1992年の洋楽を語ろう
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レイジアゲインストザマシーンが1st albumを出した歴史的な年 リアルで好きでした 同じバンドサークルのやつがボーカルの声が好きじゃないとか抜かしてましたが、ボーカルの声がむしろカッコいいんじゃんと見抜いていた…自分に乾杯! レッド・ホット・チリ・ペッパーズに対抗できるのは、レイジアゲインストザマシーンしかないと、1992年の1st聴いて即思った 1992年1番売れた洋楽はBoyz II Men、TLCか、 マイケル・ジャクソンの後ろでスラッシュがギター弾いてたのも1992年 Mr.BIGが1番売れた年 忘れてはいけない フレディマーキュリーが死去したのも1992年 レッチリのアンダーザブリッジがベスト10内に入ってきてびっくりした でも92年って91年より傾向掴みにくいな 93年くらいだとはっきり変わってきたのわかるんだけど レッド・ホット・チリ・ペッパーズが世界的なバンドになるための大切な年 アンダーザブリッジのPVも話題になり一気に世界的なバンドに Guns N' Rosesもこの頃は世界の頂点にいた 5万ドルくらい、はした金だった時期 ジョージ・マイケルとエルトン・ジョンがデュエットして売れたのも、この年 あ、1番売れたalbumってもしかしたらホイットニーヒューストンの「ボディガード」のオリジナルサウンドトラック盤か、 シェクスビアズシスターとかスウェードとか何故かこんなの思い出すw ニルヴァーナが最後というが、レイジが僅かに最後のリアルロックバンドかもね あのグルーヴ、クオリティ、ライブも圧倒的に良いバンドはその後出ていない…。 アリスインチェインズ/ダート これで一気に飛躍したが… パールジャムのテンが気がついたら売れてた 最初聞いた時はなんでこんなもっさりなのがと思ったな ダートもテンも一発ノックアウトだったけどな レッチリのブラシュガは凄さが分かるまで数ヶ月掛かった あれほど極端なラップと融合された音楽に免疫がなかったからね レッチリがあったからレイジにもすんなり入れたのかも まさか、まさか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズがあそこまで売れるとは エイフェックスツインのアンビエントワークスもこの年だな。当時、全く理解できなかったが、聞いてる俺カッコいいという1点で聞いてた。去年フジのヘッドライナーだからまた聞いたけど、20数年ぶりに聞いても全く理解できなかった いい歳してルールも守れない馬鹿いい加減にしろよ 売れたとか売れないとか洋楽初心者丸出しでダセー会話しやがって ダセい奴は民度も低い 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは 実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。 故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と 親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。 その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、 これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、 その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている 。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、 ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに 種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というもの はさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』――あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演 を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。 そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、 「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、 「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人 があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に――あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが ――子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が 「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死という ものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象 と見做してよいように思われる >>21 >>22 よお、糞粘着 あっちの1991年の洋楽を語ろうを埋めてこいよ >>21 >>22 よお、糞粘着 あっちの1991年の洋楽を語ろうを埋めてこいよ はやくしろよ 糞粘着 アフィカスってさあ、生きてる価値無いよな、人に依存してだらけで自分じゃ何も出来ない、まさに人間のクズみたいなものじゃないか 依存する人間は自分が無いとか言うけどこの場合っていうのは自分が無いと言い訳して楽してるだけだよね、依存生活、楽しいですか? 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は 大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが そのたびにクソアフィの自演とクソアフィの自演とクソアフィの自演とあからさまなクソアフィが出てきてうんざりするわ、クソアフィは生きる楽しみもしらないのか 自演は俺も何百回とやったことあるから言えるけどあれは全然つまらないよ、正直何が楽しいのかわからないまっとうな人間なら拒否反応しめすレベルのつまらなさだよあれは そんなことをしちゃうあたり 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ、と常日頃から考えてるよ俺は、アフィの全滅について真剣に考えてるよ俺は 大体自演とかしてまでスレ作って何が楽しいのかが判らないよ、俺ぐらいになると何個ものクソアフィスレと対立してきたわけだが >>25 >>26 聞こえないの?糞粘着 あっちの1991年の洋楽を語ろうを早く埋めてこいよ 早くしろよ 糞粘着 マニックストリートプリーチャーズ 1992年「ジェネレーションテロリスト」を発売 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。死を軽んずるということは義務を軽んずるという事になると僕は思うている。己れの為なすべき事を為して天にも地にも愧は じない人は、死を見ること帰るが如くなるべきで、これは古来の聖人君子の死方を観てもよく分る。これに反して己れの為すべき事をも為さずして死を怖れぬという。その辺の熊だの八だのと択ぶところがない。こう いう風に死を軽んずるという事は決して褒ほむるに足らぬと思う。 誰でも死を怖れるということは普通であるが、この死を怖れるという観念は、ただ生理学上あるいは生物学上のみの現象であろうとは僕には思われぬ。これには深い倫理的の意味のあるものと思う。死を怖るる とは即ち生を重んずるの意味だろうと思う。生を重んずるというは生きて為すべき義務を重んずる意味である。譬えていえば少女が男子に近ちかづくことを怖れる、その理由を訊ただせば知らない。この無意識に怖わ いということは少女の節操を重んずる理由であるんで、人が死を怖れるのもこれと同じもので、無意識に生の義務を重んずるに由るものと思う。 