その場の感情や個人の好き嫌いは大切だ。
しかし、それと評価基準の優劣は別の話だ。
>>1が言いたいのは「評価基準の是正と向上」だろう。

美醜、善悪、傑作・駄作は数字や客観で示しにくいので難しいが、>>1の望みは可能だ。
その方法は、自分なりの視覚化だ。つまり文字にすること。
「駄作だけれどおもしろいww」と思ったときに、
その作品をなぜおもしろいと思ったのかを文字にする、掘り下げる。

そうすることで、
「今、酔っ払っているから楽しい」や「自分の内面が原因でおもしろく感じる」を自覚できるようになる。
それはその場の感情だ。作品の善し悪しではないと気づくようになる。
逆に、そのような文言がなくきちんと説明できるのであれば、
「大多数の人間が正しく評価せず多数決で駄作とされている」ということだ。

実際、世間は多数決と興行成績で傑作・駄作を語る。誤りではないが正確でもない。
その判断に対して、明確な基準で作品を評価するのは必要だ。
その基準を他人が受け入れるかどうかは別の話だ。
受け入れられなくても悲観する事はない。

自分の感情のみでは語らないほうがよいということだ。
矯正方法もそこにある。
自分の感情のみで「世間では駄作だが、おもしれーww」と言い出せば飲み屋のおっさんだ。批評でなくなる。
基準だ。基準をもって語ればたとえ「多数決に負けただけ」「今の一般的な基準で駄作と評されているだけ」と批評できる。

最後に、自分の好き嫌いと評価は違う。
「自分の好き嫌いと他人の好き嫌いは違う」と勘違いする人が多い。
正しくは「自分の好き嫌いと評価は違い、他人の好き嫌いも違う」だ。
人の数だけ好き嫌いは存在し、それとは別に作品の評価はある。
それを忘れると、自分の好き嫌いと評価がずれたときに、
「自分の好き嫌いと他人の好き嫌いが違うだけ」で物事を正しく見られなくなってしまうので気を付けたい。