1982年の関西連合解散当時の報道では関関同立野球部関係者の言として
@関関同立京神の旧関六に戻れれば100点満点
Aとりあえず関関同立を堅持できる六大学であれば80点
Bひとまず入替戦をなくしただけの状態で当時の関六(関関同商産近)維持で60点
というのがあった。

一方で関関同側が大義名分を以て関六解散させるためには
当時の議長校の同志社を除く5校中3校以上が連盟脱退に賛成する必要があった。
しかし、この時の関六所属校は関大・関学・同志社・大商大・近大・京産大のため、
関関だけでは2対3となるので解散が数的に無理だという点に目をつけた近大はそこを突いて取り入り、
連盟脱退に協力する代わりにバーターで近大の新連盟加盟の確約を迫ってきた。
関関同としてはこの時機を逃しては関関同立の堅持はできない、背に腹はかえられないということで、
近大の要求を苦汁の決断ながら飲み、関関と近大が連盟を脱退することで関六を解散させることに成功する。
しかし、これで当初呼び戻す予定にしていた神大か京大のどちらかを泣く泣く断念せざるをえなくなった。

結局、京大が加盟することになり新連盟結成方針は上記@とAの中間の90点となったわけだが、
90点まで来たからこそ満足できないという思いが関関同立京の中にはくすぶっていた。
しかも残りの1枠に割り込んで来た近大は、かつて観客動員による収益増を謳って諸悪の根源である入替戦を導入させた張本人であり、
下部転落経験のある関学・立命・京大からは難色を示す声も多かった。

ただ、この新連盟結成方針作成に当たっては一度も関六落ちの経験のない関大と同志社の意見が強く、
春季リーグ戦まで時間がなかったこともあり最終的には「名を捨てて実を取る」ということにならざるをえなかった。
しかし、止むを得なかったとはいえ関大と同志社の一部の関係者による近大加盟の判断は、
旧関六への郷愁の強い大多数の関関同立京神の野球部関係者にとって大きな禍根を残した。
そのため今も残された関六のラストピースとして神戸大の復活を願う野球部関係者の声は大きい。