己れの義務を全うした人には、死は怖くも恐ろしくもないものじゃないかと思う。かつまた死というものが、果してそう明かに生から区別すべきものかどうかという事も僕にはちょっと信じられない。無論死ねば肉体が朽ちる。 物を言うておったものが言わなくなる。動いたものが静かになる、というような点からいうと 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは 実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。 故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と 親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。 その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、 これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、 その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている 。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 1992年だったらこの辺が好き Chaka Khan - Everything Changes Corduroy - Dad Man Cat Debbie Gibson - Love or Money Garth Brooks - The Chase Glenn Frey - Strange Weather Go West - Indian Summer Jamiroquai - Emergency on Planet Earth k.d. lang - Ingenue Leon Russell - Anything Can Happen Marie Fredriksson - Den Standiga Resan Peter Cetera - World Falling Down Peter Gabriel - Us Prince - The Love Symbol Album Restless Heart - Big Iron Horses Roxette - Tourism (Songs From Studios, Stages, Hotelrooms & Other Strange Places) Sade - Love Deluxe Swing Out Sister - Get in Touch With Yourself Suzanne Vega - 99.9 F° Toto - Kingdom of Desire Youssou N'Dour - Eyes Open 番外:ジャズフュージョン系なので除いたけど名盤 Pat Metheny - Secret Story しばしば紙上に述べた通りデモクラシーは現時世界の大勢である、これに背く民はその末甚だ憂えられる。 ただに流行なるが故にこの勢に乗ずべしとは吾輩わがはいの主張するところでない。吾輩の主張は今回に 始った事でなく二十年已来の所信であった。たまたまこの事を述べてもとかく誤解を来し勝がちであるため に遠慮をしておった位な事であるが、吾輩の所信は已すでに数多き著書の中うちにあちらこちらに漏らしてある。 かつて十余年前大阪で演説した時の如きは聴衆の中にあった米国のウエンライト博士が演説後僕に言われた ことに「君は武士道の鼓吹者とのみ思っていたに、今日その反対の説を聴いて驚いた」と。その時僕は同博士に 拙著『武士道』の巻末を熟読せられたなら、吾輩の真の主張が理解されるであろうと答えた。この一話によっても 読者は察せられるであろうが、今日僕の論ずるデモクラシーは決して今日に始った事ではない。デモクラシーなる 字が如何にも流行語になったからこれを説くものも流行を追うものの如く思われ、またこの字を民主主義とか 民本主義とか訳するから国体に反そむくような心配を起すけれども、僕はこれを簡単に平民道と訳してはドーで あろうかとの問題を改めて提議したい。 武士の階級的道徳を武士道という 武士なる語も言うまでもなく古くから使用さるる語である。然しかるに武士道と三ツ並べた熟字は一般に 用いられなかった。僕は度々この文字の出所でどころを尋ねられたけれども、実は始めて用いた時分に は何の先例にも拠よった訳ではなかった。然るに今日は武士道といえば誰一人この字の使用を疑うもの はない。元来武士道は国民一般に普遍的の道徳ではなく、少数の士の守るべき道と知られた。しかし 武士の制度が廃せられて士族というのはただ戸籍上の称呼に止る今日には、かくの如き階級的道徳は 踏襲すべくもない。これからはモー一層広い階級否な階級的区別なき一般民衆の守るべき道こそ国の 道徳でなくてはなるまい。また国際聯盟なんか力説される世の中に、武に重きを置く道徳は通用が甚だ狭い。 また仮りに国際聯盟が出来ないにしても武に重きを置かんとするよりは、平和を理想としかつ平和を常態 とするが至当であろう。しかのみならず先に言う如く士は今日階級としてはない、昔の如く「花は桜木、 人は武士」と謳うたった時代は過ぎ去って、武士を理想あるいは標準とする道徳もこれまた時世後じせい おくれであろう。それよりは民を根拠とし標準とし、これに重きを置いて政治も道徳も行う時代が今日まさに 到来した、故に武に対して平和、士に対して民と、人の考がモット広くかつ穏かになりつつあることを察すれば、 今後は武士道よりも平民道を主張するこそ時を得たものと思う。 92年思い出そうとクロスビートの表紙をググったらキースの月があって メインオフェンダーもこの年だったか 丁度徴兵令を施行して国防の義務は武士の一階級に止まらず、すべての階級に共通の義務 、否権利だとしたと同じように、忠君なり廉恥心れんちしんなり仁義道徳もただに士さむらいの 子弟の守るべきものでなく、いやしくも日本人に生れたもの、否いなこの世に生を享うけた人類 は悉ことごくく守るべき道なりと教えるのは、取りも直さず平民を士族の格に上のぼせると同然である 、換言すれば武士道を平民道に拡げたというもこの意に外ほかならない。 武士があって武士道が興るのは歴史的の順序と思われるが少しく歴史の隠れたる力を研究したなら、 たとえその名がなくとも武士道あって始めて武士が出現したと言うのが過言であるまい。道の道と すべきは常の道にあらずとやら、武士の道を武士道と名付ける間はまだ武士の守るべき常道を穿う がったものではあるまい。いわゆる武士道なるものはその名の起る前に忠君の念、廉恥心、仁義、 人道なる思想が少数の先覚者に現われて彼らはいわゆる士さむらいとなって、その後武士の階級が 起り以て武士道が鼓吹されたものであろう。今日この武士の階級が廃せらるるといえども、根本の いわゆる常道は決して失わせることなく広く施されて万民これを行えばこれが少数の武士階級に 行わるるより遥はるかに有力な、かつ有益な道徳となるに違いはない。して万民普あまねくこれを 行えば最早もはや武士道と言われない、これが即ち僕の平民道と命名をした所以である かく言いえば僕は時代とともに始終考えを変えて行くように聞えるであろうが、時代について用語が異なったり また重きを置く所も異ことなるのは至当の事である。根本的の考えは更に変らない、恐らく昔の聖人といえども 時と場合によって説きようを自在に変えたであろう。人にんを見て法を説くとは即ちこの謂いいである。同じ文字 を使っても内容を変えれば一見貫徹している如く見えても意味が異る。その反対に用語を違えても思想に至って は一貫していることもある。 今日とても士道なる文字をそのままに書いてなおその内容に従来の意味と異る思想を含めることは甚だ容易た やすい。たとえば明治になって新に士籍とはいわれまいが、広い意味に於ける士の族に昇格したものが沢山ある。 学士を始はじめとして代議士もあれば弁護士もある。モット広く用ゆれば国士もあれば弁士もある、即ちこの新らしき 士族は昔のそれと違って武芸を営むものでない。然しかるにいわゆる平民なる一般国民に比してより高き教育を受けた 輩やからである、随って彼らは名誉ある位置を占め、社会の尊敬を受けるものであるから、誰人たれも士たらんこと を望むであろう。さすればやはり「花は桜木、人は士さむらい」なりと歌っても、あな勝ち時代錯誤ではあるまい。 