
氏は1975年9月に51歳の働き盛りに脳溢血で倒れます。おろおろする家族に医者は
「もう一晩待て」「もう一晩待て」としか言ってくれなかったと中島みゆきはイン
タビューで答えています。

折りしも中島みゆきは同月『アザミ嬢のララバイ』でプロ・デビューを果たしてい
ます(どちらが先であったかは不明)。さらに10月、「つま恋本選会」では『時代
』を歌ってグランプリを受賞します。また11月15日に開催された「世界歌謡祭」で
同じく『時代』でグランプリを受賞します。

しかし、中島みゆきにとってグランプリ受賞は喜べるはずがありません。愛する父
親が昏睡状態にいる中での晴れやかな舞台に中島みゆきの心は引き裂かれる思いだ
ったでしょう。しかしテレビで観た限りにおいて「世界歌謡祭」の中島みゆきに
暗い影はありませんでした。

1976年1月、眞一郎氏は息を引き取ります。「その時家には10万円もなかったのよ」
と中島みゆきはインタビューで答えています。眞一郎氏の「赤ひげ先生」ぶりを
如実に表しています。『世界歌謡祭』のグランプリ賞金が葬儀代に消えてしまった
ともインタビューで話しています。