しかし今日のいわゆる士さむらいは昔の武士のように狭い階級ではない すべての階級に共通の義務、否権利だとしたと同じように、忠君なり廉恥心れんちしんなり仁義道徳も ただに士さむらいの子弟の守るべきものでなく、いやしくも日本人に生れたもの、否いなこの世に生を 享うけた人類は悉ことごくく守るべき道なりと教えるのは、取りも直さず平民を士族の格に上のぼせる と同然である、換言すれば武士道を平民道に拡げたというもこの意に外ほかならない。 武士があって武士道が興るのは歴史的の順序と思われるが少しく歴史の隠れたる力を研究したなら 、たとえその名がなくとも武士道あって始めて武士が出現したと言うのが過言であるまい。道の道と すべきは常の道にあらずとやら、武士の道を武士道と名付ける間はまだ武士の守るべき常道を穿う がったものではあるまい。いわゆる武士道なるものはその名の起る前に忠君の念、廉恥心、仁義、 人道なる思想が少数の先覚者に現われて彼らはいわゆる士さむらいとなって、その後武士の階級が 起り以て武士道が鼓吹されたものであろう。今日この武士の階級が廃せらるるといえども、根本の いわゆる常道は決して失わせることなく広く施されて万民これを行えばこれが少数の武士階級に行わ るるより遥はるかに有力な、かつ有益な道徳となるに違いはない。して万民普あまねくこれを行えば 最早もはや武士道と言われない、これが即ち僕の平民道と命名をした所以である。 分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。 ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない。そのなかでもわかっていることは、精神の諸作用を 過分に身につけている人にとっては、これこそなによりも生き生きとした楽しみの源泉である、ということだ 。ちょうど、強健な人が筋肉を働かせる運動を喜んで自分の肉体的能力を誇るのと同じように、分析家はもの ごとを解き明かす知的活動に熱中する。彼は、この才能を発揮できることなら、どんなつまらない仕事でも 楽しんでやるのだ。彼は、謎なぞや、難問や、象形文字が好きで、凡人の理解力では超自然とも見えるほど の明敏さで、それらを解き明かす。しかも、彼がありとあらゆる方法を尽して得た結論は、実のところ 、まるで直観にしか見えないのだ。 分析の能力は数学の研究によって、おそらく大いに活躍させられるだろう。ことに、その最高の部門であって 、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは 実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。 故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と 親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。 その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、 これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、 その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている 。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋チェスをさす人は、計算はするが 、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる 。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて 、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりに つまらないチェスなどよりは、地味な碁ドラフツのほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の 高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで 、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬ごびゅうだが)、なにか深奥なもののよう に誤られる。この場合、注意力こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、 大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスは ますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。 その反対にドラフツでは、動きが一様ユニークで変化が少なく、しくじる率も少ないし すべての階級に共通の義務、否権利だとしたと同じように、忠君なり廉恥心れんちしんなり仁義道徳も ただに士さむらいの子弟の守るべきものでなく、いやしくも日本人に生れたもの、否いなこの世に生を 享うけた人類は悉ことごくく守るべき道なりと教えるのは、取りも直さず平民を士族の格に上のぼせる と同然である、換言すれば武士道を平民道に拡げたというもこの意に外ほかならない。 武士があって武士道が興るのは歴史的の順序と思われるが少しく歴史の隠れたる力を研究したなら 、たとえその名がなくとも武士道あって始めて武士が出現したと言うのが過言であるまい。道の道と すべきは常の道にあらずとやら、武士の道を武士道と名付ける間はまだ武士の守るべき常道を穿う がったものではあるまい。いわゆる武士道なるものはその名の起る前に忠君の念、廉恥心、仁義、 人道なる思想が少数の先覚者に現われて彼らはいわゆる士さむらいとなって、その後武士の階級が 起り以て武士道が鼓吹されたものであろう。今日この武士の階級が廃せらるるといえども、根本の いわゆる常道は決して失わせることなく広く施されて万民これを行えばこれが少数の武士階級に行わ るるより遥はるかに有力な、かつ有益な道徳となるに違いはない。して万民普あまねくこれを行えば 最早もはや武士道と言われない、これが即ち僕の平民道と命名をした所以である この頃のマニックストリートプリーチャーズを見て、誰がこの先国民的なバンドになろうとは誰も予想してなかっただろう ネッズアトミックダストピンはゴッドフォダーだけで消えてしまったな ホイスト(2)は、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスを つまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイスト ほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりは ただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手じょうずということになると、心と心とがたたかう すべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたら すすべてのつぼを、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技わざの完全な精通を意味するのである。 これらのつぼは多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに 隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れた チェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイル(3)の法則だって(それがゲームの単なる メカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」 どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣ひけつだと一般に考えられている点である。ところが、 分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの 観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ である。けれどもこれは生の一段階に過ぎないのじゃないかという気がする。聖書にもある通り、麦の種が死ななければ穂が出ない、 ちょうどあんなようなもので、朽ちるところはなるほど麦の種が素人言葉でいう朽ちるように朽ちるであろう。が、それがために新たに 種を結ぶところの根だの茎だのが生える。幽明とか、有無とかいうものは形而下の話で、精神上からいうたならば、生と死というもの はさほど区別のあるものでないかも知れんと思う。メーテルリンクの『青い鳥』――あれは読んでも面白い戯曲であるが、私はあの実演 を亜米利加アメリカで見たが、実に今でも忘れられない印象を受けた。爺さんと婆さんが小屋の前に腰を掛けて眠っている。 そこに孫が二人走って来て「お爺さん、お婆さん」と声をかけると、二人が眼を覚まして孫を抱いて大変に喜ぶ。すると孫は、 「お爺さん、お婆さん、あなたたちはよほど前に死んでしまったんじゃないんですか」というと、お爺さんがいうのに、 「世の中では私たちを死んだというんだが、いわゆる死んだ人も世の中の人の忘れている間は死んだというんで、紀念してくれる人 があるとその度ごとに生き返るんだ。」という所がある。それから同じ『青い鳥』の中に――あすこは芝居で見ぬと分らぬ所と思うが ――子供ら二人が墓場に行き、妹は「こんな淋しい所に来て怖い怖い」と大きな声して泣く。すると兄貴の方が 「何怖い事があるものか」というてちょっと頭に被っている帽子に手を触ると、墓場が急に花園に変る。詰り世の中に死という ものがないということを現わした所で、即ち頭の使いようによって死ぬる生きるという事が定まるんで、多く主観的の現象 と見做してよいように思われる 本当にアフィカスという人種は生きてる意味すらもないような奴らだよね、自分じゃ何も生まないし、その癖他人のものをさも自分のもののように扱う 何度も繰り返してるようで悪いけれどもアフィっていうのはやっぱりそういう劣等人種なんだと思う、劣等っていうか生まれつき劣ってるっていうか そう、いわゆる障害者なんだよ、自分で稼ごうとしても稼げないみたいなアイディアが無いみたいな哀しい哀しい生きてる価値もない障害者 つまらない人間と言い換える事もできるね、とにかく幼い頃からきっと他人に依存しないといけないみたいな障害に悩まされてきたんだよ 一種の青春病であって、そこを責める事は出来ないとも最近思い始めてきたよそういう病気だもん、そういう人種だもん、クズだもん、そういう障害者だもの そうでもなきゃこんな事考え付かないでしょ、「人の会話をコピペしてブログにまとめて金儲けする」とか普通は考えないよね 昔から日本には他人の褌で相撲を取るとかあるけど、そんな次元じゃない、他人の会話で金儲けするとか流石に無いですわ ほら最近忍者の里の新ルールだとか何だとかで「転載禁止言えといわれても書かなかったら水遁」とか出来たじゃん いや実はそのルールの議論の中心人物俺なんだけど、だけど早く実施してほしいもんだよ、まだまともに聞かれてないみたいだから バカは死ななきゃ治らないだとか言うだろ?アフィは水遁でもされて痛い目でも見なきゃ判らないんだよ、●持ってるだろうからVIP二度といきたくなるぐらい絶望の淵に叩き落されるぐらい だから何十回でも何百回でも水遁されて何百回でも何千回でも後悔して何千回でも何万回でも金銭難の地獄に叩き落せ クソアフィブログはそうしてついに潰えるんだよ、「ブログ読者の皆さん……クリック……して」といいながら哀しく死ぬんだ、それがアイツらの遺言にしてアイツらにふさわしい最後だ 悪いが俺はクソアフィには人権なんてないと思ってる、アフィは死んでも永遠に浄化されないとも思ってる、クソアフィは生きてても価値なし死んでも価値無し、つまり永劫価値なしな奴らだからな どんなに悪行をしてきたことか、どんなに人の迷惑だったことかお前らも考えてみろよ アフィカスが全滅したらきっと世の中はより平和になることだろうなあ 私はこの死という事を思うと、何時いつでもソクラテスと基督キリストの死方に心を慰むることが多い。かのルソーもソクラテス の伝を書いて、彼の自若として死ぬる様には非常に敬服したものと見えて、その伝の筆を擱おかんとする時に「ソクラテスは 実げに哲学者の死を遂げた」と書いてその文を結ばんとした時に、ふと眼前に閃ひらめいたのは基督の死方であった。 故にまた筆を執り直し殆んど附録のように「然るにエス・キリストは神の如くに死した」と書き加えた。外から見て、自若とし て死を迎うる胆力は、世に稀とはいいながら、数えれば少くないと私は思う。ただややもすると、死を以て最上の戯曲ドラマ の如く思っているものがある。俺が死ぬんだから、ここで一つ華やかにして見せようというようなのがある。内心、人と和し神と 親したしみ、心に一点の悔ゆることなく、安らけく死を迎う、これは頗すこぶる少いものだと思う。 プルタークの英雄伝などを見ると、ローマ人などには、よく日本の英雄豪傑に似た人格が沢山ある。 その死に臨んだ時なども、いわゆる武士気質を現わしているが、しかしその中に死を一のドラマ的に感じておりはせぬか と思わるるものが沢山ある。これは私の感心しないところである。ただ、何にもない、当り前の通りにして死ぬる様は、 これこそ実に敬服に値するのである。僕は日頃南洲翁を崇拝するものであるが、この点に於ても益々翁の偉大なる ことが分る。如何にも生きておっても死んでおっても何も変らんという風が見える。あるいは死を見ること生の如く、 その代り一方には生を見ること死の如く、形而上幽明有無の区別を知らなかった。実に平々淡々としている 。こういう修養が出来た人が、一番エライんじゃないかと私は思う。 ガンズ・アンド・ローゼズが東京ドーム3DAYS マイケル・ジャクソン/デンジャラスツアーで東京ドーム 全て1992年 LUSHもきた、RIDEもきた、デイジーチェインソーもきた、ティンマシーンもきた、 >>61 ガンズは見たけど大物感がもう出ちゃってね マイケルはもう関心なかった、口パク前に見てる ラッシュはミキちゃんかわいかったねw 東洋人の發明と云ひますが、東洋と云ふ言葉が餘程曖昧な言葉であつて、内容がはつきりしませぬ。私が茲に申す東洋とは 、極めて狹い意味に解して、東亞若くは極東と云ふのと同じ意味で、主として支那人を指すことと御承知を願ひます。 東洋人の發明と云ふ中で、第一に注意すべきは印刷のことであります。支那の印刷術は何時出來たかと云ふと 、いろいろの議論がありまして、今日でも學説が一定して居る譯でもありませぬ。併しながら普通では隋の時分 に出來た、少くとも隋の開皇十三年(西暦五九三)に出來たことになつて居ります。無論之には異議を申立てる 學者もあります、私なども之に絶對的信用を置くことは躊躇いたすのでありますが、其次の唐の時代になると、 最早印刷術が發明されて居つたことは疑のない事實であつて、當時の記録にも明瞭にその事實が記載されて居るし 、又近年新疆や敦煌方面から出て來た佛典のうちに、確に唐時代の刊本と認定されるものもあります。我が日本の 稱徳天皇の御代(西暦七六四―七七〇)に作られた、例の百萬塔の中に納められた陀羅尼ダラニの印本も、時代 は丁度唐の中頃に當り、西暦八世紀の半頃のものであります。日本の稱徳天皇の御代の印刷は、 日本で發明したものか、唐から傳へたものかといふ事については、いろいろ議論がありますが、日本の印刷 の歴史のことを餘程調べて居つた、もとの英國の公使のサトウといふ人が、日本の印刷はどうしても支那から 傳へたものだと申したことがある樣に記憶しますが、私も同樣な考をもつて居ります。そは兎も角も。 この陀羅尼の印刷といふものが、今日世界に現存して居る印刷物の中で、最も古くて尤も年代の確な ものであることは、爭ふべからざる事實であります ソクラテスを読んで、一番に面白く思うところは、かのダイモンというものを常に信じて、絶えず 、自分の心の中うちに、善悪邪正を区別する、我にあらざる一種の力を蔵している。訳して これを鬼神とも称すべきか。とにかく、この一種の力が、たとえ自分の欲することでも、 これを行為に顕あらわさんとする場合には、予あらかじめこの鬼神に伺いを立てて、 允許いんきょを受けることにしていた。そして、もしその允許が出ない時には、結局実行 を見合わすということになっていた。――これが私の注意を深く惹付ひきつけた点で、 また私もかくあろうとして、平生から夙つとに戒心しているところである。 私も随分無遠慮な口を利く方で、それが故には、如何いかなる時に、如何なる誤解 を発生せしめ、如何なる迷惑を受けなければならないかも知れぬ。しかしながら、 腹に確乎たる覚悟と信念とさえあるならば、さほどびくつくにも及ばない。ただし、 考えてみれば、私などの主張するところは、存外穏やかなものである。一つの主義 に固持して終世世に容いれられなかった人もあり、あるいはソクラテスの如く刑罰に 処せられたり、あるいは、大塩平八郎の如く、世に反抗して反叛を起したりするのに 比べては、私は気の弱い所以ゆえんでもあろうか、甚だしく穏やかである。思った事 を実行するといっても、故意に社会の原則を無視したり、折角せっかく生立おいたって 来た習慣を、無闇と破壊するというほどの意気込はない。また一面には、自分の所信に してもし俗情に全然かなわない時に於ては、私は出来るだけ譲って、主張を枉まげること もする。そして、最後に、これ以上は譲られないというところまでは、自分の力を保留しておく 考えである。 キェルケゴオルはその誠実な人格的生活、真生活築造の情熱、及びプラグマチズム風の認識論 、特に主意的な人生観、著しい宗教的傾向、ただ宗教心の内にのみ真実になる個人主義、――など において十分注意せられる価値がある。 私がキェルケゴオルを読み初めたのはきわめて偶然に菅原教造氏の勧めに従ったのであった 。そして最初はあまり引きつけられなかった。ところが昨年の六月の初めに、突然彼の内部へはいったような 心持ちを経験した。その後私はほとんど彼のみを読んだ。私は自分の問題と彼の問題とがきわめて近似していることを感じた 。ついには彼の内に自分の問題のみを見た。 その問題は概括すれば「いかに生くべきか」に関している。自分の性質と要求との間の焦燥。自己を真実に活かすための 種々の葛藤。自己の価値と運命とについての信念、情熱、不安。個性の最上位を信じながら社会的勢力との妥協を 全然捨離し得ない苦悶。(金、地位、名声などに因する種々の心持ち。)愛の心と個性を重んずる心との争い。 (女、肉欲、愛、結婚生活、親子の関係、自分の仕事などについての種々の心持ち。)個性と愛とを大きくするため の主我欲との苦闘。主我欲を征服し得ないために日々に起こる醜い煩い。主我欲の根強い力と、それに身を委せよう とする衝動と。愛と憎しみと。自己をありのままに肯定する心と、要求の前に自己の欠陥を恥ずる心と。誠実と自欺と。 努力と無力と。生活を高めようとする心と、ほしいままに身を投げ出して楽欲ぎょうよくを求むる心と。―― 私は近ごろほど自分が日本人であることを痛切に意識したことはない。そしてすべて世界的 になっている永遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も好く活かしている事実に、私は 一種の驚異の情をもって思い至った。最も特殊なものが真に普遍的になる。そうでない世界人は 抽象である。混合人は腐敗である。――しかも私は真に日本的なものを予感するのみで、 それが何であるかを知らない。私は我々の眼前にそれが現われていると信じたくない。 なぜなら私は悪しき西洋文明と貧弱な日本文明との混血児が最も栄えつつあるのを見ているのだから。 ――しかし私は西洋文明を拒絶することによって真に日本的なものが現われるとは信じない 。偉大な西洋文明を真髄まで吸収しつくした後に、初めて真に高貴な日本的がその内 に現われるのではないだろうか。 この際このことを言うのはやや自己弁解に類する。しかし私はそう信じている。 今度の世界戦争は恐らく Menschheit の向上に何ら貢献するところがないだろう。 物質主義はますます勢力を得るに相違ない。しかし断然たる反動は必ず起こらねばならぬ。 我々は第二の Renaissance を期待する。新しい価値、自由にして剛健な内よりの道徳、 個性の尊重、真の意味の実行、享楽の卑下、より高い者を実現するための誠実なる悩苦の生活。 世紀末から世紀始めへかけて五六の偉人がその礎石を置いた。 >>63 あんな大所帯できたらね、 初来日の武道館と全く別のバンドになってたからなぁ カントは独り哲学界に不朽の功績を残したばかりではなく自然科学者としても重大な位置を占めるものである。その最初の 論文「活力の真の計算の考え」はデカルトとライプニツとの相反発すると考えられた二つの見方に就いて論じたもの であるが、其は独自の思想という点に於けるよりも寧ろ厳密な鋭利な或いは煩瑣とも云うべき批判の傾向と能力とを示した という点に於て価値があるであろう。之に反して「地球の回転は時の経つに従って其の速さを変えるか」に就いての ベルリン・アカデミーに提出された懸賞論文はカントの独創的天才を示すものである。カントによれば月及び太陽の引力 によって引き起こされる潮の満干の運動が地球の回転の速さを緩める事が明らかとなる。たとえその計算があまり厳密で はなかったにしても、又たとえ速さがこの外の更に多くの原因によって緩まるということをカントは注意しなかったにしても、 カントが簡単な疑うことの出来ぬ力学的関係の考察から出発したという点での此の論文の価値は依然として変るものではない 。さて自然科学者としてのカントをして最も有名ならしめるものは「一般自然及び天体論」に述べられた所謂 カント・ラプラス仮説である。凡ゆる遊星は略々同一平面の内に同一の方面を以て運動し太陽も又この平面に垂直な軸の回り を同じ方向に回転するが、カントによればかかる偶然とも云うべき一致は太陽と遊星とが本来空間に拡っていた同一の物質であり 、後に至って始めて分離したものであるということを示すに外ならない。勿論カントが太陽系の成立を説明して引力と排力とが 密度の大きい多数の塊を造り同時に又全体に回転運動を与えるとしたのは誤りである。後者は力学上不可能でありラプラス の如きは回転運動は始めから与えられたものと見た。併し此の点を除いてはたとえ今日に至るまで天体の発達史の確実な見方 が得られないためにこの仮説が如何なる範囲に於て正当であるかを決定することは出来ぬとしても、この仮説の核心 そのものの正しい事は疑うべくもない。風の理論其の他に関するカントの仕事を数え尽すことは茲では不可能であるであろう 。ただ最後に生物界に就いての研究を一言しなければならぬ カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識の内に与えら れねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様 の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。 さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな 必然的表象であるという。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈と呼ぶ。 併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と 考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。 吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、 即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わすということでなければならぬ。 併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説 は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる 部分の間にその妥当の論理的な関連があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的な アプリオリテートがあるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして 他種の明白さを持っているということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象の アプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。 それ故ただ空間に関する一定の命題即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。 そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。 理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの 考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の 感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。 「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上 の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。 ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も 含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を 厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう 。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し 得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。 実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは 「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が あるということを否定することにはならぬであろう >>62 さすがや その1行が後追いにはなかなかできない >>34 多種多様ジャミロクワイももういたんだねー >>74 結局エアロスミスの大傑作は ・permanent vacation ・pump ・get a grip なんだよ 私はつねに、神についてと霊魂についてと、この二つの問題は、神学によってよりもむしろ哲学によって 論証せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ 信ある者には、人間の霊魂の肉体と共に滅びざること、また神の存在したまうことは、信仰によって信ずる ことで十分でありますとはいえ、たしかに、信なき者には、まず彼等にこの二つのことが自然的理性によって 証明せられるのでなければ、いかなる宗教も、またほとんどいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、 思われないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳にいっそう大きな報酬が供せられ るのでありますから、もし神を畏れず、また来世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少数であるで ありましょう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教えられているところでありますから、まったく真 でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。 まことに信仰は神の賜物でありまするゆえに、余のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れたまうその神はまた、 神の存在したまうことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得たまうからであります。とはいえ、 これはしかし、信仰なき人々に対しましては、彼等はこれを循環論であると判断いたすでありましょうから、 持ち出すことができませぬ。そして実に私は、単に諸賢一同並びに他の神学者たちが神の存在は自然的理性 によって証明せられ得ると確信いたされるということのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について 我々が有する多くの認識よりもさらに容易であり、まったくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易である ことが推論せられるということに、気づきました。これはすなわちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かで ありまして、そこには、またそのゆえをもって彼等は宥すべからざるなり、けだし彼等もしこの世のものを賞で得る ほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。 さらに私は、多数の不信者が神の存したまうこと、人間の精神が身体から区別せられることを信じようと欲しない原因は まさに、この二つのことがらは従来何人によっても論証せられ得なかったと彼らが申しますところに存することを知って おりますゆえに、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反対にこれらの問題に対して偉大なる人々によって 持ち出されましたほとんどすべての根拠は、十分に理解せられます場合には、論証の力を有すると考えておりますし、 従って私は前に他の何人かによって発見せられなかったような根拠はほとんど何も与え得ないと信じておりますとはいえ 、しかもひとたびそれらすべての根拠のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして厳密に明瞭に解明し、かくてすべて の人々の前に今後これが論証であることを確かにいたしますならば、哲学においてこれにまさる有益なことは為し得ない と思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの学問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成 いたしましたことを知っております或る者は―――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、 真理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して実の り多かったことを見ているのであります。―――この仕事が私によって為されることを切に請い求めましたゆえにかように して私はこれについて若干試みることが私の義務であると考えた次第であります。 さて私が為し遂げ得ましたほどのことはことごとくこの論文の中に含まれております。もっとも、かのことがらを証明すべきものとして持ち出され得るであろう種々の根拠のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何ら十分に確実な根拠を有しない場合にしか、労力に値しないと思われるからであります >>76 俺もその3枚だと思う ずっとそればっかり聴いてるもん かえって私はただ第一の、何よりも重要な諸根拠をば、今これらを極めて確実な、極めて明証的な諸論証として 提出することを敢えて致し得るような仕方で、追求したのであります。なおまた私は、これらは、惟おもうに、人間の智能 にとりましてはさらにすぐれた根拠を発見し得るいかなる道も開かれていないような性質のものであるということを、附け 加えるでありましょう。すなわち、ことがらの緊要性と、これがことごとく関係するところの神の栄光とは、この場合私の 習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るように私を強要する次第であります。もっとも私は、 私の根拠を確実で明証的なものと考えますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合しているものとは 信じませぬ。まことに幾何学におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるいは他の人々によって多くの ことが書かれておりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないような何物も、 またそれにおいて後続するものが先行するものと厳密に関聯しないような何物もまったく含まないゆえに、すべての人に よって極めて明証的でまた確実なものとも看做みなされておりますとはいうものの、しかしそれはどちらかといえば長く、 そして非常に注意深い読者を要求いたしますから、まったく少数の者によってのほか理解せられないのであります。 あたかもそのように、私がここに使用いたしますものは、確実性と明証性とにおきまして幾何学に関することがらと同等あるい はこれを凌駕しさえすると私は認めておりますとはいえ、しかし多くの人々によって十分に洞見せられ得ないであろうと恐れる 次第であります。すなわち、一つにはこれもどちらかといえば長く、そして一は他に依繋いたしているからであり、 また一つには主として、先入観からまったく解放せられた、自己自身を感覚の連累から容易に引き離すところの 精神を要求するからであります かるがゆえに、私の根拠がいかなる性質のものでありましょうとも、ともかく哲学に属しているのでありますから、 諸賢の庇護によって助けられるのでなければ、それらの根拠をもって労力に値する大きな効果を挙げ得ようとは 、私は期待いたしませぬ。しかるに諸賢の学部につきましてはすべての人が深く尊敬の念を抱いており、 またソルボンヌの名ははなはだ権威を有しており、かくて単に信仰に関することがらにおいて聖なる公会議に 亜ついで諸賢の団体ほど信頼せられているおよそいかなる団体も存しないのみでなく、また人文的な哲学におきましても 、他のいずこにも[#「いずこにも」は底本では「いずこも」]さらに大きな明察と堅実性とが、また判断を下すにあたってさら に大きな健全性と叡智とが存しないと看做されているのであります。かるがゆえに、もし諸賢においてこの書物に対しまして 、まず第一に、それが諸賢によって訂正せられますように、―――すなわち、単に私の人間的な弱さのみでなく、 何よりもまた私の無知を想起いたしまして、この書物の中に何らの誤謬も存しないと私は確信いたしませぬ。――― 次に、欠けていることがら、あるいは十分に完全でないことがら、あるいはさらに詳細な説明を要求することがらが、 諸賢みずからによりまして、それとも、諸賢から告げられました後に、少くとも私によりまして、附け加えられ、完全にせられ、 闡明せられますように、そして最後に、神の存したまうこと、また精神の身体とは別のものであることを証明するこの 書物の中に含まれる根拠が、実にこれを極めて厳密な論証と看做さねばならぬほどまで、明瞭性に達せしめられました後に 、―――私はそれがかかる明瞭性に達せしめられ得ると確信いたしております >>76 ちゃうちゃう 傑作〜名盤は1st〜5th、パーマネント、PUMP、ライブ!ブートレックと相場が決まっとる ワイが思うに乳牛入れるのは超ニワカっち 諸賢がまさにこのことを言明し、公に証言して下さいますように、かように高配を賜りますならば、その場合には 、これらの問題についておよそ存しましたすべての誤謬はまもなくもろもろの人間の精神から拭い去られます ことを、私は疑わないのであります。すなわち、真理そのものは容易に余の智能の士並びに博学の士が諸賢の 判断に同意いたすようにするでありましょう。また権威は、智能の士とか博学の士とかであるよりもむしろ多くは 一知半解の徒であるのを慣わしといたします無神論者が、反対する心を棄てるように、それのみかは、おそらく すべての学識ある人々によってそれが論証と看做されていることを彼等が知っているところの根拠を、理解せぬ と思われたくないために、彼等みずから弁護するようにさえ、するでありましょう。そして最後に、その余のすべての 者はかくも多くの証拠に容易に信をおくでありましょう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の霊魂と肉体と の実在的な区別とかを敢えて疑う者は誰もないでありましょう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みずから、 諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評価せられることができる次第であります。 つねにカトリック教会の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに関することがらをこれ以上の言葉を費し てここに推薦いたしますことは、私にふさわしくないでありましょう。 Sugar のIf I Cange Your Mindが翌年にフジテレビの深夜ドラマのオープニングに使われたな ゲットアグリップはグランジ旋風の中どこ吹く風で売れたのが大きい ここ見逃したらあかん 私はつねに、神についてと霊魂についてと、この二つの問題は、神学によってよりもむしろ哲学によって 論証せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ 信ある者には、人間の霊魂の肉体と共に滅びざること、また神の存在したまうことは、信仰によって信ずる ことで十分でありますとはいえ、たしかに、信なき者には、まず彼等にこの二つのことが自然的理性によって 証明せられるのでなければ、いかなる宗教も、またほとんどいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、 思われないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳にいっそう大きな報酬が供せられ るのでありますから、もし神を畏れず、また来世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少数であるで ありましょう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教えられているところでありますから、まったく真 でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。 まことに信仰は神の賜物でありまするゆえに、余のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れたまうその神はまた、 神の存在したまうことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得たまうからであります。とはいえ、 これはしかし、信仰なき人々に対しましては、彼等はこれを循環論であると判断いたすでありましょうから、 持ち出すことができませぬ。そして実に私は、単に諸賢一同並びに他の神学者たちが神の存在は自然的理性 によって証明せられ得ると確信いたされるということのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について 我々が有する多くの認識よりもさらに容易であり、まったくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易である ことが推論せられるということに、気づきました。これはすなわちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かで ありまして、そこには、またそのゆえをもって彼等は宥すべからざるなり、けだし彼等もしこの世のものを賞で得る ほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ、とあるのであります 理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの 考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の 感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。 「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上 の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。 ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も 含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を 厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう 。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し 得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。 実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは 「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が あるということを否定することにはならぬであろう >>82 えーーー、録音がショボすぎて聴いてられないよ 曲も代表曲以外は糞以下でしかない 昔のヴァン・ヘイレンと同じだよ >>85 ワイはメタリカのドラムが神格化されてる真っ只中でも凡ドラだと見抜いていた神耳 いやマジな話、乳牛で好きな曲1曲もない だせーなーと思う曲が過半数 しかしPUMPには心底痺れたし、ライブもPUMPツアーは最高だった だから乳牛はまさにワイにとっては奈落の底w >>85 だよね、 武道館を追加の再追加、再再追加だもんな >>89 エアロスミスのリアルタイムは何albumっすか? 自分はぶっちゃけpermanent vacation >>88 ニルヴァーナのブリーチ的で良いけどな 90年代リアルだったが、8トラックの生々しさが逆に良かった まあそれはずば抜けた音楽しか成せない事なんだろうが かえって私はただ第一の、何よりも重要な諸根拠をば、今これらを極めて確実な、極めて明証的な諸論証として 提出することを敢えて致し得るような仕方で、追求したのであります。なおまた私は、これらは、惟おもうに、人間の智能 にとりましてはさらにすぐれた根拠を発見し得るいかなる道も開かれていないような性質のものであるということを、附け 加えるでありましょう。すなわち、ことがらの緊要性と、これがことごとく関係するところの神の栄光とは、この場合私の 習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るように私を強要する次第であります。もっとも私は、 私の根拠を確実で明証的なものと考えますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合しているものとは 信じませぬ。まことに幾何学におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるいは他の人々によって多くの ことが書かれておりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないような何物も、 またそれにおいて後続するものが先行するものと厳密に関聯しないような何物もまったく含まないゆえに、すべての人に よって極めて明証的でまた確実なものとも看做みなされておりますとはいうものの、しかしそれはどちらかといえば長く、 そして非常に注意深い読者を要求いたしますから、まったく少数の者によってのほか理解せられないのであります。 あたかもそのように、私がここに使用いたしますものは、確実性と明証性とにおきまして幾何学に関することがらと同等あるい はこれを凌駕しさえすると私は認めておりますとはいえ、しかし多くの人々によって十分に洞見せられ得ないであろうと恐れる 次第であります。すなわち、一つにはこれもどちらかといえば長く、そして一は他に依繋いたしているからであり、 また一つには主として、先入観からまったく解放せられた、自己自身を感覚の連累から容易に引き離すところの 精神を要求するからであります カントの最も一般的な思想の一つは吾々の精神生活の内に這入る凡てのものは吾々の意識の内に与えら れねばならぬということである。「主観性」とは之である。然るに吾々の意識の見渡し得ない程の多様 の内吾々の知覚の或る特殊のものは常に不変であり、経験の或る特徴は必然性と厳密な一般性とを持っている。 さて感性知覚の空間的な形式は之に属するものであり、カントはまずかかる意味に於て空間はアプリオリな 必然的表象であるという。吾々はかかるアプリオリをアプリオリの概念の心理発生的解釈と呼ぶ。 併しこのアプリオリテートを個々の対象が互いに順序づけられて現われる方即ち視覚の optische Lokalisation と 考えるならばヘルムホルツがカントを攻撃したようにかかるアプリオリテートは明らかに否定されねばならぬ。 吾々の今アプリオリテートと呼ぶものは之とは異って一般に感性的知覚は空間的な形式をとるという意識の性質、 即ち空間表象は始めから与えられた不変な意識内容を表わすということでなければならぬ。 併しカントのアプリオリは単に之だけでは尽されない。寧ろ多くのカント学徒によればカントのアプリオリ説 は心理発生的な意味でのアプリオリではなくして論理的な関係を取り扱うものなのである。吾々の知識の種々なる 部分の間にその妥当の論理的な関連があるということを主張するものなのである。それ故ある命題に論理的な アプリオリテートがあるとはそれが経験の特殊の内容から論理的に独立でありその妥当が経験内容に依らずして 他種の明白さを持っているということである。かかる意味でのアプリオリに解すればもはや概念や表象の アプリオリテートなどとは云うことは出来ない。論理的アプリオリテートはただ判断に就いてのみ云い得ることである。 それ故ただ空間に関する一定の命題即ち幾何学の公理のみが論理的アプリオリテートを持ち得る筈である。 そしてこの公理の持つ明白さは空間表象の性質そのものに基く明白さなのである。 >>91 同じだね、パーマネントから入って70年代復習で完全にノックアウト、PUMPで更にぶっ飛んだ だから乳のダサダサ凡々は寝耳に水だった 未だに聴けないが、その後の飛べないエアロの凡ぶりでワイの耳は確かだったんだと確信し、今日に至る ただ2017年のライブはつべで観ただけだが良かった、だから来日したら行くよ! >>89 自分はpump Japanツアー 武道館2回行きましたが 心底痺れに痺れましたよ そりゃ、この頃のエアロスミスは神でしたから、はい https://i.imgur.com/U3SEOA7.jpg 理論物理学の基礎と考えられる「物理学的世界形像」は感覚の機能の特殊の性質を顧ない点に於てカントの 考えと全く同様である。それはたとえ知覚の直接の結果と客観的に現実されたる者との矛盾即ち錯覚の如きも のがあるということは認めるにしても、なお外的関係がある見方では特に又空間的な順序の或る関係は吾々の 感能によって、直接に知り得ると考える。併し元来外的関係に対して吾々の知覚は決して充全であるとは考えられない。 「連続の関係」やそれに基く測定と雖も絶対的に充全であり得ないということは少くとも正確さの「閾」なる感覚生理学上 の事実から見ても明らかであろう。それ故吾々はかかる外的関係を直接に認識することは出来ない。 ただ出来るだけ正確に認識し得るというに過ぎない。それ故物理学のかかる世界形像はなる程実際上には何の危険も 含まないという点では許され得るにしても終局的な充分な見方とは云われない。観察に基く全経験認識の論理的基礎を 厳密に論ずる場合はそれ故常にかの「全体的世界形像」の考えに還らねばならぬであろう 。さてヘルムホルツの如く Gleichkeit と physische Gleichwertigkeit と解してのみ吾々の経験認識に対してその意味を見出し 得ると主張する自然科学的空間説は空間表象の心理的性質を忘れた点にその誤謬の源があると思われる。 実在する対象の合同を云々する時物理的な合同の外に尚何物かが考えられていると云うにしてもヘルムホルツによればそれは 「認識し得るもの」に就いては何の変りもないと謂うのであるが、併しこのことは合同の概念に物理的合同以外のある他の意味が あるということを否定することにはならぬであろう PANTERAの俗悪とALICE IN CHAINSのDIRT エアロはパーマネントから聴いたからその前のアルバムには思い入れがない。傑作とは思えない。 ゲットアグリップで頂点まで行ってナインライブスでこけた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる